自殺ダメ
(自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)
地上生活にありて、意識とは朝な朝な眼を覚ますと共に点もされる一つの燈火である。健康がすぐれぬ時にその光力は弱いが、年齢が若くて元気に富めば、その光は煌々と燃え上がり、眼に入る一切の物体に輝きを与えて、歓喜幸福の源泉たらしめる。
この毎日の意識は年齢と経験とによりて、色々に変化する。年々歳々意識は決して同一でないが、その微妙なる推移に気の付くものは、或は滅多に居らぬかも知れぬ。ところで、この人間の意識の本体、つまり物質の世界を見、聞き、又触れることを得せしむるものは一体何者か?他なし、それは『自我』なのである。この不思議な存在は、機会を見て別に説くが、要するに各種々々の諸要素の合計である。死んで肉体を棄てた時も、又死後幾つかの階段を経た暁に於いても、(無論その間に重要な変化を遂げるのは事実であるが)依然として支配権を握るのは自我である。彼岸に於ける自我は、肉体と称する一の王国をして、統一と均衡とを獲せしめた、一切の物的要素、肉、血、脳、細胞、複雑なる神経網等-を脱ぎ棄てた、一個の身軽な旅人である。そして、肉体の代わりとして、遙かに精巧な一つの形態を有っている。この形態にも又一種独特の立派な交通機能が備わっており、彼はこれを用いて、盛んに自家の精神的栄養物を摂取することが出来る。既に述べた通り、彼岸の居住者の有する機関は非常に稀薄であり、又微妙であるから、無論肉眼には見るよしもなく、地上の科学者達の提供する、どんな精巧な機械にもかからない。
ところで、この新形態にはどの部分が痛いとか、痒いとかいうようなことは絶対にない。精神の働が非常に加わりて、統制力を増した結果、精神的の苦痛は経験しても形態が精神を悩まし、形態が支配者の位地に立つというようなことは到底ないのである。これを観ても死の彼岸に於いて、いかに彼が重要なる進歩を遂げたかが明瞭であると思う。が、他方を観れば、彼の前途はまだまだ遼遠である。完成の目的地点に達するまでには、彼は無数の境涯を通過し、無数の生活を経験せねばならないのである。
ごく大雑把に言えば、彼がその長い生命の道程中に発揮すべき意識は二種類に分かれる。外でもない、甲はスピリット又は上魂、乙は自我性又は下魂である。そしてその何れにもそれぞれ異なれる表現形式があるのである。
或は又見方によりては、全てを意識の階段と考えても良いかと思う。即ち階段の一つ一つこそ、出発点から終点迄に至るまでに、彼が通過せねばならぬ、各種の生活の代表なのである。但しそこに果たして終点があるか、ないかは私には言い得ない。私が最終というのは、単に私の視界の局限を指すに過ぎないと承知してもらいたい。そして私の所謂下魂と称するのは、各階段にありての実際的、又は顕在的自我意識であり又スピリット又は上魂と称するものは、結局上方から射す光と思えばよい。この光は何れの階段をも照らし、一切のその中に包容する。かるが故に魂とは単に一部分であり、経験の収集者であり、あらゆる生命の背後に控える『神秘』の小なる代表者でしかない。
自我がこの意識の階段を上昇すればする程、ますます他の同類の魂達と接近する。一つのスピリット(上魂)によりて養われる類魂の数は、或時は千、或時は百、又或時は二十位しかないかも知れぬ。何れにしても、他の同類の魂につきての自覚は階段の上方に進めば進む程増大する。時とすれば、彼等は他の魂達の記憶の中に潜り入り、それ等の経験を洞察し、全てを自家薬籠中のものとなすことも出来る。然らば何故に上方に進むにつれて、心と心との感応道交の度が高まるのか?他なし統一原理である所のスピリットは、間断なくより大なる調和をもたらし、従ってより大なる統一をもたらす傾向を有っているからである。かくてこれ等種々雑多の個性の所有者達は、次第々々に、相交錯して、経験も心も一体となり、遂には従来夢想だにしなかった知能の水準線に到達する。
いうまでもなく意識の階段の下方に沈淪しているものは、尚人間的臭味を帯びた思想、習慣等から離脱しない魂の所有者達である。彼等の或者は地上生活中には非常な大学者であったのもある。が、知識は必ずしも賢者を造らない。偉大なるインドのヨガ僧、優れたる中国の大儒、神聖なるキリスト教の長老等にして、尚且つ長年月に亘りて、第三乃至第四の世界に停滞を余儀なくせしめらるるものがある。それ等の人達は所謂下魂の好標本で、従って幾多の弱点がある。彼等は地上に於いて抱懐せる思想の鋳型から脱け出づる力なく、旧態依然として昔の夢に捕えられ、多くの謬念謬想に膠着する。例えばインド僧はインド哲学の宿弊に捕えられて、いたずらに物と心との分離を夢み中国の儒者は中国思想の旧套を追いて、暗中模索式の宇宙観に耿るの類である。
一見すれば、彼等としては恰もその宿望を達したかの如く見える。が、事実は意識の階段の低部に固着しているに過ぎない。自分ではそれが涅槃であり、解脱であり、大悟徹底であると考えるであろう。豈(あに)図らんやそれはただ自分だけに通用する涅槃であり、解脱であり、大悟徹底である。彼は依然として自我性を有し、依然として地上生活中に造り上げた自己陶酔式の空夢にこびりついている。要するにそれは沈める沼の生活である。そこには退歩もないが又進歩もない。彼は少しも宇宙の物的様式との接触を有っていない。故に彼には単なる陶酔があるのみで、経験が乏しい。永久に自我の牢獄の裡に監禁さるる所以である。
私は既に述べた、階段の上部に到達した魂は、よく統一原理たるスピリットの裡に合同し、遂には差別世界の彼方に歩み入りて、神秘的実在と融合一致するであろうと。その時に、彼等はもとより形態を棄て、一切の外部表現を行なわぬことになる。が彼等はいたずらに自己陶酔式の観念に耽る代わりに、無形にしてよく有形の宇宙と接触を保ち、我等の想像だも及ばざる智的、又霊的の活動を続ける。この境涯こそ真の涅槃であり、真の天国である。彼等は細大漏らさず物的宇宙の秘奥に通じ、天体の変遷も、地球の歴史も、悉く彼等の叡智の鏡裏に映ず。之を要するに彼等は宇宙の一部にして、同時に又全部なのである。
意識の各階段を上より照らすスピリットは、結局神の思想の個性的一表現と観ればよい。このスピリットは、時としてその自身の中に縮まることもあるが、又時として神と魂との接触の役目をすることもある。私の所謂『霊の人』の出現はその結果である。開闢以来この種の人物の地上出現は、恐らく総計百人には達しまい。この種の人物の特徴は、肉体の中に包まれながら、よく直接に神からの強烈なるインスピレーションに接し得ることである。『霊の人』にして初めて永遠の真理を語り、又これを行なうことが出来る。この種の人は肉体の放棄後、しばしは冥府(ヘーズ)に止まるであろうが、『夢幻界』などには断じて停滞しない。迅速の各階段を突破して、容易に宇宙の実在の中に融合する。
(評釈)不自由なる霊媒を通じて受け取った霊界通信の常として、表現法は何やら舌足らずの言葉の如く、痒い所に手が届かぬ憾(うら)みは免れないが、その内容は誠の立派なものと思う。向上の途上に於いて、自我の発揮する諸々の意識を、多くの階段に譬えての説明は大変にうまい。殊に同類の魂達の相互の共通性を説いている点は、幽明交通の実際に触れた人達の、何れも共鳴する点であろう。同一自我(本霊)から分かれた多くの類魂達の感応道交とは、私の所謂霊の中継放送である。我々の背後の守護霊の知識と能力には限度がある。が、これを中継として奥へ奥へと霊的調査の歩を進むる時に、しばしば偉大深遠なる啓示に接することが出来る。我々心霊学徒は、出来るだけその方面の開拓に当たらねばならない。それで初めて神秘の扉が開ける。二十世紀人は、単なる小主観の揣摩憶測的遊戯三昧には、モウうんざりしている。
マイヤースがインド僧達の空夢を説破している辺も甚だ痛快である。『物と心との分離を夢みる』所にインド思想の始末に行けない迷妄がある。日本人中にもその影響を受けて、生きて現世の穀潰しとなり、死して幽界の厄介者となっているものが中々多い。『単なる陶酔があるのみで経験がない』とは実に至言である。口では偉そうなことを述べても、さて実際の仕事にかけて何も出来ないのでは、どうとも致し方がないではないか!真の心霊主義者は、決してそんな邪道に陥ってはならない。活社会の活事業にどれだけの貢献を為し得るか-それで人間の値打ちは決まる。
(自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)
地上生活にありて、意識とは朝な朝な眼を覚ますと共に点もされる一つの燈火である。健康がすぐれぬ時にその光力は弱いが、年齢が若くて元気に富めば、その光は煌々と燃え上がり、眼に入る一切の物体に輝きを与えて、歓喜幸福の源泉たらしめる。
この毎日の意識は年齢と経験とによりて、色々に変化する。年々歳々意識は決して同一でないが、その微妙なる推移に気の付くものは、或は滅多に居らぬかも知れぬ。ところで、この人間の意識の本体、つまり物質の世界を見、聞き、又触れることを得せしむるものは一体何者か?他なし、それは『自我』なのである。この不思議な存在は、機会を見て別に説くが、要するに各種々々の諸要素の合計である。死んで肉体を棄てた時も、又死後幾つかの階段を経た暁に於いても、(無論その間に重要な変化を遂げるのは事実であるが)依然として支配権を握るのは自我である。彼岸に於ける自我は、肉体と称する一の王国をして、統一と均衡とを獲せしめた、一切の物的要素、肉、血、脳、細胞、複雑なる神経網等-を脱ぎ棄てた、一個の身軽な旅人である。そして、肉体の代わりとして、遙かに精巧な一つの形態を有っている。この形態にも又一種独特の立派な交通機能が備わっており、彼はこれを用いて、盛んに自家の精神的栄養物を摂取することが出来る。既に述べた通り、彼岸の居住者の有する機関は非常に稀薄であり、又微妙であるから、無論肉眼には見るよしもなく、地上の科学者達の提供する、どんな精巧な機械にもかからない。
ところで、この新形態にはどの部分が痛いとか、痒いとかいうようなことは絶対にない。精神の働が非常に加わりて、統制力を増した結果、精神的の苦痛は経験しても形態が精神を悩まし、形態が支配者の位地に立つというようなことは到底ないのである。これを観ても死の彼岸に於いて、いかに彼が重要なる進歩を遂げたかが明瞭であると思う。が、他方を観れば、彼の前途はまだまだ遼遠である。完成の目的地点に達するまでには、彼は無数の境涯を通過し、無数の生活を経験せねばならないのである。
ごく大雑把に言えば、彼がその長い生命の道程中に発揮すべき意識は二種類に分かれる。外でもない、甲はスピリット又は上魂、乙は自我性又は下魂である。そしてその何れにもそれぞれ異なれる表現形式があるのである。
或は又見方によりては、全てを意識の階段と考えても良いかと思う。即ち階段の一つ一つこそ、出発点から終点迄に至るまでに、彼が通過せねばならぬ、各種の生活の代表なのである。但しそこに果たして終点があるか、ないかは私には言い得ない。私が最終というのは、単に私の視界の局限を指すに過ぎないと承知してもらいたい。そして私の所謂下魂と称するのは、各階段にありての実際的、又は顕在的自我意識であり又スピリット又は上魂と称するものは、結局上方から射す光と思えばよい。この光は何れの階段をも照らし、一切のその中に包容する。かるが故に魂とは単に一部分であり、経験の収集者であり、あらゆる生命の背後に控える『神秘』の小なる代表者でしかない。
自我がこの意識の階段を上昇すればする程、ますます他の同類の魂達と接近する。一つのスピリット(上魂)によりて養われる類魂の数は、或時は千、或時は百、又或時は二十位しかないかも知れぬ。何れにしても、他の同類の魂につきての自覚は階段の上方に進めば進む程増大する。時とすれば、彼等は他の魂達の記憶の中に潜り入り、それ等の経験を洞察し、全てを自家薬籠中のものとなすことも出来る。然らば何故に上方に進むにつれて、心と心との感応道交の度が高まるのか?他なし統一原理である所のスピリットは、間断なくより大なる調和をもたらし、従ってより大なる統一をもたらす傾向を有っているからである。かくてこれ等種々雑多の個性の所有者達は、次第々々に、相交錯して、経験も心も一体となり、遂には従来夢想だにしなかった知能の水準線に到達する。
いうまでもなく意識の階段の下方に沈淪しているものは、尚人間的臭味を帯びた思想、習慣等から離脱しない魂の所有者達である。彼等の或者は地上生活中には非常な大学者であったのもある。が、知識は必ずしも賢者を造らない。偉大なるインドのヨガ僧、優れたる中国の大儒、神聖なるキリスト教の長老等にして、尚且つ長年月に亘りて、第三乃至第四の世界に停滞を余儀なくせしめらるるものがある。それ等の人達は所謂下魂の好標本で、従って幾多の弱点がある。彼等は地上に於いて抱懐せる思想の鋳型から脱け出づる力なく、旧態依然として昔の夢に捕えられ、多くの謬念謬想に膠着する。例えばインド僧はインド哲学の宿弊に捕えられて、いたずらに物と心との分離を夢み中国の儒者は中国思想の旧套を追いて、暗中模索式の宇宙観に耿るの類である。
一見すれば、彼等としては恰もその宿望を達したかの如く見える。が、事実は意識の階段の低部に固着しているに過ぎない。自分ではそれが涅槃であり、解脱であり、大悟徹底であると考えるであろう。豈(あに)図らんやそれはただ自分だけに通用する涅槃であり、解脱であり、大悟徹底である。彼は依然として自我性を有し、依然として地上生活中に造り上げた自己陶酔式の空夢にこびりついている。要するにそれは沈める沼の生活である。そこには退歩もないが又進歩もない。彼は少しも宇宙の物的様式との接触を有っていない。故に彼には単なる陶酔があるのみで、経験が乏しい。永久に自我の牢獄の裡に監禁さるる所以である。
私は既に述べた、階段の上部に到達した魂は、よく統一原理たるスピリットの裡に合同し、遂には差別世界の彼方に歩み入りて、神秘的実在と融合一致するであろうと。その時に、彼等はもとより形態を棄て、一切の外部表現を行なわぬことになる。が彼等はいたずらに自己陶酔式の観念に耽る代わりに、無形にしてよく有形の宇宙と接触を保ち、我等の想像だも及ばざる智的、又霊的の活動を続ける。この境涯こそ真の涅槃であり、真の天国である。彼等は細大漏らさず物的宇宙の秘奥に通じ、天体の変遷も、地球の歴史も、悉く彼等の叡智の鏡裏に映ず。之を要するに彼等は宇宙の一部にして、同時に又全部なのである。
意識の各階段を上より照らすスピリットは、結局神の思想の個性的一表現と観ればよい。このスピリットは、時としてその自身の中に縮まることもあるが、又時として神と魂との接触の役目をすることもある。私の所謂『霊の人』の出現はその結果である。開闢以来この種の人物の地上出現は、恐らく総計百人には達しまい。この種の人物の特徴は、肉体の中に包まれながら、よく直接に神からの強烈なるインスピレーションに接し得ることである。『霊の人』にして初めて永遠の真理を語り、又これを行なうことが出来る。この種の人は肉体の放棄後、しばしは冥府(ヘーズ)に止まるであろうが、『夢幻界』などには断じて停滞しない。迅速の各階段を突破して、容易に宇宙の実在の中に融合する。
(評釈)不自由なる霊媒を通じて受け取った霊界通信の常として、表現法は何やら舌足らずの言葉の如く、痒い所に手が届かぬ憾(うら)みは免れないが、その内容は誠の立派なものと思う。向上の途上に於いて、自我の発揮する諸々の意識を、多くの階段に譬えての説明は大変にうまい。殊に同類の魂達の相互の共通性を説いている点は、幽明交通の実際に触れた人達の、何れも共鳴する点であろう。同一自我(本霊)から分かれた多くの類魂達の感応道交とは、私の所謂霊の中継放送である。我々の背後の守護霊の知識と能力には限度がある。が、これを中継として奥へ奥へと霊的調査の歩を進むる時に、しばしば偉大深遠なる啓示に接することが出来る。我々心霊学徒は、出来るだけその方面の開拓に当たらねばならない。それで初めて神秘の扉が開ける。二十世紀人は、単なる小主観の揣摩憶測的遊戯三昧には、モウうんざりしている。
マイヤースがインド僧達の空夢を説破している辺も甚だ痛快である。『物と心との分離を夢みる』所にインド思想の始末に行けない迷妄がある。日本人中にもその影響を受けて、生きて現世の穀潰しとなり、死して幽界の厄介者となっているものが中々多い。『単なる陶酔があるのみで経験がない』とは実に至言である。口では偉そうなことを述べても、さて実際の仕事にかけて何も出来ないのでは、どうとも致し方がないではないか!真の心霊主義者は、決してそんな邪道に陥ってはならない。活社会の活事業にどれだけの貢献を為し得るか-それで人間の値打ちは決まる。