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カテゴリ: ★『霊との対話』

 以下の文章は、[霊との対話]という、霊的知識の書物から抜粋した文章です。また、自殺に関するその他の霊的知識は、[自殺してはならない霊的な理由]に書かれています。

 1862年6月13日の新聞に、次のような記事が掲載された。

 「パルミール嬢は、夫人帽を扱う店を開き、両親と一緒に住んでいた。魅力的な容姿に恵まれていたが、それのみならず、愛すべき性格も備えていた。そのために、引く手数多であった。
 言い寄る男達の中でも、彼女は、特に、彼女に対して激しい情熱を示していたB氏を憎からず思っていた。しかし、両親の意向に従ってD氏と結婚しなければならないと考えていた。D氏の社会的地位から見て、より彼女に相応しいと両親が考えていたからである。
 B氏とD氏とは、皮肉なことに、仲のよい友人同士であった。特に、これという理由があった訳ではないが、二人は頻繁に会っていた。
 D夫人となったパルミールと、B氏の間の愛は、いささかも弱まることがなく、二人がそれを抑えようとすればするほと激しくなるのであった。その愛を断ち切るために、B氏は自らも結婚しようと決心した。彼は、多くの美質に恵まれた若い娘と結婚し、何とか彼女を愛そうと試みた。しかし、間もなく、この英雄的な行為が何の意味もなかったということを彼は悟る。
 とはいえ、4年の間、B氏もD夫人も、それぞれの義務に背くことはなかった。彼らの苦しみは、表現されてはならない類のものだったのである。
 D氏はB氏を心底愛していたので、常に自宅に呼び、帰ろうとしても熱心に引き止めるのが常であった。
 ある日、偶然の導きで二人きりになったB氏とパルミールは、互いの心のありかを確かめあった。そして、その結果、『二人が感じている苦しみに対する最良の薬は死である』という共通の見解に達した。かくて、二人は情死を決意し、翌日、D氏が家を留守にしている間に計画を実行することにした。
 死出への旅支度を終えた二人は、感動的な、長い手紙をしたため、その中で、『それぞれ配偶者としての義務に反することのないように、二人で死を選ぶ』ということを、るる、説明した。手紙の最後で許しを乞い、『二人の遺体を同じ墓に埋葬してくれるように』との願いを付け足した。
 帰宅したD氏は、二人の遺体を発見した。そして、二人の最後の願いを尊重して、遺体が別々にならぬように、同じ墓に埋葬した」

 このケースを、パリの霊実在主義協会で研究テーマとして扱った際に、ある霊から次のような霊示を受けた。
 
 「自殺を図った二人は、まだ、あなた方の質問に答えることが出来ません。私には彼らの苦しむ姿が見えますが、二人は互いに引き離されていて、まだ混乱しており、『永遠に苦しむのではないか』と恐れおののいています。
 今後、何度も霊界と地上を行き来しますが、その間中、片割れとなった二人の魂は、絶えず互いを捜し求め、予感と欲望の間で激しく引き裂かれて苦しむこととなるでしょう。
 でも、やがて償いが完成し、二人は永遠の愛で結ばれるようになります。
 8日後に開催される次の集いでは、おそらく二人を招霊することが出来るでしょう。二人共、ここにやって来ますが、二人がお互いを見ることは出来ません。深い夜の闇が二人の間を隔てているからです。それは今後も長きにわたるでしょう」

 パルミールの招霊。
-あなたが一緒に自殺した、愛する人は、見えますか?
 「何も見えません。私のまわりを徘徊している霊達の姿さえ見えないのです。何という夜。何という深い闇。何という厚いヴェールが私の顔にかかっていることでしょう」
-死んだ後、目が覚めた時に、どのような感じがしましたか?
 「とても奇妙な感じでした。寒いのに、一方で焼けるように熱いのです。血管の中を氷のような血が流れ、しかも、額には火が燃えているように感じられるのです。なんて奇妙なことでしょう。こんなことは一度も経験したことがありません。氷と火が同時に襲い掛かるのです。また死ぬのではないかと思いました」
-肉体的な苦しみは感じられますか?
 「苦しみが、そこにもここにも感じられます」
-「そこにもここにも」とは、どういう意味ですか?
 「『そこ』とは私の頭、『ここ』とは私の心です」
 もし、我々が、この霊を見ることが出来たとすれば、この時、霊が手を額と胸に置くのが見えたことであろう。

-ずっと、そうした状況に置かれると思いますか?
 「『ずっと』ですって?ずっと、この状況に?
 そういえば、時々、地獄的な笑い声が聞こえ、恐ろしい声が聞こえますが、その声は、こう言っています。『そうだ、ずっとそのまま!』と」
-いいえ、そんなことはありませんよ。誓って申し上げますが、いつまでも、そうした状況が続くわけではありません。悔い改めによって、必ず許されます。
 「何ておっしゃったのですか?よく聞こえません」
-繰り返します。あなたの苦しみには必ず終わりが来ます。そして、悔い改めによって、その時期を早めることが出来るのです。また、私達も、お祈りによって協力いたしましょう。
 「一つの単語しか聞こえません。あとの単語はぼやけています。その単語は『恩寵』という単語です。あなたは『恩寵』についてお話しているのですか?あなたが恩寵について語ったとすれば、それは、多分、泣きながら私のそばを通っていく、かわいそうな子供の魂のためでしょう」

 この時、丁度、協会のメンバーの一人のある女性が、彼女のために神の祈ったところであった。この祈りがパルミールの霊の耳に届いたのであろう。なぜなら、この女性は、「彼女のために神の恩寵がありますように」と祈ったからである。
 
-あなたは、「今、闇の中にいる」とおっしゃいました。では、我々の姿は見えないのですか?
 「あなたの言葉のうち、あるものを聞くことは出来ますが、目に見えるのは、黒い布のようなものだけで、時々、そこに、泣いている顔が現れます」
-あなたの恋人が見えないとしても、その気配は感じられるのではないですか?彼は、ここに来ているのですから。
 「ああ、あの人のことは話さないでください!暫くの間、あの人のことは忘れていなければならないのです。この黒い布から、泣いている顔が消えてくれればよいのに!」
-それは誰の顔なのですか?
 「苦しんでいる男性の顔です。私は、地上で、その人のことを、長い間、心から消し去っていたのです」

 新聞の記事を読んだかぎりでは、我々は、「この情死には情状酌量の余地があり、また、義務を守ろうとしてなされた自殺であるので、むしろ立派な行為でさえある」と考えたくなる。しかし、現実には、それとはまったく違った判定が下されている。二人は、心の闘いから逃れようとして、死に逃げ込んだのであるから、死後の苦しみは、長く、また厳しいものとなったのである。

 夫婦の義務に違反しまいとしたことは、確かに評価できるだろう。いずれ、そのことは斟酌されるはずである。しかし、彼等が、危険を前にして逃げ出した脱走兵と同じ立場にあることは事実である。彼等は、逃げ出さずに訓練を最後までやり遂げる必要があったのだ。
 既に見たように、この二人にとっての罰は、「お互いに思い合っていながら、会うことが出来ない」という状況に置かれることである。それは、霊界においてもそうであるし、次回に地上に転生した時もそうなるであろう。
 今のところ、彼女は、「この状態が永遠に続くのではないか」と思って恐れおののいている。これも彼女にとっての罰の一部をなしているので、我々が発する希望の言葉を彼女は聞くことが出来ない。
 その苦しみが、たいへん恐ろしく、また、たいへん長く続くと思っている者達に-特に、それが何度もの転生を経た後でなければ解消しないということであれば、なおさらであるが、「その期間は絶対に変わらないわけではない」ということを教えてあげたいものだ。試練にどのように対処するかによって、その期間は変わってくるからである。また、我々が祈りによって支援することも可能である。
 彼等も、あらゆる霊と同様、自らの運命を決定出来るのである。
 それは、確かに厳しい道のりではある。だが、カトリックの教義が教えるところよりも、はるかにましであろう。カトリックの伝統的な教義によれば、一度、地獄に堕ちた者は、永遠に罰を受け続け、一切の希望が許されない。しかも、最後の祈りさえ聞き届けられないのである。

 以下の文章は、[霊との対話]という、霊的知識の書物から抜粋した文章です。また、自殺に関するその他の霊的知識は、[自殺してはならない霊的な理由]に書かれています。

 1865年3月のこと、パリ近郊の小さな街に、ある仲買人が住んでいた。家には、21歳になる重病の息子がいた。この息子は、いよいよ最後が来たことを悟り、母親を呼んで、かろうじて最後のキスをした。
 母親は、涙にくれながら、次のように言った。
 「さあ、逝きなさい、わが息子よ。お母さんより先に逝くのです。でも、私もすぐに後を追いますからね」
 そして、手で顔を覆うと、部屋から駆け出した。
 そこに居合わせた人々は、この胸ふたがれるシーンを目撃し、母親の言葉を、こういう時によく見られる苦悩の表現とのみ受け止めた。時間が経てば、こうした苦悩も和らぐものである。
 ところが、ついに息子が亡くなった時、母親の姿が見当たらないので、家中を捜したところ、屋根裏部屋で、この母親が首を吊って自殺しているのが見つかった。こうして、二人の葬式が同時に行われることになったわけである。
 死後、数日してから、この息子の霊を招霊して、色々と聞いてみた。

-あなたが亡くなったことを悲しんで、お母さんが自殺されたのですが、そのことはご存知ですか?

 「はい、知っています。母が、あのようにして、ひどい最後を遂げなければ、私は完全に幸福になっていたのですが。
 ああ、可哀想なお母さん!あんなに優れた人だったのに。お母さんは、ほんの一時の別れに耐えられず、愛する息子と一緒にいられるようにと、ああした道を選んだのですが、そのことが、かえって息子から遠く離れてしまう結果を招いたのです。
 もし、お母さんが、素直に神様の意志に従い、与えられた試練と償いを前にして、慎ましく、罪を悔いて、運命を甘受していたとすれば、魂の浄化が進み、息子とも、すぐに会うことが出来たのですが、あのようにしたことで、この再会が無限に遅れてしまったのです。
 ああ、お母さんのために祈ってください・・・・。
 そして、この話を聞いて心を打たれた、世のお母さん方に、決して、このようなまねをしないように、どうか言ってあげてください。
 私を喜びとし、誇りとしていた母が、どうか、他のお母さん方よりも息子を愛していたとは思わないで下さい。そうではないのです。母は、他のお母さん方以上に、私、つまり息子を愛していたということではなくて、勇気と諦念を欠いていたということにすぎないのです。
 どうか、この話を聞いているお母さん方、よくよく知っておいて下さい。あなた方のお子さんが最後の苦しみを経て亡くなったとしても、決して彼等がいなくなってしまったというわけではなく、キリストと同じように、それはゴルゴダの丘の頂上に上ったということであり、そこから、永遠の栄光に向けて、さらに昇っていくことになっているのです」

 母親の霊の招霊
-招霊します・・・・。
 「ああ、息子の姿が見たい!どうか、息子を返してください!ああ、なんて酷い人達なんでしょう。あの人達は、私から息子を奪い去って光の中に連れて行き、私のことは、こうして闇の中に置き去りにする・・・・。ああ、息子を返してください、息子を返して!あの子は私のものなのです!
 だって、母性愛とは、そういうものでしょう?9ヶ月もの間、おなかに宿し、自分の肉から出来た肉を乳で育み、自分の血を与えて大きくしたのです。よちよち歩きを見守り、『ママ』という優しい言葉の響きを教え、『神様』という単語がようやく発音できるようにしてあげたのです。そして、活動的で、知性にあふれ、誠実で、正しく、親への愛に満ちた若者に育てたのです。
 ところが、ああ!すべての期待を実現し、いよいよ、これから輝かしい未来に向って船出しようという瞬間に、その息子を失う!こんなむごいことがあるでしょうか?
 神様は公平ではありません!そんな神様は、私達母親の神様ではありません!だって、息子を失った母親の絶望と苦しみをちっとも理解してくださらないのですから。
 いつまでも一緒にいようと思って、自ら命を絶ったというのに、またその息子を私から奪い取るなんて!
 ああ、息子よ、どこにいるの?私の息子!ここにいらっしゃい!あなたに会いたい!」
-かわいそうに。苦しみにご同情申し上げます。でも、息子さんに会おうと思ってあなたがとった手段は、間違っていたのですよ。自殺は神の目から見たら、どんな場合でも罪なのです。神の法を犯した者は、必ず、全員、罰を受けるということを、知っておくべきでした。あなたの息子さんに会えないということが、あなたにとっての罰なのです。
 「いいえ!神様は人間とは違うはずです。私が地獄に堕ちるなんておかしいわ!愛し合った者達は、永遠に一緒にいられるはずですもの。
 ああ、私は間違っていたのかしら・・・・?いいえ、こんなことをなさるなんて、神様は公平でも善でもない。だって、私の、この苦しみと、息子に対する、この愛の深さを理解なさらないのだもの。
 ああ、息子を返して!永遠に息子を失うなんて、絶対に嫌!哀れみを、神様、哀れみをください!」
-どうか、心を鎮めてください。いいですか、もし、息子さんに再び会うための方法があるとしても、それは決して、今あなたがしているように、神様を冒涜することによってではないはずですよ。そんなことをしたら、神様は、ますますあなたに対して厳しくなさるに違いありません。
 「息子を連れて行った人達は、もう私が息子に会うことは出来ないと言いました。多分、息子は天国に連れて行かれたのだと思います。
 でも、私は、一体どうして地獄にいるの?ここは、母親達の地獄なのかしら?確かにそうだわ。それが、とてもよく分かる」
-あなたの息子さんは永久にいなくなったのではありません。きっとまた会えますよ。でも、そのためには、神様のご意思に素直に従う必要があるのです。今のように反抗していたのでは、いつまでも息子さんに会えるようにはなりません。
 いいですか、よく聞いてください。神様は、無限によい方ですが、また、無限に公正な方なのです。神様は、ゆえなくして人間を罰するようなことはありません。
 あなたが地上において大きな苦しみを与えられたのには、それなりの理由があったのです。息子さんの死によって、あなたは諦念というものを学ぶ必要があったのです。地上において、あなたはその試練に負けましたが、こうして、死後もまた、その試練に負けました。神様が、反抗的な子供をかわいいと思うでしょうか?
 神様は、決して、情け容赦のない方ではないのです。神様は、罪を犯した者が悔い改めさえすれば、必ず、それを受け入れて下さるのです。
 もし、あなたが、神様がお与えになった、息子さんとの一時的な別れという試練を、黙って、謹んで受け、神様が地上からあなたを引き上げてくださるのを辛抱強く待っていたとすれば、あなたは、今あなたがいる霊界という世界に還った時、両手を広げてあなたを迎えに来る息子さんと、直ちに会えたはずなのです。しばらくの不在の期間の後、あなたは、光り輝く息子さんと、喜びと共に再会できたはずなのです。
 あなたがしたこと、そして、未だにし続けていることは、あなたと息子さんとの間に壁をつくるだけなのですよ。
 息子さんは、無限の空間の彼方にいなくなってしまったのではありません。そうではなくて、息子さんは、あなたが想像するのよりも、ずっと近くにいるのです。厚い壁があるために、あなたの目には息子さんが見えないだけなのです。
 息子さんは、あなたを見、今も変わらずに、あなたのことを愛しています。そして、あなたが神様を信頼しないために、今のような状況に陥っていることを、たいへん悲しく思っているのです。
 息子さんは、あなたの前に姿を現すことが許される瞬間を心待ちにしています。その瞬間を早めるのも、遅くするのも、すべて、あなたの心の持ち方一つにかかっているのですよ。
 さあ、私と一緒に神様に祈りましょう。
 「神様、あなたの公正さと善意を疑った私を、どうぞお許しください。あなたが私を罰したのは、私がそれに相当したからです。どうか、私の悔い改めをお認めください。私は、神様のご意思に素直に従います」
 「ああ、希望の光が射してきました!なんて素晴らしい光でしょう。まるで闇夜に射す一条の光のようです。ありがとうございました。これからは、ちゃんと神様にお祈りします。それでは、さようなら」

 この霊は、自殺のあと、「まだ自分が生きている」という幻想にとらわれることはなかった。自分がどこにいるかが、しっかりと分かっていた。
 それに対して、別のケースにおいては、「霊になった自分が、まだ肉体に繋ぎ止められている」という幻想それ自体が罰となる場合がある。
 この女性は、霊界に行った息子を追いかける為に自殺を図った。だが、彼女は息子に再会することは出来ず、自分がその世界で罰を受けているということを自覚する必要があった。彼女にとって、「もう自分が肉体的な存在ではない」という事実、そして「自分は地獄にいる」という事実を知ることが罰となったのである。
 このように、それぞれの過ちは、必ず、そのあとに続く状況によって罰せられるのだが、その罰のあり方は、罪に応じた個別的なものとなる。画一的、普遍的な基準がある訳ではないのである。

 以下の文章は、[霊との対話]という、霊的知識の書物から抜粋した文章です。また、自殺に関するその他の霊的知識は、[自殺してはならない霊的な理由]に書かれています。

 以下のメッセージは、1863年2月12日にル・アーヴルで行われた霊実在主義者の集いにおいて、自発的に降ろされた霊示である。

 「ああ、これほど長い間、これほどひどく苦しんでいる悲惨な者に、どうか哀れみを!ああ、空虚・・・・。空虚の中を落ちていく、限りなく落ちていく。ああ、助けてくれ~!
 神様、私はとても悲惨な人生を送りました。哀れな人間でした。特に、老いてからは、いつも飢えに苦しみました。だから、酒に溺れ、すべてを恥じ、すべてに嫌悪を感じていたのです・・・・。もうこれ以上、生きていたくなくなり、身を投げました。
 ああ、神様、何という恐ろしい瞬間!いずれにしても、もうすぐ死ぬはずだったのに、どうして自分から死を選んだのだろうか!?
 どうか祈ってください。もうこれ以上、空虚がのしかかることに耐えられません。このままでは体が砕けてしまいます。とうかお願いします。
 あなた方は、自殺によって地上を去った人間が、どれほどの悲惨を経験するか、よくご存知です。見ず知らずのあなた方に、こうしてお願いするのは、この苦しみに、これ以上、耐えられないからなのです。
 私が誰かという証明は必要ないでしょう。これだけ苦しんでいる、それで十分ではないですか!
 もし、私が腹をすかせていたとしたら、あなた方は、きっと私にパンを下さったことでしょう。ですから、パンをくださる代わりに、どうか祈ってください・・・・。
 もうそろそろ帰らなければなりません。近くにいる幸福な霊達に聞いてみてください。そうすれば、私が誰か分かるでしょう」

 霊媒の指導霊からのメッセージ:「わが子よ、今、あなたにメッセージを送ってきたのは、地上で悲惨な生活を送った後、全てが嫌になって、自ら命を絶った者の霊です。
 この者には勇気が欠けていたのです。そうしようと思えば高みを目指すことも出来たはずなのに、この男はアルコールに溺れていきました。彼は、絶望のどん底まで落ち込み、1857年7月22日、フランソワ一世塔から身を投げ、自らの哀れな人生に終止符を打ったのです。
 あまり進化していなかった、この哀れな男の魂に、同情してあげなさい。神に祈り、この魂に恩寵を与えてくださるようにお願いしてください。それは、あなた方にとって、よき仕事となるでしょう」

 その後、調査をした結果、1857年7月23日の新聞[ル・アーヴル]に、次のような記事が掲載されているのを見つけた。

 「昨日、4時頃、桟橋を散歩していた人々は、悲惨な事故を目撃して心を痛めた。ある男性が、塔から身を投げて、岩の上に落ち、血まみれになっているのを発見したのである。年老いた引き船人夫で、アルコール中毒の果てに自殺したものと見られている。名前は、ルーヴェ・フランソワ=シモンという。遺体は、コルドリ街の娘の住まいに運ばれた。享年67歳」

 この男が死んでから、やがて6年が経とうとしているのに、この男は、相変わらず、「塔から落ち、体が岩に激突する」という体験を繰り返している。目の前に広がる空虚を見ては、繰り返し恐れおののいているのである。体が落下する恐怖に、絶えずさらされているのだ。それも6年ものあいだである。
 それは、あとどれくらい続くのであろうか?彼には、それは全く分からず、そして、そのことが、さらに苦悩を深くしている。これは、地獄の業火の苦しみに匹敵すると言えるかもしれない。
 誰が、こうした処罰の様子を伝えてきたのか?それは誰かがでっち上げたものなのか?いや、そうではない。現実に、それらを体験し、耐え忍んでいる者達自身が伝えてきたのである。それは、しばしば、我々が思っても見ない時に、思ってもみない存在から自発的に伝えられてきた。そのことが、我々が自分自身の想像力に弄ばれているのではないことを証明している。

 以下の文章は、[霊との対話]という、霊的知識の書物から抜粋した文章です。また、自殺に関するその他の霊的知識は、[自殺してはならない霊的な理由]に書かれています。

 1859年にイタリア戦争が始まった時、パリに一人の仲買人がいた。多くの隣人達から尊敬されていたこの仲買人には、一人息子があったのだが、その息子に徴兵がかかった。彼は、何とかして息子に徴兵を免れさせたいと思ったが、どうしてもその方法が見つからなかったので、「自分が自殺して、息子を寡婦の一人息子という立場にすれば、徴兵を免れる」と思って、自殺を決行した。
 一年後、生前の彼を知っており、彼が霊界でどのように生活しているのかを知りたくなった人の依頼で、この仲買人の霊を招霊することとなった。

-(指導霊に)いま話題にしていた、この仲買人の霊を招霊したいのですが、よろしいでしょうか?
 「招霊して結構ですよ。彼は、むしろ、それを喜ぶでしょう。そのことで慰めを得ることができるからです」
-それでは、招霊します・・・。
 「ああ、ありがとう!私はとても苦しんでいます。でも・・・は公正です。私は、きっと許されるでしょう」

 この霊は、文字を書くのに非常な困難を覚えているようであった(この場合、[霊媒の手を使って霊が文字を書く]というかたちで対話が行われている)。文字は不規則で、形が随分崩れていた。「でも」と書いた後で、しばらくためらい、それから、また書き始めようとしたが、なかなか書けなかった。判別不可能な線と点を書いたのみであった。「神」という言葉をどうしても書くことが出来なかったのである。

-文字が欠落している部分を埋めて頂けませんか?
 「駄目です。出来ません」
-あなたは「苦しんでいる」とおっしゃいました。おそらく、自殺したことは間違いだったのでしょう。しかし、自殺の動機そのものは悪くはなかったのですから、その点は斟酌されるのではないですか?
 「たしかに罰の期間は短くなると思います。しかし、行為そのものがよくなかったことに変わりはありません」
-どのような罰を受けているのか、教えて頂けませんか?
 「魂と肉体の両面で苦しんでいます。肉体がもうないにもかかわらず、苦しんでいるわけですが、これは、ちょうど、手術で手足を切断したにもかかわらず、なくなった手足が痛むように感じられるのと同じです」
-あなたは一人息子のことを思って自殺したわけですが、ほかにはまったく動機はなかったのですか?
 「父親としての愛が動機となって、私は自殺しました。それが唯一の動機だったのは事実です。ただし、いかなる理由があるにせよ、自殺することは間違いです。もっとも、この動機が斟酌されて、罰の期間は短くなるでしょうが」
-苦しみがいつ終るのか、予測がつきますか?
 「予測はつきません。しかし、それが終ることは分かります。そのために、気持が楽になるのは事実です」
-少し前、あなたは「神」という言葉を書くことが出来ませんでした。しかし、あなたより苦しんでいる霊で「神」と書くことの出来る霊もいます。あなたが書けないのは、罰の一種なのですか?
 「悔い改めの努力を一生懸命すれば、書けるようになると思います」
-そうですか。では、大いに悔い改めて、書けるようになってください。「神」と書けるようになれば、随分楽になると思いますよ。

 霊は、試行錯誤の結果、その線は震えており、崩れてはいるが、ついに、大きな文字で、「神は善なるかな」と書くことが出来た。

-招霊に応じて下さって、有難うございました。あなたに神の慈悲がありますように、お祈りさせて頂きます。
 「はい、どうかお願いします」
-(指導霊に対して)この霊のなしたことについて、どのように評価しておられるのかお聞かせ願えますか?
 「この霊の苦しみは、正当なものです。というのも、彼には神への信頼が欠けていたからです。神に対する信頼の欠如は、常に処罰の対象となります。もしも、『息子を死の危険に晒したくない』という立派な理由がなかったとしたら、罰はもっと長くて恐るべきものとなっていたでしょう。
 神は、真の動機をご覧になります。そして、その人の行ったことに応じて、正当に評価し、どう扱うかをお決めになるのです」

 一見しただけでは、この自殺は正当なものであるように思われるかもしれない。自己犠牲の行為と考えられるからである。確かに自己犠牲の行為ではあった。しかし、完全なる自己犠牲ではなかった。というのも、指導霊の霊示にもあるように、この男には、神に対する信頼が欠けていたからである。
 自らの行為によって、彼は、息子の運命を妨げた。まず、息子がこの戦争で必ず死ぬとは決まっておらず、また、この戦争を通じて得たキャリアによって、息子は次の進化の段階に進むかもしれなかったのである。
 その意図は、確かによきものであった。したがって、それは斟酌された。だから、死後の苦しみは軽減された。しかし、だからといって、それが悪であることに変わりはないのである。
 もしそうでなければ、あらゆる悪事が許されることにもなりかねない。我々は、ある人を殺しておいて、「その人のために殺してやったのだ」と思うことも出来るからである。ある母親が、子供を、まっすぐ天国に送るために殺したとして、「動機がよいから、それは間違っていなかった」とは言えないのだ。もしそんなことが通用するとすれば、宗教戦争での蛮行すら、すべて許されることになってしまうだろう。
 原則として、人間は自分の命を勝手に縮めることは出来ないのである。なぜなら、その命は、彼が地上で義務を果たす為に与えられたものだからである。いかなる理由によっても、命を勝手に縮めることは出来ない。
 人間には自由意志が与えられており、誰にも、その行使を止めることは出来ない。しかし、一旦、それを行使した以上、その責任は自らがとらなければならないのである。
 自殺のうちでも最も厳しく罰せられるのは、絶望からの自殺、すなわち、「悲惨な状況から逃げ出したい」と思ってなされた自殺である。その悲惨な状況は、当人にとっての試練でもあり、また、償いでもあるので、そこから逃げるということは、「自ら引き受けた使命を前にして逃げ出す」ということであり、「果たすべき使命を投げ出す」ということでもあるからである。
 ただし、「同胞を救うために、危機的な差し迫った状況で、自らの命を捧げる」という行為と自殺を同一視すべきではない。第一に、そうした行為は、人生から逃げ出すために、あらかじめ意図されたものではない。第二に、地上を去る時期が、もし来ていないのなら、神は必ずその人を危機から救い出してくださるからである。
 したがって、そうした状況における死は、正当な犠牲的行為と見なされるのである。「他者のために、自らの命を縮めた、純粋な愛他的行為」として評価されるのだ。

 以下の文章は、[霊との対話]という、霊的知識の書物から抜粋した文章です。また、自殺に関するその他の霊的知識は、[自殺してはならない霊的な理由]に書かれています。

 1858年4月7日、夜7時頃、こざっぱりした服装の50代の男性が、パリの、ある公衆浴場にやってきた。サービス係の少年は、浴室に入ったその男性が、いつまでたっても自分を呼ばないので、不審に思って浴室をのぞいてみた。そして、そこで、見るも無惨な光景を目撃したのである。その男は、剃刀で喉を掻き切っており、浴室中に血が飛び散っていた。身元の確認ができなかったため、遺体は死体公示所に運ばれた。

 死後6日たってから、パリ霊実在主義協会において、この男性の霊を招霊したところ、次のような問答がなされた。

-招霊します・・・・・。
 霊媒の指導霊からのメッセージ:「ちょっと待ってください。今そこまで来ていますから」
-今、あなたはどこにいますか?
 「分かりません・・・・。ああ、私が今どこにいるのか教えてください」
-あなたは、今、霊実在論を研究している人々、あなたを好意的に迎えようとしている人々のあいだにいます。
 「私はまだ生きているのですか・・・・。棺桶の中で窒息しそうです」

彼の魂は、肉体から離れたとはいえ、未だに混乱したままである。地上で生きていた時の感覚が強くて、自分が死んだとは思えないのである。

-ここに来るように、誰かに勧められたのですか?
 「何か、ほっとしたことを覚えています」
-どうして自殺などしたのですか?
 「では、私は死んでいるのですか・・・。いや、そんなことはない・・・・。まだ、体の中にいますから・・・。私がどれ程苦しいか、あなた方には分からないでしょう。ああ、息が詰まる!誰か、優しくとどめを刺してくれないだろうか?」
-どうして身元を確認できるようなものを何も残さなかったのですか?
 「私は、皆に見放されたからです。苦しみから逃れようとしたのに、これでは、まるで拷問です」
-今でも身元を知られるのは嫌ですか?
 「ええ。どうか、血が噴出している傷口に、赤く焼けた鉄を押し付けるようなまねはしないでください」
-お名前、年齢、職業、住所を教えて頂けませんか?
 「嫌です!どれも教えたくない」
-家族はおありでしたか?奥さんは?子供は?
 「私は、皆から見放されたのです。もう誰も愛してくれません」
-どうして、そんなことになったのですか?
 「ああ、どれくらい多くの人が私のようになっていることだろう・・・・・。家族の誰からも愛されなくなってしまった・・・・・、もう誰にも愛されないんだ!」
-いよいよ自殺をしようとした時、ためらいはなかったのですか?
 「とにかく死にたかったのです・・・・。疲れ果てていたので、休息が欲しかった」
-「将来のことを考えて思い留まる」という可能性はなかったのですか?
 「私には、将来は、もはやありませんでした。希望をすっかり失っていたのです。希望がなければ、将来のことなど考えられません」
-生命が失われる瞬間は、どんな感じがしましたか?
 「よく分かりません。私が感じたのは・・・・。だいたい、私の生命はまだ失われていません・・・・。私の魂は、まだ体に繋がっています。ああ、蛆虫が私の体を食っているのが感じられる!」
-死が完了した時、どんな感じがしましたか?
 「死は完了しているのですか?」
-命が消えていく時は、苦しかったですか?
 「その後ほど苦しくはなかった。その時苦しんでいたのは体だけだったから」
-(近くの指導霊に対して)この霊は、「死の瞬間には、その後ほど苦しくはなかった」と言っていますが、これはどういうことですか?
 「死の瞬間に、霊が、その生の重荷から解放されつつあったのです。そういう場合には、解放の喜びが死の苦しみに勝ることもあります」
-自殺した人の場合、常にそうなるのですか?
 「必ずしもそうではありません。自殺した人の霊は、肉体が完全に死ぬまでは、肉体に結び付けられたままです。それに対して、自然死は生命からの解放です。自殺は生命を破壊することなのです」
-意思とは無関係に、事故で亡くなった場合でも、同じなのですか?
 「いいえ・・・・。あなたは自殺をどう考えているのですか?霊は、自分のやったことに対して責任を取らされるのですよ」

 死んで間もない人が、自分が死んでいるのかどうか分からない状態になるということは、実に頻繁に観察される。特に、自分の魂を肉体のレベル以上に向上させなかった人の場合には顕著である。
 この現象は、一見、奇妙に思われるが、ごく自然に説明できる。
 初めて夢遊病に陥った人に、眠っているかどうか尋ねた場合、必ず「眠っていない」と答える筈である。この答えは極めて論理的なのだ。非は、不適切な言葉を使って質問した側にある。
 「眠る」という言葉は、一般的な使い方では、あらゆる感覚器官が休息することを意味している。ところが、夢遊病者は、考えられるし、見られるし、感じ取ることも出来るのである。したがって、自分が眠っているとは思わないし、実際、言葉の普通の意味においては眠っていないのである。だから、彼は「眠っていない」と答えるのである。
 これは、死んだばかりの人間についても言える。彼にとって、死とは、すべての消滅を意味していた。ところが、夢遊病者と同じく、彼は、見ることも、感じることも、話すことも出来るのである。したがって、彼にとっては、それは死を意味していない。だから「死んでいない」と言う訳である。
 それは、彼が、この新たな状態について、しっかり理解するまで続くだろう。
 この状態は、いずれにしても、辛いものである。なぜなら、それは不完全な状態であるために、霊をある種の不安定な状態に投げ込むからである。
 右の例では、蛆虫が体を食っている感覚があるだけに、苦痛はより激しいものとなっている。
 さらに、その状態は、彼が命を縮めた年数分だけ続くことになるので、いっそう、辛いものとなるだろう。
 こうした状態は、自殺者において一般的に見られるものであるにせよ、常にそうであるとは限らない。特に、苦しみの強度と期間は、自殺者の犯した過ちの大きさに左右される。
 また、蛆虫の感覚や、身体が腐敗していく感覚も、自殺者特有のものであるとは言えない。それは、精神的に生きず、ひたすら物質的な享楽を求めて生きた人間が死んだ時に、よく見られるものである。
 要するに、罰せられない過ちはないということなのである。しかし、罰の与え方に、画一的で普遍的な法則はない。

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