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カテゴリ: ★『永遠の大道』

自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 人間は果たして何れより来り、何れに向かって去るか?-これは古来多くの驚くべきスペキュレエションの材料となった題目であるが、しかしながら、何故に人間が創造されたか、何故に物質的宇宙が、永遠に大空を横切りて旋転しつつあるか、又何故にその原質がただ姿を変えるのみで、毫末(こうまつ)も消滅することがないのか、等の諸問題を真正面から解決せんと試みたものは極めて少なかった。
 『目的のなき大きな機械』-これは実に十九世紀の科学者達が、宇宙に向かって書き下ろした碑銘である。これには『何故か』の疑問を挟むべき余地がない。従ってそこには目的成就がない。物質のみが唯一の実在であり、そして運動と生命の、無気味にして単調なる機械的ドラマが、無際限に演出されつつあるということになる。
 無論真理は何人にも捕え難い。が、右の不景気千萬な結論を下した人達に至りては極度に真理を捕え損ねていると思う。心が有形の物質を離れて立派に存在することさえ承認出来れば、生存の神秘に対して何等かの意義を発見することは、決して絶望ではないと信ぜられる。
 先ず我々は出来るだけ簡潔な言葉で、この宇宙の永遠の謎に定義を下したい。不取敢我々は次の諸項を、学術的仮説として採用したい。即ち-
 一、仮相と実相とがある。
 一、大別すれば物質、魂、霊の三つの相がある。
 一、表現あれば必ずその根源がある。
 一、神とは即統一原理である。
 一、物質は微より極微へと無限に分解する。
 一、全て再び霊に返る。
 右に述べた霊(スピリット)とは、結局大我から岐えた小我、個々の有する最奥の心のことである。小我には勿論個性がある。しかしそれは人間的意義の個性ではない。創造者と何等かの区分性を有っているという意味の個性心しかない。換言すれば、ただ本来の相違である。本源に繋がれている末梢なのである。
 かの神秘論者は、好んで自己内在の神を説きたがるが、これは全然謬見である。『神』は無上の心であり、あらゆる生命の背後に控える大精神であり、一切の存在の出発点たる大本体である。宇宙の歴史に於けるあらゆる行為、あらゆる思想、あらゆる事件は、皆この大本体の中に含まれている。万能の観念はそこから生じた。然るに自己の霊を指して『神』とするのは許し難き僭越(せんえつ)である。
 大我から岐れ出でたる、これ等無数の霊-小我は何れも皆同一物でない。そして我等の殆ど凡ては、最初は単純素朴なる萌芽でしかない。彼等が完成の域に達するまでには限りもなき表現形式をとりて、無数の経験を自己に集積せねばならぬ。それなしに完全なる智慧は到底獲らるべくもない。が、一旦全ての完了した暁には、彼等はここに初めて神的属性を獲得し、一切を超越して大我の中に入り、宇宙の大本体の一部となるであろう。
 かるが故に宇宙萬有の出現の理由は、これを『霊の進化』という言葉に包含されると思う。不自由の中に、束縛の中に、自己の理想の完成を求むる所の発達が行なわれるのである。即ち霊は何等かの形を執ることによりてのみ、円熟大成を期し得るものである。我々の出生もこれが為であり、我々が幾多の世界、幾多の境涯を通過せねばならぬのも、又これが為である。同時に又物的宇宙に間断なく生長し、拡張して、一層充分なる活動の舞台を小我に与えるのである。
 繰り返して言うが、萬有存在の目的は、程度と種類を異にせる各種各様の『物』の中に、『心』が進化を遂げることである。心は表現によりて発達するのであるが、宇宙は無限に拡張進展するから、心も同様に無限にその威力を増大し、かくて実在につきての真の観念が獲得される。地上に宿るところの小精神は、神の表現の中にありて最低級のものである。彼等は出来るだけ早く、有意義なる統体の一部たることを学ぶべきである。
 (評釈)マイヤースが宇宙人生の目的を霊の進化と観じ、又心と物との相対関係も、いとも明瞭に道破したことは当然の事ながら、快哉を叫ばざるを得ない。従来欧米人士の言説には、しばしばこの点につきての誤謬があり、我々をして眉を顰(ひそ)めしむるものがあったが、ここに至りて初めて溜飲の下がるを覚える。又マイヤースが一部の神秘論者の迷妄を説破しているのも頗る痛快である。神は自己の内にあるだの、自己は神なりだのという言葉は、兎角秩序と階梯を無視し、従って進化の法則に外れた、精神的○(漢字不明)睡剤となる傾向が非常に多い。これを標語としている宗教者流、霊術者流、何れも揃いも揃って、皆純然たる穀粒しに終わるのを観れば、思い半ばに過ぎるであろう。マイヤースの所謂『神の表現の中にありて最低級』である所の地上の人間は、これからが勉強のしどころ、修行のしざかりである。然るに碌に勉強も修行もせず生青白い顔をして、自分は神だと済ましこむに至りては、全く以って沙汰の限りである。

自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 次に述べる所は、各自の魂が順次に通過すべき世界の行程表である。
 (一)物質界
 (二)冥府又は中間境
 (三)夢幻界
 (四)色彩界
 (五)光焔界
 (六)光明界
 (七)超越界

 各界の中間には、悉く冥府又は中間境がある。それぞれの魂はこれで何れも過去の経験を回顧検閲して今後の方針を定め、或る者は上昇し、或る者は下降するのである。
 第一の物質界は所謂物質的関係に宿りて、一切の経験を積む境地である。こうした経験は、必ずしも地球上の生活には限られない。或る者は数多き星辰の世界に於いて、同様の経験を積むのである。無論それ等の世界の住人の肉体は、地上の人間のそれに比して振動数の多いのも又少ないのもあるが、大体これを『物質的』という文字を以って表現して差し支えなき種類のものである。
 第三の夢幻界というのは、物質界で送った生活と連関せる仮相の世界と思えばよい。
 第四の色彩界に於いては各自は漸く間隔と絶縁し、主として意念によりて直接に支配せられることになる。ここではまだ形態が付随している。従って一種の物質的存在には相違ないが、しかしそれは非常に稀薄精妙な物体で、寧ろこれを『気』とでもいうべきであろう。この色彩界はまだ地球、又はそれぞれの星辰の雰囲気内にある。
 第五の光焔界に於いて、各自の魂は初めて自我の天分職責を自覚し、同時に自己と同系に属する、他の魂達の情的生活にも通暁し得ることになる。
 第六の光明界に於いて、各自の魂は初めて自我の本体-本霊から分れたる類魂(同系統の魂達)の智的生活に通暁し得、同時に地上生活を送りつつある、同系統の魂の情的生活にも通暁することが出来る。
 最後の超越界は無上の理想境である。本霊並に本霊から分れたる類魂は、悉く合一融合して大我、神の意念の中に流れ込む。そこには過去、現世、未来の区別もなく、一切の存在が完全に意識される。それが真の実在であり、実相である。
 (評釈)死後のマイヤースも、やはり西洋の心霊家らしく、全てを七つの界に分類しているが、これには確かに多少の無理があるように思う。冥府又は中間境は各界の中間に必ず存在するという以上、当然この外に四つの界を殖やすべきで、表面的に強いて七つに並べたところで仕方がないではあるまいか。又夢幻界、色彩界、光焔界の区別も余りに煩瑣(はんさ)で、いささか分明を欠く虞はないか。夢幻といい、色彩といい、又光焔といい、何れも仮相であって、結局感情の歪みの所産に過ぎない。各自の区別はただ程度の相違に過ぎないようである。
 かく考えた時に、やはり私の試みつつある分類法、即ち全てを物質界、幽界、霊界、神界に大別する方が、実際的に甚だ簡明直截(ちょくせつ)であるかと信ずる。試みにここに掲げた七つの世界を、私の分類法に割り当てたら、次のようになるであろう。
 (一)物質界-(1)物質界(主として欲望の世界)
 (三)夢幻界
 (四)色彩界
 (五)光焔界
 (三と四と五)-(2)幽界(主として感情の世界)
 (六)光明界-(3)霊界(主として理性の世界)
 (七)超越界-(4)神界(主として叡智の世界)
 冥府又は中間境は、要するにどづちつかずの過渡期であるから、これを一の独立界として取り扱わぬ方が正当であろうと思う。もしドウあってもそれを表示したいというなら、各界の中間にそれぞれ亜幽界、亜霊界、亜神界と言ったような名称のものを挿入すればよいかと思う。これを要するに各界の分類法は、取り扱うものの便宜上決められるもので、これを粗く分けようと、又細かく分けようと、それはめいめいの勝手である。決して数などに拘泥すべきではあるまいと信ずる。仏教徒の霊界通信の中には、超現象界を百八界に分類するものなどを見受けるが、これも無論本人の主観の現れに過ぎないと思う。
 ここに甚だ面白いのは、マイヤースの類魂説である。彼は生前からこれを唱えたが、死後の通信にも依然これを主張している。類魂(グループソール)とは結局同一自我(本霊)の流れを汲める同系統の霊魂達を指すので、私の提唱せる創造的再生説は、又もやここに一の有力なる支持者を見出した訳である。尚この類魂につきては、先へ行って詳しい説明がある。

自殺ダメ


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 第三界

 私は先ず新帰幽者の群・・・・私達の住む死後の世界の岸へと、昼夜のけじめなく押し寄せる、かの澎湃(ほうはい)たる生命の波浪につきて、定義を下しておきたいと思う。生と死とは、結局同一の意義を有つ。私は生だの死だのという言葉を聞くと、変な気持に襲われる。近頃の私はモウ大分言葉の無い、単に思想のみで生きる生活に慣れてしまったのである。
 ごく大雑把にいえば、新帰幽者は大体三つの範疇に分けられると思う。即ち-
 (一)霊の人(スピリットマン)
 (二)魂の人(ソールマン)
 (三)肉の人(アニマルマン)
 無論これ等は更に幾つにも区分し得るが、兎に角右の三用語だけは銘記することが良いと思う。何となれば、その何れかに属することによりて、各自の前途の相場が決まる訳であるから・・・・。
 これから私は各界の状況を分類する。
 第一が取りも直さず地上生活。
 第二が冥府と称せられる過渡の世界。
 第三が地上生活の心影又は反射で生きている生活で、一部の人士はこれに『常夏の国(サマーランド)』などという名称を与える。が、私としてはこれを『夢幻界』と呼びたい。
 第四は地上そっくりの形態を保持しているが、しかしその体質は、次第々々に精妙稀薄の度を加えつつある生活である。ここでは物質界との連絡が強い。
 第五は精神的要素の勝った生活で、所謂類魂の中に混じり、同一系統に属する他の霊魂達のあらゆる経験-但しそれはただ情的行為だけに限る-に通暁する。類魂につきては別の機会に説明する。
 第六は『時』の内と外とに跨る自覚の生活である。時の測定を形態を帯びて送った生涯を以って尺度とする。この中には極度に隠微な形態の生活、又程度の差こそあれ、要するに一種の私物の生活が含まれるのである。
 最後に来るのが第七の境涯、ここで前進中の魂がその本霊と融合するのである。この至福境に於いて体はいよいよ超越の世界に歩み入り、不滅なる文字の意義が初めて判って来る。もうここでは物質とすっかり絶縁してしまい、又時とも絶縁する。そしてあらゆる生命の背後の大精神、神と合一し、又あらゆる世界の生活に於いて、汝と連繋を保っていた汝の本霊と合一する。
 (評釈)大体前節の繰り返しのようなもので、別に言うべきこともない。但し帰幽者を三種類に分類したのはいささか良い思いつきであろう。結局『霊の人』とは超越味のある人、『魂の人』とは人間味の脱けない人、『肉の人』とは動物的本能の奴隷となっている人のことらしいが、成る程そう分類すればされないこともないらしい。

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 物的地球はあたかも鏡裏の映像に似ている。それは鏡面に投げられる影によりてのみ真実である。かるが故に、その認識は個々の視覚の性質次第で決まる。土塊に包まれたる地上の人間は、勿論一の仮相であるから、物の視方が非常に一方的で、地球をば単に迅速に回転する一の円球としか観じ得ない。肉体放棄後に於いても、彼は往々地上生活の根本的性質の実性を悟り得ないで、愚かにも生前の空夢に憧れる。で、これ等の霊魂が帰幽後に於いて逢着するものは、大体地上生活そのままの光景である。が、それは結局彼の記憶が造り出したる、一の夢の国に過ぎないもので、彼の地上生活を構成していた、様々の事件が、再びまざまざと彼の眼前に現れて来る。要するに彼は他愛もない嬰児であって、自分が置かれている新世界の現実が少しも判らないで、ポカンとして暮らしているのである。
 この程度の嬰児霊が、往々うつらうつらとした夢見心地で、地上との通信を行なうことがある。彼等はしきりに自分の夢見つつある、記憶の国を物語るべく努める。が、勿論そんなものは地上の光景と全然同一である。一部の人士はこれに対して、『常夏の国(サマーランド)』という名称を与えるが、全く上手い名前である。兎も角も彼は肉体の羈絆(きはん)から離脱してはいるので、その心の働きが遙かに自由となり、自分の好みに応じて面白い記憶の国を捏(でっ)ち上げる力量を具えている。彼は本能的に地上生活の楽しかった箇所のみ寄せ集め、苦しかった箇所は皆省いてしまうから、ここに素晴らしい極楽浄土然たる別世界が出来上がる。彼の得意と満足とは以って察すべしである。が、勿論それは単なる夢の世界で、死後の世界の実現でも何でもない。暫くはそれで満足していられるが、やがて精神的自覚の味が来て、一切は烟散(えんさん)霧消し、自分の置かれている新しい環境に初めて目が覚める。従来霊界通信と称せられたものの大部分は、実にこの夢幻境の描写に過ぎない。
 私はこの記憶の国からは夙(つと)に離れ去っているが、私達の境涯から眺めると、その世界は甚だしく非現実的で、謂わば映像の又映像と感ぜられ、面白くもおかしくもない。その幸福はのんべんだらりとした植物性の幸福、周囲の出来事に全然没交渉なる頑是なる小児の満足に過ぎない。
 (評釈)交霊現象の実地体験者にして、初めてここに述べてあることがしっくり腑に落ちるかと思う。南無阿弥陀仏を唱えれば極楽往生疑いなしとか、キリストの前に懺悔さえすれば必ず天国に行けるとか、いうような暗示を受けて帰幽した霊魂達を呼び出してみると、彼等の多くは依然たる呉下(ごか)の旧阿蒙(あもう)で、マイヤースの所謂記憶の国、つまり単なる自己の空想で造り上げた単調気味の境涯に収まり返り、安価な自己陶酔に耽っていることを発見する。進んで悪事を働くよりか、これでもまだマシかも知れぬが、しかしそこに何等の進歩も、向上も、又努力も見出されない。宗教はアヘンだ、という言葉があるが、全く既成宗教の大部分にはそう言った趣が幾分無いともいえない。消極的の効能はあっても、積極的の働きは頗る乏しい。今後の人類、少なくとも国家社会をリードしようとする識見力量の所有者にとりて、そろそろ既成宗教があき足らなく感ぜられるに至った所以であろう。幼弱な自己陶酔に耽るには世の中が少し進み過ぎたようだ。

自殺ダメ


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 冥府(ヘーズ)という言葉は、いささか不愉快な連想をもたらすかも知れぬが、実は一の準備的中間地帯と思えば何でもない。肉体の崩壊直後に於いて、何やら身体各部の一時的脱臼と言ったような期間が続く。私はイタリイで客死したが、その頃の私は非常に心身の倦怠を感じていた。それ故か冥府は私にとりて、至極結構な安息の場所、半醒半夢の薄明るい保養地であった。そして人間が熟睡によりて気力を回復すると同じく、私は冥府生活の期間中に、すっかり精神的又理智的能力を回復してしまった。全て各自はその性質次第で、冥府と称する顕幽両界の中間帯に於いて受ける影響が、それぞれ異なるらしい。
 (評釈)大体よく死の直後の休養期を説明している。私が試みた無数の招霊実験の結果からいえば、その休養時代は人によりて中々長く、五年、十年、二十年になっても尚うとうと眠っている者が少なくない。それ等の霊魂は先ず適宜の覚醒法を講じてからでないと、地上との交通は不可能である。職業的霊媒の中には、誰でも直ぐに招霊し得るようなことを言うものもあるが、勿論それは嘘である。気をつけないと一杯喰わされる。

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