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カテゴリ:★『スピリティズムによる福音』 > スピリティズムによる福音 第18章

第十八章 多くの者が呼ばれるが、選ばれる者は少ない

結婚披露宴のたとえ話

狭き扉

主よ、主よ、と言う者が皆天に国に入るわけではない

多くを受けた者は多くを求められる

◆霊達からの指導

持つ者に与える

行いによりキリスト教徒であることを知る

結婚披露宴のたとえ話

一、イエスはたとえ話によって更に語ってこう言われた、「天の国は、王子の結婚披露宴を開こうとする王と同じである。その王は家来を遣わし、披露宴に招待した者を呼びに行かせたのだが、誰も来ようとはしなかった。そこで王は、別の家来達を遣わし、招待客に次のことを伝えるように命令した、『晩餐の用意が出来ました。私の牛と山羊をみな料理して、全ての準備が整いました。披露宴へおいでください』。しかし、招待された者達は、それに気を取られる様子もなく、ある者は自分の畑へ、ある者は商売をしに出かけてしまった。また別の者達は、遣わされた家来を捕え、大いに侮辱した後に殺してしまった。それを知って王は怒り、軍隊を送って人殺し共を滅ぼし、その町を焼き払ってしまった。
 そして家来達に言った、『結婚披露宴は完全に準備が整っているが、そこに招待していたのは相応しい者ではなかった。故に、道の交差するところへ行き、そこで出会う全ての者を披露宴に連れて来なさい』。家来達は道へ出て行き、善い者も悪い者も、出会う者は全て連れて来た。披露宴の席は一杯になった。
 王が入って来て、テーブルに着いた人々を見回すと、そこには礼服を着ていない者が一人いた。その者に向かって王が言った、『友よ、どうして礼服を着ないでここに来たのですか』。しかしその者は黙っていた。すると王は家来に言った、『この者の手足を縛り、外の闇へ放り出せ。そこで涙を流し、歯を鳴らして震えるがよい』。呼ばれる者は多いのですが、選ばれる者は少ないのです」。
(マタイ 第二十二章 一-十四)

二、不信心な者はこの話を幼稚で単純だと笑い、なぜ披露宴に出席するのにそれ程の困難があるのか理解出来ず、更には招待された人がなぜ、招く為に家の主人より送られて来た人達を殺してしまうまでに抵抗するのか、ということが理解出来ません。そのような者は、「たとえ話というのは勿論象徴的なものです。しかし、そうであったとしても、真実としての限界を越えない必要がある」と言うでしょう。
 その他のたとえ話や、最も巧に創られたおとぎ話に関しても、それらから装飾的な部分を取り除き、隠された本当の意味を見い出せなければ、同じようなことが言えるかもしれません。イエスはそのたとえ話を、生活の最もありふれた習慣を題材として創り、その話を聞かせる人々の特徴や習わしに適応させました。それらの話の大半は、一般大衆の間に霊的な生活の考えを浸透させることを目的としており、それらを解釈する時に、こうした視点から見なければ、多くの話はその意味において理解不能であるかのようになります。
 ここで扱うたとえ話の中でイエスは、全てが喜びと幸せに満ちた天の国を披露宴にたとえています。最初の招待客のことに触れ、最初に神にその法を知るように招かれたヘブライ人達に注意を促しています。王に遣わされた家来達とは、真なる幸せの道に従うように唱えた預言者達です。しかし、その言葉は殆ど聞き入れられませんでした。その注意は軽んじられました。たとえ話の中の家来達のように、多くの者は本当に殺されました。招かれながらも言い訳をし、畑や商売の面倒を見に行かなければならないと言うのは世俗的な人々で、地上の事柄に浸かり、天の事柄に対しては無関心でい続ける人達のことを象徴しています。
 当時のユダヤ人の間では、彼等の国がその他の全ての国々に対して優越していなければならないと信じられているのが一般的でした。実際、神はアブラハムの子孫が全地上を覆うことを約束しませんでしたか。しかし、いつもそうであるように、真意を推し量ることなく形式だけを捉え、彼等はそれが物質的、物理的な支配のことだと信じたのです。
 キリストの到来以前、ヘブライ人を除く全ての民族は偶像崇拝をしており、多神教でした。上位の人々から庶民に至るまで、神の唯一性という考えを心に抱いたとしても、それは個人的な考えとして留まり、どこにおいても基本的な真実として受け入れられることはなく、もしくは、そうした考えを持つ者は、神秘のベールの下にそうした知識を隠していた為に、一般大衆にそうした考えが浸透することはありませんでした。ヘブライ人は公に一神教を始めた最初の民族です。神は彼等に対して最初はモーゼを通じて、その後イエスを通じて、その法を伝えました。その小さな焦点から世界中に向けて溢れ出す光が放たれ、異教に打ち勝ち、アブラハムの霊的な子孫を「天の星の数ほど」もたらすことになるのです。しかし、偶像崇拝を放棄しながらも、ユダヤ人達は道徳の法を軽んじ、形式的な儀式というより安易な手段に執着してしまったのです。悪は頂点に達しました。国は奴隷化されるばかりか、党派によって崩壊し、宗派に分裂しました。不信心が聖地にまで及んだのです。そしてその時イエスが現れましたが、イエスは神の法の遵守を呼び掛け、未来の命へ繋がる新しい地平線を彼等に広げる為に送られたのでした。善世界の信仰の大宴会に招待された最初の者達は、天から送られた救世主の言葉を拒み、生贄にしたのです。そしてそれにより、彼等のイニシアチブ( 物事を率先してすること。首唱。先導。主導権)によって得ることの出来た善い結果を失うことになってしまいました。
 しかしそうであるからといって、そうした状況になったことについてその民族全体を非難することは不適当です。その責任は主に、自尊心と狂信によって国を犠牲にした者達や、その他の不信心な者であるファリサイ人やサドカイ人にありました。故に、結婚披露宴への出席を拒んだ招待客とイエスが同一視するのは、誰よりも彼等なのです。「道の交差するところへ行き、そこで出会う全ての者を披露宴に連れて来なさい」と付け加えています。このように言うことによって、神の言葉がその後、異教徒であれ偶像崇拝者であれ、全ての民族に伝えられたことを述べ、その言葉を受け入れれば彼等が宴会に参加することが許され、当初の招待客の場所が与えられることに触れたのです。
 しかし、誰でも招待されるだけで事足りるわけではありません。自分がキリスト教徒であるというだけでは足りず、テーブルについて、天の宴会に参加するだけではいけないのです。何よりも最初に明白な条件として、礼服を着ていること、すなわち、清い心を持ち、霊に従って法を守ることが必要なのです。ところで、その法の全ては次の言葉に要約されます。「慈善なしには救われません」。しかし、神の声を聞くあなた達全ての間でも、それを守り、有益に用いる者のなんと少ないことでしょうか。天の王国に入るに相応しい者のなんと少ないことでしょうか。故にイエスは言ったのです。「呼ばれる者は多いのですが、選ばれる者は少ないのです」。

狭き扉

三、狭き扉より入りなさい。なぜなら堕落の扉は広く、そこへ辿り着く道は広く、多くの者がそこから入るからです。命に至る扉の何と狭いことでしょう。そこへ辿り着く道は何と窮屈なことでしょう。そして、その扉に出会える者の何と少ないことでしょう。
(マタイ 第七章 十三、十四)

四、ある人がイエスに尋ねた、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」。イエスは人々に答えて言われた、「狭き扉より入るように努力してください。実際、そこを通ろうとしても、通ることの出来ない人が多いでしょう。家の主人が入り扉を閉めた後、あなた達が外から扉を叩き、『ご主人様、開けてください』と言っても、主人はあなた達に答えるでしょう、『あなたがどこの人であるか私は知りません』。あなた達は言うでしょう、『あなたと飲食を共にしました。あなたは広場において私達を指導してくれました』。主人は答えるでしょう、『あなた達がどこの人であるか私は知りません。非道を行う者は私から遠ざかりなさい』。
 あなた方は、アブラハム、イサク、ヤコブや全ての預言者達が、神の国に入っているのに、自分達は外に投げ出されることになれば、そこで泣き叫んだり、歯噛みをしたりするでしょう。東からも西からも、北からも南からも多くの者が神の国の宴会に参加するでしょう。こうして後の者で先になる者があり、また、先の者で後になる者もあるのです」
(→第二十章 二)。(ルカ 第十三章 二十三-三十)

五、堕落の扉は広い。なぜなら、悪しき感情は多く、大抵の人は悪の道を進むからです。救いの扉は狭い。なぜなら、そこを通ろうとする者には、自分自身の悪しき傾向に打ち勝ち、数少ない者が受け入れることの出来る事柄を甘受する為の、自分自身に対する多大な努力が強いられるからです。それが、「多くの者が呼ばれるが、選ばれる者は少ない」という金言の補足です。
 地上における人類の状況とはそのようなものですが、それは地球が試練の世界であり、悪の方がより広く支配しているからです。それが変化した時には、善の道を通る者の方が多くなることになります。したがって、これらの言葉は、絶対的な意味によってではなく、相対的な意味において解釈されるべきです。もしその悪の状態が人類の普通の状態であったなら、神はその被造物の大多数に堕落を強いることになりますが、全正義で善意である神を知る者にとって、それは受け入れられない推測です。
 しかし、もし全人類が地球だけに追いやられており、その魂に前世がなかったとしたら、現在、そして未来においてもかくも悲しい運命が与えられた人類は、一体どんな罪を犯したのでしょうか。なぜ、あなた達の足元にはそれ程多くの妨げが置かれているのでしょうか。もし魂を待つ運命が、死の直後に永遠に定められるのだとしたら、なぜほんの少しの者にしか通ることの出来ない狭き扉がなければならないのでしょうか。このように、一回のみの人生しかなかったとしたら、人類は常に神の正義に対して矛盾を感じることになるでしょう。魂に前世が存在することや、世界の複数性によって地平線は広がります。信心の最も暗い部分への光となります。現在と未来は過去と共に一体化し、それによってのみキリストの教えの全英知、全真実、全深意を理解することが出来るようになります。

主よ、主よ、と言う者が、皆天の国に入るわけではない

六、私に「主よ、主よ」と言う者全てが天の国に入るわけではありません。天にいる私の父である神の意志に従って行う者だけが入るのです。その日多くの者が私に言うでしょう、「主よ、主よ、あなたの名において私達は預言しませんでしたか。あなたの名において悪魔を追いやりませんでしたか。あなたの名において多くの奇跡を起こしませんでしたか」。その時、私は大きな声で言うでしょう、「あなたがどこの人であるか私は知りません。非道を行う者は私から遠ざかりなさい」。
(マタイ 第七章 二十一-二十三)

七、故に、私の言葉を聞き、それを実践する者は、岩の上に家を建てた賢い者に喩えることが出来るでしょう。雨が降り、川が溢れ、風が吹いた。それでも家は、岩の上に建てられていたので壊れることはありませんでした。しかし、私の言葉を聞き、それを実践しない者は、砂の上に家を建てた愚かな者と同じです。雨が降り、川が溢れ、風が吹き家を打つと、その家は壊れました。その壊れ方は激しいものでした。(マタイ 第七章 二十四-二十七 ルカ 第六章 四十六-四十九)

八、これらの最も小さな戒めを破り、人にそれを破るように教える者は、天の国において最後の者と呼ばれるでしょう。しかし、それを守り、教える者は、天の国において偉大な者と呼ばれるでしょう。(マタイ 第五章 十九)

九、イエスの使命を知る者は皆「主よ、主よ」と言います。しかし、その教訓に従わないのであれば、師、もしくは主と呼ぶことが、どんな役に立つというのでしょうか。外見的な献身の行動によって敬いながらも、同時に自尊心、エゴイズム、貪欲さ、その他の感情によってその教えを犠牲にする者はキリスト教徒でしょうか。毎日祈って過ごしながらも、少しも向上せず、同胞に対して寛大になったり慈善深くなったりすることのない人達はイエスの使徒でしょうか。いいえ。それは、祈りが口先にあっても心の中にはないファリサイ人達が使徒ではないのと同じです。形式によって人間にそのことを印象付けることは出来ても、神に印象付けることは出来ません。「主よ、あなたの名において預言を、すなわち教えを説きませんでしたか。あなたの名において悪魔を追い払いませんでしたか。あなたと飲食を共にしませんでしたか」とイエスに言ったとしても無意味なのです。イエスは彼等に答えます。「私は、あなた達が誰なのか知りません。あなた達は非道を行い、行動が口で言ったことに反し、あなたの隣人の悪口を言い、やもめ達を食いものにし、姦淫を行いました。心から反感や憎悪を滴らせ、私の名においてあなた達の兄弟から血を流させ、涙を乾かす代わりに流させる者は私から遠ざかりなさい」。神の国は、優しく、謙虚で慈善深い者達の為にある為、あなた達は涙を流し歯ぎしりをすることになります。言葉を多く唱えたり、ひざまずくことによって主の正義を曲げることを期待してはなりません。あなた達の唯一の道である愛と慈善の法の誠実な実践の道は開かれ、あなたはその恩恵を被るのです。
 イエスの言葉は真実であるが故に永遠です。天の生活への通行免状であるばかりか、地上の生活における平和、平安、安定の保証なのです。人類がつくる政治的、社会的、宗教的団体で、これらの言葉を支える団体が、岩の上に建てられた家のように安定しているのはこうした理由からです。人々はその中に幸せを感じることが出来るので、それらの言葉を守るのです。しかし、それらの言葉に違反する団体は、砂の上に建てられた家のように、革新の風と進歩の川によって取り壊されてしまうでしょう。

多くを受けた者は多くを求められる

十、主人の意志を知りながら、主人が望む通りに用意もせず勤めもしなかったしもべは、厳しく罰せられるでしょう。しかし、その意志を知らずに、罰に値するようなことを行った者は、より軽く罰せられるでしょう。多くを与えられた者には多くが求められ、より多くを託された者に対してはより大きな責任が問われるのです。
(ルカ 第十二章 四十七、四十八)

十一、イエスは言われた、「見えない者が見えるようになり、見える者が見えないようになるよう審判を下す為に、この世にやって来ました」。イエスと共にいたファリサイ人達は、それを聞いて質問をした、「私達もまた盲目なのですか」。イエスは答えて言われた、「もしあなた達が盲目であったなら、罪はないでしょう。しかし、今あなた達が『見える』と言い張るところにあなた方の罪があるのです」。(ヨハネ 第九章 三十九-四十一)

十二、これらの金言は、霊達の教えに特に当てはまります。キリストの教えを知りながらそれを守らぬ者は、誰であれ責任が問われます。しかしながら、それを含む福音がキリスト教の宗派の中にしか広められていないばかりか、その宗派の中でさえもそれを読まない者が何と多く、また読んだとしてもそれを理解出来ない者が何と多いことでしょうか。結果的に、イエスの言葉そのものは多くの人にとって無駄になっています。
 霊達の教えは、これらの金言を別の形で再生し、発展させ、それに対する解説を加え、誰の手にも届くようになっており、特に相手が限られたものではありません。あらゆる人が、教養があろうがなかろうが、信仰があろうがなかろうが、キリスト教徒であろうがなかろうがその金言を受け入れることが出来、また霊達はあらゆる場所で通信をします。直接受けようが、誰かを介して受けようが、それを受ける者はその無知を言い訳にすることは出来ません。教育を受けなかったことのせいにすることも、そのたとえの曖昧さのせいにすることも出来ません。故に、これらの金言を自分の向上の為に利用せず、それが心に響くことなく面白く興味深いものだと驚き、無益さ、自尊心、エゴイズム、物質的なものへの執着を減らすことも、自分の隣人に対して善くなることもない者は、真実を知る手段をより多く持っているが為に、より責任を問われることになります。
 善い通信を受ける霊媒で、悪に固執する者は、自分自身に対する非難を多くの場合は書いていることになるのですから、より注意をしなければなりません。なぜなら、自尊心に目をつむらせることなしには、霊が自分に通信を向けていることを認識することが出来ないからです。書き留めたり、他人に読んだりする教えを自分の為に受け止めることなく、それを他人に当てはめることばかりに気を取られている人には、「隣人の目の中にあるおが屑を見て、自分の目の中にある杭が見えない」というイエスの言葉が当てはまります(→第十章 九)。
「盲目であったなら、罪はないでしょう」という言葉によってイエスは罪の責任とは、その人が持つ知識に応じることを意味したかったのです。そして、その国で最も博識であると考えられ、実際そうであったファリサイ人達は、無知な国民よりもより責任があると神の目には映ったのです。
 今日、多くを受けた者には多くが求められると、スピリティストに対して言うことが出来ます。しかし、それを上手く利用した者には多くが与えられます。
 誠実なるスピリティストの払う最初の注意は、霊達が与える忠告の中に、自分に対して述べられたことが何かないだろうかと見つけようとすることでなければなりません。
 スピリティズムは「呼ばれる者」の数を増やします。そしてそれがもたらす信心によって「選ばれる者」の数も増やすことになるのです。

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