では次に、その点について霊界通信はどう述べているかを見てみよう。高級霊が述べていることも、必ずしも完全に一致しているわけではない。が、数多くのスピリットからの通信を検討した結果、およそ次のようなことが言えるようである。
この地上を去って霊界入りしたスピリットより更に霊格の高いスピリットが存在する。それにも幾つかの界層がある。古い宗教用語を用いれば〝天使(エンゼル)〟である。その界層を上り詰めた所に最高級のスピリットが存在する。絶対神ではない。絶対的存在ならば無限の普遍的存在であるから、一個の存在として認識することは出来ない。
その最高級霊はそれ以下の存在よりは絶対神に近い存在であるから、それだけ絶対神の属性を顕現していることになる。それが〝キリストのスピリット(注)〟である。地球の守護の任をあずかる存在で、その高級霊が今日とあまり変わらない邪悪に満ちた時代-腐敗と悪行で堕落し切った時代に、この地上に肉体をもって降誕した。目的は人間としての理想と生き方の範を示す為だった。そして、大きな足跡を残して地上を後にし、本来の所属界へと戻って行った。
以上が霊界から届けられた情報によるキリストの実像である。〝贖罪〟とか〝救い〟とかの概念は微塵もない。あるのは、我々凡人にも実行可能な、納得のいく生活教訓である。これなら私も信じられる。
もしもこうしたキリスト教観が一般に受け入れられ、更に、次々と霊界から届けられている〝新しい啓示〟によって確信が得られ、更に〝しるし〟によって確認が得られれば、キリスト教会を一つに纏める教義が生まれ、それは科学とも握手し、いかなる攻撃にも対処出来る、無窮の未来までも永続する信仰体系が確立されるであろう。
理性と信仰が遂に和解し、うなされ続けた悪夢から解放され、霊的な安らぎに満たされることになるであろう。もとより私は、それが一気呵成の征服や無謀な革命のような過程で成就されるとは考えていない。永遠の地獄説のような幼稚な考えが薄れて行くにつれて、徐々に滲透していく性質のものであろう。が、それには、人間の魂が艱難によって培われて均(な)らされるということが先決であって、その時初めて真理の種子が植えられ、それが霊的な実りをもたらすのであろう。
私はスピリチュアリズムの知識に照らしながら新約聖書を改めて読み直してみて、キリストの教えの肝心なところが、初期キリスト教時代に既に失われてしまっていて、その後のキリスト教徒が、今日に至るまで、それについて何も知らずにいることを知り、深く考えさせられた。現代に伝えられているキリスト教思想においては、スピリチュアリズムが扱っている〝死〟の真相を教える現象は大して意味をもたないようである。が、スピリチュアリズムの勃興以来、霊媒現象を通じて得られたものによって死後の実相を垣間見た者にとっては、死の問題は完全にクリアされたといってよい。
(注)-The Christ Spirit 元来、〝キリスト〟という用語はヘブライ語〝メシア〟のギリシャ語訳〝クリストス〟から来たもので、その本来の意味は〝油を注がれた人〟、つまり偉大な人格を具えた人物、ということだった。流浪の民ユダヤ人は、イエスの驚異的な能力、所謂〝しるしと不思議〟を見て、この人こそ我々が求めていた神の申し子だと信じて Jesus the Christ と呼んだ。そこから救世主の概念も生まれたのであるが、このパターンは太古においてはどの民族にもあったことである。
しかし、この〝ナザレのイエス〟に限って、それだけでは済まされない特殊な事情があったことが、新しい啓示によって明らかになってきた。つまりイエスは〝スピリチュアリズム〟という名称を旗印とする地球浄化の大事業の最高責任者で、本来の所属界は地球神界であり、その計画の推進に備えて文字通り〝身〟をもって地上界に降誕し、物的波動の環境での体験を積んで本来の所属界へ戻った。三十三年の生涯はいわば〝下見〟と〝霊力の増強〟という二つの目的があったと考えられる。
その意味からも〝はりつけ〟による死を殊更意味ありげに説くのはおかしいのである。どういう死に方でもよかった。現に、イエスは実は十字架上では死なずに、その後何年かを生き延びたという説が幾つもあるのである。大切なのは、大工の家に生を享けたイエスは、地球神界でも最高位に位置する大天使が自己を滅却し、波動を極度に下げて物的身体に宿ったもので、霊格は途方もなく高かったが、やはり一人間だったということである。
地上に降誕した高級霊の中でも、イエス程の高い霊格を具えたスピリットはそれ以前にもそれ以降にもいないし、これからも出ないというのが、高等霊界通信の一致した言い分である。ドイルのいう〝キリストのスピリット〟とは、イエスの本来の霊的影響力のことであって、教会で見かけるような人間的形体を具えた人物像を想像してはならない。
この地上を去って霊界入りしたスピリットより更に霊格の高いスピリットが存在する。それにも幾つかの界層がある。古い宗教用語を用いれば〝天使(エンゼル)〟である。その界層を上り詰めた所に最高級のスピリットが存在する。絶対神ではない。絶対的存在ならば無限の普遍的存在であるから、一個の存在として認識することは出来ない。
その最高級霊はそれ以下の存在よりは絶対神に近い存在であるから、それだけ絶対神の属性を顕現していることになる。それが〝キリストのスピリット(注)〟である。地球の守護の任をあずかる存在で、その高級霊が今日とあまり変わらない邪悪に満ちた時代-腐敗と悪行で堕落し切った時代に、この地上に肉体をもって降誕した。目的は人間としての理想と生き方の範を示す為だった。そして、大きな足跡を残して地上を後にし、本来の所属界へと戻って行った。
以上が霊界から届けられた情報によるキリストの実像である。〝贖罪〟とか〝救い〟とかの概念は微塵もない。あるのは、我々凡人にも実行可能な、納得のいく生活教訓である。これなら私も信じられる。
もしもこうしたキリスト教観が一般に受け入れられ、更に、次々と霊界から届けられている〝新しい啓示〟によって確信が得られ、更に〝しるし〟によって確認が得られれば、キリスト教会を一つに纏める教義が生まれ、それは科学とも握手し、いかなる攻撃にも対処出来る、無窮の未来までも永続する信仰体系が確立されるであろう。
理性と信仰が遂に和解し、うなされ続けた悪夢から解放され、霊的な安らぎに満たされることになるであろう。もとより私は、それが一気呵成の征服や無謀な革命のような過程で成就されるとは考えていない。永遠の地獄説のような幼稚な考えが薄れて行くにつれて、徐々に滲透していく性質のものであろう。が、それには、人間の魂が艱難によって培われて均(な)らされるということが先決であって、その時初めて真理の種子が植えられ、それが霊的な実りをもたらすのであろう。
私はスピリチュアリズムの知識に照らしながら新約聖書を改めて読み直してみて、キリストの教えの肝心なところが、初期キリスト教時代に既に失われてしまっていて、その後のキリスト教徒が、今日に至るまで、それについて何も知らずにいることを知り、深く考えさせられた。現代に伝えられているキリスト教思想においては、スピリチュアリズムが扱っている〝死〟の真相を教える現象は大して意味をもたないようである。が、スピリチュアリズムの勃興以来、霊媒現象を通じて得られたものによって死後の実相を垣間見た者にとっては、死の問題は完全にクリアされたといってよい。
(注)-The Christ Spirit 元来、〝キリスト〟という用語はヘブライ語〝メシア〟のギリシャ語訳〝クリストス〟から来たもので、その本来の意味は〝油を注がれた人〟、つまり偉大な人格を具えた人物、ということだった。流浪の民ユダヤ人は、イエスの驚異的な能力、所謂〝しるしと不思議〟を見て、この人こそ我々が求めていた神の申し子だと信じて Jesus the Christ と呼んだ。そこから救世主の概念も生まれたのであるが、このパターンは太古においてはどの民族にもあったことである。
しかし、この〝ナザレのイエス〟に限って、それだけでは済まされない特殊な事情があったことが、新しい啓示によって明らかになってきた。つまりイエスは〝スピリチュアリズム〟という名称を旗印とする地球浄化の大事業の最高責任者で、本来の所属界は地球神界であり、その計画の推進に備えて文字通り〝身〟をもって地上界に降誕し、物的波動の環境での体験を積んで本来の所属界へ戻った。三十三年の生涯はいわば〝下見〟と〝霊力の増強〟という二つの目的があったと考えられる。
その意味からも〝はりつけ〟による死を殊更意味ありげに説くのはおかしいのである。どういう死に方でもよかった。現に、イエスは実は十字架上では死なずに、その後何年かを生き延びたという説が幾つもあるのである。大切なのは、大工の家に生を享けたイエスは、地球神界でも最高位に位置する大天使が自己を滅却し、波動を極度に下げて物的身体に宿ったもので、霊格は途方もなく高かったが、やはり一人間だったということである。
地上に降誕した高級霊の中でも、イエス程の高い霊格を具えたスピリットはそれ以前にもそれ以降にもいないし、これからも出ないというのが、高等霊界通信の一致した言い分である。ドイルのいう〝キリストのスピリット〟とは、イエスの本来の霊的影響力のことであって、教会で見かけるような人間的形体を具えた人物像を想像してはならない。