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カテゴリ: ★『スピリティズムによる福音』

第二章 私の国はこの世のものではありません

未来における生活

イエスの王位

視点

◆霊達からの指導

地上における王位

一、ピラトは再び官邸に入ると、自分の前にイエスを呼んで、尋ねた、「お前はユダヤの王なのか」。イエスは答えられた、「私の国はこの世のものではありません。もし私の国がこの世のものであったとしたら、人々は戦って、私がユダヤ人の手にわたることを阻止したでしょう。しかし、私の国はこの世のものではありません」。
 するとピラトは言った、「お前は王か」。イエスは答えられた、「あなたの言う通り、私は王です。私がこの世に来たのは真実の証をする為です。真実につく者は私の声を聞くでしょう」。
(ヨハネ 第十八章 三十三、三十六、三十七)

未来における生活

二、
こうした言葉によって、イエスははっきりと未来における生活について触れていますが、イエスはその生活が、いかなる場合においても、人類の目指すべき目標であり、地上における人間はその生活のことを最大の関心事と捉えるべきであると示しています。イエスの金言は全て、未来における生活が存在するというこの大きな原則に基づいているのです。未来における生活がなければ、イエスの道徳上の教訓の殆どは、どんな根拠も存在しなくなってしまう為、未来における命を信じない者達は、イエスが現在の生活についてのみ語っているのだと考え、その教えを理解出来ずに、無益なものだと考えたのです。
 したがって、この教義はキリストの教えの中心軸となるものであり、その為に、本書の初期の章に挿入されました。この教えは人類全ての目標とならなければならないのです。この教えだけが、地上における生活で生じる不平等の正当性を、神の正義に基づいて明らかにしてくれるのです。

三、ユダヤ人達が未来における生活について抱いていた考えは、ただ不明確なものでしかありませんでした。天使を信じていましたが、それらは創造主によって特権を与えられた存在であると考えていました。人類がいつの日にか天使となり、その幸せを分かち合うことが出来るようになるのだということは知り得なかったのです。彼等は、神の法を順守すれば、その報いとして地上で富を得たり、自分達の国を優勢に導いたり、敵に勝利することが出来ると考えていました。災害や敗北を被ることはすなわち、神の法を破ったことによって与えられる罰であったのです。モーゼは何よりもまず、この世の物事に心を動かされてしまう無知な牧人達に、それ以上のことを伝えることは出来ませんでした。時が過ぎ、イエスは、神の正義が支配する別の世界があることを示しました。そしてイエスはこの世界の存在を神の戒めを守る者達に約束し、そこで善き人々は相応の報いを受けることが出来るとしたのです。そこがイエスの支配する国なのです。この地上を後にして戻って行くその国に、イエスの栄光が存在するのです。

 しかし、イエスは当時の人類の状況を鑑み、完全なる光を彼等に与えても、理解されず、当惑させてしまうだろうと察し、そうすべきではないと考えました。そしてまさしくイエスは、未来における生活をあくまでも原則として示し、その作用から誰も逃れることが出来ない自然の法なのだと言うに留めたのです。よって、全てのキリスト教徒は必然的に未来における生活を信じています。しかし、多くの人々のそれに対する考えは曖昧で不完全であり、それ故に多くの点において誤っています。多くの人々にとって、それは単なる信仰箇条以上の何ものでもなく、絶対的な確信を欠いているというところから疑問と不信心が生まれるのです。
 スピリティズムは、そのように不十分なキリストの教えを補う為に、人類がその真実を学ぶに足りるだけの発達段階に十分達した時期に登場したのです。スピリティズムがもたらされることによって、未来における生活は信仰の単なる一箇条でも、単なる仮説でもなくなります。それは事実によって裏付けられた、実体ある現実のものとなるのです。なぜなら、未来における生活の全ての側面を、全ての出来事において描写しているのは、自らそれを目撃した証人達であるからです。その為にこの事柄に対するどんな疑問を抱くことも出来ないばかりか、普通の知性の持ち主であれば未来の生活について、ある詳細な描写を読むことによって、ある国のことを誰もが想像出来るように、その真の姿を想像することが出来るのです。未来の生活の描写はとても細かく説明されており、彼等がそこで幸せなのか、不幸なのか、彼等自身の生活がどうなのかが分かります。合理的なその状況は、彼等自身が生み出したものです。ここにいる私達各々は、嫌でもその状況が、理に適っていることを認め、自分に言い聞かせることになりますが、そこに神の真なる正義の存在が明かされているのです。

イエスの王位

四、
イエスの国がこの世のものではないことは皆理解するところですが、地上においてもイエスには王位があるのではないでしょうか。王というのは、一時的に権力を行使する人物に限りません。この称号は、いかなる分野であっても、その素質によって第一等の頂点に昇り、その時代を支配し、人類の進歩に寄与すると皆が認めた者に与えられるものです。だからこういう意味で、私達は、優れた哲学者、芸術家、詩人、作家などを「王」又は「王子」と呼ぶことがあります。こうした個人の功績から来る王座や、子孫によって神聖化された王座は、多くの場合、実際に王冠を持つ王位よりも優勢なものとして映ってはいないでしょうか。前者の王座は消滅し得ないものですが、後者の王位には盛衰があります。又、前者に対してはいつの世も賞賛しますが、後者に対しては、罵ることもしばしばあります。地上での王位は命と共に終結します。道徳的な王位はその力を永続し、死後においても支配します。このような点でイエスは、地上において権利を与えられていた王よりも偉大な権威を有しているとは言えないでしょうか。ピラトに対して「私は王です。しかし、私の国はこの世のものではありません」と言ったのにはこうした意味が込められていたのです。

視点

五、
未来における生活を明確かつ詳細に認識することは、未来に対する揺るがぬ確信を形成することになり、その確信が、地上において人間を取り巻く生活に対する視点を完全に変えてしまう為、人類の道徳観念に多大な影響を及ぼします。その思考において自分を無限の霊的な生活に置くことが出来る者にとっては、肉体を持つ生活は単なる一過性のもの、不幸な国での一時的な滞在となります。その生活における一連の盛衰や混乱は一時のものであり、その後により幸せな生活が訪れることが分かっているので、じっと耐え忍んでいればいいような出来事に過ぎないのです。死は最早虚無に対して開かれた恐れをもたらす扉ではなく、解放へと通じる扉となり、流刑者達はそこを通って、平和と至福の家に入って行くことが出来るようになるのです。この世での滞在が永遠のものではなくて一時的なものだということを知っているので、人生の心配事にも大した関心を抱くことなく霊的な平静をもたらし、悲哀の多くを取り除くことになります。
 未来における生活を疑うという単純なことから、人間はそのあらゆる考えを地上における生活に差し向けます。地上における富以上に貴重な富を見つけることが出来ず、自分のおもちゃ以外何も目に入らぬ子供のようになります。そして、唯一本物として映る地上の富を獲得する為に、どんなことでも行います。そうした富のほんの少しでも失おうものなら、過失、失望、満たされぬ野心、不正の犠牲となること、傷付けられた自尊心や虚栄心といった数々の苦痛が、人生においていつまでも続く苦悩と化すのです。このように人間は、いつも真の拷問を自らに科していることになります。自分を実際にあると考える物質世界に視点を置くと、自分の周りにあるものがその視野全てを占めることになります。そうした目には、自分のもとに訪れる悪や、他の者を動かす善などが、大きな重要性を持つように映ってしまいます。都会の中にいる者には全てが大きく見えます。高い地位に辿り着いた者にとって、その記念碑は、とても大きく見えるものです。しかし、山に登って見下ろすと、人も物も小さく見えるようになります。未来における生活に重点を置いて地上の生活を送る人にはこのような視点があります。
 人類は、天にある星と同じように、無限に広がる空間の中では小さ過ぎて見分けがつかなくなります。すると蟻塚の上にいる蟻のように、大きなものも小さなものも混同してしまっていることに気付きます。無産者も主権者も同じ背丈であることが分かります。悲しいことに、これらの儚い生き物達は、彼等を殆ど向上させることのない、とても短い時間しか持続しない、その居場所を勝ち取る為に、大変な苦労に身を投じているのです。このことから、私達が地上の財産に与える重要性が、常に未来における生活への確信から来る重要性とは相反しているのだと考えるようになるのです。

六、全ての者がこのように考えるようになっては、誰も地上のことに気を取られなくなってしまい、地上のものは全て危険に晒されてしまうのではないでしょうか。しかし実際にはそうはなりません。人間は本能的に快適な生活を求め、その場所に短時間しかいないことが確実であったとしても、そこに最も良い状態で、もしくは可能な限り悪の少ない状態でいようとします。手に茨が触れた時、それに刺されないようにとその手をどけない人はいません。快適さへの欲求は、人間に全てを改善させることを強要しますが、それは自然の法の中にある、進歩と保存の本能によるものです。故に人間は必要性や嗜好、又は義務によって働くことで神の意に叶うことが出来、又神もそうした目的の為に人類を地上に送ったのです。端的に言えば、未来に心を託し今日に対して必要以上に関心を持たない者は、失敗しても、自分を待ち受ける未来について考えて、容易に自分を慰めることが出来るのです。
 神は地上の楽しみを非難することはありません。しかし魂に損害を与えるまでこの楽しみに溺れることを非難します。イエスの言った次の言葉を自分自身に応用させることが出来る者は、こうした楽しみの濫用を予防することが出来ます。「私の国はこの世のものではありません」。
 未来における生活を自分の身に起こる事として考えることが出来る者は、少額を失うことに動揺せぬ金持ちのような人です。地上の生活ばかりに考えを集中させる者は、持つものを全て失い途方に暮れてしまう貧乏な人のようです。

七、スピリティズムは思考を広げ、新しい地平線を切り開きます。現世ばかりに集中した、狭苦しい程の小さな視野は、地上に住む一瞬だけを唯一の儚い未来の基軸と考えさせますが、スピリティズムはそれとは違い、現世というものが、調和の取れた壮大な創造主の一連の業の一端に過ぎないのだということを示してくれます。同じ存在同士、同じ世界に住む全ての存在同士、全ての世界のあらゆる存在同士の生活を結び付ける連帯関係を示してくれます。それによって、宇宙全体の兄弟愛の存在の理由と基礎が与えられます。一方で、魂は一人一人の肉体が生まれる時に創造されるのだという教義では、全ての存在がお互いに知らぬ者同士だということになってしまいます。単一の全体に属する各部を結び付けるこの連帯感は、ある一部分だけを考慮に入れたのでは一見説明しようがない事柄をも解説することになります。キリストの時代、人類はこの全体の繋がりについて理解することが出来ませんでしたが、その為にイエスはそのことが理解されることを後の時代に残しておいたのです。

霊達からの指導

地上における王位

八、
「私の国はこの世のものではありません」とイエスが言われたことの本当の意味を、一体誰が私以上に理解することが出来るでしょうか。私は地上で暮らす間、自尊心によって自分を見失っていました。地上での王位というものが、こちらでは何の役にも立たないということを、女王であった私が言っているのです。地上の国から、私はこちらに何を持って来ることが出来たでしょうか。何一つ持って来ることは出来ませんでした。それどころか、地上の墓にさえも持って来ることが出来なかったということは、このことを理解させてくれる痛ましい現実でした。人間達の間で女王でいる者は、天の国へ行っても女王であり続けるものだと信じていました。しかし、何という誤解であったことでしょう。最高なる者として迎えられる代わりに、私より上に、遥か上に、地上では高貴な血を引いていないからといって、身分の低い者として軽んじていた人達を見た時の恥ずかしさ。ああ、やっとその時、人間の高慢さと、地上で人類が貪欲に求める「高い地位」のつまらなさを知ることが出来ました。
 こちらの国で必要なものは、献身、慎ましさ、慈善、全ての人に対する慈悲深さです。あなたが地上で何であったか、どんな身分でいたかは問われません。あなたがどのような善を働いたか、どれだけの涙を乾かしてあげることが出来たかが問われるのです。
 ああ、イエスよ、あなたの国はこの世のものではないと言われました。それは、天に辿り着くには苦しまなければならないからです。そして、この世の王位など持って行くことは出来ないからです。人生の苦しい道のりが天へ導いてくれるのです。だから、花の中にではなく、茨の中に道を求めなければならないのです。
 人間は、それをあたかも永遠に自分のものとすることが出来るかのように、地上の富を追いかけます。しかし、こちらにはそのような幻想は存在しないことを知り、こちらの国の扉を開く唯一の、確実で永続きするものをそれまで軽んじて、影ばかりを追い続けていたのだということに直ぐに気付くのです。
 天の国の王位を得ることの出来なかった者を哀れんでください。あなた達の祈りによって、彼等を助けてあげてください。なぜなら祈りは人を神に近付け、地上と天を結ぶものだからです。どうかそのことを忘れないでください。(あるフランスの女王 ルアーブル、1863年)

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