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カテゴリ: ★『霊に関する話』

自殺ダメ



 [日本人の心のふるさと《かんながら》近代の霊魂学《スピリチュアリズム》近藤千雄[著]より]

 (P65の途中より抜粋)

 こうした宗派は、ある奇跡的超能力の持ち主の恩恵を受けた人々が中心となって次第に信奉者が増え、やがてその人物が神の化身と崇められるようになって一つの組織を持つに至る、というパターンを経ていると思ってまず間違いない。
 もっとも、中には黒住教のように、宗忠自身は「黒住の袋に入るでない」と、自分という一個の人間を崇めることを禁じたにも拘わらず、その死後に門人達が宗教として一派を立てるに至ったケースもある。が、いずれにせよ、スピリチュアリズム的観点からすれば、宗教は組織を持つに至った時点から堕落が始まるとみて差し支えない。
 開祖の霊能者もいずれは他界する。それは、超能力という求心力を失ったことを意味する。他の能力や才能と違って、霊的能力は伝授出来る性質のものではない。努力して開発されるものではないのである。霊的能力が誰にでも潜在していることは事実である。が、ここで要請されているのは、病人や悩める人々を奇跡的に救う程の能力のことである。
 ピアノが弾けるというだけのことであれば、子供から大人まで、どこにでもいくらでもいる。が、聴く者に感動を覚えさせる程の名演奏の出来る人は、そうざらにいるものではない。それにも努力は要るが、肝心なのは生まれついての才能である。霊能者も、こしらえられるものではなく、生まれてくるものなのである。
 ところが、開祖を失った後継者達は、信奉者達を繋ぎ止める為の方策として、能力的には開祖とは比較にならない程劣ると知りつつも、或いは全く無能と知りつつも、二代目をその座に据えて初代の時と同じ体制を維持しようとする。ここから組織作りが始まる。つまり「営業(ビジネス)」である。

 稀有の霊覚者・黒住宗忠

 その一例を黒住教に見てみよう。黒住宗忠という人物は、一個人としてみた時は世界的にも稀有の霊能者で、特にその治病能力はイエス・キリストやハリー・エドワーズにも匹敵するものを持っていて、死者を生き返らせたことも一再ではなかったようである。
 そのきっかけとなった奇跡的体験は、霊的指導者に相応しい劇的なものだった。簡単に説明すると-
 青年時代に結核を患い、ついに余命いくばくもないと聞かされた時、宗忠はどうせ死ぬなら最後に一度だけ日の出を拝みたいと思い、妻の制止も聞かずに身を清め、這うようにして縁側に出て朝日に向かって手を合わせたところ、太陽から丸い塊が飛んで来た。宗忠が思わず口を開けたところ、それがその口にすっぽり入ってしまった。その瞬間から急に元気が出てきて、胸の病もみるみる回復し、信じられない速さで健康体になった。これを黒住教では《天命直授》と呼んでいる。
 それから程なくして、雇っていた女中が腹痛で七転八倒しているのを見て思わず手を当てたところ、嘘のように治ってしまった。その噂が広まって次々と病人が訪れるようになり、それが皆嘘のように治るので、いつの間にか病気治しの専門家になり、その後は毎夜、日によっては二度も、各所での講話に出向いたという。
 残念ながら宗忠は書き記すということを殆どしなかった。残っているのは日常の心がけを箇条書きにしたものと、和歌の形で真理を詠んだものだけで、従って宗忠にまつわる逸話も門人によって語り継がれたものばかりで、いくつかの矛盾撞着(どうちゃく)が見られる。が、そういう不思議なこと、凄いこと、素晴らしいことがあったということは、間違いなく事実であったに違いない。
 スピリチュアリズム的な観点から見れば太陽から飛んできた塊というのは霊的な治癒エネルギーで、その後の驚異的な回復の様子から推察すると、余程高級な階層から送られたものであろう。宗忠自身は「天照大御神の御神徳」という表現をしている。いかにも時代を感じさせる神道的表現であるが、実質的にはその通りであろう。
 三年にも及ぶ闘病生活は霊的指導者としての試練だった筈で、頼るものが絶無となった絶体絶命の窮地に立たされた者のみが発する「声なき絶叫」が祈りとなって高級霊界に通じたものと理解できる。「黒住教」というのは宗忠の死後、門人達の申請によって設立されたもので、宗忠自身は治病と講話の生涯を送り、無欲そのものだったという。
 宗忠に関する参考文献に眼を通した限りでは余程の高級霊が降誕したものと推察されるが、同時に、宗忠を崇める門人達の著書からは、例によって宗忠を<神>として崇め奉る雰囲気が強過ぎて読むに堪えない。
 こうした信奉者は当然のことながら死後も地上にいた時と同じ考えで宗忠を崇め奉り、地上の同じ程度の波動をもつ霊能者を通じてその教えを広めようとする。そういう集団が現存することを筆者は既に確かめている。

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 [とっておきのエピソード⑥ 日本人のふるさと《かんながら》近代の霊魂学《スピリチュアリズム》近藤千雄[著]より]


 十四年間も絶飲絶食、大小便は全くなし。それでいて相撲取りと腕相撲をしても負けない程頑健そのもので、肉付きも良かった。そしてその女性の周りで様々な霊現象が日常茶飯事に発生した。
 これは、常識的には誰が聞いても「そんなバカな」と一笑に付すに決まっているが、しかし事実だったのである。真面目な科学的調査の対象とするに値する驚異的現象ばかりであったが、それが曖昧な官憲による弾圧で、ただの語り草で終わってしまった。その女性の名を長南年恵(おさなみとしえ)という。明治時代の話である。
 この女性が世間で話題になっていた頃、後にこの道の先駆者となる浅野和三郎氏は新進気鋭の英文学者として翻訳と教育に携わっていた。その後、本文で紹介したような経緯で霊的世界へ飛び込んだ時は、年恵は既にこの世の人ではなかった。
 残念に思った浅野氏は、せめてその真相でも確かめたいと思い、実弟の長南雄吉氏に面会した。その時の取材記事を頼りに概略を紹介すると-

□官憲による妨害
 娘の頃の年恵の変わったことと言えば女性の生理が全くないといった程度で、それ以外に外見上これといって異常なところは見られなかった。それが三十五歳頃から、煮たり焼いたりしたものが食べられなくなり、ホンの小量の生水と生のサツマイモを摂るだけになった。弟の雄吉がわざと生水だと偽って湯冷ましを与えたところ、その水を吐き出したばかりでなく、その後で血を吐いた。何度やっても同じだったという。
 それと同時に、家中で不思議なことが発生するようになった。いきなり家鳴りがしたり、いつの間にか品物が持ち込まれたりする。空中で様々な音楽が聞こえる。笛、篳篥(ひちりき=雅楽用の縦笛)、筝(こと)、鈴などによる合奏である。その音楽を聞きつけた人達が家を取り囲むように群がり、時には警官が何事かと見張りに来ても鳴り続け、その中で年恵はいつもと違った形相で見事な絵画を描いていたという。トランス状態になっていたのである。
 その内官憲は、事実の有無、真偽の調査を無視して年恵を逮捕した。その罪状には「妄(みだ)りに吉凶禍福を説き、愚民を惑わし、世を茶毒(だどく)する詐欺行為」とあった。
 年恵は二度投獄されている。明治二十八年に六十日間、翌二十九年に七日間である。その後の警察の横暴さに雄吉はついに憤慨して、三十二年九月二十一日付で年恵の在監中の生活の実情に関する証明書類を提出した。それは次の八項目からなるものである。
 (1)両便通が皆無であった事
 (2)飲食をしなかった事
 (3)署長の求めに応じ、監房内で神に祈って霊水一瓶、御守り一個、経文一部、散薬一服を授けられて、これを署長に贈った事
 (4)囚人の一人の求めに応じて散薬を神より授かって与えたが、身体検査の時にその事実が発覚した事
 (5)監房内に神々ご降臨の時は係官達も空中で笛その他の鳴り物を聞いている事
 (6)監房生活中一度も洗髪していないのに、年恵の喋々髷(まげ)は常に結い立ての如くつやつやしていて、本人は神様が結って下さると言っていた事
 (7)一寸五升の水を大桶に入れ、それを軽々と運んでみせた事
 (8)夏に蚊の大群が襲っても年恵の身体には一匹もたからず、ついに在監中、年恵一人が蚊帳の外で寝た事
 右の証明願いはやがて次のような、たった二行の文言をもって却下された。
 「明治三十二年九月二十一日付をもって長南年恵在監中の儀につきて願い出の件は、証明を与える限りにあらざるをもって却下する」
 この件について雄吉氏と浅野氏が語り合った部分を紹介しておく。

 雄吉「何と面白いではありませんか。事実は事実だが証明を与える限りではないから却下する、というのですから確かなものです。こんな結構な証拠物件はございません。私も、こりゃあ大事な品だ、と考えましたから、この通り立派に保存してあります」
 浅野「いやぁ、素敵な証拠物件が残っていたものですなぁ。是非写真にも撮り、また文句も写し取っておきたいと思いますから、暫時拝借を願いたいのですが・・・」
 雄吉「承知いたしました。お持ち帰りになられても構いません」

□ついに裁判沙汰に
 右の八項目の内の(3)の《霊水》というのは年恵が最も得意とし、又よくやって見せたもので、空瓶を置いて祈ると一瞬の内に霊薬が入り、それを飲むとどんな難病でも治ったという。一本や二本ではなく十本でも二十本でも瞬間的に充満したという。
 雄吉氏によると、最も多い記録では四十本程三方の上に並べたこともあり、それでも皆色が違っていたという。試しにどこも悪くない人が適当な病名を書いて置いてみたところ、何も入っていなかったという。
 そんなある日のこと、突如として家が警官に包囲され、家宅捜査が執行された。何か薬品でも隠しているのではないかという嫌疑からで、床下まで調べられた。しかも、年恵は連行されて十日間の拘留となった。
 このことで雄吉氏の堪忍袋の緒が切れて、正式の裁判に訴えることとなった。場所は神戸地方裁判所で、裁判長、陪席判事、立会いの検事をはじめ弁護士、被告人等、全て型の如く座席を占め、型の如く尋問が一通り済むと、裁判長から
 「被告人はこの法廷においても霊水を出すことが出来ますか」
という質問が述べられた。年恵は平気で
 「それはお安い事でございますが、ただ、ちょっと身を隠す場所を貸して頂きとう存じます」
と答えた。
 そこで適当な場所において実験執行ということになり、公判廷は一旦閉じられた。実は当時その裁判所は新築中で、弁護士の詰所にやっと電話室が出来上がったばかりで、電話そのものはまだ取り付けられていなかった。そこでその中を徹底的に改めてから、被告人に使用させることになった。
 実験の段階に入ると年恵は裸にされて着衣その他について厳重な検査をされた。そして裁判長自ら封印をした二合入りの空瓶一本を年恵に手渡し、多数の眼が見守る中、電話室へ入ることを許された。
 入ってものの二分程で中からコツコツという合図があり、扉が開けられて出て来た年恵の手には、茶褐色の液体で満たされた二合瓶が、封印されたまま握られていた。それを裁判長の机の上に置くと、裁判長が
 「この水は何病に効くのか」と尋ねた。
 「万病に効きます。特に何病に効く薬と神様にお願いした訳ではございませぬから」
 「この薬を貰ってもよろしいか」
 「よろしゅうございます」
 この珍無類の問答で尋問は終わり、即刻年恵に「無罪」の言い渡しがあったという。
 年恵は五十に満たない年齢で他界している。二ヶ月程前から「神様」からその時期を予告され、自分でも周りの者にそう告げていた。その頃は警察その他の理不尽な行為に嫌気がさしていたことも事実である。
 それにしても、これ程の人物を科学的に、ないしは学問的に研究・調査しようとする学者が現れなかったのはなぜであろうか。年恵は文久三年の生まれであるから、西暦で言うと1863年になる。その頃は西欧では心霊現象の科学的研究が本格的になり始めていて、年恵が“酷い目”に遭っている頃は霊媒が貴重な存在として重宝がられていた。
 もっとも、日本でも三田光一や長尾郁子、御船千鶴子などの超能力者が脚光を浴びていたが、透視や念写の域を出ていない。同時代に長南年恵という、世界の舞台に出しても引けを取らない程の大霊能者が出現していたのである。それがこうしたエピソードとして紹介するしかないというのでは、浅野氏と共に残念無念の感慨を禁じ得ない。
 なお、「長南」という姓は山形県に多く、土地の人は「ちょうなん」と呼び、又この年恵を紹介している書物でもそう呼んでいるようであるが、その実弟をインタビューした浅野氏がわざわざ「おさなみ」とルビを振っているところから筆者は、この家族はそう呼んでいたものと判断して、それに従った。

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 [とっておきのエピソード③ 日本人の心のふるさと《かんながら》近代の霊魂学《スピリチュアリズム》近藤千雄著]より

 二十世紀の日本で最高の審神者(さにわ)を挙げるとすれば、まず浅野和三郎の右に出る者はいないであろう。古くは大和朝廷の初期の人物として武内宿禰(たけうちのすくね)が挙げられるが、歴史的な謎が多く、事実とは信じ難い伝説が纏わり付いているので、今後の検証が待たれるところである。
 これから紹介する浅野氏による鎮魂帰神にまつわるエピソードは大本教に入信して間もない頃のもので、浅野氏はまだその修法を身に付けていなかった。本人も「訳も分からぬままやったまでで、冷や汗ものだった」と述懐しているが、経験豊富な審神者にして初めて可能な芸当を見事にやって見せたところで、筆者が浅野氏を天才的審神者と見る所以(ゆえん)がある。
 さて、大正初期のこと、日露戦争で勇名を馳せた秋山真之提督の紹介状を手にして、山本英輔海軍大佐が鎮魂帰神を求めて訪れた。鎮魂とは要するに精神を鎮めることで、帰神とは文字通りに言えば神と合一するということであるが、これは神とか霊とか魂について具体的な理解が出来ていない時代の用語であって、要するに精神を統一して波動を高めるということである。
 早速浅野氏が帰神の法を施したところ、山本大佐の身体が大振動を起こすや「大天狗!」と大声で名乗った。浅野氏がその大天狗と名乗る霊と問答を続けている内に、何が気に入らなかったのか、その霊が突然プリプリ怒り出し、やがて組んでいた両手を解いて両眼をカッと見開き、拳を握り締めて立ち上がった。と見る間もなく「エイッ!」と掛け声も荒々しく、浅野氏に殴りかかった。
 たった一度ではない。二度、三度、五度、十度、手を組んで端座する浅野氏の頭上目掛けて激しく打ち下ろされる。ところが不思議なことに、浅野氏の周囲に金網でも張り巡らされているかのように、一度たりとも身体には届かない。ただ空を切るだけである。無論浅野氏は止めるように説得を続けている。
 業を煮やした天狗は浅野氏の説得に耳を貸すどころか、ますます猛り狂って攻撃の雨を降らせる。その間、実に四時間!我慢に我慢を重ねて説得してきた浅野氏もついに意を決して霊団側に援助を乞うた。
 要請に応じて派遣されたのは神界にその名も高い某龍神で、その姿を見るや、天狗は恐怖の悲鳴を上げて部屋中を逃げ回り、ついに降伏した。そこで浅野氏が声をかけて近くへ呼び寄せると、しおしおと近付いて丁寧に頭を下げた。そこで浅野氏が説得の言葉を掛けると、無礼を詫びて去って行ったという。
 なお「浅野氏の周囲に金網でも張り巡らされているかのように」とあるのは、修験道でいう《霊鎧(れいがい)》のことである。霊的な鎧のことで、浅野氏自身が語ったところによると、そういう時には浅野氏はただ観念して端座しているだけなのに、身体は霊的に充電されているようだという。
 さる陸軍大佐が浅野氏目掛けて突撃を試み、弾みで浅野氏の組んだ指先に軽く触れただけで大変な痛みを感じ、以後一週間ばかり神経痛のように骨が痛んで困ったとこぼしていたという。

 ここでは、私が入手した心霊写真・画像を御紹介します。といっても、よく恐怖系のサイトに掲載してあるような、恐ろしい形相の地縛霊のような写真ではなく、ごく普通に、霊が存在する、ということを立証するような、恐ろしくも何ともない写真です。
 まあ、とはいえ、信じない人は何を見ても信じないでしょう。私はそういう唯物主義者に関しては、別に無理して神を信じろなんてことは言いません。それは各個人の勝手ですから。ただ、私は霊は絶対に存在すると確信していますので、私は私なりの方法で、このサイトを訪れてくれた迷える霊的知識が無知な方々に、少しでも証拠となる品を提供するだけです。それらの写真やら文章やらを読んだ後に、信じるか信じないかは、あなたの勝手です。

 では、以下、文章も交えて御紹介していきます。


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 ブラジルにおける実験会に出現したローズと名乗る物質化霊。霊媒その他に関しては不明。



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 ウィリアム・クルックス博士と物質化霊ケーティ・キング


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 ケーティ・キングの物質化写真。クルックス博士とケーティとが並んで撮った有名な写真。



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 英国外科医師会のガリー博士が完全物質化霊の脈拍を確かめているところ。
 英国の大化学者ウィリアム・クルックスの研究室での実験会に出現。クルックス自ら撮影した。厳しい条件下で行なわれ、クルックスは物質化霊と霊媒の肌色、髪、身長、脈拍などにおける相違を細かく調べた。



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 ケーティとクックが別人であることを確かめた時の様子(これは絵)。




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 玉の緒(通夜における写真)[玉の緒とは、魂と肉体を繋ぐ紐のこと。英語名シルバーコード]



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 ステイントン・モーゼスと恩師スピーア博士夫人。左肩の霊像は稀薄で肉眼には見えない(1872年ハドソン写真館)



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 スピーア博士とモーゼス。左の物質化霊は自動書記の筆記役のレクター。エクトプラズムを多量に取られてモーゼスは意識が朦朧としている。モーゼス33歳。




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 物理霊媒として活躍していた頃のヒギンソン氏。口からエクトプラズムが流れるように出ている。(これは心霊写真ではなく、エクトプラズムの様子の写真。エクトプラズムとは、霊の姿を物質化させる為の半物質のようなもの)



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 ブリティッシュコロンビアの最初の立法審議会のメンバーが1865年1月13日に会議に先立って撮影してもらったところ、唯一の欠席者のチャールズ・グッドの顔(矢印)が写っていた。その時グッド氏は重病で危篤状態にあったという。この写真を見て一番驚いたのはグッド氏自身だった。
 写真の現物はビクトリア(カナダ)の国会内に啓示されている。(カナダ州立古文書館)提供



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 ベルギー国王レオポルド三世の王妃で交通事故で死亡したアリストリッドがコペンハーゲンでの交霊会に出現。M・リリェブラード牧師が三つのカメラでフラッシュ撮影したもの。交霊会は赤色光で行なわれた。霊媒はアイナー・ニールセン。




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(左)上の写真の拡大写真。(右)ベルキーの切手に使われているアストリッド王妃のポートレート。




 次に続く7枚はキャビネットから出たエクトプラズムが物質化像となっていく過程を撮影した画期的写真。時間は約30分。霊媒はエセル・ポストパリッシュ。物質化霊は霊媒の背後霊の一人でインディアンの少女シルバーベル。
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 異なった木質の二つのリングを交叉(こうさ)させた実物写真。オリバー・ロッジの考え出した実験で、霊媒マージャリーの実験会で行なわれた。現在のところ、奇術その他いかなる方法によっても、こうしたことは不可能である。



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エドガー・ウォーレスの生前の写真。

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 推理小説家エドガー・ウォーレスの心霊写真。これと同じ写真は存在しないことから詐術は否定された。プロの写真家が感光板を用意して撮ったもので、霊媒のジョン・マイヤースはカメラには一切手を触れず、ただ立ち会っただけだった。




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 霊媒コーラル・ポルジによるJ・P・ハッチンスン氏の肖像画。
 ハッチンスン未亡人は宣誓管理委員への供述の中で、ポルジはこの肖像画を描き終えるまで、夫のどの写真も絶対に見ていないと証言している。


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 ハッチンスン夫妻がダンスをしている生前のスナップ写真。




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 フランス人の霊視画家マルセル・ポンサンが描いたシルバーバーチ。後にシルバーバーチ自身の告白により、これは霊界での霊媒のインディアンであり、シルバーバーチ本人ではないということが判明した。

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 『霊力を呼ぶ本』(M・バーバネル著 近藤千雄訳)の[訳者あとがき]の途中の文より

 これは、実際の霊界通信の話です。信じられないかもしれませんが、霊との交信が、日本よりもわりと一般的に信じられている英国で、実際にあった話です。日本人の殆どは、霊の存在さえ信じておらず、死ねば無、一巻の終わりだと信じ込んでいる人が多いですが、そうではありません。人間は死後にも、その人の意識はそっくりそのまま存続するのです。勿論、肉体は既に死んでいます。だから、死んだ人の死体となった肉体を見ても、その人が生きているなんて到底考えられるものではありません。しかし、普通の人の眼には映じない霊体となって、今でも確実に生き続けているのです。それは、悪人だろうが善人だろうが関係ありません。誰でも、死後の生命はあります。特定の宗教を信仰した者のみが、死後の生命を授かる、なんてこともありません。この広大な宇宙を創造した神が、地球の歴史、宇宙の歴史からすれば、実に短い期間しか存続していない既成宗教や新興宗教を信じる者しか救わないなんて、アホらしいと思いませんか?一方では信じられない程の創造活動をしておきながら、もう一方では特定の宗教・宗派を信じた者しか救わないなんてみみっちいことをするワケがありません。それは冷静に考えれば分かることです。

 まあ、ということで、とりあえず、霊的知識を獲得していく為の最初の入り口として、この親子の実例を御覧ください。



 最初に出てくるロバーツ女史というのは今世紀最大の女性霊媒で、その支配霊はレッドクラウドと名乗る古代霊である。
 交霊会というのは、そうした霊が霊媒を介して地上の人間と親交を交わす催しのことで、普通十人前後のメンバーから成っている。その司会役をするのが霊媒の支配霊である。
 交霊会での現象には色々あるが、入神した霊媒の口を借りて語りかけるのが霊言現象で、霊媒の身体から抽出しエクトプラズムという特殊な物質を使ってメガホンの中に発声器官を製造して語るのが直接談話現象である。バーバネル氏は前者の霊媒で、ロバーツ女史は後者の霊媒である。これから紹介する交霊会は直接談話によって行なわれている。

 ロバーツ女史の交霊会で私が一番感動したのは、名前も知らない霊界の若い女性から話し掛けられた時であった。直接談話が中盤にさしかかった頃、レッドクラウドが不意に
 「若い娘さんが地上の母親と連絡する為にここに来ております」と言う。
 「私の知ってる娘ですか」と私が聞くと、
 「いや、ご存じではないが、あなたに一役買ってもらいたいのです」と言う。
 そう言い終わるとメガホンがゆっくりと私の方へ向きを変えて、明らかに娘らしい声で
 「はい、わかりました。はい・・・・」という囁きが聞こえてきた。(メガホンで話す要領をレッドクラウドから教わっている)
 それまでの体験から私は、こういう場合に大切なのはしつこく質問せず、まず好きなように話させることだということを知っていたので
 「さあ話してごらん。私に頼みたいことがあるのでしょ。何でもいいから言ってごらん」と言ってあげた。すると「お許しが出ればお話します。とても親切な方が私をここへ連れてきて下さいました」と前置きしてから、ゆっくりではあったが、はっきりとした口調でこう語り始めた。
 「私はベッシー・マニングと申します。この前の復活祭の日に結核で死にました。弟のトミーもここにいます。弟は交通事故で死にました。母が心霊誌であなたの記事を読んで、レッドクラウドがいつか私をここへ連れてきて下さるよう祈っておりました」
 そう言えば私は当時編集していた心霊誌でこうした直接談話による交霊会のことを書いたことがある。ベッシーの母親が読んだというのはそのことであろう。私は「明日にでもお母さんに連絡してみましょう」と答えた。するとベッシーはとても喜んでこう言った。
 「母に私が今でも二枚の長い肩掛けをしていると伝えて下さい。私は二十二才です。青い目をしています。母にぜひこの会に出席してほしいと伝えて下さい。招待していただけますか」
 そう言ってから、とても言いにくそうに「母はお金がありません・・・・とても貧しいのです」と付け加えた。
 「そのように取り計らってみましょう」と私が答えると
 「母が可哀相です。私達二人の子供に先立たれて・・・ぜひ力になってやって下さいね。お願いします。ありがとう・・・ありがとう・・・・ありがとう・・・・」と切々と訴える。
 「でも、お母さんに連絡するには、今どこに住んでおられるのか教えてくれなきゃ。私はお母さんを全く知らないんだから・・・」と私が言うと、間髪を入れず
 「お教えします。カンタベリ通り十四番、ブラックバーン」と、ゆっくり、そしてはっきりと言った。
 そこで私はレッドクラウドに呼びかけて
 「この娘の母親のように慰めを求めている人が大勢おられるのでしょうな」と言うと、
いかにも気の毒といった調子で
 「私にはたった一つの道具(霊媒)しかないのでねえ」と答えた。更に私が
 「次の交霊会に今の娘さんの母親を招待して下さいますか」と聞くと
 「私がですか。あなたにお願いできませんか」と言う。
 私はベッシー・マニングという名前を聞いたことがなかった。またマニング夫人という女性がいるかどうかも知らないし、ブラックバーンという町にカンタベリ通りというのがあるかどうかも知らない。が長年の経験でレッドクラウドに百パーセントの信頼を置いていたので、その情報に誤りはなかろうと確信した。
 翌朝私は一片の疑念もなくその宛名で次のような電報を打った。
 「昨夜レッドクラウドの交霊会にあなたのお嬢さんのベッシーさんが出られました」
 しかしこの電報には何の返事もないので、もう一度打った。すると二日後の月曜日になってマニング夫人から二通の手紙が届いた。その最初の手紙にはこうあった。
 「この大きな喜びをどなたに感謝したらよろしいのでしょう。土曜日に頂いた電報に心からお礼申し上げます。町中に大声で触れ歩きたいような心境です。私は笑いと涙が同時に出ました。レッドクラウドは何と素晴らしい霊魂なのでしょう。そして又、あなた方は何と親切な方達なのでしょう。どうかベッシーがどんなことを言ったか、お教え願えませんでしょうか。
 私にこんな素晴らしい幸せが訪れるとは。失礼ながら電報料金を次に差し上げるお手紙の中に同封させて頂きます。お気を悪くなさらないで下さい。そうすることが当然だと思うのです。ほんとに、何とお礼申し上げたらよいのでしょう。私にとってあの一枚の紙切れは山ほどの金よりも有難いほどです。皆さんの為に、そして特にロバーツ女史の為に、心からお祈りを神に捧げます。何とぞ娘が何か私への言伝をしなかったか、お教え下さい。ほんとに素晴らしいことです。重ねて心からお礼申し上げます。夫も二人の娘も感謝しております」
 もう一通の手紙ではこう述べている。
 「二通目の電報拝受いたしました。二度もお手数を掛けて申し訳ありません。そのご親切に心から感謝いたしております。日曜日にお出しした私の手紙、お受け取り頂けましたでしょうか。このところ手元も不如意の為、電報でご返事申し上げることができず恐縮です。何とぞ私共の感謝の気持をお察し下さい。ご好意に対しましては何としてでも報いたい気持です。今回のことが私共にとってどんなに意義深いことか、私共にしか分からないことでしょう。
 娘のベッシーはイースターの日に他界し、息子が事故死してから九年近くになります。もしも私が、あるスピリチュアリストの家族と知り合いにならなかったら、恐らく私は気が変になっていたことでしょう。ベッシーが語ったことをぜひ知りたいものです。私と同じように人様を慰めてあげたいのです。こちらには本当にいい霊媒が見当たりません。ロバーツ女史や他の立派な方々のお話が聞けたらどんなに素晴らしいことでしょう。私にもそういう霊能があったらと思います。改めて心から感謝申し上げます」
 私はこのベッシー嬢にまつわる話は死後存続を立証する完璧な証拠だと考える。テレパシーや潜在意識説では到底説明できない。共謀や詐欺の可能性もまず有り得ない。マニング夫人はロバーツ女史に一度も会ったことも文通したこともないし、女史の家族も同様である。それなのに、その娘さんの姓名と住所が分かり、伝言の内容も逐一正確だった。
 その後私がマニング夫人に会った時、夫人はあの頃毎日毎晩、娘が死後も生きていることの証しを下さいと神に祈っていたと語ってくれた。その祈りが聞き届けられたわけである。イングランド中西部のブラックバーンで発せられた祈りがどうやって250キロも隔てたロンドンまで届いたのか私は知らない。ただ分かっているのは、現実にそういうことが起きたということである。このことは、祈りが叶えられることが現実にあるということ、そして又、霊界に組織があって、条件さえ整えば実現させる用意があることを物語っている。
 私は夫人の為に次の交霊会を用意し、ロンドンへ招待した。ご主人は失職中で、当然経済的に困っておられた。夫人にとっては初めてのロンドン訪問なので、私はセントパンクラス駅で出迎えてあげた。そして交霊会が開かれるテディントンへ行く前にロンドン市内を案内してあげたが、夫人はたいそう興奮しておられた。
 さて、いよいよ交霊会が開かれるとすぐにベッシーの声がメガホンの中から聞こえた。
 「母さん、あたし、ベッシーよ」
 「まあ、ベッシー」とマニング夫人。ベッシーはあまりに興奮していて、話の途中でメガホンを落としてしまった。感情的になりすぎて、エネルギーが持ち堪えられなかったのである。
 「ベッシー。こんなことが出来るなんて、素晴らしいわね。母さんがお前のことをどれほど思っているか、分かってくれてるだろうね」
 「素晴らしいわ。ありがとう、母さん。父さんにも心配しないように言ってね。トミーも来てるのよ。ここに一緒にいるのよ。トミーも母さんと話したがってるわよ。あたし、あんまり嬉しくって、何から話したらいいか分からないわ。興奮しちゃって・・・・」
 「興奮しちゃダメよ。さあ話してちょうだい。家の方には来ることがあるの?」そう訪ねるマニング夫人の言葉にはランカシャー訛りがはっきり窺える。
 「あるわ。母さんに話しかけてみてるのよ。母さんは毎日のように私の写真に語りかけてるわね。私の写真の前に立って、それを手にとってキスしたりして・・・・あたし、その様子を全部見てるのよ」
 後での話だが、マニング夫人はこのことは本当だと語っていた。悲しくなると娘さんの写真を手に取り、キスをして、一人で話しかけることがよくあるという。ベッシーは今の家の様子を知っている証拠としてこんなことを言った。
 「今朝、母さんは父さんにブーツのことで何か言ってたでしょう。ね、母さん」
 「そうね」
 「もう修繕しなくちゃって言ってたでしょう。ね、母さん」
 「ああ、あのことね。分かるわ」
 ベッシーは私に「母のことを私はいつもMa(母さん、又は母ちゃん)と呼んでいました」と言っていたが、私が速記者にベッシーの言葉を口移しに伝えている内に一度Mother(お母さん)と言い、すぐにMaと言い換えたことがあったのを記憶している。
 証拠的価値をもったことがまだある。それはベッシーが、マニング夫人がその時身につけていたビーズのことに言及して、それは自分のもので死ぬ間際まで身につけていたと言っていたことで、後で夫人に確かめたところその通りだった。
 最後にベッシーが「トミーが死んだ時は大変なショックだったわね」と言った。するとレッドクラウドが今日はベッシーがそのトミーを連れて来ていますよ、と言い、ついでに(レッドクラウドがよくやるのだが)もう一つ証拠になる話をもらした。「トミーという名は父親の名にちなんで付けられたんです」
 交霊会が終わった時、マニング夫人は泣いていた。勿論嬉し泣きである。「私は世界一幸せな女です」と言っていた。
 翌朝夫人が帰る前にロバーツ女史がもう一度夫人の為にプライベートな交霊会を開いてあげた。後で聞いたところによると、その交霊会でもベッシーはロバーツ女史が知り得る筈のない話を次々と持ち出したという。
 そして最後に家族全員に対する伝言を託し、更に、かつての婚約者にも次のような伝言を託した。「ビリーに言ってちょうだい。彼から貰った指輪-私が埋葬された時に身につけていたあの指輪を今でも指につけてるって」
 二、三日してマニング夫人から次のような便りが届いた。疑いもなくそれは夫人自身の証言となることを意図して書かれたものだった。
 「人様の慰めになればと思いつつ筆をとりました。嘲笑う人がいることでしょう。一笑に付す人もいるかも知れません。が、それによって救われる人の方がもっと多い筈だと思うからです。
 愛する息子は自動車事故で死にました。とても愛らしい子で、母親の私にもとても優しくしてくれていました。それだけに私は半狂乱状態となりました。完全に打ちのめされました。全ての希望を失いました。私の夢は息子の墓の中に埋められてしまったようなものでした。
 それから八年後、今度は最愛の娘ベッシーが他界しました。が息を引取る直前に“もし出来ることなら帰ってくるわ”と言ったのです。私はきっと約束を守ってくれると信じてました。そしてついに思いがけない形でそれが実現しました。レッドクラウドの交霊会のことは、それまで何度か耳にしておりました。
 バーバネル様から私の娘が出たという電報を受け取った時はとても驚きました。私に会いたいと言い、私の住所を教えたというのです。私は驚くと同時に嬉しくてたまりませんでした。そしてバーバネル様のご好意でロンドンまで出て、交霊会に出席することが出来ました。私にとっては大変な体験でした。至る所で、親切にして頂きました。多くのスピリットの声を聞き、それがみな誰であるかが分かりました。驚くべき体験でした。
 娘の声も聞きました。昔と同じ愛らしい語り口で、言葉の特徴もそのままでした。私しか知らない確固とした事実を証明する為に色々と証言してくれました。母親である私が何よりの証言者です。私は神に誓って娘のベッシーであると断言いたします。弟を連れて来ているとも言いました。その弟が事故死したことを述べ、名前もちゃんと言いました。今私の家庭内で起きていることも色々言い当てましたが、その時の私が考えてもいないことばかりでした。
 私は全身全霊を込めて神に感謝いたします。神は私の祈りをお聞き届けくださったのです。私は祈りました。長い間何度も何度も。私はもう死を恐れません。愛する子供達と会える日を楽しみに待っているところです」
 その後何年かが過ぎ、私はベッシーのことも母親のこともすっかり忘れていた。その間に第一次世界大戦があり、慌ただしさに紛れてしまっていた。その内にロバーツ女史は暫く休んでいた霊媒としての仕事を再会する決意をし、新しく移った家で、交霊会を開いた。嬉しいことに、女史の霊媒能力は少しも衰えておらず、結果は上出来だった。
 そうやって再会された交霊会で、ある時レッドクラウドが私にこんなことを言った。
 「あなたへお客さんが来ておられます。そのままお待ちください」
 待っていると、いつものように蛍光塗料を塗ったメガホンの中からハロー、ハロー、ハローと言う声がした。どうやら初めて喋る霊らしく少しぎこちないので、私がしっかり喋るよう元気付けてあげると、女性の声で「そのお声に聞き覚えがございます。死んだ娘と話をさせて下さいました」と言う。
 そこまで聞いた私は咄嗟にマニング夫人だと悟った。他界したという知らせは聞いていなかった。だがそう直感した。そして、その通りだった。夫人は待ちに待った愛する二人の子供との夢のような再会が現実となったことを告げに来てくれたのだった。
 「今ここにベッシーとトミーがおります。私の家族の者によろしくお伝え願えますでしょうか。私が霊界から援助していると伝えて下さい。みんなそのことを知りたがっているでしょうから」そう語るのだった。
 私は早速そのことを、かつて聞いていたブラックバーンの住所宛に認めたが、その手紙は「宛所人尋ね当りません」の印を押されて送り返されて来た。折角の伝言を届けてあげられないのを残念に思っていたところ、同じブラックバーンの別の住所のスミスという人から一通の手紙が届いた。読んでみるとその方はマニング夫人の娘さんで、私が心霊誌に右のことを記事にして出したのを或る人が読んで、その写しを送ってくれたという次第が書かれてあった。
 「私は末娘です。もう一人姉がおり、この世に残っているのは二人きりです。あの言伝を読んだ時の嬉しさと喜びは筆では尽くせません。世界中の人に触れて回りたいような気持です。が、実際はただ座って嬉し泣きに泣きました。母の声が聞けることを疑問に思い諦めかけていたことを今では恥ずかしく思います」
 スミス夫人はそう述べ、更に母親の死が突然だった為、別れの言葉をかけてあげられなかったこと、発作が来た時は一人きりだったこと、姉妹が駆けつけた時は既にこと切れていたことなどを書き添え、
 「私にとって大変むごい打撃でした。人生の太陽が消えてしまったのも同然だったからです」その後いたずらに時が過ぎて、待っていた母親からの通信もなく、そろそろ諦めかけていた時、私の記事に出会った、というのである。
 祈りが叶えられたわけである。「こんなこともあるのか、と思われるような素晴らしい出来事です」
これがスミス夫人の締めくくりの言葉であった。

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