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カテゴリ:★『スピリティズムによる福音』 > スピリティズムによる福音 第7章

第七章 魂の貧しい者は幸いです

魂が貧しいということはどういうことか

自分を高くする者は下げられます

博学な者や知識人に隠された謎

◆霊達からの指導

自尊心と慎ましさ

地上における知性的な者の役割

魂が貧しいということはどういうことか

一、魂の貧しい者は幸いです、天の御国はその人のものだからです。
(マタイ 第五章 三)

二、魂の貧しい者は幸いです。信心のない者は、他の多くの金言と同様に、この金言を理解せず、馬鹿にします。しかし、イエスは知性に貧しい者を意味したのではなく、慎ましい者を意味したのです。天の国は慎ましい者の為であり、傲慢な者の為ではないと言ったのです。
 教養があり、知性的な人は、この世を見る限り一般的には自分達を高く評価し、その優秀さを強調し、神のことなどその関心に値しないと考えています。彼等自身のことだけが心配で、神のことまでその考えを持ち上げることが出来ません。このように自分達をあらゆるものより優秀であると考える傾向は、自分達を優秀と考える為に自分達を低くするものを否定し、しばしば神さえも否定します。或は神を認める時には、自分を最も優秀な神の属性の内の一人と考えるのです。天命を受けこの世のことだけに対し働きかけることで、この世を統治するのは十分であると自惚れているのです。自分の知性を宇宙の知性の大きさを持つと考え、何事も理解することが出来ると信じ、理解出来ないこともあり得るのだということを認めることが出来ないのです。彼等は何かについて発言する時、彼等の判断に対する反論を受け付けないのです。
 見えない世界と人類を超えた力を認めないのは、それらが手の届かない所にあるからではなく、彼等の考えの土台を掘り崩してしまうような、立脚することの出来ない観念に対して自尊心が反発するからです。だから、目に見え、手に取ることの出来る世界以外のものに対しては、軽蔑の笑みを見せることしか出来ないのです。そうしたことを信じるには、自分達の知性は高過ぎ、多くの知識を持っており、彼等の考えるには、そうしたことは無知な人々に向いているのであり、そうした人を魂の貧しい者と見做しているのです。
 しかし、何を言おうと、いつかは他の人達と同じように、皮肉を込めてバカにしている目に見えない世界に入らねばならないのです。その時、彼等は目を開き、過ちに気付くのです。しかし、公平である神は、その力を認めなかった者達を、神の法を慎み深く守った者達と同じように迎えるわけにはいかず、同じ者として割り当てることも出来ません。
 素朴な者だけに神の国があるという言葉の中で、イエスは、心の純真さと魂の慎ましさがなければ神の国で認められることはないと教えたのです。これらの資質を持った無知な者の方が、神よりも自分を信じる賢人よりも好ましいのです。いかなる場合においてもイエスは、神に近付ける徳として慎ましさを、神から遠ざける欠点として傲(おご)りを述べています。慎ましさは神に対する服従の態度であり、傲りとは神に対する反発の印であるという、とても自然な理由からです。したがって、人間の幸せの為には、この世で言う、魂が貧しくとも、道徳的な資質に富んでいることがより大切なのです。

自分を高くする者は下げられます

三、その時、使徒達がイエスの所に来て言った、「それでは、天の御国では、誰が一番偉いのでしょうか」。そこで、イエスは小さい子供を呼び寄せ、彼等の真ん中に立たせて言われた、「誠に言います。悔い改めて子供達のようにならない限り、天の御国には入れないでしょう。だから、この子供のように、自分を謙遜し自分を低くする者が、天の御国で一番偉いのです。又、誰でも、このような一人の子供を私の名の故に受け入れる者は、私を受け入れるのです」。
(マタイ 第十八章 一-五)

四、その時、ゼベダイの子達の母が、子供達と一緒にイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。イエスが彼女に、「どんな願いですか」と言われると、彼女は言った、「私のこの二人の息子が、あなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるようにお言葉を下さい」。イエスは答えて言われた、「あなた達は自分が何を求めているのか、分かっていないのです。私の飲もうとしている杯を飲むことが出来ますか」。彼等は「出来ます」と言った。イエスは言われた、「あなた達は私の杯を飲みはします。しかし、私の右と左に座ることは、この私の許すことではなく、私の父によって備えられている人々にだけ許されることなのです」。このことを聞いた他の十人は、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは彼等を呼び寄せて言われた、「あなた達も知っている通り、異邦人の支配者達はその民を支配し、偉い人達はその民の上に権力をふるいます。あなた達の間では、そうであってはなりません。あなた達の間で偉くなりたいと思う者は、皆の仕える者になりなさい。あなた達の間で人の先に立ちたいと思う者は、しもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられる為ではなく、仕える為であり、又、多くの人の為の救済の代価として、自分の命を与える為であるのと同じです」。(マタイ 第二十章 二十-二十八)

五、ある安息日に、食事をしようとして、ファリサイ人のある指導者の家に入られた時、みんながじっとイエスを見つめていた。招かれた人々が上座を選んでいる様子をご覧になっておられたイエスは、彼等にたとえを話された。「婚礼の披露宴に招かれた時には、上座に座ってはいけません。あなたより身分の高い人が招かれているかもしれないし、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』とあなたに言うなら、その時あなたは恥じ入って、末座に着くことになるでしょう。招かれるようなことがあって行ったなら、末座に着きなさい。そうすれば、あなたを招いた人が来て、『どうぞもっと上座にお進みください』と言うでしょう。その時は、満座の中で面目を施すことになります。なぜなら、誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」。(ルカ 第十四章 一、七-十一)

六、これらの金言は、神に選ばれた者に約束された幸せを得る為の根本的な条件として、イエスが絶えず教えている慎ましさの原則から生まれたもので、イエスが次の言葉にそれを纏めて示しました。「魂の貧しい者は幸いです、天の御国はその人のものだからです」。イエスは純心であることの象徴として子供を選び、「子供のように、自分を謙遜し自分を低くする者が、天の御国で一番偉いのです」と言ったのです。それは、上の者や強い者に媚びを売るということではありません。
 同じような基本的な考え方が、別の金言に結び付きます。「偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい」「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」。
 スピリティズムは実例によって理論を確認し、私達に、地上で小さくあった者達の霊界における偉大さを教えてくれます。そして多くの場合、地上において最も偉大で強い権力を持っていた者達が、霊界においてはとても小さいのです。これは、霊界において彼等を偉大にさせる、決して失われることのない美徳を、人間は死んでも持ち続けるからです。一方で、富、地位、栄光、生まれた家族の高貴さなど、地上で人間を偉大にしていたものは、別の世界へ持って行くことが出来ないのです。それら以外に何も持っていなかった者は、別の世界へ入ると、着るものまでも失った遭難者のように全てを失います。自尊心だけを失い切れずにいることが、地上において軽蔑していた者達が自分より上に、栄光に輝いて置かれているという新しい位置付けを、更に屈辱的なものにします。
 スピリティズムは同じ原理の応用を、連続する人生という視点から別の方法で示しています。ある人生において最も高い地位にあった者は、野心や自尊心を克服出来なかったのであれば、次の人生において最も低い地位に降ろされます。ですから、強制的に次の人生において地位を下げられたくないのであれば、地上において一番高い地位を求めたり、自分を他人より高い地位に置いてはなりません。反対に、最も慎ましく、質素な地位を求めなさい。あなたがより高い地位に置かれるに値するのであれば、神は天においてより高い場所を与えてくれるでしょう。

博学な者や知識人に隠された謎

七、その時イエスは声をあげて言われた、「天と地の主なる父よ、これらのことを博学な者や知識のある人には隠し、素朴で小さい者達に顕してくださったことを賞賛致します」。
(マタイ 第十一章 二十五)

八、これらのことを魂の貧しい、素朴で小さい者達に見せてくれたことをイエスが感謝しているのは、少し不思議に感じられるかもしれません。なぜなら、見かけ上は博学な者や知識人の方がこれらのことを理解し易いように見えるからです。しかし私達は、この慎ましい者とは、神の前で自分を低め、他人に対して自分が優れていると感じない者のことであるということを理解しなければなりません。又、一方の自尊心の高い者とはこの世における知識によって自惚れてしまい、自分が賢者であると思い、その為に神の存在を否定したり、或は神を否定しないまでも、昔、知識人が賢者であるつもりになって話したように、自分を神と同様に扱う者のことであるということを理解しなければなりません。その為、神は地上の秘密の探求を知識人達に任せ、神の前に屈服する慎ましい者達に天の秘密を見せてくれるのです。

九、スピリティズムによって今日明らかにされた偉大なる真実についても同様です。信心のない人達は、彼等を納得させ、改心させようとする霊達の側の努力が不足しているのだと言います。しかしそれは、霊達にとっては、強い信仰と慎ましさをもって光を求める者達のことの方が、もう既に全てを知っていると信じていて、神がその存在を証明して彼等を神の方向へ導くことが出来れば神は喜ぶであろうと考えている者達のことよりも、気にかかるからなのです。
 神の力は、大きな物にも小さな物にも示されています。神はその光を隠すのではなく、あらゆるところへ放っています。盲目な者達はそれを見ることが出来ないのです。神は彼等の目を無理矢理開こうとはしません。なぜなら、彼等自身が目を閉じていることを好んでいるからです。しかし自ら目を開く時が来る前に、暗闇にあることの苦しさを感じ、神の存在を認識し、彼等の自尊心が必然的に傷付けられる時が来なければなりません。不信心な者達に神の存在を示す為に、神は彼等一人一人にそれぞれ合った方法をとります。しかし、不信心である者が、「私を納得させるにはどれそれをやってください。いつ、どうしてください。そうすれば私は納得します」と言うように、何をし、何を言うべきなのかを決めるのではありません。
 神や、神の意志を伝える霊達が、こうした不信心な者達の要望に応えてくれないからといって驚いてはいけません。そうではなく、もし自分の最も身分の低い家来に何かを強要されたとしたら、何と応えるかを考えてみるべきです。神が条件を決めるのであり、神が条件を強要されるのではありません。神は慎ましく求める者には暖かく耳を傾けてくれますが、神より勝っていると考える者達のことを聞いてはくれません。

十、最も神を信じない者までもが屈してしまうような奇跡的な証拠によって、神は不信心な者達に個人的に触れることが出来ないのかとよく訊かれます。それが可能であることに、全く疑う余地はありません。しかしそのようにしたとして、そうすることの価値はどこにあるでしょうか。更に、それが何の役に立つと言えるでしょうか。彼等は、毎日あらゆる証拠を見せられていながらそれを受け入れず、「見ることは出来たが信じることは出来ない。なぜならそのようなことは不可能であることを知っているからだ」とまで言うのです。真実を認めることを拒否するのは、それを理解するその者の霊も、それを感じるその者の心も、まだそうなるところまで発達し切っていないからです。自尊心は彼等の目を覆う目隠しのようなものです。盲目な者の前に光をかざしてどうなるというのでしょうか。したがって、まず悪の原因を治すことが必要です。そうであるからこそ、優秀な医者のように、神はまずおごりを罰します。神が迷う子供達を見捨てることはありません。なぜなら、遅かれ早かれ彼等の目は開かれることを知っているからです。しかし、神はそれが各々の自分の意志によって開かれることを望んでいるのです。そうなれば、不信心であったことによって受けた苦しみに打ち勝ち、父親に赦しを求めた放蕩息子のように、自ら神の腕の中にやって来ます。

霊達からの指導

自尊心と慎ましさ

十一、
親愛なる友よ、神があなた達に平安をもたらしますように。あなた達が正しい道を進むことが出来るように励ましにやって参りました。
 神は、その昔地上で慎ましく生きた霊達に、あなた達を教化する任務を与えられました。あなた達の進歩を助ける機会という恵みをお与えくださいました。神の名が崇められますように。聖なる霊が私に光を与え、私を助けてくれることによって、私の言葉が分かり易いものとなり、それらの言葉が全ての人達のもとに届きますように。光に出逢うことが出来ないあなた達全ての人間の目の前に、光を輝かせることが出来るように、神の意志が私を助けてくれることをお願い致します。
 慎ましさは、あなた達の間では忘れ去られてしまった一つの美徳です。あなた達に与えられた大きな模範は、ほんの少ししか守られていません。しかし、慎ましさなしに、隣人に対する慈善の気持ちを持つことが出来るでしょうか。ああ、出来るわけがありません。なぜなら、慎ましさこそが人間を平等にするからです。あなた達は兄弟であり、それ故お互いに善に向かって助け合わなければならないのです。自分達の身体の不恰好さを隠す為に衣装を纏っているかのように、慎ましさに欠けるあなた達は持ちもしない美徳で身を飾ります。私達を救ってくれた者のことを思い出してください。彼を偉大にしたその慎ましさが、あらゆる預言者達よりも彼を上に位置付けたのです。
 自尊心は慎ましさに全く相反するものです。キリストが最も貧しい者達に天の国を約束したのは、地上の偉大なる者達が名誉や豊かさとは自分自身の功労に対して与えられるものだと考え、自分達を貧しい者達よりも純粋な存在だと考えていたからなのです。それ故彼等は、名誉や豊かさを自分達の為のものであると信じ、神が自分達を地上から連れ去ると、神は不当であると不満を言うのでした。おお、何というおかしなことでしょう。何も見えていないのです。神はあなた達の身体を見て区別するのでしょうか。貧しい者と豊かな者の肉体は同じではありませんか。創造主は二種類の人間を造ったのでしょうか。神の造られたもの全てが賢く偉大なのです。自尊心の強いあなた達の頭から生まれる考えを、神に属するものであるなどと決して考えてはいけません。
 ああ、富める者達よ。寒さから守られた金の屋根の下であなた達が眠る間、何千人ものあなた達と全く同じ兄弟達が藁(わら)の上に横たわっているのを知っていますか。飢えに苦しむ不幸な者達は、あなた達と同類の者ではありませんか。こうした言葉にあなた達の自尊心が反発することを私はよく知っています。施しを与えることに同意することはあっても、その貧しい者の手を兄弟愛をもって握りしめることはありません。「高貴な血縁の下に生まれた、地上における偉大なる私が、そのボロを纏った惨めな者達と同じだなんて。それは偽哲学者の作り上げた、つまらぬ理想郷のことだ。もし、私達が彼等と同じならば、なぜ神は私をこんなに高い所に置き、彼等をあんな低い所に置いたのだ」。富める者達の衣装は、貧しい者達のそれとは似ても似つかぬことは事実です。しかし、それらが奪われてしまったら、両者の間にどんな違いがあるというのでしょうか。それにもかかわらず、血筋が高貴なのだと言うのかもしれません。しかし、今日までに科学は高貴な者と平民との間に、又は、奴隷の主人と奴隷との間に血液の違いを発見していません。あなたが過去においても彼と同じように惨めで哀れな状態でなかったと、誰が断言出来るでしょうか。あなたも物乞いをしたことがあるのではないでしょうか。あなたが今日軽蔑している相手に、未来において物乞いをする可能性がないと誰が言い切れるでしょうか。富とは永遠なるものでしょうか。あなたの霊を取り巻く儚い覆いである肉体が消滅すれば消えてしまうものではありませんか。ああ、もう少し慎ましくあってください。この世の現実に目を向け、何が人を偉大さに導き、何が人の価値を下げるのかに目を向けてください。死は誰をも残してくれないように、あなたも残してはくれません。今日にでも、明日にでも、いつ襲ってくるか判らない死の攻撃から、あなたの地位はあなたを守ってはくれません。もしあなたがその自尊心の中に埋もれ続けるのであれば、ああ、私にとってそれは大変悲しいことです。あなたは深い同情を受けるに値します。
 傲慢な者よ。高貴で、強い権力を持つようになる以前、あなたは誰であったのでしょうか。もしかしたら、あなたの召使いの内の最も下層の者よりも低い所に居たのかもしれません。ですから、あなたの誇り高い額を下げるのです。なぜなら、あなた達が額を最も高く上げた時、神はあなた達にその額を下げさせるようにすることが出来るからです。神の秤の上で、人類は皆平等です。一人一人の持つ美徳だけが、神の目には区別されるのです。全ての霊が同じ素からなっており、全ての肉体が同じ物質から造られています。名声や地位は墓の中に残され、選ばれた者達に与えられる幸運を享受する為には何の役にも立ちません。選ばれた者達の高潔な地位とは、慎ましさと慈善の行いによってのみ築かれるものなのです。
 可哀想な者よ。あなたは苦しむ子供の母親なのです。寒さに震え、飢えを訴えている彼等の為に、パンの欠片を手に入れる為、重い十字架を背負い、頭を下げに出て行きなさい。おお。あなたの前に私は頭を下げます。私にとってあなたは何と高貴で尊いことでしょうか。祈り、待つのです。至福は未だこの世のものではありません。神を信じる抑圧された貧しい者達の為に、神は天の国を与えてくれるのです。
 労働と剥奪の前に放り出された、まだ子供でしかない娘よ。どうしてそんなに悲しむのですか。なぜ泣くのですか。慈悲深く穏やかな神のもとへあなたの目を向けてみてください。神は小鳥達にも食べ物を与え、あなた達を信じてくれています。神はあなた達を見放されることはありません。宴に響く笑い声や、この世の喜びにあなたの胸は高く鳴ります。髪を花で飾り、地上の幸運な者達と共に交わりたいと思うでしょう。屈託なく楽しそうに笑いながら通り過ぎる女達を見て、私も同じように豊かになれるのだと呟くでしょう。おお、そのようなことを言うのはお止めなさい。それらの飾られた衣装の下に、どれだけの涙と語り切れない苦しみが隠されていることか、どれだけすすり泣く声がその騒がしい話し声にかき消されていることか。あなたは自分の貧しさと慎ましい小屋の方が余程好ましいと思うに違いありません。あなたを守る天使が、その白い羽の下に顔を隠しながら神のもとへ戻って行って欲しくないなら、神の目にいつまでも純潔に映ることが出来るように自分を保ってください。案内人がいなくなったことを後悔し、次の世界において罰を受けるのを待ちながら、道に迷ってこの世に何の支えもなしに残されるのが嫌なのであれば。
 そして、人間の不当さに苦しめられているあなた達は皆、あなたの兄弟達の過ちに対し、あなた達自身も過ちから免れることは出来ないのだということを自分に言い聞かせ、彼等に対し寛大であってください。それは慈善の行為であり、慎ましさの証でもあります。もし中傷に遭ったなら、その試練の前に頭を下げてください。この世の中における中傷が、あなたにとって一体どんな意味を持つというのでしょう。あなたの行いが正しいのであれば、神によって報われるのではありませんか。人の侮辱を勇気を持って耐えるということは、慎ましく生き、神のみが偉大で万能であることを理解することです。
 おお、神よ。彼等が忘れてしまったあなたの法を教える為に、再びキリストがこの世に現れることが必要なのでしょうか。礼拝の為だけに存在する、あなたの家を汚しに寺院に集まる行商人達を、キリストは又追い払わなければならないのでしょうか。誰に否定することが出来ましょうか。ああ、人類よ。神がもしキリストの再来という許しをあなた達に与えてくれたとしても、あなた達は前回と同じようにキリストを棄て、キリストを冒涜者と呼んでいたかもしれません。なぜなら、キリストは現代のファリサイ人達の自尊心を辱めることになるからです。あなた達は、再びキリストにゴルゴタへの道を歩ませることになるでしょう。
 モーゼが神の戒めを受ける為にシナイ山へ登って行ってしまっている間、イスラエルの民は自分達だけになると、真なる神を棄て、男も女も持っていた宝石や金を、偶像を造る為に捧げたのでした。あなた達文明人は、その繰り返しを行っているのです。キリストはその教義をあなた達に伝えました。あなた達に全ての美徳の模範を示したにもかかわらず、あなた達は模範も規律も全て放棄してしまったのです。一人一人がその感情に駆られ、望み通りの神を造り上げているのです。ある者によればその神は恐ろしく残忍で、又別の者によれば地上の関心事に夢中になっています。あなた達が造り上げた神とは、あなた達一人一人の考えや趣味に合わせた金の子牛でしかないのです。
 兄弟達よ、友よ、目を覚ましてください。霊達の声があなた達の心にこだましますように。見栄を張ることなく、寛大で、慈悲深くあってください。つまり、慎ましく善を行いなさいということです。自尊心を奉り上げた祭壇を、一人一人が少しずつ取り崩して行くことが出来ますように。一言で言うならば、本当のキリスト教徒となり、真実の国を手に入れなさいということです。神の善意の証はこれ程多く存在するというのに、神の善意を疑い続けるのは止めてください。私達は預言が実現する道のりを準備する為に参りました。未来において神の寛大さがあなた達の間に響き渡る時、神によって送られた使い達は、あなた達が既に大きな家族をつくり始めているのを見ることが出来るでしょう。あなた達の優しく慎ましい心が、神のもたらしてくれる天の言葉を聞くに相応しいものとなりますように。選ばれた者達の道のりには、善、慈善、同胞愛に帰ることによってのみ敷かれる棕櫚(しゅろ)の葉を見ることが出来ますように。そうすれば、あなた達の世界は地上の楽園と化すことでしょう。しかし、文明化され、科学が発達していながらも、気高い感覚に乏しい社会を革新し、浄化する為に送られて来た霊達の声に対して、あなた達が鈍感であり続けるのであれば、ああ、あなた達に出来ることは最早、その運を嘆き苦しみ、泣くことだけでしょう。しかし、そうあってはなりません。あなた達の父である神の方へ向き直ってください。神の意志を達成する為に貢献してきた私達全てが、恩恵の賛美歌に調子を合わせ、尽きることのない神の善意に感謝し、幾世紀が経とうとも、神の栄光を讃えましょう。そうでありますように。(ラコルデール コンスタンティーヌ、1863年)

十二、人類よ、なぜあなた達は自分達で頭の上に積み上げた災いに対して不平を言うのですか。キリストの聖なる神の道徳をあなた達は軽んじているのです。だから非道がその杯からあらゆる方向へ溢れ出しても、驚いてはなりません。
 問題は広がっています。いつも自分達同士でお互いを潰し合おうとしているあなた達を責めずに、一体誰を責めればよいのでしょう。お互いの慈悲心なしには、あなた達は幸せになることは出来ません。しかし、慈悲心と自尊心がどう共存することが出来るでしょうか。自尊心とはあなた達の悪の全ての根源です。自尊心がもたらす悲しい結果を長引かせたくないのであれば、それを打ち壊すことに精を出してください。その為に、あなた達が身を捧げるべき唯一の失敗することのない方法があります。キリストの法をあなたの行動の不変の規則とすることです。あなた達が自分達の勝手な解釈によって拒否したり、偽物にしてしまったあのキリストの法です。
 あなた達はなぜ、心に訴えるものよりも目に輝いて映るものに重きを置かなければならないのですか。なぜ、裕福さの中にある不徳に媚び、卑しいものの中にある真なる価値のあるものを軽蔑するのですか。肉体も魂も失ってしまった堕落した金持ちには、どこにおいてもあらゆる扉が開かれ、全ての関心が注がれる一方で、自分の仕事に精を出す真面目な人に対しては、あなた達は勿体ぶり、挨拶さえもしようとしません。他人への配慮が、その者の持つ金の量や、その者の使う名前によって計られるのであれば、彼等にとって、その欠点を治すことに、何の面白味があると言えるのでしょうか。
 もし世の中の意見が、金を纏った者の不徳を、ボロ服を纏った不徳と同じように懲らしめたとしたら、大きく違ってくるでしょう。しかし、自尊心は裕福な者の不徳に媚びを売ることには寛大です。現代は貪欲さと金の時代なのだ、と言われるでしょう。それは疑いようもありません。しかし、どうして物質的な関心に良心と理性を支配させてしまうのでしょうか。なぜ、皆が自分達の兄弟よりも上に立とうとするのでしょうか。今日の社会はこうしたことがもたらす影響を受けています。
 そのような状態は、いつも間違いなく道徳的堕落の印であることを忘れないでください。極端なまでに自尊心が膨らんでいることは、近く落ちぶれる兆候です。神は高慢な人間を罰しないことはありません。神が彼等が持ち上げられることに同意する時は、彼等に熟考する時間を与え、注意を促す為に時々訪れる、自尊心に打ち響く出来事によって、自分を改めることが出来るようにする時です。しかしその時、彼等は自分を辱めるよりも、反抗します。すると、杯は溢れ、神は完全にその者をその高い所から降ろすのです。彼が自分を高く持ち上げていればいる程、下落は彼にとって恐ろしいものとなります。
 エゴイズムによって全ての習慣を堕落させてしまった可哀想な人類よ、何よりもまず、改める勇気を出してください。神はその無限なる慈悲によって、あなた達の欠点を治す強力な薬を送ってくれ、それは惨めな状態にあるあなたにとって、思いがけない救済となるでしょう。光に向けて目を開きなさい。そこには、もう地上には存在しない魂達が、あなたを本当の任務に就かせようと呼びに来てくれています。彼等は、虚栄心や一時的な地上での生活における偉大さというものが、無限の世界の前にどれだけつまらないものであるかということを、彼等の持つ経験を通じて教えてくれるでしょう。地上で兄弟を最も強く愛した者は、天においても最も愛されることになるでしょう。権威を濫用する地上の権力者は、自分の召使い達に従わなければならないように下げられるでしょう。慎ましさと慈善の気持ちは手を取り合う姉妹のようなもので、永遠なる神の前に恵みを受ける為の、最も有効な手段なのです。(アルジェの司教アドルフ マルマンド、1862年)

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