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カテゴリ:★『霊の書』 > 霊の書 精神の完成

霊の書 精神の完成 目次

美徳と悪徳

激情

利己主義

高潔な人の特色

自我-認識

○あらゆる美徳の中、最も賞賛に値するものは何ですか。
「美徳は素晴らしい。これらは皆、上方に向う進歩の印であるから。悪の誘惑に自ら抵抗する、一つ一つの行為が美徳である。しかし、美徳の極致は、他者の幸福の為の自己犠牲、これである。最高の徳とは、最も私心のない、最も幅の広い親切、そのような形をとる」

○特にあれこれ悩む事もなく、自然な気持で善を為す人々がいます。また、善を為すのに自分の心と葛藤し、抵抗を乗り越えて初めてそれを為す人々がいます。これは前者と同じ価値がありますか。
「もはや利己心と闘う必要のない人は、既にある程度の進歩を遂げた人達である。それらの者は、過去において葛藤し、これに打ち勝っている。だから寛大な心になっており、もはや格別の努力を要しないのである。善を為すことは、全く自然な事と彼等は思う。彼等は既に親切の習慣を身につけているのである。彼等は葛藤の場の段階を乗り越えた、手練の人と尊敬を受けるべき人士である」
「諸君が未だずっと完全から遠い処にいるので、彼等を見て驚くのである。彼等の行為は一般の人々の行為から見ると、甚だ対照的である、その珍しさから諸君はこれを賞賛する。だが、諸君の世界で異例な事も、別の進歩した世界では常習であるということ、これを承知おき願いたい。其処では、いつでもどこでも、善は自然なものなのである。其処には善良な霊しか住んでおらず、ちょっとした悪意さえ、異常な極悪と考えられてしまうのである。これらの世界が幸福なのは、このように美徳が一般の習いとなっていること、そこにある。人類が変容を遂げ、愛の法を正しく理解して実践するようになれば、諸君の地上世界も同じようになる」

○誰が見ても分かる悪徳や悪行、これ以外に、不完全性の最大の特徴といえば何ですか。
「利己心である。見せかけの徳は、金メッキした銅のようなものだ。それは試金石とされるかもしれない。彼はある程度の進歩を遂げてはいる。しかし、その資質は試練に遭えば耐えられぬかもしれぬ、少々彼の自己愛が障害にぶつかると、本性が暴露されてしまうのである。地上世界では、絶対の無私は極めて稀なことであって、諸君は驚異的な事として吃驚するのである」
「物質に対する執着心、これも未熟であることの印である。何となれば、人間が現世の物事に気を奪われれば奪われる程、自分の道を見失っているということだから。この逆の場合は、来世の方まで目がはっきり広く見えているという事である」

○気前はいいが、ものを見る目がなく、金銭の使い方もどんぶり勘定で、その為、何の役に立つこともなしに浪費してしまう人がいます。こんな人の行為に何か価値がありますか。
「利己心がないという点で評価される。だが、善行の点では評価できない。非利己は美徳であるとしても、無思慮な浪費は、控え目に言っても判断力の欠如である。財産は、これをちゃんと管理する人には与えられても、これを浪費する者には、もう与えられることはない。財産は、収支報告を要する預金なのである。人は、もしかしたら出来たのに、実行しなかった善行全てを報告せねばならぬ。人は無用に浪費した金で、もしかしたら泣かずに済んだ人達の、全ての流した涙に償いをせねばならぬ」

○この世で報いを受けるつもりはなく、あの世で良い報いを受けたくて、善行に励む者は、褒めた事ではないのですか。あの世での地位は、その為に良くなりましょうか。そういう計算は、本人の進歩の為に、よい事でしょうか。
「人は愛によって善事を為すべきもの-即ち、無私によって」
-しかし、私共が現在の苦悩の状況から脱け出る為に、進歩を望むのは当然の事です。霊達も、私共がこの目的を達成する為、正しい事をするよう、教えてくれています。ですから、今地上の現状よりも、私共が良くなろうとする事が、間違いでしょうか。
「間違いではない。しかしながら、自分の事は何も考えず、神に喜んで頂く為、苦しむ隣人を助ける為に、唯ただ進んで善を為す者は、既に高い進歩の段階に達している者、幸福の頂上の程近くにいる者、彼等を次の者に比べるとは、つまり、心情の自然から愛の為にのみ心せかれて善を行うのではなしに、もっと利己的で、計算をして善を行う者、こういう者と比較すれば、な」
-隣人に善を行う事と、私共が自己の欠点是正の為に払う配慮と、この間に線は引かれませんか。私達があの世で得になるからという考えで善をしても、殆ど価値がないという事は分かります。しかし、自分を高級霊の方に近付けたい、自分を霊界の高い地位へと高めたい、そう思って、自己を改善し、悪い感情を克服し、良からぬ性質は全て正しくしていくことは、やはり低俗なことですか。
「いや、いや。[善を為す]とは、彼等が意味したのは、愛が深いこと、これであった。計算する者、自分の行う愛の行為が、この世であの世で幾らになるか勘定する者は、利己的に事を行っているのである。だが、自己に神を近付けようと望む者、それが全て努力の目的であって、自己改善に励むことの中には、いかなる利己もない」

○地上の命は、低級な状況下での、ほんの一時の逗留にすぎません。それ故、来世こそ主として心に留めるべき生活です。従って、現世の事、現世の必要、それだけしか取り扱わぬ科学知識を習得して、何の役に立ちますか。
「絶対に有用である。と言うのは、この知識によって、諸君は同胞に利益をもたらせるからである。それだけではない、諸君の霊が、もし知的に十分に進歩すれば、他界に入って急速に進歩できる、地上で何年もかかった事が一時間で習得できる。どんな知識といえども、無役ではない。全ての知識が諸君の進歩に、大なり小なり寄与する。と申すのは、完成した霊は全ての事を知らねばならぬ。進歩はあらゆる方面でなされねばならぬ、全ての得た知が本人の進歩を進め、役立つのである」

○今二人の人物がいまして、共に金持ちです。二人共、その富を自分の満足の為にだけ使っています。一人は富裕の生まれで、不足を知りません。もう一人は汗水流してその富を入手しました。どちらの方の咎が大きいですか。
「不足をすることが何であるかを知っている方が、咎が大きい。と申すのは、彼にはその痛みが分かるからである」

○他者の為には何も良いことをせず、ただ貯める一方の人が、それは子孫に残す為だとすれば、言い訳が立ちますか。
「そのような弁解は、こじつけにすぎない」

○二人の強欲な人間がいます。一人は生活に必要な物まで切り詰め、蓄財に囲まれ質素に死にました。一人は、他人にはケチですが、自分の為には出費を惜しみません。また、他者の為の奉仕とか、高貴な目的の為とかには、爪の先程の犠牲も出し惜しみするくせに、自分の趣味や享楽の為となると、まるで出費にしまりがないのです。この人物は、人から奉仕を頼まれれば、いつも金がないと言うくせに、こと自分の楽しみには湯水のように金が出るのです。この二人の内、どちらの方が罪深いでしょう。また、他界に入ればどちらの方の状況が悪いでしょう。
「自分の享楽の為に金を使う方が罪深い。この人間は欲が深いというより、利己主義なのである。もう一人の方は、既に罰の一部を受けている」

○善事を為す手段として、富を求めることはいけない事ですか。
「この願望は、純粋であれば褒めてもよい。だが、いつも全く私心がないだろうか、何か自分の隠れた気持が潜んでいないだろうか。良いことをしてあげたいという第一の相手が、自分自身であることが、余りに多くはないだろうか」

○他人の欠点を詮索することは、間違ったことですか。
「ただ批判したり、すっぱ抜いたりする為だけなら、それは大変悪い。つまり、それは愛を欠いた行為だから。自分にある欠点を取り除いて、自分の為に役立てようという考えでするのなら、役に立つ場合もある。しかし、他人の欠点に寛容であることは、愛の要素の一つであることを、忘れてはいけない。他人の欠陥を非難する前に、先ず、他人が自分の同じような欠陥を非難していないか、これを考えるべきである。他者の欠点を詮索して役に立つ唯一つの道は、反面教師、これから学ぶことである。彼は欲が深い?そうしたら寛大になりなさい。彼は高慢?諸君は謙遜で慎み深くなりなさい。彼は無情?そうしたら親切でありなさい。彼は卑劣漢でけちんぼ?諸君は自分の行為全てに崇高でありなさい。要するに、イエスの次の言葉が、諸君のことを言っているのだと言われぬよう、行動しなさい、[他人の目の塵は見えるのに、自分の目の中のうつばりを見ない]と」

○社会の傷の部分を、はっきりさせる目的で、あれこれ詮議だてする事はいけない事ですか。
「それは何の為にするのか、その動機いかんによる。スキャンダルを生むだけが目的なら、為にはならぬ。世を害する図を描いてみせて、自分一個の満足を得るものである。本人の心にはその社会の悪が分かっていながら、その悪を描き出して楽しむ傍観者は、その罰を受ける者となろう」
-この場合、その作者が誠実であること、その意図は純粋であること、それはどうやって判断できますか。
「それは必ずしも判断をする必要はない。もし作者か良いものを書けば、それによって利益を得る。悪ければ、それは本人の良心の問題である。どうしても本人が自分の誠意を証明したければ、彼自身が優れた手本であるように振舞わねばならない」

○非常に素晴らしい道徳的教えが沢山書かれている書物があり、人類の進歩に役立っているのですが、作者達本人の道徳性には、大してプラスにはなっていないのです。作者達が著作を通じて行った善は、本人の霊に報いられることになるのですか。
「道徳原理は、これを実践しなければ、蒔かない種子のようなものである。種子はこれに実を結ばせ、食糧としなければ、何にもならない。左様な人物は、自分の言うことを人に理解させる知性を持っているのだから、なお更罪が重い。人に勧める美徳を自分は実践しないことで、彼等は本当は手に出来た収穫を失ったのであった」

○善を為す人が、自分の行為が善であることを、また自分にとって良い事であることを意識するのは、良くない事ですか。
「人は自分の行う悪を意識する限り、また自分の行う善をも意識する。人は自分が善悪いずれを行ったかを知ることが出来るのは、この本人の良心の声に依るのである。人は自分の全ての行為を、神の秤、特に正義と愛と奉仕の秤で計量して初めて、自分が善であるか悪であるかを決定できる。また、善しとできるか否かが決定できる。それ故に、彼が自分の悪に打ち克った事実を知り、これを喜ぶことは、もしこの認識を無駄にしなければ、それは悪かろう筈がない。何となれば、もし無駄にでもすれば、自分が克服したと同様な悪の道を歩くことになろうから」

○私達の激情は自然に出て来るものですから、激情はその本性が悪なのでしょうか。
「いや、悪いのは過度の激情である。何故なら、過度は意志の乱用であるから。しかし、感情は全てその根源において、人間の為、善の為に与えられている。感情あればこそ、人間は拍車をかけられ、偉大な仕事をやり遂げようと目論む。害となるのは、感情の乱用、これのみである」

○感情が良いものになるか悪いものになるか、どうやってその限界を定めればいいですか。
「感情は馬のようなもので、管理下に置けば役に立つが、思いのままにさせておけば危険である。感情は本人が支配を止めた瞬間、有害となる。また、本人ないし他者に害が及ぶ瞬間から、悪いものとなる」
〔注解〕感情は人間の力を十倍にも増大させるてこであって、人間が神意を実現するに当たり助力となるものである。但し、これを支配せず、逆に支配されていると、あらゆる面で過度に陥り易い。また、上手に扱えば有用な力が、逆に人間を襲って、押し潰してしまう。
 激情は全てその源は、自然な感情や自然の欲求にある。それ故、これは神によって定められた生命の在り方の一つであり、それ自体が悪ではない。激情とは、感情や欲求の誇張されたものである。
 この誇張とは、動機いかんで過度な働きとなるので、力そのものではない。悪となるのはこの行き過ぎた働きである。これが全ての悪い結果に繋がる。
 激情は全て、人間を動物の性質に近付け、人間を霊的性質から遠ざける。動物性の上に超然となる感情は、人間に動物性以上の霊性が存在する証拠であり、これによって、人間は完全に向って進む。

○人間は努力によって、必ず、自分の悪い性向を克服できるものですか。
「左様、ほんのちょっとの努力、それを時々やれば、それで十分だ。欠けているのは意志である。ああ!諸君等の内の何人が、本当に真面目に、自己改善の努力をしているだろうか」

○激情を克服しようとする場合、霊からの援助が十分受けられますか。
「神や守護霊に、援助を請う真摯な祈りを捧げれば、必ず助けが得られる。それがあの方々の使命なのだから」

○場合によっては、激情が激しすぎて、意志の力ではとても抑えきれない、という事はありませんか。
「(よし、決心した)と言いながら、その決意は口先だけ、それが出来なくても残念がりもしない、そういう者達が余りにも多すぎる。人間が激情を克服できないのは、霊が後ろ向きになっていて、本人は激情のままになって楽しんでいる、こういうことである。感情のコントロールが出来る人は、霊性をよく理解しているのである。激情の克服は、自分の霊が物質に打ち克つこと、こう、その者は承知している」

○物質支配と闘う最も有効な方法は何ですか。
「自制の発揮、これである」

○数ある悪徳の中、それらの根源をなす悪徳は何ですか。
「利己主義、これは繰り返し諸君等に述べたとおりである。諸悪が生じるのは、この利己主義からなのである。悪徳をよく調べてみられよ、さすれば、その根源に利己主義があることに納得がいこう。決意をしたら悪と闘ってみなされ。その悪の根源に至り、悪を生じさせている利己主義を滅ぼさぬ限り、悪の根絶には成功せぬものである。全ての努力をこの目的に向けなさい。利己主義こそ、社会腐敗の根源であるのだから。自分の日常生活においても、何か心の進歩を求めるなら、自分の心から利己的感情を取り除かねばならない。利己心こそ、正義・愛・奉仕とは相容れぬもの。これが全ての良いものを、台無しにしてしまうのである」

○利己主義の根は、個人的利益という感情にあります。従って、人間の心からこれを根絶することは、甚だ困難な事、このように思われます。それは出来ることなのですか。
「人間の目が霊的なものに開かれていけば、人間は物質に囚われなくなる。こうして物質の奴隷から解放されていくにつれ、利己主義をかきたてるような制度は改善されていく。教育はこのようなところを目指すべきである」

○利己主義は人間にとって生来のものです。ですから、地上を美徳が完全支配するには、これが障害となるのではありませんか。
「確かに、利己主義は諸君の最大の悪である。しかし、利己主義は地上に生まれて来ている霊がもっている未発達性にあるのであって、何度も再生して浄化を重ね、利己主義を払い落としている霊もいるように、人類に属するものではない。地上には、利己心を脱して、奉仕に献身している人が居ないというのかね。そういう人士は、諸君が考える以上に居る。だが、彼等は殆ど人に知られていない。美徳というものは、人前に派手に身をひけらかすことを好まぬから。もしも諸君の中にそのような一人が居たら、どうして十人いないだろうか?それが十人いたら、どうして千人、等々、いないだろうかね?」

○利己主義は、減るどころか、文明と共に増えています。その文明が利己主義を強化助長しているように思えます。どうすれば、このような結果が失くせますか。
「悪は太れば、いよいよ忌まわしく見えるもの。利己主義も目に余る害を及ぼすに至り、諸君はその根絶の必要を覚える。人間が利己主義を脱却すれば、兄弟のようになり、他を傷つけるということはなく、気心も一つになって相互に助け合う。強者は弱者の圧迫者ではなくなり、支持者となる。誰一人生活の資に事欠く者はいなくなる。正義の法に万人が従うのであるから。今、霊達がその新時代の到来を目指して従事しているのは、実にこの正義が支配する時代の到来の為である」

○どんな方法をとれば、利己主義は打破されますか。
「人間の不完全性の中で、最も根絶の難しいのが利己主義である。と申すのは、利己主義は物質の力と結び付いており、人間は未だ初等段階にあって、その力から自由ではないということ。それに、人間の法律、社会機構、教育など全てが、この物質の力を維持する傾向にあるということである。人間の精神生活が物質生活より優位になっていくにつれて、利己主義は漸次弱まっていこう。それは心霊主義によって、寓話の覆いが外され、人間の死後生存の事実が明らかにされる、その知識を通じて勧められる。心霊主義が正しく理解されるようになり、人類の信仰も習慣もこれと一つになる時、慣習・風習・社会関係の一切が変化していこう。利己主義は自分個人の重視、そこに立脚している。心霊主義はこれに反して、正しく理解されれば、個人という感情が消えた、いわば無限の観照とでも言うか、大変高められた観点、そこから一切を見る目を人に与えるのである。自尊の感情を打倒する点で、人間の真性を示してくれることで、心霊主義は必ず、利己主義と闘うものである」
「人間は他人の利己主義に触れる経験をすると、自分が利己的となることがよくある。相手の利己主義から自分を守ろうという欲求を覚えるのである。他人が自分のことを考えて、こちらの事は考えてくれないのを見ると、その本人も他人のことより、自分の事を考えるようになるのである。しかし、奉仕と友愛の原理を、社会制度の基礎に、また国際間及び人間間の法的関係の基礎に入れてみるがよい。そうすれば、人々は自分個人の利益という事をさほど考えなくなるだろう。何故かというと、自分の利益が他者によって配慮されていることが分かるからである。即ち、人は精神感化の実例や実際の体験を持つわけである。現代の利己主義が氾濫する中では、感謝も余りしてくれない他者の為に、自己の利益を犠牲にする事は、余程の徳性がなければ出来ることではない。しかし、天国が開かれるのは、結局、この徳性の所有者に対してである。また、この者に選ばれた者の幸福も保証されるのである。これに対し、審判の日に、自分の事だけを考えてきた者は除外され、孤独の苦しみの中に取り残されるであろう」
                                                          フェネロン

〔注解〕人類の進歩を促進する為に、称賛に値する努力が払われている。他のどの時代よりも、寛大な心が大切にされ支持されているが、なお利己主義が社会の病気をなしていて、悩みの種である。人々はこの社会の疾病が影響を及ぼすのであって、人々は多少ともその犠牲者である。よって、我々は伝染病と同じように、これと戦わねばならない。その為に、我々は内科医と同じように、疾病の原因にまで遡ることから始めねばならない。我々は、利己主義を温存させ発展させる全ての原因と作用を、家族関係、国際関係、あらゆる社会組織に至るまで、探し出さねばならない。病気の原因が分かれば、治療法はおのずから分かってくる。病気の原因は多いから、治療は遅々たるものだろうが、しかしそれは不可能ではない。それは悪の根元にまで達すること、即ち教育の普及によって、効果をあげ得よう。それは単に知的進歩の為の教育でなく、道徳的な向上をはかる教育によってである。
 人間は幸福になりたいと願っている。生来人間に備わっているこの願望によって、人間は促され刺激を受けて、地上生活の環境を改善しようと努力する。また、自分を苦しめる悪の原因を探し出して取り除こうとする。利己主義は悪の原因の一つであること、利己主義は苦の因である高慢、野望、貪欲、嫉妬、憎悪などを生み出すこと、全ての社会関係を混乱させ、意見を衝突させ、信頼関係を壊し、友人を敵に変え、隣人に対してはいつも警戒心を抱かせること、以上の事がはっきり理解できれば、人間はこの悪徳が、自分の幸運だけでなく、安全とも矛盾するという事、これに気付くに至ろう。人間がこの事で悩めば悩む程、痛切にこれと闘うことの必要を感じるだろう。それは、病気や危険な動物や他の災厄の原因と闘うのに似ている。何となれば、彼は自分自身の利益の為に、そうせざるを得ないのだから。
 利己主義は、愛が全ての美徳の源であるように、諸悪の源である。利己主義を滅ぼし、愛を発展させることは、現世においても死後においても、自分自身の幸福を確保したいと願う、全ての人々の目的であるべきである。

○霊的に高い進歩を遂げている人は、どんな特徴がありますか。
「肉体をまとっている人間の霊の高さは、地上生活での行為の全てが、神法と一致していること、及び、霊的生命をよく理解していること、これがその証拠である」
〔注解〕真に高潔な人は、正義と愛と奉仕の法を、無上の純粋さで実践する人である。彼は常に自分の行為に関して良心に問う、悪い事はしなかったか、力一杯善い事をしたか、自分に対して不満を抱く者がいないか、自分が人からしてもらいたいように人にもしてあげたかと。全ての人に対して寛容と愛の心に満ちており、報いを求めることなく善の為にのみ善を行い、正義の為、自分の利益を犠牲にする。人種や宗教の如何にとらわれず、全ての人を兄弟と思い、寛容で優しく全てに愛情を持っている。
 もし、神がこの者に力と富を与えられたら、彼はこれを全体の利益の為に、彼に任された預かりものとみなす。彼はこれを自慢の種とはしない。何故なら、彼は、これを彼に与えた神は、彼からそれを取り上げることも出来ることを知っているから。
 もし、社会機構のせいで、彼に部下が出来たら、神の目からは同輩なので、彼は愛と寛容をもって受け入れる。権力は彼等を精神的に高める為に使い、威張って相手をへこます為ではない。彼は他人の弱点に対して寛大である、それは彼も他人からの寛大さが必要な人間である事を知っているから。また、キリストの次の言葉を覚えているから、[罪のない者が、最初の石を投げなさい]
 彼に復讐心はない、だが、恩恵だけは覚えている。イエスの範に習い、彼は全ての罪を許す。それは、自分が他者を許した分だけ、自分も許される事を、知っているから。
 彼は他者の権利を尊重する、自然法に基づいたものとして。彼は、自分の場合も、権利が尊重されるのを望んでいるのである。

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