「人間とは何か?人間とはいかにもインスピレーションの媒体に過ぎません。地上で崇められるいかに立派な人物も、神がその叡智の内、人間にとって適切とみたごく僅かな一部を伝達する為の手段に過ぎません。その為すところのものは、偉大なるもの、気高きものも全て、守護霊の影響でないものはありません。
霊媒が特別の能力故に選ばれることは事実ですが、その能力とて、取り立てて崇めるべき性質のものではありません。ある啓示の為に適当な道具として選ばれ、その啓示が託されたというに過ぎません。霊媒の功績とすべきものではないのです。又真に忠実な僕としての心得のある者なら、そうは思わないものです。ただの媒体、神の啓示の栄誉ある道具に過ぎません。その栄誉も、霊界側から見ての栄誉であり、世俗的な意味での栄誉ではありません。神の僕-神のメッセージの受け皿として特に選ばれた者という点において、我々の側にとって有り難い存在という意味です。
その任務を忠実に遂行するにつれて霊媒も恩恵を受け、地上を去って後、今度は自分が神のメッセンジャーとして、地上の霊媒にメッセージを届ける役目に相応しい人物として成長していきます。その受け皿は自ずと気高い芳香に満ちております。そして神の僕として仕えれば仕える程、その気高さを増して行きます。神の真理という名の宝石箱として、人間と天使の双方から敬意を受けるに足る存在となっていきます。
しかし、万が一にも不純なもの、不正なるもの、臆病或いは怠惰の要素を心に宿すようなことがあれば、或いはもし神のみに帰すべき栄光を私せんとする傲慢無礼を働くようなことがあれば、更には又、世俗への迎合、高慢、不純なる動機を抱くようなことがあれば、その時は神の道具として選ばれた使命によって恩恵を受けるどころか、絶好の成長の機会を無駄にした不徳によって、大いなる害を蒙ることになります。
それが不変の神の摂理なのです。大いなる栄誉は大いなる責任が伴うということです。善行の絶好機を手にしつつ無為に過ごした者、或いはそれを故意に悪用した者には、神の意志を知りつつその実行を怠った僕としての禍が降りかかります。前者が向上するところを彼は下降します。霊的能力は没収され、道徳的には又知的にも堕落していきます。栄誉を投げ棄て、そして、見よ、恩恵に代わって禍が彼に降りかかります。
それ故、そうした経歴の持ち主が他界した後に万が一にも通信を送って来るとすれば、その通信の内容は、その人物の地上での評判から想像されるものよりは必然的に低いものとなりましょう。地上で彼が語った言葉は彼自身のものではなくインスピレーションによる言葉でした。が、今や神より授かった霊力は没収されています。彼の語る言葉は(親和力によって)引かれてゆく低次元の社会に似つかわしいものとなっています」
(注)-正篇の『霊訓』で同じテーマを同じくインペレーターが別の角度から説いている箇所があるので、長文を厭わず引用しておく。自動書記によるものなので文体がやや異なる。
《我々にとっての最大の難事は、進化した高級霊からの通信を受け取るに相応しい霊媒を見出すことである。そうした霊媒はまず精神が受容性に富んでいなければならない。受容性の限度以上のものは、所詮、伝え得ないのが道理だからです。次に、愚かな地上的偏見に囚われぬ者でなければならない。若い時代の誤った思想を潔く捨て去り、たとえ世間に受け入れられないものでも、真理は真理として素直に受け入れる精神の持ち主でなければならない。
まだある。独断主義から解放されねばならない。この世的思想から抜け出せないようではいけません。神学的独断と派閥と偏狭な教義から解放されなければなりません。己の無知に気付かない、一知半解の弊に陥ってはなりません。常に囚われのない探究心に燃えた魂であらねばなりません。進歩性のある知識に憧れる者、洞察力に富む者であらねばなりません。常により多き真理の光、より豊かな知識を求める者であらねばなりません。要するに真理の吸収に飽くことを知らぬ者でなければならないのである。
又我々の仕事は、頑固な敵対心からの自己主張、又は高慢な出しゃばり根性と利己心によって阻害されることがあってはなりません。そのような霊媒では仕事らしい仕事は為し得ないし、為し得た僅かな仕事というのも、利己主義と独断主義を排除するのが精一杯ということになる。我々が求めるのは有能にして真摯、そして飽くなき探究心に燃えた無欲の心の持ち主でなければならないのです。
そのような人材が発見困難であると述べたわけがこれで理解して頂けるであろう。まさに至難のわざであり、まず不可能に近い。されば我々は、見出し得る限りの最高の人材を着実に鍛練した上で採用する。まずその魂に愛の精神を吹き込み、同時に、己の知的性向にそぐわぬ思想に対する寛容心を養う。そうすることで独断的偏見から脱け出させ、真理が多面性を有するものであり一個人の専有物でないとの悟りへの地ならしを行う。そうして魂の成長に合わせて知識を着々と積み重ね、基礎さえ出来上がれば、安心して上部構造を築き上げていくくことが出来る。かくして霊的真理と思想的性向を徐々に形成し、我々の初期の目標を調和させていく。
ここに至って多くの者が脱落して行く。そして我々も、彼等は地上にては真理を受け入れることが不可能であること、又古来の地上的偏見と頑固な独断的信仰が容易に拭えないものであること、それ故時の流れに任せる外はなく、我々にとって用のない存在となったことを知って諦めるのです。
又真理への完全な忠誠心と、恐怖心も不安も宿さぬ信念は、我々による教化によって着実に培われて行くものである。我々は神とその使者たる指導霊への全幅の信頼へ向けて霊媒を導いて行く。そして我々が神より許された範囲での行為と霊的教訓を忍耐強く待つ心構えを培う。こうした心構えは、多くの霊媒に見受けられる苛立った、落ち着きのない不満と正反対である。
この段階で又多くの者が脱落して行く。恐怖と不安に駆られ、疑念に襲われる。古くからの神学を説く神は、自分のような人間の破滅を今か今かと見守っていると思い、悪魔が罠にかけんとして油断なく見張っていると思い込む。確かに、古い信仰の基盤が揺さぶられてはいても、まだ新しい信仰基盤は敷かれていない。その間隙に邪霊がつけ入り、揺れ動く心を誘惑する。遂に恐怖に堪り兼ねた者が脱落し、我々にとって用のない存在となって行く。
それでもなお我々は、人間のあらゆる利己心を払拭しなければなりません。我々の仕事には私心の出しゃばりは許されないのです。さもないと、我々は何も為し得ません。霊界からの指導にとって人間の身勝手、自己満足、自慢、高慢、自惚れ程致命的なものはありません。小知を働かせてはなりません。我々からの知的働きかけの妨げとなるからです。独断主義に偏った知性は使用しようにも使いものになりません。ましてそれが高慢と自惚れに満ちていれば、我々には近付くことすら出来ません。
いつの時代にも自己犠牲こそが聖賢の徳であった。その時代相応の進歩的真理を旗印にした予言者達は皆、我欲を滅却して使命に生きた人達でした。聖書にその名を留めるユダヤの指導者達は、無私の純心をもって誠実な人生を送りました。特にイエスはその地上生活を通して、使命の為の最高の自己犠牲と誠実さを身をもって示した。偉大にして崇高なる模範であった。イエスという人物の中に、人類の全歴史を通して最大限の人間の可能性の証を見ることが出来るのです。
この世から誤りを駆逐し真理の光をもたらした人々は皆、己に課せられた使命の為に無私と献身の生涯を送った者であった。ソクラテスにプラトン、ヨハネにパウロ、こうした真理の先駆者、進歩の先導者は皆無視無欲の人物-我を張らず、尊大ぶらず、自惚れることを知らぬ者達であった。一途な誠実さ、使命への献身、自己滅却、私欲の無さ等々の美徳を最高に発揮した人達です。それなくしては彼等の仕事が成就されることはなかったであろう。もしも私欲に囚われていたならば、その成功の確信が蝕まれていたことであろう。謙虚さと誠実さと一途さとがあったればこそ成就し得たのです。
我々が求める人材とはそのような資質の持ち主です。情愛に溢れ、誠実にして己を出さず、しかも真理を素直に受け入れる性格。一途に神の仕事に目を据え、一切の地上的打算を忘れた性格。こうした麗しい魂の持ち主が稀であることは確かです。
が、友よ、平静にしてしかも誠実且つ一途な哲学者の心を心とされよ。情愛に溢れ、寛容性の富み、いついかなる時も進んで救いの手を差し伸べる博愛主義者の心を心とされよ。更に、報酬を求めぬ神の僕としての無欲の心を心とされよ。神聖にして崇高なる仕事は、そうした心の持ち主をおいて他に成就し得る者はいない。我々もそうした人材を油断なく見守り、警戒を怠らぬであろう。神より遣わされた天使も笑みを浮かべて見つめ、外的より保護してくれることであろう》
霊媒が特別の能力故に選ばれることは事実ですが、その能力とて、取り立てて崇めるべき性質のものではありません。ある啓示の為に適当な道具として選ばれ、その啓示が託されたというに過ぎません。霊媒の功績とすべきものではないのです。又真に忠実な僕としての心得のある者なら、そうは思わないものです。ただの媒体、神の啓示の栄誉ある道具に過ぎません。その栄誉も、霊界側から見ての栄誉であり、世俗的な意味での栄誉ではありません。神の僕-神のメッセージの受け皿として特に選ばれた者という点において、我々の側にとって有り難い存在という意味です。
その任務を忠実に遂行するにつれて霊媒も恩恵を受け、地上を去って後、今度は自分が神のメッセンジャーとして、地上の霊媒にメッセージを届ける役目に相応しい人物として成長していきます。その受け皿は自ずと気高い芳香に満ちております。そして神の僕として仕えれば仕える程、その気高さを増して行きます。神の真理という名の宝石箱として、人間と天使の双方から敬意を受けるに足る存在となっていきます。
しかし、万が一にも不純なもの、不正なるもの、臆病或いは怠惰の要素を心に宿すようなことがあれば、或いはもし神のみに帰すべき栄光を私せんとする傲慢無礼を働くようなことがあれば、更には又、世俗への迎合、高慢、不純なる動機を抱くようなことがあれば、その時は神の道具として選ばれた使命によって恩恵を受けるどころか、絶好の成長の機会を無駄にした不徳によって、大いなる害を蒙ることになります。
それが不変の神の摂理なのです。大いなる栄誉は大いなる責任が伴うということです。善行の絶好機を手にしつつ無為に過ごした者、或いはそれを故意に悪用した者には、神の意志を知りつつその実行を怠った僕としての禍が降りかかります。前者が向上するところを彼は下降します。霊的能力は没収され、道徳的には又知的にも堕落していきます。栄誉を投げ棄て、そして、見よ、恩恵に代わって禍が彼に降りかかります。
それ故、そうした経歴の持ち主が他界した後に万が一にも通信を送って来るとすれば、その通信の内容は、その人物の地上での評判から想像されるものよりは必然的に低いものとなりましょう。地上で彼が語った言葉は彼自身のものではなくインスピレーションによる言葉でした。が、今や神より授かった霊力は没収されています。彼の語る言葉は(親和力によって)引かれてゆく低次元の社会に似つかわしいものとなっています」
(注)-正篇の『霊訓』で同じテーマを同じくインペレーターが別の角度から説いている箇所があるので、長文を厭わず引用しておく。自動書記によるものなので文体がやや異なる。
《我々にとっての最大の難事は、進化した高級霊からの通信を受け取るに相応しい霊媒を見出すことである。そうした霊媒はまず精神が受容性に富んでいなければならない。受容性の限度以上のものは、所詮、伝え得ないのが道理だからです。次に、愚かな地上的偏見に囚われぬ者でなければならない。若い時代の誤った思想を潔く捨て去り、たとえ世間に受け入れられないものでも、真理は真理として素直に受け入れる精神の持ち主でなければならない。
まだある。独断主義から解放されねばならない。この世的思想から抜け出せないようではいけません。神学的独断と派閥と偏狭な教義から解放されなければなりません。己の無知に気付かない、一知半解の弊に陥ってはなりません。常に囚われのない探究心に燃えた魂であらねばなりません。進歩性のある知識に憧れる者、洞察力に富む者であらねばなりません。常により多き真理の光、より豊かな知識を求める者であらねばなりません。要するに真理の吸収に飽くことを知らぬ者でなければならないのである。
又我々の仕事は、頑固な敵対心からの自己主張、又は高慢な出しゃばり根性と利己心によって阻害されることがあってはなりません。そのような霊媒では仕事らしい仕事は為し得ないし、為し得た僅かな仕事というのも、利己主義と独断主義を排除するのが精一杯ということになる。我々が求めるのは有能にして真摯、そして飽くなき探究心に燃えた無欲の心の持ち主でなければならないのです。
そのような人材が発見困難であると述べたわけがこれで理解して頂けるであろう。まさに至難のわざであり、まず不可能に近い。されば我々は、見出し得る限りの最高の人材を着実に鍛練した上で採用する。まずその魂に愛の精神を吹き込み、同時に、己の知的性向にそぐわぬ思想に対する寛容心を養う。そうすることで独断的偏見から脱け出させ、真理が多面性を有するものであり一個人の専有物でないとの悟りへの地ならしを行う。そうして魂の成長に合わせて知識を着々と積み重ね、基礎さえ出来上がれば、安心して上部構造を築き上げていくくことが出来る。かくして霊的真理と思想的性向を徐々に形成し、我々の初期の目標を調和させていく。
ここに至って多くの者が脱落して行く。そして我々も、彼等は地上にては真理を受け入れることが不可能であること、又古来の地上的偏見と頑固な独断的信仰が容易に拭えないものであること、それ故時の流れに任せる外はなく、我々にとって用のない存在となったことを知って諦めるのです。
又真理への完全な忠誠心と、恐怖心も不安も宿さぬ信念は、我々による教化によって着実に培われて行くものである。我々は神とその使者たる指導霊への全幅の信頼へ向けて霊媒を導いて行く。そして我々が神より許された範囲での行為と霊的教訓を忍耐強く待つ心構えを培う。こうした心構えは、多くの霊媒に見受けられる苛立った、落ち着きのない不満と正反対である。
この段階で又多くの者が脱落して行く。恐怖と不安に駆られ、疑念に襲われる。古くからの神学を説く神は、自分のような人間の破滅を今か今かと見守っていると思い、悪魔が罠にかけんとして油断なく見張っていると思い込む。確かに、古い信仰の基盤が揺さぶられてはいても、まだ新しい信仰基盤は敷かれていない。その間隙に邪霊がつけ入り、揺れ動く心を誘惑する。遂に恐怖に堪り兼ねた者が脱落し、我々にとって用のない存在となって行く。
それでもなお我々は、人間のあらゆる利己心を払拭しなければなりません。我々の仕事には私心の出しゃばりは許されないのです。さもないと、我々は何も為し得ません。霊界からの指導にとって人間の身勝手、自己満足、自慢、高慢、自惚れ程致命的なものはありません。小知を働かせてはなりません。我々からの知的働きかけの妨げとなるからです。独断主義に偏った知性は使用しようにも使いものになりません。ましてそれが高慢と自惚れに満ちていれば、我々には近付くことすら出来ません。
いつの時代にも自己犠牲こそが聖賢の徳であった。その時代相応の進歩的真理を旗印にした予言者達は皆、我欲を滅却して使命に生きた人達でした。聖書にその名を留めるユダヤの指導者達は、無私の純心をもって誠実な人生を送りました。特にイエスはその地上生活を通して、使命の為の最高の自己犠牲と誠実さを身をもって示した。偉大にして崇高なる模範であった。イエスという人物の中に、人類の全歴史を通して最大限の人間の可能性の証を見ることが出来るのです。
この世から誤りを駆逐し真理の光をもたらした人々は皆、己に課せられた使命の為に無私と献身の生涯を送った者であった。ソクラテスにプラトン、ヨハネにパウロ、こうした真理の先駆者、進歩の先導者は皆無視無欲の人物-我を張らず、尊大ぶらず、自惚れることを知らぬ者達であった。一途な誠実さ、使命への献身、自己滅却、私欲の無さ等々の美徳を最高に発揮した人達です。それなくしては彼等の仕事が成就されることはなかったであろう。もしも私欲に囚われていたならば、その成功の確信が蝕まれていたことであろう。謙虚さと誠実さと一途さとがあったればこそ成就し得たのです。
我々が求める人材とはそのような資質の持ち主です。情愛に溢れ、誠実にして己を出さず、しかも真理を素直に受け入れる性格。一途に神の仕事に目を据え、一切の地上的打算を忘れた性格。こうした麗しい魂の持ち主が稀であることは確かです。
が、友よ、平静にしてしかも誠実且つ一途な哲学者の心を心とされよ。情愛に溢れ、寛容性の富み、いついかなる時も進んで救いの手を差し伸べる博愛主義者の心を心とされよ。更に、報酬を求めぬ神の僕としての無欲の心を心とされよ。神聖にして崇高なる仕事は、そうした心の持ち主をおいて他に成就し得る者はいない。我々もそうした人材を油断なく見守り、警戒を怠らぬであろう。神より遣わされた天使も笑みを浮かべて見つめ、外的より保護してくれることであろう》