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カテゴリ: ★『永遠の大道』

自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 右の冥府滞在中に、各自の魂はその不純性の幽的形態から離脱し、今度は夢幻界特有のエーテル体に宿ることになる。前にも述べた通り、ここは反映の反映、夢の地上生活を再び夢見る境涯であるから、ここに留まる限り、各自に平和と満足とを満喫し得る。が、この種の平和には早晩倦きが来る。何となれば楽しき夢の国には、何等の進歩も、又何等の変化も見出されないからである。試みに思え、見るもの、聞くもの悉く地上そっくりの境地である。成る程そこには金銭上の心配もなければ、又その日その日のパンを獲る為の苦労も要らない。そしてそのエーテル体は、太陽の光とも又違った一種の独特の和かい光で温められる。お負けにそこには元気も生命も充実し又何の苦痛も格闘もない。例えてみれば、それは丁度沼の中の生活である。あまり静寂で、そしてあまりに窮屈で、終いには誰でもウンザリして来る。誰でも奮闘、努力、強い刺激、広い眼界が望ましくなって来る。この自覚が起こった時こそ、彼の前進の合図である。昇るか、降りるか、兎に角いずれにか動き出すのである。
 (評釈)前に述べた記憶の図の再説に過ぎないから、別に取り立てて言うべきこともない。しかしこの生活を沼の中の生活に譬えたのは、頗る面白い観方であると思う。

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 肉の人とは結局原始人型の人間のことである。その種の人間は勿論、死後に於いてもその器量相当の境地を選ぼうとする。彼は濃厚鈍重な肉体に包まれた地上生活が恋しくて堪らない。従って彼の行先は、通例元の地球上であるが、稀に他の天体に向かうものもあるとの事である。数ある天体の中には地上よりも一層濃厚な物質の世界もあるらしい。
 無論それ等の天体の或物には人類が住んでいる。しかし彼等の物質的肉体は、地上の『時』とは違った『時』に支配され、別のリズムの中に生きているから、身体各部の振動数が地上のそれよりも迅速であったり、又は緩慢であったりするので、必ずしも地球の人類の感覚には映じないであろう。私は彼等を指して人類と呼んだが、それは彼等の生活状態、又彼等の体的構造が大体地上の人間と同様に出来ているからである。
 (評釈)他の天体の生物を説いている霊界通信は、他にも少なくない。ステッドの通信中にもそれが見出される。我々はこれに対して、暫く傍観の態度を執るより外に致し方がない。これは肯定すべき充分の資料が、まだ揃っていないと同時に、又これを否定すべき何等の学術的根拠もない。ただ現在として、この種の問題を認識するのが、時期尚早であることは確かである。理論的にも又実験的にも、一分一厘隙間のない死後の世界の存在につきてさえ、まだ心の眼を開こうとしない連中が、多数を頼んでしきりに愚論を逞しうする現在ではないか。他の天体にまではまだちょっと手が延ばされていない。

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 私は夢の国、記憶の国には進歩がないと述べたが、それには一面からいえば多少の語弊がある。実はただ進歩がないように見えるというまでの話である。冥府を過ぎてあの境涯に入った魂は、暫くの間至極平静な状態に置かれ、何等の煩悶も焦燥もないのであるが、やがて時が来ると、暫く潜んでいた欲望が、又もや暴れ出して折角の楽しい夢を破ってしまう。一時は肉の人にとりて、夢の国程結構な境涯はないように見える。何となれば一切の欲望が、何等の苦労も、何等の努力もなしに、易々と遂げられるからである。しかしその結果、飽満の感じの起こるのも又割合に早い。飽満の次に来るものは決まり切って倦怠であり、新しい生活がしきりに望ましくなり、こんな途中の休憩所が、たまらなく退屈に感じられて来る。要するに現世的空夢にも結局限度があることが判って来て、ここに進歩が遂げられる次第なのである。
 多くの『肉の人』は、まだまだここですっかり解脱するまでには至らないであろう。夢の国で味わった快楽を、モウ一度地上の肉体に宿って、しんみり味わい直してみたいと考えるであろう。その結果彼は再び下界に降りる。が、それは上昇せんが為の下降である。夢の国に於ける十二分の経験の結果、彼の自我性の中の、より高尚な部分が呼び覚まされている。従ってその分霊が地上に再生するに際し、今度は『肉の人』ではなくて、『魂の人』になっているかも知れない。少なくともその動物性は、いつの間にやら飽くほど減らされており、従って生まれ変わった彼は、前世よりもずっと高尚な地上生活を営むことになるという次第である。こんな次第で『常夏の国』というのは、つまり地上生活の夢の世界、回顧の世界であり、決して冥府でも、地獄でも、又極楽でもないのである。徹底的に地上生活のおさらいをするから、日頃胸底に仕舞い込んであった一切の思想、感情、欲望等が充分に整理され、又満足され、ここに一歩向上の途へと進み得る段取りとなるのである。
 (評釈)人為的の戒律は兎角『べからず』主義で固めてあるが、大自然の戒律は甚だ大規模に出来ているらしい。『やたらに抑えたところでとてもダメである。欲望などというものは、これを満喫させれば自然に収まるものだ・・・・』大体そう言った筆法であるらしい。そこへ行くと、人間界でも苦労人と言われる人達程、這間の呼吸を呑み込んでいる。そしてよく『若い内には道楽もちょっとは仕方がないさ。しかし深みに落っこっちゃいけないぜ・・・』などと忠告する。マイヤースの描いている『夢の国』の生活も、そう考えた時に、大いに意味がある。私自身の心霊実験から推定しても、死後の世界は、決して在来の宗教者流が描いているような、あんな一本調子の窮屈極まるものではないらしい。

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 諸子の環境は、見方によっては諸子自身の創造にかかると言ってもよい。何となればそれは諸子の神経、諸子の感覚が捕え得るだけの狭い、縛られたる環境だからである。諸子は決して精神的に充分まだ解放されてはいないのである。
 もしも諸子にして自我意識を奥へ奥へと誘導し、五感とは全く絶縁した、形態抜きの純理の世界に入るべく自身を訓練することに成功したとすれば、物質の世界などは勿論、全部消えて見えなくなる筈である。しかしそれは現在の諸子には到底出来ない。それは今後無尽蔵の経験を積んだ暁に於いて、初めて期待さるることである。
 兎に角諸子は、その死後に於いて高級の世界に進めば進む程、その智能は次第に増進し、物の形などは自分の意のまにまに、ドウにでも左右し得るようになる。換言すれば形の中に生命を宿す術が上手になるのである。調度彫刻師が粘土をひねりて、ある形像を造るが如く、諸子の心はよく形の中に生命と光とを集め、かくて自己の意念の欲するまにまに、自己の環境を造り上げて行くのである。勿論最初の諸子の意念は、地上の経験と記憶とに限られているから、折角造り上げたものも、結局地上に見出されるものの複写に過ぎない。それを離脱するには諸子の精神の発達向上に待たねばならない。
 一言ここで注意しておきたい事は、この夢幻界の程度での諸子には、まだ意識的に自己の環境を造る能力が備わっていないことである。諸子の内的意念が類魂の中に伝わり、その援助で諸子の気付かぬ間に、自分の置かれる環境が、いつしか出来上がっていると言った次第なのである。諸子はまだまだ個人的束縛から脱し得ない。地臭を帯びた、不自由な魂であり、従ってその働きが頗る鈍いのである。
 (評釈)各自の魂の向上発達する順序をば、正面に諄々と教えているところが甚だ嬉しい。現代人は最早かの旧式な既成宗教の愛用する無上道、又は気休め式暗示にはかからない。こんな風に説かれて初めて成る程と肯かれる。と同時にこの一節は、数ある霊界通信を紐解く者にとりても良い指針である。これを以って臨めば、霊界の通信者の発達程度がほぼ見当がつく。殊に末尾の夢幻界につきての注意などは、良い参考資料だと思う。私の入手した霊界通信にも同一時を伝えている。

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 肉体に包まれて現世の旅を続ける男女は、言わば大地と大空との中間に懸けられた階段を昇りつつあるようなものである。彼等は二つの神秘-『生』と『死』との中間に彷徨っている。下方を覗くのも気味悪いが、上方を仰ぐのも又眼が眩む。で、通例は自己の踏みつつある足場にのみ注意を払って、踏み外さぬ用心に一生懸命である。従って彼等の中の最も優れたものでさえ、その眼界は通例極めて狭く、五、七十年の人生の行路の前と後とに広がれる地域につきては、殆ど何等考慮を費やすの余裕を持っていない。
 死の関門を通過した無数の霊魂達とても又同様である。無論彼等にとりて人生の意義は遙かに高まり、且つ大規模にもなっている。が、旧態依然、彼等も尚神秘と神秘との中間に懸かっている。従って霊界の通信の多くは、単にその人の置かれたる身辺の実況の描写たるに留まり、深く人生を指導すべき、深みも鋭さも具えていないのを通例とする。
 試みに私が一弁護士の傭書記の地位に自身を置いて、死後の世界の描写を試みたと仮定する。法律書記であるから、法律事務以外の事は殆ど何事も知らない。従ってよし彼が他界に目が覚めたところで、その報告する所は、結局現在の俗務の続き、もしくはその複写以外であることは出来ない。何となれば彼の心の眼には、それだけの感受性しか具えていないからである。無論長年月を閲する暁には、この人物にも霊的意識が開けて来るが、私の知れる限り、この種の人物は通例地上に向かって通信を送ろうとはせぬものである。彼は自分自身の心の貧しさをよく自覚している。彼には到底霊媒から借りた地上の用語を以って、死後の世界の驚嘆すべき状況を描写すべき力量がない。従ってこの種の人物は永久に沈黙を守り、死の黒幕に彼方からのくしびな響き-神の無限の想像の中に秘められたる内面の世界の音信-をば少しも漏らさぬことになるのである。
 右の如き人物は、実に他の無数の平凡人の代表者である。彼は自己の特殊の業務の遂行には、少しも差し支えなき俗人の典型で、人生の窮極の目的が何であるかは、只の一度も考えてみる余暇もなければ又能力もない。目隠しされて目的地点に走る駄馬と同様に、彼の一生は揺り籠から墓場へと、ただ一筋に走ったまでである。その生涯は単調そのもので、何等目星き出来事もなく、月並極まる喜怒哀楽の繰り返しに過ぎない。が、研究題目として、こう言った人物の他界に於ける生活こそ大切であると思う。何となればこの種の人物が、人類の大部分を占めるからである。
 所で、ここに疑問が起こる。この種の人物は死後一転瞬にして、偉大高邁なる大預言者になるか?それとも人間の所謂進化の法則に従いて、一歩々々向上の途を辿るか?
 もしも彼氏が死によりて一躍大預言者、又は大天才に早替わりしたとすれば、それは全然別人格であって、元の彼氏ではない訳であるから、死後の生存ということは成立せぬことになる。やはり彼氏は彼氏として、牛の歩みのノロノロした進化の道程を踏み行くのが当然であり、又事実でもある。死後の世界につきての彼氏の見解は元のまま狭く、又その好きも嫌いも元の通りの特色を帯びている。これを一言にして尽くせば、彼氏は死んでもやはり生前の彼氏なのである。この種の人物に向かって、高尚にして霊的な生活を望むのは、そもそも無理な注文である。彼氏は精神的にはまだおしめに包まれた幼児である。従って死後の世界でこの種の人物を取り扱うのは、丁度現世で赤ん坊を取り扱うのに酷似している。成るべく強い風にも当てないで、大事に看護介抱を加えてやると言った按配なのである。
 死後彼等はまず過去の記憶の快き夢に浸るのを常とする。それが究極の目的でも何でもない。そうした期間に、次第に前進向上の英気と能力とを培養されるのである。
 無論優れた霊魂-教会人はこれを天使等と呼ぶが、私から言えば単に賢い魂に過ぎない-はそういった下らない夢幻境に置かれるようなことはない。彼は稀薄精妙なるエーテル体に包まれて、広大無辺なる空間を縦横自在に駆け回り、驚くべき活発な生活を営むのである。が、普通平凡の霊魂達が、そうした境涯に置かれたら、一度に眼が眩んで気絶してしまう。
 かくいう私などは、ホンの少しばかり普通よりも進歩した境涯に置かれて居るので、平生死の関門の所に控えて新来者の見張り役、案内役を務めることになっている。途中二、三の準備的境地を経て、やがて我々が新来者を案内するのは、決まり切って夢の国、記憶の国である。何人にも自分自身の中に、その地上生活の全部を回想し得る能力が備わっている。そして彼の渇望するのは日頃親しめる環境であって、決して現世離れのした瑠璃のうてなや、金銀の調度でも何でもない。平常見慣れた地上の山河-それが懐かしくて仕方がない。無論そんなものが実際的には幽界に存在しない。が、本人が望めば、それ等の幻影は自由自在に出来上がる。
 それなら何人がそう言った幻影を造ってくれるのか。外でもない、それは優れた霊界居住者達の役目である。彼等は容易に、新来者が日頃地上で親しめる光景を具象化する能力を有っている。その原本は勿論新来の霊魂達の記憶の中に見出される。が、単に原本の複写に止めるというような、下手な真似は決してしない。或る程度までこれを理想化し、日頃地上で見慣れた光景に似てはいるが、しかしそれよりも遙かに美しい景色を造り、その中に新来者を置くのである。夢の国、記憶の国は決して実在の世界ではない。が、新来者自身にとりて、それは立派な実在境に相違ない。ここで彼は日頃愛せる親戚故旧とも会合して、情話を交えることにもなるのである。
 前にも述べた通り、この夢の国、記憶の国こそ、実に平凡人の為に設けられた一の保育場である。弱々しい植物の若芽を育てる為の温床であり、そしてその園丁の役目を務めるのが、とりも直さず優れた霊魂界居住者-先達連なのである。
 夢の国、記憶の国はかく大体に於いて地上生活の複写ではあるが、しかし又地上生活と相違した箇所もある。なかんずく顕著なのは業務の相違である。ここには地上生活に於けるが如き機械的の業務がない。地上生活にありては人間は肉体の奴隷であり、従って『暗』の奴隷であった。ところがここでは、食物並にその相当物件である所の金銭の要求が全然ない。ここでは食物に相当する無形の栄養素が、無尽蔵に存在している。これでは何人も『光』の従僕たらざるを得ない。換言すれば生計の為にあくせくしないで、極めてのんびりした気分で、恣(し)に心の糧を貪ることが出来るのである。
 地上生活で一番恐ろしかったのは飢であった。ところが、その飢の心配が失せたというのは、何と素晴らしい特徴ではあるまいか!
 が、食物以外にも、まだまだ考えねばならぬ大切な要件がある。飢の次に来るのが『性』の問題である。この性の要求までが、果たして肉体の崩壊と同時に消失したか?
 これに対する私の答は大体に於いて『ノー』である。性欲は決して肉体と共に消失はしない。が、その発展の様式が変わっている。これはこの過渡期に於いて解決を要する最大要件の一つである。
 性的欲望にも色々の種類があり、従って一般にも言われないが、ここに一例として、試みに地上生活中に淫蕩な性的経歴を有する男(又は女)の場合を挙げることにする。全て肉体を失った者の心の働きは、一層先鋭化するを常とするので、従って死後の淫蕩心は、生時よりも一層強烈である。そして淫蕩心は淫蕩心を呼ぶことが、地上よりは遙かに自由な為に、ここに性的楽園ともいうべきものが出現する。記憶の及ぶ限り、想像の及ぶ限りの淫蕩な相手が無数に集まって、痴態の限りを尽くすことが出来るのである。地上とは異なって金銭も要らない、努力も要らない、警戒も要らない、又見栄や外聞の顧慮も要らないのである。
 それがあまりにも容易であり、安価であり、又豊富でもあるので、ここに必然的に襲来するのが恐ろしき飽満感である。飽満の極は決まり切って嫌悪となる。いかなるその道の猛者でも、最後には必ずウンザリする。努力の伴わぬ満足には決して永続性がない。ところが、ここに甚だ困るのは、厭で厭で堪らぬ淫蕩の相手が、容易に離れようとしないことである。糯(もち)にかかった小鳥のように、もがけばもがく程ますます粘着する。
 こんな次第で、『夢幻界』の最終の状態は、ダンテの所謂煉獄的境涯である。およそ天下に何が苦痛だと言っても、飽満の苦痛程深刻なのはない。不満足も苦痛であるが、満足の苦痛は更にそれ以上である。
 勿論これはホンの一例に過ぎぬ。全てを律する一つの通則というべきものはなく何人も『冥府』及び『夢幻界』に於いて、それぞれ異なった方式の試練に会うのである。で、中にはその欲望を満足すべき何等の機会を与えられないのもある。例えば冷酷にして利己的な人物の中には、往々暗く寂しい所に縮まり込み、欲望満足の快夢に耽ることを許されないでいるのを見出す。つまり死の打撃が、一層彼を内へ内へと追い込んだのである。『万事休す』-彼は死の瞬間にそう思い込んでしまった。従って彼は外界との一切の接触を失ってしまった。こんな人物はその陰惨な損失の観念が抜けない限り、いつまでも暗黒の夢魔の中から脱出し得ないであろう。
 兎に角大概の人の魂は、暫くは夢幻の状態に生活するを常とする。人類の大多数はその死に際して、物質が実在であるという観念にあまりにも強く支配されている。彼等には新生活に対する心の準備が充分に出来ていない。彼等は猛烈に地上の生活を理想化したような境涯を望んでいる。かるが故に、彼等の生活欲というのは、結局過去の生活を生活することである。これでは私の所謂夢幻界に入るより外に途がないではないか。彼等は地上生活に於いて、上等な葉巻を喫(の)みたく思った。夢幻界では只でその葉巻が喫める。彼等は地上生活に於いて思う存分ゴルフを遊びたく思った。これも容易に夢幻界が満足させてくれる。が、これはただ最も強烈な地上の欲望が生める、空夢以外の何物でもあり得ない。暫くすれば、この果無(はかな)き快楽は彼等を満足し得なくなる。その時こそ彼等が考える時、新しき未知の世界を望む時である。かくていよいよ向上飛躍の準備が成りて、今迄の愉快なる、しかし甚だ茫漠たる夢が俄然として消える。
 (評釈)帰幽後に於ける平凡人の境涯がどんなものであるかを、極力説明しようと試みているところが甚だ嬉しいと思う。霊媒を通じての通信のこととて、その表現法は頗る蕪雑で、冗漫であるが、マイヤースが何を言わんとしているかは充分に諒解される。兎に角一段の高所から達観する人物にして、初めて道破し得る貴重なる通信であることに何人も異存はないであろう。

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