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カテゴリ: ★『アラン・カルデック』

1858年6月17日、ボダン家にて、霊媒はボダン嬢。

ー([真実の霊]に対して)『霊の書』の見直しが一部終わりました。そのことに関して、ご意見をお伺いしたいのですが。
 「見直した部分に関しては、それでよいと思います。しかし、全体を見直した後で、さらに、ある部分は敷衍(ふえん)し、ある部分は短くしなければならないでしょう」
ー予言された事件が起こる前に出版する必要があるのでしょうか?
 「ある部分に関しては、それでよいでしょうが、全部を出すことは差し控えるべきです。というのも、非常に微妙な問題をはらんでいる章がいくつかあるからです。
 この最初の作品がどれほど重要なものであろうとも、それはまた、ある意味では大いなる全体の導入部でしかないのです。やがて、それは、あなたが今日到底想像出来ないような広がりを見せることになるはずです。
 しかし、それらのある部分は、もっとずっと後になってからでないと発表出来ない、ということが分かるようになるでしょう。新たな考え方が広まり、根付くまで、待つ必要があるのです。一挙に全てを知らせるというのは、明らかに配慮を欠くやり方なのです。世の人々の考えは徐々にしか変化しない、ということを思い出しておくべきでしょう。
 こらえきれない人々が、あなたを催促することでしょう。しかし、彼らの言うことを聞いてはなりません。よく観察し、様子を窺うのです。待つことを覚えなさい。そして、好機が来るまでは決して攻撃しない慎重な将軍のように振る舞うべきなのです」

 今これを書いている1867年1月の時点から振り返ってみると、当時、この通信を受けていた頃は、私が『霊の書』のことしか考えていなかったことがよく分かる。[真実の霊]も言っているように、仕事全体がどれほど大きなものになるか、まるで分かっていなかったのである。
 予告されていた事件は、数年の間は起こらなかった。まだ時期が来ていなかったからである。
 その後、今日に至るまで、書籍が発刊されてきたわけであるが、それは誠に遅々たる歩みであった。新たな考えが根付くのを待つ必要があったからである。まだ発刊されずにいる諸作品の内、最も重要なもの、すなわち作品群の頂点をなす著作に関しては、確かに、最も微妙な部分を含んでいるので、予告された事件が終わるまでは発刊出来ないであろう。
 1856年の時点では、私は一冊の書籍のことしか考えておらず、それがさらに展開していくことなど念頭になかったが、[真実の霊]は既に、その後の続く作品のことを暗示している。ただし、「早過ぎる出版は不都合を招くだろう」と言っている。
 「こらえきれない人々があなたを催促することでしょう。しかし、彼らの言うことを聞いてはなりません。待つことを覚えなさい」と[真実の霊]は言った。事実、こらえきれない人々はいた。もし私が彼らの言うことを聞き入れていたら、私達の船は暗礁の群れに突入していたことだろう。
 奇妙なことに、一方には「もっと速く進むべきだ」とせかす人々がおり、一方には「進むのが速過ぎる」と言って非難する人々がいた。私はどちらの言い分も聞き入れなかった。ひたすら、思想の浸透の具合を冷静に観察し続けたのである。
 予言された事柄が次々に実現していくのを目の当たりにして、私は指導霊団の深い洞察力と智慧を信頼せざるを得なくなっていった。

 1856年9月11日、ボダン家にて、霊媒はボダン嬢。

 『霊の書』の内の、心の法則に関する何章かを読み上げた後で、霊媒が次のように書いた。

 「あなたはご自分の仕事の目的をよく理解していると思います。計画はよく出来ており、私達は大変満足しています。どうぞ、そのまま続けてください。そして、作品が完成した暁には、必ずそれを刊行してくださるようお願いします。多くの人達の為に役立つからです。私達はとても嬉しく思っています。私達が常にあなたと共にいることを忘れないでください。神を信じ、前進してください。指導霊団より」

1857年1月17日、ボタン家にて、霊媒はボタン嬢。

 「新年になったらメッセージを送ります」という約束を、Z霊がしていた。何か特別に、私に言いたいことがあるということだった。通常の集いで、それは何なのか尋ねたところ、「霊媒と二人きりの時に伝える」というふうに言われた。以下が、その内容である。

 「親しい友よ、先週、多くのメンバーの前では通信を送ることを控えました。というのも、他人に聞かれては困る内容だったからです。
 まず、印刷中の作品について話をしておきましょう(この時『霊の書』が印刷中であった)。あなたは朝に夕べにそのことばかり考えていますが、あまり気にすることはありません。思い煩わなくても上手くいきます。それに体調も良くなるでしょう。
 私の見るところでは、あなたの仕事は必ず上手くいきます。あなたは大いなることを為すべく召命されているからです。
 ただし、正しい判断力を保つ必要があります。あらゆることを健全に、冷静に観察した上で評価してください。情熱に引きずられて、急ぎ過ぎることのないように。確実に物事を成し遂げる為に、段取りや進み具合を正確に見極めなさい。幻想を抱いてはなりません。理解し難いように思われることがあっても、そこから目を逸らしてはなりません。それはさらに前進する為の教材だからです。
 しかし、あらゆる人々が真理を知り、信ずるようになるまでは、まだまだ時間がかかるでしょう。あなたが生きている間は、事業が完全に成功するところまでは行かないと思います。あなたは、新たな時代の曙を見るだけで満足しなければなりません。
 あなたが始めたことを完成させるには、別の肉体に宿って再び地上に生まれる必要があります。その時には、地上に蒔いた種が見事に実を結ぶのを見ることが出来るでしょう。
 あなたを妬み、やっかむ人々が、あなたを中傷し、あなたの計画を妨げようとするでしょう。しかし、挫けてはなりません。力強く事業を押し進めなさい。人類の進化の為に働き続けなさい。あなたが正しき道から外れない限り、指導霊団はあなたを支え続けます。
 覚えていますか?一年前のことですが、私は、行いの正しい人を選んで支援すると約束しましたね。そうです、この一年間、あなたもまたその正しい人でありました。
                                 あなたを愛し、守るZ霊」

 「Z霊、すなわちZephyr(そよ風)は、特に霊格の高い霊というわけではない。しかし、善良で親切な霊である」ということを、かつて述べた。しかし、その後、急速に進化したように思われる。それは、右の通信を見れば、よく分かるだろう。叡智に溢れた、信頼出来る内容になっているからである。
 いずれにしても、私はこの霊に関しては、よい思い出を持っているし、彼が与えてくれたよきアドバイス、また、私への愛情に対して、感謝の念を忘れていない。
 ボタン一家が離散して後、彼は姿を現していない。「地上に転生する」と言っていたので、きっとその通りになったのだろう。

1857年5月6日、カルドヌ夫人宅にて。

 ルスタン氏のお宅でのセッションで、カルドヌ夫人にお会いする機会があった。彼女は手相を見る名人だということだった。
 私は、「手相それ自体に意味があるわけではない。ただし、透視能力を持っている人々にとって、手相が、真実を見抜く為の、ある種のきっかけにはなり得るだろう」と、ずっと思っていた。すなわち、「手相は、一つの口実ー注意を集中させ、意識を研ぎ澄ます為の手段ーであろう」と考えていたのである。その意味では、カードや、珈琲の飲み滓、鏡等と同じ役割を果たしているはずである。経験を積むにつれ、私はこの考えが正しいという確信を深めていった。
 いずれにしても、カルドヌ夫人が「一度いらっしゃい」と言うので、ご招待に応じることにした。以下が、彼女が私に言ったことの要約である。
 「あなたは数多くの優れた資質と高い知性に恵まれています。卓越した判断力があり、インスピレーションを理性で判断し、統御することが出来ます。本能や欲望を抑え、直観を、方法論、理論に従わせることが出来ます。『心の法則を明らかにしたい』と、ずっと思ってきました。絶対的な真理を探し求め、芸術を愛しています。
 あなたの文体は、正確、緻密で、よいリズムを持っています。ただし、時には、正確さを、多少、犠牲にしても、詩的な表現を取ろうとすることがあります。
 かつては、単なる観念的な哲学者だった為に、他者の意見に譲ることが多かったようです。現在では、明確な信仰に裏打ちされた哲学者として、断固たる立場をとり、また、一派をつくりたいと思っています。
 思いやりと分別に溢れています。他者を助け、慰め、救うことが大好きです。また、独立心が旺盛です。
 感情が激しくなっても、直ぐ元に戻れます。
 ご自分に託された使命を遂行するのに極めて適した能力を持っています。孤立して仕事をするよりも、多くの人と協力しつつ、彼らを導きながら仕事をすることの方が得意でしょう。あなたの考えは、眼差しに表れます。
 ここに、霊的な司教冠が見えます。大変はっきりと見えますが、あなたには見えますか?」
 「私には何も見えません。その司教冠は何を意味するのでしょう?私が司教になるということでしょうか?仮にそうだとしても、今世で司教になることはないでしょう」
 「霊的な司教冠と言ったことに注意してください。それは、精神的、宗教的な権威を意味するのであって、現実に司教になるかどうかとは関係ないのです」
 ここには、カルドヌ夫人が言ったことをそのまま書いたにすぎず、それが正しいかどうかを判断するのは私の任ではない。
 だが、あるものは正しいように思われる。私の性格と傾向性に関する部分である。
 ただし、明らかに間違っている部分もある。それは、私の文体について彼女が述べた箇所である。彼女は、私が、正確さを犠牲にしても詩的な表現をとる、というようなことを言った。しかし、私には詩人の資質はない。
 私が何よりも重んじ、好み、大切にするのは、文体の明晰さ、正確さ、簡潔さであって、それらを詩的表現の為に犠牲にすることなど決して有り得ない。むしろ、私は、「明晰さを重んじるあまり、詩的な感情を犠牲にし過ぎる。その為に文体が乾いている」と言って非難される程なのである。私は、常に、想像力に訴えるよりも、理性に訴えることを選んできた。
 霊的な司教冠に関しては、まだ『霊の書』は出版されたばかりであり、霊実在主義の理論は、その端緒が示されたにすぎない。今後、それがどのような展開を見せるかは予断を許さないのである。この本の元となった啓示の送り手達それ自体に、私はそれほど重きを置いているわけではない。むしろ、その教えの内容の方が大事だと思っている。

 カルドヌ夫人は翌年、パリを離れた。彼女に再会したのは、それから八年後の1866年のことであった。この間に、事態は大分進展していた。彼女は私に言った。
 「私が予言した(霊的な司教冠)のことを覚えていらっしゃいますか?見事に実現したではありませんか」
 「実現したですって?私はサン・ピエトロ寺院の玉座に鎮座ましましているわけではありませんよ(笑)」
 「そういう意味ではない、ということも申し上げませんでしたか?今や、あなたは、世界中の信奉者から認められた、霊実在主義の主導者ではありませんか。あなたのお書きになった書物によって、実に数多くの人々が目覚めたのです。信奉者は、既に何百万人にも達しているはずです。霊実在主義の運動において、あなた以上に権威を持つ人間がいるでしょうか?
 ですから、あなたは、自ら求めずして、ごく自然に、最高の精神的地位を得たのです。あなたと同時に、或は、あなたの後で、仮に他の人達がどのような仕事をしたとしても、あなたが霊実在主義の創始者である事実には変わりがありません。つまり、あなたは事実上、霊的な司教冠をかぶっている、つまり、最高の精神的指導者である、ということなのです。
 どうですか?私の言っていることは正しくないですか?
 手相による占いも当たるということが、お分かりになったのではないでしょうか?」

1857年11月15日、デュフォ氏宅にて、霊媒はデュフォ嬢。

ー機関誌として『霊実在主義』を刊行したいと思っているのですが、上手くいくでしょうか?アドバイスをお願いします。ティドマン氏に協力を依頼したのですが、氏は、まだ財政的援助をするかどうか決めかねているようなのです。
 「忍耐強くやれば成功すると思います。考え方としてはよいでしょう。あとは、案をよく練ることです」
ー他の人に先を越されるのではないかと不安なのですが。
 「急ぐ必要があるかもしれません」
ーそうしたいのはやまやまです。しかし、時間が足りません。ご存知のように、現在、私は仕事を二つ抱え込んでいるからです。出来れば、それを止めて、心おきなく機関誌発刊の準備に専念したいのですが。
 「当面、仕事を止めるべきではありません。時間というものは、つくり出そうとすればつくれるものです。動きなさい。そうすれば何とかなります」
ーティドマン氏の協力なしに動くべきなのですか?
 「協力があろうとなかろうと、とにかく行動しなさい。彼のことは心配しなくてもいいでしょう。ティドマン氏が協力してくれなくても大丈夫です」
ーまずは第一号を出してみようと思っているのです。それを続けるかどうかは、後でまた考えるつもりです。それでよろしいでしょうか?
 「それでよいと思います。でも、一号だけではとても足りないでしょう。いずれにしても、まず第一号を発刊して、道を開くことが大事ですし、また必要でもあります。第一号を、念には念を入れてつくり、以後の成功の基礎をつくるべきです。不完全なものであれば、むしろ出さない方がよいでしょう。第一印象が、その後のあり方を決めるからです。
 人々の興味を引くものでなければなりません。したがって、真面目な記事と面白い記事の両方を掲載すべきでしょう。真面目な記事は学識のある人々を引きつけ、面白い記事は一般大衆を引きつけるからです。真面目な記事が基本をなしまずか、面白い記事もまた必要なのです。というのも、面白い記事がなければ充分に売れず、したがって、経済的な基盤をつくれないからです。
 要するに、『堅苦しい記事ばかりではなく、肩のこらない記事も載せて、それなりの部数を売りなさい』ということです。そうすれば、この機関誌が、今後の仕事を進める上での強力な補助手段になるでしょう」

 当時、私は、この機関誌の発刊を急いでおり、誰にも相談せずに、1858年1月1日に第一号を刊行した。当時、予約購読者は一人もおらず、出資者も一人もいなかった。全てのリスクを自分で負い、たった一人で発刊したのである。しかし、後悔はしなかった。結果が、当初の期待を遥かに超えていたからである。
 第一号以来、途切れることなく発刊され続けた。そして、霊人から告げられたように、この機関誌は、私が仕事を進める上で強力な補助手段となったのである。
 出資者を募らなかったのが、かえって私にとって幸いしたことを後で知った。というのも、もし、資金を誰かに出してもらっていたら、その人の考えや意志によって邪魔されて、私の自由が大幅に制限されることになっていたはずだからである。仕事自体はきつかったが、誰に対しても気兼ねすることなく、全て自分の意志で自由に進められることが有り難かった。

1858年4月1日にパリ霊実在主義協会を設立した経緯を、ここで簡単に述べておこう。この協会は、霊実在主義の運動を展開していく上で大きな役目を果たすことになったし、それ以後、霊界との交流の場を提供することになったからである。
 約半年前から、私は、マルティール街にある自宅で毎週火曜日に、何人かの仲間と集いを開いていた。デュフォ嬢が、霊媒として中心的な役割を果たしてくれていた。部屋には十五人から二十人が入るのがやっとだったが、しかし、時には出席者が三十人を超えることもあった。ここで行われた集いは、提示される質問の内容の高さ、それに対する答えの質の高さから、特筆すべきものとなっていた。貴顕紳士もしばしば同席した。
 しかし、この部屋は明らかに狭すぎた。常連の内の何人かは、「資金を出すから、もっと広い部屋を借りよう」と言ってくれた。
 しかし、そうする為には、正式に許可を取らなければならなかった。デュフォ氏が個人的に警視総監を知っていたので、働きかけてくれることになった。また、正式に認可を得る為には内務大臣の許諾を得る必要があったのだが、その為に、霊実在主義に親近感を持っていたX将軍が働いてくださった。これにより、普通であれば手続きに三ヶ月かかるところが、僅か二週間しかかからなかったのである。
 こうして、協会が正式に設立され、パレ=ロワイヤルに借りた部屋で毎週火曜日に定期的に集いが開かれるようになった。ここでは、1858年4月1日から1859年4月1日まで活動した。それ以降は、同じくパレ=ロワイヤルの中にあるレストラン、ドュ二のサロンで毎週金曜日に集いが開かれた。これは1859年4月1日から1860年4月1日まで続いた。この時期、事務局は、サン・タンヌ街59番地に置かれていた。
 協会は、当時、原則として、誠実な人であれば誰でも受け入れていたが、これは安易に過ぎたかもしれない。というのも、その為にトラブルがあとを絶たなかったからである。それを解決する為に、大分労力を取られることとなり、ともすればそれが使命の遂行の妨げとなった。

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