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自殺の霊的知識へ

カテゴリ: ★『霊訓』

 「人間とは何か?人間とはいかにもインスピレーションの媒体に過ぎません。地上で崇められるいかに立派な人物も、神がその叡智の内、人間にとって適切とみたごく僅かな一部を伝達する為の手段に過ぎません。その為すところのものは、偉大なるもの、気高きものも全て、守護霊の影響でないものはありません。
 霊媒が特別の能力故に選ばれることは事実ですが、その能力とて、取り立てて崇めるべき性質のものではありません。ある啓示の為に適当な道具として選ばれ、その啓示が託されたというに過ぎません。霊媒の功績とすべきものではないのです。又真に忠実な僕としての心得のある者なら、そうは思わないものです。ただの媒体、神の啓示の栄誉ある道具に過ぎません。その栄誉も、霊界側から見ての栄誉であり、世俗的な意味での栄誉ではありません。神の僕-神のメッセージの受け皿として特に選ばれた者という点において、我々の側にとって有り難い存在という意味です。
 その任務を忠実に遂行するにつれて霊媒も恩恵を受け、地上を去って後、今度は自分が神のメッセンジャーとして、地上の霊媒にメッセージを届ける役目に相応しい人物として成長していきます。その受け皿は自ずと気高い芳香に満ちております。そして神の僕として仕えれば仕える程、その気高さを増して行きます。神の真理という名の宝石箱として、人間と天使の双方から敬意を受けるに足る存在となっていきます。
 しかし、万が一にも不純なもの、不正なるもの、臆病或いは怠惰の要素を心に宿すようなことがあれば、或いはもし神のみに帰すべき栄光を私せんとする傲慢無礼を働くようなことがあれば、更には又、世俗への迎合、高慢、不純なる動機を抱くようなことがあれば、その時は神の道具として選ばれた使命によって恩恵を受けるどころか、絶好の成長の機会を無駄にした不徳によって、大いなる害を蒙ることになります。
 それが不変の神の摂理なのです。大いなる栄誉は大いなる責任が伴うということです。善行の絶好機を手にしつつ無為に過ごした者、或いはそれを故意に悪用した者には、神の意志を知りつつその実行を怠った僕としての禍が降りかかります。前者が向上するところを彼は下降します。霊的能力は没収され、道徳的には又知的にも堕落していきます。栄誉を投げ棄て、そして、見よ、恩恵に代わって禍が彼に降りかかります。
 それ故、そうした経歴の持ち主が他界した後に万が一にも通信を送って来るとすれば、その通信の内容は、その人物の地上での評判から想像されるものよりは必然的に低いものとなりましょう。地上で彼が語った言葉は彼自身のものではなくインスピレーションによる言葉でした。が、今や神より授かった霊力は没収されています。彼の語る言葉は(親和力によって)引かれてゆく低次元の社会に似つかわしいものとなっています」

 (注)-正篇の『霊訓』で同じテーマを同じくインペレーターが別の角度から説いている箇所があるので、長文を厭わず引用しておく。自動書記によるものなので文体がやや異なる。
 《我々にとっての最大の難事は、進化した高級霊からの通信を受け取るに相応しい霊媒を見出すことである。そうした霊媒はまず精神が受容性に富んでいなければならない。受容性の限度以上のものは、所詮、伝え得ないのが道理だからです。次に、愚かな地上的偏見に囚われぬ者でなければならない。若い時代の誤った思想を潔く捨て去り、たとえ世間に受け入れられないものでも、真理は真理として素直に受け入れる精神の持ち主でなければならない。
 まだある。独断主義から解放されねばならない。この世的思想から抜け出せないようではいけません。神学的独断と派閥と偏狭な教義から解放されなければなりません。己の無知に気付かない、一知半解の弊に陥ってはなりません。常に囚われのない探究心に燃えた魂であらねばなりません。進歩性のある知識に憧れる者、洞察力に富む者であらねばなりません。常により多き真理の光、より豊かな知識を求める者であらねばなりません。要するに真理の吸収に飽くことを知らぬ者でなければならないのである。
 又我々の仕事は、頑固な敵対心からの自己主張、又は高慢な出しゃばり根性と利己心によって阻害されることがあってはなりません。そのような霊媒では仕事らしい仕事は為し得ないし、為し得た僅かな仕事というのも、利己主義と独断主義を排除するのが精一杯ということになる。我々が求めるのは有能にして真摯、そして飽くなき探究心に燃えた無欲の心の持ち主でなければならないのです。
 そのような人材が発見困難であると述べたわけがこれで理解して頂けるであろう。まさに至難のわざであり、まず不可能に近い。されば我々は、見出し得る限りの最高の人材を着実に鍛練した上で採用する。まずその魂に愛の精神を吹き込み、同時に、己の知的性向にそぐわぬ思想に対する寛容心を養う。そうすることで独断的偏見から脱け出させ、真理が多面性を有するものであり一個人の専有物でないとの悟りへの地ならしを行う。そうして魂の成長に合わせて知識を着々と積み重ね、基礎さえ出来上がれば、安心して上部構造を築き上げていくくことが出来る。かくして霊的真理と思想的性向を徐々に形成し、我々の初期の目標を調和させていく。
 ここに至って多くの者が脱落して行く。そして我々も、彼等は地上にては真理を受け入れることが不可能であること、又古来の地上的偏見と頑固な独断的信仰が容易に拭えないものであること、それ故時の流れに任せる外はなく、我々にとって用のない存在となったことを知って諦めるのです。
 又真理への完全な忠誠心と、恐怖心も不安も宿さぬ信念は、我々による教化によって着実に培われて行くものである。我々は神とその使者たる指導霊への全幅の信頼へ向けて霊媒を導いて行く。そして我々が神より許された範囲での行為と霊的教訓を忍耐強く待つ心構えを培う。こうした心構えは、多くの霊媒に見受けられる苛立った、落ち着きのない不満と正反対である。
 この段階で又多くの者が脱落して行く。恐怖と不安に駆られ、疑念に襲われる。古くからの神学を説く神は、自分のような人間の破滅を今か今かと見守っていると思い、悪魔が罠にかけんとして油断なく見張っていると思い込む。確かに、古い信仰の基盤が揺さぶられてはいても、まだ新しい信仰基盤は敷かれていない。その間隙に邪霊がつけ入り、揺れ動く心を誘惑する。遂に恐怖に堪り兼ねた者が脱落し、我々にとって用のない存在となって行く。
 それでもなお我々は、人間のあらゆる利己心を払拭しなければなりません。我々の仕事には私心の出しゃばりは許されないのです。さもないと、我々は何も為し得ません。霊界からの指導にとって人間の身勝手、自己満足、自慢、高慢、自惚れ程致命的なものはありません。小知を働かせてはなりません。我々からの知的働きかけの妨げとなるからです。独断主義に偏った知性は使用しようにも使いものになりません。ましてそれが高慢と自惚れに満ちていれば、我々には近付くことすら出来ません。
 いつの時代にも自己犠牲こそが聖賢の徳であった。その時代相応の進歩的真理を旗印にした予言者達は皆、我欲を滅却して使命に生きた人達でした。聖書にその名を留めるユダヤの指導者達は、無私の純心をもって誠実な人生を送りました。特にイエスはその地上生活を通して、使命の為の最高の自己犠牲と誠実さを身をもって示した。偉大にして崇高なる模範であった。イエスという人物の中に、人類の全歴史を通して最大限の人間の可能性の証を見ることが出来るのです。
 この世から誤りを駆逐し真理の光をもたらした人々は皆、己に課せられた使命の為に無私と献身の生涯を送った者であった。ソクラテスにプラトン、ヨハネにパウロ、こうした真理の先駆者、進歩の先導者は皆無視無欲の人物-我を張らず、尊大ぶらず、自惚れることを知らぬ者達であった。一途な誠実さ、使命への献身、自己滅却、私欲の無さ等々の美徳を最高に発揮した人達です。それなくしては彼等の仕事が成就されることはなかったであろう。もしも私欲に囚われていたならば、その成功の確信が蝕まれていたことであろう。謙虚さと誠実さと一途さとがあったればこそ成就し得たのです。
 我々が求める人材とはそのような資質の持ち主です。情愛に溢れ、誠実にして己を出さず、しかも真理を素直に受け入れる性格。一途に神の仕事に目を据え、一切の地上的打算を忘れた性格。こうした麗しい魂の持ち主が稀であることは確かです。
 が、友よ、平静にしてしかも誠実且つ一途な哲学者の心を心とされよ。情愛に溢れ、寛容性の富み、いついかなる時も進んで救いの手を差し伸べる博愛主義者の心を心とされよ。更に、報酬を求めぬ神の僕としての無欲の心を心とされよ。神聖にして崇高なる仕事は、そうした心の持ち主をおいて他に成就し得る者はいない。我々もそうした人材を油断なく見守り、警戒を怠らぬであろう。神より遣わされた天使も笑みを浮かべて見つめ、外的より保護してくれることであろう》

 「皆さんは次のような間違った事実に気付いておられるでしょうか。すなわち大半のキリスト教徒は自分達こそイエスが保証した天国の継承者であると思い込み、神は自分達の為に生き自分達の為に死すべく唯一の息子を送ってくださったと信じていること。又自分達は神の直属の僕によって授けられたメッセージの啓示を受け、かつてそれ以外のメッセージが人類に授けられたためしはないと信じていること、更に又、その自分達にのみ明かされた教義をインド、中国人、その外の異教徒全てに説くことが自分達の絶対的義務であると思い込んでいること。そして、その啓示は完全にして、神の最後のお言葉であるとまで信じていることです。
 そのような、間違っていると同時に独善的な言説は即刻捨て去られるがよろしい。最高神がそのような偏ったえこひいきをなさることは有り得ぬことです。全てを統率される永遠の存在が、地上の一地域の子等の陳腐な願い事だけに耳を傾けるようなことはなさりません。いつの時代にも、それぞれの時代の特殊な事情に応じて神の啓示が授けられているのです。
 そのいずれの啓示にも、中核をなす重大な思想が盛られております。スピリチュアリズムと呼ばれているものは、それらを一つに纏めた総合的思想なのです。これまで断片的に啓示されて来たものが集められ、スピリチュアリズムの名の下に、偏りのない一個の集合体としたのです。純粋性及び真実性において優るものもあれば劣るものもあります。が、イエス・キリストの説いた真理が最も真実味に溢れ、多分インドの古代宗教がそれに続くでしょう。真理の受け入れの最大の障害となるのは偏見です。
 私が地上で生活した頃はそうした古い宗教については何の知識も存在しませんでした。そもそもユダヤ人の間には霊魂不滅の信仰と呼べるものは何一つ存在せず、単に憧れる程度に過ぎませんでした。そこへイエス・キリストが出現して、真実の信仰として霊の不滅性を説いたのです。使命の一環がその真理を広めることにあったのです。
 当時のユダヤ人は今日のクリスチャンとよく似た傾向にありました。いつしか来世についてあまり多くを考えないようになって行きました。そこへイエスが出現して霊の不滅性と永遠性を説いたのです。それは、こうして我々が他界した霊との交信の可能性を説きに来たのと同じです」

 「皆さんが異教徒と呼んでいる者の運命について大部分のクリスチャンが、彼等は死後哀れな道を辿り、お慈悲を要求することを許されぬまま神の裁きに任される、と断じております。不思議でならないのは、イエス自身は同じオリに種類の異なる羊もいると述べ、彼等も同じ仲間として、その行いによって裁かれると教えている事実を忘れていることです。又パウロが神について語った時も、神は地上の全ての民族を同じ血によって拵えられたと言い、従って人類は全て同じ家系から生じ、神を慕い求める者は誰にでもその願いが叶えられることを説いております」

 「キリストが所有していた強大な霊力は到底皆さんには理解し得ません。完全な自己滅却が人間の中にあって神の如き生活を可能ならしめました。その奇跡は天使の背後霊団によって演出されました。そしてその思想は一つの気高い目的に集中しておりました。すなわち人類の福祉への献身です。
 キリストは悠久の前生(後注)を有する高級霊の一柱が宿ったものであり、その高い界層においてもなお高い位にありました。人類更生の為の大事業は全てそのキリストを淵源としております。その聖なる影響力は地上のいかなる暗き場所をも数多く啓発しております。これ以後も人類の霊的受容能力が開発されるに従ってその影響力がますます広がって行くことでしょう。
 我々はそのキリストの名の下に参ります。そのキリストの霊力のお陰をもって語ります。そしてそのキリストの祝福を皆さんにお預けしてまいります。その上に安らぎを、安らぎを、安らぎを・・・・」
 (注)-ここでいう〝前生〟とは誕生前の霊界における生活であって、地上での生活ではない。これは神々しい誕生に係わる大問題で、日本の神話では寓話風に語られているが、シルバーバーチは〝物質界に誕生する霊としない霊とがいるのはなぜですか〟という質問に答えて次のように述べている。
 《霊界の上層部つまり神庁には、一度も物質界に降りたことのない存在がいます。その種の霊にはそれなりの宇宙での役割があるのです。物質器官を通しての表現を体験しなくても成長進化を遂げることが出来るのです。当初から高級界に所属している神霊であり、時としてその中から特殊な使命を帯びて地上へ降りて来ることがあります。歴史上の偉大な霊的指導者の中には、そうした神霊の生まれ変わりである場合が幾つかあります》
 これは次のインペレーターの霊言とも一致している。

 「キリストの場合はかつて一度も物質界へ降りたことのない高級神霊が人類の向上と物的体験の獲得の為に一時的に肉体に宿ったものです。そうした神霊は高い界層に所属し、人類の啓発の為に特殊な任務を帯びて派遣されます。肉体に宿らずに、霊媒を見出して働きかける場合もあります(後注①)。その霊媒に対して、未だかつて物質界に降りたことのない〝真理の啓発者〟から深遠な真理の幾つかが注ぎ込まれ、それについて霊媒は睡眠中に教えを受けることがあります(後注②)。本人はそれと気付いていなくても吸収することは出来ております。
 この種の神霊は俗世的問題を問われる気遣いのない時をみて働きかけようとするのです。なぜかと言えば、彼等は俗世の問題については全く無知であり、霊的知識以外は伝授し得ないのです。そうした神霊が時として自らの意志によって地上へ降誕して来ることもあります。慈悲に発する使命感から率先して志願するのです。そして肉体に宿っている間は自己のアイデンティティ(本来の身元)の記憶を喪失します。こうした行為に出る神霊は数多く存在します。そして、地上生活を終えた後、特殊な存在の側面についての体験と知識とを携えて、本来の界層へと帰還していきます」

 (注)①-『ベールの彼方の生活』第四巻で、ある〝双子霊〟が各種の天体を遍歴しながら向上して行く話の後、霊媒のオーエンとアーネル霊との間で次のような問答がある。
-地球以外の惑星との接触はどういう形で行ったのでしょうか。再生したのでしょうか。
 「再生という用語は前生と同じ性質の身体にもう一度宿るということを意味するものと思われます。そうだとすれば、そして貴殿もそう了解してくださるならば、地球以外の天体上の身体や物質に順応させていく操作を〝再生〟と呼ぶのは適切ではありません。というのは、身体を構成する物質が地上のそれと非常に似通った天体もあるにはありますが、全く同じ素材で出来ている天体は二つとなく、全く異なるものもあります。
 それ故貴殿が今お考えになっているような操作を再生と呼ぶのは適切でないばかりか、よしんば惑星間宇宙を支配する法則と真っ向から対立するものではないにしても、物的界層の進化の促進の為にこの種の問題を担当している神霊から見れば、そう一概に片付けられる性質のものでないとして否定されることでしょう。そうではなくて、お二人はこの太陽系だけでなく他の恒星へも、地上の場合と同じく、今私が行っている方法で訪れたのです。
 私はこの地上へ私の霊力の強化の為に戻って参ります。そして時には天体の創造と進化についての、より一層の叡智を求めて、同じ方法で他の天体を訪れます。が、物的身体を纏うことは致しません。そういうことをしたら、却って障害となるでしょう。私が求めているのは内的生活、その世界の実相であり、それは内部から、つまり霊界からの方がよく分かります。物的世界のことは、そこの物質を身に纏って生まれるよりも、今の霊としての立場から眺めた方がより多く学べるのです。魂をそっと包んでくれる霊的身体よりも遙かに鈍重な器官を操作しなければならないという制約によって、霊的感覚が麻痺してしまうのです」

 (注)②-これは我々平凡人においても同じことで、肉体から脱け出て脳を通しての意識から解放されている間に、背後霊によって色々と指導を受けている。それが肉体に戻ってからどこまで脳の意識に反映されるかは霊的意識の発達程度(霊格)によるので、一人一人異なる。『シルバーバーチの霊訓』第七集の中で、ルースとポールという二人の子供(姉と弟)を相手にしてシルバーバーチが次のような話をしている。
ルース「あたしたちは眠っている間はどんなことをしているのでしょうか」
シルバーバーチ「皆さんは毎晩その身体を後にして別の世界へ行きます。訪れた世界での体験は二種類に分けることが出来ます。一つは教育を目的としたもので、もう一つは純粋に娯楽を目的としたものです。教育的体験では、いずれ訪れる霊界生活で使用する霊的身体について教わります。娯楽を目的とした体験の場合は、例えば霊界で催されている色々な会場を訪れます。
 いいですか、ルースちゃん、あなたは昨晩私の世界の庭園へ連れて行ってもらったのですよ。それからポール君は音楽を聞きに行ったのですよ」
ポール「二人ともそのことを覚えていないなんて、つまんないですね」
シルバーバーチ「確かに、そう思うのも無理ないかも知れませんね。でも、それは肉体から離れている間の(異次元の)体験を肉体の脳で理解しようとするからなのです。ポットの水全部をグラスに入れようとしても入りませんね。それと同じです。でも夢を注意して見ていると好いヒントになるものが見つかる筈ですよ」
ルース「わけの分からない夢はどう理解したらいいのですか」
シルバーバーチ「変な夢のことですか。あれは異次元での体験を脳で思い出そうとするからそうなるのです。脳は小さな袋のようなものです。霊体が肉体に戻って来て、その間の体験を脳に詰め込もうとするのですが、小さな袋には全部が入りきれないのです。それを無理して押し込もうとする為に、あのようなヘンテコな形になるのです。夢というのは別世界での体験がそのまま現れるのではなく、その断片的な思い出に過ぎません」

 「我々はキリストの降誕に関して新しい視点を披露しました。これからそれを敷延(ふえん)したいと思います。
 キリストの霊は地上へ降りることの可能な霊の中ても最高次元の霊です。そのキリストが地上人類の霊的更生の為に自ら降誕したのです。
 霊が降誕するのは地球ばかりとは限りません。ただ、地球には地球ならではの特殊な体験が幾つかあります。いずれの天体にも霊的発達の為の利用価値が有り、全ての天体で生活が営まれております。そこへ時として高級霊が降誕して、教化と高揚に当たります。
 キリストは新しい時代を切り開かんとして、単純素朴さと誠実さとを教える為に地上に参りました。今皆さんが見届けておられるのは、更に一段と高等な真理、より神性に富んだ真理を霊界から届ける新世紀の夜明けです。決して一過性の現象ではありません。人類を霊的方向へ導き啓発せんが為の首尾一貫した大計画の一端なのです。現世紀は主として霊団の活躍による影響を受けていますが、少ないながらも、身をもって降誕している〝進化せる霊〟が地上にも存在しています。
 キリストの霊がそれ以前に地上へ降りたことは一度もありません。高級霊といえども肉体に宿ることによって前世の記憶を失うものです(後注①)。この主の降誕は一種の自己滅却です。もしくは〝国籍離脱〟にも似た行為です。皆さんが今生活しておられる地球は、ほぼ最低に近い次元の存在の場です。地球より遙かに発達した天体が数多く存在します。形成の段階にある天体もあります。(太陽系では)水星が最も低く、木星が最も進化しています。
 キリストは〝無〟の境涯(超越界)へと入って行かれました(後注②)。が、我々の仕事の完遂の暁には自らお出ましになられることでしょう。その刈り入れ時の到来までには幾多の為さねばならぬことがあります。種子蒔きと成育には長い期間を要するものです。今遂行されつつある仕事の大きさ、開かれつつある眺望の広さは皆さんには理解出来ません。神の愛がかくも強烈にほとばしり出たことはかつて一度もありません。地上人の心に静かな影響力が働きかけております。今こうしてお持ちしている教えの受け入れ態勢が地球上至る所で準備されつつあります。更に多くの援助が必要となれば、新たに偉大なる天使の軍勢が差し向けられ、その霊力が地球へ届けられることでしょう。今はまだその必要はありません。計画通りに順調に進捗しているからです。
 皆さんは今、地球の歴史上有数の画期的世紀の一つに生きておられます。新たな教説が受け入れられるに先立って古い教説を一掃しなければなりません。が、そう易々と一掃されることはないでしょう。何となれば、その教説の回りを、幾世紀にも亘る付着物が取り巻いているからです。しかし今や、それも急速に取り払われつつあります。そして二度と生き返ることはないでしょう。この時代に生を享け、こうした新しい真理を学ぶことの出来た皆さんは幸せ者です。もっともその恩恵を正しく理解し活用すればのことですが・・・
 私の教えは(同じく超越界に入っている)私の大先輩(紀元前九世紀頃のヘブライの予言者だったエリヤの霊)から授けられます。私はその方と直接お会いすることが出来ます。その方も又その大先輩(紀元前十二世紀頃のヘブライの予言者モーセの霊)から教えを受けておられます(後注③)。
 私はまだ瞑想界へ入ることは出来ません。が、その方が私の下に降りて来られて、この度の使命を私に授けられたのです。我々の一人一人が大いなる系譜の一単位であり、その先を辿れば最高神にまで行きつつあります。
 私の指揮の下にある霊団は私の命令を受け、時折私との交わりを求めて会合を持ちます。我々の仕事にとって秩序が全てであり、身勝手は許されません。人間が思うがままに振舞えるのは、行為の及ぼす結果について人間が鈍感で、我々と違って知らないでも平気でいられるからです。
 もっとも人間は気付いていないようですが、人間も真の意味では自由ではありません。人間の意志は、良きにつけ悪しきにつけ、必ず何等かの霊的影響力によって導かれております。一口に霊といっても、その進化の程度によって様々な種類が存在します。他の天体に所属する霊がこの地球を訪れることは、あることはありますが、滅多にはありません。地球所属の霊にしても、地上より他界した人間の霊の外に数々の種類が存在します。その中には自然界のエネルギーを支配する霊もいます(後注④)。

 (注)①-『霊訓』に次のような箇所がある。
 《地上の救済の為に遣わされる霊はその殆どが肉体を纏うことによって霊的感覚が鈍り、それまでの霊界での記憶が遮断されるのが常です。が、イエスは例外であった。その肉体の純粋さ故に霊的感覚を鈍らせることが殆どなく、同等の霊格の天使達と連絡を取ることが出来ました。天使達の生活に通じ、地上への降誕以前の彼等の中における地位まで記憶していました。天使としての生活の記憶はいささかも鈍らず、一人の時は殆ど常時、肉体を離れて天使と交わっていました。長時間に亘る入神も苦にならなかったのです》

 (注)②-同じく『霊訓』の中で、魂が向上発達していく〝試練〟もしくは〝浄化〟の境涯と、その後に来る所謂超越界、一端突入したらよくよくの場合を除いて二度と戻ることのない〝無〟の世界との間に大きな懸隔があると述べてから、更に次のように綴られた。
 《七つの試練界の最高界から超越界の最低界への突入は人間の死にも似ている。が、その超越界については我々も殆ど聞かされていません。ただ、我々がこうして人間を見守っている如く、その世界の至聖なる霊も我々を援助し導いてくださっていることは承知している。が、それ以外の具体的事実については何も知りません。分かっているのは、その世界の霊はいよいよ神性が完成に近付き、宇宙の根源に通じ、大神を身近に拝むことを得るらしいということのみである。
 我々とてその至福の境涯からは程遠い。まだまだ為さねばならぬことがあります。その遂行の中に喜びを見出しているところです。霊といえども自分が得た経験と知識に従って語っていることを承知する必要があろう。奥深い問題についても、それまでに知り得た限りの範囲で解答を出します。故に、真実から外れたことを述べることも有り得るわけであるから、そうした霊を咎めてはなりません。が、霊の世界について間違いなく言えることは、地上界が七つの下層界の内の最高界であり、その上に七つの〝動〟の世界があり、更にその上に七つの超越的〝無〟の世界が存在するということである。但しその七つの各界には無数の〝境涯〟が存在する》

 (注)③-古来〝啓示〟にも霊的系譜があることを、同じく『霊訓』の中でインペレーターが次のように述べている。
 《古き時代において我々と同じく人間を媒体として啓示が地上にもたらされた道程についてこれより述べようと思う。聖書に記録を留める初期の歴史を通じて、そこには燦然と輝く偉大なる霊の数々がいる。彼等は地上にあっては真理と進歩の光として輝き、地上を去って後は後継者を通じて啓示をもたらして来ました。その一人-神が人間に直接的に話しかけるとの信仰が今より強く支配していた時代の一人に、メルキゼデクの名で知られた人物がいた。(中略)
 そのメルキゼデクは死後再び地上に戻り、当時の最大の改革者-イスラエルの民をエジプトより救い出し、独自の律法と政体とを確立した指導者モーセを導いた。霊力の媒介者として彼は心身共に発達せる強大な人物でした。既に当時としては最高の学派において、優れた知的叡智、エジプト秘伝の叡智が発達していました。人を引き付ける彼の強烈な意志が、支配者としての地位に相応しい人物としたのです。彼を通じて強力な霊団がユダヤの民に働きかけ、それが更に世界へと広がって行きました。大民族の歴史的大危機に際し、その必要性に応じた宗教的律法を完成させ、政治的体制を入念に確立し、法と規律を制定しました。その時代はユダヤ民族にとっては、他の民族も同様に体験している段階、そして現代も重大な類似点を有する段階、すなわち古きものが消え行き、霊的創造力によって全てのものが装いを新たにする、霊的真理の発達段階にあったのです。(中略)
 メルキゼデクがモーセの指導霊となった如く、そのモーセも死後エリヤの指導霊として永く後世に影響を及ぼしました。断っておくが、今我々はメルキゼデクよりキリストに至る連綿たる巨大な流れを明確に示す為に、他の分野における多くの霊的事象に言及することを意図的に避けている。又その巨大な流れの中に数多くの高級霊が出現しているが、今はその名を挙げるのは必要最小限に留め、要するにそれらの偉大なる霊が地上を去った後も引き続き地上へ影響を及ぼしている事実を指摘せんとしているところです。他にも多くの偉大なる霊的流れがあり、真理の普及の為の中枢が数多く存在した。が、今の貴殿には関わりはあるまい。イエス・キリストに至る巨大な流れこそ最大の関心事であろう。もっとも、それをもって真理の独占的所有権を主張するような、愚かにして狭隘(きょうあい)な宗閥心だけは捨て去ってもらわなければなりません。
 偉大なる指導者エリヤ-イスラエル民族が授かった最高の霊は、かつての指導者モーセの霊的指揮下にありました。(中略)そのエリヤも又後の世に地上へ戻り、指導に当たった。貴殿も知る如く、かの〝変容〟の山上にてモーセと共にキリストの側にその姿を見せました。二人はその後ヨハネにも姿を見せ、それより後にも再び地上を訪れることを告げたとあります》

 (注)④-所謂(精霊)のことで、『ベールの彼方の生活』ではそれを〝半理知的原始霊〟という呼び方で次のように説明している。
 《これは個性をもたない自然界の霊で、鉱物の凝縮力として働くもの、植物の新陳代謝を促進するもの、動物の種族毎に類魂として働いているものとがあります。鉱物の霊はこの分野を担当する〝造化の天使〟によって磁力を与えられて活動する以外には、それ本来の知覚らしい知覚は持っておりません。が、植物の霊になるとその分野の〝造化の天使〟から注がれるエネルギーに反応するだけの、それ本来の確立された能力を具えております。鉱物に比べて新陳代謝が早く、目に見えて生育していくのはその為です。
 同じ理由で、人間の働きかけによる影響が通常の発育状況に直ぐ表れます。例えば性質の相反する二種の鉱物、或いは共通した性質をもつ二種の鉱物を科学実験のように溶解状態で混ぜ合わせると、融和反応も拒否反応も、共に即座にそして明瞭な形で出ます。感覚性が皆無に近いからです。
 ところが植物の世界に人間という栽培者が入ると、いかにも渋々とした故意的な反応を示します。普段の発育状態を乱されることに対して潜在的な知覚が不満を持つからです。しかし、これが動物界になると、その類魂も十分な知覚を有し、かつ又、少量ながら個性も具えています。又〝造化の天使〟も整然とした態勢で臨んでおります》

 「他の天体に降誕した霊が、後に地球へ降誕することもあります。地球上の生命の創造は霊力によって行なわれました。高級霊になれば、地球の大気から摂取した成分を加工し生命の要素を吹き込むことによって、新しい創造物を形成することが出来ます。霊の創造は今尚、地上においても霊界においても、絶え間なく続けられております。生殖本能は地球のみに限られているのではありません。
 新しい生命、言うなれば魂を宿した動物的生命は、途切れることなく地上へ誕生しております。精神は物質の付属物ではなく、別個の誕生と創造の起原を有します。新しい霊の創造は大気中の成分を凝縮することによって行なわれます。その凝縮した成分が我々霊的存在と人間的存在との連結の媒体となります。いずれ、その成分に宿った魂が人間として地上へ誕生するのに要する条件、及び地上期間中にいかなる陶冶(とうや)を受けるかが人類に語り明かされる日も到来しましょう。それは今皆さんが迎えつつある時代に属する課題です。その為には多くの古い偏見が淘汰されねばなりません。が、人間の頑迷さが取り除かれ、敵対者の軍団(後注)を追い散らすことさえ出来れば、その後に訪れる光明は真昼の太陽の如く皓々(こうこう)たる輝きに満ちていることでしょう」

 (注)-『霊訓』から邪霊集団の影響についての通信の一部を紹介する。
 《既に聞き及んでいようが、今貴殿を中心として進行中の新たな啓示の仕事と、それを阻止せんとする一味との間に熾烈な反目がある。我々の霊団と邪霊集団との反目であり、言い変えれば、人類の発達と啓発の為の仕事と、それを遅らせ挫折させんとする働きとの闘いです。
 それは何時の時代にもある善と悪、進歩派と逆行派との争いである。逆行派の軍団には悪意と邪心と悪知恵と欺瞞に満ちた霊が結集する。未熟な霊の抱く憎しみに煽られる者もいれば、真の悪意というよりは、悪ふざけ程度の気持から加担する者もいる。要するに、程度を異にする未熟な霊が全てこれに含まれます。闇の世界より光明の世界へと導かんとする、我々を始めとする他の多くの霊団の仕事に対して、ありとあらゆる理由からこれを阻止せんとする連中です。(中略)
 そうした集団に集まるのは必然的に地縛霊・未発達霊の類である。彼等にとって地上生活は何の利益ももたらさず、その意念の赴くところは、彼等にとって愉しみの宝庫ともいうべき地上でしかなく、霊界の高尚な喜びには何の反応も示さない。かつて地上で通い慣れた悪徳の巣窟をうろつき回り、同類の地上の人間に憑依し、哀れな汚らわしい地上生活に浸ることによって、淫乱と情欲の満足を間接的に得んとするのです。(中略)
 こうした現実が身の回りに実在するのです。それに人間は一向に気付かない。そうした悪疫の巣がある-あるどころか、ますます繁栄し、のさばる一方でありながら、それを批難する叫び声が一体地上のいずこより聞こえるであろうか。なぜどこからも批難の声が上がらぬのであろうか。
 なぜか。それも邪霊の働きに他なりません。その陰湿な影響力によって人間の目が曇らされ、真理の声が麻痺されているからに他ならないのです》

 「皆さんは霊力の一方ならぬ恩恵に浴しておられます。人類全体においても霊的感覚が増大しつつあり、一歩一歩、霊的影響力の存在が顕現されつつあります。今地上に行き渡りつつある霊力の波はキリストの時代のそれに類似しています。今明かされつつある教えがこれより後、キリストがもたらした教えの如く(人間的夾雑物によって)汚されることがなければ幸いです。
 今日キリストの御名の下に教えを説いている者の多くが、キリストが実際に説いたものとは似ても似つかぬものを説いております。我々が今新たに神の始源からお持ちしている真理も、全ての真理が当初において必ず遭遇する運命に遭遇することでしょう。が、人間がそれを受け入れる時代も間近に迫っております。我々が恐れるのは我々の使命への反抗よりも、寧ろ無関心の方です。問い質すことをせず、疑念を抱く程の関心すら持たない、感覚の麻痺した、冷ややかな、生命のない無関心です」

 この後インペレーターは、この民主主義の時代においてはキリストのような巨大な予言者が一人だけ出現しても効果はないこと、これからの時代は真理が様々な手段で様々な人間に届けられること、精神構造が異なれば真理も又異なった種類のものが必要であること。これからスピリチュアリズムに対する大きな反抗が予想されるので、それに対する備えがなければならぬこと、新しい真理の啓示に抵抗はつきものであることを語った。

 セオフィラスと名乗る霊が語る。
 「神は様々な表現形式をとり、様々な媒介者を通して顕現しておられます。そしてその顕現に預かった者は、大抵その媒介者と啓示とを自分だけのものと思い込む間違いを犯します。時代毎にそれ相応のメッセージが授けられているのですが、いずれの時代においてもそれを最終的な神のメッセージと受け止める間違いを犯します。神は何度も語りかけて来られました。が、最後の語りかけというものはなさっておりません。既に知っての通り、現人類の為の啓示はメルキゼデクに始まり、今尚連綿として続いているのです。
 又キリスト教界のみが神の啓示の唯一の受託者ではなく、他にも別の真理の受託者がいて諸国へ殿堂していることも皆さんはご存知でしょう。いずれの宗教にも神の全真理のほんの一かけらのみが授けられたのです。現代の学識ある者の中には、あたかもサドカイ派(ユダヤ教の一派で霊魂の実在を信じず律法を字句通りに解釈した者達)とよく似た者、キリスト教徒の中にはあたかもパリサイ派(サドカイ派と対立し儀式を重んじた者達)とよく似た者が見受けられます。一方神学者の中には、結局は何の価値もない文献を仰々しくいじくり回している者が大勢いるようです。
 今日のキリスト教の聖職者の宗教概念は、規範と教義とによって埋め尽くされて、その底流にある霊的概念をなおざりにしています。信仰心が薄れてゆく第一の兆候はその霊的概念が忘れられることで、それが霊界などは存在しないと思わせ、全く無意味な形式ばかりをいじくり回すようになります。かくして人間的発明品であるドグマや教説によって四方を囲まれ、肝心な霊的真理を度外視するようになり始めたら最後、信仰は衰微し始めることは確実です。
 今人間が決断を迫られているのは、霊的啓示を受け入れるか拒否するかです。受け入れる者もいれば拒絶する者もいるでしょう。
 これまでは真理が傑出した一人の人物に集中的に啓示されて来ましたが、これからはそういうことはありません。一つの流れに偏り、こじつけられ、そして窮屈なものになるということはなくなり、大勢の霊媒を通じて与えられ、それだけ私的な偏りから免れ、世界中へ行き渡り、受け入れる魂を鼓舞するようになります。排他性の時代は過ぎ去りました。開かれたビジョンの時代-特権階級による一方的支配の時代から民主主義が主導的原理となる時代が到来したのです。神の真理はその流入の場を常に特権意識をもたない人達に求めます。そこには自尊心が少なく、見栄と高慢に振り回される可能性が少ないからです。
 ペテロが〝私には金銀はない〟(使徒行伝3・3)と述べた時、彼は失われてしまった高等な真理を指摘したのです。当時の聖職者達が金銭的に恵まれた地位を得ようと躍起になっている様を見て、ペテロが強く戒めたのです。霊的影響力は当時の教会からは既に消え失せ、物的影響力が支配していました」

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