死にたい自殺サイト自殺方法自殺ダメ

当サイトは、死にたい人に自殺に関する霊的知識を与えて、自殺を止めさせる自殺防止サイトです。

自殺の霊的知識へ

カテゴリ: ★『新樹の通信』

自殺ダメ


 [霊界通信 新樹の通信](浅野和三郎著)より

 (自殺ダメ管理人よりの注意 この文章はまるきり古い文体及び現代では使用しないような漢字が使われている箇所が多数あり、また振り仮名もないので、私としても、こうして文章入力に悪戦苦闘しておる次第です。それ故、あまりにも難しい部分は現代風に変えております。[例 涙がホロホロ零る→涙がホロホロ落ちる]しかし、文章全体の雰囲気はなるべく壊さないようにしています。その点、ご了承ください。また、言葉の意味の変換ミスがあるかもしれませんが、その点もどうかご了承ください)

 母の守護霊の修業談には、僕も相当敬服させられております。こちらの霊界へ来た人の中にも、中々あれ位生(き)一本に、あれ位脇目も振らず、修業三昧に浸っているのは、そうザラにはないようです。それにつけても、僕はまず考えました。母の守護霊があんなに修業している位なら、僕の守護霊だって、何か苦心談の一つや二つはあるだろう。一つ訊いてみようかしら・・・・。早速守護霊に当たってみると、果たして色々話があるとの事でした。しかしとても一度には物語れないから、今回はその中の一端・・・音楽修業の話をしようと言って次の物語をしてくれました。母の守護霊とは、すっかり行き方の違っているのが、幾らか面白いところだと思いますが、ただ通信機関がやはり僕の母の体なので、上手くこちらの気分が出るかどうかが気掛かりです。うっかりすると、肝心な急所が、途中で消えて無くなってしまいそうで。
 念の為に申し上げおきますが、僕の守護霊は佐伯信光と言って、僕と同じく一向若年・・・・享年二十九で死んだ人で、今もやはり若い顔をしています。指導役のお爺さんとなると、僕達とは段違いの龍神さんですから、何となく気が引けますが、守護霊の方は、何だかこう気の合った友達、と言っては相済まないが、大変に親しみがあって、どんなことでも、遠慮なく談話が出来ます。性質は至って優しい、多趣味の人で、殊に音楽が元々本職ですから、その点においては、とても僕達の及ぶところではありません。僕がいかに守護霊の感化で、音楽が好きだと言っても、片手間の余技として、少しばかりかじっただけですから一向に駄目です。こんなことになったのも、結局時代の影響というものでしょう。僕だって、僕の守護霊のように、あの悠長な元禄、享保時代に生まれていたら、或いはそっちの方に、少しは発達していたかも知れません。イヤ余談はさておいて、早速守護霊の修業の話に取り掛かります。何しろ僕の守護霊は、全身全霊を音楽に打ち込んだ位の人ですから、こちらの世界でも、非常に閑静極まる境地に住んでおります。これがその談話です-
 「死ぬまで、音楽で身を立てようとしていたのが、病の為に中道に倒れたのですから、残念で残念で堪らなかった。勿論帰幽後暫くは、うやむやに過ごした。精神が朗らかにならなければ、とても音楽の修業などは、思いも寄らぬことなのである。が、指導霊のお世話で、すっかり正気を取り戻すと同時に、私が真っ先に考えたのは、こちらの世界で、もう一段も二段も、笛の研究をしてみようということであった・・・。
 なので早速指導霊に向かい、勝手ながら私には笛の修業をさせて頂きたいと願い出た。それは聞き届ける、とのことであったので、色々指導霊とも相談の上、こういう仕事は、深山の方が、一番音色も冴えてよかろうという訳で、直ちにその段取りをしてもらうことになった。
 私は指導霊に伴われて、とある深山に分け入ったが、意外にも、それが自分の予想したよりも、遙かに寂しい境地なので、内心少々気味が悪くなり、自然、顔にも寂しそうな色が現れたのであろう、早速指導霊からたしなめられた。「そんな鈍い決心では、修業などはとても駄目である。寂しいと言っても、時々はワシも見回りに来てやるし、又汝の守護霊も世話してくれる。それから昔の笛の上手な者も、稽古をつけてくれることになっている・・・・しっかり致せ!」
 私はこれに励まされ、自分で自分を叱りつけると、間もなく心が落ち着いて来た。それから程よき地点を選んで、そこに修業場を建ててもらったが、それは一人住居にしては、大変広々とした、立派な家屋であった。全てが白木造りで、周囲に縁がついており、そして天井が甚だ高い。これがないと、笛の響きが上手く出ないので・・・。又部屋の広いのは、一つには師匠に来て頂いたり、笛の仲間を招いたりする都合もあるからで・・・。
 私には生前非常に愛玩していた一管の笛があった。それは私の死んだ時、棺の中に納めてもらったが、いよいよ修業場へ落ち着くと同時に、私はその笛を取り寄せてもらった。笛そのものに、何の相違もないが、しかしこちらで吹いてみると、その音色は生前よりも、遙かに冴えて感じた。殊に現界の真夜中時と思われる頃になると、辺りはしんしんとして、笛の音は万山に響き立った。どうしてこんな良い音が出るのか、これが生前出てくれたならば・・・いつもそう思われるのであった。
 私が自分の生命を、笛一つに打ち込んで、我をも忘れて吹きすさんでいると、天狗達がそれを聞きつけて、よく遊びに来る。多い時は五人も来る・・・。天狗の中には、笛の心得のあるものがある。私が天狗に教えてやることもあるが、時とすれば、言うに言われぬ秘儀を、天狗から教えられる場合もある。又笛に連れて、天狗達が舞うこともある。風に翻る立派な衣装、さし手引く手の鮮やかさ、中々もって、地上では見られぬ光景である。
 時としては、精神統一中に、いずこともなく、音楽が聞こえて来ることがある。それはとても妙なる楽の音で、これが私にとりて、どんなに良い修行になるか知れぬ。そうした場合に、自分もよく笛を取り出して合奏してみるが、その楽しみは又格別である。殊に生前ヒチリキの名人であった人が、よく私と合奏をやる・・・」
 大体これが僕の守護霊の音楽修業の談話です。僕もそんな話を聞かされると、少々羨ましくなりますが、残念ながら、僕の素養が足りないので、とても僕の守護霊のように、上手い訳には行きそうもありません・・・。

自殺ダメ


 [霊界通信 新樹の通信](浅野和三郎著)より

 (自殺ダメ管理人よりの注意 この文章はまるきり古い文体及び現代では使用しないような漢字が使われている箇所が多数あり、また振り仮名もないので、私としても、こうして文章入力に悪戦苦闘しておる次第です。それ故、あまりにも難しい部分は現代風に変えております。[例 涙がホロホロ零る→涙がホロホロ落ちる]しかし、文章全体の雰囲気はなるべく壊さないようにしています。その点、ご了承ください。また、言葉の意味の変換ミスがあるかもしれませんが、その点もどうかご了承ください)

 新樹は若くして大連に客死しましたが、その事は前の通信にも掲げられてあります。常時彼の父は、告別式を執り行うべく大連に赴いたその留守中、私は中西霊媒を通じて、彼に死の通告をしたのでした。この事も『新樹の通信』に書いてあります。
 以来新樹を招霊して、彼と通信を試みることは、勿論彼の父の担任するところで、私が直接関係すべきものでもありませんから、十年近くも彼と会話を交える機会なしに過ごしました。然るに昨年彼の父も又世を辞しましたので、故に再び彼との通信を試みるべき巡り合わせとなりました。十年前に彼は、自身の死を私より通告され、十年後の彼は、父の死を私に語る立場となったのです。私は彼等父子の死に、何か因縁あるような気がせぬでもない。
 それは兎に角、この通信は、昭和十三人三月二十四日、彼の母を通じてなされたものです。
 (浅野正恭)

 新樹は生前そっくりの、朗らかな調子で出て参りました。
 「新樹です!伯父さん暫くお目にかかりませんでした。皆さんお丈夫ですか。伯父さんも大分お年を取られたでしょう・・・・。あれからもう十年近くになるということですから・・・」
 「私もどうかこうか丈夫ではいるが、お前の親父が私より早く亡くなってしまったので、私も実は弱った。一身一家の事情ならどうともするし、又成る様に成っても行くだろうが、そうではないのだから・・・」
 「父が亡くなる前に、母の守護霊から通信を受けましたので、僕は父が病気であることを承知して、びっくりしました。びっくりはしましたが、猶予している場合ではないので、神様にお願いもし、又母の守護霊とも一種に、こちらで出来るだけの手段を尽くしました。が、定まる命数とでも申すのでしょうか、どうすることも出来ませんでした。
 で、僕としては、泣く泣くこちらへ来られる際の安らかならんことを、神様にお願いするより他に術がありませんでした。神様もそれは御承知下され、心配せずとも宜しいと申されましたので、その方は安心することが出来ました。
 僕は今父の死に直面せざるを得なくなりまして、新たに死という問題を考えさせられました。自分の事などは兎に角、父はこれ迄心霊研究に尽くして来て、その功績も又特筆に値するものあると信じます。僕は母の守護霊から、父のこれ迄の事業について聞かされ、それが未だ完成の域に達しておらぬ事も、承知しております。即ち事業半ばにして、父はこちらの世界へ来られるのでありますから、ただ残念に思っていることだろうと察して、僕は深く悲しんだのであります。
 父はこの心霊事業の為に、艱難辛苦を重ねましたが、それでもまだ完成に至らなかったということは、この事業がいかに困難であるかを語るものでしょう。困難であるというのは、世の中から認められないということですが、それでも父は、ここまで持って参ったので、堅い堅い、不動の決心がなければ、到底出来る事ではないでしょう。僕それを思うと感慨無量、涙自ら下るのであります」
 こう言い終わると、彼の憑依した母の首は自然にうなだれ、両眼からは涙がホロホロ落ちるのでした。私は感傷的になっては困ると思い、
 「ここで私の考えていることを言うことにするが、お前の父は、二十年の長い間、心霊事業に全身全霊を打ち込み、悪戦苦闘を続けて通して来た。しかし人間の生身には、およそ限りというものがあって、どこまでもそれを続けて行くことは出来ない。そしてこの事業が、右から左へと簡単に行ける性質のものでないことは、二十年苦闘の末に、漸く基礎が出来たという程であるに見ても分かる。基礎が出来たからには、後は順調にトントン進んで行くかといえば、そう平易な道を辿り得るものとは考えられない。そう考えることが出来れば甚だ結構なのだが・・・。
 そんな訳で、生きている限り、今後ともやはり悪戦苦闘を続けて行かねばならぬと見るのがひいき眼を離れての見方であると思う。そしてお前の父は、死の直前まで働き続けて来たので、人生の役目は十分果たしている。事業の完成に至らなかったことは、いかにも残念だが、それでも基礎工事だけは出来た。それからは後の人がやるべきで、いつまでも生き残って、悪戦苦闘を続けるようにと望む事は、私には何だか残酷なような気がせぬでもない。
 それは兎に角、親父はそちらの世界の人となったからには、今後はそちらの世界の研究を進めることになるだろう。そちらの世界には衣食住の心配がなく、いかに勉強しようとも、魂を磨く手段となりこそすれ、悪戦苦闘などということが無くなるから、永遠の生命という方面から見れば、或いは現世を離脱することが、一つの幸せであるのかも知れぬ。人は遅かれ早かれ、どうせ現世を見捨てねばならぬのだから・・・。
 こんな一片の空理、-仏教の悟りめいたことを言うてみたところで致し方がない。心霊研究事業は、人生現質の問題として、重要喫緊な一大事である。それが未だ完成を見るに至らずして逝ったということは、いかにも惜しい。が、いつかはこの問題が、世を風靡するに至るであろう。日本だって、いつ迄もこれに無関心ではあり得ないことも明らかだ。そしてこの基礎を築いた浅野和三郎の名は、永久に残ることになるだろう。逝った者も、後に残る者も、それをせめてもの慰めとすべきであろう。
 それはそうと、まだ父に会うことは許されまいと思うが・・・・」
 「ここ当分は、親子肉親の関係から、会わしてくれません。しかしそれも当分の内だと思います。その時は、僕自身の経験に基づいて、なにかと先導の役を務めるつもりでおります」
 「たとえ面と向かって会わないにしても、よそながら父の様子は見ているのだろう、母の守護霊などと一緒に・・・。それはそうとして、父の臨終の模様を見たことと思うが、今日はその様子を話してもらいたいのだが・・・」
 「僕は近頃幸いに、霊視が利くようになりまして、父の臨終の模様を、神様にお願いして見せてもらいました。僕は自分の臨終を見ることが出来なかったから、一度は他の臨終を見たいと、日常思っていましたが、それが図らずも父の臨終を見ることになりましたのです・・・。
 先に申しました通り、僕は神様に、父がもう一度本復するようにとお願いしました。が、それは駄目でした。僕も仕方なく諦めて、この上はただ臨終の安らかなるよう祈りました。そして父の容態がどうなっているかを、神様にお願いして見せてもらいました。見たところ、さして苦痛もなさそうで、こんな事で、こちらの世界へ来るのかしらと、実は不審に思った位です。ひょっとしたら、或いは神様のお見込み違いではないか-それなら甚だ結構なのだが・・・。それとも神様が僕を試していられるのではないかなど、それからそれと疑念が起こって参ります。で、もう一度神様にお伺いしたのですが、神様はそうではない、こちらで守護しているから、そう見えるだけだ。これは最大の幸福であると仰られるのでした。
 親子の情と申しましょうか、そう神様から申されましても、僕には父が死ぬとは、どうしても思われませんでした。で、何遍も何遍もお伺いしましたが、同じ答えしか得られなかったのです。致し方なく、僕も暫く静観する外ありませんでした。そうする内に、脈が段々細く弱くなり行くよう感じて参りました。
 僕は生前父から聞かされていましたので、早速父の守護霊と談じました。「父はこれ程も心霊を研究し、日本における心霊の開拓者であるから、何かひとつ現世に偉大な置き土産を残すことにしてはどうでしょうか」
と申しますと、父の守護霊は、
 「承知致した。それには幽体が肉体から離脱して行く状況を、本人に見せるのが、一番宜しいと思う」
との事でありました。そしてその方面に取りかかられたのでした。ですから、父も幽体の離脱する状況を、立派に見ている筈です」
 「この前既に招霊して、幽体離脱の状況を聴取し、雑誌に掲載することにしてある」
 「そうですか?もう通信があったのですか。中々抜け目がありませんね・・・・僕なんか青二才は全く駄目です。ではこれから僕の見た幽体離脱の状況をお話致しましょう。
 僕としては、残念ながら、自分の幽体の離れる状況を見ることが出来ませんでした。これは結局心霊知識に乏しかった為で、父の幽体離脱だけは見たいと思い、前にも申す通り、神様にお願い致しました。幽体離脱という事については、生前父から聞かされた事はありましたが、詳しい事など勿論存じません。それで父の場合には、亡くなる時間が一寸あったようでしたね。父はそれまで下に寝ていましたが、起き上がりました。起き上がってから、幽体が離脱し始めたのです」
 「その時かどうかは知らぬが、しきりに起き上がろうとするので、私は勝良(新樹の兄)に抱き起こさせた」
 「父が起き上がると、幽体は足の方から上の方へと離れ始めました。幽体と肉体とは、無数の紐で繋がっていますが、へその紐が一番太く、足にも紐があります。脱け出たところを見ると、父は白っぽいような着物を着ておりました。
 僕は足の方から幽体が脱げかけ、頭の方へと申しましたが、それは殆ど同時と言ってもよい位です。そして無数の紐で繋がれながら、肉体から離れた幽体は、暫く自分の肉体の上に、同じような姿で浮いているのです。そして間もなくそれ等の紐がプツプツと裁断されていきました。これが人生の死、所謂玉の緒が切れるのです」
 「どの紐から切れ始めたか」
 「へそのが一番先で、次が足、頭部の紐が最後でした。紐の色は白ですが、少し灰色がかっております。そして抜け出た幽体は、薄い紫がかった色です。
 何!紐が切れる時に音でもしたかと言うのですか。それは音なんか致しません。その切れる状況は実に鮮やかで、何か鋭利な刃物ででも切られたのではないかと思われる程でした。
 僕は目の当たり父の幽体の離れ行く様を見て、実に何とも言えぬ感慨に満たされました。この離れた幽体は、暫くこのままでおりましたが、やがて一つの白い塊となって、いずこへか行ってしまいました。それから後の事は、僕には何も分かりませんでした。
 僕は父などと違い、大変な執着を持っていました。第一に肉親に対する執着-この執着からまず離れねばならぬと、神様から申されましたが、それは忘れようとして、容易に忘れられるものではありません。この為に、どれだけ神様から叱られたか分かりません。そのお蔭で、今日これ迄仕上げられたのです。父もあれだけの事業を残されたので、執着も必ずあることだろうと思います。
 父はかねがね両親の事を心配しておられたから、神様からお許しが出たなら、まず第一に面会されるだろうと思います。その時は僕もお供をしますし、又通信もするでしょうが、何を申すにも、今はまだ帰幽後間もない事で、僕はよそながら幽体の離れて行く状況を見て、それを伯父さんにお話する程度に過ぎません。伯父さんの方に、何か問題がお有りでしたら、僕神様に伺ってお答えしましょう」
 この幽体離脱の状況は、本人の見るところとも、又他の霊視能力者の見るところとも大体一致しております。で、人間の死んで行く状態は、多少異なるところがあるとしても、大体こういったものと思えば大差なしでしょう。

自殺ダメ


 [霊界通信 新樹の通信](浅野和三郎著)より

 (自殺ダメ管理人よりの注意 この文章はまるきり古い文体及び現代では使用しないような漢字が使われている箇所が多数あり、また振り仮名もないので、私としても、こうして文章入力に悪戦苦闘しておる次第です。それ故、あまりにも難しい部分は現代風に変えております。[例 涙がホロホロ零る→涙がホロホロ落ちる]しかし、文章全体の雰囲気はなるべく壊さないようにしています。その点、ご了承ください。また、言葉の意味の変換ミスがあるかもしれませんが、その点もどうかご了承ください)

 この前伯父さんと約束しておいた、天狗の探検ですが、僕は第一に、その事を指導役のお爺さんに相談しました。お爺さんも賛成してくれ、解らぬところは教えてやるからと言うので、僕単身出掛けることにしました。
 天狗といっても、それには高尚なもの、やくざなもの等、沢山種類があり、又その数も大変多いそうです。その中僕の訪問しようとするのは、ZKという名前の天狗さんです。聞くところによれば、この天狗さんは大分功労経ており身体には毛が生え、一寸動物らしいところがある霊魂だそうで、かなりのお爺さんですが、時には若い風もするとのことです。
 種類も沢山、数も多い天狗さんを、どこにどうして尋ねてよいか見当がつきません。そこで指導役にお尋ねすると、兎に角深山目掛け、心の中でその天狗の名を念じて行けばよいとの事でしたから、僕はそうしました。扮装ですか。それはこの場合でもあり、慣れた洋服を着て行きました。
 やがて聞いた通りの山路に差し掛かりましたが、路は随分険阻です。が、現世のような、危なっかしい感じはしません。深い谷間もあり、四辺の草木の色は鮮やかに、美しい花なども咲いており、鳥の鳴き声も聞こえます。こちらには夜がありませんから、僕は気長な登山気分といった按配で進んで行きました。天狗さんの名を心に念じつつ・・・。
 と、遙か彼方の山の木立の中に、家が見えました。屋根が反り返って、中国風に赤く青く彩色してあります。いつもそんな家がある訳ではないが、僕が訪ねて行くというので、速やかに造ったものでしょう。どうも人が訪問して来る時に、家がないのは具合が悪いもので、僕にもそうした経験があります。多分指導役のお爺さんが、前もって通知しておいてくれたのでしょう。
 門の柱などありませんでしたが、門からかなり離れて玄関がありました。そこにはZK閣と横に書いた額が掛かっていました。書体もどうやら中国風です。そこで僕は「ごめんください」と言って案内を請いました。すると若い男が取り次ぎに出て来たが、その服装は黒い毛繻子(しゅす)様の、中国風の服を纏っていましたが、僕は近頃霊眼が利くので、一寸それを働かせますと、正体はやはり天狗でした。
 来意を告げて取り次ぎを頼むと、やがてZKさんが出て来られたが、やはり老人の姿でした。背はかなり高く、年の頃は七十位に見えます。白い髭を生やして、一寸兜巾に似た面白い帽子を被り、中国服に似て少し袖の広い、鼠色の服を着、立派な草履を履いております。僕は案内されるままに上り、一間に通りましたが、立派なテーブル椅子が備えてありました。家の飾り付けなど、何れも中国好みです。庭も木石の配置等美事に出来ていました。この天狗さん、初めはどうも中国に住んでいたらしいのです。
 椅子に腰をかけてから、僕は身の上をあらまし話し、今度訪問したのは外でもなく、こちらの様子を現世に通信したいからだと申しますと、よくそんなに早く通信出来るようになったものだと言って、お爺さん大いに褒めてくれましたよ。
 僕はこの天狗のお爺さんに、しょっちゅうここに住んでおられるのかと訊きました。すると、天狗さんはイヤ中々そうはいかない、GDという男によく呼ばれて、そっちの方へ出掛けて行かねばならぬと申します。もっともそうでない時は、主に山の中で生活しているが、時には又その男を山へ連れて来て修業をさせることもある。この修業中は、その男に何も食べずともよいようにしてやる。その法はその男にも教えてある。又この山には、薬草が沢山あるので、色々な薬を製造して、前にはその男に渡していたが、今では製造法をその男に教えて作らせることにした。この外木の実や何かで、ブドウ酒に似たような飲み物も作るが、その製法もその男に教えてあると、言っていました。
 それから僕は、どんな事でも出来るかと訊ねますと、どんな事でも出来ると言います。品物を取り寄せることなど訳はないと言いますから、それでは僕の生前好きだったボンタン(果物)を、現世から取り寄せてくれと頼みました。すると天狗さんは、暫し静座瞑目しました。僕はこの時とばかり目を見開いて、どうするのかと観ていました。やがて老人の体がブルブルと震えたなと思った瞬間に、大きなボンタンが、もう僕の前にあるんです。どうしてこうなるのか、とうとう僕には分からずじまいです。
 僕はそのボンタンを持ってみましたが、どうも現世の物よりは軽い。そこで僕は現世の物が欲しかったのだと申しますと、現世のものを取り寄せることは、ここでは少し具合が悪いと言うのです。仕方がないから、僕は天狗界産のそのボンタンの皮を剥いてみました。やはり水気がなく、身もいささかカサカサしています。色は紫がかった、実に綺麗なものでした。
 物品引き寄せはこれ位にして、僕今度は奇跡を見せて欲しいと頼みました。この天狗さんは、野蛮染みたところがないので、物を頼むにも甚だ頼み易いのです。すると天狗さんは、外へ出ようと言います。僕は姿でも消すのかと思いながら、後に付いて庭に出ました。庭には川が流れていて、それに橋が架かっています。天狗さんは橋を渡って行きますから、僕も渡ろうとして、橋に一歩足をかけた途端に、天狗さんの姿も、橋もなくなりました。何だか狐にでもつままれたような恰好で、暫し佇んでいると、二、三間川上の所に、同じような橋が架かっており、そこにお爺さんもちゃんといます。こんな芸当は、天狗さんには朝飯前の仕事で、訳なく出来るらしいのです。
 それから山の方へ行って、直径二尺もあろうという松の大木をへし折りました。それが大きな音を立てて、僕の方へ倒れて来るのです。が、僕いささか自信がありますから、退こうとはしませんでした。勿論当たるようなことはなかったのです。木を折る時に、天狗さんの姿が一寸見えなくなりましたが、木が折れると出て来て、大そう自慢らしい顔つきをしていました。
 それから僕は、この家は、僕が来る為に造ったんで、平生は洞穴の中にでも住んでいるのかと訊きましたら、お爺さんちょっと変な顔をしていましたよ。が、恐らく僕の言った通りなのでしょう。そこで僕は、現界へ通信する必要があるから、どうかこの家を崩壊させて頂き、その有様を見せてもらいたいがと頼みました。天狗さんは快諾して気合のようなものをかけました。すると、赤く青く濃く彩色してある家が、段々淡くなり、上の方から下の方へと、自然に消えて行きました。実に手際は鮮やかなものです。
 そこで僕は天狗さんに頼みました。家の崩壊するところは見せてもらいましたが、今度は家を造るところを見せて頂きたいと。これも天狗さん快諾され、やや暫くすると、又気合のようなものをかけました。すると何も無かった地面の上に、これは前とは反対に、下の方から上の方へと、赤い青い色が付き始め、それが段々濃くなって、前の通りの立派な家が出来上がりました。その出来上がった家を僕は触ってみました。僕が自家の家を触ってみた感じは、何だかカサカサしているのですが、この天狗さんの家も、同じような感じがしました。中国風のどっしりした風には見えますが・・・。
 これで大概目的を達しましたから、僕は辞去するとして、天狗さんに、今度は僕の家へ来られるよう約束しました。今度は僕の方から天狗さんを煙に巻いてやりましょう。その時には佐伯さんにも来てもらうことにしましょう。

 この談話は、GDなる男の談などともよく一致しているところがあり、薬草やら飲料やらについても、そうらしく思われる節が甚だ多い。又『心霊と人生』第十四巻八号『龍神と天狗の一考察』中の天狗の正体を、側面から語っているかの如くであり、又同記事にある霊能者のスケッチと符号しているようにもある。不思議な存在たる天狗研究には、好参考たるを失わないのであろう。西洋の霊界通信には、天狗に関するものがないようであるが、天狗なるものが、我々現世人-特に日本人に働きかける影響も少なくないのであるから、これも等閑に附してはならぬ一存在として、併せて研究の要があることであろう。

↑このページのトップヘ