○死の恐怖の為に多くの人が戸惑いを覚えます。来世を信じる者達の死の恐怖は、一体どこから来るのですか。
「そのような恐怖は全くお門違いだ。だが、人々は若い時に、次のように信仰として叩き込まれている。即ち、天国があれば地獄もある。そして、俗世の事は魂にとっては罪悪だから、大抵の者は地獄に堕ちると。それ故、もしそういう信仰が心に残っているとすれば、当然、生きながら永劫の火の中に投げ込まれる恐怖感を、人は覚えたりするものである。しかし、幼少時の教えがそうであっても、長じて判断力がつけば、多数の者はその信仰を捨て去り、無神論者か唯物論者になってしまう。その結果、当然のことだが、現世の外の何も信じなくなる」
「死はまともな人間にとっては、少しも恐いものではない。彼等は来世を確信しているからである。そこの生活は現世より幸福である、その希望が彼等にはあるからである。彼等の日々の生活原理は愛、愛の心が彼等に囁く、やがて入る他界に行き会う人達は、みんな良い人達ばかりだ、この思いが彼等の胸にあるから」
〔注解〕物的欲望の強い人間は、霊的生活より物質的生活に心を奪われるので、彼等の知り得るのは、この世の喜怒哀楽だけ。その幸福とは唯一つ、地上の悦楽の満足だけ。だから、心はいつもこの世の成り行きに奪われ、その為いつも心安まる時なく、目の前の心配事で塞がっている。死は恐ろしい。何故かというと、彼等は来世を信じない。死ねば、希望も愛するものも、みんなこの世に置いていかねばならないから。
霊的精神的な人物は、感情の所産である人為的な欲望に超然としているから、仮に生活は慎ましくても、俗人共には分からない楽しみをもっている。欲望を統御するので、心は平静で清々としている。善を為す幸せ、その心には、人生は坦々として、波風があってもそれは心を軽く通り過ぎる風、後には何一つ心配の欠片などはない。
○現世で幸福になる方法、こういう助言は、多数の人にはいかにも定まり文句に聞こえませんか。自明の理のようには思えませんか。結局、幸福の一番の秘訣は、自分の困難に耐えて乗り越えること、こうではありませんか。
「多数の者はそういう見方をするだろう。しかし、その中の少なからざる者達は病人のようなものだ。つまり、医師は正しい食養を提示してくれているのに、本人は一向に生活習慣を改めず、胃弱には悪いに定まっている食事を続けたままで、医師に治してくれとせがんでいるようなものだ」
「そのような恐怖は全くお門違いだ。だが、人々は若い時に、次のように信仰として叩き込まれている。即ち、天国があれば地獄もある。そして、俗世の事は魂にとっては罪悪だから、大抵の者は地獄に堕ちると。それ故、もしそういう信仰が心に残っているとすれば、当然、生きながら永劫の火の中に投げ込まれる恐怖感を、人は覚えたりするものである。しかし、幼少時の教えがそうであっても、長じて判断力がつけば、多数の者はその信仰を捨て去り、無神論者か唯物論者になってしまう。その結果、当然のことだが、現世の外の何も信じなくなる」
「死はまともな人間にとっては、少しも恐いものではない。彼等は来世を確信しているからである。そこの生活は現世より幸福である、その希望が彼等にはあるからである。彼等の日々の生活原理は愛、愛の心が彼等に囁く、やがて入る他界に行き会う人達は、みんな良い人達ばかりだ、この思いが彼等の胸にあるから」
〔注解〕物的欲望の強い人間は、霊的生活より物質的生活に心を奪われるので、彼等の知り得るのは、この世の喜怒哀楽だけ。その幸福とは唯一つ、地上の悦楽の満足だけ。だから、心はいつもこの世の成り行きに奪われ、その為いつも心安まる時なく、目の前の心配事で塞がっている。死は恐ろしい。何故かというと、彼等は来世を信じない。死ねば、希望も愛するものも、みんなこの世に置いていかねばならないから。
霊的精神的な人物は、感情の所産である人為的な欲望に超然としているから、仮に生活は慎ましくても、俗人共には分からない楽しみをもっている。欲望を統御するので、心は平静で清々としている。善を為す幸せ、その心には、人生は坦々として、波風があってもそれは心を軽く通り過ぎる風、後には何一つ心配の欠片などはない。
○現世で幸福になる方法、こういう助言は、多数の人にはいかにも定まり文句に聞こえませんか。自明の理のようには思えませんか。結局、幸福の一番の秘訣は、自分の困難に耐えて乗り越えること、こうではありませんか。
「多数の者はそういう見方をするだろう。しかし、その中の少なからざる者達は病人のようなものだ。つまり、医師は正しい食養を提示してくれているのに、本人は一向に生活習慣を改めず、胃弱には悪いに定まっている食事を続けたままで、医師に治してくれとせがんでいるようなものだ」