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カテゴリ: ★『永遠の大道』

自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 自分は今までの叙述中に於いて、人間にあらざる原始霊につきて、唯の一度も触れずに置いたから、ここでその補充を試みなければなるまい。原始霊とは地球その他の遊星上に、ただの一度も肉体を有して発生したことのない、原始的存在の総称である。これ等の原始霊は、その全部が決して地球の所属ではなく、その中の或る者は、現在尚燃焼を続ける光焔の世界に生を享けるのである。遊星所属の原始霊と、日界人とはその形態を同じうしない。仮に日界人を人間とすれば、原始霊は言わば地上の動物に該当するであろう。そしてその形態は、かつて火中に生息したと伝えらるる、神話のサラマンダー(火龍)に類似した点がないでもない。
 地界以外の天体に生息する原始霊の形態は、時に地球の原始霊のそれと異なり、奇想天外式なのも見受けられる。彼等はしばしば好んで大蛇の姿を模し、又龍の姿を模する。龍は神話的の存在であるが、しかしかかる生物が、歴史以前の遠き太古に於いて、かつて地上に生存しなかったとは何人が断言し得よう。兎に角龍姿を取れる原始霊達が、陸離する光焔を放ちつつ、無限の空間を運行する諸天体の常住者であることは、そこに少しの疑いもない。要するに、諸天体に於ける原始霊の生活は決して一様ではない。その種類からいえば、必ずしも地上の動物界程豊富ではないが、しかし一としてその所属の天体生活の、最も重要なる構成要素でないのはなく、類魂はこれ等の原始霊の経験を取り入れて、初めて完成を期し得るのである。
 (評釈)現代人が一般に夢想だもしない超物質の事実を、耳新しい用語を以って表現しようとするのであるから、その難解は推して知るべきであろう。私の訳語も未だ洗練を経たものでないから、尚更その感が深いであろう。依って年の為に、マイヤースが何を通信しようとしているかを、ここに再説してみることにしよう。
 私は超物質界の居住者を二種類に大別し、甲を自然霊、乙を帰幽霊と称することにしてある。御承知の通り、前者は唯の一度も肉体を有して物質界に生まれた経験のない、エーテル的存在、後者は物質的肉体を棄てて帰幽した人霊その他である。これは取り扱いの便宜上、仮にそう決めたまでであるが、大体に於いて当を得ていると思う。無論私自身も右の『自然霊』という言葉の内容が、非常に広範に亘っていることを知らないではない。が、心霊知識の未だ普及せざる現代に於いて、暫く分類をこの程度に止めておくことが良いと考えたのである。
 ところが、マイヤースの通信を紹介するには、そろそろこの分類法だけでは不充分になって来た。何となれば、彼は自然霊界を探りて、そこに二つの別種の存在を突き止めたからである。即ち彼は甲を『日界人(ソーラマン)』と稱(たた)え、乙を『原始霊(エレメンタル)』と稱えているのである。これ等の用語が果たして妥当であるか否かは別問題として、その通信内容が、私の日頃研究の結果と殆ど全く符節を合していることは事実である。
 読者が既に御承知の通り、マイヤースの所謂『日界人』とは、太陽をはじめ、その他の恒星の太陽原子内に居住する第一エーテル的存在で、古神道の所謂天津神と称するものであろう。私はその世界を太陽神界と稱えており、その主宰神に座す天照大御神は人間からいえば、取りも直さず事実上の宇宙神なのである。
 次にマイヤースの所謂『原始霊』とは、地球その他諸遊星の内面に居住する第二エーテル的存在で、古神道の所謂国津神というのは、取りも直さずそれに該当すると思う。国津神を地上の物質的存在-原始人と見做すことは、とんでもない勘違いで、優れた第六感的能力者には、そうした存在がはっきりと認識され、今日に於いてその存否を疑う如きは、時代錯誤も又甚だしいのである。私はこの世界を太陽神界と区別して、地球神界と稱えている。そしてこの世界の主宰神が、取りも直さず皇孫邇々藝命にあらせられるのである。
 以上の概説で『日界人』と『原始霊』との区別、並びに相互的関係はほぼ明らかであると思うが、それにしてもマイヤースが、後者につきて述べている所は、何と思い切って露骨、何と思い切って端的であろう。その用語は至って簡単だが、そのあたえる示唆は千萬金にも換え難きものがある。彼は原始霊を定義して、『地球その他の遊星上に、ただの一度も肉体を有して発生したことのない原始的存在』と言っているが、これは恐らく動かし難き好定義というべきであろう。次に原始霊の形態につきては、『かつて火中に生息したと伝えらるる、神話のサラマンダー(火龍)に類した点がないでもない』と説き、更に『彼等はしばしば大蛇の姿を模し、又龍の姿を模する』と述べ、又『龍姿を取れる原始霊達が、陸離たる光焔を放ちつつ、無限の空間を運行する諸天体の常住者である』と喝破している。西洋の心霊家も、とうとうここまで突っ込んだことを述べるかと思うと、実に感慨無量ではないか!我々実際的に心霊問題を取り扱うものが、どうあっても無視し得ないものは、実に龍神の存在で、これを否定する位なら、寧ろ自分自身の存在を否定した方がましな位である。されば私としては、いつも最大の力点を龍神の研究に置き、以って今日に及んでいるが、従来西洋の心霊研究は中々そこまで深入りせず、専ら帰幽霊ばかり取り扱っていた。若しそれ日本の神道家だの、学者だのに至りては龍神どころか、人間の死後の存続すら否定し兼ねないのである。この際に当たりて、突如としてマイヤースの通信が、堂々として龍神の存在を喝破しているのだから、実に耐らなく嬉しいのである。マイヤースの通信は、単にこの一節のみでも、優に恒久的存在の価値があるものと思う。
 但しマイヤースの通信は日界人と原始霊との関係、又原始霊と地上の人間との関係等につきては、説いて未だ尽くさざるものがある。『その所属の天体生活の最も重要なる構成要素』とか、又『類魂はこれ等の原始霊の経験を取り入れて、初めて完成を期し得る』というだけでは、何やらそこに、隔靴掻痒の感がある。私としては、この点につきて、既に或る程度まで研究の結果を発表してあるから、読者は是非それを参酌されたい。

自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 自然霊の世界にありて、思想を伝達するには、声音と同時に色を用いる。なかんずく思想伝達の主要なる媒体は色であって、文字ではない。で、地上の印刷物に相当するものは、つまり絵画なのであるが、ただその絵画は、到底名状し難き性質のもので、ここに詳説の限りでない。それは地上の厳格なる意味に於ける絵画と異なり、それからそれへと、けじめも分かず溶け合い、又組み合っている一種の絵画的表現法なのである。しかもそれには、相当の耐久性があり、幾時代もの保存に耐えるから不思議である。無論そこには書物係の専門家も居り、何やら特殊の装置を施して、太陽原子の消散を防ぐ方法を講ずる。そうした人達は、丁度地上の図書館係に相当しているものと思えばよいであろう。兎に角、彼等の計算能力は驚くべく優れており、そして一種の磁気を用いて、適宜の色素を引き寄せ、あくまで原本に忠実なる新絵画書を製出するのである。無論異常に変動性に富める世界の絵画であるから、歳月の経過に連れて、多少の変化は免れないが、歴史も、詩歌も、又その他の記録も、それが精神の籠もれる作品であればある程、いつまでも原作者の意念を伝えて亡びないのである。
 星辰界の居住者にとりては、彼等の環境が各別不安定とも、又不定形とも感じられない。何となれば彼等自身が、形而上的にも又形而下的にも、驚くべき速度で活動しているからである。要するに、全ては比例の問題でしかない。尚ここで忘れてならないことは、世界がいかに異なり、環境がいかに変わっても、宇宙引力の法則に、何の相違もないことである。かるが故に日界人として見れば、自分達がそうした途方もなく、突飛な世界に住んでいるというような感じは、少しもないのである。
 で、基本的原則としては、日界人の生活と、人間のそれとの間に、類似の点が決して少なくない。例えばその生存期間中、日界人の魂は決してその体躯を離れて活動することがない。それは丁度人間の魂が、生きている時に、その肉体を離れないのと同様である。異なっているのは、ただ日界人の体躯が間断なく変化を遂げ、人間の肉体のように、殆ど作りつけでないことである。但し前にも述べたように迅いといい、又遅いといい、それはただ比例の問題で、日界人の眼から見れば、彼等は自分の体躯の変化を、格別無常迅速であるとは考えない。丁度人間が自己の緩慢なる肉体の変化を、格別遅いと思わぬのと同様であろう。
 自分は星辰界の社会組織につき、又星辰界の居住者の職務につきて、詳しく述べるべき知識を有しない。ただ自分が確言し得るのは、彼等が地上の人類と同じく客観、主観両様の生活を送りつつあることである。各種各様の善と悪との争闘の結果、星辰界にも、やはり熾烈なる情念の発作があり、同様にそこでも又宗教が、生活の第一義的重要素となっている。星辰界の居住者は、『神の子』の存在を知り、これを自分達の主宰者と仰いでいる。但し彼等は、地上の人間とは比較にならぬ程豊富な想像と、博大な視野との所有者であるから、人間のように、深くは君臣上下の関係に拘らない。入神した時の彼等は、一路直ちに普遍の実在に近付いて、宇宙の創造的精神と冥合せんばかりになっている。が、神秘の奥には更に又神秘がある。いかに無上の歓喜に浸ろうとも、宇宙は依然として一の解かれざる謎であることに変わりはない。
 さてここに起こって来る疑問は、人間の宗教と、日界人の宗教とが、どう異なるかの問題であろう。自分の見る所によれば、両者の最も重要なる相違点は、『宇宙的知識と宇宙的信念』の厚薄如何であると思う。恒星の居住者達は、既に人間の第一階段を突破し、統体としての宇宙につきて、極めて該博なる観念を有している。つまり地上の同胞に比べれば、比較にならぬ程精妙な心身の所有者であるから、彼等はよく造化の機構の偉大性を味読する能力を有し、苦もなく隠れたる実在の堂奥に遡り、かくて彼等の信仰、彼等の知恵は、人間のそれのように不純なる交雑物を、殆ど混えていないのである。
 日界人の間にも、勿論悪の要素は存在する。悪とは結局不完全を意味し、思い違いを意味し、その結果罪となり、悩みとなる。が、日界人の悪の観念は、人間のそれよりも、もっと深刻である。自分の観るところによれば、それはより高き意識の水準を、目指す進出への反逆を意味するらしい。換言すれば、それは生命に対する逆行である。宇宙的には不動の法則があり、従って一歩一歩向上の道を辿る為には、全身全霊を打ち込みて、真と美との追求に当たらなければならない。これに反するものがとりも直さず悪なのである。
 若しも魂の思念の働きが不完全であれば、各自は必然的に過誤に陥り、為に意識の低き階段へと引き降ろされる。所謂人類の堕落は、ひとりアダムのみの問題でない。現幽両界を通じての、一切萬有の間に、今も依然として繰り返される問題である。全ての魂は、自由選択の権能を有している。で、若し各自がその想像力と、信念とに欠陥があれば、彼は向上前進の希望を失い、現在の局限されたる生涯に、満足していることになるであろう。全て低き世界程、その生活は不自由であり、孤立的なのである。
 かくの如くにして、日界人中の相当多数は、恒星界の生涯を終わった後で、一時的の逆戻りをするのである。これはその生活中に、何らかの大自然法則の違反を行いたる結果、その錯へる内的自我の均衡を取り戻すべく、後退を余儀なくせらるるのである。それ等の一部は、確かに地上界の付近に留まり、蔭から人類その他の監視に当たっているようである。中には又第四界(色彩界)は、何れも向上前進の登路を辿り、地上人の所謂死の過程を通過した後、類魂生活の中に入り、以って宇宙の内面機構に與(よ)かるべき、大直感能力の獲得に努める。その理想的境地こそ、とりも直さず意識の第六階段、光明界なのである。
 この大準備期につきては、到底これを一言に述べ尽くすことは出来ない。何となれば、意識の第五階段に留まる間に、経験せねばならぬ事物は、実に千種萬様、殆ど筆舌の尽くすところでないからである。その詳しい説明は、暫くこれを他日に譲り、ただここで一言したいと思うのは、それ等の日界人の多数が、一度太陽のような自然体に於ける生活を終わった後で、更に他の種類の恒星界に於ける経験を獲得せんとすることである。思うに彼等は、過去の恒星生活の経験が、あまりにも身に沁みて嬉しく、更にもって深刻なる楽しみを味読せんことを希ふのでもあろう。
 そうした魂が、新たに選める恒星の生活は、しばしば前の恒星の生活とは、本質的にひどく相違しており、従って彼等は、通例多くの新知識に接することになる。例えば太陽のように炎々と燃える天体と、死灰の如く冷え切った恒星とでは、いかに何でも大いに勝手が違うのである。ここに彼等が一度の経験で満足せぬ理由があるのである。思うに両者の相違は、幾分地上の人等が遭遇する夜と、昼との相違に該当しているでもあろう。
 (評釈)高級の霊界人の使用する通信機関が、文字又は言語でなくして、一種の絵画であるということは、他の有力な霊界通信の教える所でもある。私自身も、恐らくそんなことであろうと想像している。『それが精神の籠もれる作品であればある程、いつまでも原作者の意念を伝えて亡びない』は、確かに至言であると思う。
 次に自然霊達にとりて、無常迅速なる恒星の生活が、別に目まぐるしいとも、又不安定とも考えられないとあるが、これも当然過ぎる程当然の事かと思考される。思うに大自然の根本原則は、何れの世界に於いても同一であり、ただ振動数の如何によりて大小、高下、遅速、軽重等、千種萬様の生活の変模様が出来るだけのことであろう。その点に於いて、マイヤースの説く所は極めて合理的、常識的であり、何人にも首肯し得る事ばかりである。神秘を神秘として玉手箱に取り扱わんとする古代の教示に比して、正に格段の進歩と言ってよかろう。マイヤースが『神の子』の実在を説いているのも、誠に愉快である。これにつきての彼の説明は頗る概念的で、その神の子が何であるかはよく判らないが、我々日本民族は、これを日本古典の記録と対照することによりて、そこに多大の暗示を感得せぬ訳には行かぬ。これにつきては、私自身の一つの解釈もあるが、時期尚早と思うので、モウ暫く沈黙を守ることにしよう。
 宇宙意識にとめる自然霊の宗教と、物質的観念に捕われている人間のそれとの間に、多大の懸隔があるべきは、言うまでもない話だが、マイヤースが両者の区別を、宇宙的知識と、宇宙的信念の厚薄浅深如何にあると喝破しているのは、確かに正当である。人間の口にする宇宙は、しばしば歪曲された、特殊部落式のものでしかない。従って人間の唱える宗教、並びに宗教心には、まだまだ大いに訂正増補の必要がある。その点に於いてマイヤースの通信は確かに多くの示唆に富んでいる。仏教を以って、キリスト教を以って、又神道を以って一つの完成品と心得、過去を謳歌することを知りて、向上前進の何物たるかを知らざるものは、この際大いに反省熟慮して欲しいと思う。
 これを要するに、マイヤースがここに説く所は、徹頭徹尾暗示的の価値で持ち切っている。地上生活中の人間には、到底充分に腑に落ちかぬることばかりであるが、しかし一読の後、心の底に何物かが力強く残るのは、誠に不思議である。本物と偽物との相違は、恐らくそうしたところに存するのであろう。

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 前章に於いて自分は『生命』だの、『生物』だのという用語を使っているが、これを人間的の観念で解釈されては困るのである。一体生物の背後に潜んでいる動力につきては、現在学者間に、まちまちの意見が闘わされている。一部の人達は、その動力が一種の物理的エネルギー、丁度電気に近似したものであって、それがとりも直さず生命であると信じている。他の一部の人達は、別に一種の非物質的動力、一種の生命力と言ったようなものがあって、それが物理的、又は科学的作用の背後に控えているのであると主張する。自分は今更この論争の渦中に入り、地球並に地球上の無数の生物につきて、その生命力の有無を論じようとは思わない。自分はただ天体生活を送りつつある、『太陽人』の活用するエネルギーが、科学的知識を有する地上の学者達の分析解剖しつつあるような、あんな粗末な形態のエネルギーとは、到底比較し得ない程、精絶妙絶なものであることを告げたいのである。ついでにここで自分は、生命の創造的基本が何であるかを、極度に簡単な一語で道破してみたいと思う。それが地球上であろうが、恒星上であろうが、いかなる場合に於いても、生命原理が想像力の一つの中心であることに疑いはないが、人間の肉体、並びに日界人の体躯の背後に存在する霊(スピリット)と魂(ソール)との協同作業こそは、これを要約して『大宇宙の想像界と結び付けられたる、小想像界』であると定義し得ると思う。我々は、そこにこそ、全大宇宙に瀰漫する、千萬無数の生命に、それ自身の表現を可能ならしむる、神的原理を発見することが出来る。
 (評釈)人間その他の生物を通じて肉体以外・・・・イヤ寧ろ肉体以上の精妙なエーテル体が存在する事は、学術的に既に不動の確証が挙げられている。従ってマイヤースが、霊と魂との協同作業こそ、大宇宙の想像界と結ばれたる小想像界であって、それが生命の基本であると喝破しているのは、蓋(がい)し何人も否定し難き定説であろう。何となれば、全て想像ありての創造であり、進化であり、又向上であり、ギリギリまで煎じ詰むれば、宇宙の森萬象は羅畢竟(結局)この不可思議な感想力-の所産に外ならないからである。

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 空間には無数の黒い星が運行している。それ等は遠き昔に、燃焼し尽くした太陽の遺物であるが、しかし今もなお崩壊するまでに至らず、無限の空間を通じて、寂しき旅を続けているのである。それ等は肉眼はもとより、いかなる望遠鏡を以ってしても、到底視ることは出来ないが、しかし断じて仮説的の幻影でなく、又単なる残骸とも考えらない。何となれば、それ等が或る安定性を有し、或る創造の用務に服しつつあるからである。そしてそこには、人間の知らない一種の知覚を与えられたる存在物が、立派に生活を営みつつあるのである。
 これ等の黒い星の居住者達は、その環境の異常なのに準じて、その機能も又極めて異常不可思議である。しかも彼等は、やはり類魂中の一部であって、決して我等と全然別種のものではないのである。
 有限の理性は、無限の空間に散布されたる天体のあまりにも多く、あまりに偉大なるを見て驚き、且つ呆れ、それ等の世界に個性を有する居住者が存在するなどとは、到底考え得ないように思う。が、人間の想像力は、たとえそれが有限であっても、自分の述べる所を、必ずしも荒唐無稽の痴人の夢とのみ見做さないであろう。少なくともそう考える事によりてのみ、人間の意義が初めて発生する。我々は、断じてただ地上の同胞のみを伴侶として、永遠の旅を続けるのみでなく、実に目に見えざる我々の祖霊、又太陽系の他の諸天体の居住者達とも、立派な道連れなのである。彼等は物質的には、全然我々と別世界の住人である。しかし精神的には、全然我々と同一家族である。
 ああ想像と直感-そうしたものが人間にあればこそ、我々は地上生活につきものの一時的の苦痛や、悲哀や、粉々たる誤解や、争闘やを排除し、圧倒し得るのである。見よ、自分達の前途、自分達の真上には、偉大崇厳なる自由の世界が、自分達の来着を、笑顔を以って差し招いているではないか。人間は断じて五、七十年の短日月に限られた、そんなケチ臭い、そんな貧しい、そんな窮屈な、又そんな悩ましいものではない。人間を縛るものは、実にその厄介千萬な肉体である肉体があるばかりに、人間は親切にして高邁なる祖霊、その他人間以上の有情の存在に背き、かくもせせこましい割拠的生活に悩むのである。
 (注釈)さすがのマイヤースも、『黒い星』並にその居住者につきては、単なる概念しか伝え得ない。そして最後はただ詠嘆的に理性と、直感との相違を指摘しているに過ぎない。霊界通信も、ここまで来ると、そろそろ詩歌の領分内に歩み入る傾きがある。

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