死にたい自殺サイト自殺方法自殺ダメ

当サイトは、死にたい人に自殺に関する霊的知識を与えて、自殺を止めさせる自殺防止サイトです。

自殺の霊的知識へ

カテゴリ:★『スピリティズムによる福音』 > スピリティズムによる福音 序章

四、ソクラテスとプラトン。キリスト教思想及びスピリティズムの先駆者達

 イエスがエッセニア人の宗派を知っていたからといって、イエスが自分の教義をそこから取り込んで生み出したと結論付けることは誤りであり、又そうであったとすれば、もしもイエスが別の環境に生まれていたとしたら別の主義を唱えていたことになってしまいます。偉大な考えというものは、決して突然登場することはありません。真実の上に位置する考えというものにはいつも先駆者がいて、分担して道を切り拓く準備をして行きます。後になって、その時がやって来ると、神はその考えを要約し、整え、散らばった要素を補い、それらを教義の幹として纏める者を送ることになります。このように、その考えは突然現れるのではない為、登場した時には受け入れる準備の出来た霊達に出会うことが出来るのです。キリスト教思想でもこのようなことが起こり、イエスやエッセニア人の何世紀も前には、その主な先駆者としてソクラテスとプラトンがいました。
 ソクラテスはキリストと同様に何も記しませんでした。少なくとも何も書き残しませんでした。当時の信仰を攻撃し、偽善や偶然の上に真なる美徳を掲げ、いわば、宗教的な偏見を打ち破った為、キリストのように狂信者の犠牲となり、罪人として死を遂げました。ファリサイ人達によって、その教えが民衆を堕落させていると非難されたイエスと同じように、ソクラテスも当時のファリサイ人に当たる人々に非難されました。神の唯一性、霊魂の不滅と未来の命についての教義を唱えて非難された人々は、いつの時代においても存在したのです。イエスの教義をその使徒達の書き残したものによってのみ知ることが出来るように、ソクラテスの教義も、その弟子プラトンによる記述によってのみ知ることが出来ます。ここで、最も重要な点について要約し、ソクラテスの教義とキリストの教えの原則、双方の一致している部分を示すことは有意義であると考えました。
 これらの二つの教義を対照することを不敬であると考え、多神教者の教義とキリストの教義の間に共通点がある筈がないと考える人々に対しては、ソクラテスが多神教者ではなく、彼の目的は多神教を崩すことにあったのだと申し上げておきます。より完全で浄化されたキリストの教義は、その比較において何も失うものはありません。神意によって送られたキリストの使命の偉大さが減じられることはありません。故に、その他のことについては、誰にも打ち消すことの出来なかった歴史的事実として扱われるのです。人類は、升の上に自ら光を灯す時代にまで辿り着いています。人類は十分成熟し、それに真正面から向かい合うことが出来るようになり、聞く耳を持とうとしない者にとってはより難しい時がやって来ました。物事をより広く、崇高に考える時代がやって来ており、最早宗派や階級による狭い心に制限された視野で見る時代ではありません。
 更に、このことは、ソクラテスとプラトンがキリストの思想を予感していたのであれば、その記述の中にスピリティズムの基本的な原則をも見出せることを証明してくれるでしょう。

ソクラテスとプラトンの教義の要約

一、人間とは肉体を持って生まれた魂である。肉体を持って生まれる以前はその本質的なもの、真理、善、美の考えに属していた。そこから肉体を得て分離するが、その過去を覚えている為に、そこへ戻ろうとする欲求に大なり小なり苦しめられる。
 
知性的な根本と物質的な根本との区別と、その独立性を、これ以上明確に表現することは出来ません。更に、魂が存在するという教えについても同様です。人間は、熱望するもう一方の世界に対する曖昧な直感-つまり死の後に、肉体の滅亡を超えて存在し続けることや、肉体を受けて生まれる為に霊界から出て来ること、そして再び同じ世界へ戻って行くこと-を抱き続けています。そして最終的には堕落した天使の教義に辿り着きます。

二、魂は、肉体を使ってある目的を達成しようとすると動揺する。移り行くものに執着する為に、酔ったように目まいを起こす。一方で、自らの本質を見つめる時には純粋で永遠、不死なるものに向かうが、魂の性質がそうである為に出来る限り長くそこに繋がれようとする。すると、普遍的なものと結び付く為に、道に迷わなくなる。その魂の状態を英知という。
 
このように、物事を地上においてしか考えることの出来ない人間は錯覚を起こしているのであって、物事を正確に鑑賞するには高い所から、つまり霊的な視点から見なければなりません。故に、本当の英知を有する者は肉体と魂を分離させ、霊の目によって物事を見なければならないのです。それはスピリティズムが教えることと同様です。(→第二章 五)。

三、私達の肉体と魂がこの堕落の中に存在する内は、私達の望む真実を手に入れることは出来ない。私達には肉体の面倒を見る必要がある為、そこから幾千もの障害が生じて来る。それに加え、肉体は欲望や、食欲、恐れ、数知れぬ妄想や、つまらぬことによって私達を満たし、その為に、肉体を持っている間に、分別を持つことは、ほんの一瞬の間でさえ不可能となる。しかし、魂が肉体に結び付いている間、私達には何も純粋な形で物事を知ることが出来ないのであれば、選択は二つに一つである。つまり、真実を決して知ることが出来ないか、死後それを知ることになるかのいずれかである。肉体の狂気から解放されれば、同様に解放された人々と会話をし、私達は物事の本質を自ら知ることになるのだ。こうした理由によって真なる哲学者は死の準備をするのであり、彼等にとって死は決して恐怖ではないのである。
 
肉体の器官によって弱められた魂の能力が、死後になって広がるのだ、という基本的な考え方がここにはあります。しかしそれは既に浄化された魂に起こることであり、不浄の魂に同様なことが起きることはありません。

四、不純な魂は、その状態において抑圧された状態にあり、不可視で非物質的であることによって、可視の世界に引きずられていくことになる。すると人々は、遺跡や墓石の周りで不気味な亡霊を見ると、それらが肉体を後にしながら、未だに完全に浄化されていない為に、物質的な姿を引きずっているもので、それが人間の目に見えるのだと間違えてしまう。実際には、それらは善なる魂ではなく、悪しき魂であり、こうした場所に彷徨うことを余儀なくされ、自分と共に生前の罰を引きずりながら、その物質的な姿に伴う欲求が再び別の肉体に反映されるまで彷徨い続けるのである。そして疑いもなく、最初の人生において有していた習慣を再び身に付け、それがその魂の執着となる。
 
再生(リインカーネイション)(→和訳注3)の原則ばかりか、スピリティズムにおいて霊との通信によって見られるような、肉体の枷(かせ)のもとにある魂の状態までもがここに明確に表現されています。更に、肉体への再生は魂の不浄の結果であり、浄化された魂は再生することから免れているとされています。全く同じことを、スピリティズムは述べていないでしょうか。付け加えるのであれば、霊界において善い決意を持った魂は、再生する際に、既に有する知識とより少ない欠点、より多くの美徳や直感的な考えを、その前の人生の時よりも多く持ち合わせているのです。こうすることによって、一回毎の人生は知性的、道徳的な進歩をもたらすことになるのです。

●和訳注3
再生(リインカーネイション)-魂が新たな肉体を授かり物質界に生まれること。

五、私達の死後、生きている間任務にあった妖精(ダイモン、デビル)は、ハデス(地獄)へ行かなければならない者を全て集めて連れて行き、そこでは審判が下される。魂達は、ハデスにおいて必要な時間を過ごすと、複数回に亘る長い人生に再び導かれる。
 
これは守護霊、もしくは保護霊の教義と、霊界におけるある程度の時間の間隔を置いた、連続的な再生の教義に他なりません。

六、ダイモンは地上と天を分ける空間に存在する。その空間とは、全てを自分自身に統合する偉大なる絆である。神が人間に直接通信をすることは決してなく、それはダイモンを介して行われ、ゼウス(神々)は彼等と取り決めを行い、起きている間も寝ている間もそれに従事する。
 
ダイモンという言葉はディーモン(悪魔)の語源となっていますが、昔は現代のように悪者と考えられてはいませんでした。悪意のある者だけではなく、一般的な霊を指し、その中にはゼウス(神々)と呼ばれる優秀な霊達も、人間と直接通信をする劣った霊、つまり所謂ディーモン(悪魔)も含まれていたのです。スピリティズムでも霊達が宇宙空間に住んでいると言います。神は純粋な霊達を介してのみ人類と通信し、それらの霊達は神の意志を伝えることを任されるのです。起きている間も寝ている間も霊達は人間と通信します。ダイモンという言葉の箇所に霊という言葉を置き換えれば、スピリティズムの教義がそこにあることが分かります。天使という言葉に置き換えると、そこにはキリスト教を読み取ることが出来ます。

七、(ソクラテスやプラトンの考えに基づく)哲学者達の不断の関心事は、魂に対して最も多くの注意を払うことであり、一時しか続くことのない現在の人生には多くの関心を持たず、永遠を視野に置くことである。魂は永遠なのであるから、永遠を見据えて生きる方が賢明ではないか。

キリスト教とスピリティズムは同じことを教えている

八、魂が非物質であるならば、この人生の後には同様に不可視で非物質の世界を通らねばならず、それは肉体が分解して物質へと戻るのと同じである。しかしその時、神のように思考や科学によって自らを養う純粋で真に非物質の魂と、物質の不純さによる汚点を残した魂で、神に向かって昇っていくことを拒み、地上において存在した場所に残留する者達とを区別することが大切である。
 
この通り、ソクラテスとプラトンは、魂の非物質化の程度の違いを完全に理解していたのでした。その純粋さの程度により状況が多様化することを主張したのです。彼等が直感的に述べたことを、スピリティズムは私達に無数の例を通じて証明しています。

九、死が人間の完全なる消滅であったのであれば、悪人は死によって多くを得ることになるであろう。なぜなら、同時に肉体や魂、悪癖からも自由になることが出来るからである。外見的な装飾ではなく、適切なものによって魂を飾ることが出来た者だけが別の世界へ旅立つ時を平穏に待つことが出来る。
 
これは唯物主義が、死の後には無が待っているということで、これまでのあらゆる責任を白紙にし、結果的に悪を助長することになるのだと言っているのに等しいのです。悪は、無によって全てにおいて得をすることになります。悪癖を捨て美徳によって豊かになった人だけが、別の人生に目覚めるのを安心して待つことが出来るのです。スピリティズムは、毎日私達に示してくれる例を用いて悪人にとって、この人生から別の人生、未来の人生への入り口へと移っていくことがどんなに苦しいことかを教えてくれます。

十、肉体はそれが受けた手当や遭遇した事故の痕跡をはっきりと保っている。同じことが魂にも言える。肉体に別れを告げると、魂はその性格の明白な形跡やその愛情、人生の間に残したあらゆる行動の跡を保つことになる。その為に、人間において起こりうる最悪の不幸とは、別の世界へ罪に覆われた魂を持って移って行くことである。あなたと同じように、カリクレスもポルックスも、ゴルギアスも、別の世界に行った時に有益となるような別の人生を歩まなければならないのだということを証明することは出来ない。これ程に多くの意見の中でも唯一揺らぐことのないことは、悪を働くよりも悪を受ける方が良いことであり、何よりも、私達は外見においてではなく、内面において善の人とならなければならないということである。(牢におけるソクラテスの弟子との対話より)
 ここに私達は、今日科学によって裏付けされたもう一つの重要な点を見出すことが出来ます。すなわち、浄化されていない魂は地上で持っていた考えや、傾向、性格、情熱を抱き続けるということです。悪を働くよりも悪を受ける方が価値があるという金言は、まったくキリスト教の考えと等しいではありませんか。同じ考えをイエスは次の表現で表しました。「彼が一方の頬を叩いたなら、もう一方の頬も向けなさい」(→第十二章 七、八)。

十一、二つに一つ。死が絶対的な破滅であるか、魂が別の場所へ移行するのであるか。もし全てが消滅するのであれば、死とは夢も見ず、自分自身の意識もなしに過ごす稀な夜のようなものである。しかし、もし死が生きる場所の変更に過ぎず、そこに死者達が集まるのであれば、そこで知人に出会う喜びの何と大きいことか。私の最大の喜びとはその別の場所の住人を近くで観察し、自分を何であると唱える人達の内、誰がそれに相応しく誰が相応しくないのかを知ることである。しかし、今は私達に別れる時が来た。私は死へ、あなた達は生へ。(判事に対するソクラテスの言葉)
 ソクラテスによると、地上に生きた者は死後に出会い、お互いを認識し合います。スピリティズムは、生きている間に人々がお互いに築いた関係は継続し、それ故に死は人生の中断でも、終わりでもなく、継続性のある避けることの出来ない変遷であると示しています。

 その五百年後に広められたキリストの教えや、今日スピリティズムが広める教えをソクラテスとプラトンが知っていたとしても、彼等は別の言い方をすることはなかったでしょう。偉大なる真実は永遠で、進歩した霊がそれを地上に来る前に知り、地上にもたらしたのであると考えれば、それは驚くことではありません。すなわち、ソクラテスやプラトンのような当時の偉大なる哲学者達は、後の時代において、まさしく他人に比べ崇高な教えをよりよく理解する条件を備えていた為に、キリストの神聖なる使命に従って、偉大なる真実をもたらす為に選ばれた可能性があります。そして遂には、同じ真実を人類に教える役割を担う霊の集団に加わっていると考えることが出来ます。

十二、私達に与えた損害が何であろうと、それに対して不義によって報いたり、誰かに悪を働いたりしてはならない。しかし、この原則を受け入れる者は少なく、彼等とそれを理解しない者達とは、疑いもなくお互いを蔑視することになるであろう。
 
悪を悪によって報いず、敵を赦すことを教える慈善の原則が、ここに書かれているのではないでしょうか。

十三、果実によって木を知るのである。いかなる行動もそれがもたらすものによって評価されなければならない。そこから悪がもたらされる時、それを悪と判断し、善の源となっている時には善であると判断する。
「果実によって木を知る」という金言は福音の中に繰り返し記載されています。

十四、富は大きな危険である。富を愛する者は皆、自分自身をも自分自身に属するものをも愛さない。その者に属するものよりも慣れないものを愛しているのである。

十五、最も美しい祈りも、最も美しい供え物も、神に同化しようと努力する徳の高い魂程に神を喜ばすことは出来ない。神々が私達の魂よりも私達の供え物に関心を抱くと考えたとしたらそれは重大な誤りである。そうしたことが起きたのであれば、より責任を負う者が、都合良くなることが出来るようになってしまう。しかし、そうではない。言葉と行動において真に正当で公正な者だけが、神々や人々に対して負う義務を遂行する
(→第十章 七、八)

十六、魂よりも肉体を愛する者を悪習の者と呼ぶ。愛は自然のあらゆる場所に存在し、私達が知性を使うことを促してくれる。天体の動きの中にも愛は見出せる。その愛とは、自然を装飾する豊かな絨毯のようなものである。愛は花が咲き芳香が漂うところを飾り、そこに存在する。人間に平和を与え、海を鎮め、風を静まらせ、痛みを和らげるのも愛である。
 
一つの兄弟愛の絆によって人類を結び付ける愛とは、自然の法としての宇宙の愛に関するプラトンの理論の結論です。「愛は一つの神でも、一人の死すべき人間でもなく、一人の偉大なダイモンである」とソクラテスは言いましたが、つまり、宇宙の愛に生きる偉大なる霊の存在のことであり、この結論を唱えた為に彼は罪人として罪を負わされたのです。

十七、美徳は教えられるものではない。神の賜としてそれを有する者に与えられる。
 
これは殆ど、恵みについて教えるキリストの教えと同等です。しかし、美徳が神の賜であるならば、それは特別な待遇であり、なぜそれが全ての者に与えられていないのか質問をすることが出来ます。他方で、それが賜であるのだとすれば、それを有する者の功労は失われてしまいます。スピリティズムはより明解であり、美徳を有する者は、それを連続した人生の中で自らの努力によって、少しずつ不完全性を捨てながら手に入れたのだと教えています。恵みとは、悪を追放し善を行おうという意志のある者に神が与える力のことなのです。

十八、他人の欠点よりも、私達自身の欠点に気が付くことが少ないのは、私達全てに当てはまる自然の傾向である。
 
福音には記されています。「あなたの隣人の目の中にあるおが屑を見て、自分の目の中にある杭が見えない」(→第十章 九、十)。

十九、成功しない医師がいるのであれば、それは病気の殆どを治療する時、肉体は治療しても、魂を治療していないからである。全てが善い状況になければ、病人の一部が善くなることも不可能である。
 
スピリティズムは魂と肉体との関係の鍵を与え、一方が他方に対して絶え間なく作用していることを証明しています。これにより、科学の新しい道を開いています。幾つかの病気の真の原因を示すことにより、それと戦う手段をより容易なものとします。肉体の営みにおける霊的要因の作用を科学が考慮するようになれば、医師達の失敗も少なくなることでしょう。

二十、どんな人間も、その幼い時代から善よりも多くの悪を働く。
 
ソクラテスのこの文は、地上における悪の優勢という重大な問題に触れています。この問題は世界の複数性や、人類のほんの一部が住む地球の運命についての知識なしには解決出来ないものです。この問題はスピリティズムだけが解決出来ますが、それは後の第一、二、三章に記されています。

二十一、知らないことについては知っているふりをしない方が賢明である。
 
この言葉は、基本的な事項さえも知らずに批判をする人々に差し向けられます。プラトンは、ソクラテスのこの考えを補足して次のように言いました。
「まず最初に、可能であれば、言葉をより誠実に受け止めてみる。そうでないのであれば、彼等には気を掛けず真実だけを求めればよい。私達自身を教化することを心掛け、彼等を侮辱してはいけない」。
 スピリティズムも、悪意の有無に関わらずそれに対して反論する者達に対して、このように接しなければいけません。プラトンが、今日再び生きることになれば、自分の時代と殆ど同じ状態の物事を見て同じ言葉を使うことでしょう。又、ソクラテスもその霊に対する信念を嘲る人々に出会うことになり、弟子プラトンと共に狂人として扱われるでしょう。
 こうした原則を唱えた為にソクラテスは嘲笑の対象となり、後に不信心の罪に問われ毒を飲まされたのでした。確かに、多くの関心や偏見に取り組むことになる偉大な新しい真実は、戦いや殉教者なしには定着することはないのです。

↑このページのトップヘ