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自殺の霊的知識へ

カテゴリ: ★『霊との対話』

サミュエル・フィリップ氏は、まさに善人という言葉に相応しい人物であった。彼が何か意地悪なことをするのを見たことのある人は一人もいないし、彼が誰かを非難するのを見たことのある人も一人もいない。
 氏は、友人達に対して本当に献身的に尽くしてきた。そして、必要な時には、自らの利益を投げうってまでも、友人達に奉仕するのであった。苦難、疲労、犠牲等、一切をものともせずに、人々に尽くした。しかも、ごく自然に、極めて謙虚にである。人がそのことに対してお礼でも言おうものなら、むしろびっくりするくらいであった。また、どんなに酷いことをされても、決して相手を恨まなかった。恩知らずな仕打ちを受けると、「気の毒なのは私ではなくて、彼らの方なんですよ」と言うのであった。
 非常に知性が高く、生まれつき才能に恵まれていたが、彼の人生は、苦労が多いわりにはパッとせず、厳しい試練に満ちていた。日陰の花であり、その存在が人々の口の端に上ることもなく、地上ではその光が認められない類の人であった。霊実在論をしっかりと学んで、篤い信仰を得ており、地上を満たす悪に対しては、深い諦念(道理を悟って物事をありのままに受け入れること)をもってするのが常であった。
 氏は、1862年12月に、五十歳で、長い病苦の果てに亡くなった。その死を悲しんだのは、家族とごく少数の友人達のみであった。
 死後、何度か招霊に応じてくれた。

ー地上で息を引き取った最後の瞬間に関して、はっきりした記憶はお持ちですか?
 「よく覚えています。その記憶が徐々に戻りつつあるのです」
ー我々の意識が向上出来るように、また、あなたの模範的な人生を我々がしっかり評価出来るように、あなたが経験した、肉体的生活から霊的生活への移行の様子を教えて頂けますか?さらに、現在、霊界でどのように暮らしておられるのか、教えて頂けないでしょうか。
 「喜んでお教え致しましょう。こうした交流は、あなた方にとって有益であるだけではなく、私にとっても有益であるのです。地上での私の意識を回想することで、霊界との比較がなされ、そのことによって、私は、神がいかに私を優遇してくださっているかということが、非常によく分かるからです。
 私の人生にどれほど多くの試練があったかは、あなた方がよくご存知の通りです。しかし、有り難いことに、私は決して逆境の中で勇気を失いませんでした。今、そのことで本当に自分を褒めてやりたいと思っています。もし勇気をなくしていたら、どれほどのものを失っていたでしょうか。私が途中で諦めてそれらを投げ出し、したがって、同じことをもう一度、次の転生でやらなくてはならなかったとしたら・・・。そう考えただけで、恐ろしさに身震いする程です。
 我が友人諸君よ、よくよく次の真理を体得して頂きたいのです。すなわち、『問題は、死んでから幸福になれるかどうかだ』ということです。地上における苦しみで、死後の生活の幸福を購えるとすれば、決して高い買い物ではありません。無限の時間を前にしては、地上でのほんの短期間の苦しみなど、本当に何ほどのこともないのです。
 今回の私の人生は多少の評価に値するとしても、それ以前の人生は酷いものでした。今回、地上で一生懸命に努力したお陰で、ようやく今のような境地に至ることが出来たのです。過去世でのカルマを解消する為に、今世、地上において数多くの試練をくぐり抜ける必要があったのです。私はそれを潔く引き受けました。ひとたび決意したからには弱音を吐く訳には参りませんでした。
 今、そうした試練をくぐり抜けることが出来て、本当によかったと思います。地上での試練を今では祝福したいくらいです。それらの試練を通じて、私は過去と決別出来たのであり、今では過去は私にとって単なる思い出でしかなくなりました。今後は、過去に辿った道を、正当に手に入れた満足感と共に心静かに眺めることが出来るでしょう。
 私を地上で苦しめた人々よ、私に辛く当たり、私に悪意を向けた人々よ、私を侮辱し、私に苦汁を飲ませた人々よ、虚偽によって私の財産を奪い、私を窮乏生活に追い込んだ人々よ、私はあなた方を許すのみならず、あなた方に心から感謝いたします。
 あなた方は、私に悪を為しながら、実はこれほどの善を為していたなどとは、到底知るべくもなかったでしょう。今私が享受している幸福の殆どは、あなた方のお陰なのです。あなた方がいてくださったからこそ、私は許すことを学び、悪に報いるに善をもってすることを学ばせて頂いたのです。
 神は、私の進む道にあなた方を配し、私の忍耐心を試してくださったのです。そして、[敵を愛する]という、最も難しい愛の行為が出来るようにと、私に貴重な修行の機会を与えてくださったのです。
 さて、長々と前置きをしてしまいました。それでは、お尋ねの件に戻りましょう。
 生前、最後の病気ではひどく苦しみましたが、臨終に際しては苦しみはありませんでした。私にとって、死とは、戦いでも脅威でもなく、丁度眠りのようなものでした。死後の世界に何の不安もありませんでしたので、生にしがみつくこともありませんでした。したがって、生命が消えようとする最後の瞬間に、じたばたすることもなかったのです。肉体からの魂の分離は、私が知らない間に、苦しみもなしに、また努力もなしに行われました。
 この最後の眠りがどれ位の間続いたのかは分かりません。眠りに入る直前とは全く違い、すっかり落ち着いて目覚めました。もう苦しみはなく、喜びに満ちていました。起き上がって歩こうと思いましたが、全身が心地良く痺れており、なかなか起き上がることが出来ませんでした。自分がどのような状況にあるのか全く分かりませんでしたが、とにかく地上を去ったということだけははっきりしていました。丁度夢を見ているような感じでした。
 私の妻と数人の友人が部屋で跪いて泣いているのが見えましたので、私が死んだと思い込んでいるのだということが分かりました。そうではないことを分からせてやろうとするのですが、なぜか一言も言葉が出ません。
 周りを見ると、ずっと昔に亡くなった、愛する人々が、静かに取り囲んでくれていました。また、一見しただけでは誰なのか分からない人々もいました。そうした人々が、じっと、私を見守り、私の目覚めを待ってくれていたのです。
 こうして、覚醒状態とまどろみ状態が交互にやってきましたが、その間、意識を取り戻したり失ったりしていました。やがて徐々に意識がはっきりしてきました。霧に遮られたようにしか見えなかった光が、輝きを増してきました。自分のことがよく分かるようになり、もう地上にはいないのだということが本当に理解出来ました。もし霊実在論を知らなかったら、錯覚がもっとずっと長く続いていただろうと思います。
 私の遺骸はまだ埋葬されていませんでした。それは哀れな様子をしており、私はようやくそんな肉体から解放されたことに喜びを感じていました。自由になれてもの凄く嬉しかったです。瘴気の充満する沼地から脱出した人のように、楽々と呼吸が出来ました。私の存在全体に、筆舌に尽くし難い幸福感が浸透してきました。
 かつて地上で私が愛した人々が側にいてくれるということが、私を喜びで満たしていました。彼らを見ても何も驚きませんでした。全く自然に感じられたからです。ただ、長い旅の後で再び彼らに会った、という感じでした。一つびっくりしたのは、一言も言葉を交わさないのに、意思の疎通が出来るということでした。目を見交わしただけで、思いが伝わってくるのです。
 とはいっても、まだ地上の思いを完全に脱していたわけではありませんでした。地上で耐え忍んだことが色々と思い出され、新しい状況をよりよく理解する為のよすがとなりました。
 地上では肉体的にも苦しみましたが、やはり精神的な苦悩の方が大きかったのです。数多くの悪意を向けられた結果、現実の不幸よりももっと辛い数多くの困難に晒されたのです。困惑というのは、持続的な不安を生むものです。そうしたことが未だに心から完全に消えておらず、本当に解放されたのかどうか心配になる程でした。まだ不愉快な声が聞こえるような気がしました。私をあれ程度々苦しめた困惑を未だに恐れており、われにもなく震えているのです。夢を見ているのではないかと何度も腕をつねりました。
 そして、ついに、そうしたことが全て終わっているのだという確信を得た時は、本当に大きな重しが取れたような気がしました。『一生、私を苦しめ続けた全ての心配から、ようやく解放されたのだ』と思い、心から神に感謝したのです。
 私は、丁度、ある日突然とてつもない遺産を手にした貧乏人のような気分でした。暫くの間は、それが本当だとは信じられず、明日の食事の心配をするのです。
 ああ、地上の人々が死後の世界を知ることが出来たら、どんなによいことでしょうか。そうすれば、逆境にあって、どれほどの勇気、どれほどの力が得られることでしょう。地上で神の法に素直に従った子供達が、天国でどれほどの幸せを得られるかを知っていれば、どんなことだって我慢出来ます。死後の世界を知らずに生きた人は、『自分の怠慢によって天国で失うことになる喜びに比べれば、地上にいる間に手に入れたくて仕方がなかった他人の喜びなど、本当に何程のこともない』ということを思い知らされるのです」
ーそれほど新鮮な世界に還り、「地上など何程のこともなかった」ということを知って、かつての親しい友人達にも再び会えた今、家族や地上の友人達のことは、もう多分霞んできていることでしょうね。
 「私がもし彼らのことを忘れたとすれば、今味わっている幸福に相応しくない人間になってしまうでしょう。神はエゴイズムには報いず、罰を与えるのです。確かに、天上界にいると地上は厭わしく感じられますが、地上にいる仲間まで厭わしくなるわけではありません。お金持ちになったからといって、貧乏時代の大切な仲間のことを忘れるでしょうか?
 友人や家族にはこれからもしばしば会いに行くつもりです。彼らが、私について、よい思い出を持っていてくれるのは、大変嬉しいものです。その思いが私を彼らのもとに引き寄せます。彼らの会話に聞き入り、彼らの喜びを喜び、彼らの悲しみを悲しむのです。
 ただし、地上の人間と同じようには悲しみません。というのも、そうした悲しみは一時的なものであり、より大きな善の為であることをよく知っているからです。『彼らもやがては地上を去り、苦しみの一切存在しない、この豊かな美しい世界の住民になる』と思うと、本当に幸せになるのです。
 私がひたすら為すべきなのは、彼らがそういう世界に値する人になれるようにと手助けすることです。彼らが常に善き思いを持つことが出来るように、特に、私自身が神の意思に従って得ることが出来た諦念を、彼らもまた得ることが出来るように、私はひたすら努力するつもりでいます。
 私にとって最も辛いのは、彼らが、勇気が足りない為、また、不平不満の心を持っている為、さらに、死後の世界に対して疑いを持っている為に、天上界に戻るのが遅れることです。ですから、彼らが間違った道に逸れていかないように、一生懸命、導くつもりです。
 もし成功すれば、それは私にとっても非常な幸せとなるでしょう。何しろ、この世界で一緒に喜び合うことが出来るのですから。もし失敗したとするならば、後悔の念と共に、『ああ、また彼らは遅れをとったのだ』と思うことになるでしょう。とはいっても、何度でもやり直しが利くということを思い出して、心は治まるだろうとは思いますが」

ブリュッセルの産業博物館の館長であったジョベール氏は、オート・マルヌ県のベッセイで生まれた。1861年10月27日、ブリュッセルで突然の脳卒中に襲われて亡くなった。享年69歳。

 「こんばんは。あなた方が私を招霊しようとしてくれていることを承知の上で、このように自分から降りてきました。暫くの間、この霊媒を通じてコンタクトしようと努力していましたが、今ようやくこうしてコンタクトが可能となりました。
 魂が肉体から分離した時の印象を語りましょう。まず、それまで感じたことのない動揺を感じました。私の誕生の時、青春時代、壮年時代、そうした時代の記憶が突然全て甦ってきたのです。私は、『信仰によって啓示された、私の還るべき場所に還りたい』という気持ちで一杯でした。すると、徐々に記憶が静まってきました。私は自由になり、遺体が横たわっているのを見ました。
 ああ、肉体の重みから自由になることの何という嬉しさ!空間を自由に動き回れるというのは本当に心躍る経験です。とはいっても、一気に、神に選ばれし者になったわけではありません。私には、まだまだ課題が残っており、学ぶべきことがあるのですから。
 間もなく、あなた方のことを思い出しました。地上という流刑地にある兄弟諸君よ、私の同情を、そして私の祝福を受け取ってください。
 私がどのような霊人達に迎えられ、どのような印象を持ったかを知りたいのではありませんか?地上にいた時に私が招霊し、お互いに協力し合って仕事をした霊人達は、全て友人としてやってきてくれました。壮麗な輝きを感じましたが、地上の言葉では、到底その輝きを伝えることが出来ません。霊界通信で知ったことを確認し、誤った認識は改めようとしました。そして、地上においてもそうであったように、霊界においても、真理の騎士たらんとしているのです」
ーあなたは、地上におられる間に、「地上を去った後で必ず招霊してくれるように」と私達に頼んでくださいました。今、その約束を果たさせて頂いているわけですが、それは単にあなたの願いを聞き届ける為だけではありません。それだけではなくて、あなたへの心からの感謝をお伝えする為であり、また、あなたから貴重な知識を教えて頂いて、私達の向上の糧にする為でもあります。
 というのも、今あなたがいらっしゃる霊界についての正確な情報を、与えてくださることが出来る立場にあなたはおられるからです。ですから、私達の質問にお答え頂ければ誠に幸せに存じます。
 「現時点で最も大切なのは、あなた方の向上です。
 私への感謝の思いに関して言えば、私にはそれが見えます。私は、こちらへ来てから随分進歩したので、『耳で言葉を聞くだけ』という地上の制約を脱しており、思いを直接知ることが出来るようになったのです」
ー事態をはっきりさせる為にお聞きするのですが、現在、この部屋のどの辺にいらっしゃいますか?また、我々がそのお姿を拝見出来るとすれば、どのようなお姿をしていらっしゃるのでしょうか?
 「霊媒のすぐ側にいます。もし、私を見るとすれば、テーブルの側の椅子に座っている姿が見えることでしょう。というのも、通常、人間には、霊の姿は人間的な姿として見えることになっているからです」
ー我々があなたの姿を見ることが出来るようになるのは可能なのでしょうか?もし不可能だとすれば、何が問題なのでしょうか?
 「あなた方の個人的な能力の問題です。霊視の利く霊媒であれば簡単に見えるはずですから」
ーその席は、生前、交霊会のたびにあなたが座っておられた席で、あなたの為に、我々が確保しておいた席です。ですから、生前のあなたを知っている人々は、そこに座っておられるお姿を想像することが出来ます。物質的な肉体を持ってそこにいらっしゃらなくとも、幽体を纏ってそこにいらっしゃるわけですね。肉体の目では見えませんが、精神の目では見ることが出来ます。
 声を発してコミュニケーション出来なくても、霊媒の手を通して文字を書くことでコミュニケーションが成立します。あなたの死によって、我々との交流が断絶したわけではなく、かつてと同じく、今でも容易に、そして完全に対話を交わすことが出来るのです。
 以上のように考えてよろしいでしょうか。
 「結構です。それは既に随分前から分かっていることです。私は、今後、この場所に、あなた方が知らずにいても、座っていることになるでしょう。というのも、私はあなた方と共に生きるつもりだからです」

 「私はあなた方と共に生きるつもりだからです」という最後の言葉に注意を喚起しておきたい。というのも、現在の状況では、これは単なる比喩ではなくて、一つの現実だからである。
 霊実在論が、霊の本質に関して教えてくれるところによれば、霊は、単に思いにおいて我々と一緒にいられるだけでなく、現実に、幽体を纏った姿で、はっきり個性を持った個人として、我々の側にいることが出来るのだ。つまり、霊は、死んだ後も、もしそれを望むのであれば、生前と同様に我々の間にいることが出来るのである。しかも、いつでも好きな時にやってきて、好きな時に立ち去ることが出来る。
 というわけで、我々の側には、我々に無関心な、或は、我々と愛情で結びついている、実に沢山の目に見えないお客さん達がいるのである。特に後者に関しては、確かに「我々と共に生きている」ということが言える。つまり、我々を助け、インスピレーションを与え、守ってくれているのである。

ー少し前までは、あなたは肉体を纏ってその場所に座っておられたわけです。現在、霊になってそこにおられて、どんな感じがしますか?何か変化が生じているでしょうか?
 「特に変わった点はありません。『肉体を離れて霊になった為に、全てがはっきりと分かるようになり、曖昧なところが全くなくなった』という点が、違うといえば違う点でしょうか」
ー今回の人生よりも前の人生を思い出すことは出来ますか?それらと比べて、今回の人生には、何か変わった点があるでしょうか?
 「そうですね。過去世を思い出すことは可能です。そして、過去世に比べて自分が随分進化した、ということを感じます。過去世がはっきり見え、過去世に同化することが出来るのですが、過去世においては、混乱に満ちた人生を送り、地上世界に特有の恨みという感情を抱いたことが多かったようです」
ー今回の人生のすぐ一つ前の人生、つまりジョベール氏の時よりも一つ前の人生を思い出すことは出来ますか?
 「出来ます。私はその時、機械工をしておりました。大変貧乏でありながら、自分の技量を完成させたいと望んでおりました。そして、今回の人生において、つまりジョベールの人生を通して、その哀れな機械工の夢を果たしました。私の頭の中に蒔いた種から芽を出させてくださった善なる神に、心から感謝したいと思います」
ー他の場所では招霊に応じましたか?
 「まだほんの少ししか招霊には応じておりません。多くの場所で、ある霊人が私に代わり、私の名前を使って通信しました。私は、まだ自分では直接に通信出来なかった為、彼の側に控えていたのです。
 死んで間もないので、まだ地上の影響に左右されます。つまり、まだ新米なので、通信が可能となる為には、地上の人々との完全な共感が必要となる、ということなのです。もう少しすれば自由に通信出来るようになるでしょう。今のところ、繰り返しになりますが、自分で直接、自由に通信することは出来ません。
 多少、名を知られた人間が死ぬと、あちこちで呼ばれるので、他の多くの霊人達が、暫くその代わりを努めます。私の場合も同じことが起こりました。肉体から解放された直後には、通信することはなかなか難しかったのです」
ーここにいる、あなた以外の霊人達の姿は見えますか?
 「特にラザロとエラストがはっきり見えます。それから、少し遠くに[真実の霊]が空中に浮かんでいるのが見えます。さらに、数多くの友人達がひしめき合って、あなた方を優しく取り囲んでいるのが見えます。あなた方は本当に幸せ者ですよ」
ー生前、あなたは、「四つの天体が一つにくっついて地球が生まれた」とする説を支持していましたが、今でもこの説を信じていますか?
 「あれは誤りでした。新たな地質学的発見によって、『地球それ自体が変動を経て徐々に形成された』ということが証明されています。他の惑星と同様、地球もそれ自体の生命を持っているのです。『いくつもの天体を一つにまとめる』というような作業は必要なかったのです」
ーあなたは、さらに、「人間は、無限に長い間、強硬症(一定の姿勢を長時間とり続ける症状)の状態にあり続けることが出来る。そして、実はその状態で他の天体から地球に運ばれてきた」という説を支持していましたが、この点に関してはいかがでしょうか?
 「私の空想癖が生み出した錯誤にすぎません。強硬症が、ある程度、持続することは事実ですが、無限に続くことはあり得ません。東方的な空想が生み出した大げさな伝説です。友よ、私は、地上時代に数多く錯誤を犯しており、それらを反省して随分苦しみました。そのことをよく覚えておいてください。
 私は地上で数多くのことを学びました。素直に申し上げて、私の知性は多くの学問を素早く学ぶことの出来るものでした。しかし、『地上生活で得たもののうち、本当に価値があったのは、素晴らしいものへの愛と、純朴なものへの愛だけだった』ということを、ここで強調しておきたいと思います。
 いわゆる純粋に知的な問題には、今は興味がありません。私の周りに展開する、目も眩まんばかりの美しい景観、溜め息が出る程素晴らしい出来事に囲まれて、どうして純粋に知的な問題に関心を持つことなど出来るでしょうか。
 霊実在論の仲間の絆は、あなた方の想像以上に強いのですよ。私が、ひとたび去った地上にこうして降りてくるのは、この絆があるからです。嬉しくやって来るというよりも、むしろ、解放されたことに対する深い感謝の念と共にやって来る、と言った方がよいかもしれません」

 協会は、1862年2月より、リヨンの工員達からの寄付の受付を開始した。メンバー一人当たりの寄付は五十フランであったが、そのうちの二十五フランは本人名義、残り二十五フランはジョベール氏名義となった。このことに関して、ジョベール氏が以下のような意見を寄せてくれた。

 「霊実在論を同じく奉ずる兄弟達が私を覚えていてくれたことに対して、心から嬉しく思い、感謝するものです。寛大な心で寄付をしてくださったことに感謝しています。それは、もし私がまだ地上にいれば、私がしていたはずの寄付でした。今私が住んでいる霊界では、お金は、必要とされない為に存在しません。したがって、地上で寄付をする為には、友情に溢れた財布から出して頂くしかなかったのです。
 善良な工員諸君、あなた方は、熱心に、種から育ったブドウの苗を育てています。慈善という言葉がどれほどの意味を持っているかを、本当に知って頂きたいものです。額の多少に関係なく、施しは同情と博愛の印であり、実に尊いものなのです。
 諸君は、人類の福祉を目指す大道の中にあります。どうか、神のお力により、諸君がその道を踏み外しませんように。そして、諸君がさらに幸福になりますように。霊界の友人達が諸君を支援していますので、必ず勝利出来るはずです。
 私はこちらで霊的な生き方を本格的に開始しました。次々とやってきていた交霊会へのお誘いも少なくなり、落ち着いた、平和な生活が始まったのです。流行は霊界にも及びます。ジョベールの人気が終わり、次の霊人が寵児になるにつれ、私は忘却の中に入っていくのです。
 ただし、智慧を得る為に真剣に学ぼうとしている友よ、今度はあなた方が私を招霊してくださる番です。今まであまりにも表面的にしか扱われなかった問題を、一緒に深めようではありませんか。いまや、あなた方のジョベールは完全に変容を遂げ、有用な情報をお届け出来るようになりました。そして、私はあなた方にとって有用でありたいと、心から望んでいるのです」
 
 こうして友人達を安心させた後で、ジョベール氏は、社会変革を押し進める霊人達の活発な動きに参加した。そして、やがて再び地上に生まれ変わって、地上の人間達と一緒に、より直接的な仕事をするつもりでいる。
 この時以来、氏は、しばしばパリ霊実在主義協会を訪れ、比較し得るものがない程優れた霊示を数多く降ろしてくれた。それは、独創性と機知に溢れたものであり、その点で、生前の氏の特徴を全く失っていなかったので、霊示にサインがなされる前から、我々にはそれが氏からのものであることがはっきりと分かるのだった。

カルドン氏は、生涯の一時期を、捕鯨船付きの医師として海の上で過ごした。そして、唯物的な世界観を持ち、唯物的な生活をしていた。その後、J村に隠棲し、田舎医師としての余生を送った。
 暫く前から、自分が心臓肥大にかかっていることを自覚しており、しかも、この病が治療不能であることを知っていたので、死の思いが心を占領し、憂鬱に襲われ、心が安らぐ時がなかった。死の二ヶ月程前、彼は自分が死ぬ日を予告した。
 死期が迫ったことを悟ると、彼は家族を枕元に呼び寄せ、別れを告げることにした。母親、妻、三人の子供、そして親族が、ベッドの周りに集まった。妻が彼の体を支えている間に、昏睡状態に陥り、顔面蒼白となった。みんなは彼が死んだものと思った。
 ところが、数分して彼は目を開いたのである。目はきらきらと輝き、顔も深い喜びに輝いていた。そして、彼はこう叫んだ。
 「ああ、我が子達よ!死とは、なんと美しい、なんと美しい、なんと素晴らしいものだろう。死は、何という恵みだろう! 何という素敵なことだろう。
 私は一度死んだのだ。私の魂はどんどん昇っていった。高く、高く昇っていった。しかし、神が私に、『一度、家族のもとに帰り、次のように告げなさい』と仰ったのだ。
 [死を恐れてはならない。死とは解放なのだ]
 ああ、私の見たものの偉大さを描写することはとても出来ない。私の感じた印象を言葉で表すことは出来ない。お前達は到底それを理解することが出来ないだろう。
 だが、子供達よ、このえもいわれぬ至福は、善き生き方をした人間に必ず与えられるものなのだよ。だから、思いやりを持って生きなさい。持っているものの中から、恵まれない人々にその一部を分けてあげなさい。
 ああ、愛しい妻よ、お前には苦労をかけることになるね。治療費をまだ払っていない人々がいるが、あまり五月蝿く催促しないようにしなさい。そして、生活に困っている人の場合は、払えるようになるまで待ってあげなさい。払えない人の場合、支払いを免除してあげなさい。神様が必ず償いをしてくださるはずだ。
 息子よ、しっかり働いてお母さんを支えてあげておくれ。正直に生き、家族を汚すようなことは絶対にしないように。私がおばあちゃんから受け継いだ、この十字架を、お前にあげよう。さあ、受け取りなさい。それを肌身離さず持ち歩き、いつも私のこの最後の忠告を思い出すようにしなさい。
 子供達よ、お互いに助け合い、支え合って生きるのだよ。みんな調和して生きるように。自惚れたり、傲慢になったりしてはならない。
 お前達に酷いことをする人を許しなさい。そうすれば、神様も、お前達を許してくださるだろう」
 こう言って、今度は永久にその目を閉じた。その表情は本当に威厳に満ちていたので、埋葬されるまでの間、評判を聞いた多くの人々が見に来ては、感嘆して帰っていった。
 次の霊示は家族の友人が得たものである。全ての人に読んでもらいたいと考えて次に掲げる。

ー招霊します・・・。
 「はい、私はあなたのすぐ側におります」
ーあなたの最後のご様子を伺い、感動いたしました。あなたの二度の死の間に起こったことを、もう少し詳しく教えて頂けませんか?
 「私がその時に見たものをあなた方が理解出来るとは思われません。というのも、その短い間に、自分の体を離れた私が見たものは、およそ言語を超えたものだったからです」
ーその時、どこに行っていたのですか?地上から遠いところに行ったのですか?他の星でしょうか。或は、広々とした空間に行ったのでしょうか。
 「霊にとって距離は意味を持たないのです。何かよく分からない力に運ばれて、夢でしか見たことがないような、素晴らしい空の輝きを見たのです。あまりにも速く空間の中を移動したので、その間にどれくらい時間がかかったのかを言うことは出来ません」
ーその時、かいま見た幸せを、今味わっているのですか?
 「いいえ。出来ればそれを味わいたいと思いましたが、神はそれを許されませんでした。地上にあった時、心の奥から湧き上がってきた、恵みに満ちた聖なる言葉を、私はあまりにもしばしば無視したからです。
 しかも、私は自分の死を受け入れることが出来ませんでした。
 また、無神論の医師として、私は神聖なるものを一切否定しました。『魂が永遠である』などということは、私には、頭の悪い人々を騙す為の作り話としか思われなかったのです。とはいえ、『死後は虚無である』という考えは、私を苦しめ続けました。そして、一方で、常に自分が感じていた神秘的な力も否定し続けました。
 哲学を学んでも、迷いから抜け出ることは出来ませんでした。哲学によっても、人間に苦悩と喜びを配当する神の偉大さを理解することは出来なかったからです」
ー二度目に本当に死んだ時、直ぐに自分を取り戻すことは出来ましたか?
 「いいえ。私の霊がエーテル界を移動していく間に、ようやく自分を取り戻すことが出来たのです。死の直ぐ後ではありません。しっかり目を覚ますまで、死んでから数日を要しました。
 だが、神は私に恩寵を与えてくださいました。それがどのようなものであったか、これからお話してみましょう。
 二度目に死んだ時点で、生前の無神論は既に姿を消していました。その頃には神を信じるようになっていたのです。いわゆる科学的思考が限界に行き着き、地上的な理性の果てに、私は神聖な理性というものを見出していたからです。神聖な理性によって、私はインスパイアされ、慰められ、苦悩にまさる勇気を与えられました。私はそれまで呪っていたものを祝福していたのです。そして、死は私にとっては解放でした。
 神の御心は、宇宙と同じ位広いのです。神に祈る時、筆舌に尽くし難い慰めを得ることが出来ますが、この慰めは、我々の魂にとって、最も確かなものなのです」
ー一度目の時、あなたは実際に死んでいたのですか?
 「そうとも言えるし、そうでないとも言えます。霊が体から分離すれば、当然、肉体の火は消えます。しかし、霊がもう一度、肉体に戻れば、眠りを経験していた肉体には再び生命が戻ってくるのです」
ーもう一度、肉体に戻ってきた時、あなたを肉体に結びつけている絆を感じましたか?
 「感じました。霊と肉体を結びつける絆はなかなか切れるものではありません。絆が切れる為には、肉体が最後に強く身震いをする必要があります」
ー最初の、数分間の見せかけの死の時、あなたの霊は、一時的にではありますが、特に混乱することもなく肉体から離れることが出来ました。それに対して、二番目の、本当の死の時は、何日間にもわたって混乱が続きました。最初の時は、魂と肉体の絆はより強固だったのですから、分離はもっとゆっくりしたものになったはずと思われるのですが、実際には逆でした。これはどういうわけですか?
 「あなた方は、肉体に宿った状態の霊を何度も招霊したことがあり、そして霊から応答を得ているはずです。私の場合も、あれと同じことが起こっていたのです。神が私を呼び、神の御使いも私に『いらっしゃい』と言いました。私はそれに従ったわけです。
 そして、私は神が私に特別にくださった恩寵に感謝しました。私は神の偉大さが無限であることを実際に見、そして納得したのです。
 神様のお陰で、私は、本当に死ぬ前に、家族にメッセージを伝えることが出来ました。『善き生き方、正しき生き方をしなさい』と、心から言うことが出来たのです」
ーあなたが肉体に再び戻られた時、非常に美しい、崇高な言葉を語られましたが、どこからあのような言葉が出たのでしょうか?
 「あの言葉は、私が見たもの、聞いたものを反映していたのです。また、高級霊達が、私にインスピレーションを与え、また、私の表情にも影響を与えたのです」
ーあの時、親戚の方々や家族に対し、あなたの言葉がどのような印象を与えたとお思いですか?
 「あの言葉は衝撃的だったので、大変深い印象を与えただろうと思います。死を前にしては嘘は通用しません。どれほど恩知らずの子供達であっても、死にゆく父の前では頭を垂れざるを得ないでしょう。墓に片足を入れかけた父親を前にして、聖霊の見えざる手によって触れられたら、子供達の心は、深い、真実の感動に浸されるはずです。
 死ぬことにより、人間は神の正義にさらされ、神による報いを受けるのです。
 私の友人達、私の家族は、神を信じておりませんでしたが、私が死ぬ前に発した言葉は信じるだろうと思います。あの時、私はあの世からの使者だったからです」
ーあなたは、「臨死体験をした際にかいま見た幸福を、現在は享受していない」と仰いました。ということは、現在、不幸だということですか?
 「いいえ、不幸ではありません。私は、死ぬ前には、心の底から神を信じるようになっておりましたので。神は、私の祈りと、神に対する絶対的な信仰を考慮に入れてくださったのです。私は完成への途上におり、かいま見ることを許された最終地点に、いつかは辿り着くことが出来ると思っています。
 友人諸君、どうか、あなた方の運命を司っている、目に見えない世界に対して祈ってください。祈りによって、あらゆる世界に属する霊達が一体になることが可能になるのです」
ー奥さん、そして子供さん達に、何か言っておきたいことはありますか?
 「力強く、正しく、そして決して変わることのない神を信じなさい。祈りの力を信じなさい。祈れば心が軽くなり、必ず慰めが得られます。
 また、慈悲の行為を為しなさい。それは地上に生まれた人間にとって、最も純粋な行いなのです。貧者の一灯は、神の前では最も価値あるものとなります。神は、貧しい人がほんの僅かでも差し出すことを、とても高く評価されます。金持ちがそれに匹敵しようとしたら、もの凄く多くを与えなければなりません。
 あらゆる行為に、思いやりを込めなさい。人間は皆兄弟です。慈悲の行為を鼻にかけることなく、謙虚に与え合いなさい。
 私の愛する家族達よ、これからあなた方は試練に直面することでしょう。しかし、神様が見ておられると思って、勇気を持って試練に立ち向かいなさい。
 次のように祈るとよいでしょう。
 『常に全てを与えてくださる、愛と善意の神よ、いかなる苦難の前でも尻込みしないように力をお与えください。愛に溢れた、優しい、思いやりのある人間にしてください。財産はなくても、暖かい心に満ちた人間にしてください。私達は地上において霊実在論を学び、あなたをよりよく理解し、あなたをさらに愛したいのです。
 神よ、あなたの名は自由の象徴です。虐げられた人々が、あなたの名により自由を得、愛と許しと信仰を必要としている人々が、あなたの名により、それらのものを得ることが出来ますように』」

P氏はモスクワ在住の医者であり、その人徳と学識によって、多くの人々から尊敬されていた。
 彼を招霊した人は、彼のことを直接知っていたわけではなく、その名声を知っていたにすぎない。そして、この霊界通信は、もとはロシア語でなされたものである。

ー(招霊の後に)ここにいらっしゃいますか?
 「はい、来ております。
 私が死んだ日に、私はあなたに通信を送ったのですが、あなたは書くことを拒みましたね。あなたが私について言ってくださったことを私は聞いて、あなたを知るようになったのです。そこで、あなたのお役に立ちたいと思い、通信を試みたわけですが」
ーそんなによい人であるあなたが、どうして死ぬ前にあれほど苦しまれたのですか?
 「それは神様のお計らいです。神様は、そのようにして、肉体からの解放の喜びを二倍にしてくださったのです。その後、あっという間にこちらに連れてきてくださいました」
ー死ぬということで、恐怖を感じませんでしたか?
 「いいえ。神に全幅の信頼を置いておりましたので」
ー肉体からの分離は苦しくありませんでしたか?
 「はい、苦しくありませんでした。あなた方が『死の瞬間』と呼んでいるものも、何ということもありませんでした。プチン、という音がして霊子線が切れただけでおしまいです。その直後には、私の哀れな肉体から解放されて、すっかり幸福感に浸っていました」
ーその後、どうなりましたか?
 「私の周りに多くの友人達がやってきて、とても暖かく迎えてくれました。特に、私が生前助けてあげた人達が多くやってきました」
ー今はどんなところにいらっしゃるのですか?どこかの惑星にいるのでしょうか?
 「どこかの惑星にいるのではなくて、あなた方が『空間』と呼んでいる領域にいます。
 しかし、そこには無数の段階があり、地上の人には到底想像もつきません。霊界には、本当に沢山の階層があるのです。地獄領域と言われるようなところから、最も浄化された美しい魂の住む領域まで、無限の階梯があります。現在私のいる所には、数多くの試練、つまり数多くの転生輪廻を経た後でないと来られません」
ーつまり、そこに至る為に、あなたは数多くの転生を経験したというわけですね。
 「それ以外にどんな方法があるというのでしょうか?神によって打ち立てられた不変の秩序には、例外の入る余地はありません。
 報いというのは、戦いに勝利を収めた後に初めて与えられるものではないでしょうか。そして、報いが大きいということは、必然的に戦いが大変だったということになりませんか?しかし、一回の転生はごくごく短いものでしかありませんから、戦いも、数多くの転生に分けて少しずつ経験するということになります。
 私が現在、かなり高い、幸福な境地にいるということは、私が既に、数多くの戦いにおいて、神に許されてそれなりに勝利を収めてきた、ということを意味します」
ーその幸福の根拠は何ですか?
 「これは地上の人間に説明するのが最も難しいことの一つです。
 現在、私が享受している幸福は、自分自身に対する限りない満足が根拠となっています。しかし、これは自分があげた功績に対する満足ではありません。もしそうだとすれば、それは傲慢ということになるからです。
 そうではなくて、神の愛に浸ること、神の無限の善意に対する感謝に浸ることだと言えるでしょう。善を、そしてよきことを見る喜びだと言ってもいいでしょう。『神に向かって進歩している人々の為に、何らかの貢献が出来た』と言えることでもあります。自らの霊と神聖なる善が溶け合うことだと言ってもいいでしょう。自分より悟りの高い霊を見ることが出来、彼らの使命を理解することが出来、やがては自分もそうした境地に達することが出来ることを確信する、ということでもあります。
 広大無辺な空間に燦然と輝く神聖な火が見えるのですが、それを覆っているヴェールを通して見てさえ目が眩むのです。
 こんなふうに言って、あなた方の理解は得られるでしょうか?例えば、この神聖な火を太陽のようなものだと想像したら、それは間違いです。
 これは人間の言語ではとても説明出来ません。というのも、人間の言語によっては、記憶を通して、或は直観を通して知ることの出来る対象や物体、形而上学的な観念しか表現出来ないからです。それに対して、今お話しているのは、『絶対的な未知である以上、その記憶もなく、また、それを表現出来る言葉も存在しない』という類の事柄なのです。
 しかし、一つだけ確かなことがあります。それは、『無限に向上出来るという事実を知ること自体が、既に一つの無限の幸福である』ということです」
ー私の為に役立ちたい、と仰ってくださいましたが、それはどんな点においてでしょうか?
 「あなたが不調な時に助け、衰弱している時に支え、心痛を感じている時に慰めてあげましょう。
 あなたの信仰が、何らかの困難によって揺さぶられ、ぐらついた時には、私を呼んでください。神が私に与えてくださる言葉によって、私はあなたに神を思い出させ、神のもとに再びあなたを連れてまいりましょう。
 あなたが持つ魂の傾向性によって、間違ったことをしそうになった時には、どうぞ私を呼んでください。かつてイエスは、十字架を負う時に、神によって助けられましたが、私も、あなたが自分自身の十字架を負うのを助けることにしましょう。
 苦悩の重みに打ちひしがれる時、絶望に支配されそうになった時、そんな時には私を呼んでください。そんな時には、私はあなたに霊同士として語りかけ、あなたに課せられている義務を思い出させて、絶望の淵から救ってさしあげましょう。社会的、物質的な配慮によってではなく、あなたが私の内に感じるであろう愛によって、すなわち、救われるべき人々にお伝えする為に神が私に与えてくださった愛によって、あなたを救ってさしあげましょう」
ー一体どういうわけで、あなたは私を守ってくださるのでしょうか?
 「私が死んだ日に、あなたとご縁が出来たからなのです。その日に、あなたが霊実在主義者であり、よき霊媒であり、誠実な同志であることを知りました。地上に残してきた人々の中で、まず真っ先にあなたの姿が目にとまったのです。その時に、私はあなたの向上を助け、あなたの為になろうと決心したのです。また、そうすることによって、結果的に、あなたが真理を伝えようとしている人々の為に役立ちたいと考えたのです。
 ご存知かと思いますが、神はあなたを愛しており、あなたを真理の伝道者にしました。あなたの周りで、多くの人々が、徐々にではありますが、信仰を同じくしつつあります。最も扱いにくい人達でさえ、少なくともあなたの言うことに耳を傾け始めました。やがて彼らもあなたの言うことを信ずるようになるでしょう。
 辛抱強くあってください。道には躓きの石が沢山ありますが、どうかそれでも歩き続けてください。辛い時には、どうか私を杖の代わりに使ってください」
ーそこまで仰って頂くと、恐縮いたします。
 「勿論、あなたはまだ完全であるとは言えません。
 しかし、反対者が卑劣な手段を使って邪魔しようとしているにもかかわらず、あなたは、それでもなお熱意を持って真理を述べ伝えんとし、あなたの話を聞く人々の信仰を支えんとし、慈悲、善意、思いやりを広めんとしています。また、あなたを攻撃し、あなたの意図を無視する人々に対して、怒りを爆発させようと思えば簡単に爆発させることも出来るのに、それを一生懸命に抑えています。
 そうしたことが、幸いにも、あなたの欠点を補う働きをしているのです。そう、それは許しというカウンター・バランスなのです。
 神は恩寵によって、あなたに霊媒としての能力を与えてくださいました。どうか、それを、あなた自身の努力によって、さらに優れたものとなし、隣人達の救済の為に、より効果的に使ってください。
 今日はこれで帰りますが、どうかこれからも私を頼りにしてください。どうか、地上的な思いを静め、友人達と一緒に、さらに多くの充実した時間を過ごしてください」

優しい性格、高貴な精神が特徴的な女性だったが、1860年に、大変若くして亡くなった。
 サン・テチエンヌの近くの、石炭の鉱山で働く労働者一家に生まれたが、そのことが、彼女の霊としての立場に大きな影響を与えた。

ー招霊します・・・。
 「はい、私です」
ーあなたの旦那様とお父様のお願いがあったので、こうして招霊させて頂きました。お二人共、あなたからのメッセージが得られれば、大変喜ばれるでしょう。
 「私自身も、メッセージをお送り出来れば、たいへん幸せです」
ーあなたは、家族から本当に愛されていたのにもかかわらず、どうしてそんなに若くして天に召されたのですか?
 「私の地上での試練が終わったからです」
ー家族のところに行くことはありますか?
 「ええ、しょっちゅう行っています」
ー霊として幸せですか?
 「私はとても幸せです。私は、希望を持ち、期待し、愛しているからです。天国には不安というものがありません。私は、確信と愛に満たされて、背中に白い羽が生えるのを待っているのです」
ー羽とはどういう意味ですか?
 「浄化を果たし、まばゆいばかりの天の使者になるということです」

 [天使の背中に生えた羽は、勿論、天使の移動の速さを表す為の象徴でしかない。というのも、天使はエーテルで出来ている為に、空間を自由に移動することが出来、羽のようなものは実際には必要としないからだ。しかし、天使達が人間の前に姿を現す時は、人間の思いに応える為に、羽をつけた姿をとるのである。それは、別の霊達が、家族の前に出てくる時に、家族に分かり易いように生前の姿をとるのと同じことである]

ーあなたのご両親に何かしてもらいたいことはありますか?
 「あまりにも深く私の死を惜しんで、私を悲しませないで頂きたいのです。私は本当にいなくなってしまったわけではなく、それは両親も知っているはずです。両親に対する私の思いは、優しく、軽やかで、芳香を放っています。私の地上でのあり方は、一輪の花のようなものでした。花が早く散ったとしても、悲しむことはないのです」
ー今のあなたの言葉は非常に詩的で洗練されています。地上で一介の労働者だった人の言葉とはとても思われないのですが。
 「それは、話しているのが私の魂だからです。私の魂は過去世で様々なことを学んできました。
 神様は、時に、繊細な、極めて女性的な魂を、荒くれ男達の間に送り込むことがあります。そうして彼らに繊細さということを学ばせるのです。もっとも、彼らには直ぐには分からず、繊細さを身につけるには時間がかかりますが」

 神が人間に対して持っている慈しみがどのようなものであるかが、以上の、極めて論理的な説明からよく分かる。そうした説明を聞かないと、一見、異常とも思える事態を正確に理解することは出来ないかもしれない。
 それにしても、荒くれた労働者達の間で育てられたにもかかわらず、この女性霊の話す言葉が極めて詩的で優美であることには、全く驚かされる。この場合とは反対のケースもしばしば見られる。つまり、未熟な霊が、最も進化した霊達の間に生まれることもあるのである。この場合には、目的は逆である。進化した人々の間で育つことによって、未熟な霊が向上していくことを、神は願っておられるのである。また、それが進化した人々に対する試練である、ということも有り得る。
 そうしたことを、これほど的確に説明出来る哲学大系が、霊実在主義以外にあるであろうか?

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