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カテゴリ: ★『霊訓』

 1875年のキリスト昇天祭におけるインペレーターの霊言。
 「以前この席でも何度か語ったことのある祝祭日(後注①)の一つであるこの日に、我々霊団の者も集会を催すことを、よもやお忘れではありますまい。この祝祭日は〝人の子〟イエスの昇天を象徴するものです。宗教問題を考究している学者の大多数がキリストがこの日に肉体を携えたまま天国へ移り住んだとの信仰に同意しております。しかるに皆さんの先達の一人は、血と肉では神の御国を継ぐことは出来ないと説いております。
 今世界各地において行われつつある物理的心霊現象がこの問題に大きな光を投げかけております。すなわちイエス・キリスト程の霊力を具えた霊が一時的に物質を纏って姿を見せることが出来て何の不思議もないということです。キリストの生涯は尋常なるものではありませんでした。霊の世界と交わる者の生涯は得てしてそうなるものです。ただキリストに比べて他の霊覚者の生涯はさほど知られておりません。そして華々しい脚光を浴びることもありません。しかし、だからといって、何時の時代にも霊の世界と交信出来る者がそこここに存在している事実を疑ってはなりません。
 キリスト教では主イエスは神人であり、人類とは異質のものであり、奇跡的な死を遂げ、死後更に奇跡的な生命を得たと説いておりますが、真実の主はそのようなものではありません。死して後に弟子達に姿を見せたことは事実です。が、弟子達と共に過ごした時のあの生身の肉体のまま現れたのではありません。又同じ日、弟子達に優しく別れを告げた後一瞬にして姿を消し本来の天界へと帰って行ったことも事実です。
 人間はイエスが物的身体を持って現れたことに困惑し、その解釈に頭を痛めていますが、その例証となるものを皆さんは(この交霊会で)既に見ておられます。残酷な死を遂げた後に見せたキリストの身体は物質化した霊体だったわけです。物質化に必要な条件が整った時に弟子達に見せたのでした。
 大気中には地上の物的存在物を形成する基本的成分が存在します。そして又、霊体にはその被いとなる原子を吸着する性質が具わっています。かくして生成された物質に霊力が形体を与え、人間の目に、或いは感光板にも、印象を与えることが可能となります。磁気的な作用によって霊体の回りにその霊的生成物が保持されるのです。
 以上の説明に科学的用語は用いておりませんが、その意味するところをよく理解して欲しく思います。一つのエネルギー(生命エネルギーと呼んでもよいでしょう)がその瞬間に出席者を一つに融合させ、連結し、そして調和状態を作り出します。そのエネルギーの源は皆さんの上方に位置し、そこから生み出されます。
 かくして調和よく形成されたサークルにおいて所謂心霊現象が発生します。それなくしては何一つ現象は起きません。そのエネルギーの発生には人間も様々な方法で援助することが出来ます。例えば手と手をすり合わせるのもよいし、歌を歌うのもよろしい。霊の側においても、楽音やそよ風を発生させたり芳香を漂わせたりして、心地よい雰囲気を醸し出し、そのエネルギーの活動を助けます。それなくしては物体を操ることは出来ないのです。
 イエスの十二人の弟子は皆霊媒的素質を具えており、何よりその素質故に選ばれたのであり、イエスとの交わりの中でそれがますます発達して行きました。中でもペテロとヤコブとヨハネが特にイエスとの共鳴度において高いものを有しておりました。同じ意味においてモーセは霊媒的素質をもった七十人の長老を選ぶようにとの霊示を受けておりました。(後注②)
 イエスは画期的な霊的新時代の端緒を開く為に地上へ派遣され、一度も地上へ生を享けたことのない高級霊団によってその生涯を指導されておりました。神が直接霊媒に働きかけることは絶対にありません。いかなる人間といえども神と直接交信することは出来ません。それは人間が足元の草の葉と交信出来ないのと同じ程度において不可能なことです。
 イエスの任務と使命について地上の人間がこれ程までに誤解するに至ったことは、我々にとって驚くべき事実です。もっとも、その事実から幾つかの学ぶべきことも見出すことは出来ます。例えば同じく真理にも深遠な霊的真理と、人間の精神に受け入れられる範囲での真理とがあり、その間に大きな隔たりがあることが人間には洞察出来ないことです。真理とは霊的栄養であり、精神の体質とその時々の状態に合わせて摂取されるべきものです。それは丁度肉体の体質のその時々の状態に合わせて食事を取らねばならないのと同じです。忘れてならないことは、人間の精神は地上への誕生時の条件によって支配され、霊覚が開かれるまでは、その受け入れる真理はごく限られていることです。
 イエスの再臨とは霊的な意味での再臨のことです。しかし物的偏重の時代はそれを物的再臨と考え、イエスは肉体のまま一旦天国と呼ばれる所へ運ばれた後、同じ肉体を纏って地上へ戻り、生者と死者共々に最後の審判を下すものと想像しました。
 今日我々が人間に祝って欲しく思うのは、イエスの純粋な霊的身体の荘厳な昇天です。これは今人間を取り囲み神の真理の光が魂を照らすことを妨げている物的環境からの、人間の霊の絶縁の模範なのです」

 (注)①-キリスト教で祝う祭日の霊的な意味について『霊訓』に次のような説明がある。通信霊はインペレーターではない。

○クリスマス(キリスト降誕祭)-これは霊の地上界への生誕を祝う日であり、愛と自己否定を象徴する。尊き霊が肉体を仮の宿として、人類愛から己を犠牲にする。我々にとってクリスマスは無私の祭日である。
○エピファニー(救世主顕現祭)-これはその新しい光の地上への顕現を祝う祭日であり、我々にとって霊的啓発の祭日である。すなわち地上へ生まれて来る全ての霊を照らす真実の光明の輝きを意味する。光明を一人一人に持ち運んで与えるのではなく、光明に目覚めたものがそれを求めに訪れるように、高揚するのである。
○レント(受難節)-これは我々にとっては、真理と闇との闘いを象徴する。敵対する邪霊集団との格闘である。毎年訪れるこの時節は、絶え間なく発生する闘争の前兆を象徴する。葛藤の為の精進潔斎の日であり、悪との闘いの為の精進日であり、地上的勢力を克服する為の精進日である。
○グッドフライデー(聖金曜日)-これは我々にとっては闘争の終焉、そうした地上的葛藤に訪れる目的成就、すなわち〝死〟を象徴する。但し新たな生へ向けての死である。それは自己否定の勝利の祭日である。キリストの生命の認識と達成の祝日である。我々にとっては精進潔斎の日ではなく愛の勝利を祝う日である。
○イースター(復活祭)-これは復活を祝う日であるが、我々にとっては完成された生命、蘇れる生命、神の栄光を授けられた生命を象徴する。己に打ち克った霊、そして又、打ち克つべき霊の祝いであり、物的束縛から解き放たれた、蘇れる生命の祭りである。
○ペンテコステ(聖霊降臨祭)-キリスト教ではこれも霊の洗礼と結び付けているが、我々にとっては実に重大な意義をもつ日である。それはキリストの生命の真の意味を認識した者へ霊的真理がふんだんに注がれることを象徴しており、グッドフライデーの成就を祝う日である。人間がその愚かさ故に自分に受け入れられぬ真理を抹殺し、一方その踏み躙られた真理をよく受け入れた者が高き霊界にて祝福を受ける。霊の奔流を祝う日であり、神の恩寵の拡大を祝う日であり、真理の一層の豊かさを祝う日である。
○アセンション(昇天祭)-これは地上生活の完成を祝う日であり、霊の故郷への帰還を祝う日であり、物質との最終的訣別を祝う日である。クリスマスをもって始まる人生がこれをもって終焉を告げる。生命の終焉ではなく、地上生活の終焉である。存在の終焉ではなく、人類への愛と自己否定によって聖化されたささやかな生命の終焉である。使命の完遂の祭りである。

 (注)②-同じ『霊訓』でインペレーターがこう述べている。
 《今日なお存続している「十戒」は変転極まりない時代の為に説かれた真理の一端に過ぎない。もとよりそこに説かれている人間の行為の規範は、その精神においては真理である。が、既にその段階を通り過ぎた者に字句通りに適用すべきものではない。「十戒」はイスラエルの騒乱より逃れ地上的煩悩の影響に超然としたシナイ山の頂上においてモーセの背後霊団によって授けられた。背後霊団は今日の人間が忘却しているもの、つまり完全な交霊の為には完全な隔離が必要であること、純粋無垢な霊訓を授かる為には低次元の煩雑な外的影響、懸念、取り越し苦労、嫉妬、論争等から隔絶した人物を必要とすることを認識していたのである。これだけ霊信が純粋性を増し、霊覚者は誠意と真実味をもって聞き届けることが出来るのである。
 モーセはその支配力を徹底せしめ民衆に影響力を行き渡らせる通路として七十人もの長老-高き霊性を具えた者-を選び出さねばならなかった。当時は霊性の高い者が役職を与えられたのである。モーセはその為の律法を入念に仕上げ、実行に移した。そして地上の役目を終えて高貴な霊となった後も、人類の恩人として末永くその名を地上に留めているのである》

 イエスの生涯の内記録にない青年時代について-
 「イエスの若き時代は一貫して準備期でした。聖書にある悪魔による誘惑の話は、他の多くの記録と同じく、ただの作り話に過ぎません。〝神の声〟として受け取られている出所不明の記録の中の出来事を辿って行けば、そこに幾つかの矛盾撞着が見られます。その一つが荒野の誘惑の話(マタイ4)です。悪魔がイエスを荒野へおびき出し、断食によって体力を衰えさせておいて、自分の前にひれ伏せば天国を与えその主としてやると申し出たというのですが、実はこうした作り話が、向上しようとする魂の足枷となって人類を永い間拘束してきました。全て作り話であり、ただの想像の産物であり、光明へ向かわんとする魂を引き止めております。真の向上を得る為には、啓発の拠り所としているバイブルの中からそうした夾雑物を末梢しなければなりません。バイブルにも多くの真理の宝物が蔵されております。が、それを啓発の拠り所とする者は、真偽を見分ける判断力を身に付けなければいけません。
 主イエスは、かつて一度も地上へ生を享けたことのない霊によって指導され鼓舞されておりました。(後注①)。霊の影響力が今地上界へ浸透しております。その霊力は全て主に発し、一大連動装置を形成する無数の霊を通じて地上へと届けられております。
 高級霊が今我々がこの霊媒を支配している如くに直接的に支配することは極めて稀なことです。もしあるとすれば、霊媒はよほど発達した者でなければならず、そのような霊媒は稀にしか存在しません。もっとも、直接的には支配せずとも、幾つかの連鎖関係を通じて支配することは出来ます。しかし、霊媒が(たとえ霊媒能力はあっても)精神的に未熟である場合は、高級霊はあえて努力して使用してみることはしません。
 イエス程の進化せる霊となれば、直接的に地上の霊媒を支配することは不可能です。イエスは神の意志の直接的表現が肉体を纏ったのです。後継者は残しませんでした。これから以後も出現しないでしょう。今その全霊力がこの地球の啓蒙の為に向けられております。天体の一つ一つにそれぞれの霊的光明の淵源が割り当てられているのです(後注②)」

 (注)①-本来の所属界においてはイエスが〝主〟でその霊団が〝従〟の関係にあり、イエス自身もそのことを知っていたという。

 (注)②-各天体の守護神のことで、イエスは地球の守護神の直属の大天使の一人と考えられる。

 「イエス・キリストのことを一般には全能なる神の命令を受けて、その神の化神として人類救済の為に降誕し、かの磔刑をもってその人類救済が成就されたと考えられておりますが、何というお粗末な思想でしょう。
 しかし実はこの身代わりの贖罪の概念は大切な真実に基づいているのです。と申しますのは、キリスト教原理と称しているものは全ての人間の霊的救済にあるのであり、各自の霊性が呼び覚まされる程に霊界からの導きを受け向上していくものだからです。人間キリストにおいてその霊的原理が最高に発揮され、まさしく〝神の子〟と呼ばれるに相応しい人物でした。すなわち地上に生を享けた人間の中でもっとも神の如き人間という意味において〝神の子〟でした。
 仏陀の場合と同じように(後注①)イエスが神であるとの概念が生まれたのは死後かなりの年数が経ってからのことでした。そしてそのことはイエス自身にとっては迷惑千万なことでした。イエスを慕う者達が祭り上げてしまった神の座を、本人は一度も口にしたことはなかったのです。イエスは真の意味での神と人間との間の仲立ちでした。神の真理をその時代に、更にその時代を通して後世にまで啓示したのです。
 その生涯を通じてイエスは当時支配的だった思想と真っ向から対立する教えを説き、そうした者が必ず遭遇する運命を辿りました。まず貶され、続いて見当違いの告発を受け、有罪を宣告され、そして最後に死刑を執行されました。(後注②)
 伝説は排除してもよろしいが、イエスの徳に満ちた生活、並びにイエスが説いた福音は排除してはなりません。イエスの訓えの根底にある原理は神の父性とそれへの讃仰、全人類の同胞性と共同社会を構成する霊的な絆、祈願の法則と自己犠牲の法則、すなわち他人からしてもらいたいと思う通りのことを他人にしてあげなさいということ(黄金律)です」

 (注)①-『ベールの彼方の生活』から。
 《ガリラヤのイエスとして顕現したキリストが仏陀を通して顕現したキリストと同一人物であるとの説は真実ではありません。又キリストが数多く存在する(何度も生まれ変わった)というのも真実ではありません。イエス・キリストは父なる神の一つの側面の顕現であり、仏陀・キリストは又別の側面の顕現です。
 人間も一人一人が造物主(父なる神)の異なれる側面の顕現です。が、全ての人間が共通したものを有しております。同じようにイエス・キリストと仏陀・キリストとは別個の存在でありながら共通性を有しております。しかし顕現の大きさからいうとイエス・キリストの方が優ります。が、真のキリストの顕現である点においては同じです。この二つの名前を持ち出したのはたまたまそうしたまでのことで、他にもキリストの側面的顕現が数多く存在し、その全てに右に述べたことが当てはまります》

 (注)②-『霊訓』から。
 《イエスに向けられた批難もまさにそれであった。モーセの訓えから難解極まる神学を打ち立てた者達-(中略)彼等は後生大事にその古い訓えを微に入り細を穿(うが)って分析し、遂に単なる儀式の寄せ集めとしてしまった。魂なき身体、さよう、生命なき死体同然のものにしてしまったのです。そしてそれを盾に彼等の神の冒涜者(イエス)はモーセの律法を破壊し神の名誉を奪うものであると絶叫しました。律法学者とパリサイ人、すなわち伝統宗教の擁護派が一丸となってイエスとその訓えを批難しました。かの偉大なる人類の指導者を十字架にかけるに至らしめたその怒号を真っ先に浴びせたのが彼等だったのです》

 イエス・キリストを祈願の対象としてよいかとの問いに-
 「父なる神、純粋無垢の光の中におわす永遠なる大霊の概念が理解出来ない内は、イエスに祈るのも何等差し支えはありません。その神の概念が理解出来た者なら直接神に祈ることです。が、それが出来ないのであれば、自分にとって最も身近な信仰の対象を仲立ちとして祈るがよろしい。その仲立ちによって祈りが大神へ届けられます」

 (注)-シルバーバーチは〝霊界側は祈りをどう見ておられるのでしょうか〟との問いにこう答えている。
 《祈りとは何かを理解する為には、その目的をはっきりさせなければなりません。ただ単に願い事を口にしたり決まり文句を繰り返すだけでは何の効果もありません。テープを再生するみたいに陳腐な言葉を大気中に放送しても耳を傾ける者はいませんし、訴える力を持った波動を起すことも出来ません。私達は型にはまった文句には興味はありません。その文句に誠意が籠もっておらず、それを口にする人自ら、内容に無頓着であるのが普通です。永い間それをロボットのように繰り返してきているからです。真の祈りにはそれなりの効用があることは事実です。しかしいかなる精神的行為も、身をもって果たさねばならない地上的労苦の代用とはなりません。
 祈りは自分の義務を避けたいと思う臆病者の避難所ではありません。人間として為すべき仕事の代用とはなりません。責任を逃れる手段ではありません。いかなる祈りにもその力はありませんし、絶対的な因果関係を微塵も変えることは出来ません。人の為という動機、自己の責任と義務を自覚した時に油然として湧き出るもの以外の祈りを全て無視されるがよろしい。その後に残るのが心霊的(サイキック)ないし霊的(スピリチュアル)な行為であるが故に自動的に反応の帰って来る祈りです。その反応は必ずしも当人の期待した通りのものではありません。その祈りの行為によって生じたバイブレーションが生み出す自然な結果です。
 あなた方を悩ます全ての問題と困難に対して正直に、正々堂々と真正面から取り組んだ時-解決の為にありたけの能力を駆使して、しかも力が及ばないと悟った時、その時こそあなたは何等かの力、自分より大きな力を持つ霊に対して問題解決の為の光を求めて祈る、完全な権利があるといえましょう。そして、きっとその導き、その光を手にされる筈です。なぜなら、あなたの周りにいる者、霊的な目をもって洞察する霊は、あなたの魂の状態を有りのままに見抜く力があるからです。例えば、あなたが本当に正直であるか否かは一目瞭然です。
 さて、その種の祈りとは別に、宇宙の霊的生命とのより完全な調和を求める為の祈りもあります。つまり肉体に宿るが故の宿命的な障壁を克服して本来の自我を見出したいと望む魂の祈りです。これは必ず叶えられます。なぜなら、その魂の行為そのものがそれに相応しい当然の結果を招来するからです》

 「是非とも理解して頂きたいのは、スピリチュアリズムの本質は宗教性にあるということです。このことに異議を唱える者がいることは、我々には何とも不思議に思えてなりません。ある者はスピリチュアリズムと言えば他界した親戚・縁者との交信に過ぎないと思い込んでおります。そういうところに、往々にして邪霊につけ込まれ、もっともらしく装った通信によって迷わされる隙があることになります。
 地上生活の根底にある一番大切な要素の一つは宗教性です。我々の言う宗教性とは人間の霊と父なる神との交わりのことであり、それは無数の階梯をなして存在する天使的存在によって執り成されます。すなわち人間が祈りを発すると、それを中継する霊が受け取り、その霊自身の判断による回答を届けます。
 本当の霊的交わりは、宗教心に発した祈りの行為がその端緒となります。この事実が理解されない限り、スピリチュアリズムと関わりを持つことが必ずしも安全とは言えず、又有益とも言えません。その点を誤解している者が多く、その為に、あれこれとやってはみたが結局は真の満足が得られないということになります。
 人間にはその人なりの何等かの宗教的形式が必要です。それなのにただ心霊現象をあれこれといじくってばかりいて、その宗教的側面を理解出来ずにいれば、好奇心が駆られるばかりで、何か物足りないという愚痴をこぼすことになります。
 こうして、本来なら最大の魂の充足感が得られる筈のところを、彼等はいつしか我々に背を向けて、スピリチュアリズムは人を迷わすものだ、騙された、スピリチュアリストが関わっている霊は低級霊で悪魔の手先だ、と言い出す始末です。こうして我々の下を去り、折角の神の真理を拒絶し、又ぞろ人間的産物を信仰の対象とします。
 神は常に人間に語りかけております。そして人間と神との間には無数の中間的存在がいます。これまで二千年近くにも亘って人間を満足させてきた霊的食事が今日では最早満足出来なくなり、そこで(スピリチュアリズムという名の下に)新たな霊的流入が行なわれているところです。スピリチュアリズムは、それを最も必要とする時代への神のメッセージに外なりません。本質において人生全般に関わる宗教性を帯びたメッセージです。
 それは、人間がただ食べて飲んで寝てそして死んでいくというだけの存在ではなく、その内部に永遠に死滅することのない霊性を具えていること、そして又、この世で蒔いた種は死後に必ず自分で刈り取らねばならないことを教えるメッセージです。我々がスピリチュリズムのことを、地上を再生せしめる唯一の力であると申し上げる所以はそこにあります。
 今はまさに地上再生の大事業の開始時期なのです。その進行は地上でいう共和的なものとなるでしょうが、それを主導するのは霊的なものです。人間は常に霊的な光を受け入れられるよう魂を準備していなくてはいけません。神は自ら暗闇を好む魂はけっして照らさないからです。
 我々は霊的真理を広める為の組織的な使命を帯びております。その霊的真理なくしては地上の霊的生命は死滅します。今日の地上には宗教といえるものは殆ど存在しません。僅かながら存在するものも、その大半が既に影響力を失っております。生命力が抜け、形骸のみが残っております。イエスの時代がそうであった如くに、今の時代もまさにその通りです。地上人類は次にもたらされるものをしきりに求めております。
 腐敗が社会の全組織に行き渡っております。そして地雷がいつ爆発するかも知れない状態にあります。共産主義と社会主義は悪の勢力です。その潜在的魔力の恐ろしさを政治家は誰一人として気付いておりません。この都市(ロンドン)においても、それがいつ爆発し、社会組織を全壊させるかも知れません。近い将来において不満分子が英国の国政を預かる者を悩ませることになることが予想されますが、それも皆そうした勢力の影響です。
 地上は社会的側面においても宗教的側面においても、まさにいまわの際に立っており、生命力を与えてくれる新しい力を必要としております。スピリチュアリズムと呼んでいるものがその腐敗への唯一の矯正手段であり、解毒剤です。あからさまに言って今の時代は、空虚で見掛け倒しで真実味に乏しい時代です。何等かの宗教が必要です。
 我々と共に皆さんが関わっておられる大事業は大いなる進展を見せております。純粋な霊的真理の発展、寛容的精神の成長、頑固な障壁の崩壊、神学でなくキリスト精神の普及-進歩はこうしたものによってのみ達成されるものなのです。
 心霊現象についてとかく噂される偽物や詐欺行為に皆さんは困惑し迷惑に思われることでしょうが、スピリチュアリズムの基盤はいささかも揺らいでおりません。不快な空気はいずれ一掃され、清潔にして純粋な霊的雰囲気が残ります。現代は物事をしつこく穿鑿(せんさく)する時代です。と同時に、神の真理の種蒔きの時期でもあります。
 かつて我々は、各国において既存の秩序が攻撃の的とされる時期が到来すると申し上げたことがあります。スペイン、ドイツ、イタリヤにおいてそうであり、ロシヤにおいてはなおのことです。それが今現実となってきており、もっともっと恐ろしい混乱が生じることでしょう。社会主義、共産主義、無神論、ニヒリズム-これらは皆同じ陰湿な病弊を別の呼び方をしているに過ぎません。それが今地上に蔓延しつつあります。こうした勢力も、秘められた力を出し尽くせば善の方向へ利用することも可能でしょうが、現在のところは混乱の原理を操る邪霊集団に振り回されております。我々の大事業を阻止せんとしているのです。
 偉大な指導者をご覧になれば、皆何等かの社会悪に対する憤りに燃えていることがお分かりでしょう。何等かの改革を真剣に求め、それに一身を投げ打ち、覚悟を持って臨んだのです。確かに〝悪〟に対抗し〝善〟の為に闘う上において強固にして真摯である為には、何等かの目的意識を持たねばならないことは事実です。しかし断固たる信念と強烈な個性を持つ人間にとかくありがちな危険性は、いつしか自分の一個の目的意識に偏り、利己的になって行くことです。利己主義は霊的病弊の一大根源です。己自身の為に闘う者は利己的になります。一方、真理の為に闘う者は気宇壮大な同胞精神を持つに至ります」

 エジプト人の霊に代わる。
 「霊界においては地上の近い将来を恐怖の念をもって眺めております。戦争の可能性が見えます。全てがヨーロッパの大混乱へ向けて進行しております。人間が完全になれば戦争はしなくなることでしょうが、それは肉体に宿っている限り有り得ないことです」

 インペレーターに代わる。
 「苦難の時代が近付いております。何時の時代にも真理が顔を出せば必ずそれを目の敵にする反抗勢力が結集するものです。平和が乱されることを嘆く者がいるのも無理ならぬことですが、真実と虚偽との闘いの中に神の真理の火花を打ち出す好機を見出す才覚のある者には、混乱も又喜ぶべき理由が無きにしもあらずなのです。
 戦争と激動を覚悟しなければなりません。苦難と混乱を覚悟しなければなりません。そして又、キリストの再臨を地上への再生と信じる者が惹き起こすであろう抵抗も大いに覚悟しなければなりません。今、〝キリスト的〟と呼ばれる時代が終焉を迎えております。キリストは霊として又霊力として地上へ戻り、人類の魂を解放する為の新しい啓示をもたらしつつあります。
 それを受ける霊媒が背信或いは不信心ではなかろうかと恐れているものは、実はこれより良き種子が蒔かれて行く休閑地のようなものです。迷信的教義によって雁字搦めにされた精神の方が、何の先入観もない精神より遙かに有害です。所謂信仰を持たぬ者が多いことを恐れることはありません。新しい真理が注ぎ込まれる為には、まず無垢な受容性がなければなりません」

 「キリストの生涯には当時のエルサレム、キリストが涙を流して嘆かれた都市だけではなく、皆さんの住んでおられる都市(ロンドン)にも当てはまる予言めいた言葉があることに気付かれるでしょう。ご自身が生きられた時代だけでなく皆さんの時代も見通しておられたのです。エルサレムへの嘆きはそのまま皆さんが運命を共にされている人達にも向けられてよいものです。今や金銭が神の座を占めております。蔓延する贅沢と怠惰の中に堕落の要因があります。今まさに英国の顔に〝滅亡〟の文字が記されております。
 どうか、これからの最後の闘争に備えてください。それは善と悪との闘い、信仰心と猜疑心との闘い、〝法と秩序〟対〝無法と放縦(ほうしょう)〟の闘いです。キリストが予言した嘆かわしき不幸の時代となるでしょう。それが暗黒の勢力、つまり悪魔のしわざとされるでしょう。〝聖霊を汚す罪〟が横行することでしょう。
 そうした中にあって確固たる信念を失わずにいる者は幸いです。煩悩に負けて堕落していく者が多いのです。なかんずく、一旦霊的光明を見ながらそれを拒絶した者は、この地上においても、来るべき霊の世界においても、救いはありません」

 「今まさにキリストの再臨の予言が現実となりつつあります。キリストは〝助け主が訪れるであろう〟と述べておりますが(ヨハネ)、〝助け主〟とはキリストの霊による影響力のことです。それが今、現実に成就されつつあります。地上を去って至福の境涯へと辿り着いた霊が、今再び地上圏へと戻って活躍しております。その最初の余波は不協和音の増幅、邪霊集団による活発な反抗活動、既成権力の狼狽という形で現れます。霊力の流入は反抗勢力を活気付け、又新しい真理の到来に必ず伴うところの頑迷と偏狭が、なりふり構わずむき出しにされます。
 我々は今二つの敵対勢力の真っ只中におります。片や光明より暗黒を好む悪霊集団であり、片や進歩的なものを全て毛嫌いする地上の退嬰(たいえい)的人間です。人間界の日常の出来事がどのようにして霊によって支配されているかについての知識を世間一般に得心させることに、我々はほぼ絶望的となっております。その作用が五感に感応せず、又霊の動きが目に映じないが為に、そうした概念を捉えることが出来ないのです」

 「我々はこれまで、皆さんの注意を単なる一身上の興味の問題ではなく、神の真理と、霊界と物質界との内的交信の実在に向けさせようと努力してまいりました。身内の者からの私的なメッセージによって強い確信が得られる事実をけっして過小評価するわけではありません。ただ、その種の通信はとかく情愛による先入観によって歪められ、情緒的になって正確さを欠き、真実味よりも感情の吐露に終わる傾向があります。
 そこで我々は、一身上のことよりも普遍的なことを基盤として証拠を披露するよう努めてまいりました。一個人の体験は些細で重要性がないかに思われますが、そうした一人ひとりの説得によって得られる霊的真理の進歩は実は絶大なのです。物的宗教から脱け出て霊的知識を受け入れるに至った者が大勢います。新しい、真実味のある宗教を見出したのです。
 それは、言い換えれば、最高神からのインスピレーションを受け取り、その神の懐に抱かれている宗教です。これからの宗教はそういう宗教となるでしょう。神の経綸とインスピレーションが受け入れられる宗教です。
 来るべき時代を担う世代は、皆さんには理解出来ない方法でその働きかけを受けつつあります。地上各地に霊的影響力の中枢が形成されつつあります。他方、人間の霊性の衰退と邪霊集団の跋扈が、我々にとっての悩みの種を次々ともたらしております。人間界において善なるものが進歩することに反抗的態度を募らせている霊達です。
 しかし、いずれは神霊のほとばしりが地上の隅々にまで浸透して、そうした勢力を内紛状態へと追いやり、受け入れ準備の整っている魂が渇望している真理のメッセージを届けることになるでしょう。
 真摯な魂による祈願は、神の霊力の豊かなほとばしりを求め、信仰厚き魂が真理の為に結束してくれることを求めるものであらねばなりません。
 常に未来へ目をやり、けっして絶望してはなりません。敵対する勢力の全てが結束しても、味方となってくれる神の勢力の方が遙かに大きいのです」

 主イエスを信じるか否かによって霊の識別をしてよいかとの質問に-
 「いかなる信仰の告白も、その真実性を保証することにはなりません。霊が地上を離れれば、地上時代の教義など雲散霧消してしまいます。ただ、中には地上時代から纏わり付いている神学的モヤの中から脱し切れず、それを真実を思い込んで、とんでもない間違った教説を大真面目に通信する霊がよくいます。
 又一方には、自分ではそうと気付かずに邪霊集団の手先となって通信している霊もいます。彼等は、我々が全勢力を結集してその誤りを指摘せんとしている教義をわざと存続させようと企みます。我々がこうして地上に降りて来たそもそもの目的は、真実の霊的真理を人間に啓示することにあります」

 「もしも通信霊の述べることに気高さを感じ、知的に、道徳的に、或いは霊的に高い次元へと昂揚してくれるものを感じ、意気盛んにしてくれるものがあれば、それを受け入れるがよろしい。反対に、低劣なものを感じ俗悪なものを指向していると思った時は、それは無視なさることです。その種のものは邪霊集団からのものだからです。交霊会をもっともらしく演出しながら、適当に茶化しては軽蔑と嘲笑の的とするのです」

 (注)-『霊訓』の中で同じインペレーターが次のように述べている。
 《邪霊集団の暗躍と案じられる危険性については既に述べたが、それとは別に、悪意からではないが、やはり我等にとって面倒を及ぼす存在がいます。元来、地上を後にした人間の多くは格別に進歩性もなければ、さりとて格別に未熟とも言えない。肉体から離れていく人間の大半は霊性において特に悪でもなければ善でもないものです。そして、地上に近い界層を一気に突き抜けて行く程進化せる霊は、特別の使命でもない限り地上へは戻って来ないものです。地縛霊の存在については既に述べた通りである。
 言い残したもう一種類の霊団があります。それは悪ふざけ、茶目っ気、或いは人間を煙に巻いて面白がる程度の動機から交霊会に出没し、見せ掛けの現象を演出し、名を騙り、意図的に間違った情報を伝える。邪霊という程のものではないが、良識に欠ける霊達であり、霊媒と列席者を煙に巻いて、いかにも勿体ぶった雰囲気の中で通信を送り、いい加減な内容の話を持ち出し、友人の名を騙り、列席者の知りたがっていることを読み取って面白がっているに過ぎません。交霊会での通信に往々にして愚にもつかぬものがあると貴殿に言わしめる要因がそこにあります。
 茶目っ気やイタズラ半分の気持から、いかにも真面目くさった演出をしては、それを信じる人間の気持を弄ぶ霊の仕業がその原因となっています。列席者が望む肉親を装っていかにもそれらしく応対するのも彼等である。誰にでも出席出来る交霊会において身元の正しい証明が不可能となるのも、彼等の存在が原因である。(中略)彼等は真の道徳的意識は持ち合わせません。求められれば、いつでも、いかなることでも、ふざけ半分、イタズラ半分にやってみせます。その時々の面白さ以上のものは何も求めません。人間を傷付ける意図は持ちません。ただ面白がるのみです。
 人の道を誤らせ、邪な欲望や想念を抱かせるのも彼等である。密かに霊媒を操り、高尚な目的を阻止せんとする。高尚にして高貴な目的が彼等には我慢ならず、俗悪な目的を示唆する。要するにその障害物、妨害となろうとするのです。関わるのは主として物理現象です。通例その種の現象が得意であり、列席者を迷わせる魂胆をもって混乱を引き起こす現象を演出する。数々の奇策を弄して霊媒を騙し、それによって引き起こされる当惑の様子を見て、ほくそ笑むのです。
 憑依現象をはじめとする数々の心霊的障害は彼等の仕業に起因する。一旦付け入れば、いかようにでも心理操作が出来るのです。個人的に霊を呼び出して慰安を求める者達を愚弄するのも彼等です。いかにもそれらしく応対し、嬉しがらせるような言葉を述べて欺く。
 間違いなく本人が出て、しっかりとした意志の疎通が行なわれることはあります。が、次の会では巧みに本人を出し抜いてイタズラ霊が出現し、名を騙り、それらしく応対しながら、その中に辻褄の合わない話を織り混ぜたり、全くの作り話を語ったりする。そうした霊に付け入られない為にも、一身上の話題はなるべく避けるが賢明である》

 〝永遠の刑罰〟について問われて-
 「永遠の刑罰の教義を立論の典拠とすることは神を冒涜するものであると同時に、恐ろしい思想と言わねばなりません。ほんの僅かばかりの真理は含んでいても、それが大きく曲解され歪められております。地上には善良な人間もいれば邪悪な人間もいますが、身代わりの贖罪を信じた者、或いは洗礼を受けた者は善悪の区別なく祝福されて神のもとにはべり、それ以外の者は呪われた者として悪魔のもとにはべらされるというのは、人間の創作に過ぎません。魂は常に進化の状態にあり、善でも悪でもないのですから、そのような尺度で人間を善と悪とに分けることは出来ません。
 宇宙の大神がこの地上という低き界層から御子イエスの血によって贖われた霊だけを救い出して側にはべらせるわけはありませんし、又、(宗教の違い等の)不可抗力の巡り合わせから生じたに過ぎないことを最大の言いがかりにして地獄へ蹴落とすようなこともなさるわけがありません。地上を去る者は、それぞれ誰も知らない条件の下で地上へ誕生しております。不可抗力だった悪徳の犠牲となっている場合もあります。
 地上を去った後一気に向上して行く優秀な霊がいると申し上げましたが、そうした霊も、直ぐに最高神のもとにはべるようになるなどということは人間的精神による空想に過ぎないと言うことでしょう。地獄はあります。が、それは、為すべきことを為さなかった悔恨の念に苦しめられる状態のことです。火炎地獄など、肉体を持たない霊の世界では何の効力もありません」

 「霊そのものは無始無終の存在です。その霊が地上に生を享ける前のことからお話しましょう。霊そのものは、この地上世界の基盤として、これを取り巻くように存在し支配している霊的界層に前もって存在しております。いかなる霊も、肉体を身に付けるまでは空間を宿として存在しています。そして肉体に宿って誕生する時期に至るまでは、様々な過程を経ながら成長してまいります。その段階でミクロコズム、すなわち火花の形で宿した神性の具現体となり、かくして物質を支配する力を獲得します。物質の特質の一つは不活性です。自らは何も出来ません。霊によって支配され活性を与えられ、一方、霊の方は人体を纏った段階で個別性を持つことになります。
 このように、地球を包み込むように霊的界層があって、全ての霊はそこからやって来ては、又そこへ帰って行くわけです。それとは別に仕事の界層(動の世界)と瞑想の界層(静の世界)が地球を取り巻いており、個霊は全てその一つ一つを通過しながら向上してまいります。地球全体を霊の大気が包み込んでおり、それが霊界です。皆さんは、その存在に気付いていなくてもその中で生きておられるわけです。地球とよく似た(主観と客観)世界です。ただ、遙かに美しく、そして純化されていると言うだけの違いです。
 霊界においても、自己を表現する為には何等かの媒体が必要であり、形体が必要です。但し、霊質のものです。霊界にも地上と同じように植物、鉱物、動物、といった種別があります。ですから、そちらの世界からこちらの世界へ来ることは〝環境条件〟が変わるに過ぎません。
 生まれつき目の不自由な人には光とは何かが分かりません。その人が仮に視力を得て光が見えるようになったとすれば、それは〝状態〟が変わったのであって〝場所〟が変わったのではありません。それと同じで、その肉体を脱ぎ棄てて霊界入りしても、それは場所が変わったのではありません。状態が変わったに過ぎません」

 インペレーターによれば瞑想的〝静〟の世界は七つあり、その下に七つの進歩的〝動〟の世界があり、更に下に七つの〝試練〟の世界があり、地球はその最上階に属するという。

 (注)-ここでいう界層とは霊的進化がほぼ同程度の者が集まって生じる〝状態〟のことであって、各界がどこかで仕切られていて、それに通路や階段が付いているわけではない。強いて言えば小学校や中学校を知能の発達程度に応じて大雑把に六学年とか三学年に分けているのと同じで、学年が上がれば教室は変わるが、更に上ると又同じ教室を使用することもある。要は〝知能〟の問題であって、霊的界層の問題もそれを〝霊格〟に置き換えて考えればよい。インペレーターが〝上〟とか〝下〟とかの用語を用いているのは、地上の言語で表現しようとすればそうせざるを得ないからであって、現実に同じ一点に全界層が存在していると考えるべきである。

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