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カテゴリ:★『霊の書』 > 霊の書 地上の喜びと悲しみ

○死の恐怖の為に多くの人が戸惑いを覚えます。来世を信じる者達の死の恐怖は、一体どこから来るのですか。
「そのような恐怖は全くお門違いだ。だが、人々は若い時に、次のように信仰として叩き込まれている。即ち、天国があれば地獄もある。そして、俗世の事は魂にとっては罪悪だから、大抵の者は地獄に堕ちると。それ故、もしそういう信仰が心に残っているとすれば、当然、生きながら永劫の火の中に投げ込まれる恐怖感を、人は覚えたりするものである。しかし、幼少時の教えがそうであっても、長じて判断力がつけば、多数の者はその信仰を捨て去り、無神論者か唯物論者になってしまう。その結果、当然のことだが、現世の外の何も信じなくなる」
「死はまともな人間にとっては、少しも恐いものではない。彼等は来世を確信しているからである。そこの生活は現世より幸福である、その希望が彼等にはあるからである。彼等の日々の生活原理は愛、愛の心が彼等に囁く、やがて入る他界に行き会う人達は、みんな良い人達ばかりだ、この思いが彼等の胸にあるから」
〔注解〕物的欲望の強い人間は、霊的生活より物質的生活に心を奪われるので、彼等の知り得るのは、この世の喜怒哀楽だけ。その幸福とは唯一つ、地上の悦楽の満足だけ。だから、心はいつもこの世の成り行きに奪われ、その為いつも心安まる時なく、目の前の心配事で塞がっている。死は恐ろしい。何故かというと、彼等は来世を信じない。死ねば、希望も愛するものも、みんなこの世に置いていかねばならないから。
 霊的精神的な人物は、感情の所産である人為的な欲望に超然としているから、仮に生活は慎ましくても、俗人共には分からない楽しみをもっている。欲望を統御するので、心は平静で清々としている。善を為す幸せ、その心には、人生は坦々として、波風があってもそれは心を軽く通り過ぎる風、後には何一つ心配の欠片などはない。

○現世で幸福になる方法、こういう助言は、多数の人にはいかにも定まり文句に聞こえませんか。自明の理のようには思えませんか。結局、幸福の一番の秘訣は、自分の困難に耐えて乗り越えること、こうではありませんか。
「多数の者はそういう見方をするだろう。しかし、その中の少なからざる者達は病人のようなものだ。つまり、医師は正しい食養を提示してくれているのに、本人は一向に生活習慣を改めず、胃弱には悪いに定まっている食事を続けたままで、医師に治してくれとせがんでいるようなものだ」

○はっきりした理由もないのに、人は時々生の倦怠に陥ります。あの原因は何ですか?
「何もやる事のない状態、何か信念の欠如、食い飽きて飽きあきした状態、これである。自分の資質に合った、有用な目的に向って努力をしている者には、苦労は少しも不愉快ではない。彼の時間は自分に叶った仕事をしているので、坦々と過ぎて行く。彼は人生の波風にも、甘んじて耐えていける。彼の目は未来の揺るがぬ永遠の幸福に向けられているから」

○人間には自分の命を絶つ権利がありますか?
「いや、その権利は神にのみある。我意によって自殺する者は、彼を地上に送った神の命に背くものである」

○自殺は常に自由意志から出るのですか?
「自殺をする狂人は、自分のしていることが自分に分かっていない、ということである」

○厭世自殺をする人達、これはどう考えたらよろしいですか?
「愚か者よ!なぜ世に役立つ仕事をしようとしないのか?そうすれば、人生とは一向に退屈なものにはならぬだろうに」

○この世の苦しみや失望から、自殺に逃げ道を求める者達を、どうお考えですか?
「彼等は人生の些細な苦悩を耐える勇気を欠いた、弱虫である。神は勇敢に耐える者には手を貸し給う、勇気も強さも持ち合わさぬ者達には力を貸し給わぬ。人生の艱難辛苦は試練であり、罪の償いである。黙って耐え忍ぶ者は幸いである。彼等に返って来るものは大きい。他方、自分の幸福を偶然や運に期待する者は、不幸である。偶然や運は、彼等の言い草ではないが、一寸の間は按配が良い。だが時が経てば、その言葉の虚しさが、一層手厳しく思い知らされるだけ」

○人を自殺に追い込んだ者達には、その責任はないでしょうか?
「ある。しかもその罪は甚だ重い。何故なら、これは殺人である。彼等はその責任を負わねばならぬ」

○自殺する者は、逆境と闘い、絶望の挙句自殺したのだと、こう考えることは出来ませんか?
「そういう自暴自棄が自殺なのである。だが、自殺に追い込んだ人物、すなわち、もしかしたら自殺させずにすんだ人物は、自殺した本人より罪が重い。従って、本人は寛大に裁かれよう。とは申しても、彼に何の罪とがないわけではない。もし、彼が堅実さと忍耐に欠けていたのなら、困難を乗り切るため知恵を奮ってベストを尽くさなかったのなら。それにまた、もっと罪のある場合がある。プライドが邪魔をして知恵を働かさなかったとか、肉体労働で生計をたてるのを恥としたとか、社会的地位をおとすくらいなら飢えた方がましだと、そういう考え方をしたのだったら。逆境にめげずこれを耐え、つまらぬ利己的な悪意の批判を物ともせぬ、そういう姿勢の中にこそ、百層倍の高貴さと真実の威厳があるのではなかろうか。つまらぬ悪意の陰口を叩く者共は、少しも困ってない人には善意を示しても、本当に困っている人には手も差し出さない、そういう手合なのだ。こういうやからのあれこれのために、生命を断つなどは二重に馬鹿げている、死んだからといって、彼等は鼻もひっかけない、そういう事を見ればね」

○絶望による自殺と同様に、不法行為の恥辱から逃れるための自殺も、非難に値しますか?
「不法行為が、自殺によって拭い去られるものではない。それどころか、初めの不法にもう一つの誤りを付け加えることになる。誤りをあえて犯す勇気があったのなら、その不法行為の結末を見届ける勇気があって然るべきである。神は唯一の審判者であり、不法を犯した諸般の事情を考慮して、その不法の罪一等を減じられることもあるのである」

○子供や家族へ恥辱が及ぶのを避ける為、自殺をしたとすれば、これは許されますか?
「そのような手段に頼ることは間違っている。しかし、本人がこれが一番良い方法と考えた末での決行なら、神は本人の意図に目を止められる。と申すのは、これが本人が自分に課した罪の償いであるから。彼の誤った行為は、その動機によって情状酌量されるが、それでも罪は罪である。もし、世間から偏見や中傷や陰口が取り払えるなら、自殺はこれ以上増えないだろう」

(注解)悪事をして両目が潰れるのを逃れる為、自殺する者は、神の評価よりも人間の評価に重きを置いている。と言うのは、償いのため現世で自殺をした、その罪の償いの手段のため、不法行為の罪の重荷はそっくり背負ったままで、あの世へ行く破目になるのだから。神は人間より冷酷ではない、神は心から悔いる者を許し給う。我々が過ちを努力して償おうとすれば、これを斟酌して下さる。しかし、自殺をしても何一つ償いとはならない。

○早く楽になりたいと願って、自殺する者について、どうお考えですか?
「これも愚か者の行為である。かような者には、人に役立つ事をさせなさい。そうすればもっと確実に楽に幸せになれる。この者は自殺によって、幸せな国に入る時を遅らすことになる。と申すのは、彼は地上へ逆戻りすることを請い求めることになろう。愚行で切断された人生をやり直すために。善人の聖域は愚行によっては決して開かれることはない、たとえその動機が何であっても」

○他人の生命を救うために、または、他者に役立つために、生命を投げ出した犠牲行為は、価値あるものではないでしょうか?
「そのような目的で行われれば、それは崇高である。かような自ら進んでの生命の犠牲は、自殺ではない。神が喜ばれないのは無益な犠牲的行為である、また、自尊心による薄汚れた行為である。犠牲行為は利害が絡んでいない時だけ価値がある。もし、利己の目的で行われるなら、その分だけ神の前では値引きされる」

(注解)他者のために、自分の利益や楽しみを犠牲にする事は、神の前では最大の価値がある。それが愛の法にかなっているからである。生命は地上の所有物の中で、人間が最も価値をおくものである。従って、同胞のためにこれを投げ出す者は、罪を犯すものではない、彼は献身を行うのである。だがその前に、彼は自分の生命が死よりも大事ではないのかと、一度問うてみねばならない。

○自分で、それが死を早めると分かっている、恐ろしい激情におちこんでいる者、しかし、それが習慣になって自分でもどう仕様もなくなっている者、彼は自殺をしているのでしょうか?
「彼は精神的に自殺している。この場合は、三重の罪があるという事が、お分かりだろうか。一つは意思の固さが欠けている、二つには獣のようになっている、三つには神を忘れている罪」

-このような者は、絶望で自殺する者より、なにがしか罪が大きいのでしょうか?
「この者の罪の方が大きい。と言うのは、自分はまさに自殺といえる道を歩いている事を、反省してみる時間があったのだから。時のはずみで自殺する者がある。この場合、狂気といえなくもないある程度の戸惑いがある事がある。だが、質問の彼は狂人よりずっと罪が重い。なぜかというと、罪の報いである罰は、その犯行をする際の本人の意識がどうだったか、これと常に関係があるからである」

○自殺で自分の苦しみを短くしようと、死の淵へ身をさらす者の場合、間違っていますか?
「神の定められた死の時を待たないのは、常に誤りである。それに、自分の生命の終りの時が今来ていると、誰に分かるだろうか。自分で最後の時と思っていても、どんな救いの手が現れないとも分からないではないか」

-自殺は、普通の状況では、悪い事は当然のことです。しかし、もう死ぬことが分かり切っていて、ほんのちょっとその時間を早めるだけ、という場合がありますが。
「この場合、神の御意思のままに従う、その気持が常に欠けているのである」

-この場合、自殺したら、その結果はどうでしょうか?
「他の場合と同様である。自殺した状況に応じて罪の重さが定まり、罪の重さに応じて罪の償いがある」

○軽率な行為のために、たまたま命を失った場合、罪がありますか?
「傷つけようという意図も思いもないのだから、罪はない」

○ある国では、婦人達は夫が死ぬと焼身自殺を遂げます。これはいわゆる自殺ですか?彼女等はその罪を負うことになりますか?
「彼女等は迷信の偏見に従ったのであり、また多くの場合、自由意志というより、権力の犠牲者である。本人達も義務を遂行しているのだと信じている。かような行為は自殺の性質をもっていない。彼等が何と言おうと、これは民衆大多数の無知、精神の低さ、その所産である。文明が発達すれば、かような野蛮なたわけた慣習は消え去るだろう」

○愛する者を失った悲しみに耐えきれず、来世で一緒になる期待をもって自殺する者は、望みどおり目的が遂げられますか?
「自殺しても、その結果は、期待とは逆になる。愛する人に会えるどころか、この悲しい誤りを犯したために、長期にわたり、目指す相手からは切り離されたままになる。神は、この心根の卑怯、神慮を信じぬ神へ向けられた軽侮、この行為に対しては、いかにも一人よがりの本人の願いに、お応えになる筈はないのである。本人は悲しみの時を短くしようとしたばかりに、却って大きくなった悲しみによって、己が愚行の償いをさせられるのである。かねてよりの望みが叶えられることはないのである」

○自殺の結果は、本人の霊の上に、どのように及びますか?
「その結果は、個々の場合によって違う。と申すのは、罰が、どのような経過で自殺に至ったか、その状況に応じて色々違ってくるからである。先ず、自殺者全員が等しく受ける罰は、失望落胆これである。他は、それぞれの事情で異なる。自殺者の中のある者達は、死後すぐに誤りの償いをさせられる。他の者達は、償いをするとしても、自分が放り捨てた人生よりも、更に辛い新しい人生で、やり直しをさせられるだろう」

(注解)自殺の結果は個々の場合ですべて違っている、という上記の解答は、観察によって確かめられている。ただし、その中の幾つか、突然に生命を失ったものの場合は、暴力で生命を奪われたものと同じ結果を示している。右の場合の特色は、霊肉を繋ぐ紐が丈夫で切れにくい、切断の瞬間、非常な抵抗を示すことである。これに対し、自然な死の場合は、生命の紐は徐々に弱まり、生命はすっかり燃え尽きる前に、千切れていくのである。暴力的に生命を失った場合の結果の第一は、一般に死後に味わう精神的混乱の期間が永びくこと。第二に、自分は未だ地上で生きているという錯覚を、当分の間持ち続けるということである。霊肉間にある引力のために、自殺者の幾つかの場合、まだ肉体の中にあるような意識をもち、自分は死んだ筈なのに死んでいないので、激しい苦悩と恐怖を経験する。これは本人が自分で縮めた生命の期間ほども続くものである。自殺の結果がすべてこうだとは限らない、しかし、自分で生命を縮めた者は、勇気と忍耐を欠いたことの結果から逃れる訳にはいかぬ。いつかは、何らかの方法で自己の誤りを償わされることになる。実は、ひどく不幸な地上生活を送った霊達が、次のように言っている。自分達はその前世で自殺したということ、それで自ら志願して新しい試練を引き受け、甘んじてこれを耐えたのだということ。ある場合は、自殺したが現世との何かの引っ掛かりが出来ていて、幸福な国を目指しても、道は閉ざされ、徒にもがいているということである。またある場合は、ただ唯あるのは無益な事をしたことの悔恨、それから受取るのは失望ばかり、こういうことである。
 宗教、道徳、及び全哲学体系は、自殺は自然法に反するものとして非難する。その根本原理は、人間には自分の意志で生命を縮める権利はないということである。しかし、なぜ我々にその権利がないのか。なぜ我々は自分の苦しみに終止符をうつ自由をもたないのか。この点、心霊主義は自殺の実例によって、下記のように主張できる。自殺は道徳違反として、間違いであるだけでなく、得るものは何一つなく、更に償いまでしなければならないのであると。この心霊主義の教えは、単に理論にとどまらず、我々の前に展開される事実なのである。

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