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カテゴリ:★『スピリティズムによる福音』 > スピリティズムによる福音 第14章

第十四章 あなた達の父母を敬いなさい

孝心

誰が私の母で、誰が私の兄弟なのでしょうか

肉体的な親族と霊的な親族

◆霊達からの指導

恩知らずな子供と家族の絆

一、あなた達は戒めを知っています。姦淫をしてはなりません。殺してはなりません。盗んではなりません。偽証をしてはなりません。誰をも欺いてはなりません。あなた達の父母を敬いなさい。(マルコ 第十章 十九、ルカ 第十八章 二十、マタイ 第十九章 十八、十九)


孝心

三、
自分の父親と母親を愛することが出来ない人には、隣人を愛することが出来ないことから、「あなた達の父母を敬いなさい」という戒めは、慈善と隣人愛の一般的な法から導き出すことが出来ます。しかし、「敬いなさい」という表現は、父母に対して更に負う義務、すなわち、孝心を含んでいます。神はこのように顕すことで、両親に対する愛には彼等に対して守らねばならない義務である敬意、注意、服従、寛大さ等が伴わねばならないことを示し、それは、隣人に対して一般に求められる慈善の全てよりも、更に厳しく守られなければならないことなのです。この義務は当然、父親や母親に代わる人に対しても当てはまりますが、献身の義務が少なければ少ない程その功労も大きいのです。この戒律を守れない者を、神はいつも厳しく罰します。
「あなた達の父母を敬いなさい」という言葉は、単に尊敬しなさいということからなるのではありません。彼等が必要とする時には、彼等の介護をしなければなりません。彼等が年老いた時、彼等が静養出来るようにしてあげなければなりません。私達が幼かった頃、彼等が私達にしてくれたように、彼等を優しく囲んであげなければなりません。
 特に、何も持たない父母に対してそうすることは、真なる孝心を表しています。自分達に必要なものを何一つ失うことなく、両親が飢え死にすることだけはないようにと必要最低限のことだけを行い、又、自分達には最高のものや、最も心地の良いものを残しておき、両親については道に放置しないまでも、家の最も居心地の悪いところに追いやりながら、自分達は偉大なことを行っていると考えている人々は、この戒律を守っていることになるでしょうか。嫌々ながらそれを行ったり、両親に家事を行うことの重圧を負わせ、残された人生の代償を高く支払わせたりしないのであればまだましです。年老いた親達が、若くて強い子供達の為に、仕えなければならないというのでしょうか。子供達に母乳を与えてくれていた時、母親はその母乳を子供達に売ろうとしたでしょうか。子供達が病気だった時夜通し看病したことや、必要なものを手に入れようとして歩いた道のりを、母親は果たして数えていたでしょうか。子供達は、貧しい両親に対して最低限必要なものだけではなく、可能な範囲の中で、ちょっとした小さな気遣いや、愛情の籠った介護の義務を負っているのであり、それらは子供達が既に受け取った神聖なる借金の金利を支払うことにしか相当しないのです。こうした孝心だけが神を喜ばすことになります。
 弱かった時に自分を守ってくれた人達に、自分が何を負っているのかを忘れてしまう人は哀れです。彼等は子供達の安らかな生活を確保する為に何度も厳しい犠牲を払い、子供達に物質的な生活を与えながら道徳的な生活をも与えたのです。恩知らずな者達は哀れです。そのような者達はやがて、恩知らずと放棄によって罰せられます。彼等は、最も大切な愛情によって傷付けられることになりますが、それは時として現世の内に起こり、そうでなければ別の人生において必ず、人に対して行ったのと同じことで苦しむことになります。
 中には義務を無視し、子供達に対してあるべき姿を持たない父母がいることも確かです。しかし、そうした親を罰するのは神の義務であり、その子供達の役割ではありません。子供達にはこうした親達を非難する権限はないのです。なぜなら、その子供達は恐らくそのような親を持つに値したからなのです。慈善の法が、悪を善によって返すことや、他人の不完全性に対して寛大であること、隣人の悪口を言わないこと、他人の侮辱を赦し忘れること、敵をも愛することを命じているのであれば、子供にとって、これらの義務を親との関係において果たすことが、どれだけ重要なことであるか分かります。したがって、子供達は自分達の親に対する品行の中で、隣人との関係についてイエスが教えたことの全てを規則として取り入れ、他人との関係で非難される行動は、両親との関係においては更に大きな非難を受けることになるということを、いつも覚えておかなければなりません。そして前者との関係においては単なる過ちに過ぎないことが、後者との関係においては、罪と考えられることがあるということを覚えておかなければなりません。なぜなら、後者の場合においては、慈善の欠如ばかりか、忘恩が加わるからです。

四、「主であるあなた達の神が、あなた達に地上で生きる為の長い時間を与えてくれるよう、あなた達の父母を敬いなさい」と神は言いました。なぜこの言葉は天の生活ではなく、地上での生活を報酬として約束しているのでしょうか。その説明は次の言葉に見ることが出来ます。「主であるあなた達の神が与えてくれる」という言葉は、現代の十戒の形式からは除かれていますが、こうした言葉が特別な意味を与えているのです。言葉を理解するには、当時のヘブライ人達の考え方や状況について言及しなければなりません。彼等は未だ死後の世界について知ることはなく、その視野は肉体を持った人生を超えるものではありませんでした。したがって、目で見えないものよりも、目で見えるものによって印象付けられる必要があったのです。そこで神は、子供達に話しかけるように、彼等の理解の届く言葉によって、彼等を満足させることが出来るもので期待を持たせたのです。ヘブライ人達は砂漠に住んでいました。神が彼等に与えるのは、約束された土地、それは彼等の熱望するものでした。彼等はそれ以外のものは何も望んでいなかったのです。神は、彼等がもし戒律を守るのであれば、その地で彼等が長く生きるであろう、つまり、その土地を長い間所有するであろう、と言ったのです。
 しかしキリストの出現の時代を確かめると、彼等はその考え方をより発展させていたことが分かります。より物質的でない糧をとるべき時代が到来すると、イエス自身が彼等に対し、「私の国はこの世のものではありません」と言いながら、霊的な人生について教え始めます。「地上ではなく、向こう側で、あなた達は善行の報酬を受けることになるのです」。これらの言葉によって、約束された土地は物質的な土地ではなくなり、天の母国となるのです。こうした理由によって、「あなた達の父母を敬いなさい」という戒めを守ることが呼び掛けられる時、彼等に地上の土地が約束されるのではなく、天が約束されるのです(→第二章、第三章)。

誰が私の母で、誰が私の兄弟なのでしょうか

五、そしてイエスが家へ戻られると、そこには大勢の人々が集まっており、食事を摂ることも出来なかった。そのことを知ると、身内の者達はイエスを取り押さえに出て来た。気が狂ったと思ったからである。
 しかし、母親と兄弟達が外で待っているのを見ると、人々はイエスを呼ぶように言った。するとイエスの周りに座っていた人々はイエスに言った、「あなたのお母さんと兄弟達があなたを外で呼んでいます」。イエスは答えて言われた、「誰が私の母親で、誰が私の兄弟なのでしょうか」。そして自分の周りに座っていた人達を見回すと、「ここに私の母親と兄弟がいます。神の意志によって行う者は皆、私の兄弟、姉妹、そして母親なのです」と言われた。
(マルコ 第三章 二十、二十一、三十一-三十五、マタイ 第十二章 四十六-五十)

六、イエスの善意とあらゆる人に対する普遍の慈悲心からすると、イエスの言葉の幾つかは一見、風変わりに聞こえます。不信心な者はそうした部分を取り上げ、イエスが矛盾していると言って攻撃する為の武器とします。しかし、イエスの教義には原則として、その基盤に愛と慈善の法があることを否定することは出来ません。イエスが一方で築いたものを、もう一方で崩しているとは考えられません。故に結果として、まさに次のことが言えます。もしイエスの言ったあることが基本原則と矛盾しているのであれば、伝えられた言葉が正しく再生されなかったか、正しく理解されなかったか、もしくはそれらの言葉はイエスのものではないことになります。

七、この場面では、驚くことに、イエスの親戚に対する無関心が見受けられ、ある意味で母親を裏切ったように捉えることが出来ます。
 イエスの兄弟については、彼等はあまりイエスを好んでいませんでした。進歩の遅れた霊達であり、イエスの任務を理解することが出来ませんでした。イエスを変わり者と考え、イエスの行動や教えは彼等の心を動かすことはなく、誰一人イエスの使徒として従う者はいませんでした。それでも、イエスの敵からも彼等もある程度は警戒されていたと言われています。そして、実際にはイエスが家族の前に現れると、彼等はイエスを兄弟としてというよりも変わり者として扱いました。ヨハネははっきりと、「彼等はイエスを信じていなかった(→ヨハネ 第七章 五)」と記しています。
 母親に関して、イエスに対するその優しさを誰も否定することはないでしょう。しかしながら、彼女も息子の任務について正確に理解していなかったことを知るべきで、彼女はイエスの教えを守ることはなく、バプテスマのヨハネのようにイエスの証人となることはありませんでした。彼女の中で勝っていたのは母親としての気遣いだったのです。イエスが母親を裏切ったと見るのは、イエスのことを知らない者の見方です。「父母を敬いなさい」と教えた者の考えの中に、母親への裏切りが隠されている筈がありません。したがって、たとえ話の形を殆どいつもとることによって、ベールに隠されたイエスの言葉が持つ、本来の意味を求めることが必要です。
 イエスは、どんな機会をも無駄にすることなく教えを説きました。そこで、家族が到着したのを見て、肉体的な親族と霊的な親族との違いについてはっきりと示す為にその機会を利用したのです。

肉体的な親族と霊的な親族

八、
血液の繋がりは必ずしも霊的な繋がりを生むわけではありません。肉体は肉体より生じますが、霊は霊から生まれるのではなく、霊は肉体の形成以前から既に存在しているのです。父親が息子の霊を創造するのではありません。父親は息子の為に肉体的な被いを用意したに過ぎませんが、そのことが息子の進歩の為の知的・道徳的発展を補助する役割を果たしているのです。
 一つの家族に生まれてくる者達、特に近い親族として生まれる者達は、多くの場合、過去の人生での関係から結び付いている好意的な霊達であり、地上における人生で、お互いにその愛情を表します。しかし、その霊達が、前世でお互いの反感によって引き離された霊達で、お互いに全く馴染まない者同士であることから、地上ではそれをお互いの敵意として表すこともあり、その場合、その人生はその霊にとって試練となります。家族の真なる絆とは、血液の絆ではなく、観念の共有や共感によって結ばれる絆であって、その絆は生まれる以前、生きている間、そして死後にも霊達を結び付けます。違った両親を持つ二人が、血の繋がる兄弟以上に結び付きの強い霊的な兄弟であり得ます。このようなことから、霊的絆で結ばれた兄弟はお互いに引かれ、求め合うことになり、一方で、私達が日々目にすることが出来るように、血縁のある兄弟同士が拒絶し合うことがあるのです。そこには道徳的な問題が存在するのですが、それを、スピリティズムだけが存在の複数性の理解によって説明することが出来るのです(→第四章 十三)。
 すなわち、家族には二種類あります。霊的な絆で結ばれた家族と、肉体的な絆で結ばれた家族です。前者の方が継続性があり、霊の浄化によってより絆が強まり、魂の様々な移住を通じて霊界で永続します。後者の絆は物質と同じように時間が経つと消滅し、多くの場合、道徳的には現世中に消えてしまいます。これらのことをイエスは理解し易いように伝える為、使徒達に、ここに私の母親と兄弟がいます、つまり、私の霊的絆によって結ばれた家族であると言い、神の意志によって行う者は皆、私の兄弟、姉妹、そして母親なのです、と言ったのです。
 血縁のある兄弟達がイエスに抱いた敵意はマルコの話の中に明確に表されており、イエスを独占しようとして霊を失ったと言ってきた部分に見られます。彼等の到着が知らされると、イエスは彼等が自分に抱く気持ちを承知の上で、霊的な視点からそのことを使徒達に述べたのです。「ここに私の(真なる)母親と兄弟がいます」。イエスの母親は兄弟達と共にいましたが、イエスは教えを一般的に述べたのであり、決して肉体的絆を持つ母親が霊的な絆を持つ母親と違って無関心の対象となるべきだということを言ったのではないのであって、そのことをイエスは、他の様々な場面で十分に証明しています。

霊達からの指導

恩知らずな子供達と家族の絆

九、
忘恩は、エゴイズムから直接的に生み出された結果の一つです。誠実な心はいつもそれに抵抗します。しかし、子供達の親に対する忘恩は、更に憎悪の籠ったものです。この視点から特に忘恩について考慮し、原因と結果について分析してみましょう。この場合にも、他の場合がそうであるように、スピリティズムは人間の心が抱く大きな問題の一つに光を当ててくれます。
 霊は地上を後にする時、その霊の質的に固有の感情や美徳を持ち合わせて行き、宇宙において完成を遂げたり、光を受けようと望むまでそのまま止まったりします。したがって、多くの霊達は暴力的な憎悪に溢れ、満たされない反逆の欲望を抱いています。しかし、彼等の一部は、他の一部よりも進歩しており、真実の一片を垣間見ることになります。すると、憎悪に溢れた感情がもたらす不幸な結果を味わうことになり、善き決意をしようという気持ちを抱くことになります。神のもとへ辿り着くには、慈善というたった一つの合い言葉しかありません。しかし、侮辱や不正の忘却なき慈善は存在しません。赦しなき慈善も、憎悪に満ちた心による慈善も存在し得ません。
 すると、そうした霊達は今までにしたことのないような努力によって、それまで地上で誰を憎んでいたのかを見ることが出来るようになります。しかし、憎んだ相手を見ると、彼等の心の中には恨みがこみ上げてきます。赦したり、自分自身を犠牲にしたり、彼等の財産、家族、もしくは名誉を破壊した相手を愛するといった観念に抵抗します。しかし、不幸な彼等の心は動揺します。彼等は躊躇し、ためらい、相反する感情によって気持ちが乱されます。その試練の最も決定的な時に、善の決意が優勢であれば、彼等は神に祈り、善霊達が彼等に力を授けてくれるように懇願することになります。
 結果的には、何年もの瞑想と祈りの後に、その霊は自分が嫌った者の家族の一員の肉体を利用することになります。新たに生まれようとする肉体の運命を自ら満たしに行けるよう、上位からの命令を伝える霊達に許可を求めます。選ばれた家族の中で、その霊の行いはどうなるでしょうか。それはその霊の善き決意に強く固執するかどうかにかかっているのです。かつて憎んだ相手と常に接触することは恐ろしい試練であり、未だ十分に強い意志を持っていなければ、そこで挫折してしまうことも珍しくありません。このように、善き決意を保ち続けるかどうかによって、ともすれば、共に生きるように招かれた相手の友達までもが敵になってしまうことがあるのです。ある子供達に見られる、理解し難い本能的な反発や憎悪は、このようにして説明することが出来るのです。その時の人生の中に、そのような反感を実際に生む原因となるようなことは何も起きていません。その原因を知るには、私達の目を過去の人生へ向ける必要があるのです。
 ああ、スピリティスト達よ。人類の持つ大きな役割を理解しなければいけません。肉体が創られる時、その中に宿る魂は進歩する為に宇宙からやって来るのです。あなた達の義務についてよく知り、その魂が神に近付くことが出来るように、あなた達の全ての愛情を注いでください。それが神によってあなた達に任された任務であり、それを忠実に遂げることが出来ればその報酬を受けることが出来るのです。その魂にあなた達が払う注意と与える教育は、その魂の未来での完成と平安を助けることになります。神は全ての父親にも母親にも、「私があなたに加護を任せた子を、あなたはどうしましたか」と尋ねるのだということを覚えておいてください。もしあなたの責任でその子の進歩が遅れたままであったなら、罰としてその魂を苦しむ霊達の間に見ることになり、その時、あなたはその魂の幸せの責任を負っていることになります。すると、あなた達は後悔の念に悩まされ、あなた達の犯した過ちの謝罪を求めます。あなた達の為に、そしてその魂の為に、再び地上に生まれてその魂をより注意深く守り、その魂もそのことを認識した上で、その愛によって返礼することになります。
 だから、母親を拒絶する子供やあなた達に対して恩知らずな子供を追い出してはなりません。そうしたことやそうした子供があなたに与えられたことは、単なる偶然ではありません。それは過去についての不完全な直感の現れなのであり、そのことから、あなた達はある過去の人生において既に大いに憎んだか、或は大いに攻撃されたかのいずれかであると推定することが出来ます。どちらかが、償う為か、試練の為にやって来たのです。母親達よ、あなた達を不愉快にさせる子供を抱きしめ、自分に言ってください。「私達二人のどちらかに責任があるのです」と。神が母性に結び合わせた神聖なる喜びを享受するのに、あなた達が相応しくなるように、子供達に、私達は地上で完成し、愛し合い、祝福される為に生まれて来たのだということを教えてあげてください。ああ、しかしあなた達の多くは、過去の人生から引き継いでいる生まれつきの悪の傾向を、教育を通じて摘み取る代わりに、罪深い弱さか、或は不注意によってそれらを保ち、大きくしてしまっており、やがてあなた達の心は子供達の忘恩で痛めつけられ、それがあなた達にとって試練の始まりとなるのです。
 任務はあなた達の目に映る程難しくはありません。地上の知識は必要としません。無知な者にも知識のある者にも、その役割を果たすことが出来、スピリティズムは人類の魂の不完全性の原因について知らしめることにより、その役割の達成に役立ちます。
 小さい時から子供は、前世から持ち越した善又は悪の本性の兆候を表します。両親はそれを研究しなければなりません。いかなる悪も、エゴと自尊心からもたらされます。ですから、両親はそうした悪癖の芽の存在を示す小さな兆候を警戒し、より深く根を張る前に、それらと戦うように注意しなければなりません。樹木から欠陥となる芽を摘み取る善き庭師のようにしなければなりません。エゴイズムと自尊心を成長させてしまったのであれば、後になってから忘恩によって報いられても驚いてはなりません。両親が子供の道徳的進歩に応じて、全てやるべきことを行ったのにもかかわらず、その成果がないのであれば、自分自身を負い目に感じる必要はなく、良心は平成を保つことが出来ます。そうした時、努力の成果が生まれないことから来るごく自然な苦しみに対して、神は、それが単にその子供の遅れから来るものであり、今開始された事業は次の人生において完了し、その忘恩の息子はその愛によって償ってくれるのだという確信を与えてくれることによって、偉大な慰安を残してくれているのです(→第十三章 十九)。
 神は試練を求める者の能力を超えた試練を与えることはありません。達成することの出来る試練がもたらされることしか許しません。もし成功を収めることが出来ないのであれば、それは可能性が不足したからではありません。意欲が欠けていたのです。悪の傾向に抵抗する代わりに、それらを楽しんでいる人達のなんと多いことでしょうか。こうした人達には、後の人生における涙と苦しみが待ち受けているのです。しかし、後悔に対して決して扉を閉ざすことのない神の善意を賞賛してください。苦しむことに疲れ、自尊心を捨て去った罪人は、いつの日か足元に身をひれ伏す放蕩息子を迎えようと神が両腕を広げてくれていることに気付くのです。よく聞いてください。厳しい試練は、神への思いを抱きながら受け止められるのであれば、それは殆どいつも苦しみの終わりと霊の完成を告げるものなのです。それは至上の時であり、その時、そうした試練がもたらす成果を失って再びやり直すことを望まないのであれば、その霊は何よりもまず、不平を言うことによって失敗しないようにしなければなりません。不満を述べる代わりに、あなた達に与えられた勝つ為の機会を神に感謝し、神が勝利の褒美をあなた達の為にとっておいてくれるようにしなければなりません。そうすれば、地上の世界の渦から出て霊の世界に入った時、あなた達は戦闘から勝利を収めて戻って来た兵士のように、そこで喝采を受けることになるのです。
 あらゆる試練の中で最も厳しいのは、心に害を及ぼすものです。勇気を持って物質的な損失や貧困に耐える者も、家族の忘恩に傷付けられ、家庭内の苦しみに負けてしまいます。おお、それは何と痛々しい苦しみであることでしょうか。しかし、そうした時、神の創造物が無期限に苦しむことは神の望むところではないのだから、魂の破壊が長引こうとも永遠の絶望は存在しないのだ、という確信と、悪の原因の認識以外に、何が有効に道徳的な勇気を立て直してくれるでしょうか。苦しみの短縮が、悪の原因そのものを破壊する為の一つ一つの努力にかかっているのだという考え以上に、力を与え、励ましとなるものがあるでしょうか。しかし、その為には、人間はその視線を地球上だけに留めたり、人生が一度きりだと考えたりしないようにする必要があります。視線を高く上げ、過去と未来の無限へと向けなければなりません。そうして忍耐強く待てば、神の正義があなた達に明らかにされます。なぜなら、地上では本当に恐ろしいものとして見えていたものが、解釈可能となるからです。そこで開いた傷口も、単なるかすり傷であると考えることが出来るようになります。こうして全体に向けて投げかけられた視線によって、家族の絆の真の姿があなた達に明らかにされます。最早メンバーが単なる壊れ易い物質的な絆で結び付いているようには見えなくなり、再生によって破壊されるのではなく、浄化されていくことによってより固く結び付き、永続していく霊の絆によって結び付いているように見えるようになるのです。
 好みの類似性、道徳的進度、集まろうと導く愛情によって、霊達は家族を形成します。その霊達は、地上に住む間、グループを形成する為に探し合いますが、それは宇宙においてもそうしているのであり、均質で纏まった家族というのはここに起因しているものなのです。もし、その人生の巡歴の間に一時的には別々になっても、新しい進歩を成し遂げ、後に幸せな再会をすることになります。しかし、自分だけの為に働くのではいけない為に、進歩の為になる慰めとよき模範を受けることが出来るように、進歩の遅れた霊が彼等の間に生まれて来ることを神は許されるのです。そうした霊が、時として他の霊達にとって混乱の種となることがありますが、これがそれらの霊達にとって試練や遂行せねばならない義務となるのです。
 だから、進歩の遅れた霊達を兄弟のように迎え入れてください。助けてあげてください。そうすれば、あなたが何人かの遭難者達を救済したことを、後に霊界において家族が祝福してくれるでしょうし、また遭難者達も、自分が救済する立場になった時には他の人を助けることが出来るでしょう。(聖アウグスティヌス パリ、1862年)

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