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カテゴリ:★『霊の書』 > 霊の書 来世の喜びと悲しみ

霊の書 来世の喜びと悲しみ 目次

死滅-来世の生命

死後の喜びと悲しみの直観

応報と罰への神の介入

来世の喜びと悲しみの性質

地上の悲しみ

罪の償いと改悛

来世の罰の期間

肉体の復活

天国と地獄と懲罰

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○どこの国にもあることですが、死後の報いと罰の信仰、あれはどこから来るのですか。
「それは自分の霊が囁く虫の知らせである。それは何らかの目的があって、霊が囁きかけるのである。人間はこれに余り注意を向けない、だから道を誤る。もし、人間が心して、よくよくそれを聞くようにすれば、その囁きは本人にとって有益なものとなろう」

○死の瞬間の時、一番心にかかる思いは難ですか。疑い、怖れ、それとも希望ですか。
「疑い深い者は疑い、罪ある者には怖れ、善人には希望、これらである」

○魂は本人に、霊についてあれこれ囁いているのに、懐疑論者が存在するのはどうしたことですか。
「諸君等が想像するよりその数は少ないもの。生前は高慢さ故に無神論の影響下にあっても、いざ死ぬとなると、完全な無神論者ではなくなっている」
〔注解〕死後生存の信があるところ、道義的責任の信条が生まれてくる。我々の理性や正義感からすれば、万人が欲しがっている幸福が、善人悪人の区別なく分け与えられるということは許されない。ある者は努力して幸福を得、ある者は怠けていて幸福になる、そんな事が神のおぼし召しであろう筈がない。神は正義であり善であるとの我等の確信、これよりすれば、神法もまた正義であり善であることは明白であるから、善人と悪人が神の御前において平等であるとか、善因善果・悪因悪果などはないなどと、そういう考えにはなり得ないのである。このように、我々の内にある正義の感覚よりして、我々は来世の応報と懲罰の直観を引き出している。

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○人間はなぜ、死滅に対して本能的な恐怖を感じるのですか。
「それは、無ほど恐ろしいものはないからである」

○死後も生命があるのではないか、その感じを、人間はどこから引き出すのでしょうか。
「それは、受肉以前に霊であった時の生活の知識からである。肉体に宿っても、霊の時代のおぼろな記憶が残っているものである」
〔注解〕いつの時代も、人間は死後の問題に取り組んできた。これは人間にとり当然のことである。現世の生活をどんなに大事にしたところで、その時はほんとに短い、また、いつどんなことで死なないとも限らない、明日のことは分からないし、不安に満ちている、こう感じるからである。死んだらどうなるのか?これが大問題となる、それは永遠に続くのかどうか、それが知りたくなる。これから未知の国で暮そうとする者は、先ずその国の状況が知りたくなるもの。死んだら何処へ行くのか、永遠に続くのか、これは問わずにはおれなくなるところだ。
 消滅の観念は理性に反する。どんなに尻軽の人間でも、いざ自分が死ぬという時には、これから先どうなるのか、自問自答し、自ずから希望をもちたくなるものだ。来世を信じないで神を信じることは理屈に合わぬ。未来のよい生活の予感というものが、すべての人の胸の奥にある。神はいわれなくそれをお与えになってる筈がない。
 大自然の生命、そういう観念が存在するが、これは我々個々人の存在も失われないことを暗示している。何故なら、もし仮に霊的実体が無限の大海に埋没するとなれば、我々の肉体が生き永らえたとて何になろう。それは我々の死滅に等しいのだから。

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○神は個々の人間に心をかけておいででしょうか。神は余りにも偉大にすぎ、私達は余りにも小さ過ぎます、ですから神の御目の中では、さしたることもないかと思われますが。
「神は、御自身で創造されたものの全てに心をかけておいでになる。どんな小さなものであろうと、神の御前で、小さ過ぎるということはない」

○神は私共に良い報いを与えたり、罰を与えたりする為に、私共の行為の一つ一つを気にかけておられるのでしょうか。
「神法が諸君等全ての行為を照らしている。一人の人間が法の一つを破ったとて、神は宣告を下される訳ではない。例えば、「汝の貪欲の故に、罰を与える」などとは。しかし、神は貪欲には枠を設けておいでである。病気、また死さえも、この枠を踏み越えた結果である。いかなる場合でも、罰とは、法を犯したその結果なのである」
〔注解〕我々の行為は全て神法の下にある。我々が誤った行為をすれば、それが自分には大したことでなくても、それは神法違反である。その違反の結果を身に受ける時は、常に感謝をもってすべきである。何となれば、左記の教訓に示されているように、自分達の幸不幸の創造者は、唯一人自分であるからである。
「一人の父があり、息子を教え導き、生きていく上の方法を伝授した。息子に土地を与え、さて父は息子にこう告げる、[私はお前に、必要な知識と必要な道具を与えた、だから、お前はこの土地をよく保ち、ちゃんと生活の資が得られる筈だ。だから、もしお前がその通り守るなら、土地は豊かな収穫を与えてくれ、老後の保障までちゃんとしてくれるだろう。もしそれを守らなければ、生えるのは雑草だけであり、お前は飢えて死ぬだろう]と。以上のように教えて、父は、後は息子が自由にやっていくように任せる」
 こうして、土地はちゃんと耕され、努力を払うなら、それに見合った作物が実る。息子に怠慢や誤りがあれば、生産に悪い結果が出る。このことは疑いを入れぬことだ。故に、息子は父の指示に従うか、その如何によって、晩年に至り豊かであるか貧窮となるか道が分かれる。神は地上の父親より、もっと先々の事まで配慮しておいでになる。例えば、我々の方では気付いていなくても、神はいついかなる時でも、霊を我々の元へ送り給い、我々が正しく行っているか、誤っているか、この忠告をなさしめておいででになる。それだけでなく、父親との違いは、息子がもしブラブラと怠慢であれば、彼は過去生の誤りを償うチャンスを逸してしまったことになる、神は常に人間が再生によって過去を償うようにしておいでになるのだから。

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○死後の魂の喜びや悲しみに、物質的要素はないのでしょうか。
「常識に従えば、その喜びや悲しみに物的要素があろう筈がない、魂とは物質ではないのだから。その喜びや悲しみに肉欲的なものはいささかもない。しかも、喜びも悲しみも、地上の時より千倍も鮮明である。肉体から解き放されると霊は感受性が鋭くなる、肉体がその感受性を殺しているのである」

○人間は、来世の喜びや悲しみについて考えることを、愚劣で下賎のことと思いがちですが、どうしてですか。
「それは、人間の知性の進歩が不十分の為だ。子供は大人のように物を考えることが出来ない。それに、人間の死後についての考え方は、それまで教えられてきた教育の結果であって-それは即刻修正を要するものである」
「地上にはない事柄を説明するのに、地上の言葉は余りに不完全すぎる、そこで地上の事柄を使って比喩で話しをせねばならなくなる、すると、諸君等は実在とは違った形や姿でそれを受け取ってしまうのである。だが、人間の啓発が進むにつれて、人間は、言葉では上手く表現出来ないことが分かってくるのである」

○完全に到達した霊の幸福とは、どんな事なのでしょうか。
「全ての事を知ること。その心には、憎しみ、嫉妬、羨望、野心、そのようなもののないこと。人々を不幸にする感情がいささかもないこと。これが幸福である。愛し愛されること、それこそ彼等の至福の源泉である。彼等には物質生活のような、欠乏感、苦しさ、悲しみの一切がない、善をなすこと自体が喜びである。何となれば、霊の感じる幸福とはその進歩に応じたものだからである。まことに、最高の幸福とは、最高度の浄化を遂げた霊にのみ味わえるものである。かと申して、その他の者に幸福がないというわけではない。邪悪霊と完全に到達した霊の間には、進歩と幸福の点で無限の段階の開きがある。霊の感じる喜びとは、常に、本人の精神的地位に比例しているものだからである。ある程度まで進歩した霊にとっては、上位にある霊達の幸福が予感できる。彼等はその幸福を熱望する。しかし、それは羨望と申すより、心を奮い立たせる目標なのである。そこに到達できるかどうかは、一つに自分にかかっていることを承知している。彼等はそこに向って獅子奮迅する。しかし、心は安らかで明るさに満ちている。それに、彼等は悪霊に煩わされる五月蝿さがないので、幸福である」

○霊の幸福とは、物質的欠乏感がないこと、と言われました。人間にとっては、物質の欲求を満足させることに、喜びがあるのではないですか。
「その通り、但し、それは動物としての享楽ではあるが。だが、人間がこの充足が得られない時は、苦悩を味わうものではある」

○浄化した霊達は、神のみ胸に抱かれ、神の讃歌を歌うという話ですが、どう考えたらよろしいですか。
「それは、神の完全性を教える為のたとえ話の絵のことである。人々はこの絵を見、神を理解するのである。だが、諸君はこれと似たような話が色々あるが、文字通りにそれらを受け取ってはならぬ。自然界のものは全て、一粒の砂に至るまで、神の御力を、英知を、その美を歌っている、即ち表現しているのである。だが、至高の域に到達した霊は永遠の黙想に浸っているなどと考えてはならぬ。左様な単調な物憂い黙想など益のないものである。彼等はこの世の煩わしいものから既に解放されており、その事自身がもう喜びなのである。その上、既述のように、彼等は万事を知り尽くしており、これら自分の得た知識を活用して、他の霊達の進歩に役立てている。この段階の仕事に彼等は喜びを感じるのである」

○未発達の霊はどんな事に苦しみを感じますか。
「その苦しみは様々、その苦しみの原因が様々であるのと同じように、優れた霊の喜びが、その進歩の度に応じて様々であるように、未発達霊の苦しみも、その発達の度に応じて様々なのである。その概要は次の通りである。彼等の手の届かない幸福を見ること。他の霊を幸福にする力、その力が自分にはない、その事への僻み。自分を不幸に陥れているもの、その事への悔恨、妬み、怒り、絶望。良心の呵責やら言語に絶する道徳的苦悶。彼等は喉から手が出るほど喜びに飢えている。だが、それを手にする力か無いことに悶々としている」

○霊が霊に及ぼす影響は、常に良いものでしょうか。
「善霊同士の場合は常に良い。だが、邪悪霊の場合は、惑わされ易そうな霊、地上生活中に悪の道に引き摺り込んだことのある霊、これらが改悛改善の道へ入ることを、執拗に邪魔をする」
-では、死んでも、試みから救われることはないのですか。
「左様、無くなるものではない。だが、邪悪霊の影響力は、人間に対するより霊に対する方が、遙かに小さい。何となれば、霊達はもはや誘惑の手がかりとなる物質欲をもっていないからである」

○手がかりになる欲望がないのに、邪悪霊共は、どうやって他の霊達を誘惑するのですか。
「欲望が物質的なものではなくなっていても、少ししか進歩していない霊の場合は、その思いの中には残っている。邪悪霊共は、その欲望が何でも構わない、とにかく目指す犠牲者の霊を、欲望を刺激しそうな場所へ連れて行って、良からぬ欲望の目を覚まさすのである」
-だが、霊にとっては、現実に欲望の対象物は存在しないのですから、欲望をもったとて何の役に立ちますか。
「これがその、霊に苦しみの種となるのである。守銭奴が自分の手に入るあてのない金を見ること、道楽者が自分の参加できない酒宴を見ること、高慢な人物が望んでもありつけない名誉の前にあること、これに等しい」

○邪悪霊が身に受ける、最大の苦悩とは何でしょうか。
「犯した罪への罰、それは幾つもあるが、その精神的苦しみたるや言語に絶する。それを経験した者でも、それがどういうものか、人に伝えることが難しいことは、心根に徹して分かっている。だが、その中で最も怖ろしい事は、本人自身が、自分の罪の判決は金輪際変わらず、永遠に続くと、かように信じ込んでいることである」
〔注解〕死後の魂の喜びと悲しみについてどう考えるか、これは人間の進歩の程度が上がれば、それに応じたものとなっている。進歩していれば、その分だけ、その概念は洗練され、物質性も少なくなる。見解が理性的であれば、字義通りには受取れないものとなる。進歩した理性は、魂が霊的なものであることを教えており、また、魂に及ぶ影響が物質に作用するものとは違うことを教えている。しかし、そうだから、もう苦しみはないとか、悪行への罰はないというわけでもない。
 霊からの通信は、死後の魂の状態を、理論ではなく事実として教えてくれる。死後の出来事が、我々にはそれでもってあけすけに分かる。それによると、来世の生活は現世の生活の当然の結果であること、想像や空想のでっち上げでなく現実に、現世で自分の能力を悪用した者にとって、あの世は苦痛であることが示されている。その結果は様々で限りないが、概して、各々の魂は犯した罪の罰をそれぞれ受けると言えよう。ある者は、自分の犯した悪事を次から次と絶えず見せ付けられるという罰。ある者は、後悔、恐怖、恥辱、疑念、孤独、真っ暗闇、また愛する者から引き裂かれること、等々。

○永遠の業火という教説はどこから出るのですか。
「他にも同じ間違いを人間は沢山やっているが、これも例え話を現実と思い込んだのである」
-だが、これに対する恐怖は、結果として役立ちませんでしたか。
「周囲を見回して、それによって自粛する者達が沢山いるかどうか、その通り教え込まれた者達はどうか、よく調べてみられよ。理性に反することを教えても、その印象は永続性もないし、有用でもないのである」
〔注解〕人間の言葉は、霊の苦悩を表現する力がないので、人間としては、火という例え以上に的確な言葉を見出せなかったのである。火は人間にとり、そのものズバリ最も耐え難い苦痛の表現であり、また、最も有用な作用の象徴なのである。そこで、[永遠に燃え続ける]という信仰が古人の胸に描かれ、今日まで受け継がれてきた。同じ理由で、どこの国にも、俗な表現がある、[火のように激しい情熱][燃える愛][燃えるような憎悪][嫉妬に身を焼く]等々。

○未発達霊に公正な霊達の幸福が判りますか。
「判っている。この幸福が彼等にとり苦痛の種である。何となれば、自分の過誤によって、自分にはそれがないことが判っているからである。しかしながら、霊が物質から解放されると、また新しい肉体生活に憧れるようになるもの。と申すのは、肉体生活は上手くやれば、上記の苦痛の期間を短縮するからである。こうして、彼等は、自分の過失を償う新しい試練を選択する。彼等がそうするわけをよく心得ておかれよ。彼等は各々苦しみを胸に抱いている、自分が犯した悪、自ら進んで行った悪、やれば出来たのにしなかった善、その善をしなかったことの悪、これらの全てに対する苦しみを」
「肉体から切り離されると、霊の視界からヴェールがなくなる。霧が晴れた時のように、自分と幸福の間に挟まっている障害物が見える。それ故、霊は一層自分の過失を十二分に理解できて、苦悩するのである。霊にもはや錯覚はない、あるがままに物が見えるのである」
〔注解〕肉体を脱した霊には、一目で自分の過去の生活が見えてくる。また、一方では自分の進むべき未来も予見できる。従って、そこへ至る為の欠けたものが理解できる。彼はあたかも丘の頂上に辿り着いた旅人である。彼は見る、過ぎ越し方の道と、これから目的地に至るまでの、未来の道のりを。

○苦しむ霊達の姿を見ることは、善霊にとっては苦しみではないでょうか。もしそうとすれば、善霊の幸福はどうなりますか、幸福が損なわれるわけですから。
「善霊が低級霊の苦悶を見て不幸になることはない。彼等はそれにはちゃんとした目的があることを心得ているから。善霊は進歩の為に苦しむ者達に手を差し伸べる。これが彼等の仕事、また、これが上手くいく時、彼等の喜びがある」
-成る程、その苦しむ霊が善霊にとって他人で、格別関心もない時は、納得できます。ですが、その苦しむ者が地上で自分の愛する者であった場合、その懊悩を見ることは、心安からぬものがあるのではありませんか。
「宗教はどの宗教も、あの世に行った霊は地上に残した者達に心を配り続けると教えている。もし霊が諸君の苦しみに目を向けぬとすれば、彼等は死ぬと他人になるということになりはせぬか。霊は諸君の苦しみを見ている、だが観点が違っている。彼等はかように心得ている、もし諸君が苦難を甘んじて耐えれば、それが諸君の進歩の助けになるのだと。彼等は苦しみは一時と分かっているので、その事よりも、諸君の不屈の精神の欠如、これが進歩を遅らせるので、この力で心を痛ませる」

○霊にお互いに自分の心を隠すことが出来ず、また、生前の行為は全てあけすけになっているとすれば、人を痛めたことのある者は、いつもその犠牲者の前に身を晒しているということですか。
「常識から言っても、まあ、そういう事だね」
-悪事はすべて公表され、犠牲者の前にいつもいなければならないということは、罪を犯した霊にとって、一つの懲罰ではないでしょうか。
「その通りである。しかも、諸君等が想像するより、もっと重い罰である。だが、これは本人が悪行の償いをするまで続く、その償いが霊魂としてであれ、新しく肉体をとった人間としてであれ」
〔注解〕我々が霊界に入ると、過去はすべて白日の下に晒される。自分の行った善事も悪行も等しく知らされてしまう。悪人は彼の犠牲者から目を背けようとしても、無駄である。その前から逃れようとしても、逃れることは出来ない。彼等がそこに居ることは、悪人にとり罰であり、良心の呵責の源となる。これに反し、誠実な霊は、絶えず親切と善意で囲まれることになろう。
 現世においてもそうだ。悪人にとり、犠牲者の存在は、これ以上の苦痛はなく、それから逃れる為必死となる。迷いから醒めて、自分のした悪事を悟り、隠していた行為が明らかになり、偽善の数々が暴露され、これを目にし、しかも犠牲者の前から身を隠すことが出来ないと知った時、一体どうなるだろう。誠実の魂は、完全な平和を享受する時、邪悪な魂は、恥と後悔と良心の呵責に苛まれるのである。

○霊が未発達の時代に犯した失敗の記憶があって、その為、霊が浄化を遂げても、幸福の障害になるということはないでしょうか。
「そんなことはない。もうその罪は償われており、その為の試練も見事に耐え抜かれているのだから」

○今後の浄化の為に、なお試練を受けねばならない、そう思うと、辛い気がかりで幸福も失せてしまいはしませんか。
「それはある。だが、それは悪がなお染み付いている魂の場合で、それが浄化された時、初めて十全の幸福が味わえる。しかし、ある程度まで進歩していれば、今後受ける試練のことを思っても、一向に苦痛などは感じないのである」
〔注解〕魂が浄化のある段階に達していると、既に幸福の予測を持っている。心は満足感で一杯、目にするもの全て、周囲を取り囲むもの全てに幸福を覚える。万物の驚嘆すべきこと、神秘のヴェールも一部は既に剥がされており、神の完全性が四囲に輝いて見え始めている。

○同じ段階にある霊が共感の絆で繋がっていれば、それこそ彼等には幸福の源ではないでしょうか。
「善意の愛で共鳴し合える霊の結び付きは、最大の喜びの一つである。それはもはや利己的な感情で脅かされる恐れが全くないのだから。現世でも、諸君等は色々な分類で集まり、その集まりを通じて喜びを享受する。そのように霊の世界でも、同じような心情者達が集まって集団を成し、その世界の幸福を形成している。進歩した霊達の抱く純粋で誠実な親愛の情、彼等自身そのものであるこの深い愛、これぞ至福の泉である。そこには人を騙す者もなく、偽善の徒もいない」
〔注解〕人は、誠実と高潔で結び付ける者同士が出会った時、この世で第一の至福の果を手にする者である。地上より遙かに純粋な生活の中では、このような幸福は、更に聖、更に無限なものがある。霊界では、心と心が繋がる者同士が集まり、利己でその親愛の情を冷やす者はいないのだから。まさに愛こそは生命、この愛を殺すものは利己である。

○地上に在る時、一人は、死を怖れた者、他は、死を冷静にむしろ喜びをもってすら待ち望んだ者、この両者が霊界に入ってから、その段階に差がありましょうか。
「両者には、かなり大きな差があるかもしれない。但し、その恐れないしその願望を引き起こした原因によって、相違が帳消しになることもある。死を怖れた者、これを待望した者、その心情は様々であろう。霊の段階を決めるものは、その動機である。例えば、自分の苦しみを終らせたいが為に死を望んだとしたら、それは神の摂理への不満、自分が受けねばならぬ試練への反抗、この事は明白である」

○来世の幸福を確実にする為には、心霊主義の信仰告白をしたり、霊的現象を信じるなどの必要がありはしませんか。
「もしその必要があるとすれば、これを信じない者、これを学ぶ機会のない者は、その権利を失うことになる。これは馬鹿げたことだ。死後の幸福を保証するものは正しい行為である。どの道を通ってそこへ行こうと、正しい行為は常に正しい行為である」
〔注解〕心霊主義の教えを信じることは、死後に関する自分の考えがはっきりしてくることになり、自己改善に役立つ。心霊主義は、個人及び民衆の進歩と進化を促進する。それに我々の未来の姿をはっきり教えてくれるし、また同時に、進むべき道、心の支えを与えてくれる。心霊主義は、我々が試練を、忍耐と素直さをもって耐えるよう教えてくれる。これによって、我々は進歩を遅らせる間違った道を避け、そのお蔭で、我々は幸福に到達する。だが、それ以外の道を通っても、その幸福に到達はするであろう。

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