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カテゴリ: ★『コナン・ドイルの心霊学』

 では次に、その点について霊界通信はどう述べているかを見てみよう。高級霊が述べていることも、必ずしも完全に一致しているわけではない。が、数多くのスピリットからの通信を検討した結果、およそ次のようなことが言えるようである。
 この地上を去って霊界入りしたスピリットより更に霊格の高いスピリットが存在する。それにも幾つかの界層がある。古い宗教用語を用いれば〝天使(エンゼル)〟である。その界層を上り詰めた所に最高級のスピリットが存在する。絶対神ではない。絶対的存在ならば無限の普遍的存在であるから、一個の存在として認識することは出来ない。
 その最高級霊はそれ以下の存在よりは絶対神に近い存在であるから、それだけ絶対神の属性を顕現していることになる。それが〝キリストのスピリット(注)〟である。地球の守護の任をあずかる存在で、その高級霊が今日とあまり変わらない邪悪に満ちた時代-腐敗と悪行で堕落し切った時代に、この地上に肉体をもって降誕した。目的は人間としての理想と生き方の範を示す為だった。そして、大きな足跡を残して地上を後にし、本来の所属界へと戻って行った。
 以上が霊界から届けられた情報によるキリストの実像である。〝贖罪〟とか〝救い〟とかの概念は微塵もない。あるのは、我々凡人にも実行可能な、納得のいく生活教訓である。これなら私も信じられる。
 もしもこうしたキリスト教観が一般に受け入れられ、更に、次々と霊界から届けられている〝新しい啓示〟によって確信が得られ、更に〝しるし〟によって確認が得られれば、キリスト教会を一つに纏める教義が生まれ、それは科学とも握手し、いかなる攻撃にも対処出来る、無窮の未来までも永続する信仰体系が確立されるであろう。
 理性と信仰が遂に和解し、うなされ続けた悪夢から解放され、霊的な安らぎに満たされることになるであろう。もとより私は、それが一気呵成の征服や無謀な革命のような過程で成就されるとは考えていない。永遠の地獄説のような幼稚な考えが薄れて行くにつれて、徐々に滲透していく性質のものであろう。が、それには、人間の魂が艱難によって培われて均(な)らされるということが先決であって、その時初めて真理の種子が植えられ、それが霊的な実りをもたらすのであろう。
 私はスピリチュアリズムの知識に照らしながら新約聖書を改めて読み直してみて、キリストの教えの肝心なところが、初期キリスト教時代に既に失われてしまっていて、その後のキリスト教徒が、今日に至るまで、それについて何も知らずにいることを知り、深く考えさせられた。現代に伝えられているキリスト教思想においては、スピリチュアリズムが扱っている〝死〟の真相を教える現象は大して意味をもたないようである。が、スピリチュアリズムの勃興以来、霊媒現象を通じて得られたものによって死後の実相を垣間見た者にとっては、死の問題は完全にクリアされたといってよい。

 (注)-The Christ Spirit 元来、〝キリスト〟という用語はヘブライ語〝メシア〟のギリシャ語訳〝クリストス〟から来たもので、その本来の意味は〝油を注がれた人〟、つまり偉大な人格を具えた人物、ということだった。流浪の民ユダヤ人は、イエスの驚異的な能力、所謂〝しるしと不思議〟を見て、この人こそ我々が求めていた神の申し子だと信じて Jesus the Christ と呼んだ。そこから救世主の概念も生まれたのであるが、このパターンは太古においてはどの民族にもあったことである。
 しかし、この〝ナザレのイエス〟に限って、それだけでは済まされない特殊な事情があったことが、新しい啓示によって明らかになってきた。つまりイエスは〝スピリチュアリズム〟という名称を旗印とする地球浄化の大事業の最高責任者で、本来の所属界は地球神界であり、その計画の推進に備えて文字通り〝身〟をもって地上界に降誕し、物的波動の環境での体験を積んで本来の所属界へ戻った。三十三年の生涯はいわば〝下見〟と〝霊力の増強〟という二つの目的があったと考えられる。
 その意味からも〝はりつけ〟による死を殊更意味ありげに説くのはおかしいのである。どういう死に方でもよかった。現に、イエスは実は十字架上では死なずに、その後何年かを生き延びたという説が幾つもあるのである。大切なのは、大工の家に生を享けたイエスは、地球神界でも最高位に位置する大天使が自己を滅却し、波動を極度に下げて物的身体に宿ったもので、霊格は途方もなく高かったが、やはり一人間だったということである。
 地上に降誕した高級霊の中でも、イエス程の高い霊格を具えたスピリットはそれ以前にもそれ以降にもいないし、これからも出ないというのが、高等霊界通信の一致した言い分である。ドイルのいう〝キリストのスピリット〟とは、イエスの本来の霊的影響力のことであって、教会で見かけるような人間的形体を具えた人物像を想像してはならない。

 バイブルの中には現代でいう浮揚現象、一陣の風、霊的能力、超常現象といったものが実に多く出ている。それを読んでいると、最も重大な中心的課題である死後の生命の存続と死者(スピリット)との交信は、当時から間違いなく知られていたのだと思う。
 又〝ここの者達は信じる心を持たないから不思議現象は起さなかった〟という言葉に見られるキリストの考えは、心霊現象の研究によって分かった心霊法則と完全に一致してはいないだろうか。
 又、病気の女性がキリストの身体に触れた時、〝今私に誰か触りましたね?私の身体から徳力が脱け出て行きました〟と言ったというが、この〝徳力〟なるものは現代の心霊治療家が〝霊力〟と呼んでいるものと同じであろう。更に、〝まずそのスピリットの本性を試せよ〟という戒めは、安直に霊能者を頼りにする無知な人間に対する絶好のアドバイスといえるであろう(注1)。
 こうした問題は私が扱うには大き過ぎるが、ただはっきり言えることは、今キリスト教会内でも過激にスピリチュアリズムを批判している一派が否定しているそうした事実こそ、実は本来のキリスト教の中心的な教えであらねばならないということである。このテーマについてもっと詳しく知りたい方はウォーレス博士の『ナザレのイエス(注2)』をお読みになることをお薦めする。小冊子ではあるが、実に価値ある一冊で、絶版になっていなければ幸いである。
 その中でウォーレス博士は、キリストの奇跡が全てスピリチュアリズムでいうところの心霊的法則の範囲内に収まるものであることを、説得力をもって論証している。右に挙げたものがその一例である。その他にも数多くの例が細かく論証されているが、その中でも私が最高に得心がいったのは、キリストがペテロとヤコブとヨハネの三人を〝変容の丘〟へ連れて行ったのは三人を霊媒として使用する為で、高い山を選んだのは清浄な雰囲気を求めてのことだったということである。三人が眠気を催したのも、イエスの容姿が変化したのも、光の雲が現れたのも、皆心霊実験会で生じているのと同じ現象ばかりである。
 〝我々は三つの幕屋を建てましょう〟というペテロのセリフの中の〝幕屋〟とはキャビネット(注3)に相当する。あれだけの現象を起すには三人もの霊媒が必要だったのである。このように、全てが心霊科学によって説明がつく。
 その他、例えばパウロのいう〝キリストの弟子としての資質〟というのも、霊視や予知能力、霊的治癒能力、物理現象の為の霊媒能力を含む、強力な霊的能力のことを言ったのである。
 初期のキリスト教会にはスピリチュアリズムと少しも変わらない〝しるしと不思議〟が溢れていた。しかも、〝聖職者の便益以外の目的には使用してはならない〟などという旧約聖書の〝禁〟を、ものともしていなかったようである。


 (注1)-〝スピリットからの通信〟と銘打ったものを目の前にした時の人間の取るべき態度は、果してそれが〝銘柄〟通りに純粋な霊的産物であるかを〝疑ってかかる〟ことである。
 その理由の一つは、ただの霊媒の潜在意識から出たものに過ぎないものが多いからである。通信の純粋さは、どこまで霊媒の潜在意識を排除出来たかということに外ならない。いくら高級なスピリットからのものでも、人間の意識中枢を通過する以上は、百パーセントの純度はまず有り得ないことで、高級なスピリット程そのことを正直に認めている。
 ある交霊会で、入神した霊媒がいつもの霊言らしくないことをまくし立てるので、列席者が怪訝に思っていると、続いて「実は今述べたことは私の考えではなく、この霊媒のものでして、潜在意識に強く残っていて邪魔になるので、一気に吐き出させました」と語った。
 油断ならないものに、純度は百パーセントに近いのだが、乗り移っているのが極めて悪質な低級霊で、歴史上の著名人や神話上の神々の名を騙って、いかにもそれらしい態度を装って語る場合である。こういう場合は、本当は失礼に当たるような質問をわざと投げかけてみることである。低級霊ならその内に腹を立てて去ってしまう。高級霊はいかに試されても絶対に腹を立てない。
 もう一つ油断がならないのは、自称霊能者、つまり自分では霊能者であると自負していても、実際は一種の自己暗示にかかっているおめでたい人間が、大人物になったつもりで語る場合で、決まって大言壮語をする。それでいて読む人に少しも感動を与えない。最近は〝語る〟こともしないで、ただ書いただけの霊言も多いようである。
 では最終的に何を基準にして判断を下すかということになるが、実は具体的な基準になるものはないのである。霊言の現場に立ち合った時の雰囲気、印刷されたものであれはそれを読んだ時の印象で、直観的に判断するしかない。現役の霊能者であれば招霊の〝実演〟を要請すべきであろう。

 (注2)-Dr.A.Wallace:Jesus of Nazreth (絶版)
 バイブルをスピリチュアリズム的に解釈した霊界通信は少なくないが、キリスト教牧師が手がけたものとして、モーリス・エリオットの次の二著が最も詳しい。新約を扱ったものが The Psychic Life of Jesus で、日本語訳で同じくキリスト教の元牧師・山本貞彰氏による『聖書(バイブル)の実像』(太陽出版)が出ている。旧約を扱ったものは When Prophets Spoke で、日本語訳はまだ出ていないが、同氏によって進められていると聞く。
 一方、現行のバイブルから離れて、イエスの生誕から生立ち、修行時代、そして伝道時代について同時代のスピリットが送って来た通信として最も興味深いのは、ジェラルディン・カミンズ女史の自動書記通信 The Childhood of Jesus, The Manhood of Jesus の二著で、いずれも山本貞彰氏による日本語訳が『霊界通信・イエスの少年時代』『霊界通信・イエスの成年時代』として潮文社から出ている。

 (注3)-Cabinet 心霊実験を行う際に霊媒を隔離しておく場所のことで、同時にそこは、霊界の技術者が現象を演出する為準備をする〝控え室〟のような役割も果たす。といって特別なものをしつらえるのではなく、部屋の片隅をカーテンで仕切っただけの三角形のものだったり、壁を背にして四角形に仕切ったものなど、様々で、霊媒によってはそういうものを必要としないこともある。
 キャビネットの必要が生じた最大の理由は、現象に使用されるエクトプラズムが〝光〟を嫌う性質があるからであるが、霊媒によってはキャビネットを必要としないばかりでなく、白色光の電灯で部屋を明るくしてもよいこともある。但し、赤色電灯ないし燐光ランプのような弱い光にした方が、現象が〝長持ち〟することは事実である。

 前章ではキリスト教を例に挙げて、スピリチュアリズムの啓示によって改革を迫られるに相違ないと思われる教義を指摘したが、これは伝統的宗教の全てに及ぶべき、極めて範囲の広い、しかも問題点の多いテーマである。ここではこれ以上広げないで、新しい啓示によって明らかとなった死後の実相に迫ってみたい。
 このテーマになると資料は豊富である。しかも、スピリットからの通信に矛盾点もあまり見出せない。メッセージは世界の全ての国ないし民族において〝お告げ(メッセージ)〟という形で太古から入手されてきている。問題は、それがどこまで正確かということである。
 その判断の拠り所として、太古から引き継がれてた死後の世界の概念と比較してみて、細かい点で全く相反する事柄について新しい啓示が悉く一致しており、そこに一貫性が認められる場合は、それを真実と受け取ってよいと私は考える。
 例えば、私が個人的に受け取った十五ないし二十種類のスピリット・メッセージが悉く同じことを言っているのに、それが全て間違っているということは、ちょっと考えられないことである。メッセージの中には地上時代のことに言及したものも多く、それが人間個性や記憶の証拠とされることが多いが、そうしたスピリットが、過去の地上世界のことは本当のことを言い、現在の霊界のことは嘘を言うということも、とても考えられないことである。

 死の直後について私がまず間違いないと見ているのは、次の諸点である。〝死ぬ〟という現象には痛みは伴わず、至って簡単である。そして、その後で、想像もしなかった安らぎと自由を覚える。やがて肉体とそっくりの霊的身体を纏っていることに気付く。しかも、地上時代の病気も障害も、完全に消えている。その身体で、脱け殻の肉体の側に立っていたり、浮揚していたりする。そして、霊体と肉体の双方が意識される。それは、その時点ではまだ物的波動の世界にいるからで、その後急速に物的波動が薄れて霊的波動を強く意識するようになる。
 所謂〝臨終〟の際に遠くにいる肉親や縁者に姿を見せたりするのは、その時点ではまだ霊体に物的波動が残っているからである。エドマンド・ガーニー(注1)氏の調査によると、その種の現象の二百五十件の内百三十四件が死亡直後に発生していることが分かっている。物的要素が強いだけ、それだけ人間の霊視力に映じ易いということが考えられる。
 しかし右の数字は、収集された体験のほぼ半分ということであって、地上で次々と他界していっている厖大な死者の数に比べれば、稀なケースでしかない。大部分の死者は、私が想像するに、思いも寄らなかった環境の変化に戸惑い、家族のことなどを考えている余裕はないであろう。更には、自分の死の知らせで集まっている人達に語りかけても、身体が触れても、何の反応もないことに驚く。霊的身体と物的身体との波長の懸隔があまりに大きいからである。
 光のスペクトルには人間の視覚に映じないものが無数にあり、音のスペクトルにも人間の聴覚に反応しないものが無数にあるということまで分かっている。その未知の分野についての研究が更に進めば、いずれは霊的な領域へと辿り着くという考えは、あながち空論とは言えないのではないかと思うのであるが、いかがであろうか。
 それはさておいて、死者が辿るその後の行程を見てみよう。やがて気が付いてみると、自分の亡骸の置かれた部屋に集まっている肉親・知人の他に、どこかで見たことのある人達で、しかも確か他界してしまっている筈の人達がいることに気付く。それが亡霊といった感じではなく、生身の人間と少しも変わらない生き生きとした感じで近寄ってきて、手を握ったり頬に口づけをしたりして、ようこそと歓迎してくれる。
 その中に、見覚えはないのだが、際立って光輝に溢れた人物がいて、側に立って〝私の後について来なさい〟と言って出て行く。ついて行くと、ドアから出て行くのではない。驚いたことに、壁や天井を突き抜けて行ってしまう。こうして新しい生活が始まるというのである。
 以上の点に関してはどの通信も首尾一貫していて、一点のあいまいさも見られない。誰しも信じずにはいられないものである。しかも、世界のどの宗教が説いていることとも異なっている。先輩達は光り輝く天使にもなっていないし、呪われた小悪魔にもなっていない。人相や容貌だけでなく、強さも弱さも、賢さも愚かさも携えた生前のその人そのままである。予想もしなかった体験に、いかに軽薄な人間も、或いはいかに愚かしい人間も、畏敬の念に打たれて、いっぺんに慎み深い心境になってしまうのではないかと想像される。
 事実、一時的にはそういうことになるかも知れない。が、時が経つにつれてその感激が薄らいで、かつての本性が再び頭をもたげてくるものらしい。それは、交霊会に出て来るスピリットの言動から十分に窺い知ることが出来る。
 ここで話が少し後戻りするが、そうした新しい環境での生活が始まる前に、スピリットは一種の睡眠状態を体験するらしい。睡眠時間の長さは様々で、ほんのうたた寝程の短時間の場合もあれば、何週間も何ヶ月もかかる場合もある(注2)。
 ロッジ卿のご子息のレーモンドは六日間(地上の日数にして六日に相当する時間)だったという。私がスピリットから聞いたものにも、この程度の期間のものが多いようであるが、意外なのは、スピリチュアリズムの先駆者であるフレデリック・マイヤースが、かなりの期間、無意識状態のままだったことである。
 私の推察では、睡眠期間は地上時代の精神的体験や信仰上の先入観念が大きく作用するもののようである。つまりこの悪影響を取り除く為の期間であって、その意味では、期間が長いということはそれだけの睡眠が必要ということになる。従って幼児は殆ど睡眠を取る必要はないのではあるまいか。
 これは私の推測に過ぎないが、いずれにせよ、死の直後とその後の新しい環境での生活との間には、大なり小なり〝忘却〟の期間があるということは、全ての通信が一致して述べていることである。


 (注1)-Edmund Gurney (1847~1888) 古典学者であり、音楽家であり、医学研究家でもあるという多才な人物。二十七歳から三十一歳にかけての五年間に集中的に心霊実験会に出席して手応えを得ていた筈であるが、直ぐには公表せず、一年後に設立されたSPR(心霊研究協会)の会報にそれを掲載し、現在でもSPR自慢の貴重な資料となっている。もっとも、スピリチュアリズムの観点からすると隔靴掻痒の感は拭えない。
 ガーニーの存在価値が発揮されたのは寧ろ死後のことで、複数の霊媒を通じて自動書記で全く同じ内容のメッセージを送ってきて、その付帯状況から判断して、ガーニーの個性存続を立証するものとなっている。

 (注2)-死者のスピリットは、他界直後は暫く睡眠状態に入るのが通例である。これは、地上に誕生した赤ん坊が乳を飲む時以外は眠っているのと同じで、その間に新しい生活環境への適応の準備をしているのである。従って、幽体離脱(体外遊離)が自在に出来る人を除いては、眠った方がいいのである。ところが、戦争や事故で、あっという間に死んだ場合など、怨みや憎悪という激しい感情を抱いたまま死んだ場合には、その感情が邪魔をして眠れず、従って霊的感覚も芽生えないので、いつまでも地上的波動の中でさ迷うことになる。これを地縛霊といい、その種のスピリットの出す波動が地上の生者に様々な肉体的並びに精神的障害をもたらしていることが明らかとなってきた。
 その地縛霊を霊媒に乗り移らせて司会者(さにわ)が霊的実相を語って聞かせると、言いたいことを散々言った後、なんだか眠くなって来た、と言い出すことが多い。激しい感情の波動が収まって、魂が休息を求めるようになるのである。すると大抵、肉親や親戚・友人など、地上で親しくしていた故人の霊姿が見えるようになる。ここまで来ると、所謂〝成仏〟出来る条件が整ったことになる。
 同じく睡眠でも、キリスト教の〝最後の審判〟説を本気で信じていた人間によく見られる睡眠は実に厄介である。このドグマはローマ帝国がキリスト教を国教とした後で拵えられたもので、啓示でもなんでもない。地球の終末に全スピリットが集められて、天国へ行く者と地獄へ行く者との〝名簿〟が読み上げられる-その日までは墓場で眠っている、というのであるが、これを幼児期から聞かせられて育った者は、魂の髄までそう信じている為に、呼び起こしても〝(地球の終末を告げる)ラッパはもう鳴ったのか〟と聞き返し、まだだ、そんなものはいつまで経っても鳴らないと説き聞かせても、又眠ってしまう。嘘のような話であるが、西洋の霊界通信の中には大抵そういう話が出て来る。信仰は自由かも知れないが、間違った自由は死後、大変な代償を払わされる。

 さて、その睡眠から目覚めたばかりのスピリットは、生まれたばかりの赤ん坊と同じで、いたって脆弱である。が、地上の赤ん坊と違ってスピリットは急速に元気を取り戻し、新しい生活を始める。ここで我々の頭をよぎるのは、天国と地獄の問題である。
 いやしくも理性を具えた方ならば私の意見に同意なさると思うが、私はこれで地獄説は完全に脱落すると考える。全知全能の創造者という概念にとっても冒涜的な、この不快極まる概念は、元々誇張的になりがちな東洋的語句から生まれ出たもので、丁度野生の動物が探検家の〝焚き火〟に怯えたように、野蛮な時代の人間を脅して大人しくさせるには有効だったかも知れない。が、どうやら〝地獄〟という場所は存在しないことが明らかとなった。しかし、罰の概念、浄化の為の戒めを受けるという意味での煉獄ならば存在するというのが、一致した意見である。
 確かに、邪を正す為の罰がなければ、宇宙に〝公正〟は存在しないことになろう。例えば邪悪な僧侶の代名詞のように言われているラスプーチンが、僧侶の鑑のように言われているダミアン神父と同じ運命を辿るということは、とても考えられない。善因善果・悪因悪果の法則は厳然として存在する筈である。
 ただ、〝善〟と〝悪〟の二つの概念だけで全てを片付けてはなるまい。〝霊性〟の発達程度を基準にして考えれば、発達の遅れたスピリットはそれを促進するのに相応しい環境に落ち着く。それは低い界層かも知れないが、未熟なスピリットには相応しい。それが、体験と上層界のスピリットによる援助と教育とによって、霊性の発達と共に上層界へと進んで行く、ということであろう。高級霊にとってはそれが重要な仕事の一つであるという。それをジュリア・エイムズは次のように上手く表現している-〝天国の最大の喜びは、地獄を空にすることである〟と。

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