カテゴリ: ★『ベールの彼方の生活』
オーエン 暗黒界の探訪 目次
オーエン ある人物の生前と死後の様子 目次
予知現象の原理
[ベールの彼方の生活(一)]P239より抜粋
(これは、オーエン氏の母親からの通信の中に時折割り込む形で綴られた、アストリエルと名乗る霊からの通信を纏めたものである)
1913年10月31日 金曜日
我々がこうして地上を訪れるのは人間を援助する為である、と思ってくださるのは結構であるが、人間本来の努力が不要となる程の援助を期待されるのは間違いです。地上には地上なりの教育の場としての価値があり、その価値を減じるようなことは許されません。これはもう自明の理と言ってもよい程当たり前のことでありながら、人間にしか出来ないことまで我々に依頼する人が多く、それも程々ならともかくも、いささか度を超した要求をする人が多くて困ります。
-どなたでしょうか。
ご母堂と共に参りました。アストリエルとその霊団の者です。
-どうも。いつもの母の霊団の文章とは違うように思えたものですから。
違いましょう。同じではない筈です。その理由は一つには性格が異なり、属する界が異なり、性別も違うからです。性別の違いは地上と同じく、こちらでもそれぞれ特有の性格が出るものです。もう一つは、地上での時代がご母堂達とは違うからです。
-古い時代の方ですか。
左様。英国でした。ジョージ一世(1660~1727)の時代です。もっと古い時代の者もおります。
-霊団のリーダーとお見受けしますが、ご自身について何かお教え願えませんか。
いいでしょう。ただ地上時代の細かい事柄は貴殿らには難なく分かりそうに思えても、我々には大変やっかいなものです。でも分かるだけのことを申し上げましょう。私はウェーリック州に住み、学校の教師-学校長をしておりました。他界したのが何年であったか、正確なことは判りません。調べれば判るでしょうが、大して意味のないことです。
では用意して来たものを述べさせて頂きましょうか。我々は援助することは許されていても、そこには思慮分別が必要です。例えば我々霊界の者は学問の分野でもどんどん教えるべきだと考える人がいるようですが、これは、神が人間なりの努力をする為の才能をお授けになっていることを忘れた考えです。人間は人間なりの道を踏みしめながら努力し、出来る限りのことを尽くした時に初めて我々が手を差し延べ、向上と真理探求の道を誤らないように指導してあげます。
-何か良い例を挙げて頂けますか。
直ぐに思い出すのは、ある時、心理学で幻影と夢について研究している男性を背後から指導していた時のことです。彼は夢の中に予知現象が混じっている原因を研究していました。つまり夢そのものと、その夢が実現する場合の因果関係です。私との意志の疎通が出来た時に、私は、今まで通りに自分の能力を駆使して研究を続けておれば時機をみて理解させてあげようという主旨のことを伝えました。
その夜彼が寝入ってから私は直接彼に会い(睡眠中人間は肉体から脱け出て、地上又は霊界を訪れる。その時必ず背後霊が付き添うが、その間の体験は物的脳髄には滅多に感応しない。きちんと回想出来る人が霊能者である-訳者)、現在という時の近くを浮遊している出来事、つまり少し前に起きたことと、その直ぐ後に起きることとを影像の形で写し出す実験をする霊界の研究室へ案内しました。そこでの実験にも限界があり、ずっと昔のことや、ずっと先のことまでは手が届かないのです。それはずっと上層界の霊にしか出来ません。
我々は器具をセットしてスクリーンの上に彼の住んでいる地区を映し出し、よく見ているように言いました。そこに〝上映〟されたのは、さる有名な人物が大勢の従者を従えて彼の町に入って来る光景でした。終わると彼は礼を言い、我々の手引きで肉体へ戻って行きました。
翌朝目を覚ました時何となくどこかの科学施設で実験をしている人達の中にいたような感じがしましたが、それが何であったかは思い出せません。が、午前中いつもの研究をしている最中に、ふと夢の中の行列の中で見かけた男性の顔が鮮明に蘇って来ました。それと一緒に、断片的ながら夢の中の体験も幾つか思い出しました。
それから二、三日後のことです。新聞を開くと同じ人物が彼の住んでいる地区を訪問することになっているという記事を発見したのです。そこで彼は自分で推理を始めました。
我々が案内した実験室も、スクリーンに上演して見せたものも思い出せません。が、その人物の顔と従者だけは鮮明に思い出しました。そこで彼が推理したのはこういうことでした。-肉体が眠っている時人間は少なくとも時たま四次元の世界を訪れる。その四次元世界では本来のことを覗き見ることが出来る。が、この三次元の世界に戻る時にその四次元世界での体験の全てを持ち帰ることは出来ない。しかし地上の人物とか行列の顔といった三次元世界で〝自然〟なものは何とか保持して帰る、と。
予知された夢と実際の出来事との関係は四次元状態から三次元状態への連絡の問題であり、前者は後者より収容能力が大きい為に、時間的にも、出来事の連続性においても、後者よりはどうしても広い範囲に亘ることになります。
さて、こうして彼は自分の才能を駆使して、私が直接的に教示するのと変わらない、大いなる知識の進歩を遂げました。それは同時に彼の知能と霊力の増強にも役立ちました。無論彼の出した結論はこちらの観点からすればとても合格とは言えず、幾つか修正しなければならない点がありますが、全体的に見てまずまずであり、実際的効用を持っております。私が直接的にインスピレーションによって吹き込んでも、あれ以上のことは出来なかったでしょう。
以上が我々の指導の仕方の一例です。こうしたやり方に不満を抱き、人間的観点からの都合のよいやり方をしつこく要求する人は、我々は放っておくしかありません。謙虚さと受容性を身に付けてくれれば再び戻って来て援助を続けることになります。
ではこの話が差し当たって貴殿とどう関わりがあるかを説明しましょう。貴殿は時折我々の通信が霊界からのものであることに疑念も躊躇もなしに信じられるよう、なぜもっと(貴殿の表現によれば)鮮明にしてくれないのかと思っておられるようであるが、以上の話に照らしてお考えになれば、貴殿か自ら考察して行く上でヒントになるものはちゃんと与えてあることに納得が行かれる筈です。忘れないで頂きたいのは、貴殿はまだまだ〝鍛練〟の段階にあるということです。本来の目的はまだまだ成就されておりません。いや、地上生活中の成就は望めないでしょう。ですが我々を信じて忠実に従って下されば、事情が段々明瞭になって行きます。自己撞着のないものだけを受け入れていけばよろしい。証拠や反証を求め過ぎてはいけません。それよりは内容の一貫性を求めるべきです。我々は必要以上のものは与えませんが、必要なものは必ず与えます。批判的精神は絶対に失ってはなりません。が、その批判に公正を欠いてはなりません。貴殿の周り、貴殿の生活には虚偽よりも真実の方が遙かに多く存在しています。少しでも多くの真理を求めることです。きっと見出されます。虚偽には用心しなければなりませんが、さりとて迷信に惑わされて神経質になってはなりません。例えば山道を行くとしましょう。貴殿は二つの方向へ注意を向けます。すなわち一方で正しい道を探し、もう一方で危険が無いかを確かめます。が、危険が無いかというのは消極的な心構えであって、貴殿なら正しい道という積極的な方へ注意を向けるでしょう。それでよろしい。危険ばかり気にしては先へ進めません。ですから、滑らないようにしっかりと踏みつけて歩き、先を怖がらずに進むことです。怖がる者はとかく心を乱し、それがもとで悲劇に陥ることがよくあります。
では失礼します。こちらでの神の存在感はただただ素晴らしいの一語に尽きます。そして地球を取り巻く霧を突き抜けて輝き渡っております。その輝きは万人に隔てなく見える筈のものです-見る意志なき者を除いては。神の光は、見ようとせぬ者には見えません。
<原著者ノート>読者は多分、母からの通信を中心とするこのシリーズの終わり方が余りに呆気無さ過ぎるようにお感じであろう。筆者もその感じを拭い切れない。そこで次に通信を引き継いだザブディエル霊にその点を率直に質してみた。(第二巻の冒頭で-訳者)
-私の母とその霊団からの通信はどうなるのでしょう。あのまま終わりとなるのでしょうか。あれでは不完全です。つまり結末らしい結末がありません。
左様、終わりである。あれはあれなりで結構である。元々一つに纏まった物語、或いは小説のようなものを意図したものではないことを承知されたい。断片的かも知れぬが、正しき眼識をもって読む者には決して無益ではあるまい。
-正直言って私はあの終わり方に失望しております。あまりに呆気無さ過ぎます。又最近になってこの通信を(新聞に)公表する話が述べられておりますが、そちらのご希望は、有りのままを公表するということですか。
それは汝の判断にお任せしよう。個人的に言わせてもらえば、そのまま公表して何ら不都合はないと思うが。ただ一言申し添えるが、これまでの通信も今回新たに開始された通信も、これより届けられる更に高尚なる通信の為の下準備であった。それを予が行ないたい。
結末について筆者が得た釈明はこれだけである。どうやら本編はこれから先のメッセージの前置き程度のものと受け取る他はなさそうである。
G・V・オーエン
祈願成就の原理
自殺ダメ
[ベールの彼方の生活(一)]P206より抜粋
(これは、オーエン氏の母親からの通信の中に時折割り込む形で綴られた、アストリエルと名乗る霊からの通信を纏めたものである)
1913年10月7日 火曜日
この度初めて同行して来た霊団の協力を得て私はこれより、ベールのこちら側より観た〝信仰〟の価値について少しばかり述べてみたいと思う。
キリスト教の〝使徒信条〟に盛り込まれた狭義については今ここで多くを語るつもりはありません。既に多く語られ、それ以上の深いものを語るにはまだ人間側にそれを受け入れる用意が十分に出来ていないからである。そこで我々は差し当たってその問題については貴殿の判断にお任せし、どの信条も解釈を誤らなければそれなりの真理が含まれている、と述べるに留めておきます。
そこで我々としては現在の地上の人間があまり考察しようといない問題を取り上げることにしたい。その問題は、人間が真理の表面-根本真理でなく真理の上辺に過ぎないもの-についての論争を卒業した暁には必ず関心を向けることになるものである。それを正しく理解すれば、今人間が血眼になっている問題の多くがどうでもよい些細なことであることが判り、地上だけでなくこちらの世界でも通用する深い真理へ注意を向けることになるでしょう。
その一つが祈りと瞑想の効用の問題である。貴殿はこの問題については既に或る程度の教示を受けておられるが、我々がそれに追加したいと思います。
祈りとは成就したいと思うことを要求するだけのものではない。それより遙かに多くの要素を持つものです。であるからには、これまでよりも慎重に考察されて然るべきものです。祈りに実効を持たせる為には、その場限りの目先の事柄を避け、永遠不易のものに精神を集中しなくてはならない。そうすれば祈りの中に盛り込みたいと思っていた有象無象の頼み事の大部分が視界から消え、より重大で幅広い問題が創造力の対象として浮かび上がって来る。祈りにも現実的創造性があります。例えば数匹の魚を五千人分に増やしたというイエスの奇跡(ヨハネ6)に見られるように、祈りは意念の操作による創造的行為である。その信念のもとに祈りを捧げれば、その祈りの対象が意念的に創造され、その結果として〝祈りが叶えられる〟ことになる。つまり主観的な願いに対し、現実的創造作業による客観的回答が与えられるのです。
祈りの念の集中を誤っては祈りは叶えられません。放射された意念が目標物に当たらずに逸れてしまい、僅かに適中した分しか効果が得られないことになる。更に、その祈りに良からぬ魂胆が混入しても効力が弱められ、こちら側から出す阻止力又は規制力の働きかけを受けることになります。どちらを受けるかはその動機次第ですが、いずれにせよ望み通りの結果は得られません。
さて、こうしたことは人間にとっては取り留めのない話のように思えるかも知れませんが、我々にとってはいささかもそうではない。実はこちらには祈りを担当する専門の霊団がいて、地上より送られてくる祈りを分析し選別して、幾つかの種類に区分けした上で次の担当部署に送る。そこで更に検討が加えられ、その価値評価に従って然るべく処理されているのです。
これを完璧に遂行する為には、地上の科学者が音と光のバイブレーションを研究するのと同じように祈りのバイブレーションを研究する必要があります。例えば光線を分析して種類分けが出来るように祈りも種類分けが出来るのです。そして科学者にもまだ扱い切れない光線が存在することが認識されているように、我々の所へ届けられる祈りにも、こちらでの研究と知識の範囲を超えた深いバイブレーションを持つものがあります。それは更に高い界層の担当者に引き渡され、そこでの一段と高い叡智による処理に任される。高等な祈りが全て聖人君子からのものであると考えるのは禁物です。往々にして無邪気な子供の祈りの中にそれが見出されます。その訴え、その嘆きが、国家的規模の嘆願と同じ程度の慎重な検討を受けることすらあるのです。
「汝からの祈りも汝による善行も形見として神の御前に届けられるぞよ」-天使がコルネリウス(ローマ教皇251-253)に告げたと言われるこの言葉をご存知であろう。これは祈りと善行がその天使の前に形体をとって現れ、多分その天使自身を含む霊団によって高き世界へと届けられる実際の事実を述べたものであるが、これが理解されずに無視されています。この言葉は次のように言い換えることが出来よう-〝貴殿の祈りと善行は私が座長を務める審議会に託され、その価値を正当に評価された。我等はこれを価値あるものと認め、我等より更に上の界の審議官によりても殊の外価値あるものとのご認知を頂いた。よってここに命を受けて参じたものである〟と。我々はわざとお役所風に勿体ぶった言い方で述べましたが、こちらでの実際の事情を出来るだけ理解して頂こうとの配慮からです。
以上の事実に照らしてバイブルに出ている祈りの奇跡の数々を吟味して頂けば、我々霊界の者が目の当たりにしている実在の相をいくらか推察して頂けるであろう。そして大切なのは、祈りについて言えることがそのまま他のあまり感心出来ぬ心の働きにも当てはまるということです。例えば憎しみや不純な心、貪欲、その他諸々の精神的罪悪も、そちらでは目に見たり実感したりは出来ないでしょうが、こちらでは立派な形態をとって現れるのです。悲しいかな、天使は嘆くことを知らぬと思い込むような人間は、地上で苦しむ同胞に対して抱く我々の心中をご存知ない。神から授かれる魂の使用を誤っているが故に悩み苦しむ人々の為に我々がいかに心を砕いているかをご覧になれば、我々に愛着を感じて下さると同時に、無闇に神格化してくれることもなくなるでしょう。
さて、この問題は貴殿がその価値をお認めになれば、後はご自分で更に深く考究して頂くことにして、貴殿はもう少し通信を続けたいというお気持なので、貴殿にとって興味もあり為にもなる別の話題を提供しようかと思います。
貴殿の教会の尖塔に風見鶏が付いております。あれは貴殿があのような形にしようと決められたことは憶えておられることと思いますが、いかがであろう。
-今あなたから指摘されるまですっかり忘れておりました。仰る通りです。建築家から何にするかと言われて魚と鶏のどっちにしようかと迷ったのですが、最終的には鶏にしました。でも、そんなことが何の意味があるのでしょうか。
ごもっとも。貴殿にとっては些細なことでしょうが、我々の世界から見ていると、些細なことというのは滅多にないものです。鶏の格好をしたものがあの塔の先に付いている光景は実は五年前に貴殿の精神の中での一連の思念の働きの直接の結果でした。一種の創造的産物というわけです。こんな話を聞けばお笑いになる方も多いでしょうが、それは一向に構いません。我々の方から見ても人間のすることに苦笑することが多々あり、なぜ笑うのか理解に苦しまれるであろうことがあるものです。
貴殿が何気なく決めた時の一連の思念の働きというのは、風見鶏を見ることによって信者の方に、ペテロが主イエスに背いたことを思い出してもらおうということでした。思うに貴殿は今の時代に二度とペテロと同じ過ちを繰り返さぬようにその警告のつもりだったのでしょう。しかし、ただそれだけの一見些細に思える決断が我々の世界へ届き、我々はそれを真剣に取り上げたのです。
申し上げますが、新しく教会を建立するということは実はこちらの世界からの大いなる働きかけを誘う大事業です。新しい礼拝の場の建立ですから、礼拝に出席する霊、建物を管理する霊、等々実に大勢の霊がそれぞれの役目を与えられてその遂行に当たります。貴殿の同僚の中にはその様子を霊視した人がおられますが、その数は極めて限られております。牧師、会衆、聖歌隊、等々のそれぞれの性格を考慮に入れ、我々の中の最適の霊つまり指導する対象にとって最も相応しい霊を選出し、更には建物の構造まで細かく配慮する。象徴性は特に念入りに検討します。人間には気付かない重要な意味があるからです。風見鶏もその意味で考慮したわけです。話題としてはもっと大きなものを取り上げても良さそうですが、一見なんでもなさそうに思えるものにもちゃんとした意味があることをお教えしたくて、これを選んだわけです。
さてシンボルとして貴殿が雄鶏を選んだからには、我々としてもそれに応えて教会に何かを寄贈しようということになった。それが我々の習慣なのです。そこで選ばれたのが例の鐘で、その為に聖歌隊の一人に浄財を集めさせたのです。教会が完成して祝聖式が執り行われた時はまだ鐘は付いておりませんでした。雄鶏は中空高くそびえていても、その口からは貴殿の目論む警告が発せられない。そこで我々がその〝声〟を雄鶏に与えたという次第です。鐘の音が雄鶏の言葉-〝夕べの祈り〟の時も聞こえていた如く-です。
貴殿はこうしたことを霊界での幻想とでも思われますか。ま、そういうことにでもしておきましょう。でも、とにかくあの鐘のことは有り難いと思われたのではないですか。
-それはもう、本当に嬉しかったです。この度の通信にもお礼申し上げます。宜しかったらお名前を伺いたいのですが。
我々は貴殿のご母堂が時折訪れる界から参った者です。実はご母堂から我々にもっと貴殿を身近に観察して、出来れば何かメッセージを送って欲しいとのご要望があった。仲間の方と一緒に来られたのです。霊団を代表して私から言わせて頂けば、この度のことは我々も喜んでお引き受け致しました。が、実は貴殿のことも教会の建立のことも、ご母堂からお聞きする前から知っておりました。
-ご厚意に感謝致します。お名前をお聞きするのは失礼に当たりましょうか。
別に失礼ではありませんが、申し上げても貴殿はご存知ないし、その名前の意味も理解出来ないのではないかと思いますが。
-でも、宜しかったら是非教えて下さい。
アストリエル。神の祝福を。
<原著者ノート>アストリエル霊は通信のお終いに必ず十字架のサインをした。