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カテゴリ: ★『永遠の大道』

自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 地上生活にありて、意識とは朝な朝な眼を覚ますと共に点もされる一つの燈火である。健康がすぐれぬ時にその光力は弱いが、年齢が若くて元気に富めば、その光は煌々と燃え上がり、眼に入る一切の物体に輝きを与えて、歓喜幸福の源泉たらしめる。
 この毎日の意識は年齢と経験とによりて、色々に変化する。年々歳々意識は決して同一でないが、その微妙なる推移に気の付くものは、或は滅多に居らぬかも知れぬ。ところで、この人間の意識の本体、つまり物質の世界を見、聞き、又触れることを得せしむるものは一体何者か?他なし、それは『自我』なのである。この不思議な存在は、機会を見て別に説くが、要するに各種々々の諸要素の合計である。死んで肉体を棄てた時も、又死後幾つかの階段を経た暁に於いても、(無論その間に重要な変化を遂げるのは事実であるが)依然として支配権を握るのは自我である。彼岸に於ける自我は、肉体と称する一の王国をして、統一と均衡とを獲せしめた、一切の物的要素、肉、血、脳、細胞、複雑なる神経網等-を脱ぎ棄てた、一個の身軽な旅人である。そして、肉体の代わりとして、遙かに精巧な一つの形態を有っている。この形態にも又一種独特の立派な交通機能が備わっており、彼はこれを用いて、盛んに自家の精神的栄養物を摂取することが出来る。既に述べた通り、彼岸の居住者の有する機関は非常に稀薄であり、又微妙であるから、無論肉眼には見るよしもなく、地上の科学者達の提供する、どんな精巧な機械にもかからない。
 ところで、この新形態にはどの部分が痛いとか、痒いとかいうようなことは絶対にない。精神の働が非常に加わりて、統制力を増した結果、精神的の苦痛は経験しても形態が精神を悩まし、形態が支配者の位地に立つというようなことは到底ないのである。これを観ても死の彼岸に於いて、いかに彼が重要なる進歩を遂げたかが明瞭であると思う。が、他方を観れば、彼の前途はまだまだ遼遠である。完成の目的地点に達するまでには、彼は無数の境涯を通過し、無数の生活を経験せねばならないのである。
 ごく大雑把に言えば、彼がその長い生命の道程中に発揮すべき意識は二種類に分かれる。外でもない、甲はスピリット又は上魂、乙は自我性又は下魂である。そしてその何れにもそれぞれ異なれる表現形式があるのである。
 或は又見方によりては、全てを意識の階段と考えても良いかと思う。即ち階段の一つ一つこそ、出発点から終点迄に至るまでに、彼が通過せねばならぬ、各種の生活の代表なのである。但しそこに果たして終点があるか、ないかは私には言い得ない。私が最終というのは、単に私の視界の局限を指すに過ぎないと承知してもらいたい。そして私の所謂下魂と称するのは、各階段にありての実際的、又は顕在的自我意識であり又スピリット又は上魂と称するものは、結局上方から射す光と思えばよい。この光は何れの階段をも照らし、一切のその中に包容する。かるが故に魂とは単に一部分であり、経験の収集者であり、あらゆる生命の背後に控える『神秘』の小なる代表者でしかない。
 自我がこの意識の階段を上昇すればする程、ますます他の同類の魂達と接近する。一つのスピリット(上魂)によりて養われる類魂の数は、或時は千、或時は百、又或時は二十位しかないかも知れぬ。何れにしても、他の同類の魂につきての自覚は階段の上方に進めば進む程増大する。時とすれば、彼等は他の魂達の記憶の中に潜り入り、それ等の経験を洞察し、全てを自家薬籠中のものとなすことも出来る。然らば何故に上方に進むにつれて、心と心との感応道交の度が高まるのか?他なし統一原理である所のスピリットは、間断なくより大なる調和をもたらし、従ってより大なる統一をもたらす傾向を有っているからである。かくてこれ等種々雑多の個性の所有者達は、次第々々に、相交錯して、経験も心も一体となり、遂には従来夢想だにしなかった知能の水準線に到達する。
 いうまでもなく意識の階段の下方に沈淪しているものは、尚人間的臭味を帯びた思想、習慣等から離脱しない魂の所有者達である。彼等の或者は地上生活中には非常な大学者であったのもある。が、知識は必ずしも賢者を造らない。偉大なるインドのヨガ僧、優れたる中国の大儒、神聖なるキリスト教の長老等にして、尚且つ長年月に亘りて、第三乃至第四の世界に停滞を余儀なくせしめらるるものがある。それ等の人達は所謂下魂の好標本で、従って幾多の弱点がある。彼等は地上に於いて抱懐せる思想の鋳型から脱け出づる力なく、旧態依然として昔の夢に捕えられ、多くの謬念謬想に膠着する。例えばインド僧はインド哲学の宿弊に捕えられて、いたずらに物と心との分離を夢み中国の儒者は中国思想の旧套を追いて、暗中模索式の宇宙観に耿るの類である。
 一見すれば、彼等としては恰もその宿望を達したかの如く見える。が、事実は意識の階段の低部に固着しているに過ぎない。自分ではそれが涅槃であり、解脱であり、大悟徹底であると考えるであろう。豈(あに)図らんやそれはただ自分だけに通用する涅槃であり、解脱であり、大悟徹底である。彼は依然として自我性を有し、依然として地上生活中に造り上げた自己陶酔式の空夢にこびりついている。要するにそれは沈める沼の生活である。そこには退歩もないが又進歩もない。彼は少しも宇宙の物的様式との接触を有っていない。故に彼には単なる陶酔があるのみで、経験が乏しい。永久に自我の牢獄の裡に監禁さるる所以である。
 私は既に述べた、階段の上部に到達した魂は、よく統一原理たるスピリットの裡に合同し、遂には差別世界の彼方に歩み入りて、神秘的実在と融合一致するであろうと。その時に、彼等はもとより形態を棄て、一切の外部表現を行なわぬことになる。が彼等はいたずらに自己陶酔式の観念に耽る代わりに、無形にしてよく有形の宇宙と接触を保ち、我等の想像だも及ばざる智的、又霊的の活動を続ける。この境涯こそ真の涅槃であり、真の天国である。彼等は細大漏らさず物的宇宙の秘奥に通じ、天体の変遷も、地球の歴史も、悉く彼等の叡智の鏡裏に映ず。之を要するに彼等は宇宙の一部にして、同時に又全部なのである。
 意識の各階段を上より照らすスピリットは、結局神の思想の個性的一表現と観ればよい。このスピリットは、時としてその自身の中に縮まることもあるが、又時として神と魂との接触の役目をすることもある。私の所謂『霊の人』の出現はその結果である。開闢以来この種の人物の地上出現は、恐らく総計百人には達しまい。この種の人物の特徴は、肉体の中に包まれながら、よく直接に神からの強烈なるインスピレーションに接し得ることである。『霊の人』にして初めて永遠の真理を語り、又これを行なうことが出来る。この種の人は肉体の放棄後、しばしは冥府(ヘーズ)に止まるであろうが、『夢幻界』などには断じて停滞しない。迅速の各階段を突破して、容易に宇宙の実在の中に融合する。
 (評釈)不自由なる霊媒を通じて受け取った霊界通信の常として、表現法は何やら舌足らずの言葉の如く、痒い所に手が届かぬ憾(うら)みは免れないが、その内容は誠の立派なものと思う。向上の途上に於いて、自我の発揮する諸々の意識を、多くの階段に譬えての説明は大変にうまい。殊に同類の魂達の相互の共通性を説いている点は、幽明交通の実際に触れた人達の、何れも共鳴する点であろう。同一自我(本霊)から分かれた多くの類魂達の感応道交とは、私の所謂霊の中継放送である。我々の背後の守護霊の知識と能力には限度がある。が、これを中継として奥へ奥へと霊的調査の歩を進むる時に、しばしば偉大深遠なる啓示に接することが出来る。我々心霊学徒は、出来るだけその方面の開拓に当たらねばならない。それで初めて神秘の扉が開ける。二十世紀人は、単なる小主観の揣摩憶測的遊戯三昧には、モウうんざりしている。
 マイヤースがインド僧達の空夢を説破している辺も甚だ痛快である。『物と心との分離を夢みる』所にインド思想の始末に行けない迷妄がある。日本人中にもその影響を受けて、生きて現世の穀潰しとなり、死して幽界の厄介者となっているものが中々多い。『単なる陶酔があるのみで経験がない』とは実に至言である。口では偉そうなことを述べても、さて実際の仕事にかけて何も出来ないのでは、どうとも致し方がないではないか!真の心霊主義者は、決してそんな邪道に陥ってはならない。活社会の活事業にどれだけの貢献を為し得るか-それで人間の値打ちは決まる。

自殺ダメ


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 『魂の人』-形像破毀

 夢幻界にありては何れも皆一種のエーテル体を有っているが、肉体に比すればそれは遙かに稀薄精巧である。そしてもしも汝が理智的、道徳的に発達しているなら、汝はいつしか、もっと意識の階段を昇りたいという欲求に駆られる。稀にそっくりそのまま地上に再生して、現世の葛藤を経験するものも絶無とは言わないが、それは寧ろ例外である。地上に向かうのは、単に中心の上昇意識から分裂した断片であり、一念であるにしか過ぎない。
 さて右の上昇意識がやがて帯びるのは、従来よりも更に一段精巧な一種のエーテル体で、そしてその入り行く先は、地球付属の上層エーテル界なのである。エーテルという文字は甚だ拙いが、他にこの地球の稀薄なる放射体に命ずべき適当な言葉がない。何卒エーテルとは物質の祖先、つまりその根源素であると記憶してもらいたい。
 ところで『魂の人』が、主として形態に包まれて生活する間は、まだ他界の所属であると覚悟せねばならない。無論それにも多くの階級、多くの表現形式があり、それぞれのエーテル体は皆その振動数が異なる。そしてそれが精巧であればある程精神的、理智的の透覚が鋭く、従って一切の思索想像の大極、神につきての把握力が加わって来る。
 夢幻界の彼岸にありては、無論汝は物的地球の根源である所の一つの世界に生活する。これを一言にして尽くせば、この物的地球は、精巧なエーテル体に包まれた、優秀な魂の所有者達が生活する、他の一つの美しき世界の模写、甚だ醜く燻(くすぶ)った模写、でしかない。諸君は地上の画家達が試みる傑作の模写が、いかに原作の魂を捕え得ないかを知るであろう。寸法は正しい。色彩も線も立派である。が、その中に溌剌(はつらつ)たる生命が宿っていないので、これに対する時に、妙に気色が悪くなるものである。物的地球はつまりそれである。非常に優れた原作の下手な模写に過ぎない。時とすればそれは妙に歪み、ひねくれ、時とすればただ朦朧たる輪郭を示すに過ぎない。その中に何の生気もない。真生命はその中に少しも現れていない。
 私が今述べた微妙な内面の世界には、某所に種々雑多の形態を具えた存在物があるが、遺憾ながら、地上にその類例がないので、これを言葉に言い現すことが出来ない。但し顕幽の風物間には、そこに多少の類似点がある。例えば花がそれである。但し内面の世界の花は形も、色も、又光も到底地上のそれの比でない。物的波動の中には、とてもそんな色や光は含まれていない。我々としても、単に思想でこれを言い現し得るのみで、とても言葉を以っていかんともする事は出来ない。何となれば人間の言葉は、我々にとりて既に時代後れであり、廃語となっているから・・・・。
 但し上の世界に住む魂にとりても、まだまだ努力精進の必要があり、又地上の悲とは違った悲、地上の歓びとは違った歓びを味わうの必要がある。その悲しみも、歓びも共に霊的精神的のもので、地上人には想像し得ないが、兎に角この二つの練磨によりて彼等はこの世界の上境に導かれるのである。

自殺ダメ


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 霊魂が意識の階段を降りる代わりに、成るべく上方に昇ろうと心掛けるようになると、従来とは打って変わった新しい知覚、新しい能力が授けられる。
 地上生活にありては、平凡人の平凡なる自我は、主として肉体の欲求によりて支配せられ、霊的の閃きは、極めて稀に人間の頭脳の闇を照らす位のものである。それが自我に与える印象たるや甚だ微弱である。ところが第四界となると、ずっと強烈に魂の深部に透徹する。何にしろその知能が地上の人間よりは遙かに鋭くなっているので、感受性も加わり、又精神統一の力量も増している。その間地上生活の記憶などはしばしば放擲(ほうてき)され、専ら新しき世界の生活に没頭する。無論魂がまだ形態を離れぬ間は、宇宙の律動に服するので、従って彼は或る形式の『時』の支配を受ける。即ち『時』と『形』とが一つの象徴(シンボル)となって彼を支配するのである。
 一面から言うと、この色彩界は『形像の破毀』の時代ともいえる。意識のこの階段に於いて、彼は無数の経験の結果、あらゆる物体のいかに夢幻的であるかを知り、次第に形態の統制が上手になって来る。最初は形態によりて左右され勝ちであるが、次第に上魂の活用によりて、任意に自分の姿を破毀し、同時に又一切の周囲の形態から離脱することをも覚えて来る。
 無論器量次第で、各自の経験には雲泥の相違があるのは言うまでもない。優秀な『魂の人』はどしどし向上進歩するが、多くの平凡人は、生みのうねりが高くも又低くもなるように、容易に目立った進歩は出来ない。しかしそれでも幾分ずつは前進する。
 さて優れた『魂の人』が何より先に感ずるのは、自分の置かれた世界が、千万無量の色と、光と、音との不思議な世界であることである。そこには人体とは全然異なった形態が見出される。それは想像だも及ばないような光と色との合成体で、その輪郭は意識の深所に印象された、その人物の過去の行為によりて様々に違う。したがってそこには、世にも珍怪不思議を極めた姿もあれば、又世にも優婉(ゆうえん)美麗を極めた姿もある。醜の極、怪の極、美の極、麗の極、それは到底筆舌に尽くす限りでない。
 この多彩の世界では、どの姿も皆極度の烈しさを以って振動している。これは心がそれ自身を直接形の上に現すからである。従って我々は、他人の思想を聴き取ることが出来る。最初は一時に一人だけだが、暫くすると、極めて分明に一時に多数の思想を聴き取り得る。或る意味に於いては、それは地上と同じく形態の世界であるが、ただこの形態の世界は、その規模が比較にならぬ程巨大であり、そしてこれを受け取る『魂の人』の性質次第で、いかようにも感ずる。慨して全ての物が、地上に比して遙かに流動性を帯び、非実体的である。
 この多彩界を養う光と生命とは、地上のそれ等に比して遙かに純潔であり、その振動数も途方もなく迅い。従ってもしも『魂の人』が、強烈なる敵意を懐いて他を呪えば、光と色とで出来上がった相手の体は、或る程度壊滅もし兼ねない。なのでこの世界では、防衛光線を造る方法が講ぜられるのである。かつて現世生活中互いに憎み合ったりしたものが、もしもこの世界で会合したとすれば、必ず昔の憎念が呼び覚まされるので油断がならない。何となれば愛も憎しみも、共にその関係者を引き寄せる働きがあるからである。こうして各自は、永遠の綴織の中に、間断なくそれぞれ特殊の模様を織り込んで行く。
 こんな次第で、各自はその世界に於いて、再び喜怒哀楽を経験するのであるが、無論地上の喜怒哀楽とは趣を異にする。それは一層精巧であり、又一層精神的であり、その欲求が大きければ大きい程、遂げられぬ時の失望も、又遂げた時の満足も共に比較にならぬ程強大である。
 (評釈)私の所謂幽界生活の中堅ともいうべき境涯の模写である。説いて必ずしも尽くしているとは言い得ないが、心を潜めて玩味すれば、さすがに棄て難い箇所がある。この界の住人を光と色との合成体であると説き、他人の思想を聴き取ることが出来ると説くあたり、さすがに要領を得ていると思わせる。

自殺ダメ


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 以上説いた所は、ほんの超物質的生活の輪郭に過ぎない。詳しく言ったら、それは種々雑多の状態に分かれるのである。一例を挙げれば、ずっと上方に於いては、表現形式が幾通りにも分かれる。即ち一つの霊魂が沢山の姿を有っており、進むにつれて甲から乙へと移って行く。その間の消息は実に隠微を極め、よほどの超科学者でも、容易に真相は掴めない。ただそこには一つの動かすべからざる鉄則が厳守される。他なし汝が同一振動数の形態を有する者のみを感知し得る事である。故にもし異なる振動数の形態所有者と交通を試みようと思えば、自分自身を統一状態に導き、それと波長を合わせるより外に方法がない。そうしさえすれば、上の段とも下の段とも、臨時に交通が可能である。我々として下の方は冥府まで降りる。冥府の霧の中へ入って、そこで地上の人間とも接触するのである。これが為に我々は、しばしば地上人の夢の中に巻き込まれ、上層界に於ける経験の記憶を、一時喪失してしまうのは困ってしまう。よくよく調子の良い時でもなければ、興味ある、又有益な通信は送れない。我々は地上の記憶・・・、しかも往々他人の記憶の繭の中に包まれて、辛うじて平凡な事件を伝え得る位のことになる。それは丁度巣の内部で蜜に浸った蜜蜂が、半昏睡状態に陥ったのにそっくりである。
 兎に角光明世界の居住者の近くはよほど鋭いものなのだが、残念ながら、その観念を地上人に伝える事は非常に困難である。幽界の住人からの発意的通信が少ないのも、主としてそれに原因する。大体地上人は、我々から観れば幽霊みたいなもので、よほどの信念と愛情を以って、真剣に求めてくれなければ、成る程と首肯されるような、はっきりした通信は送り得ない。念の為に断っておくが、地上の人間が確証を求むることは合法的である。これが為に他界の居住者の感情を害したり、苦悩を増させたりするようなことはない。
 一体人間には、自分が一度も経験したことのない、新しい音、新しい色、又新しい感覚等を想像する力はない。従って我々が第四界で経験する無尽蔵の音も、色も、感覚も、人間には到底想像し得ない。地上の人間は半分眠って暮らすのである。人間が覚醒している時ですら、その意識には一分間に約四、五十回位の無意識の隙間が出来る。この点に於いて人間は、海峡の闇夜を照らす灯台にそっくりである。咫尺(しせき)を弁ぜぬ闇が海面を蔽うている。と、時に一閃の火光が大空を横切り、瞬間的に波間を照らす。人間の意識とは要するにそんなものらしく私には見える。肉体を棄て、意識の階段を上昇するに連れ、人間は次第に闇から脱出する。つまり光が一層強まり、且つ持続性を加えて来るのである。第四界に達すればもう随分明るい。無意識の間隙がずっと減少する。何となれば、その使用する機関が遙かに精妙の度を加え、又その智能の働きが遙かに敏活となり、かくて霊と魂、との結合が比較にならぬ程しっくりとなるからである。盲目の狗児(いぬころ)がそろそろ目が見え出すのである。私はもう一度闇夜の海面の譬喩を借りる。海面は殆ど間断なく灯台の光で照らされ、真っ暗闇の場面はもう滅多に見られないのである。光景一新という所である。従ってかの言葉と称する原始的な、粗末な音波を用いて、この比較にならぬ程鋭利俊敏な意識の世界に起こりつつある、千変万化の実相を伝える術もなかろうではないか!我々が経験しつつある活発々地の思念の強さ、激しさ-これに比すれば地上の人間の頭脳の緩慢なる運動、又現世的葛藤に臨みて巻き起こさるる粗雑な情熱などは、全然問題にならないのである。試みにナメクジやカタツムリの智的活動と、人間のそれとを比較してみるがよい。そうすれば大体第四界の精神的活動と、人間界のそれとの相違が判るであろう。
 我々の空間に対する観念は、全然あなた方のそれとは違う。ここで無線電信の譬喩を持ってくれば、幾分かはその概念を獲られるであろう。我々はほんの一瞬精神を統一すればよい。そうすると我々の姿は忽ち出来上がり、そしてその姿は忽ち無限の空間を横切りて、自分と波長の合った友人の所へ現れる。距離の長短などは全然問題でない。そして我々はいとも容易に対話を交える。無論それは言葉でなくただ思想の対話なのである。会見が終わった時、又その姿から思念の生命(分霊)を抽出すれば姿は忽ち消える。無論こうした仕事の出来るのは、同一世界に属する住人間のみに限る。律動の合わないものとは、そう容易く仕事が運ばない。
 私がこの念力の働きにつきての一小例を掲げたのは、我々がいかに一歩宇宙の大生命力に接近したかを示したく思ったからである。我々は次第にいかにして形態の内と外とに生くべきかを習得しつつある。我々は次第に念の流動性に気が付いて来つつある。我々はこの念が、いかに完全に一切の表現の培養素たるエネルギーと、生命力とを支配するかを理解している。
 (評釈)前節で不充分と思われたところが、大分この一節で補充されている。念力のいかに不思議力を有っているかは、地上生活に於いても認知し得ないではないが、しかし念力の本場は、何と言っても死後の世界である。マイヤースのこれに関する説明は、ほぼ至れり尽くせりと言ってよかろう。なかんずく人間の意識をば、暗夜を照らす灯台に譬えたなどは非常に面白い。人間としては忌々しいが、しかしそれは確かに事実であろう。又霊界の居住者間に行われる通信法の説明も、非常に巧妙適切を極める。『死後愛する人達は同棲しますか』などという質問をしばしば受けるが、同棲と否とが他界にありて全然問題でないことは、この一節を味読すればすぐ氷解されるであろう。

自殺ダメ


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 意識の集団

 類魂(グループ・ソール)はこれを単数と見れば単数、複数と見れば複数でもある。全てに共通する、『霊(スピリット)』の力によりて同系の『魂(ソール)』達が一つに集合するのである。これは多分前にも一度述べたと思うが、脳の中に幾つかの中心があると同一筆法で、心霊的生活に於いても又、一個の霊によりて結び付けられたる幾つかの魂があり、そしてそれ等の魂は、栄養素を右の霊から供給せられるのである。
 私が地上生活をしていた時にも、私は勿論或る一つの類魂に属していた。が、自分以外の他の魂と、又全てを養う霊とは、悉く超物質の世界に置かれてあった。もし諸子が心から霊的進化の真相を掴もうとするならば、是非この類魂の原理を研究し、又理解してもらいたい。この類魂説を無視した時に、到底解釈し得ない難問題が沢山ある。なかんずく最大難件の一つは現世生活の不公平、不平等なことで、これは各自の生の出発点に於いて、既に宿命的に決められている。これを合理的に説明すべく、古来かの全部的再生説が唱えられていたのであるが、類魂説は更に一層合理的にこれを説明する。これによれば、現世生活は自分の生活であると同時に、又自分の生活でない。換言すれば、自分の前世とは、結局自分と同一系の魂の一つが、かつて地上で送った生涯を指すもので、それが当然自分の地上生活を基礎付ける事にもなるのである。
 現在私の居住する超物質の世界には、無限に近い程の生活状態があるので、私はただ私が知っているだけしか説明出来ない。私は決して絶対に誤謬をせぬと言わないが、大体これから述べる所を一の定理と考えてもらいたいのである。
 私は先に帰幽者を大別して『霊の人』『魂の人』及び『肉の人』の三つに分けたが、右の中『魂の人』となると、その大部分は再び現世生活を営もうとする所存は有たない。しかしながら彼等を支配する霊は、幾度でも自分自身を地上に出現せしめる。そしてこの霊が、上から同系の類魂達の結束を行なうので、霊的進化の各階段に置かれたる之等の魂達は、相互の間に盛んに反射作用を営むのである。かるが故に、私が霊的祖先と呼ぶのは、決して自分乃肉体的祖先のことでなく、実に同一霊によりて自分と結び付けられたる、魂の祖先の事を指すのである。同一霊の内に含まれる魂の数は二十の場合も、百の場合も、又千の場合もあり、その数は決して一定していない、各人各様である。仏教徒の所謂業(ごう)(羯磨(かつま))-あれはその通りに相違ないが、しかし大概は自分自身の前世の業ではなく、自分よりはずっと以前に地上生活を営み、そして自分の地上生活の模型を残してくれた、類魂の一つが作った業なのである。同じ筆法で、自分自身も又、自分の地上生活によりて、同系の他の魂に対しての模型を残すことになる。かくて我々は、何れも独立的存在であるが、同時に又、種々の界で連繋的に働いている所の、他の類魂の強烈なる影響を免れないのである。
 仏教徒が唱導する再生輪廻説、あれは反面の真理しか述べていない。この反面の真理は、往々全体の誤謬よりも悪影響を及ぼすことがあるから警戒を要する。私自身は決して二度と再び地上に現れることはない。が、自分と同系の他の魂は、私がかつて地上で制作した同一模型、羯磨の中に入ることになる。但し念の為に断っておくが、私の述べる模型は、仏教の所謂羯磨とは全然同一のものではないらしい。大体に於いて個々の魂は一大連邦所属の一王国と観ればよい。
 私がかく述べると、論者或は言わん、『魂の人』にとりて一回の地上生活は充分でないと。が、我々がこちらの世界で進化を遂げる時に、我々は同一系統の魂達の記憶と、経験との中に入り込めるのである。我々は必ずしも自身で幾度も地上生活を繰り返さなくてもよい。
 私はこの類魂説が、一般的通則として規定さるべきであるとは極言しまい。が、私が知れる限り、私が経験せる限りに於いて、それは断じて正確である。
 それは兎に角、このスペキュレエション(諸子は恐らくそう呼ぶであろう)は、これを天才の場合に適用した時に甚だ興味が深い。我々よりも以前に地上に出現した魂達は、精神的にも又道徳的にも、自然我々に何等かの印象を与えるに相違ない。従ってある特殊の類魂の内部で、或る特殊の能力が連続的に開拓されたとしたら、最後にはきっとその特殊の能力が、地上の代表者の上に顕著に現れる。即ち幾つかの前世中に蓄積されたる一切の傾向が、驚嘆すべき無意識的知識となりて、一人の地上の代表者の所得となる。かの非凡な音楽家、その他の天才児の出現を最も合理的に説明するものは、この類魂説以外に絶無ではないかと思う。
 我々は死後の世界に於いて、次第に進歩を遂げれば遂げる程、一層この類魂の存在を自覚して来る。そして窮極に於いて、我々はその類魂の中に入ってしまい、仲間の経験を自己に吸収するのである。かるが故に、私の魂としての生活は当然二重である。即ち、一つは形の世界に於ける生活、他の一つは主観の世界に於ける生活である。
 地上の人達は、私の提唱するこの類魂説を、直ぐには受け容れようとせぬかも知れぬ。彼等は恐らく死後の世界に於ける不壊の独自性に憧れるか、又は神の大生命の中に、一種の精神的気絶を遂げるのを理想とするか、大抵そうした傾向に出るであろう。ところが私の類魂説は、その中にこれ等一切の要素を含んでいる。我々は個性の所有者であると同時に、又全体の一員でもある。一部分であると同時に又全部分でもある。第四の世界(色彩界)から第五の世界(光焔界)に進むに従って、一つの存在の内面に於けるこの協調生活のいかに美しく、又いかに楽しきかがしみじみと判って来る。これによりて生命の深みと強さとは一段と加わり、これによりて地上生活に免れざる利己的精神-自己の物質的生命を維持する為には、間断なく他の物質的表現を破毀して行かねばならぬ、かの残忍酷薄性-からの解説が初めて実現する。
 前にも一言した通り、第四の世界に到達した時に、各自は初めて類魂の真相が判りかけ、その結果ここに一大変化を遂げることになる。彼は一歩一歩に経験の性質、精神の威力を探り始める。その際もしも彼が『魂の人(ソールマン)』であったとすれば、時としてとんでもない誤謬に陥り易い。これは非常に大切な問題であるから、詳しく説明を加えておく。彼が類魂達の智的並に情的の経験に通暁して来るのは結構であるが、時として類魂中の或る一部分に作りつけの雛型に逢着することがある。うっかりすると、彼はその雛形の中に嵌り込んでしまい、幾千萬年に至りて、一歩もその中から踏み出せない。右の『雛型』というのは、つまり地上生活中に築かれた宗教的信条と言ったような種類のもので、全ては迷信的空想が生み出した、単なる夢であり、幻であるから、勿論そこには何の進歩も発達もあり得ない。謂わば章魚(たこ)の触手に吸い付かれた形で、二進も三進も行かないのである。
 かかる境涯が進歩の大敵であることは、ここに断るまでもないであろう。モウ一つ別な譬喩(たとえ)を引こうなら、それは一種の智的牢獄で、そこでは過去の地上の考が、金科玉條として墨守(ぼくしゅ)されているのである。向上の途に於ける魂達が、客観的にその境涯を考察するのは差し支えない。しかし断じてその中に引き留められたり、又拘束されたりしてはならない。
 (評釈)マイヤースの通信中、この類魂の説明は特に重要無比の一節であるから、読者の精読を希望する。マイヤースも述べている通り、地上の人間生活にありて、何人も逢着する最大の疑問は、一見因果律を打破するような人間生活の不公平、不平等なことである。これを合理的に説明し得ざる哲学は、哲学としての価値がなく、これをきれいに解釈し得ざる宗教は、宗教としての役目を果たさない。なのでインド式の全部的再生説が提唱されたのでもあろうが、これには理論的にも、又実験的にも見逃し難き欠陥がある。同一の魂が再び胎児として母胎に宿り、下らない未成年期の二度の勤めを行なうということは、進化の法則違反であり、これを大自然の一般的法則と考える訳には行かない。又我々が霊媒を機関として他界を調査する時に、再生の為に籍を失ってしまったという実例にぶつからない。全部的再生説が総体の真理を掴んでいない証拠である。
 なので全部再生説の反対論者は、今尚依然として『子供を創造するのは人間の父母だけの仕事である』と主張するのであるが、この父母万能説が、理論的に到底容認し難き欠陥を有していることは前述の通りで、その結果今日のような忘恩的、怨嗟的、自暴自棄的の危険思想の発生を促したのである。『誰も頼みもしないのに、こんな貧乏な家庭に自分を勝手に生みつけやがって・・・・』そう言った不平不満が現代の青年子女の精神的堕落の最大原因を為していることは確かで、そしてこれに対して、父母万能説は当然責任を負わねばならないのである。同時にこの説は、心霊実験の上からも確実に否定し得るのである。新時代の指導原理を以って任ずるものは、いまさら何の暇ありて、そんな非論理的、非科学的、又非道徳的な主張に未練を残していられよう。
 不敏ながら私も心霊学徒の席末を汚すものである。従って私の最大関心事の一つは、いかに幽明交通の活用により、這間の真相を明らかにするかにあり、年来実験を重ねた結果、最後に思い切って提唱することになったのが、取りも直さず私の所謂『創造的再生説』である。それは事実全部的再生説に訂正を加えたものであるから、『再生』という文字を踏襲したのであるが、実を言うと必ずしもこの文字を使わなくともよい。寧ろ『創造的地上降臨説』とでも命名した方が正当であるかも知れない。私の調査した所によると、超現象の世界には、各自の自我の本体-所謂本霊がある。そしてその本霊から分かれた霊魂-所謂分霊は沢山あり、それぞれ違った時代に地上生活を営んでいる。これ等の分霊中、普通地上の人間を直接守護しているのは、その人間と時代も近く、又関係も最も深い或る一個の霊魂で、それが私の所謂守護霊である。即ち守護霊というのは、多くの分霊中の最も親密な一代表者を指したので、無論同一系統に属する他の霊魂とても、悉く連動的関係にあることは言うまでもない・・・・。
 以上が私の『創造的再生説』の梗概(こうがい)であるが、今マイヤースの『類魂説』を読んでみると、表現の方法に多少の相違があるのみで、その内容は殆ど一から十まで同一であると謂ってよい。ここに一個の中心の霊があり、それから幾つかの魂が分かれて、それぞれ違った時代に地上生活を営んでいる。霊的進化の各階段に置かれたるこれ等の魂達の間には反射作用が行われ、謂わば連帯責任を有っているのである。なかんずくそれ等の類魂の中で、自分と最も関係の深い魂-霊的祖先がある。『自分の前世とは結局自分と同系の魂の一つが、かつて地上で送った生涯を指すもので、それが当然自分の地上生活を基礎付ける事になる・・・』マイヤースはそう説いている。
 マイヤースは『守護霊』という文字を特に使用していないが、私の所謂守護霊説の内容は、マイヤースも立派にこれを認めている。自分の地上生活の模型を残し、自分の作った前世の業を伝えている類魂の一つ-これが私の守護霊以外の何者であり得よう。
 私は無論マイヤースと同じく、この『創造的再生説』に固執するものではない。理論的又実験的にこれを打破し得るものがあったら、いつでも歓んでこれを撤回するに躊躇するものでない。殊にその名称などは、よりよきものが見つかり次第、いつでもそれに改めてよいと思っている。しかしながら、今日こうしてマイヤースの類魂説を紹介するにつけても、この説が恐らく今後人間界の定説となるのではないかと考えられる。

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