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カテゴリ: ★『霊に関する話』

『霊に関する話』目次

死者との通信の実例

霊の存在する証拠の写真

霊の存在を実証した博士

「あの世」から帰ってきた英国の新聞王の話

日本・自我の中枢が脳でないことを物語る実話

霊的な不思議な話

霊的な不思議な話 目次

日露戦争時の不思議な話

稀有の霊覚者・黒住宗忠

明治の奇女・長南年恵(おさなみとしえ)

龍神が天狗を懲らしめる

日本・自我の中枢が脳でないことを物語る実話 目次

天保十年の怪現象

発端

加賀武士の出現

願いは石碑を建ててもらうこと

一番頼りになるのは『直観力』

死後の世界の実相を明かす

「あの世」から帰ってきた英国の新聞王・ノースクリフ 目次

「あの世」から帰ってきた英国の新聞王・ノースクリフ

第一章 ノースクリフ卿の人となり

第二章 交霊会に出現1

第二章 交霊会に出現2

第二章 交霊会に出現3

第三章 死の過程・死後の世界を語る

第四章 初めて交霊会に出席する

第五章 ボスは他界した日の夜に出現していた

第六章 スピリチュアリズムに興味を抱く

ノースクリフとスワッファーのその後-訳者による解説

自殺ダメ



 『人生は本当の自分を探すスピリチュアルな旅』近藤千雄著より


 P68の途中(霊視の話)から引用


 日本語に〝千里眼〟という言葉があるところをみると、同じような話がよくあったのであろう。近代の有名な話としては、日露戦争で勇名を馳せた秋山眞之海軍中将の話がある。敵艦の作戦行動に関する二つの霊視体験で、それを浅野和三郎氏に細かく語り明かしている。
 「誤解を受けますから誰にも発表したことはありませんでしたが、あなただけにお話します」
と前置きして、次のように語ったという。長文の引用になるが、貴重な資料なので煩を厭わず紹介する。(漢字・かな一部修正)

 《一つは、ウラジオ艦隊が突出して常陸丸を襲撃した時のことだった。日本の上下はこの奇襲に遭って色を失って震駭(しんがい)した。
 秋山さんは当時東郷艦隊の参謀として軍艦「三笠」に乗り組み、旅順の封鎖任務に従軍していた。無線電信で右の状況は頻々として報告されるが、勿論東郷艦隊としては旅順の沖を一時も離れることは出来ない。その時の秋山さんの苦心焦慮は極点に達した。
 人間がいかに知能を搾ってみても到底決しかねる時、人間がサジを投げて神の前にひれ伏した時、神は初めてまごころの人間を助けるということ、この際秋山さんは初めて体験したのだった。
 終夜考え尽くして考え得ず、疲労のあまりトロトロとまどろんだと思った瞬間、秋山さんの眼の中が東雲(しののめ)の空のように明るくなり、百里千里の先まではっきり見え出した。ふと気が付いてみると、眼中に展開したのは日本の東海岸の全景で、そして津軽海峡が彼方に見えるではないか!
 なお仔細に注意して見ると、今しも三隻の船が津軽を指して北へ北へと進航する。その三隻は夢寐(むび)の間も忘れ難い、かねて見覚えのあるウラジオ艦隊のロシヤ、リューリック、グロムボイではないか!
 「あいつども、日本の東海岸を廻って津軽へ抜けるのだな・・・」
 そう直覚した瞬間に、海も波も艦も一時にパッと消えて、パッチリと眼が開いた。夢か、夢にあらず、現(うつつ)か、現にあらず。秋山さんは生まれて初めての経験とて、しばし戸惑い気味であったが、これはかねて聞き及べる〝霊示〟というものではないかと気付いた時に、言い知れぬ感激に打たれた。この時分から、〝天佑〟〝神助〟という考えが秋山さんの胸から寸時も離れなくなった。
 右の霊示によって秋山さんはウラジオ艦隊が太平洋を廻って津軽海峡に抜けることを自分では確信したが、さて、いかなる形式でこれを公表すべきかについては、いささか困ったそうだ。
 「今朝、霊夢によって知らされた・・・・」
などと言ったところで、海軍内部の人達は神霊の実在など知らぬ者ばかりだから、単に冷笑を買うだけに終わる。仕方がないので秋山さんは、霊夢のことは自分の胸に仕舞い込んで誰にも語らず、単なる理知の判断で敵艦隊の行動を推察したことにして、こう意見を発表した。
 「自分はウラジオ艦隊が必ず太平洋に突出して、津軽海峡を通過してウラジオに帰航するものと確信する。上村艦隊はこの推定のもとに行動を起こし、日本の捷路(しょうろ)を取り、津軽海峡の内面において敵艦隊を扼(やく)すべきである。敵艦隊の後を追いかけて太平洋に出るのは、空しく敵を逸するおそれがある・・・」
 この意見は無電で軍令部にも上村艦隊にも通達されたが、惜しいかな、当事者達はこれを採用しなかった。その結果、〝流星光底に長蛇を逸〟し、敵は悠々として津軽海峡を通過して、ウラジオストックに入ってしまった。
 秋山さんのもう一つの霊的体験は甚だ重要なもので、例の日本海海戦当時の出来事だった。
 日本艦隊のこの時の用意と覚悟とは実に想像の外にあった。根拠地を鎮海湾に置いて、敵の接近を今や遅しと待ちながらも、さて当局の心痛苦慮!敵は果たして対馬海峡にやって来るだろうか?来てくれれば有り難いが、万一太平洋を迂回し、津軽海峡か宗谷海峡を通過してウラジオに入られては大変だ・・・五月も二十日を過ぎてからは心身の緊張が一層極点に高まって行った。
 旗艦「三笠」には幾度か全艦隊の首脳が集まって密議が行なわれた。この時の秋山参謀の責任は山よりも重かった。幾日かにわたって着のみ着のままでゴロ寝を続け、真に寝食を忘れて懸命の画策考慮に耽った。
 「忘れもせぬ、五月二十四日の夜中のことでした・・・」
と秋山さんは当時を追憶しつつ話を続けた。
 「あまり疲れたものだから、私は士官室へ行って椅子に体を投げた。他の人達は皆寝てしまった、室内には私一人しかいなかった。眼を瞑って色々考え込んでいる内に、ツイうとうとしたかと思う瞬間、私の眼の中の色が変わって来た。そして対馬海峡の全景が前面に展開して、バルチック艦隊が二列を作って、ノコノコやって来るのがはっきり見えるのです。
 しめた!と思うと、私は正気に返ってしまった。こんな夢みたいなものに会ったのはこれで二度目ですから、私は直ちに、こりゃあ確かに神示だ!と直感しました。これでもう大丈夫だ!バルチック艦隊は二列を作って間違いなく対馬水道に突っかけて来る!これに対応するに第一段はこう、第二段はこうと、例の私の〝七段構え〟の計画が出来上がりました。
 いよいよ二十七日の未明となって、御承知の通り、信濃丸からの無線電信で敵艦隊の接近したことが判り、とうとうあの大海戦という段取りになったわけですが、驚いたことには、敵の隊形が三日前に夢で見せられたのと寸分の相違もありませんでした。一目それを見た時に、私は嬉しいやら不思議やら有り難いやら、実に何とも言えぬ気持ちでした」
 日本海海戦の檜舞台の花形役者から初めての打ち明け話を聞くのであるから、実に面白かった。作らず、飾らず、勿体をつけず、海軍流の淡白なしゃれた口調で物語ってくれるのが何よりも嬉しかった。》

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