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カテゴリ:★『スピリティズムによる福音』 > スピリティズムによる福音 第28章

第28章 スピリティストの祈り

序文



1 一般的な祈り

 

 ◎「主の祈り」 
 ◎スピリティズムの集会

 ◎霊媒への祈り


2 個人的な祈り

 
 ◎守護霊や保護霊への祈り

 ◎悪い霊を遠ざける為に

 ◎欠点を治す為に

 ◎誘惑に抵抗する力を求める為に

 ◎誘惑に勝つことが出来た時の感謝の祈り

 ◎忠告を求める為に

 ◎人生の苦悩の時

 ◎願いが叶ったことを感謝して

 ◎甘受と忍従の気持ち

 ◎切迫した危険を前に

 ◎危険から免れることが出来たことを感謝して

 ◎就寝の時 
 ◎近い死を感じた時

3 他人への祈り

 ◎苦しむ者への祈り

 ◎他人に与えられた利益への感謝の祈り

 ◎私達の敵や私達の不幸を望んでいる者への祈り

 ◎私達の敵に与えられた利益への感謝の祈り

 ◎スピリティズムの敵対者への祈り
 ◎生まれたばかり子供への祈り
 ◎危篤状態にある者への祈り

4 霊への祈り

 ◎死後間もない人への祈り

 ◎私達が愛情を抱いていた人への祈り

 ◎祈りを求める苦しむ魂への祈り

 ◎他界した敵への祈り 
 ◎犯罪者への祈り

 ◎自殺者への祈り

 ◎後悔する霊への祈り

 ◎強情な霊への祈り


5 病人、憑依に悩まされる者への祈り

 ◎病人への祈り 
 ◎憑依に悩まされる者への祈り

序文

一、
霊はいつも私達に言ってくれます。「形式は何の意味も持ちません。思考の内容そのものが全てなのです。各々がそれぞれの信じていることに従って、最も心地の良い状態で祈りなさい。心に響かぬ数知れぬ言葉よりも、たった一つの善い思いの方がずっと値打ちがあるのです」。
 霊は、これといった絶対的な祈りの方法を示してはいません。ある方法を示す場合というのは、私達の思いを導こうとする時で、スピリティズムの教義のある原則について私達の注意を促す時です。或は、自分の思いをしっかりと決まった形式で表さなければ祈った気がしないと考えるような、自分を上手く表現するのが不得意な人を助ける時です。
 本章に集められた祈りは、様々な状況において霊が私達に書き留めるよう求めたものです。その時の特別な状況や様々な考え方に応じて、それら以外の違った言葉で、違った形の祈りを示したこともあるでしょう。しかしその根底にある思いが同じであるならば、その形式はどうでもいいのです。祈りの目的とは、私達の魂を神のところまで高めることです。それぞれの祈りの形式が様々であったとしても、神を信じる者にとっては、それらはどれも違わないものであると理解することが出来ます。それはスピリティズムを学ぶ者であれば尚更です。なぜなら、私達が誠意を持っていれば、神は全ての人を受け入れてくれることを知っているからです。
 ですから、ここに纏められた祈りを、絶対的な定型の祈りとして捉えてはなりません。これらは本書に纏められた、福音の教える道徳を形に表したものなのです。それは福音が示す、私達の神と隣人に対し負っている義務を補足したものであり、その中にはスピリティズムの教義の原則が盛り込まれているのです。
 スピリティズムにおいては、口先だけでなく心から唱えられたものであるならば、いかなる宗教の祈りでもよいと考えます。スピリティズムは何も強要せず、何も非難することはありません。スピリティズムによれば神は偉大であり、単にある形式に従わなかったからといって、懇願したり賛美する者の声を聞き入れなかったりすることはありません。形の決まっていない祈りについて批判する人は、神の偉大さを知らないのです。神が定型の祈りだけを好むのだと信じる者は、神を小さく見ているのであり、人間的な感情の範囲で捉えているのです。
 聖パウロは、祈る上で重要なことの一つとして、祈りが私達の魂に響く為には、理解出来るものでなければならないということを挙げています(→第二十七章 十六)。しかし、その為には、私達の日常で使う言葉で祈るというだけでは不十分です。なぜなら、日常的な表現を使っていても、知性には外国語のようにしか伝わらず、その為心に響かない祈りがあるからです。一般に、祈りに込められた少しの思いは、過剰な言葉や言葉の神秘性によって抑えつけられてしまいます。
 祈りはまず第一に明瞭でなければなりません。それは単純、簡潔でなければならず、無意味に飾られた言葉や過剰な修飾語は、偽物を作る単なる金メッキにしか過ぎません。言葉の一つ一つがある思いを映し出し、魂に触れ、その価値を持っていなければなりません。そして、一つ一つの言葉に基づき、自分を省みなければならないのです。そうすることによってのみ、祈りはその目的を達成することが出来るのです。それ以外の方法であれば、その祈りは無意味な言葉の集まりにしかなりません。しかし、殆どの場合、祈る者の気は散っていて、落ち着かない様子が見られます。口は動かしていても、祈る者の表情やその発声を見れば、それが魂の伴わない外面だけの機械的動作であることが分かります。
 ここに纏められた祈りは五つの分類に別れています。1.一般的な祈り、2.個人的な祈り、3.他人への祈り、4.霊への祈り、5.病人、憑依に悩まされる者への祈り。
 一つ一つの祈りの目的について特に注意し、より理解し易いものとする為、それぞれの祈りについて序文として記した部分には、前置きとして、その祈りの動機となるものを並べています。

1.一般的な祈り

「主の祈り」
二、
<序文>霊はこの祈りの章を、単に祈りの一つとしてではなく、祈りの象徴として、この「主の祈り」で書き出すように勧めてくれました。この祈りは、全ての祈りの中でも霊がまず第一に考えるものです。それは、この祈りがイエス自身によって教えられたものであるから(→マタイ 第六章 九-十三)かもしれませんし、或は、その祈りが祈る者の意向に応じて、他のどんな祈りの代わりにもなるからかもしれません。簡素で最も完全な形と簡単な言葉に込められた、崇高な真の傑作です。最も短い言葉で人間が神との間に約束する、自分自身に、又隣人との間に果たすべき義務が、全て効率的に要約されています。又、それは信仰の誓い、神への賛美、服従の行いであり、地上での生活や慈善の原理に不可欠なものを懇願することをも含んでいます。この祈りを他人の為に唱えることによって、私達が自分自身に望むことを他人の為に願うことが出来ます。
 しかしながら、その簡潔さ故に、多くの人々はその言葉の持つ深い意味を見逃しています。それは一般に、一文一文の意味を考えずに唱えているからです。数多く唱えればその回数に応じて効力を増すかの如く、決まりのように唱えるからなのです。その回数は殆どいつも神秘的な数です。古くからの迷信的な数の力を信じたり、魔術によって使われる、三、七、九といった数であったりします。
 この祈りがその簡潔さ故に私達に残す隙間を埋める為、善霊の忠告と助けに従って、祈りの一文一文に、その意味を明らかにする解説とその使い方を付して示します。祈る時の状況と、祈ることが出来る時間に応じて、「主の祈り」は、簡潔な形でも、又もっと詳しく述べる形でも唱えることが出来ます。

三、<祈り>
ⅰ.天にまします私達の父よ、御名が崇められますように。

主よ、私達はあなたを信じています。なぜなら、全ての存在があなたの力とその善意を示してくれるからです。宇宙の調和は、人類のあらゆる能力を超える英知と理性の証明です。偉大で博識なるあなたの名は、慎ましい草花、小さな昆虫から宇宙を飛ぶ星まで、あらゆる被造物に記されています。あらゆるところに私達は父なる配慮の証を見ることが出来ます。あなたの創造されたものを見て、あなたを称えぬ者は盲目です。賛美せぬ者は思い上がった者です。又、その恩恵に感謝せぬ者は恩知らずです。

ⅱ.あなたの国(御国)が来ますように。

 主よ、人類がそれを守れば幸せになることが出来る、英知に満ちた法をあなたは与えてくださいました。この法によって、人類は平和と正義を確立することが出来、今しているようにお互いを傷付け合うのではなく、お互いを助け合うことが出来るようになるでしょう。強い者は弱い者を圧迫するのではなく、保護することになるでしょう。あらゆるものの過剰や濫用から発する悪は避けられることになるでしょう。全ての惨めさは、あなたの法を守らない為に生じるのです。なぜなら、致命的な結果をもたらすことなく、あなたの法を破ることは出来ないからです。
 あなたは、動物達には生きる為の必要限度に応じて本能を与えられました。動物達は自然にそれに従って生きています。しかし、人間には本能の他に知性と理性を与えられました。更に、一人一人に関係するあなたの法を守るか守らないかを選択する自由を与えられました。すなわち、善と悪を選択する能力を与えられ、それによって人間が自分の行動に対して責任を負い、その意味を知ることが出来るようにされたのです。
 誰もあなたの法を知らないなどと訴えることは出来ません。なぜなら、あなたは父なる配慮によって、国籍、宗教を問わず、全ての人間の一人一人の良心の中にあなたの法が記されることを望まれたからです。ですから、あなたの法を守らない者はあなたを見くびっているのです。
 あなたが約束された通り、いつか人類全てがあなたの法を守る日がやって来るでしょう。その時、神を信じない者はいなくなり、全ての人間が最高なる万物の主としてあなたを認め、あなたの法によって治められた者達は、地球上にあなたの国を築き上げるでしょう。
 主よ、人類が真実なる道を歩むことが出来るように、必要な光をお与えください。そして、あなたの国の到来を早められますように。

ⅲ.あなたの意志(御心)が天で行われるように、地でも行われますように。

 子が父親に従うこと、劣る者が優れる者に従うことが義務であるならば、創造された者がその創造主に従う義務はそれらにいくらかでも劣るでしょうか。主よ、御心が行われるとは、あなたの法を順守し、神の決定に不平を言うことなく従うことです。人類は、主が全ての英知の源であり、主なしには何事も存在し得ないのだということを理解した時、あなたに従うことになるのです。その時、天において選ばれた者達が行っているように、地球でもあなたの意志の通りに行われることになるでしょう。

ⅳ.私達の日ごとの糧を今日もお与えください。

 肉体的な力を維持する為に必要な糧を、私達にお与えください。又、私達の霊が進歩出来ますように、霊的な糧をもお与えください。
 動物達は牧場にその糧を見つけます。しかし人類はその糧を、その知的な財産と自らの活動によって得なければなりません。なぜなら、神は人類を自由な身に創造されたからです。
 あなたは言われました。「額に汗して地を耕し、食物を得なさい」と。そして、人間に労働を義務として与えられました。働くことは、肉体労働であれ、知的な労働であれ、人間に知性を使わせ、必要なものや、より良い生活を得る手段となるのです。労働なしでは人類は不変なものとなってしまい、善霊の幸せを望むことは出来ません。
 怠惰を楽しみ、努力なくして全てを手に入れようとしたり、必要以上のものを求めるのではなく、必要なものを手に入れようと、神の意志を信頼し、意欲的に働く者を見守ってください(→第二十五章)。
 自分自身のせいで気力を失ってしまう者がどれだけいるでしょうか。不注意であったり、先見の明がなかったり、或は野心を抱き、あなたがお与えになられたものに満足しない者、彼等自身が不幸を自ら作り出しているのですから、不平を言う権利はありません。それも、自分で犯した罪そのものに罰せられているのだからです。しかし、無限に慈悲深いあなたは、そんな者達をも見捨てたりはされません。言うことを聞かぬ子供が心からあなたの方向へ向き直るよう、天から手を差し延べてくださるのです(→第五章 四)。
 私達の運命を悲しむ前に、その運命が自分の手によって作られたものであるか問うてみます。私達に降りかかってきた一つ一つの不運を、避けることが出来なかったかどうか確かめてみます。神は私達に苦境から抜け出せるように知性を与えてくれ、それを正しく使うかどうかは私達自身にかかっているのだと繰り返し言い聞かせます。
 地上の人類は労働の法に従わなければならず、故にその法に従えるように、私達に勇気と力を与えてください。又、慎重さや先見の明、節制によって、私達が受け取るべき実りを失うことがないようにしてください。
 主よ、ですから、私達の日ごとの糧をお与えください。つまり、労働によって必要なものを得る手段をお与えください。必要以上のものを得ることが出来ないからと不満を言う権利は誰にもありません。
 もし労働することが不可能である場合には、神意を信じます。
 もし、私達の努力にもかかわらず、神の計画の中でより厳しい苦難によって私達が試されることになっているのであれば、現世、もしくは過去の人生において犯したであろう罪の正当なる報いとして受け入れます。なぜなら、あなたが正義であり、不当な罰は存在せず、理由なくして罰せられないことを私達は知っているからです。
 主よ、私達が持っていないものを持っている者や、私達が必要としているものを必要以上に持っている者に対し、私達が妬みを起こすことがないよう、お守りください。神の教えられた慈善と隣人を愛する法を忘れてしまった人達をお赦しください(→第十六章 八)。
 悪人の繁栄や、善人達を襲う不幸を見ても、あなたの正義を否定するような考えを私達の霊から遠ざけてください。一方、私達はあなたが与えてくださった新たな光によって、あなたの正義が、誰一人例外とせずに守られることを知りました。つまり、悪人の物質的な繁栄はその肉体の存在と同じように儚く、後に恐ろしい不幸を引き起こすことになるでしょう。そして苦しみを甘受する者にとって、その喜びは永遠のものとなるでしょう(→第五章 七、九、十二、十八)。

ⅴ.私達の負い目をお赦しください。私達も、私達に負い目のある人達を赦しました。

 主よ、あなたの法に対する違反の一つ一つは、あなたに対する私達の攻撃であり、遅かれ早かれ支払わなければならない私達の負債を増やすことになるのです。これ以上増やさないよう努力することを約束致しますので、どうか永遠なる慈悲においてお赦し頂けますようにお願い致します。
 あなたは私達全ての為に、慈善を明確な法としてつくられました。しかし慈善とは、ただ単に私達の同胞を必要に応じて助けるだけではなく、同胞の攻撃を忘れ、赦してあげることでもあるのです。私達の不満の原因を作った者達に対する慈善に欠けておきながら、どうしてあなたの赦免を求めることが出来ましょうか。
 主よ、私達の周りの人々に対するどんな恨みや憎悪、怒りの気持ちも打ち消す力をお与えください。私達の心の中に復讐の欲望を抱かせようと、死が不意をついて襲って来ませんように。もし、あなたが私達を今日この世から連れて行かれ試されたとしても、処刑の執行人達の為に最期の言葉を残したキリストのように、恨みの感情から全く解放されてあなたの前へ出向くことが出来ますように(→第十章)。
 私達を苦しめる悪人達による迫害は、地上における私達の試練の一つです。それらはあなたがイエスの言葉を通じて、「義の為に迫害されて来た者は幸いです」と言われた如く、その他の試練と同じように永遠の幸せへの道を開くのですから、彼等の非道の行いを罵ることなく、不平をこぼさずに受け入れなければなりません。そして、私達を傷付け辱める者達に祝福がありますように。なぜなら、肉体の苦しみによって私達の魂は強化され、私達は侮辱からも解放されることになるからです(→第十二章 四)。主よ、御名が崇められますように。なぜなら、私達の運命が死後に取り消しようもなく決定されてしまうのではないということを教えてくださったからです。私達は、更なる進歩の為、過去の過ちを償い、改めたり、現世で行うことが出来なかったことを改めて実現させる為の手段を、又別の人生において得ることが出来るのです(→第四章、第五章 五)。
 このことによって初めて、人生における全ての見かけ上は変則的な出来事が説明されます。光は私達の過去にも未来にも差しています。それは、あなたの最高なる正義と永遠の善意の輝かしいしるしです。

ⅵ.私達が誘惑に負けませんように、悪からお救いください。

 主よ、悪霊の誘惑に抵抗出来る力をお与えください。彼等は私達に悪い考えを思い付かせ、私達を善の道から逸らそうとします。
 しかし私達はこの通り、向上と償いの為に地球上に生まれた未完成な霊です。悪の原因は私達自身の中にあり、悪霊は私達の悪い性癖を利用し、そこへ入り込んで私達を誘惑しているに過ぎません。
 私達の一つ一つの未完成な部分が、悪霊の影響に対し開かれた扉のようなものである一方で、悪霊は完璧な者の前には無力であり、対抗しようとはしません。彼等を遠ざけようとして何を行ったとしても、私達が悪を完全に放棄し、善を行う強固な意志を彼等の前に見せるのでなければ全く無効です。したがって私達は、努力を私達自身に向けなければならないのです。そうすることで悪霊は自然に私達の周りから遠ざかって行くのです。なぜなら、彼等を呼び寄せるものは悪であり、善に対しては拒絶するからです(→第二十八章 八十一-八十四)。
 主よ、私達が弱くなった時にはお守りください。私達の守護霊や善霊の声を通じて、私達の欠点を改めようとする意志をお与えください。そのことによって、不道徳な霊の接近に私達の魂を閉ざします(→第二十八章 十一)。
 主よ、したがって悪とはあなたの仕業ではないのです。なぜなら、全ての善の源からはどんな悪も創られることはないからです。悪とは、私達自身があなたの法を破り、あなたが与えてくれた自由を悪用することによって、創り出しているものなのです。人類があなたの法を守るようになった時、より進歩した世界がそうであるように、地球上からも悪は消えるのです。
 誰にとっても宿命的な悪は存在しません。その悪を楽しむ者にとってそれが抵抗出来ないもののように映るだけなのです。私達に悪を働こうとする意志を持つことが出来るのならば、善を働こうとする意志を持つことも出来るのです。ですから主よ、私達が誘惑に抵抗出来るように、あなたの、そして善霊の助力をお願い致します。

ⅶ.アーメン(そうでありますように)。

 主よ、私達の望みが実現しますように。しかし、全てをあなたの無限の英知に委ねます。私達が理解出来ないことに対しても、私達の意志ではなく、あなたの聖なる意志が働きますように。なぜならあなたは私達の善を望まれ、私達には何が相応しいのか、私達よりもよく知っておられるからです。
 主よ、私達はこの祈りを私達自身の為に唱えます。しかし、生きている者、死んでいる者を問わず、他の苦しんでいる者や、私達の仲間、私達の敵、又、私達の救済を特に求めている「○○」の為にも捧げます。
 全ての人達の為に、あなたの慈悲と祝福をお願い致します。
(ここで神に向かい、与えられた恵みに対する感謝と、あなた自身もしくは他人の為のお願いを形に表し、唱えることが出来ます。)

スピリティズムの集会

四、私の名において二人でも三人でも集まるのであるならば、私はその間にいます。
(マタイ 第十八章 二十)

五、<序文>イエスの名において集まるには、物理的に集まるだけでは足りません。善に向いた意志と思考を共有することによって、霊的に集まることが必要です。そうすればイエスはその集会の中にいることになり、イエスもしくは純粋な霊がその代わりとなって参加します。スピリティズムは、霊がどのように私達の間に存在するのかを私達に教えてくれます。流動的、霊的な身体によって、又は可視状態になる時にはその姿によって、私達はその存在を知ることが出来ます。等級が高ければ高い程その光を放射する力は大きく、その遍在性の力によって同時に多くの場所に存在することが出来ます。思考の光の一筋を送るだけで、そうすることが可能になるのです。
 この言葉によって、イエスは統合と同胞愛の力を示したかったのです。人数の多少が霊を呼ぶのではありません。もし、そうであったなら、イエスは二人、三人と言う代わりに、十人、二十人と言っていたでしょう。そうではなくて、お互いを励まし合う慈善の気持ちが霊を呼ぶのです。その為には二人でも十分ですが、たとえ祈りがイエスに向けられたとしても、もし二人が別々に祈るのであれば、又、何よりもお互いを思いやる気持ちが存在しないのであれば、二人の間に思考の共有はありません。もしお互いに警戒し合い、憎しみ、妬み、嫉妬を抱くなら、流動体の思考の鎖は、同情の衝撃によって一つに結び付く代わりに反発し合うことになり、それでは彼等はイエスの名において集まっていないことになります。そのような場合、イエスはその集会の口実でしかなく、真なる集会の目的ではないのです(→第二十七章 九)。
 だからといって、イエスがたった一人の言うことを聞いてくれないわけではありません。彼が「私を呼ぶ者には誰にでも耳を傾けましょう」と言わなかったのは、何よりもまず、隣人への愛が不可欠であり、それは個人でというよりも、複数の人々が一緒になった方が証明し易いからです。なぜなら、いかなる個人的な感情も隣人への愛を否定することになるからです。ということは、大勢の集会において、二、三人だけが真なる慈善の気持ちで心から結ばれたとしても、残りの人達が自己中心的な考えや世俗的な考えに気を取られているとすれば、イエスは後者とではなく、二、三人の者達だけと共にあるのです。ですから、言葉や賛美歌や、その他外見的な身振りなどが同時に発せられることによってではなく、イエスの人格そのものであった慈善の精神に基づいた思考を共有することによって、イエスの名において集会を開くことが出来るのです(→第十章 七、八、 第二十七章 二-四)。
 これが、心から善霊の協力を望む、真剣なスピリティストの集会のあるべき姿です。

六、<祈り-集会の始まりにおける祈り>私達の集会に善霊が参加し、私達を悪へ導こうとする者達を遠ざけ、真実と偽りを区別する為の必要な光が与えられることを全能なる神にお願い致します。
 生きている者も、死んだ者も含め、私達の結束を分裂させることによって慈善と隣人への愛から遠ざけようとする邪悪な霊を、私達のもとから連れ去ってください。もしこの場に入り込もうとする者がいるのであれば、私達の心の中に彼等が入り込む隙が出来ないようにしてください。
 私達を指導してくださる善霊よ、私達があなた達にとって教え易い生徒となれますように。どんな利己的な考えも、高慢な考えも、又羨み、妬み深い考えも、私達のもとから遠ざけてください。ここに集っている人達、この場にいない人達、友達、敵に対しても、寛大さと、慈悲深さをお教えください。私達を励ます感情によって、あなた達の道徳的な影響力を私達が感謝をもって認識することが出来ますように。
 あなた達の教えを伝える役目を負った霊媒達に、彼等に託された役目の神聖さ、実践しようとする行いの重要性を自覚させ、それによって献身的に働き、必要な収穫を得ることが出来ますように。
 もし私達の間に、善とは異なるその他の感情を持った者がいれば、その目を光に向けてあげてください。又、悪意を持ってここに参加しているのであれば、その者を赦してあげてください。私達もその者を赦します。
 私達の指導霊である、「○○」には、特に私達を監視し、見守ってくれますようお願い致します。

七、<祈り-集会の終わりにおける祈り>私達に教えを伝えに来てくれた善霊に感謝致します。教えられた事柄を実践出来るようお助けください。私達一人一人が、善を実践し、隣人を愛する意欲を強めて、ここを出て行くことが出来ますように。
 これらの教えが、今日の集会に参加することが出来た苦しむ霊、無知な霊、悪習のある霊にとっても有益なものとなりますように。彼等にも神の慈悲がありますようにお願い致します。

霊媒への祈り

八、神は言われる。終わりの日には、私の霊を全ての肉体に注ごう。すると、あなた達の息子や娘は預言をし、若者達は幻を見、老人達は夢を見るでしょう。その日、私のしもべ達にも、はしため達にも、私の霊を注ごう。すると、彼等は預言をするでしょう。
(使徒 第二章 十七、十八)

九、<序文>主は光が人類全てを照らし、霊の声があらゆるところへ響き渡り、不死の証が示されることを望まれたのです。今日、霊が世界中の様々なところでその存在を示しているのはその為であり、性別や年齢の差、置かれた状況の違いに関係なく、霊媒力があらゆる人達の間に見られるのは、そうあるべき時がやって来ている証拠です。
 可視の世界を知り、自然の秘密を探る為、神は人類に物理的な視力や肉体的な感覚を与え、又、特別な道具を与えました。望遠鏡によって、人類は宇宙の彼方を見つめることが出来るようになり、顕微鏡によって、無限に小さな世界を発見することが出来るようになりました。そして、見えざる世界を知る為に、神は霊媒力を与えられました。
 霊媒は霊からの教えの通訳となりますが、更に分かり易く言い換えるならば、彼等は霊が人間との交信を行う為に使用する道具となるのです。霊媒は永遠の生命の地平線を示してくれるのですから、その使命は神聖なものです。
 霊は人類にその未来を教える為にやって来ます。それは人類を善の道へ導く為で、この世で与えられた人類自身の進歩をもたらす物質的な仕事を減らす為ではありません。又、人間の野心や欲望を満たす為でもありません。このことからも、霊媒はその与えられた能力を悪用してはならないということをよく心得ておかなければなりません。委任された者で任命されたことの重要性を理解した者は、その能力を信心深く用います。もう一つの世界に存在する者達との関係を結ばせるという真剣な目的の為に与えられた能力を、自分、もしくは他人の娯楽や気晴らしの為に用いるなら、神聖を汚す行いとして、良心がその者を咎めるでしょう。
 霊媒は霊の教えの通訳者として、霊の働きかける私達の道徳的な変化を遂げる為の、重要な役割を果たさなければなりません。霊媒が果たすことの出来る役割は、その霊能力を向けた方向の正しさに応じます。間違った方向へ向ける者は、スピリティズムにとっては有益どころか、悪い影響をもたらします。彼等が与える悪い印象は、少なからぬ人々が、道徳的に変化することを遅らせることになります。ですから、同胞の善の為に与えられた能力をどのように使ったかということを問われることになるのです。
 善霊の助けを失いたくない霊媒は、自分自身の向上の為に働かなければなりません。その能力を伸ばして、大きくしたい者は、自分を神聖なる目的から逸らせてしまうあらゆることを避け、自分自身を道徳的に成長させなければなりません。
 もし時々、善霊が不完全な霊媒を使うのであれば、それはそうすることによってその霊媒を善の道へ導こうとするからです。しかし、その霊媒の心が固く、善霊の忠告が聞き入れられない場合は、善霊はそのもとを離れ、悪が自由にそこへ入り込むことが出来るようになるのです(→第二十四章 十一、十二)。
 ある期間にわたって、目覚めるような閃きを与えられておきながらも、善霊の忠告や通信を利用しなかったり、聞き入れない霊媒は、過ちを犯したり、無意味で馬鹿げたことを訴えるようになり、明らかに善霊が離れていったしるしが見られるようになるということを、私達の経験は教えてくれています。
 善霊の救済を受け、軽はずみで偽った霊から解放されることが、全ての真剣な霊媒の継続的な努力の目的でなければなりません。そうでないのであれば、霊能力というものはそれを持つ者を害し、危険な憑依へと悪化させる不毛な能力でしかありません。
 その責任を認識している霊媒は、いつでも奪われる可能性のある、彼のものではない一つの能力について、自慢するのではなく、それによってどのような善を得ることが出来るのか神に委ねます。通信が賞賛に値するものであったとしても、それによって自惚れたりはしません。なぜなら、通信というものがその霊媒の個人的な功労とは関係がないことを知っており、彼を通じて善霊が現れることが許されたことを神に感謝するからです。通信の内容が非難の的となったとしても、そのことによって自分を責めたりはしません。なぜなら、そうした通信内容とは、その霊媒が作り出すものではないことを知っているからです。そして彼は、自分が悪い霊の干渉を妨げるのに必要な能力を全て持っておらず、良い通信手段ではなかったと反省するのです。ですから、そうした能力を得ようとしてください。そして不足している力を祈りによって求めてください。

十、<祈り>全能なる神よ、懇願された霊との通信を、善霊が見守ってくれますようにお許しください。自分は悪い霊に影響されることはないなどと自惚れることがありませんように。通信を授かることの出来る価値を取り違えてしまうような過ちに導く、自尊心から私をお守りください。他の霊媒に対し、慈善に反するいかなる感情も持つことがないようお守りください。もし私が過ちを犯しそうになった時には、誰かが私を注意してくれますように。そのような時には、そうした過ちを自覚し、注意を受け入れることが出来るだけの慎ましさを私にお与えください。又、善霊が私に与えてくれる教えを、他人の為ではなく、自分の為として受け止めることが出来ますように。
 何事であれ、もし、過ちを犯す誘惑に負けそうになったり、私にお与えになった能力によって自惚れるようであれば、神聖なる目的の為の能力が間違ったことに使われる前に、私自身の道徳的進歩の為にも、私からその力を剥奪してください。

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