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カテゴリ:★『シルバーバーチの霊訓』 > シルバーバーチ 人類の宿題-地上天国の建設

シルバーバーチ 人類の宿題-地上天国の建設 目次

人類の宿題-地上天国の建設(1)

人類の宿題-地上天国の建設(2)

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自殺してはならない理由


 科学技術の急速な発達は目を見張るものがあるが、最近の情勢を見ていると、それがうっかりすると今より更に恐ろしい戦争と破壊の凶器を拵えることになりかねない気がする。
 人間の人間に対する非人間的行為が相変わらず後を絶たない。果して完全に終止符が打たれる日が来るのだろうか。お互いが霊的に兄弟であり姉妹であるという認識の下に暮らせる真に平和な時代が本当に来るのだろうか。殺し合いは避け難い人間の宿命なのだろうか。戦争は正当化されうるものだろうか。霊界はこうした地上世界をどう見ているのだろうか。
 本章はこうした問題についてのシルバーバーチの知恵に耳を傾けることにしよう。

 大霊の御心は必ずや行き渡ります、と申し上げます。人類の霊的革新及び動物問題の改善に関わる仕事に携わる者、無駄な苦しみから救い、残虐行為を止めさせ、いつどこにいても人の力になってあげる仕事に献身する者は、絶対に弱気になってはいけません、と申し上げます。
 地上天国はいつの日かきっと成就されますが、それはゆっくりとした段階を経ながら、そして時には苦痛を伴いながら成就されてまいります。仰るような暴力・衝突・戦争・残虐行為が増えつつあるのは、今地上世界がオーバーホール(修理・点検の為の全面的解体作業)の過程にあるからです。
 既に多くの伝統的思想が葬り去られました。若者は自由を求めて騒ぎ立てております。又、あまりに永い間手枷足枷となって来た制度、しかも何の努力もしない一部の階層の特権を拵えている制度に対する不満が最早抑制出来なくなっております。
 そうしたるつぼの真っ只中にいる人間にとっては、その背後の神の意図を読み取ることは難しいことです。しかし歴史を振り返ってご覧になれば、そこには段階的な進化の跡があることに気付かれる筈です。
 総体的にみて人類はかつてより親切心と寛容心が増え、その一方において偏見と残虐行為と抑圧政策がのさばっております。これは物的宇宙の進化の仕組みの一環なのです。つまり対立する勢力が激突して、そこからより良いものが生まれ、全体として進化して行くということです。
 気を落としてはなりません。大切なのは霊的真理と霊力とが世界の多くの土地にしっかりとした足場を作り、退却させられることがないようにすることです。それが至る所に恵み多い影響力を及ぼし、全体としてパン種の働きをし続けます。その影響力が浸透するにつれて暗闇と無知と愚行と蛮行を追い払い、地上世界を汚している醜悪と邪悪を駆逐して行くことでしょう。
 明るい希望と楽観の根拠がいつでも十分に揃っているのです。なぜなら大霊の働きの休む時はないからです。

-我々がスピリチュアリズムと呼んでいる神のメッセージが届けられたのも、その働きの現れだと私は思います。

 それでこの度の大事業を敢行する決断が下されたのです。それも、これまでに幾度かあったような一時的暴発に終わらせてはならないということになっているのです。ですから、一旦根付いたものは徹底的に地固めが行われ、地上の永続的な要素となって行くことでしょう。

-地上世界は渦巻き状(スパイラル)に進化しているように思います。

 仰る通りです。その渦巻きの一番底は恐ろしい様相を呈していても上層部は実に明るい展望が開けております。落胆してはいけません。霊的知識を携えた者が絶望感を抱くようなことがあってはなりません。このことは既に何度も申し上げてまいりました。大霊は宇宙創造の当初からずっと地球を管理しておりますから、次に為すべきこともちゃんとご存知です。
 もう一つ別の側面もあります。人間社会のあらゆる分野で古い概念が覆され廃棄されて行きつつあります。その多くはあまりに永い間人間を迷わせて来た間違った概念です。これから徐々に愛と善の勢力が欲得づくの勢力と取って代わり、生活状態が改善されて行くことでしょう。
 大切なのは、取り越し苦労をしないということです。心配の念は私達霊界から援助する者にとって非常に厄介な障害です。拒否的性質があります。腐食性があります。恐れ・心配・不安・こうしたものはその人を包む物的・精神的・霊的雰囲気を乱し、私達が近付くのを一段と困難にします。
 真理を知った者は、それが僅かであっても-たとえ多くを知ったとて、無限の真理からすれば多寡が知れています-いついかなる事態に直面しても、穏やかで平静で受容的態度を維持すべきですし、又そう努力すべきです。全生命に存在を与えている霊力より強力なものはないとの断固たる自信に満ちていなければなりません。
 何度でも繰り返し申し上げられる私からのメッセージがあるとすれば、それは〝心配の念を棄てなさい。そうすれば内部に静穏が得られます。内部が静穏になれば外部も静穏になります〟ということです。

-暴漢やチンピラによる被害が多くて、散歩に出るのにも防具を用意しなければならないのかと本気で考えている始末です。ぶん殴られて金を巻き上げられるのを許すわけにはいきません。そういう時はやり返すべきでしょうか。

 悪を大目に見たり暴力を助長することになってもよいということは絶対にありません。剣を取る者は剣にて滅ぶと申します。あなたの身体は霊が地上で自我を表現する唯一の手段ですから、それを守るのはあなたの義務です。が、そのことに限らず、地上生活に関わることは全て自分の理性によって判断しなくてはなりません。
 ですから、ご自分で正当だと思う手段によって身を守ってよいことは言うまでもありませんが、同時にそうした愚かな若者、自分のしていることの理非曲直も弁えない程道を間違えている若者のことを可哀相に思う心も忘れてはなりません。それは一種の群集心理、劣等感から生まれるヒステリー症状です。つまり自分達の存在を認めさせる唯一の手段としてそういう態度に出て関心を引こうとする、幼稚な自己憐憫の情です。
 もとより私達には暴力への同情心は一欠片もありません。霊力は暴力という形では表現されません。霊力も常に霊性・平穏・安らぎ・落ち着いた自信の中で表現されるものです。そうした心理状態が調和を醸し出し、物質の世界と霊の世界との間の障害を取り除くのです。
 それとは反対に暴力は調和を乱します。激情を噴出させます。挙句にその反動が自分に戻って来ます。本人にとって何一つ良いことはありません。これも物質偏重思想の副産物です。
 暴力的になっているのは若者だけではありません。若者はその元気さ故に衆目に晒され易くて非難の的とされているだけです。暴力的傾向は私利私欲の追求に目が眩んで人間としての道を見失っている、病める地上社会の一症状です。無明の中で、他人の幸福に全く無頓着に、ますます暴力的になってまいります。しかもそれは人間同士だけでなくて、可哀相にも、何の罪もない動物にも向けられています。
 それは若者が見せているような破壊的エネルギーがたまたまその方向へ切り換えられているに過ぎないという考えは、大変な見当違いです。全体としての調和ということを考えないといけません。他の存在への慈善(チャリティ)の心を発揮するには貧乏人の存在が必要だという意見がありますが、そういうものではありません。仁愛の心があって初めて慈善が施せるのです。哀れな人の姿を見ないと慈悲の心が生まれないというものではありません。
 若者がその持てる強烈なエネルギーを社会の為に活用する分野は沢山あります。不幸なことに、正しい指導を受けていない若者が多過ぎるのです。が、正しい指導を受けた場合、そして又、霊的な動機付けから行動した場合は、大人が心を洗われる思いをさせられるようなことをやってのけます。若者が若者としてのベストを見せた時は、敬服に値するものを発揮します。道を誤ると手の施しようのない程惨めなことになります。
 皆さんは暴力やテロ行為が生み出す陰惨さに巻き込まれないようにしないといけません。超然とした態度、俗世にあって俗世に染まらない生き方を心掛け、自分の霊的本性、神から授かった潜在的可能性を自覚して、せめて皆さんだけでも、小さいながらも霊の灯台となって、導きの光を放ってあげてください。

-戦争はどう理解したらよいのでしょうか。

 無限なる叡智と愛を具えた大霊は地球人類を創造すると共に、ある範囲内での自由意志を授けられました。同時に大霊は、人間が個的存在としていかに生きるべきかについての誤りない指標としての神性が開発されるように、人類全体の霊と精神と身体との配剤をなさっております。
 大霊は人間をただの操り人形-選択する自由も力も持たない、機械仕掛けのような存在にすることも出来たのです。が大霊は自由意志を与えてくださいました。しかし自由意志があるということは、同時に自分の行為への責任もあるということになります。
 あなたは〝善いこと〟をしてもいいし〝悪いこと〟をしてもいいのです。善と悪とは一つのコインの表と裏のようなものです。愛と憎しみ、光と闇、嵐と静けさもそうです。これを両極性と言います。そのどちらを選ぶかにあなたの選択権があるということです。
 そこで戦争のことですが、あなたはその動機に立ち帰って、こう自問するのです-〝なぜ戦争をしなくてはならないのか〟〝両者が共通して求めているものは一体何なのか〟〝それは互いに相手を支配することなのか〟
 そうした問にあなた自身が考えて答えを出さないといけません。所詮はあなた方の世界です。パラダイスとするも地獄とするもあなた方人間次第です。どちらかを選ぶ自由と、どちらにも出来る手段を具えているからです。

-私個人には出来ません。一人の人間ではどうしようもありません。

 〝個〟が集まって地上人類全体が出来上がっているのです。一人でも多くの〝個〟が貪欲と強欲と残虐と横暴を止めれば、その数だけ平和に貢献するのです。あなたはあなたの生活、あなたの行為、あなたの言葉、あなたの思念に責任を負うのです。他人のしたことで償いをさせられたり報酬を受けたりすることはありません。それが摂理なのです。
 平和を求めて祈り、霊界の高級霊の道具として協力しようとなさる努力は必ず報われます。人間の協力を得て初めて霊力を地上へ届け、戦争や暴力行為、その他、地上の文明を混乱させ存在を脅かすもの全てに終止符を打たせることが出来るのです。
 しかし、これより先もまだまだ地上から戦火の消えることはないでしょう。なぜなら、人類全体が一つの巨大な霊的家族であるという、この単純な真理が未だに理解されていないからです。肉体は撃ち殺せても霊は死なないのです。この事実が世界各国の国政を与る人達によって理解され、その関連分野を通じて実行に移されるようにならない限り、戦争の勃発は避けられないでしょう。
 人間が人間に対して行う非人間的行為に対して、私達は何の責任もありません。これは因果律の働きが片付ける問題です。勿論人類にとって〝より良き時代〟は到来します。是非ともそうあらねばなりません。が、失望のドン底から一気に幸福の絶頂へと一夜の内に転換するようなわけにはまいりません。一歩一歩の段階的過程を経る他はありません。
 霊的真理を理解する人が増えるにつれて、その知識に則った生き方をする人が増え、その人達の生活が依存している各種の制度も、霊と精神と身体がその幸福と成長と成熟にとって必要な体験が得られるように改善されていくことでしょう。
 あなた方がスピリチュアリズムと呼んでおられる霊的思想が前世紀(1848年)に勃興したのもそこに目的があります。それはかつてのように突発的で直ぐに立ち消えになるようなものではなく、総合的な計画の下に行われて、既に霊力は完全に地上に根付いております。これからもその前線基地は拡張し続け、ますます多くの人間がその恩恵に浴することになるでしょう。
 ある人は〝黄金時代〟と呼び、ある人は〝地上天国〟と呼んでいるものは、いつかは成就されます。それまでにどれ程の時が掛かるかは、私の口からは敢えて予言しないでおきましょう。ただ、物的進化が絶え間なくその目的を果たしつつあるように、それと並行して霊的進化もそれなりの役割も果たしつつあることを申し上げておきます。

-人間はどの程度まで殺すことが許されているのでしょうか。

 〝許されている〟という言い方は感心しません。確かに人類には自由意志が与えられておりますが、それは条件付きであり制約があります。やりたいことは何をやってもよいという意味での、無制約の自由ではありません。
 そもそも自由意志の授与は、人間が大自然の創造の過程に参加し、大自然の摂理と調和して生き、健康と理解と悟りを得て天命を全うする為の神の計画の一環なのです。そうでなかったら進化も発展もありません。
 自由意志がなかったら皆さんは成長と進化のチャンスのない、ただの操り人形となってしまいます。せいぜいロボットのような行動しか出来ません。が、自由意志があるということは、その行使の仕方に責任を持たねばならないということになります。
 殺すという行為は、たとえやむを得ない事情はあるとしても、いけないことであることは明らかです。生命を与える力はないのですから、奪う権利もない筈です。が、酌量すべき情状というものがあることも事実です。
 霊的に進化するにつれて人間は、霊的実在についての知識を基盤とした明確な原理に則って生きなければならないことを自覚するようになります。所詮完璧な生き方は望むべくもありませんが、改善の余地は大いにあります。
 地球は生命活動の場の一つに過ぎません。これからもっともっと多くの生活の場を体験することになっております。それが永遠に続くのです。地上生活なんかいい加減に送ればよいと言っているのではありません。あなたが送るべき全生活のほんの一欠片に過ぎないことを申し上げているのです。
 その地球をよりよい生活の場とする為に努力なさってください。地球は宇宙の惑星の中でも最も進化の程度の低い部類に属します。が、それなりの進化の目標があります。同時に、進化とは永遠の過程でもあります。完全ということは永遠に達成出来ないのです。なぜなら、完全に近付けば近付く程、その先にまだ達成すべきものがあることを知るからです。

-(ゲストの一人)我々スピリチュアリストは形骸化しつつある古い宗教と対決し反抗することに多大の時間とエネルギーを注ぎ込んでいるようですが、もう一つの宗教である-信奉者は宗教と呼ばれることを拒否なさるかも知れませんが-マルキシズムないしはコミュニズム(共産主義)については全く言及しておりません。今では少なくとも思想上の共鳴者は人類の三分の一にも達しています。既成宗教のいずれよりも遙かに頑強で、その影響力は強烈です。これこそ純粋な唯物観を説いている点で、我々の本当の敵ではないかと思うのですが・・・・

 コミュニズムというのは何のことでしょうか。

-マルクスとレーニンとエンゲルスの著作をもとにした政治的、経済的、並びに社会的思想と言ってよいかと思います。

 もしもコミュニズムが真の協調性を意味し、階級上の差別もなく、住民がお互いに助け合う心を持った社会のことであるとすれば、現在の地上世界で思想的にコミュニズムを標榜している国家には、そういうものは存在しておりません。私の言わんとするところを明確に述べてみましょう。
 地上社会の問題のそもそもの根源はマテリアリズム(物質偏重・唯物思想)にあります。皆さんはそれと真っ向から対立するスピリチュアリズムを提唱し唱道なさっているわけです。そして霊が実在であることが単なる理論ではなくて事実であることの証拠を提供しております。私と同じく皆さんは、ナザレのイエスをリーダーとする神庁の霊団によって考案された霊的大計画の一環として、霊力を地上へ送り届けるだけでなく、そこにしっかりと根付かせ、いかなる地上の勢力がたとえ束になってかかっても、それを駆逐出来ないようにする為に、本日もこうしてここに集まっているわけです。
 今まさに世界中にその為の霊的橋頭堡が設営され地固めされつつあります。それは更に多くの橋頭堡を築く為です。霊力は既に地上にしっかりと根付き、その恵み深い影響力を発揮しております。公的には禁じられている国々においてすら働いており、これからも働き続けます。
 皆さんは明日のことを思い煩う必要はどこにもありません。最善を尽くして私達に協力してくださればよいのです。その内徐々にではありますが、地上の癌である物欲が除去されていきつつあることに気付かれるでしょう。

-(もう一人のゲストが息子から依頼された質問として)〝共産主義者(コミュニスト)の指導霊〟というのも存在するのでしょうか。

 そういう質問をされて私がどういう受け取り方をするかを説明しますので、しっかりと理解してください。
 私はラベルというものには全く関心がありません。私にとっては何の意味もありません。地上世界ではラベルが大切にされます-共産主義者、社会主義者、保守党、労働党、スピリチュアリスト、セオソフィスト、オカリスト、等々、挙げていったらキリがありません。しかし、大切なのはラベルではなく、その中身です。コミュニストという用語の起源は、物的財産は共有するのが正しいと信じた遠い昔に遡ります。それ自体はとても結構なことです。
 いかがでしょう、有り余る程持っている人が足りない人に分けてあげるというのは公正なことではないでしょうか。教師というのは持てる知識を持たざる生徒に譲ってあげようとする人のことではないでしょうか。
 分かち合うというのは立派な原理です。私達霊がこうして地上へ戻って来るそもそもの目的も、やはりそこにあります。皆さんは私達から学び、私達は皆さんから学ぶということです。
 聖書にも〝地球とそこにあるもの全ては主のものなり〟(コリント①10・26)とあります。これは人間は地上のものは何一つとして所有出来ない-自分のものとはなり得ないことを意味します。地上にいる間だけリースで所有しているようなものです。永遠に自分のものではありません。地上のゴタゴタは皆が自分が一番いいと思うものを少しでも多く自分のものとしようとする-一番悪いものを欲しがる者はいません-そこから生じております、その結果として強欲、貪欲、私利私欲が王座に祭り上げられ、物欲第一主義が新しい神として崇拝されることになります。
 地上には物欲優先の副産物が、見るも痛ましい程蔓延っております。悲劇・卑劣行為・飢餓・栄養失調・残虐行為・動物実験、こうしたものは全て物欲を優先させることから生じる恐ろしい産物です。
 みんなで分け合うという理念は結構なことです。共産主義(コミュニズム)という用語そのものに怯えてはいけません。初期のクリスチャンには全財産を共有し合った時期が、少しの間でしたがありました。ということは彼等のことをコミュニストと呼んでもよいことになります。
 一つの理念を持つことと、それを実現する為に拷問や抑圧や迫害や専制的手段を用いることとは別問題です。そこに大事な違いがあります。
 ですから、ご質問に対するお答は、大霊の恩恵を惜しみなく分かち合うべきであると信じて働いているコミュニストの指導霊はいます、ということになります。そこに何ら問題とすべきものはないと思います。

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自殺してはならない理由


 別の日の交霊会で戦争がもたらす地上と霊界双方の弊害について語る-

 私達は霊界が再び傷付いた魂の病院となるのは御免被ります。こうして地上の皆さんと共に仕事をしている私達から申し上げたいことは、皆さんは私達がお教えしていることの全てを地上生活に摂り入れて行くだけの用意が出来ていなければならないということです。
 私達が代わりにやってあげるわけにはいかないのです。私達には人間のしている間違ったことがもたらす結果が分かります。地上でそういうことをしていたら霊界へ来てからこうなりますよ、ということをお教えすることしか出来ません。
 そのことをわざわざこうして地上へ戻って来て教えねばならないのは、戦争のもたらす結果が破綻と害悪でしかないからです。霊界へ送り込まれて来るのは霊的に未熟な魂ばかりです。言ってみれば、熟さない内にもぎ取られた果実のようなものです。地上で使用していた肉体という表現機関を破壊されて分別を失った魂を一体なぜ私達が癒してあげねばならないのでしょうか。人間が人間としての義務を果たさないが為に霊界へ送られて来る未熟な魂の世話をしに、一体なぜ私達が巡礼の旅先からこの地上へ後戻りしなければならないのでしょうか。
 もしも私達に愛の心がなければ、つまりもしも大霊の愛が私達を通して表現されなかったら、こうして同じ大霊の子である地上の皆さんと交わるようなことはしていないでしょう。どうか私達の説く真理を唯一の判断の基準として私達を裁いてください。〝あなたの教えは間違っている-我々の常識に反するから〟などという幼稚なことを言ってはなりません。
 霊界にとっての迷惑はさておいても、地上での戦争を正当化することが許されるわけがありません。物質的な面に限ってみても、ただ破壊するのみです。霊界にとっても正当化の根拠はありません。なぜならば、神の摂理への干渉に他ならないからです。霊はその機が熟した時に肉体から離れるべきであるとの摂理に、よくも平気で逆らえるものだと呆れます。
 皆さんはかくあるべきという原理を何としても擁護しなくてはなりません。分別のない人達に霊の仕事の邪魔を許してはなりません。ご存知でしょうが、進歩と平和と調和を求めて戦う私達霊団の向こうを張って、それを阻止せんとする組織的な活動をしている邪霊集団もいるのです。(章末注参照)
 地上世界は人類というものを民族別に考えず、全てが大霊の子であるという観点から考えないといけません。障壁を拵えているのは人間自身なのです。大霊ではありません。大霊は人間の一人ひとりに神性を賦与しているのです。従って人類の全てが大霊の一部なのです。
 地上は建設すべきものが山程あるというのに、上に立つ〝お偉方〟はなぜ破壊することばかりしたがるのでしょう。大霊はそうした人間の行為の全てを規律的に治める為の摂理を用意しております。それに干渉するようなことをしてはなりません。逆らったことをすれば、その結果は破壊と混乱でしかありません。そのことは(世界大戦で)目の当たりにしたばかりではないでしょうか。
 ここにお集まりの皆さん方の一人ひとりが積極的にその影響力を行使して、大霊の計画の推進の為に尽力する人達を先導して頂きたいのです。大霊が流血を望まれると思いますか。戦争による悲劇、苦痛、失業、飢餓、貧民窟を大霊が望まれると思いますか。子等が味わえる筈の恵みを奪われて喜ばれると思いますか。戦争で親を奪われて、幼子が路頭に迷う姿を見て大霊が喜ばれると思いますか。
 殺意が芽生えた時、理性が去ります。人間には神性が宿っていると同時に、動物進化の名残としての獣性もあります。人間としての向上進化というのは、その獣性を抑制し神性をより多く発揮出来るようになることです。獣性が優勢になれば戦争と衝突と殺人が横行します。神性が発揮され、お互いに援助し合うようになれば、平和と調和と豊かさが得られます。
 地上世界を国別、民族別に考えてはなりません。全てが大霊の一部であることを教えないといけません。みんな大霊の子なのです。海で隔てられていても大霊の前では兄弟であり姉妹なのです。私達の教えは単純です。しかし真実です。自然の摂理に基づいているからです。
 摂理を無視した方法で地上世界を築こうとすると混乱と無秩序が生じます。必ず破綻をきたします。
 忍耐強い努力と犠牲を払わないことには、これからも数々の戦争が起きることでしょう。種を蒔いてしまった以上は、その産物を刈り取らねばなりません。因果律は誤魔化せないのです。流血の争いという種を蒔いておいて平和という収穫は刈り取れません。他国を物理的に支配せんとする欲望の張り合いをしながら、その必然の苦い結果を逃れるわけにはまいりません。
 愛の種を蒔けば愛が実ります。平和の種を蒔けば平和が実ります。互助の種を地上の至る所に蒔いておけば、やがて互助の花が咲き乱れます。
 単純な真理なのです。あまりに単純過ぎる為に、かえって地上の〝お偉方〟を当惑させるのです。

-〝大戦〟(注)で戦死した人達の犠牲は何一つ良い結果を生み出さなかったのでしょうか。(注-英語で〝大戦〟Great War という時は第一次世界大戦のことをさすが、ここでは第二次大戦も含む戦争一般のこととして訳した-訳者)

 何一つありません。今の世界の方が〝偉大なる戦争〟勃発以前より更に混沌状態に近付き、破壊が増しております。

-数多く見られた英雄的行為が無駄に終わってしまうこともありうるのでしょうか。霊的に何の報いもないのでしょうか。

 その犠牲的行為をした当事者個人にはあります。動機が正しかったからです。ただ忘れないで頂きたいのは、そうした英雄を後世の人間が裏切っていることです。犠牲を無駄に終わらせています。その原因は相変わらず物的欲望を優先しているからです。

-毎年のように〝終戦記念日〟の催しがありますが、少しは役に立っているのでしょうか。

 たとえ僅か二分間であっても、全く思い出さないよりはマシでしょう。が、その日をライフル銃と銃剣と花火という、戦争で使用する軍事力の誇示で祝って、一体どうなるというのでしょう。何か霊的な行事で祝えないものでしょうか。

-同じ日にスピリチュアリストの集会で行っている記念行事を続けることには賛成なさいますか。

 真実が表現されている所には必ず価値あるものが生まれます。説教も奉仕的精神を生むものであれば結構です。ただ聞くだけで終わる説教では無意味です。聴衆をいかにも平和の味方であるかの気分に浸らせるだけのキザな説教ではいけません。
 私が望むのは実際の活動を生み出すような説教、人の為に役立つことをしたいと思わせるような説教、弱者に勇気を与えるような説教、喪の悲しみに暮れる人を慰めてあげるような説教、住む家さえない人達の心の支えとなるような説教、物質界の汚点である虐待行為の全てに終止符を打たせるような説教です。
 お互いがお互いの為になることをする以外に平和の道はありません。全ての人間が互助の精神に満たされ、人の為になる行為を実践するようになるまでは、平和は到来しません。これまで続けられて来た終戦記念日も、今日では次の戦争の準備の為の小休止でしかありません。

-不戦主義(兵役拒否)の運動には賛同なさいますか。

 私はどの〝主義〟にも属しません。私にはラベルはありません。名目に惑わされてはいけません。その目的としているものは何か、何を望んでいるのか、そこが大切です。なぜなら、敵と味方の双方に誠実で善意の人がいるからです。
 私達の教えは至って単純ですが、それを実行に移すには勇気がいります。一つの糸口を掴んだら、つまり霊的真理を知ることによって覚悟を決め、物的生活のあらゆる事柄に奉仕と無私の精神で臨めるようになれば、地上に平和と和合が招来されます。
 それは主義・主張からは生まれません。神の子がそうした精神の真実性を悟り、それを日常生活において、政治活動において、工場において、政府機関において、或いは国際政策において応用していくことによって初めて実現されるのです。
 私達に出来るのは、これこそ真実に基づいていると確信した原理を説き、それを応用すれば、必ずや地上世界によい結果がもたらされることを自信をもって申し上げるのみです。
 その地上世界にいるのはあなた方です。最後の責任はあなた方にあります。しかし皆さんが人の道を誤ることさえなければ、私達も精一杯の愛と厚意をもって導き、万全の協力を惜しまないことだけはお約束します。

 訳者注-私が〝英国の三大霊訓〟と呼んでいる『シルバーバーチの霊訓』と『ベールの彼方の生活』と『霊訓』の内、邪霊集団の存在について一番強く説き警告しているのは『霊訓』である。その中から参考とすべき箇所を部分的に紹介しておきたい。通信は自動書記によるインペレーターからのもの。
 《既に聞き及んでいようが、今汝を中心として進行中の新たな啓示の仕事と、それを阻止せんとする一味との間に熾烈なる反目がある。我等の霊団と邪霊集団との反目であり、言い替えれば人類の発達と啓発の為の仕事と、それを遅らせんとする働きとの闘いである。それはいつの時代にもある善と悪、進歩派と逆行派との争いである。
 逆行派の軍団には悪意と邪心と欺瞞に満ちた霊が結集する。未熟なる霊の抱く憎しみによって煽られる者もいれば、真の悪意というよりは悪ふざけ程度の気持ちから加担する者もいる。要するに程度を異にする未熟な霊が全てこれに含まれる。闇の世界より光明の世界へと導かんとする、我等を始めとする他の多くの霊団の仕事に対し、ありとあらゆる理由からこれを阻止せんとする連中である。
 汝にそうした存在が信じられず、地上への影響の甚大さが理解出来ぬのは、どうやらその現状が汝の肉眼に映らぬからのようである。となれば汝の霊眼が開くまでは、その大きさ、その実在ぶりを如実に理解することは出来ぬであろう。
 その集団に集まるのは必然的に地縛霊、未発達霊の類である。彼等にとって地上生活は何の益ももたらさず、その意念の赴くところは彼等にとっては愉しみの宝庫とも言うべき地上でしかなく、霊界の霊的な喜びには何の反応も示さぬ。かつて地上で通い慣れた悪徳の巣窟をうろつき回り、同質の地上の人間に憑依し、哀れなる汚らわしき地上生活に浸ることによって、淫乱と情欲の満足を間接的に得んとする。(中略)
 一方、人間の無知の産物たる死刑の手段によって肉体より切り離された殺人者の霊は、憤怒に燃えたまま地上をうろつき回り、決して大人しく引っ込んではおらぬ。毒々しき激情をたぎらせ、不当な扱いに対する憎しみ-その罪は往々にして文明社会の副産物に過ぎず、彼等はその哀れなる犠牲者なのである-を抱き、その不当行為への仕返しに出る。地上の人間の激情と生命の破壊行為を煽る。次々と罪悪を唆し、自分が犠牲となったその環境の永続を図る。(中略)
 かくの如く地上の誤りの犠牲となって他界し、やがて地上へ舞い戻るこうした邪霊は、当然のことながら進歩と純潔と平和の敵である。我等の敵であり、我等の仕事への攻撃の扇動者となる。至極当然の成り行きであろう。
 久しく放蕩と堕落の地上生活に浸れる霊が、一気に聖純にして善良なる霊に変わりうるであろうか。肉欲の塊が至純なる霊に、獣の如き人間が進歩を求める真面目な人間にそう易々と変われるであろうか。それがありえぬこと位は汝にも分かるであろう。
 彼等は人間の進歩を妨げ、真理の普及を阻止せんとする狙いにおいて、他の邪霊の大軍と共に、まさに地上人類と我等の敵である。真理の普及がしつこき抵抗に遭うのは彼等の存在のせいであり、汝にそうした悪への影響力の全貌の認識は無理としても、そうした勢力の存在を無視し、彼等に攻撃の隙を見せることがあってはならぬ》

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