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自殺の霊的知識へ

カテゴリ: ★『霊に関する話』

「あの世」から帰ってきた英国の新聞王・ノースクリフ
     
            ハネン・スワッファー著/近藤千雄訳



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人生の恩師ブラッドレー夫妻へ贈る言葉

 デニス・ブラッドレー氏[注]の著書Towards the Starsは夫妻が自宅で催しておられるホームサークル(家庭交霊会)における霊の世界との交わりの様子を纏めたもので、あの世へ先立った者達の存続の事実を如実に教え、数え切れない人々に慰めと生きる意欲を与えた。夫妻はそれを職業とされているわけでもなく、特別の援助を受けておられるわけでもない。そうしたボランティア的サークル活動がこの広いロンドンで何年にもわたって人知れず続けられてきたという事実は乱目すべき重大事件といってよい。私が人間個性の死後存続という途方もない大きな真実を確信することが出来たのは、他ならぬ夫妻の真摯な人間性と霊媒能力の確かさのお陰である。
                                  ハネン・スワッファー

 [訳者注ーブラッドレーは本来は小説家で、スワッファーが評論家だったことから二人の間に親交があった。Towards the Starsと二冊目のThe Widoms of Godsは氏の自宅で催されたホームサークルに出席した第一級の著名人が霊の実在に目覚めていく、その求道の過程を纏めたもので、スワッファーもその一人だった。本書は恩師のノースクリフ卿との交霊の経緯を綴ったもので、スワッファーは自分のことに偏らず各界の著名人(あの人もそうだったのかと思う人が多く出てくる)に関するものも多く紹介している。上記の二冊は訳者の手元にもあるが、本書はそのダイジェストのようなもので、本書を通して、スピリチュアリズムが英国の知識人の間に広まっていく様子を窺い知ることが出来るであろう。]


 ノースクリフとスワッファーー訳者前書きー

 世界的に有名な日刊紙Daily Mailを創刊し、八十種類を超える雑誌を出版したノースクリフ卿は、本名をウィリアム・ハームズワースといい、1865年にアイルランドで生まれ、1822年に57歳でロンドンで没している。
 その一番弟子のような存在だったスワッファーは、後に評論家として「フリート街の法王」の異名を取る程の存在となった。米国の「ウォール街」が金融の中心地であるように、フリート街は新聞社が軒を連ねるジャーナリズムの中心地で、そこの法王と呼ばれるということは「泣く子も黙るご意見番」といった意味が込められていた。
 本書はこの二人の子弟関係を扱ったものであるが、実はそれは地上時代のことではなく、死後三年も経たないうちにデニス・ブラッドレー・ホームサークルに出現して、愛称の「スワッフ」の呼び名で語りかけた。死後の存続など全く信じていなかったスワッファーは、何度も出席してノースクリフと名乗る[霊]と対話を重ねて行くうちに、否定しようにも否定出来ない完璧な証拠を見せ付けられて、ついに人間個性の死後存続を信じるようになった。その経過を綴ったのが本書である。
 従って、本書の原題を直訳すれば『ノースクリフの帰還』となるが、その帰還は霊界から地上界へ帰ってきたということであり、その対話の場がブラッドレーの自宅だったということである。こうしたことが可能となったのは、スピリチュアリズムと呼ばれている霊界からの働きかけのお陰である。
 日本でいう交霊実験会に相当する「ホームサークル」はスピリチュアリズムから生まれたもので、その起源は米国ハイズビル村におけるフォックス家の怪奇現象に遡る。1848年のことで、現象そのものは太古から現代に至るまで人間が生活を営むところには何らかの形で発生していたものと、本質的には何ら変わるところはない。
 それがなぜ殊更に脚光を浴びることになったかといえば、普通なら先頭切って否定派に回るはずの学者、それも科学・文学・哲学・法曹その他の知識界の重鎮が、その原因究明に積極的に参加したからで、その結果として、霊媒的体質をした人間がいること、その霊媒を操って異次元の存在が現象を引き起こしていること、その目に見えない存在というのは地上で生活したことのある『死者』、俗にいう『霊魂』で、過去の存在と思っていたのが実は肉体をかなぐり捨てた後、地上とは全く異なる条件の環境で生々躍如たる生活を営んでいる、といったことが明らかとなった。
 そうした、言わば『客観的事実』が判明した後、スピリチュアリズムは大きく二つの流れに分かれていく。一つは『物理的現象』と呼ばれているもので、物体が動いたり遠い距離にある物体を実験室に瞬間的に運び入れたり、霊がエクトプラズムという半物質体を纏って出現して、地上時代の姿を再現して見せてくれるもの。
 もう一つは『入神現象』と呼ばれているもので、霊媒が自我を引っ込め、代わって霊がその霊媒の発声器官を使って喋る。英語でTrance Speakingという。発声器官ではなく筆記能力(手と頭脳)を使ってメッセージを綴るのを『自動書記現象』といい、英語でAutomatic Wrtingという。
 前者は言うなれば怪奇現象を実験室で演出して見せているようなもので、その価値はと問われれば、死後にも個性が存続することを物理的に確認させてくれることと言えるであろう。それに引き換え後者は、人間とは一体何なのか、何の為に生きているのか、死後の世界との繋がりはどうなっているのか等々の疑問について霊的教訓を授けてくれる点に価値がある。英語ではSpirit CommunicationとかSpirit Messageといい、日本語では「霊界通信」と呼んでいる。
 さて、その霊界通信の中でも内容の高等さと信頼度、読む者への影響力の点で群を抜くもの、言わば古典的名品として今もって価値を失っていないものを挙げれば、十九世紀末に入手された『モーゼスの霊訓』(全二巻)、そして『シルバーバーチの霊訓』(全十六巻)であろう。
 以上の四種類はそれぞれに個性があり特徴が違うので、横に並べてその価値を比較することは出来ないが、最後に挙げた『シルバーバーチの霊訓』はほぼ六十年間(1920年〜79年まで)にわたって毎週一回金曜日の夜に開かれたホームサークルにおいて、シルバーバーチと名乗る古代霊(本人は三千年前に地上生活を送ったことがあると述べているだけで、地上時代の氏名も人種も国籍も明かさずに終わっている)が、十名前後の出席者として親しく対話を交わし、悩み事の相談に乗ったりしたその親しみ易さから、今なお愛読者が、地道であるが、洋の東西を問わず増え続けている。
 実はそのシルバーバーチの霊言の価値を見出してPsychic Newsという週刊新聞に掲載させ書物として発行させた張本人が、他ならぬハネン・スワッファーだったのである。その経緯は示唆に富んだものを含んでいるので、煩を厭わずその概略を紹介しておきたい。(その詳しい内容が本書である)
 シルバーバーチの霊媒を務めたのはモーリス・バーバネルで、若い頃から文学者との交流が深く、スワッファーとも親しい間柄だった。本書で詳しく紹介するノースクリフとスワッファーがブラッドレー交霊会で霊的再会を果たしていた頃、バーバネルも別の交霊会に出入りして霊的体験を積み、それがきっかけでバーバネル自身が霊媒能力を発揮して、自宅で交霊会を催すようになった。
 1920年のことで、奥さんを入れて僅か四、五人のサークルで内密に行い、速記録も取らず、テープ録音もまだ開発されていなかった時代だったので、ただシルバーバーチのスピーチを聞いて、それでお終いということを繰り返していた。
 さて、本書の原典Northcliffe's Returnを発行して大反響を巻き起こしたスワッファーは、友人のバーバネルの自宅でも交霊会が催されているとの噂を小耳に挟んで、ある日ひょっこり立ち寄ってみた。そしてシルバーバーチと名乗る霊のメッセージを書いた。ブラッドレー交霊会で何十回も霊と接して洞察力が自然に身に付いていたスワッファーは、そのシルバーバーチが尋常な霊でないことを直観し、これほどの高級霊のメッセージを一握りの人間だけで聞き捨てにするのは勿体ないー是非とも公表するようにーと進言した。
 最初のうちバーバネルは聞き入れなかったが、聞けば聞くほどシルバーバーチに惚れ込んでいくスワッファーの熱意に負けて、ついにPsychic News紙に連載するようになり、それが纏められて単行本として発行されるようになった。第一巻が出版されたのは1938年のことで、同時に、バーバネルの交霊会はスワッファーが司会をするようになり、正式の呼称も「ハネン・スワッファー・ホームサークル」とすることになった。
 以上のような経緯を紹介したのは、スワッファーがバーバネルの交霊会に出席しなかったら、シルバーバーチの霊言が世に出ることもなかったという事実に着目して頂きたいからである。が、そのスワッファーもハリー・ポターという牧師との出会いがなければ「交霊会」というものの存在を知らなかったであろうし、デニス・ブラッドレー交霊会に出席しなかったら、新聞記者時代に『ボス』と呼んで親しみをもって尊敬していたノースクリフ卿との霊的再会によって死後の世界の存在を確信するには至らなかったであろう。その経緯を綴ったのが本書で、人間の個性の死後存続を確信した後、バーバネルの交霊会を訪れたーそして古代霊のシルバーバーチに魅せられたーということである。
 イエスの明言に「木はその実によりて知れる」というのがある。これは人物の本性は行いを見れば分かることを言っているのであるが、これを文字通りに解釈しても同じ教訓に繋がると思う。つまり、果実を実らせる為には養分を摂取する為に『根』があり、それを送り届ける『幹』があり、大陽の恵みを受ける『枝葉』があってこそである。
 私はこれまでその『果実』ばかりを翻訳・紹介し、『根』や『枝葉』に相当する部分は講演の席で『語る』程度で終わっていた。読者という『消費者』はそれでよいかも知れない。シルバーバーチからのメッセージを果実に譬えれば、その深い味を楽しむだけでも決していけないことではないが、その果実を実らせたブラッドレー交霊会、そこへ足を運んだスワッファー、その交霊会に出現したノースクリフの存在を忘れてはならないだろう。そして、そうしたバックグラウンドを知って初めて、本当の意味でシルバーバーチを理解したと言えると思うのである。

ノースクリフ卿ほど、毀誉褒貶、様々なことを言われた人物も珍しいのではなかろうかー生前も、そして死後も。
 そのノースクリフ卿の下で私は、延べ十七年間も仕えていたー最初は若いレポーターとして、その後は卿の厚い信頼を受けた編集者の一人として。そんな私には、卿の言わんとすることは、口から出る前に直感的に察しがついたものだった。電話が掛かってきた時などは特にそうだった。さらに卿は死後ほどなくして自分が死んでいないことを私を介して伝えてきた時も、私は卿であることをまず直感的に確信したのだった。
 本名をアルフレッド・ハームズワースといった。アルフレッドは少年の頃からフリート街で新聞を売り歩き、生涯で八十種類もの印刷物を発行し、『ノースクリフ卿』の称号を授与されて、五十七歳でその波乱の生涯を閉じている。大英帝国で最も多くの話題を振りまいた男であると同時に、最も頭の切れるジャーナリストであった。その男が、死んだ後また戻ってきて、話題を振りまくことになろうとは・・・
 「ノースクリフ卿というのはどういう風貌の男でしたか」ー私はよくそう聞かれることがある。この質問には、どんなご機嫌の時に会ったかによって違うと答えておこう。惚れ惚れするほどハンサムに見える時があるかと思うと、芋虫を噛み潰したような顔でがなり立ててばかりいる時がある。満面に笑みを浮かべて、顔中がライトアップされたみたいに『いい顔』に見える時もある。こんな時の顔は実に印象的だった。近づき難いほどの威厳を感じさせる時があるかと思うと、少年のように、あどけなく笑い転げることもあった。
 決断の速さは凄かった。記憶力の良さは、頭の中が区画整理がキチンとなされているようで、一度会った人、一度耳にしたことは絶対に忘れなかった。話題の切り替えが瞬間的で絶対に混乱しなかったのは、そのせいであったと思われる。人生問題に答えるコラムを執筆中に政治問題の論説を指示することもあった。日刊であろうと夕刊であろうと、或は一度に両方であろうと・・・
 彼の話し振りはまるで暴君のように威圧的だった。電話での話の時は特にそうで、もしも相手に言い返され、その言い分が正しい時、つまり議論に負けた時は、いきなり受話器を切ったものだった。相手が取締役であろうが使い走りの少年であろうが、それは同じだった。それだけに、彼は「使い走りの少年だって、その気になれば取締役になれるよ」と言って笑っていた。もっとも「その気」になる者は一人もいなかったであろうが・・・
 そんな暴君的な態度に嫌気がさして二、三週間で辞めていく者が少なくなかったが、その殆どがその後一流のジャーナリストとなっているという事実は何を物語っているのだろうか。実は私自身が三回も辞めては再就職している。多分これが最多記録であろう。
 彼は社員の誰にとっても『親分』(ボス)のような存在だった。彼自身も自分が会社の中でも誰にも負けない活動的なジャーナリストであることを誇りにしていた。そして彼の偉いところは、道行く人の誰にでも「Daily Mailをどう思いますか」と聞いてみていたことである。その数は20人や30人ではなかった。中には痛烈な批判的な意見もあった。勿論記事の素晴らしさを口にする人もいた。彼はそれらを全部まとめてタイプで打ち、何枚もコピーして、社内の壁という壁に貼付けた。
 雑誌類を発行し始めた時、最初の頃は全寮制の学生が小遣い稼ぎに働きに来たものだった。ノースクリフはもともと下卑た表現をしない人だったが、学生の読者が多いことを念頭において、教養度の高い表現は無理としても、せめて不潔な用語だけは用いないように指示していた。同時に彼は学生達に、なるべくならDaily MailやEvening Newsを読むように勧めていた。(第一次)世界大戦中も彼は、傍から見て明らかに働き過ぎと思われる程は働いた。それでも、死を予想させない元気さで戦乱の続くヨーロッパ大陸を訪れた時も、七本の記事を送ってきた。
 その内の二本が「タイムズ」誌に掲載された時、精神分析の専門家から、この記事を聞いた記者はどこか妄想に取りつかれているところがある、と指摘する手紙が届いた。そう言えば、自分の記事が二本しか掲載されていないことに腹を立てたノースクリフはヨーロッパから電報で掲載を命令してきた。
 が、彼の病は急速に進行し、その異常ぶりを案じた複数の友人がヨーロッパから連れて帰った。そして入院させ静養させようとしたが、1922年8月14日、ベッドの上で原稿を整理している間に絶命していた。ジャーナリストとして生き、ジャーナリストとして死んだ。
 愚か者は彼のことを無慈悲な暴君だったと評する。が私は、彼ほどその人間関係の中に人間らしいムードと品格のあるマナーの魅力を感じさせた人を知らない。間違いなくそういう『ボス』だった。私にとっては二人といないその『ボス』の霊前に最敬礼する。
 こうして綴っていても、私の脳裏を去来するのは無心に記事を書いている新聞人としてのノースクリフではなく、私の人生に誰よりも多くの影響を与えてくれた友人として、また、辛くはあったが最も幸せだった十七年間を捧げた人間ノースクリフとしての思い出である。
 『ノースクリフ卿』と呼ばれる人物はもういないー彼は相続人を残さなかったのである。また『ボス』と呼ぶ人物も、もういないー世界中を探しても彼ほどボスと呼ぶに相応しい人物はいないからである。[Nothcliffeというのは『称号』であって個人名ではない。この称号は彼一人で終わったー訳者]

ボスがいなくなって二年あまりが過ぎた。私にとって彼は、その二年間ずっと墓地で安らかに眠っていて、記憶としてちょくちょく顔を出す程度の存在だった。が、もう一人の同僚で、私より二、三年長く彼の下で仕事をしてきたルイーズ・オーエン女史にとっては全く違った存在だった。
 忘れもしない、1924年9月9日のことだった。『クラリッジ』という高級ホテルでの女性新聞記者ばかりのささやかなパーティに呼ばれて、新聞にまつわる面白い話をしたことがあった。パーティが終わる頃には雨が降り出していて、ホテルが用意してくれたタクシーで通りの向かい側の『レヴィル』という店に行った。
 店のショールームへ入ったところ、何週間も会っていないオーエン女史が来ていて、久しぶりなので椅子に腰掛けて話を始めた。そこへ店の支配人が来て私にタクシー代を手渡した。するとオーエン女史が
「あたしもタクシー代を頂いたのだけど、なぜかしら?」と尋ねた。
「はてね?クラリッジでのパーティに出席したんじゃないの?」
「いいえ。ここへフロック・コートを買いにきただけなの。どういうことでしょうね?」
「ここは安物ばかりだよ」
「じゃ、いいわ、お礼にここで全部買っちゃうわ。他の店に行かないで・・・」
多分ホテルのオーナーの計らいでパーティの出席者へタクシーをサービスしてくれたに違いないが、たまたま出てきた女史をパーティの出席者と間違えて、ホテルマンが真っ先に乗せたのである。が、このホテルマンのただの勘違いが、私の人生を大きく変えることになるとは、神ならぬ身の、知る由もなかった。
 二人の話は政治と世界、政治と人間、と発展したが、最後はやはりボスの話になった。
「ボスが生きていて今ここにいたら何と言うかな?」と私が言ったら女史が
「今ここにいるわよ、ボスは。あたし、昨日ボスと話をしたのよ」と言う。女性霊媒のオズボーン・レナード女史による交霊会に出席して、かなりの長時間、ボスと対話を交わしたらしい。[レナードという名前はレナルドと呼ばれることがあるー訳者]
 私は当時まだスピリチュアリズムには関心がなかった。そして多分オーエン女史も関心はなかったと思われるが、交霊会にまで出席するに至る経緯を聞いてみると、成る程と納得がいった。それはノースクリフ卿の遺産相続の問題が絡んでいた。
 ノースクリフの死後、遺言をめぐって裁判沙汰となり、判決が例によって長引いた。社員の中には受け取りの資格を持つ者が少なくなかったので、裁判がこじれているうちに、あらぬ噂を流す者がいた。いわゆるスキャンダルによってノースクリフ卿という名誉ある名前にも傷がついた。明らかに誤解されているものが幾つかあった。
 そのこてでオーエン女史もどうしても黙って引っ込んでいる訳にはいかないことがあって、ある手段に訴えた。それがどういうものであったかは、ここでは公表しない。ノースクリフ卿を弁護する者達からもそれだけは止めて欲しいという要望があったが、女史は後へ退かなかった。[ノースクリフの名前を汚すことになるような事態になることだけは遠慮して欲しい]という趣旨の手紙が届いた時も、女史はこう返事を書いたという。女史の面目躍如というところである。[私のボスはジキルでもハイドでもありません(二重人格者ではないということー訳者)。二十年間も(秘書として)お仕えしたこの私が断言しますが、仕事の面においても私生活の面においても、世に憚るようなことは何一つ致しておりません。(中略)今ささやかれている根拠のない噂を払拭し、数々の超人的な神話と名誉毀損に終止符を打たせたいと思うのです]
 この手紙への返事が二日後に届けられたが、その中にノースクリフ卿の霊界からのメッセージが紹介されていた。それをその後私は直接読ませて頂いたが、私が死後の個性の存続を信じることになったのはそのボスからのメッセージであり、それを読まなかったら本書を書くこともなかったであろう。それは後で紹介するとしてー
 女史はその手紙に対してすぐさま返事を書いた。
[お手紙を拝見して私は少なからず動揺しております。是非お会いして話を伺いたいのですが、僅かな時間で結構ですので、時間を割いて頂けませんでしょうか?]と。
 女史は私に言った。
「ノースクリフ卿に私の知らない秘密があったとすれば、一体それは何なのかーそれを何としてでも知りたかったのです。自分の知らないことなど、あるはずがない。自分は二十年間も側近の一人として仕えてきて、どんな内面的なことでも分かっていたつもりでした。ボスほど開けっぴろげな性格の人間も珍しいと思っていました。どんなにプライベートなことでも、直ぐに言いふらしてしまうのです。
 勿論悩み事も直ぐに打ち明けてくれました。が、心の一番奥に仕舞っておきたいことがあったのだろうか?あったとすれば何としてでも知らねばならない。
 それも、きっと、私のボスの記憶への愛着と比較すれば大したものではないはずだ、と私は思ったのです」
 女史の話は続く。それから間もなく女史はある米国の新聞からの小さな記事が、ロンドンで発行されている雑誌に転載されているのが目に入って読んだ。ニューヨークへ講演旅行中のコナン・ドイル卿がレポーターとのインタビューの中で、ノースクリフ卿の霊と話をしたと語っていたのである。
 それから二、三週間があっという間に過ぎた頃、女史の自宅のラジオが故障した。これがまた意味を持つのである。女史は同じ社の者を呼んで直してもらった。ボスの主義で、簡単なことは自分達で出来るようにしつけられていたのである。
 呼ばれた男がやってきて弁解がましく言った。
「今夜はコナン・ドイルの放送があるので、直り次第帰らせて頂きます。インタビューして記事を書くことになっておりますので・・・」
 それを聞いて女史は、
「じゃ、その時ドイルさんに、ボスの霊と話をしたのは本当かどうか聞いてもらえない?どうしても知らなくてはならないの、本当かどうかを」と頼んだ。
 一時間程してその男から電話が掛かってきた。
「あれは本当だそうですよ。ドイル卿の方からあなたに会いに行くと仰ってました」

 その言葉通りドイル卿は、自らバッキンガム州のオーエン女史の家を訪れた。そして、アメリカに滞在中に確かにノースクリフ卿と話をしたことを証言した。女史はドイル卿に、自分もどうしてもノースクリフ卿に会って確かめたいことがある旨を告げた。そして、その訳を全て打ち明けた。
 ドイルという人は[スピリチュアリズムのパウロ]と呼ばれる程、その霊的真理を経験な態度で受け止めて説いて回っている人で、ただの興味本位で扱ってはならないと主張する。彼にとっては神聖なるものなのである。が、オーエン女史にとってはそんなことは言っておれない、いたって[この世的]な問題が絡んでいる。
 その点を理解したドイル卿は女性霊媒のアニー・ブリテンを紹介し、匿名で女史の交霊会に出席させた。匿名にするのは霊媒が余計な憶測をするのを防ぐ為で、真面目な交霊会ではそれが普通である。信頼性が高くなるのである。
 オーエン女史は胸の高まりを抑えながらブリテン女史の住まいを訪ねた。呼び鈴を押す手が震えたという。ボスの秘密がこのドアの中で解明されるのだろうかと、わくわくする思いでドアをくぐった。
 ところが、トランス状態[注]に入ったブリテン女史の口を使って喋ったのはノースクリフではなく、ブリテン女史の母親で、しかも直接ではなく、女史の指導霊が取り次いだのだった。

 [訳者注 本人の高次元の身体(幽体・霊体・本体)が肉体から脱け出る睡眠と違って、トランス状態というのは、霊媒自身は肉体に留まったまま自我意識を停止した状態のことで、その間にその言語機能を霊的存在に一時的に使わせるのを霊言現象と呼ぶ。が、それはどの霊にも簡単に出来ることではないので、代わってその霊媒の指導霊が通訳のように意思を取り次ぐことがある。この場合がそれである。トランス状態のことを日本では『鎮魂帰神』とか『神憑り』と呼んでいるが、こうした場合の『神』というのは『目に見えない存在』といった程度の意味で、低級霊や邪悪な意図を持った悪霊もいるので、用心が肝心である。]

 女史はその母親が一時間以上にもわたって話すのをじっと聞いていた。自分が幼い頃に他界しているので知らないことばかりだった。だいぶ前に他界した父親のこと、兄弟姉妹のことなど、興味深いことばかりだったが、一番聞きたいノースクリフに関する話はついに出て来なかった。
 帰ってからドイル卿にそのことを告げたところ、今度は牧師のジョージ・オーエン氏を紹介してくれた。早速オーエン氏を訪ねたところ、それならレナード女史が一番適格でしょうということになった。
 レナード女史は当時最も信頼の置ける霊媒として学者の研究対象にもされていたが、普段は肉親を失った人の依頼にしか応じないことをオーエン女史は知っていたので、仲介役として英国心霊科学研究所の会長マッケンジー氏の奥さんに匿名で依頼してもらった。
「レナード夫人は一年先まで予約で一杯なのですよ」
 そう言われたが、オーエン女史にしてみれば、自分が知ろうとしていることに比べれば、少々迷惑をかけてもいいという使命感があった。その使命感が動かしたのか、予約のキャンセルがあって、レナード夫人の交霊会に出席出来ることになった。
 予約の日が来て、オーエン女史はロンドン北部のバーネット区にあるレナード夫人の邸宅に車で訪れた。レナード夫人は勿論オーエン女史のことは何一つ知らない。顔はもとより名前も知らない。ノースクリフ卿との繋がりについても、何も知らない。先入観の入る余地は全くなかった。
 私はその後何度かレナード夫人の交霊会に出席しているので、オーエン女史が訪れた時の様子は想像がつく。
 レナード家には家政婦は雇っていないので、ベルを押すとレナード夫人自身がドアを開けてくれる。入って直ぐの部屋に入ると窓のカーテンが下ろされる。外の明るさを和らげる為である。それからテーブルに向かって座るのであるが、正面が向き合わず、言わば直角に位置を取る。テーブルの上には筆記し易いようにランプが灯されている。
 やがて夫人が両手を目にあてがうと、急に辺りに静寂が漂う。その時既に夫人はトランス状態に入っていて、その身体を別の人格が占領する。フィーダと名乗る女性の霊で、その声の響きから少女であることは容易に知れる。レナード夫人の専属の指導霊で、地上時代はインド人で、百年程前に他界したという。
 「フィーダです」と、子供らしい語り口で話し始めた。すぐ傍にノースクリフの霊が来ていて、オーエン女史へのメッセージを送る。それをフィーダが伝える。以下、女史が筆記[注]したものをまとめて紹介する。

 [訳者注ートランス状態の霊媒の発声器官を使って霊が喋るという現象のメカニズムは、霊媒によってそれぞれに異なるといっても良いほど多様である。霊が霊媒の身体に入り込んで、つまり俗にいう憑依状態で語る場合もあれば、身体から離れた位置からリモコン式に操る場合もある。操る部分が「書く」機能であれば自動書記通信となる。]

 レナード夫人とフィーダの関係では、フィーダは言わば通訳のような立場にある。従ってその表現が一人称になったり三人称になったりすることがある。具体的な例を示せば、「君をここへ連れて来たのは私だ」とノースクリフが述べた場合、フィーダは「彼はあなたをここへ連れてきたのは自分だと言ってます」と表現する場合もあれば「私があなたをここへ連れてきました」と直接法で言う場合もある。ここでは全て一人称に統一しておく。[二人はボスと秘書の関係なので、you を直後関係から、『あなた』にしたり『君』にしたりしてあるー訳者]

 ノースクリフ卿からのメッセージ

今日は真っ先にここへ来ることに決めていました。邪魔が入らないように訳者注ー交霊会は地上次元の現象なので低級霊の邪魔が入り易い。霊媒の背後霊団による警戒網が必要であるが、もっとも大切なのは出席者の真摯な心構えである。誰でも出席出来る交霊会や高額の費用を取る霊能者は、その意味で警戒を要する]万全を期しました。あなたが今日ここへ来ること、それも、この私に係わったことで来られることを察知しておりました。

 女史付記ーノースクリフ氏に関する最近の切り抜きを何枚か持参していた。

 ここへ来るように念じたのは私です。心霊協会を尋ねるように誘ったのも私です。私は地上にいた時からスピリチュアリズムに関心があり、連載記事[多分オーエンの自動書記通信『ベールの彼方の生活』の連載を指しているものと察せられる。ー訳者]を出した時も私が関わっておりました。

 私が地上を去った時、君だけは私が死後も生き続けていて、すぐ近くに来ていることをはばかることなく広言してくれたね。それが私がこうして地上へ戻ってくる上で大いに力になりました。その信じてくれる気持ちが地上との縁を繋ぐ力となるのです。
 君とは夢の中で何度もお会いしています。ここへ連れて来たこともあるのですが、脳による意識的な記憶としては甦って来ないようです。消えてしまうのではなく、こちらへ来てから役に立ちます。多くの人達がこちらから援助してますよー親戚の人や色んな関係の方々が・・・
 国際連盟は実に大切です。君も(ペンの力で)援助しないといけません。もうお終いだなどと諦めてはいけませんーああでもない、こうでもないと迷っているだけでは何にもなりません。


 戦争は貧困と憎しみと犯罪と破壊と苦悩をもたらします。平和と幸せをもたらすのは国際連盟だけです。一致団結が今こそ要請されていることを、心ある人々に訴えてください。英語国だけではありません。世界の全ての国にそれを訴えるべきですし、訴えないといけません。もっともっと協調的精神があって然るべきです。私は生前からそう信じ、そう主張する記事を書いてきました。
 国際連盟を成功させる為に努力している人々が協力し合い励まし合わねばなりません。大いに議論し合い、それを公表し、公正な裁きの手段を明らかにすることは可能です。繰り返し申し上げますが、戦争は破壊と苦難をもたらすのみです。こちらへ来て大いに意を強くしたのですが、地上の為に腐心している先輩達が大勢います。つまり地上時代に、破壊することではなく創造することに一身をなげうった人達です。


 女史付記ーここでノースクリフはロシアの作家トルストイや英国の作家コンラッドなどの氏名を挙げた。

 コンラッドが命を引き取る時、私はすぐ傍にいました。彼には大いに手伝ってもらうことになるでしょう。そうですとも、こちらでも地上時代と同じく活発に働いているのですよ。活動しなければならないのです。することが山ほどあるのです。
 私は創造と改革に携わっている霊団に引き付けられています。地上でも改革者や先駆者に関心を向けておりました。心の狭い愚か者に我慢がなりませんでした。要するに視野が狭いということですが、それは私の側にも非があったと言えなくもないでしょう。心の狭い連中にはむかっ腹が立ち、うんざりしたものです。そういう感情が鬱積して、結果的にはそれが落ち着きを無くさせ、嫌みばかりを言うことにもなったのです。
 私の性格には衝動的なところと慎重なところとが妙に混じっており、愚かしいことも随分やらかしました。えらく寛大なところを見せるかと思うと、些細なことで厳しく批判したりすることがありました。


 女史付記ーそう言ってからクスクス笑う声が聞こえた。ノースクリフの強烈な性格はスコットランド高地人だった母親の血を受け継いでいた。

 体質が生み出す性格は親から受け継ぎますが、魂(本来の自我)は自分の力で発達させるものです。魂が大きくなるほど霊性が高まります。通俗的な意味では私は普通一般の人間とは違っておりました。世間の目というものを全く気にしませんでした。自分の考えで好きなようになりました。君はその辺のことをよく理解してくれてましたね。

 女史付記ー衝動的で無軌道のようで、その裏にはちゃんとした計算があった。

 これからもまだまだ混乱が続くでしょうが、冷静さを失わず、自分が正しいと思うことを実行に移して行きなさい。直観を大切にし、意念の力を働かしてください。他人に頼ってはいけません。もっとも、あなたには改めて説教するまでもないでしょう。そういうあなたを誇りに思います。
 今私は心霊治療に大いに関心を抱いていて、治癒能力を発達させる為の勉強をしているところです。精神に宿るパワーをよく知っているあなたにも協力してもらうつもりです。
 あなたが子犬を可愛がっておられるのを結構に思います。私も動物は好きでしたが、こちらへ来て生体解剖の残酷さに目覚めました。まず地上界での動物実験を止めさせないといけません。こちらでの悪影響が少なくなり、それが地上界にも良い影響を及ぼします。出来る限りの努力をしてください。

 女史付記ーノースクリフは動物が好きで、愛犬と一緒に撮った有名な写真が残っているが、動物実験には反対ではなかった。

 死んだことを今では喜んでいます。手がけていた仕事が完了していなかったで、最初は無念でなりませんでしたが、あの頃は骨の随まで疲れていました。半端な疲れではありませんでした。喋ろうとしても言葉が出ず、考えようとしても頭が混乱し、書こうとしても文章がまとまらず、全てがこんがらがっていました。

 女史付記ーノースクリフの命を奪ったのは過労で、最後の思考力に混乱をきたしていた。ヨーロッパ大陸から送られてきた最後の記事は確かに混乱していて、いつも愛読していた読者はそのおかしさにすぐに気がついたらしい。

 あのまま死なずにいたら、健康を回復することはなかったでしょう。間違いありません。今はすっかり元気になりました。完全な健康体です。晩年は筋肉がたるみ、締まりがなくなって行くのが分かりましたが、今はしっかりとして元気一杯です。
 歯もちゃんとありますよ。奇麗に揃っています。私が歯のことで悩んでいたことは、君が一番よく知っているでしょう。よく悪態をついたものです。また、あの咳も出なくなり、喉の痛みも消えました。
 生前私は、死んだら風にふわりとなびく衣装をまとってフワフワと宙に浮いているくらいに想像していましたが、とんでもない、実に実在感があります。爪もありますよ。今身に纏っているのは、君もよく見たグレーのスーツ(フラノ)です。肌も実に奇麗です。しっくりとして気持ちがいいです。病気をすることもなく、怪我をすることもなく、因鬱になることもありません。お金なんて要りません。物を自分で創り出すのです。スーツも自分でこしらえました。
 地上では私が忙し過ぎて、やりたいことが出来ないので気の毒な人間のように言われていました。それで神経的に参ったようでずか、君は違っていたね。楽天的なところがあって、落ち込んでもすぐまた快活になったからね。
 死ぬ二、三ヶ月前は宗教について深く考えました。もう二度と地上へ戻りたいとは思いません。今は実に幸せです。することが幾らでもあります。色々と指導してださる人が大勢います。特にウィリアムやキングズレーから多くを教わりました。


 女史付記ーウィリアムというのは側近の一人でパリ支局の総局長だったウィリアム・マカルパインであろう。またキングズレーというのはコナン・ドイル卿の息子であることは間違いない。第一次世界大戦で戦死している。

 今にして思えば、君の忠言を聞いて長期の旅行へ行かなければ良かったのかもしれません。少なくともこんなに早く死ぬことはなかったかも知れません。が、今となっては五十歩百歩でしょう。

 女史付記ー私には病的症状が見えていたので、気分転換の旅行に行くよりは自宅でのんびりした方が良いと、個人的な意見として忠告した。

 母親の傍に行ってみることがありますが、どことなく私の存在を感じるようです。が、健康状態が気がかりです。
 心霊科学研究所とは接触を続けてください。まだまだ学ぶべきことが沢山あります。私も援助しましょう。
 君が僕の墓地にいつも持ってきてくれる、あのピンクの花、あれはいいね。だけど、もう墓参りはしなくていいよ。墓地というのは死骸と同じで、何の意味もない。どうせ花を飾るなら君の部屋に飾って欲しい。あの部屋にはよくお邪魔しているよ。花があると気持ちがいいね。君もこちらへ来たら案内してあげるが、現在の僕の住居は田舎にあるよ。都会はご免だな。ゴチャゴチャして日当りが悪くて・・・今住んでいるところは建物は奇麗だし、花や小鳥が一杯いてね。すっかり気に入っているよ。温室まであるよ。地上でも大自然が好きだったことは君もよく知ってると思う。
 記事を書く時に鉛筆の芯を舐めるのは止めたまえ。どうせ口に入れるのならイチジクにでもしたらどうかな。土曜日に君が同僚と一緒にいるところを訪れたら、丁度イチジクを食べているところだった。僕がイチジクが大好きだったことを同僚に言っていたが、僕がわざと「そのイチジクはまだ熟してないぞ」と君に吹き込んだら、それが通じたみたいだね。こっちへ来ても相変わらずイタズラをやってるよ。

 女史付記ーその二、三日前の土曜日にカンタベリーの同僚の家まで車で行った時にイチジクを買って行った。「ノースクリフはイチジクが大好きだったわね」と言いながら食べようとしたら、なぜか「これはダメだ、まだ熟してないみたい」という言葉が出た。が、食べてみたらよく熟していた。

 さようならを言うつもりはないよ、また来るから。君にはやってもらいたいことが山ほどあることを忘れないでくれ。スタミナと活力を温存しておいて欲しい。
 パワー(交霊会で使われる霊的なエネルギー)が切れてきたみたいだ。が、これでさようならにはならないよ。また出るから。では、元気でな。

以上の交霊会の記事が日曜新聞The Peopleの第一面のトップに三段抜きで掲載された。その見出しはこうだった。

 ノースクリフ卿、墓場の向こうからメッセージを発信
   「国際連合の為に働く人々に応援を」
     秘書が明かす驚異的交霊現象 

 この記事は発行前から世界中で抜き刷りされるほどの注目を浴びた。発行当日にはオーストラレーシア海外通信社[オーストラレーシアはオーストラリアと付近の諸島の総称ー訳者]の若い記者が訪れ、「オーストラリアに発信したいので」校正刷りを見せて欲しいという。その記者は記事の重要性を認識していたのである。
 Daily Mailのオーストリア版もSydney Sunにも、一面トップ記事として、こう出ていた。

     センセーショナルな交霊現象 
   ノースクリフ卿から届けられた興味津々の物語
   「今は元気で幸せそのもの」
 フラノのグレーのスーツを着て田舎のマンションで暮らす 

 ロサンゼルスの写真誌Daily Newsも次の見出しで三段抜きのトップ記事扱いだった。

      ノースクリフ卿、交霊会で死後の生活を語る 
 
 こうした記事がフランス、ドイツ、イタリアを駆け巡った。スピリチュアリズムが再びブームを引き起こした。私も新聞人として、これを重大ニュースとして扱った。その扱い方には、ボスに対する生前の敬意がそのまま出ていた。
 またオーエン女史をよく知っていたので、いい加減な話でないことは信じていた。つまり、オーエン女史に関する限り、その記事に偽りも誇張もないことは信じていた。が、当時の私としてはそこまでが限界だった。要するにボスの述べていることを信じることは出来なかった。
 「私は信じてないが女房はすっかり信じてるよ」ー上司の一人がそう言っていた。ではスピリチュアリズムの専門家はどうか。四人のコメントを紹介しておこう。

オリバー・ロッジ[1851〜1940:世界的な物理学者で哲学者。第一次大戦で戦死した息子のレーモンドからの通信で死後の存続を確信。その経緯を述べた『レーモンド』は本書と共にスピリチュアリズムの古典的名著とされるー訳者]
 レナルド夫人の霊媒現象については私も数年にわたって調査したが、その誠実さと真っ正直さに百パーセント確信がいった。オーエン女史が完全な匿名で出席したというからには、メッセージを送ってきたのがノースクリフ卿以外の何者でもないと結論づけてよい。

ウィリアム・バレット[1845〜1929:ノーベル物理学賞を受賞した世界的な物理学者で、ヴィクトリア時代の最後の知的巨人と称されるー訳者]
 ノースクリフ卿からのものとされている通信は実に興味深く、拝見した限りでは純正な霊界通信であろう。私はレナード夫人を個人的に存じ上げているが、間違いなく信頼の置ける霊能の持ち主である。

コナン・ドイル[1858〜1930:名探偵シャーロック・ホームズで世界的に知られた作家であるが、本職は耳鼻科の医者で、患者が来ないその暇に書いたのが当たり、その後シリーズを書き続けながら、医学生時代から抱き続けてきたスピリチュアリズムの調査研究を手がけ、その成果を『新しき啓示』『重大なるメッセージ』として出版した(日本語版では合本にして『コナン・ドイルの心霊学』として出版。)その後は世界中に講演旅行をしてスピリチュアリズムの普及に努めたー訳者]
 オーエン女史がブリテン女史とレナード夫人から得たメッセージは、間違いなく女史の意志とは別の次元から届けられたものであることを確信する。いやしくも理性のある人間ならば、一読してそれがノースクリフ卿その人から送られたものであることを疑うことは出来ないはずである。

 フリート街(新聞社が軒を連ねる通り)も大騒ぎだった。私に他に特ダネはないかと尋ねる記者がいたが、デマではないのかといった批判的な声は聞かれなかった。唯一それに近いものといえば、私の親友が編纂しているBurnly Newsに『フラノのグレーのスーツ』を嘲笑する記事があった。
 実は私も校正の段階でその一節を削除しようかと思ったほど違和感を抱いていた。それは私だけではなかった。The Peopleの宣伝部長フィリップス氏がやってきて
「知人が例のフラノのグレーのスーツについて詳しく知りたがっているのだが・・・」
と言う。
「なぜだ?」と私が聞くと
「本当かどうかを確かめたいらしいのだ。もし本当だったら、霊界へ行ったらフラノのグレーのスーツを縫わなきゃならないからと言うのだ。そいつは洋服の卸屋でな」
 こうして大笑いしたりボスを懐かしんだりしている頃に、その後の私の人生にコペルニクス的転回をもたらすことになる一通の手紙が届いたのだった。

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