自殺ダメ
吾輩にはとても地獄の最下層の惨たらしい寂しさを伝える力量はない。体験以外にその想像は先ず難しそうに思われるから一切余計な文句を並べないことにしますが、しかし吾輩の為にはそれが何よりの薬でした。あんな目に遭わされなければ吾輩はとても本心に立ち返るような根性の所有者ではないのでね・・・。
最初吾輩には何ら後悔の念慮などは起こらなかった。胸に漲(みなぎ)るものはただ絶望、ただ棄鉢(すてばち)・・・。すると忽(たちま)ち自分自身の生前の罪障が形態を作って眼前に浮かび出でて吾輩を嘲(あざけ)り責めるのであった-
「汝呪われたる者よ。眼を開けてよく見ておけ。汝は我々を忘れていた。最早汝には何ら希望の余地もない。汝はその生涯を挙げて悪魔の駆使に任した。人間の皮を被った中の一番の屑でも最早汝を相手にはせぬ。汝を見棄てることの出来ないのは我々のみだ。出来ることなら我々とても汝みたいな者とは離れたいのだが・・・」
一応その場面が済むと今度は入れ代わって闇の場面が現れた。全然寂滅そのもののような暗黒である。叫ぼうと思って口を開けてみても声は出ない。闇が口の中に流れ込んで栓をするような気持である。
「彼等の口は塵芥もて塞がるべし・・・」
胸の何処やらにこの文句の記憶が残っているらしく思われたが、文句の出所を探す気にもなれない。兎に角寂しくて堪らない!情けなくてしょうがない!たとえ鬼の鞭に打たれながらも、上の境涯の方がどれほど恋しいか知れないと思えたが、それすらもう高嶺の花であった。
とても歯ぶしの立たない絶対の沈黙!吾輩にはとてもその観念を伝え得る詮術はない。あなた方には上の境涯で八つ裂きの呵責に遭う方がよっぽど辛かろうと思えるかも知れませんが、決して決してそんなものではないです。
こうして幾世紀、幾十世紀かの歳月が荏苒(じんぜん)として経過するように感ぜられた。『永遠の呵責』-あの気味の悪い文句が吾輩の胸の何処かで鳴り響くように思われた。『ここに入りたる者はすべからく一切の希望を棄てよ』-このダンテの文句なども吾輩の耳に響いて来た。
然り一切の希望の放棄!吾輩はしみじみとその境涯の真味を味わいながら、独り法師で幾世紀、幾十世紀の長い長い歳月を苦しみ抜いたのである。が、最後に、バイブルの中の文句が俄然として吾輩の乾燥した胸に浮かび出た-
「神よ神よ、汝は何故に我を見棄て給えるか?」
吾輩はその瞬間までこの恐るべき文句の真意が判らずにいた。そんな事は頓珍漢な不合理だと思っていた。が、この時初めて電光石火的に、神は全ての人間の苦痛-然り、地獄のドン底に墜ちて居る人間の苦痛をも知って御座るに相違ないと気が付いた。キリストの十字架磔刑の物語などは信ずるも信ぜざるもその人その人の勝手である。しかし神様だけは人間の苦痛の一切を知っておられる-この事のみは吾輩断じてそれが事実である事を保証する。
最初この考えが吾輩の胸に浮かんだ時には格別それを大切な事柄とも思わなかった。が、段々時日が経つにつれてこれには何かの深い意味がこもっている事のように思われて来た。吾輩は考えた-若しも神が人間の苦痛を知って御座るなら、愛の権化である神は人間に対して多少の哀れみを抱かるる筈である。無論神は矢鱈に我々を助ける訳には行くまい。枯れる樹木は枯れねばならぬ。しかし若しも神様が何処かにおいでになる以上、必ず吾輩のことを憐れんでいてくださるに相違ない・・・。
次第次第に新しい感情が吾輩の胸に湧き出して来た-吾輩はどうしてこんなに馬鹿だったのだろう。何故もっと早く後悔して地獄から逃れることに気が付かずにいたのだろう?後悔しさえすればきっと神から許される・・・。
が、待てよ、地獄というものは永久の場所ではないのかしら・・・。果たして地獄から脱出することが出来るかしら・・・。
吾輩は考えて考えて考え抜いた。挙句の果には何が何やらさっぱり訳が判らなくなってしまったが、しかし何を考えるよりもキリストの事を考えるのが一番愉快なので、吾輩はそればかり考え詰めるようになった。公平に考えて当時の吾輩にはまだ中々純粋たる後悔の念慮などは起こってはいなかった。が、兎も角も自分は余程の馬鹿者で、詰まらなく歳月を空費したものだと感ずるようになっていた。
「イヤ」と吾輩は叫んだ。「吾輩は借金だけは綺麗に返さねばならない。下らぬ愚痴は言わぬことだ。吾輩は生きている時分にもそんな真似はしなかった。今更世迷い言の開業でもあるまい・・・」
そうする中にも、過去に於いて吾輩が他人に施した多少の善事-数は呆れ返る程少ないが、それでもその一つ一つが、他の不快感極まる光景の裡(うち)にチラチラ浮かび出て、吾輩の干乾びた胸に一服の清涼感を投じてくれた。それからもう一つ懐かしかったのは早く死に別れた母の記憶・・・。
「今頃母の霊魂は何処にどうしておられるだろう・・・・」
母は吾輩のごく幼い時分に亡くなったが、しかしその面影ははっきり胸に刻まれていた。その母から教えられた祈祷の文句-どういうものか吾輩にはそればかりはさっぱり思い出せなかった。他の事柄は残らず記憶しているくせに、祈祷の文句だけ忘れてしまっているというのは全く不思議な現象で、世間で呪われた者に祈祷が出来ないというのは或いは事実なのかも知れないと思われた。
兎に角自分でも気が付かぬ中に吾輩はいくらかずつ祈祷でもしてみようという気分、少なくとも善い事をしてみようという気分になりかかって来たのであった。
この一事は実に吾輩に取りて方向転換の合図であった。それからどうして地獄を脱出することになったかは、これから順序を追って述べることにします。
吾輩は一先ずこの辺で一服させてもらいます。いよいよ墜ちるところまで墜ち切って、これからは上へ昇る話です。人間に取りて第一の禁物は絶望である。神の御力はどこまでも届く。善人にも悪人にも死ということは絶対に無い。永劫の地獄生活は死に近くはあるが死ではない。心が神に向かえば地獄の底からでも受け合って脱出することが出来る。吾輩が何より良いその証人である・・・。
吾輩にはとても地獄の最下層の惨たらしい寂しさを伝える力量はない。体験以外にその想像は先ず難しそうに思われるから一切余計な文句を並べないことにしますが、しかし吾輩の為にはそれが何よりの薬でした。あんな目に遭わされなければ吾輩はとても本心に立ち返るような根性の所有者ではないのでね・・・。
最初吾輩には何ら後悔の念慮などは起こらなかった。胸に漲(みなぎ)るものはただ絶望、ただ棄鉢(すてばち)・・・。すると忽(たちま)ち自分自身の生前の罪障が形態を作って眼前に浮かび出でて吾輩を嘲(あざけ)り責めるのであった-
「汝呪われたる者よ。眼を開けてよく見ておけ。汝は我々を忘れていた。最早汝には何ら希望の余地もない。汝はその生涯を挙げて悪魔の駆使に任した。人間の皮を被った中の一番の屑でも最早汝を相手にはせぬ。汝を見棄てることの出来ないのは我々のみだ。出来ることなら我々とても汝みたいな者とは離れたいのだが・・・」
一応その場面が済むと今度は入れ代わって闇の場面が現れた。全然寂滅そのもののような暗黒である。叫ぼうと思って口を開けてみても声は出ない。闇が口の中に流れ込んで栓をするような気持である。
「彼等の口は塵芥もて塞がるべし・・・」
胸の何処やらにこの文句の記憶が残っているらしく思われたが、文句の出所を探す気にもなれない。兎に角寂しくて堪らない!情けなくてしょうがない!たとえ鬼の鞭に打たれながらも、上の境涯の方がどれほど恋しいか知れないと思えたが、それすらもう高嶺の花であった。
とても歯ぶしの立たない絶対の沈黙!吾輩にはとてもその観念を伝え得る詮術はない。あなた方には上の境涯で八つ裂きの呵責に遭う方がよっぽど辛かろうと思えるかも知れませんが、決して決してそんなものではないです。
こうして幾世紀、幾十世紀かの歳月が荏苒(じんぜん)として経過するように感ぜられた。『永遠の呵責』-あの気味の悪い文句が吾輩の胸の何処かで鳴り響くように思われた。『ここに入りたる者はすべからく一切の希望を棄てよ』-このダンテの文句なども吾輩の耳に響いて来た。
然り一切の希望の放棄!吾輩はしみじみとその境涯の真味を味わいながら、独り法師で幾世紀、幾十世紀の長い長い歳月を苦しみ抜いたのである。が、最後に、バイブルの中の文句が俄然として吾輩の乾燥した胸に浮かび出た-
「神よ神よ、汝は何故に我を見棄て給えるか?」
吾輩はその瞬間までこの恐るべき文句の真意が判らずにいた。そんな事は頓珍漢な不合理だと思っていた。が、この時初めて電光石火的に、神は全ての人間の苦痛-然り、地獄のドン底に墜ちて居る人間の苦痛をも知って御座るに相違ないと気が付いた。キリストの十字架磔刑の物語などは信ずるも信ぜざるもその人その人の勝手である。しかし神様だけは人間の苦痛の一切を知っておられる-この事のみは吾輩断じてそれが事実である事を保証する。
最初この考えが吾輩の胸に浮かんだ時には格別それを大切な事柄とも思わなかった。が、段々時日が経つにつれてこれには何かの深い意味がこもっている事のように思われて来た。吾輩は考えた-若しも神が人間の苦痛を知って御座るなら、愛の権化である神は人間に対して多少の哀れみを抱かるる筈である。無論神は矢鱈に我々を助ける訳には行くまい。枯れる樹木は枯れねばならぬ。しかし若しも神様が何処かにおいでになる以上、必ず吾輩のことを憐れんでいてくださるに相違ない・・・。
次第次第に新しい感情が吾輩の胸に湧き出して来た-吾輩はどうしてこんなに馬鹿だったのだろう。何故もっと早く後悔して地獄から逃れることに気が付かずにいたのだろう?後悔しさえすればきっと神から許される・・・。
が、待てよ、地獄というものは永久の場所ではないのかしら・・・。果たして地獄から脱出することが出来るかしら・・・。
吾輩は考えて考えて考え抜いた。挙句の果には何が何やらさっぱり訳が判らなくなってしまったが、しかし何を考えるよりもキリストの事を考えるのが一番愉快なので、吾輩はそればかり考え詰めるようになった。公平に考えて当時の吾輩にはまだ中々純粋たる後悔の念慮などは起こってはいなかった。が、兎も角も自分は余程の馬鹿者で、詰まらなく歳月を空費したものだと感ずるようになっていた。
「イヤ」と吾輩は叫んだ。「吾輩は借金だけは綺麗に返さねばならない。下らぬ愚痴は言わぬことだ。吾輩は生きている時分にもそんな真似はしなかった。今更世迷い言の開業でもあるまい・・・」
そうする中にも、過去に於いて吾輩が他人に施した多少の善事-数は呆れ返る程少ないが、それでもその一つ一つが、他の不快感極まる光景の裡(うち)にチラチラ浮かび出て、吾輩の干乾びた胸に一服の清涼感を投じてくれた。それからもう一つ懐かしかったのは早く死に別れた母の記憶・・・。
「今頃母の霊魂は何処にどうしておられるだろう・・・・」
母は吾輩のごく幼い時分に亡くなったが、しかしその面影ははっきり胸に刻まれていた。その母から教えられた祈祷の文句-どういうものか吾輩にはそればかりはさっぱり思い出せなかった。他の事柄は残らず記憶しているくせに、祈祷の文句だけ忘れてしまっているというのは全く不思議な現象で、世間で呪われた者に祈祷が出来ないというのは或いは事実なのかも知れないと思われた。
兎に角自分でも気が付かぬ中に吾輩はいくらかずつ祈祷でもしてみようという気分、少なくとも善い事をしてみようという気分になりかかって来たのであった。
この一事は実に吾輩に取りて方向転換の合図であった。それからどうして地獄を脱出することになったかは、これから順序を追って述べることにします。
吾輩は一先ずこの辺で一服させてもらいます。いよいよ墜ちるところまで墜ち切って、これからは上へ昇る話です。人間に取りて第一の禁物は絶望である。神の御力はどこまでも届く。善人にも悪人にも死ということは絶対に無い。永劫の地獄生活は死に近くはあるが死ではない。心が神に向かえば地獄の底からでも受け合って脱出することが出来る。吾輩が何より良いその証人である・・・。