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カテゴリ: ★『各種霊的知識』

さて、死の過程の最終段階は、肉体とエーテル体の分離である。これは、いわゆる老衰による自然死の場合は、至って簡単に行われる。というのは、両者を接着している電気性エネルギーがその時迄に殆ど枯渇して稀薄になっている為である。
 これに反し、事故のような急激なショックによって分離した場合は事情が違ってくる。そういう場合は接着剤に相当する電気性エネルギーが豊富に残っている為に、肉体からの分離が容易に行われない。しかし、否でも応でも離れざるを得ない。そこで苦痛が生じる。また、色々な資料によると、事故による精神的ショックが死後もずっと尾を引いて、霊的な回復を遅らせる。いわば無理矢理にもぎ取られた青い果実のようなもので、霊的でも目覚めが遅く、回復に相当期間を要する。
 デービスも次のように述べている。 

 人間がその与えられた天寿を全うした時は、生体電気がごく穏やかに、そっと肉体から離れていく為に、あたかもこの世への赤子の如く、本人も自分が死んだことに一向に気づかないことすらある。しかし、その死が不自然に強いられたものである場合は、苦痛が伴う為にそれを意識せざるを得ず、さらにショックも残る。そんな場合は、一時的に感覚の休止という現象が生じる。つまり、死後の睡眠状態である。それが何日も何十日も続く。さらに霊体の方は、霊の道具となる為の準備がまだまだ不足している。

 死の現象を実際に観察した話は数多くある。霊界のスピリットが観察してそれを霊媒を通じて語ってくれたものもあれば、肉体を持ちながらスピリットと同じ視力、いわゆる霊眼で観察して語ったものもある。スエーデンボルグがその一人である。ナザレのイエス(キリスト)がまたしかりである。が、素晴らしさと興味深さの点で群を抜いているのは、これまで度々引用しているデービスである。
 数多くの書物の中でデービスは度々死の問題に触れ、自分の観察記録を細かく書き記している。その観察の素晴らしさは群を抜き、肉体構造の知識などは当時の科学知識の水準を遥かに超えていた。
 したがって、当時の科学者がデービスの業績に対して正当な評価を与えなかったのも無理からぬことであった。が、今日では学者の態度もようやく変わりつつある。死の現象について心霊学的知識を基礎とした科学的解説が施される日も、そう遠くはないであろう。
 そのデービスの記述の中でも最高と思われるものがThe Physicianの中に収められている。これはあらゆる点から見て完璧と思われるので、数ページにわたる全文を紹介しようと思う。

 患者は60歳位の女性で、亡くなられる八ヶ月前に私のところへ診察の為に来られた。症状としてはただ元気がない、十二指腸が弱っている、そして何を食べてもおいしくない、ということくらいで、別に痛いとか苦しいといった自覚症状はなかったのであるが、私は直感的に、この人は遠からずガン性の病気で死ぬと確信した。八ヶ月前のことである。もっともその時は、八ヶ月後ということは分からなかった。(霊感によって地上の時間と空間を測るのは私には出来ないことである。)しかし、急速に死期が近づきつつあることを確信した私は、内心密かに、その『死』という、恐ろしくはあるが興味津々たる現象を是非観察しようと決心した。そして、その為に適当な時期を見計らって、主治医として彼女の家に泊まり込ませてもらった。
 いよいよ死期が近づいた時、私は幸いにして心身共に入神し易い状態にあった。が、入神して霊的観察をするには、入神中の私の身体が他人に見つからないようにしなければならない。私はそういう場所を探し始めた。そして適当な場所を見つけると、いよいよ神秘的な死の過程とその直後に訪れる変化の観察と調査に入った。その結果は次のようなものであった。
 最早肉体器官は統一原理であるスピリットの要求に応じきれなくなってきた。が、同時に、各器官はスピリットが去り行こうとするのを阻止しているかに見える。すなわち、筋肉組織は運動(モーション)の原素を保持しようとし、導管系統(血管・リンパ管等)は生命素(ライフ)を保持しようとし、神経系統は感覚を保持しようとし、脳組織は知性を維持しようとして懸命になる。つまり、肉体と霊体とが、友人同士のように互いに協力し合って、両者を永遠に引き裂こうとする力に必死に抵抗を試みるのである。その必死の葛藤が肉体上に例の痛ましい死のあがきとなって現れる、が、私はそれが実際には決して苦痛でもなく不幸でもなく、ただ単にスピリットが肉体との共同作業を一つ一つ解消していく反応に過ぎないことを知って、喜びと感謝の念の湧き出るのを感じた。
 やがて頭部が急に何やらキメ細かな、柔らかい、ふんわりとした発光性のものに包まれた。するとたちまち大脳と小脳の一番奥の内部組織が拡がり始めた。大脳も小脳も普段の流電気性の機能を次第に停止しつつある。ところが、見ていると、全身に行き渡っている生体電気と生体磁気が大脳と小脳にどんどん送り込まれている。言い換えれば、脳全体が普段の10倍も陽性を帯びてきた。これは肉体の崩壊に先立って必ず見られる現象である。
 今や死の過程、つまり霊魂と肉体の分離の現象が完全に始まったわけである。脳は全身の電気と磁気、運動と生気と感覚の原素を、その無数の組織の中へと吸収し始めた。その結果、頭部が輝かんばかりに明るくなってきた。その明るさは他の身体部分が暗く、そして冷たくなっていくのに比例しているのを見てとった。続いて、驚くべき現象を見た。頭部を包む柔らかくてキメの細かい発光性の電気の中に、もう一つの頭がくっきりとその形体を現し始めたのである。念の為に言っておくが、こうした超常現象は霊能がなくては見ることは出来ない。肉眼には物質だけが映じ、霊的現象が見えるのは霊眼だけなのである。それが大自然の法則なのである。さて、その新しい頭の格好が一段とはっきりしてきた。形は小さいが、いかにも中身がギッシリ詰まった感じで、しかもまばゆいほど輝いている為に、私はその中身まで透視することは出来ないし、じっと見つめていることすら出来なくなった。この霊的な頭部が肉体の頭部から姿を現して形体を整え始めると同時に、それら全体を包んでいる霊気が大きく変化し始め、いよいよその格好が出来上がって完全になるにつれて霊気は徐々に消えていった。このことから私は次のことを知った。すなわち、肉体の頭部を包んだ柔らかでキメの細かい霊気というのは肉体から抽出されたエキスであって、これが頭部に集められ、それが宇宙の親和力の作用によって、霊的な頭をこしらえ上げるのだと。
 表現しようのない驚きと、天上的とでもいうべき畏敬の念をもって、私は眼前に展開するその調和のとれた神聖なる現象をじっと見つめていた。頭部に続いてやがて首、肩、胸、そして全身が、頭部の出現の時と全く同じ要領で次々と出現し、奇麗な形を整えていった。こうした現象を見ていると、人間の霊的原理を構成しているところの[未分化の粒子]とでもいうべき無数の粒子は、[不滅の友情]にも似たある種の親和力を本質的に備えているように思える。霊的要素が霊的器官を構成し完成していくのは、その霊的要素の中部に潜む親和力の所為である。というのは、肉体にあった欠陥や奇形が、新しく出来た霊的器官では完全に消えているのである。言い換えれば、肉体の完全なる発達を阻害していた霊的因縁が取り除かれ、束縛から解放された霊的器官が全ての創造物に共通した性向に従ってその在るべき本来の姿に立ち帰るのだ。
 こうした霊的現象が私の霊眼に映っている一方において、患者である老婦人の最後を見守っている人々の肉眼に映っているのは、苦痛と苦悶の表情であった。しかし実は、それは苦痛でも苦悶でもない。霊的要素が手足や内臓から脳へ、そして霊体へと抜け出て行く時の[反応]にすぎないのであった。 
 霊体を整え終えた霊は自分の亡骸の頭部の辺りに垂直に立った。これで六十有余年の長きにわたって続いた二つの身体の繋がりがいよいよ途切れるかと思われた次の瞬間、私の霊眼に霊体の足元と肉体の頭部とが一本の電気性のコードによって結ばれているのが映った、明るく輝き、生気に満ちている。これを見て私は思った。いわゆる「死」とは霊の誕生に他ならないのだ、と。次元の低い身体と生活様式から、一段と次元の高い身体と、それに似合った才能と幸福の可能性を秘めた世界への誕生なのだ、と。また思った。母親の身体から赤ん坊が誕生する現象と、肉体から霊体が誕生する現象とは全く同じなのだ。へその緒の関係まで同じなのだ、と。今私が見た電気性のコードがへその緒に相当するのである。コードはなおも二つの身体をしっかりと繋いでいた。そして、切れた。その切れる直前、私は思ってもみなかった興味深い現象を見た。コードの一部が肉体へ吸い込まれていったのである。吸い込まれた霊素は分解されて全身へ行き渡った。これは急激な腐敗を防ぐ為であった。
 その意味で死体は、完全に腐敗が始まる迄は埋葬すべきではない。たとえ見かけ上は(医学上の)死が確認されても、実際にはまだ電気性のコードによって霊体と繋がっているからである。事実、完全に死んだと思われた人が数時間、或は数日後に生き返って、その間の楽しい霊界旅行の話をした例があるのである。原理的に言えば、これはいわゆる失神状態、硬直性、夢遊病、或は恍惚状態と同一である。が、こうした状態にも程度と段階があって、もしも肉体からの離脱が中途半端な時は、その数分間、或は数時間の間の記憶は滅多に思い出せない。そのために浅薄な人はこれを単なる意識の途絶と解釈し、その説でもって霊魂の存在を否定する根拠としようとする。が、霊的旅行の記憶を持ち帰ることが出来るのは、肉体から完全に離脱し、霊的へその緒、すなわち電気性のコード(電線と呼んでもよい)によって繋がった状態で自由に動き回った時であって、その時は明るく楽しい記憶に満ち満ちている。
 かくして、しつこく霊との別れを拒んでいた肉体からついに分離した霊体の方へ目をやると、早速霊界の外気から新しい霊的養分を吸収しようとしている様子が見えた。初めは何やら難しそうにしていたが、間もなく楽に、そして気持ち良さそうに吸収するようになった。よく見ると、霊体も肉体と同じ体形と内臓を具えている。いわば肉体をより健康に、そしてより美しくしたようなものだ。心臓も、胃も、肝臓も、肺も、その他、肉体に備わっていたもの全てが揃っている。何と素晴らしいことか。決して姿格好が地上時代とすっかり変わってしまった訳ではない。特徴が消え失せた訳でもない。もしも地上の友人知人が私と同じように霊眼でもってその姿を見たならば、丁度病気で永らく入院していた人がすっかり良くなって退院してきた時の姿を見て驚くように、「まあ、奥さん、お元気そうですわ。すっかり良くなられましたのね」ーそう叫ぶに違いない。その程度の意味において、霊界の彼女は変わったのである。
 彼女は引き続き霊界の新しい要素と高度な感覚に自分を適応させ、馴染ませようと努力していた。もっとも私は彼女の新しい霊的感覚の反応具合を一つ一つ見たわけではない。ただ私がここで特記したいのは、彼女が自分の死の全課程に終始冷静に対処したこと、そしてまた、自分の死に際しての家族の者達の止めどもない嘆きと悲しみに巻き込まれずにいたことである。一目見て彼女は、家族の者には冷たい亡骸しか見えないことを知った。自分の死を悲しむのは、自分がこうして今なお生きている霊的真実を知らないからだ、と理解した。
 人間が身内や知人友人の死に際して嘆き悲しむのは、主として目の前に展開する表面上の死の現象から受ける感覚的な反応に起因しているのである。少数の例外は別として、霊覚の未発達の人類、すなわち全てを見通せる能力を持たない現段階の人類、目に見え、手で触れること以外に存在を確信出来ない人類、したがって「死」というものを肉体の現象によってしか理解出来ない人類は、体をよじらせるのを見て痛みに苦しんでいるのだと思い、また別の症状を見ては悶えているのだと感じるのが一般的である。つまり、人類の大部分は肉体の死が全ての終わりであると思い込んでいる。が、私は、そう思い込んでいる人、或は死の真相を知りたいと思っておられる方に確信をもって申し上げよう。死に際して本人自身は何一つ苦痛を感じていない。仮に病でボロボロになって死んでも、或は雪や土砂に埋もれて圧死を遂げても、本人の霊魂は少しも病に侵されず、また決して行方不明にもならない。もしもあなたが生命の灯の消えた、何の反応もしなくなった肉体から目を離し、霊眼でもって辺りを見ることが出来れば、あなたの直ぐ前に同じその人がすっかり元気で、しかも一段と美しくなった姿で立っているのを見るであろう。だから本来、「死」は霊界への第二の誕生として喜ぶべきものなのだ。然り。もしも霊が鈍重な肉体から抜け出て一段と高い幸せな境涯へと生まれ変わったことを嘆き悲しむのならば、地上の結婚を嘆き悲しんでも少しもおかしくないことになる。祭壇を前にして生身のまま墓地に入る思いをしている時、或は魂が重苦しき雰囲気の中で息苦しい思いを強いられている時、あなたの心は悲しみの喪服をまとうことになろう。が、本当は明るい心で死者の霊界への誕生を祝福してやるべきところなのだ。
 以上、私が霊視した死の現象が完了するのに要した時間はほぼ二時間半であった。もっともこれが全ての死、すなわち霊の誕生に要する時間ということではない。私は霊視の状態を変えずに、引き続き霊魂のその後の動きを追った。彼女は周りの霊的要素に慣れてくると、意志の力でその高い位置(亡骸の頭上)に直立した状態から床へ降り立って、病める肉体と共に数週間を過ごしたその寝室のドアから出て行った。夏のことなので、全てのドアが開け放ってあり、彼女は何の抵抗もなく出て行くことが出来た。寝室を出ると、隣の部屋を通って戸外へ出た。そして、その時初めて私は霊魂が、我々人間が呼吸しているこの大気の中を歩くことが出来るのを見て、喜びと驚きに圧倒される思いであった。それほど霊体は精妙化されているのだ。彼女はまるで我々が地上を歩くように、いともたやすく大気中を歩き、そして小高い丘を登って行った。家を出てからほどなくして二人の霊が彼女を出迎えた。そして優しくお互いを確かめ話を交わした後、三人は揃って地球のエーテル層を斜めに歩き出した。その様子があまりに自然で気さくなので、私にはそれが大気中の出来事であることが実感出来なかった。あたかも、いつも登る山腹でも歩いているみたいなのだ。私は三人の姿をずっと追い続けたが、ついに視界から消えた。次の瞬間、私は普段の自分に戻っていた。
 戻ってみて驚いた。こちらはまた何という違いであろう。美しく若々しい霊姿とはうって変わって、生命の灯の消えた、冷えきった亡骸が家族の者に囲まれて横たわっている。まさしく蝶が置き去りにした毛虫の抜け殻であった。

続いて紹介するのは、実際に死を体験して霊界入りした者が、その体験を霊媒を通じて報告してきた、いわゆる霊界通信である。霊媒はロングリー夫人で、通信霊はジョン・ピアポント。ロングリー夫人の指導霊である。

 自ら死を体験し、また何十人もの人間の死の現場に臨んで実地に観察した者として、更にまたその「死」の問題について数えきれない程先輩霊の証言を聞いてきた者として、通信者である私は、「肉体から離れて行く時の感じはどんなものか」という重大な質問に答える充分な資格があると信じる。いよいよ死期が近づいた人間が断末魔の発作に見舞われるのを目の当たりにして、さぞ痛かろう、さぞ苦しかろうと思われるかも知れないが、霊そのものはむしろ平静で落ち着き、身体は楽な感じを覚えているものである。勿論例外はある。が、永年病床にあって他界する場合、或は老衰によって他界する場合、その他大抵の場合は、その死に至るまでに肉体的な機能を使い果たしている為に、大した苦痛を感じることなく、同時に霊そのものも恐怖心や苦痛をある程度超越するまでに進化を遂げているものである。
 苦悩に打ちひしがれ、精神的暗黒の中で死を迎えた人でも、その死の過程の間だけは苦悩も、そして自分が死につつある事実も意識しないものである。断末魔の苦しみの中で、未知の世界へ落ち行く恐怖におののきながら「助けてくれ!」と叫びつつ息を引き取っていくシーン。あれはドラマとフィクションの世界だけの話である。(中略)
 中には自分が死につつあることを意識する人もいるかも知れない。が、たとえ意識しても、一般的に言ってそのことに無関心であって、恐れたり慌てたりすることはない。というのは、死の過程の中ではそうした感情が薄ぼんやりとしているからである。(中略)意識の中枢である霊的本性はむしろ喜びに満ち溢れ、苦痛も恐怖心も超越してしまっている。
 いずれにしても霊がすっかり肉体から離脱し、置かれた状態や環境を正常に意識するようになる頃には、早くも新しい世界での旅立ちを始めている。その旅が明るいものであるか暗いものであるかは人によって異なるが、いずれにしても物質界から霊界への単なる移行としての死は、本人の意識の中には既に無い。
 かつては地上の人間の一人であり、今は霊となった私、ジョン・ピアポント。かつては学生であり、教師であり、ユニテリアン派の牧師であり、そして永年自他共に認めたスピリチュアリストであった私が、霊界側から見た人生体験の価値ある証言の一環として、今「死」について地上の人々にお伝えしているのである。80年余にわたってピアポントという名のもとに肉体に宿っていた私は、その70年余りを深い思索に費やした。(中略)
 以前私は、自分が老いた身体から脱け出る時の感じをこの霊媒を通じて述べたが、その時の感じは喜びと無限の静けさであることをここで付け加えたい。家族の者は私があたかも深い眠りに落ちたような表情で冷たくなっているのを発見した。事実私は睡眠中に他界したのである。肉体と霊体を結ぶ磁気性のコードが既にやせ細っていた為に、霊体を肉体へ引き戻すことが出来なかったのである。が、その時私は無感覚だった訳でもなく、その場にいなかった訳でもない。私は直ぐ側にいて美しい死の過程を観察しながら、その感じを味わった。(中略)自分が住み慣れたアパートにいること、お気に入りの安楽椅子に静かに横たわっていること、そして、いよいよ死期が到来したということ、こうしたことがみな分かった。(中略)
 私の注意は、未だに私を肉体に繋いでいるコードに、しばし、引きつけられた。私自身は既に霊体の中にいた。脱け出た肉体にどこか似ている。が、肉体よりも強そうだし、軽くて若々しくて居心地がよい。が、細いコードは最早霊体を肉体へ引き戻す力を失ってしまっていた。私の目には光の紐のように見えた。私は、これは最早霊体の一部となるべきエーテル的要素だけになってしまったのだと直感した。そう見ているうちに、そのコードが急に活気を帯びてきたように見えた。というのは、それがキラメキを増し始め、奮い立つように私の方へ向けて脈打ち始めたのである。そして、その勢いでついに肉体から分離し、一つの光の玉のように丸く縮まって、やがて、既に私が宿っている霊体の中に吸い込まれてしまった。これで私の死の全課程が終了した。私は肉体という名の身体から永遠に解放されたのである。

 ピアポントは同じ書物の中で一女性の死の過程を記述しているが、霊体の離脱と形体がデービスの記述と酷似している。

 今肉体から脱け出るところである。銀色のコードが緩み始めた。物質的エネルギーが衰え始めたのである。そして霊体が新しい生活環境に備えて形成されていく。真珠色をした蒸気のようなものが肉体から出て薄い霧のように肉体を包み、上昇していき、その出方が激しくなってきた。すっかり形を整え、下に横たわっている婦人とそっくりとなってきた。いまや肉体と霊体とは糸のように細くなったコードで繋がっているだけである。肉体は、見た目には既に呼吸が止まっているかに見える。が、コードが繋がっている限り、まだ死の作業は終わっていない。やがてコードがぷっつりと切れた。そしてエーテル的要素となって霊体の中に吸収されていく。   (同前)

 ピーブルズの霊界通信の中に出てくる一霊魂は、自分の死の過程がすっかり終了するまでにおよそ一時間半かかったという。また、霊体が肉体(の頭部)から出る時は決して霊体が分解されるのではないという。彼は言う。

 他界後私は何十もの死の場面を観察してきたが、霊体は決して分解されて出て行くのではなく、全体が一つとなって頭部に集まり、徐々に出て行くことが分った。出てしまうと自由になるが、肉体から完全に独立するのは、両者を繋いでいる生命の糸が切れた時である。事故などによる急激な死の場合は、かなりの間その糸が切れない。

 ハドソン・タトルはその著『大自然の秘密』の中で、自分が入神状態で観察した死の過程を次のように述べている。

 霊体が徐々に手足から引っ込んで頭部に集結してきた。そう見ているうちに頭のテッペンから後光が現れ、それが次第に鮮明に、そして形がくっきりとしてきた。今脱け出た肉体とそっくりの形をしている。そしてその位置が少しずつ上昇して、ついに横たわっている肉体の側に美しい霊姿を直立させた。一本の細いコードが両者の間に繋がっている。それも次第に萎縮していき、二、三分後には霊体の中へ吸収されていった。これで霊魂は永遠に肉体を去ったのである。

 以上が霊能者ならびに実際に体験した霊魂の観察した死の真相である。読んでお分かりの通り、極めて合理的であり、成る程と思わせるものがある。どの観察記録も完全に一致しており、我々が見る臨終における様子とも一致している。スピリチュアリズムの説く「死」はあくまで自然で、科学的事実とも合致しており、我々はそれが真実であって欲しいと願いたい。というのは、スピリチュアリズムの説く「死」は至って安らかであり、かつて言われてきた死にまつわる恐怖というものを完全に拭い去ってくれるからである。しかもスピリチュアリズムによれば、死はより幸せな、より高い世界への門出である。したがって死の結果の観点からすれば、或は、又、死への準備の出来上がっている者にとっては、死は恐ろしいものではないどころか、むしろ望ましいものでさえある。デービスは「死の哲学」の章のところで、最後にこう述べている。

 私が読者に訴えたいのは、老化による純粋な自然現象による死には何一つ恐れるものはなく、むしろ素晴らしいことばかりだということである。言ってみれば、死は、地上より遥かに素晴らしい景色と調和のとれた社会へ案内してくれる素晴らしい案内者である。地上から一個の人間が去ったからといって、ただそれだけで嘆き悲しむのは止めよう。見た目(肉眼)には冷たく陰気でも、霊眼で見れば、肉体を離れた霊はバラ色の輝きに包まれながら旅立つのである。悟れる者、常に永遠の真理と共に生きる者には『死もなく、悲しみもなく、泣くこともない』のである。
 死期を迎えた者が横たわる部屋を静寂が支配するのは致し方あるまい。が、ついに霊魂が去り肉体が屍となったならば、その時こそ静かに喜び、優しく歌い、心から祝福しよう。何となれば、地上で肉体が滅びる時は、天国に霊魂が誕生する時だからである。

●客観的心霊現象

 これは、その場に居合わせた人の全てが見ることの出来る現象のことで、俗に物理現象と呼ぶことが多いが、心霊写真のように主観的とも客観的とも言いにくいものもある。が、一応ここではフィルムという物体に写ったという意味で客観的と見なして、まずそれから解説し、それから本格的な物理現象へと筆を進めたい。

1心霊写真
『霊の写真』という著書の[まえがき]で著者のトム・パターソンがこう述べている。

 [1962年が霊の写真の第一号が撮れてから百年目に当たることは、一般には知られていない。百年前の1861年にボストンの彫金師ウィリアム・マムラーが友人の写真を撮ったところ、その友人の他に複数の人物像が写っており、それがその友人の親戚や知人であることに間違いないだけでなく、もっと重大なこととして、既に他界した人物ばかりであることが判明したのである。それがたちまち『霊写真』として知られるようになった。
 そもそも写真術が発明されたのは1838年のことであるが、それから僅か23年後に、その写真術を利用した霊界とのコミュニケーションが確立されたことは意義が大きい。それ以来、数にして何千何万という霊の写真が、有名、無名の写真霊媒によって撮られてきた。
 本書で私は、霊の身体から発せられる稀薄な放射線が、丁度太陽などの光線がネガに感光するのと同じように、フィルムに痕跡を残すことが有り得ることを説明したいと思う。]

 この中で『霊の身体から発せられる稀薄な放射線』と言っているところに注目して頂きたい。同じくフィルムに感光していても、普通の写真が被写体の反射光が感光するのに対して、心霊写真の場合は霊自身が発する放射線が感光するのである。それは当然、化学的には異質であるはずで、それを物語る顕著な事実として、フィルムを現像液に浸すと、普通の被写体がゆっくりと浮き上がってくるのに対して、霊的な被写体は飛び出してくるみたいに瞬間的に浮き上がってくることが指摘されている。
 英国の博物学者アルフレッド・ウォーレスは心霊現象の研究でも有名であるが、中でもこの心霊写真現象には格別の関心を寄せ、『心霊と進化と』の中で、かなりの紙面を割いて取り上げている。その最後の部分で次のようなことを述べている。

 [・・・図らずもそれは、他の二人のアマの写真家の成果と共に、これまでに知られていなかった二つの重大な事実を示唆している。
 一つは、霊像の化学線に対する反応の特異性で、普通の映像より遥かに速いことである。それは、現像液に浸してみて分かったことで、霊の姿は瞬間的に出て、普通の人物像はずっと遅れて出た。筆者はプロの写真家のハドソン氏に撮ってもらった三枚の現像作業を直に見せて頂いて、驚いたのである。
 もう一つは、霊の顔や姿全体が白い布状の物質で包まれていることに関してであるが、これは物質化しにくい顔とか姿を物質化し易い波長の物質で包むことによって補助し、同時にその部分を際立たせる効果を狙っているということである。昔話に出てくる『白い布に身を包んだ幽霊』は決して空想ではなく、実際にあった話だったのである。これも、未知の化学的法則の存在を暗示していて興味深い。]
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 ここでいう『白い布状の物質』というのはエクトプラズムのことである。これを化学的に分析したり顕微鏡で観察したりした学者は英米仏だけでも枚挙にいとまがない程であるが、丁度、隕石をいくら細かく分析してもその天体の全体像を知ることは出来ないように、エクトプラズムという半物質体をいくら分析しても、霊的要因は解明出来ない。
 ここでは、霊媒及び列席者から抽出した特殊物質に霊界の化学的成分を混ぜてこしらえるもので、その時の条件次第で濃くも薄くもなる、という程度に理解しておいて頂けばよいであろう。後は霊界の技術者に任されているのである。
 結局、肉眼で見える程濃い場合を物質化現象といい、見えない程稀薄なものがフィルムに感光したものが心霊写真となるわけである。ただ一つだけ大切なことは、先にパターソンが述べている通り、放射性を持っている、言い換えれば、自然発光性を持っている、ということである。

2衣服の瞬間的脱着現象
 これは次のアポーツと同じく、一旦その物体を分解(気化)して移動し、再び物質化するというメカニズムで行われる。それだけの現象ならば昔からよく見られていたようであるが、ハリー・エドワーズが心霊治療家として世界的に知られるようになる前に、ジャック・ウェバーという霊媒を使って丹念に行った物理実験で、その瞬間を見事にカメラに収めている。
 これからその幾つかを『ジャック・ウィバーの霊現象』から借用して紹介するが、その前に、心霊現象を研究する目的と意義についてエドワーズが述べていることを『前書き』から引用しておく。

 [『死後の存続』の事実を疑問の余地のないまでに証明することは、人類にとって計り知れない価値を有する。この地上生活がさらに一段上の明るい生活への準備段階であり、そこには本質的に今と変わらない個人としての生活があり、したがってこの世での行いがその位置づけをすることになるとの認識が得られれば、おのずとこれまでの生活規範に改革を迫られることになろう。
 この打算的で詮索好きな人間の多い時代に垢抜けのした人生哲学を築くには、余程確固とした証明可能な土台が必要である。今日の文明機構は一宗一派による宗教的打算の上に成り立っており、不正が横行し、それが戦争を生み、革命を起こし、人間的な不幸へと繋がっていく。過去における平和への努力は、詰まるところ宗教的打算の上で行われてきたのであり、それは、当然のことながら失敗に終わっている。
 本当の平和、真の四海同胞は、人生の意義と目的とを説く確固たる知識に基盤を置く、強力な霊的勢力をバックにしたものでなくてはならない。それによって偏見が影を潜め、一般の人々が死後存続の意義の重大性に目覚めれば、人類の文明はますます霊的価値を伴ったものとなり、社会的規範も、経済的観念も、国家的慣習も、さらには国際的通念も大々的に再構築を迫られ、人間的努力は詮ずるところ、人類全体としての平和的で協調的な霊的進化の為に為されるべきであるとの理解に立って、生活を発展させていくことになるに相違ない。
 言い換えれば、究極の目的は、世の中全体をスピリチュアライズ(霊的に浄化)することであらねばならないのである。]
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 次に紹介するのは心霊研究家B・A・コリンズ氏の取材記事である。

 [私はここで、他に類を見ない、説明不可能な現象を紹介したい。それは、ウェバー氏の上着が一瞬のうちに脱がされ、再び一瞬のうちに着せられるというもので、その重大性を認識して頂く為に、その過程を簡単に説明しておこうと思う。
 ウェバー氏は身体にピッタリの普段着のスーツを着ている。その上着の打ち合わせ部分を列席者の一人が、ごつい糸で縫い合わせてしまう(写真2)、それから椅子に腰掛けると、今度はロープで縛られた。まずロープの真ん中辺りを椅子の背もたれに結びつけてから、左右の腕と脚をそれぞれ椅子の肘掛けと脚の部分に縛り付けた。左右を別の人が行った。腕も脚もぐるぐる巻きにしながら、何カ所かに結び目をつくり、最後に左右のロープの先端を結び合わせて、その結び目をさらに糸で縫い付けてから、封印をした。
 それが完了すると、ウェバー氏の左右の座席の人がウェバー氏の両手を握る。すると、自ら支配霊と名乗るブラック・クラウドという霊が、ウェバー氏の口を使って、これから上着を脱がせる、と言う。
 そこで照明が消される。そして、ほんの少し間を置いてから、また明りをつけるようにとの要請があって、スイッチが入れられる。見ると、ウェバー氏は前と同じ格好で縛られているが、上着がないのである。
 その上着は本人の膝の上にあったり、列席者の膝の上にあったりする。が、いずれにしても打ち合わせ部分は縫い合わされたままである。
 列席者全員が得心のいくまで点検し終わると、ブラック・クラウドが、これから上着を着せる、と言う。そこで左右の者がウェバー氏の両手を握る。そしてライトが消される。消えたと思った次の瞬間に、ブラック・クラウドからライトをつけるようにとの要請がある。そこでライトがつけられる。見ると、ウェバー氏は相変わらず両手を押さえられた状態で椅子に腰掛けているが、今度は元通り上着を着ている。
 魔術ではない。となると、一体いかなる原理で行われるのであろうか。唯一考えられる説は、上着が何らかの方法で『分解』されて、非物質の状態になったということである。そうしないと、上着という物質がウェバー氏という物質を貫通したことになる。
 いずれにせよ、一部の人が言うような、目に見えなくなる『擬態の上着』などで説明できる現象ではない。]

3物品引き寄せ現象(アポーツ)
 この時の実験会は、1938年11月8日に『公開』で行われた。出席したテンプル・オブ・トルース教団の会長ジェームズ・シング氏が次のように証言している。

 [子供の背後霊パティとエドワーズ氏とのやり取りー
パディ「壁やドアを貫通して物品を引き寄せることをお見せする為に、この部屋に何か引き寄せてみたいと思います」
エドワーズ「是非見せてもらいたいね」
パディ「何かいいものがないか見てきます」
 (二、三分後)
パディ「隣の部屋に長い足をした小鳥が置いてありますね?」
エドワーズ「ああ、ありますよ。あれはツルという鳥でね、真鍮で出来ているんです」
パディ「あれを引き寄せてみます。霊媒の身体を通過させないといけないんです」
 (二、三分後。カメラの用意が出来る)
ブラック・クラウド「シャッター切って!」
 (シャッターを押すと、ほぼ同時に床に物が落下する音がする)
ブラック・クラウド「明かりをつけて!」
 (明かりをつけてみると、真鍮のツルが隣の部屋から運び込まれて、床の上にある)
ブラック・クラウド「写真が上手く撮れていれば、そのツルがエクトプラズムの状態で霊媒の身体から出てくるところが写っているはずです」
全ての窓、全てのドアがロックされ、一度も開けられていない。以上の現象の記述に相違ないことを証言する。
                                 ジェームズ・シング]

 エドワーズ氏の解説ー

 [この時の写真は三枚焼き付けてある。3の上が撮影したままの写真で、みぞおちの辺りに例の鳥とエクトプラズムが見える。下はその部分の拡大写真。4は引き寄せられた品の数々。
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 シング氏の報告を見ても分かる通り、このアポーツ現象は前もって予告した上で行われたことに注目すべきである。まずパディが、これからこうしようと思うと述べて、確かにその通りになり、次に支配霊のブラック・クラウドが写真にはこう写っているはずだと述べて、確かにその通りに写っていた。この辺りに、人知を超えた法則を見えざる知的存在が運用していることを示す、見事な証拠を見ることが出来る。
 真鍮のツルは高さ五センチ、重さ六十グラム足らずのものであるが、それが現実に壁とドア、もしくはそのいずれか一方を通過して部屋から部屋へと持ち込まれたわけである。その為には、音声がレンガ塀を通過するように、真鍮が個体を貫通する程の高い波動状態に一旦分解されたに違いない。その波動状態で霊媒の身体を通過し、身体から出ると同時に再び物質化されたのである。その、いよいよ身体から出る瞬間のエクトプラズムの状態というのが、他の物質化現象の場合と同じく、この物質化の際に、最も重要な要素であることに疑問の余地はない。
 アポーツの現象がある時は、ウェバー氏はその数時間前から腹部が張ってくるのが常で、それで今日はアポーツがあるなと思うという。その日もそうした兆候が出ていたので、実験室に入ってから椅子に縛り付けられる前に、十一人の列席者全員が見ている前で、レギュラーメンバーの一人とロンドン警視庁の代表一人に身体検査をするように依頼した。検査が終わると直ぐ、その場で椅子に腰掛け、ロープで縛られた。縛る時の様子は、赤色ライトがついていたので全員によく見えた。
 やがて複数のメガホンが浮揚して回り始めた。これも赤色ライトでよく見えた。そのうちの一本が霊媒のところへ来て、大きい口の方を太陽神経(みぞおち)の辺りに向けると、何かがその中に落ちるような音がした。そして今度は私のところへ来て、中のものを取り出すように言う。手に取ってみると、エジプトの飾りものだった(4上)。
 一、二分して再びそのメガホンが霊媒のみぞおちのところへ行くと、また何かが落ちる音がした。そして、今度は別の人のところへ行って、中のものを取り出せと言う。取り出してみると、石仏だった(4中央)。
 これらを見れば分かるように、その大きさからして、身体検査でベテランの目を誤摩化せるものではない。しかも十一人の列席者が見ている前で縛られ、さらに直前まで猛スピードで回転していたメガホンが、スピードを落として、すーっと霊媒のところへ来て、そこで物品を受け取るところも全員が目撃し、そしてその音まで聞いているのである。]



 別の資料より、エクトプラズムの写真
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4 物体の浮揚現象
 写真5と6はテーブルが浮揚しているところである。いずれの場合もテーブルは霊媒の位置からかなり離れている。すぐ近くに見えるのは、正面から撮った為である。
 5のテーブルは約二十キロで、光沢がある。『カサンドラ』のペンネームを持つデイリーミラー紙の記者は、交霊会の終了後に自分で持ち上げてみたが、上がらなかったという。
 霊媒が腰かけているクッションの凹み具合に注目してみると、その違いが分かる。これは浮揚した物体の重量は霊媒に掛かるというクローフォード博士の説を裏付けている。
 6ではサンデーピクトリアル紙のバーナード・グレイ氏の前にテーブルが見える。グレイ氏がやや前屈みになっているのは、その直前にテーブルが氏の頭部や肩の辺りで『踊っていた』からである。
 別の実験では、浮揚しているテーブルの周りを、同じく浮揚したメガホンがトントンと叩いて回ったことが何度かある。テーブルが本当に浮いていることを示す為である。
 なお、クローフォード博士は機械工学の専門家であるが、1917年から四年間も、家族全員が霊媒能力を持つゴライヤー家の六人、いわゆる『ゴライヤーサークル』を実験対象とした研究で数多くの心霊法則を科学的に立証している。その一つが、浮揚した物体の重量の58%が霊媒に掛かり、残りは列席者その他に掛かる、というものだった。
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 5 メガホン現象
 心霊評論家コリン・エバンズ氏の報告ー

 『1939年2月27日、日曜日。私はジャック・ウェバーによる物理実験会に出席した。
 列席者の中で霊媒と個人的に通じ合えそうな人物、或は霊媒と共謀詐術をしそうな間柄の者といえば、エドワーズ氏と、ウェバー氏の義父(奥さんの父親)の二人だった。
 そこで二人は霊媒から一番遠く離れた位置に席を取ってもらった。私は霊媒から四つ目の、ドアの側に席を取った。今回は赤色光も使用せず、暗闇の中で行われた。
 私は霊媒の腕と足首の縛り具合を特に念入りに調べた。二人の男性が縛ったせいで、結び目の固さとロープの締め具合はまずもって奇術的なトリックの入る余地はなく、一度抜けたら二度と元通りには戻せないと思われた。ロープが皮膚にかなり食い込んでいる。しかも足首がしっかりと椅子に縛り付けられているので、両手足とも関節から上の筋肉は絶対に動かせない。
 さらに私は、それと気づかれないように、二本のロープが前腕の下で交差している部分の、その交差の角度を正確に見届けておいた。仮に霊媒がその腕を抜いて再び元通りに突っ込んでも、その交差角度を正確に元のままに留めておくには、目で見ながら両手を使わないことには、絶対に出来ない。霊媒一人では照明下でも出来ないし、他の誰かが手を貸すにしても、暗闇の中では不可能である。
 霊媒が椅子に縛り付けられるに先立って、霊媒の上着の打ち合わせ部分がぴったりと縫い合わされた。これを脱ぐには、仮に両手が自由に使えても、まずその縫い目を解かなくてはならない。わたしはその縫い目を細かく点検し、その念の入れ具合を確認した。縫い合わせた糸の余りを何個かのボタンに巻き付けてあり、縫い目を解こうとすれば糸が切れる仕掛けになっている。実験の終了後にその縫い目をハサミで切り解くのにも、数分を要している。
 さて、ライトを消すと同時に、二本のメガホンによる最初の現象が起き始めた。『同時に』というのは、高速度カメラをいじくったことのある私の判断では、十分の一秒程度の間隔と思って頂けばよい。長さ二フィート程のメガホンには、暗闇でも見えるように蛍光塗料がたっぷり塗ってあり、霊媒が手を伸ばしても届かない位置に置いてあった。
 まずその内の一本がすごいスピードで上昇し、一瞬の間隔を置いて、もう一本も上昇して、二本が一緒に動き回る。その動きの方向、角度、小さい方の口(ここには塗料は塗っていない)の位置等が他の部分の塗料の輝きで明瞭に確認出来た。
 二本はまず広い方の口を上にして三フィート程上昇し、そこで水平になり、小さい方の口を霊媒の方向へ向けたまま、霊媒から七、八フィートの間隔の所で自在な動きを見せる。時にはくるっと向きを逆にして、広い口を霊媒の方へ向けることもあったが、これはいかなる道具を使っても人間業では絶対に出来ない芸当だった。
 その間、私も含めて列席者全員が身体のどこかを何べんもメガホンで叩かれた。はっきりと感じる程叩かれた。私も頭と胴を叩かれた。会の後半には十二、三フィートもある天井まで上昇して、その中心部を叩いたり左右に分かれて壁を叩いたりした。その時の両者の距離と高さを考えると、人間がたとえ自由に動いて椅子とか台を使っても、一人では絶対に出来ない芸当だった。
 現象が起きている最中に度々『ライト!』の声がして、即座にスイッチが入れられた。明るくなった部屋で、メガホンが相当なスピードで床へ向けて降下するのが見えた。支えを失って落下するのではない。そして、床に降りても少しの間(時には三十秒程も)軽い動きを続けている。惰性で転がっているのではない。広い方の口を下にして、ピョンピョンと跳び回ったのである!
 そういう調子で突然ライトがつけられる度に霊媒に目をやったが、相変わらずロープでしっかりと縛られていて、結び目にもロープの交差の角度にも変化がなく、入神中の霊媒によく見かけられるように身体をよじることもしないことが確認された。その状態の中で、一秒の何分の一かのスピードでメガホンが動き回ったのである。』
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 6 霊の物質化現象
 残念ながらジャック・ウェバーの実験会では、資料としての利用価値のある物質化現象は起きていない。手先だけの物質化といった小さいものはあったようであるが、それも写真には撮れていない。こうしたことは霊媒の体質にもよるし、霊界の技術者の得意・不得意もあり、サークルの状態にもよるので、なぜかを一概に言うことは出来ない。
 近代における物質化現象、特に実験を目的とした交霊会での現象で有名なのは、何といってもウィリアム・クルックス博士による実験会に出現したケーティ・キングと名乗る女性霊の物質化現象で、博士が世界的に有名な科学者であったことと、44枚もの写真にその霊姿が収められたことで、世界的な話題となった。
 博士は19世紀半ばから20世紀初頭にかけて世界的にその名を轟かせた、生化学・物理学の権威である。三十歳で名誉ある王立協会員に選ばれ、その後は同協会、化学協会、電気技術者協会、英国学術協会等の会長を歴任している。 学者としての業績をみても、タリウムの発見、スピリサリコープ、クルックス管等の発明、学術誌『ケミカルニューズ』を創刊、季刊誌『クォータリー・ジャーナル・オブ・サイエンス』の編集長を務めるなど、押しも押されもしない第一級の学者としての地位を築いていた。1897年にはナイト爵に叙せられ、卿(サー)の呼称を許されている。
 それほどの人物だっただけに、博士が心霊現象を本格的に研究してみると公言した時の反響は大きかった。博士を科学界の大御所として尊敬してやまなかった人達の間には、失望と動揺が広がった。特にフランスのノーベル賞学者シャルル・リシェとポーランドの心理学者ジュリアン・オショロビッツは「博士ともあろうお方が何ということを!博士は大変な過ちを犯された」と思って落胆したという。
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 一方、ジャーナリズム界はこぞって博士の勇気ある選択を賞賛した。が、その賞賛の裏には、これで心霊現象のペテンが暴かれるであろうとの一方的な期待があった。そして、その期待は見事に裏切られることになる。博士の研究結果は心霊現象の実在を100%肯定する内容だったからである。
 それに対する反応は様々だった。王立協会はその研究報告を協会の機関誌に掲載することを拒否した。ジャーナリズム界は「誰か別の人にもう一度研究してもらわないと・・・」と妙な言い訳をした。そして科学者の中には、自らも霊媒を使って実験してみる人が続出した。リシェとオショロビッツも参加した。そして、後に二人とも『パーテル・ペッカビ』(神様、私が間違っておりました)という懺悔の言葉を吐いている(リシェ『心霊研究三十年』)。
 私が博士の研究を格別に重要視するのは、このように博士の態度に思い込みの偏見がなく、真に学者的で正々堂々としていたこと、その研究成果を、学者としての名声への影響を案ずることなく、有るがままを学界誌『クォータリー・ジャーナル』に連載して批判を仰いだこと(それが後に『スピリチュアリズムの現象の研究』として刊行された)、この二つの他に、次の事実を重大視するからである。
 それは、四年間にわたって何度も出現していたキング霊が、ある日
 「これで私の使命も終わり、もう一段高い世界へ参りますので、これ以後は二度と出られなくなります」
と言い残して消えたきり、その言葉通り、二度と姿を見せることがなかったことである。なぜそれがそんなに重大なことなのか。

●計画性と秩序
 それを説明するには、そもそもスピリチュアリズムとは何かを解説しなければならないが、それは次章で本格的に扱うことにして、とりあえずここでは、過去幾十世紀もの間に繰り返されてきた人類同士の闘争と、それに伴う環境破壊、長年にわたる敵対感情(怒り・怨み・憎しみ)が生み出す悪想念が地球のオーラを著しく汚染している由々しい事態に鑑みて、これに歯止めをかけると同時に、人間本来の霊性に目覚めさせるー英語で言えばスピリチュアライズするーことを目的として、地球規模の大霊団が組織され、地球神界からの指令によって人間生活のあらゆる側面ー宗教・科学・政治・医学等々ーの浄化活動が推進されている、というふうに認識して頂けばよい。
 そうなると、当然そこには計画性と秩序の存在が予想される。ケーティ・キングが「これで私の使命は終わりました」と述べたことは、キング霊はその大規模な計画の一端を担って出現していたことを物語っている。情的な願望から勝手に出て来たのではなかったということである。当時の科学界を代表する第一級の学者との取り合わせは、スピリチュアリズム史上のみならず、人類史上における圧巻といってよいであろう。紹介した写真はそれをいみじくも象徴しているように思える。
 このことに関連してもう一つ言わせて頂きたいのは、この計画性と秩序というものを物差しとして心霊界の動きや産物を判断すれば、大体その本性、つまり本物か偽物かの見分けがつくということである。
 例えば、高級霊団の支配下で仕事をする霊媒や霊能者が、常識を超えた法外な金銭を要求するものだろうか。教祖や幹部が男女間のモラルに反することをやっていて、それを高級霊団が見逃すものだろうか。神話や伝説の人物や歴史上の著名人が次々と出現して、原稿用紙にして何枚にもならない、しかも支離滅裂なことを、ペラペラと喋るものだろうか・・・そう判断していけばよいのである。

[人生は本当の自分を探すスピリチュアルな旅]より



 ●主観的心霊現象

 これは第三者にはその実体が分からず、本人のみが見たり聞いたりする現象のことで、次のようなものがある。

1 霊視・霊聴
 霊視は、言うまでもなく肉眼に映じないものが見える現象ないし能力のことで、それも次元の違いから二種類に分類することが出来る。
 一つは透視現象と呼ばれるもので、密閉した容器の内容物を見抜いたり、封書の中の文章を目隠しをしたまま読み取っとりする。これは五感の延長線上にある能力で、その場に存在しているが肉眼には映じないものが見える場合に限られる。譬えてみればX線やレントゲン線などと同じと思えばよい。
 これが、その場に存在せず、はるか彼方のものや、時には海を隔てた場所での出来事が見えたり分かったりする場合には、それを見せてくれる、或は教えてくれる何者かがいるものと判断される。その何者かは霊的存在すなわちスピリットであり、そういう場合は霊的次元での現象であることから、これを霊視現象と呼んでいる。
 その顕著な例として西洋でよく引き合いに出されるのが、スエーデンボルグが1759年にゴーテンベルグに滞在中に、三百マイルも離れたストックホルムでの大火を霊視して、その場に居合わせた十五人の人に語ったという話である。ドイツの哲学者カントもその中にいて、その事実を検証して真実であることを確認している。

 次に『霊聴』というのは、周りの人には何も聞こえないのに、その人だけが、あたかも肉耳で聞いたみたいに鮮明に『声』を聞く現象のことである。残念ながらこれには紹介するほどの顕著な体験話は、西洋にも日本にも見当たらない。しかし、私見によれば、案外この霊聴が日常生活の中で一番頻繁に起きているのではないかと思う。多分、それを人に話しても気のせいにされるに決まっている、との考えが先に立つのではなかろうか。

 こうした体験はあくまでも主観的であり、それを実証するものが結果となって現れないので、よくよく理解のある人にしか喋れないことになる。


2 幽体離脱(体外遊離)
 地上を見て回るだけのもの、つまり三次元世界に限られたものと、幽界や霊界といった高次元の世界を探訪して帰ってくるものとの、二種類に分けられる。
 三次元世界の見学だけで終わるものは肉体に宿っての旅行と同じで、感覚的に慣れていることばかりなので、肉体に戻ってからの回想に混乱が少ない。実を言うと我々は、特殊なケースを除いて、毎晩のように幽体離脱を体験しているのである。ただ、戻ってからその間の体験の記憶が脳に感応しないだけのことである。
 が、多分大半の方が体験しておられると思うが、旅行先などで「おや、ここは一度来たことがあるみたい」とか、「この場面はどこかで見たことがある」といった感じを抱かれたことがあるはずである。それは、夜の間に訪れて見ていた記憶が、何かのきっかけで脳に甦ってきたのである。
 それを『前世』と結びつけて大げさに説く人がいるが、前世のチャネリングなどというものは、現在の人類の進化の段階では、たとえ霊能者を自称する人でも不可能と思ってよい。
 なお、遊離している間は『玉の緒(たまのお)』([魂の緒]とも)で肉体と繋がっている。死とは脳死か心臓停止かが今医学会の論争の的になっているが、この『緒』が切れた時が本当の死である。まさに命の綱なので英語では『ライフコード』と呼ぶが、霊視すると銀色に輝いて見えるので『シルバーコード』と呼ぶ人もいる。
 これは半物質体で極めて柔軟性に富み、いくらでも延びる性質があるが、昼間の出来事などで精神的に緊張したり悩み事があったりすると、玉の緒が硬直して肉体から殆ど離脱出来なくなる。そこでウツラウツラとして熟睡出来なかったり、不眠症になったりする。
 さて、これが高次元世界への探訪となると、色々と複雑な問題が生じてくる。何しろ次元が異なる為に、それを脳という三次の意識中枢で回想する際に、どうしても歪みが生じる。
 であるから、幽体離脱の体験話や、最近話題になっている『臨死体験』なども、見えた通りがそのまま死後の世界の現実と思ってはならない。それはあくまで、その体験者の脳の独自の解釈なのである。人間の意識は常に脳という三次元の媒体を通過していることを忘れてはならない。
 もう一つ別の角度から説明すると、我々はよく『太陽は東から昇り西に沈む』という言い方をするが、これはあくまでも地上に足を置いた見方であって、太陽に足を置いて地球を眺めれば、地球の方が太陽の周りを回っている。『コペルニクス的転回』というのはここから出たわけであるが、だからといって地球上に住んでいる者にとっては、やはり太陽は東から昇って西に沈んでいるように見えるし、そう表現する以外に方法がない。それは一種の『錯覚』であるが、要はそれに囚われて実相を忘れてしまわないことである。
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3 霊言
 これは『霊が語る』現象のことで、太古に遡る程頻繁に行われていたはずである。ギリシャのデルフォイ(デルポイ)の神殿における『お告げ』は、世界史においても有名であるが、最近賑やかな話題を呼んでいる『魏志倭人伝』に出てくる邪馬台国の卑弥呼も、私は典型的な、しかもかなり高級な霊言霊媒だったと推察している。その道の専門家・安本美典氏の現代語訳を拝借するとー。

 [一女子をたてて王となす。名づけて卑弥呼という。鬼道につかえ、よく衆をまどわす。年はすでに長大であるが、夫婿(ふせい)はない。弟があって、たすけて国を治めている。王になっていらい(その姿を)見た者はいない・・・。]

 鬼道につかえてよく衆をまどわせたというのは、霊的現象を起こして民衆を唖然とさせた、という意味であろう。祭政一致の時代には『神が宿って語る人物』として敬われ、かつ畏れられた。それは同時に『清浄』を必要とするものという観念も付随し、男性を近づけず、人民にも滅多に姿を見せなかったことが、この引用文からも窺われる。
 しかし、霊界には神や菩薩ばかりがいるわけではない。地上界に極道や悪徳商人がいるように、地上界のことに関わりたがっている霊にも、無知な低級霊や邪悪な企みをもった者がいくらでもいる。しかも、霊媒的素質をもった人間は身分の上下や人格に関わりなく存在するから、民間でも、俗にいう『お告げ』を聞く集まりが毎晩のように行われていたはずである。
 そして、それはこの二十世紀の現代でも同じなのである。私の推察では、日本でも恐らく『万』の単位の数の屋根の下で、毎晩、何らかの形での『交霊』の催しが行われているものと見ている。が、その99%までが、些細な悩み事や商売上の運勢・吉凶についてのご託宣だったり、他界した肉親からの『生の声』だと言われて、そう信じて有り難がったり泣いて喜んだりしている程度のものばかりである。そこには魂を高揚させるものは欠片もない。
 時代と民族の壁を超えて世界に通用する霊言といえば、何といっても『シルバーバーチ』の霊言が筆頭にあげられるであろう。世界十数カ国語に翻訳されており、第二次大戦中、欧米の兵士の中にはこれを座右の書として、最前線でも肌身離さず持ち歩いた人が少なくなかったという。その品の良さ、叡智の輝き、重厚味は空前絶後といってよく、私も未だにこれを凌ぐものを見出せずにいる。
 ところが、そうこうしているに、最近日本でも『シルバーバーチと語ろう』などという宣伝文句で金儲けを企む者が現れ始めた。創作霊言を出す者がいるかと思えばモノマネ霊言で客集めをする者がいたりで、日本の心霊界も今や大道芸人時代の観を呈するに至った。用心が肝要である。

4 自動書記
 霊が『書く』現象のことで、これには三通りある。一つは無意識[入神(トランス)]状態になった霊媒の腕、ないしは、書く能力を司る脳の部位を操って書く場合。
 二つ目は通常意識の霊媒にインスピレーションを送って、それを受け取った霊媒が反射的に綴っていく場合。霊感書記と呼んでいる。この場合、我々が物を考えて書くという普段の行為と同じで、ただその『考え』が霊からのインスピレーションであるという点が異なるだけである。
 三つ目は、直接書記といって、鉛筆なりペンなりを用紙の上に置いておくだけで、いきなり綴られるもの。スレートライティングといって、二枚のスレート(石板)を合わせたものを霊媒が手に持っていると、カサカサという音がして、聞いてみると通信文が書かれているという現象も、この部類に属する。これには大変なエネルギーを要するらしく、長文の通信や内容が高度なものは得られていない。
 こうした現象のメカニズムを分析してみると、手段は色々あっても、所詮は霊が人間界に意志ないしは思想を伝えるというだけのことであって、霊言と同じであるばかりでなく、極端に言えば我々人間同士の手紙のやり取りや電話での対話と同じものなのである。
 となると、霊言のところで述べたように、綴られたものが果たして『霊』から伺わねばならない程のものなのかどうか、魂を高揚するものがあるかどうかが問題となってくる。霊からの通信に価値があるとすれば、それは唯一、ちょうどコペルニクスが地球から太陽へと視座を飛躍させたことによって、それまでの思索のもつれが一度に解けたように、チマチマした人生観に代わって、気宇壮大なる生命哲学を授けてくれることになる、と私は信じている。
 三十年余りにわたって日本はもとより世界の霊的文献を渉猟してきた私が、これこそは折紙をつけられるものを挙げるとすれば、霊言では何といっても『シルバーバーチの霊言』で、英国のサイキック・プレスから第一期十二巻、第二期五巻となって発行されていて、80年になんなんとする今でもロングセラーを続けている。
 自動書記では、インペレーターと名乗る2500年前の、旧約聖書時代の霊を中心とする複数の霊が、ステイントン・モーゼスという元キリスト教の牧師の手を使って綴った『霊訓』、それに、同じく元牧師のジョージ・オーエンを通して霊感書記で綴った『ベールの彼方の生活』全四巻が、内容の高尚さとスケールの大きさからいって、筆頭に挙げねばならないであろう。
 主観的な心霊能力にはこの他にサイコメトリといって、ある物体を手に持つだけでそれにまつわる事情、例えばその持ち主に関する情報とか遍歴のあとが、それこそ手に取るように分かる能力、それから水晶球を凝視することによって予知とか占いをする能力とかがあるが、メカニズムは霊視現象と同じなので、ここでは省く。

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