自殺ダメ
[これが死後の世界だ]M・H・エバンズ著 近藤千雄訳より
庭作りに続いて今度は建築の仕事ぶりを見てみよう。出典はオーエン『ヴェールの彼方の生活』。通信者はこの自動書記通信の為に特別に組織された霊団の最高指導者。
「この度は我々の側より話題を用意して参った。願わくは再度、汝の精神を貸されたい。つい最近我が管轄に属する界にて起きた出来事を是非汝にも知らせておきたいと望むからである。
出来事とは他でもない、建築の建造である。形は寺院に似ておる。その建造の目的は地上と天界との連絡を促進することにある。目下ゆっくりと最後の仕上げをしており、完成も間近い。これより先ずその建物に使用せる資材を説明し、続いてこの建物の使用目的を教えるとしよう。
資材には種々様々な色彩と密度とがある。さりとて地上の如くレンガや石等を積み重ねるのではあらぬ。様々な色彩と密度とを有しつつ、資材としてはたった一種類である。我々は設計図が出来上がったところで、こぞって予定された敷地へ向かった。その敷地は第五界の低地と高地の中間に位置する台地にある。
敷地に到着すると我々はまず全員の創造エネルギーを一丸とする為の精神統一を行なった。それが終わると今度はそのエネルギーを基礎工事に向けた。すると、やがてその敷地から我々の照射したエネルギーがゆっくりと湧き出で、そのまま高く伸びて頂上にドーム形の屋根をこしらえた。そこへ総指揮者たる大天使が御姿を現され、我々のエネルギーを一つに纏め、大天使自ら意念を放射され給い、一段落した我々の仕事に細かい手を加えられた。その間我々は念波の放射を控え、静かにその様子を拝見した。
何故大天使まで出現するのか、汝にはそれが不思議に思われるであろう。理由を述べよう。創造という仕事では我々もそれ相当の修養を積み、又、協調ということについても過去幾十年幾百年にも亘りて努力に努力を重ねてきたことは、自ら公言してはばからぬところである。が、その我々が総力を挙げて為す仕事にも、より高き世界の天使からご覧になれば、不備と欠点とを免れぬのである。それ故第一期の基礎工事の完成に当たりては、是非とも大天使の御力によりて、我々の放射せるエネルギーを調節して頂き、且つ又、不備の点を補って頂かねばならぬのである。もしそれを怠れば、形体に傷が残り、或いは思わぬ不備から構造が崩れ、折角の我々の努力も烏有(うゆう)に帰してしまうことが有り得るのである。
かくの如く、第一期はまず外形の完成に集中する。が、あくまで外形であり、そのまま手を引けば見る間に消滅してしまう。一服した我々は引き続き第二期の基礎工事に着手した。第二期は柱、門、並びに塔を強固にすることである。最下部から始めて徐々に上方へ向けて手を加えていき、最後にドームまで到達する。これを幾回と繰り返した。まだ外形のみである。が、外形としては一応完成した。残るは色彩を鮮明にすることと、細かい装飾、そして最後に全体を引き締めて持続性を与えることである。
我々は暫く工事をしては少し休み、その間にエネルギーを注ぎ込み、再び工事に着手するといった過程を幾度となく繰り返し、その寺院風の建物の完成に全身全霊を打ち込んだ。実際に創造の仕事に携われる者にとりて、自己の創造物の美しき姿を見ること程楽しく且つ有り難きものはない。我々の建造せるその寺院風の建物は、大きさにおいてもデザインにおいても並外れて雄大なるものであった。それ故、その雄姿が着々と美しさを増して行くのを見て味わう我々の喜びは、まさに言語に絶するものであった。
こちらの世界における建築が全て我々と同じ方法で行なわれるとは限らぬ。が、いかなる方法にせよ、出来上がれるものは建築家による建造物というよりは我が子の如き存在となる。全ては建造者のエネルギーと創造力とによりて造られたるものだからである。そうして出来上がれる建物が、後にその建物にて仕事をする者の理想に適っていることも論を俟(ま)たぬ。何となれば、その建物には既に生命がある。意識的生命ではないが一種の感性を宿しているからである。
こちらの世界の建物とその創造者との関係は、言うなれば、肉体とそれに宿れる霊魂との関係に似ておる。肉体と霊魂とは覚醒時は言うに及ばず睡眠中といえども常に連絡を保持しておる。それと同じく、我々建造者は、たとえ完成後に諸所に分散しようとも、常にその建物を意念の焦点としてお互いが連絡し合っておるのである。その生き生きとした実感と満足感とは実際にこちらへ来て創造の仕事に携わってみなければ判らぬ。もっとも汝がこちらへ来たとて必ずしも建築の仕事に携わるとは限らぬが。
さて建物としての一応の形式が整い、更にそれを強固にし終えると、後に残された仕事は内部装飾の仕上げである。すなわち各室、ホール、聖堂等をそれ相当に装飾し、柱廊らしく、又、噴水には実地に水を通してみて水が切れぬか否かを確かめる。それをするに我々はまず外部に立って念波を送り、それから内部に入って手並みの程を点検する。手先はあまり使用せぬ。主役を演ずるのは頭と心である。
そこまで終わると、以後は我々が実際にその建物で生活しつつ、気付いた箇所をその都度手入れした。かくして最初の設計通りの美しい寺院が出来上がったのである。
そして我々の仕事が完了した暁に、畏れ多くも大天使様が再度遙か高遠の世界より降りて来られ、細かく点検して回られた。そして若しも不備の点があれば大天使自ら手を加えられた。が、時として我々の勉強の為を思われて、我々に直接お言いつけになることもある」
創造力の脅威
この通信は実に様々な示唆を与えてくれる。第一は創造の根本が意念であること、言い換えれば眼に見える創造物はことごとく眼に見えぬものによって支えられているということである。この事実を我々はもっと真剣に噛み締める必要がありはしないだろうか。何故なら人類はまだまだ精神の本当の威力と大切さを理解しているとは言えないからである。
次に教えられることは、霊界の協調的仕事が単に横の関係のみでなく上下にも徹底していることである。つまり各自は自己の力量と位置(霊格)を自覚して、あくまでもその範囲を守り、全体としての責任と仕上げはその一団の最高指揮者に任せる。仕事の進め方も最初の設計通りである。決して勝手な好みを差し挿むようなことはしない。
更にここで我々が思い出すのは「初めに神は天と地を造り給えり」という聖書の言葉である。「天」とは天界つまり霊界のことであり、「地」とは地界つまり物質界のことであろう。結局この言葉を全宇宙が天界の政庁の神々の創造力によって造られたことを意味していると思われる。
創造の仕事は常に内部より発する。神の御胸には次の新しい宇宙の構想が宿されているに相違ない。が、創造された側の我々人間にも、お粗末ながら同じ創造力が宿っているのである。ここが大切な点であろう。我々は決して創造されっぱなしでこのまま消えて失くなる運命にあるのではない。それどころか、現在の我々にも、いずれは宇宙の創造者と一体となれる要素が具わっているのである。この事実の厳粛性を悟った者がなんと少ないことであろう。我々人間はその創造力によって地上に天国を作ることも可能なのだ。
[これが死後の世界だ]M・H・エバンズ著 近藤千雄訳より
庭作りに続いて今度は建築の仕事ぶりを見てみよう。出典はオーエン『ヴェールの彼方の生活』。通信者はこの自動書記通信の為に特別に組織された霊団の最高指導者。
「この度は我々の側より話題を用意して参った。願わくは再度、汝の精神を貸されたい。つい最近我が管轄に属する界にて起きた出来事を是非汝にも知らせておきたいと望むからである。
出来事とは他でもない、建築の建造である。形は寺院に似ておる。その建造の目的は地上と天界との連絡を促進することにある。目下ゆっくりと最後の仕上げをしており、完成も間近い。これより先ずその建物に使用せる資材を説明し、続いてこの建物の使用目的を教えるとしよう。
資材には種々様々な色彩と密度とがある。さりとて地上の如くレンガや石等を積み重ねるのではあらぬ。様々な色彩と密度とを有しつつ、資材としてはたった一種類である。我々は設計図が出来上がったところで、こぞって予定された敷地へ向かった。その敷地は第五界の低地と高地の中間に位置する台地にある。
敷地に到着すると我々はまず全員の創造エネルギーを一丸とする為の精神統一を行なった。それが終わると今度はそのエネルギーを基礎工事に向けた。すると、やがてその敷地から我々の照射したエネルギーがゆっくりと湧き出で、そのまま高く伸びて頂上にドーム形の屋根をこしらえた。そこへ総指揮者たる大天使が御姿を現され、我々のエネルギーを一つに纏め、大天使自ら意念を放射され給い、一段落した我々の仕事に細かい手を加えられた。その間我々は念波の放射を控え、静かにその様子を拝見した。
何故大天使まで出現するのか、汝にはそれが不思議に思われるであろう。理由を述べよう。創造という仕事では我々もそれ相当の修養を積み、又、協調ということについても過去幾十年幾百年にも亘りて努力に努力を重ねてきたことは、自ら公言してはばからぬところである。が、その我々が総力を挙げて為す仕事にも、より高き世界の天使からご覧になれば、不備と欠点とを免れぬのである。それ故第一期の基礎工事の完成に当たりては、是非とも大天使の御力によりて、我々の放射せるエネルギーを調節して頂き、且つ又、不備の点を補って頂かねばならぬのである。もしそれを怠れば、形体に傷が残り、或いは思わぬ不備から構造が崩れ、折角の我々の努力も烏有(うゆう)に帰してしまうことが有り得るのである。
かくの如く、第一期はまず外形の完成に集中する。が、あくまで外形であり、そのまま手を引けば見る間に消滅してしまう。一服した我々は引き続き第二期の基礎工事に着手した。第二期は柱、門、並びに塔を強固にすることである。最下部から始めて徐々に上方へ向けて手を加えていき、最後にドームまで到達する。これを幾回と繰り返した。まだ外形のみである。が、外形としては一応完成した。残るは色彩を鮮明にすることと、細かい装飾、そして最後に全体を引き締めて持続性を与えることである。
我々は暫く工事をしては少し休み、その間にエネルギーを注ぎ込み、再び工事に着手するといった過程を幾度となく繰り返し、その寺院風の建物の完成に全身全霊を打ち込んだ。実際に創造の仕事に携われる者にとりて、自己の創造物の美しき姿を見ること程楽しく且つ有り難きものはない。我々の建造せるその寺院風の建物は、大きさにおいてもデザインにおいても並外れて雄大なるものであった。それ故、その雄姿が着々と美しさを増して行くのを見て味わう我々の喜びは、まさに言語に絶するものであった。
こちらの世界における建築が全て我々と同じ方法で行なわれるとは限らぬ。が、いかなる方法にせよ、出来上がれるものは建築家による建造物というよりは我が子の如き存在となる。全ては建造者のエネルギーと創造力とによりて造られたるものだからである。そうして出来上がれる建物が、後にその建物にて仕事をする者の理想に適っていることも論を俟(ま)たぬ。何となれば、その建物には既に生命がある。意識的生命ではないが一種の感性を宿しているからである。
こちらの世界の建物とその創造者との関係は、言うなれば、肉体とそれに宿れる霊魂との関係に似ておる。肉体と霊魂とは覚醒時は言うに及ばず睡眠中といえども常に連絡を保持しておる。それと同じく、我々建造者は、たとえ完成後に諸所に分散しようとも、常にその建物を意念の焦点としてお互いが連絡し合っておるのである。その生き生きとした実感と満足感とは実際にこちらへ来て創造の仕事に携わってみなければ判らぬ。もっとも汝がこちらへ来たとて必ずしも建築の仕事に携わるとは限らぬが。
さて建物としての一応の形式が整い、更にそれを強固にし終えると、後に残された仕事は内部装飾の仕上げである。すなわち各室、ホール、聖堂等をそれ相当に装飾し、柱廊らしく、又、噴水には実地に水を通してみて水が切れぬか否かを確かめる。それをするに我々はまず外部に立って念波を送り、それから内部に入って手並みの程を点検する。手先はあまり使用せぬ。主役を演ずるのは頭と心である。
そこまで終わると、以後は我々が実際にその建物で生活しつつ、気付いた箇所をその都度手入れした。かくして最初の設計通りの美しい寺院が出来上がったのである。
そして我々の仕事が完了した暁に、畏れ多くも大天使様が再度遙か高遠の世界より降りて来られ、細かく点検して回られた。そして若しも不備の点があれば大天使自ら手を加えられた。が、時として我々の勉強の為を思われて、我々に直接お言いつけになることもある」
創造力の脅威
この通信は実に様々な示唆を与えてくれる。第一は創造の根本が意念であること、言い換えれば眼に見える創造物はことごとく眼に見えぬものによって支えられているということである。この事実を我々はもっと真剣に噛み締める必要がありはしないだろうか。何故なら人類はまだまだ精神の本当の威力と大切さを理解しているとは言えないからである。
次に教えられることは、霊界の協調的仕事が単に横の関係のみでなく上下にも徹底していることである。つまり各自は自己の力量と位置(霊格)を自覚して、あくまでもその範囲を守り、全体としての責任と仕上げはその一団の最高指揮者に任せる。仕事の進め方も最初の設計通りである。決して勝手な好みを差し挿むようなことはしない。
更にここで我々が思い出すのは「初めに神は天と地を造り給えり」という聖書の言葉である。「天」とは天界つまり霊界のことであり、「地」とは地界つまり物質界のことであろう。結局この言葉を全宇宙が天界の政庁の神々の創造力によって造られたことを意味していると思われる。
創造の仕事は常に内部より発する。神の御胸には次の新しい宇宙の構想が宿されているに相違ない。が、創造された側の我々人間にも、お粗末ながら同じ創造力が宿っているのである。ここが大切な点であろう。我々は決して創造されっぱなしでこのまま消えて失くなる運命にあるのではない。それどころか、現在の我々にも、いずれは宇宙の創造者と一体となれる要素が具わっているのである。この事実の厳粛性を悟った者がなんと少ないことであろう。我々人間はその創造力によって地上に天国を作ることも可能なのだ。