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カテゴリ:★『霊の書』 > 霊の書 自由の法

○人間に行為の自由がありますか。
「人間に思想の自由がある限り、行為の自由がある。もし人間に意志の自由がなければ機械であろう」

○人間の自由意志は生得のものですか。
「人は自分で何かをしたいという意志を持ったその時から、自由意志を持つ者である。人生の初めの頃は、自由意志は殆ど働かない。能力の発現と共に、それは現れ、その意志の対象も変化していく。子供は年齢相応の欲求に応じた思想をもち、年齢相応の物に自由意志を働かせる」

○人間に生まれつき備わっている直感の働きは、自由意志の発揮に障害となりませんか。
「直感作用は、人間の受肉以前からある霊の属性である。もし本人の進歩が十分でなければ、直感の刺激で誤った行為へ傾いてしまうかもしれぬ。これをその行為と共感する霊達が後押ししよう。しかしながら、どんな刺激といえども、これを拒否する決意さえあれば、はねのけられないものではない。心得られよ、意志することは、それが可能であるということである」

○人間の身体が行為に影響を及ぼすことはありませんか。もし及ぼすなら、その影響で自由意志が侵害されたりしませんか。
「霊は物質の影響を受ける、物質が霊の表現を拘束するので。だから、地上より肉体の鈍重さが少ない世界では、能力がもっと自由に発揮できる。しかし能力を発揮させているのは、道具である肉体ではない。さてこの質問では、道義的能力と知的能力を区別して考えねばならぬ。もし人が殺意を抱いたとする、この直感は霊が持つのであって、肉体が持つのではない。彼は自分の考えを何もかも殺し、自分は物質のとりことなり、野獣のように、極悪となる。もはや彼は悪から身を守る努力を放棄している。罪はかようにして犯される。この罪を犯すものは彼の自由意志、これである」

○知的能力が普通でない人は、自由意志を失っていますか。
「何らかの原因で知性に狂いを生じた者は、もはや自分の思考を支配することが出来ないので、自由を喪失している。このような変調は霊に対する罰であることが多い。前生で虚飾に耽ったとか傲慢であったとか、能力を悪用したとかで。このような者は白痴の身体に再生するかもしれぬ。同じく、暴君が奴隷に、悪辣な金持ちが乞食に再生することがあるように。霊はこの束縛をはっきり意識しており、この束縛に苦しんでいる」

○酔っぱらって精神の常軌を逸脱した者は、罪の償いをしているのですか。
「いや、酔漢は動物的感情を満足させる為に、自由意志で自分の理性を奪っているのだ。その為、彼は一つの罪でなく、二つの罪を犯しておる」

○未開状態の人間に、最も優越している能力は何ですか。本能ですか自由意志ですか。
「本能である。しかし、事柄によっては、自由意志で行動することもある。しかし自由と申しても、子供が欲求を満足させるのと変わりはない。知力の発達でのみ自由意志は発達する。従って、未開人より進歩している諸君は、誤りを犯せば、未開人よりも非難されるべきである」

○社会的な立場の故に、自由な行為に支障がある場合か多いのではありませんか。
「左様、社会には止むに止まれぬそうした事情がある。神は正義であって、何一つ目こぼしされることはない。しかし、いやしくも諸君等がその障害を乗り越える努力に対し、責任を負わせ給う」

○人生には運命(それは定義通りの普通の意味ですが)がありますか。即ち、予め定められている人生の出来事のことです。もしあるなら、自由意志はどうなりますか。
「運命があるとすれば、再生の時に、それぞれの霊がこれこれの試練を担おうと決意をした、その結果があるだけである。この試練を選ぶことによって、彼は自分の為の一種の運命をつくる。その運命なるものは、彼が自分をそこに置きたいと選択をしたその状況、その当然の結果である。今ここで話しているのは、肉体的試練についてだけである。と申すのは、精神的試練や誘惑ということについては、善悪いずれを選ぶか、それに従うか拒否するか、これには選択の自由を霊が残しておくのが通例であるからである。善霊は、尻込みをする人を見れば、やって来て助けてやる。しかし、本人の意志の働きを犯すところまではしない。これに反して悪霊は-つまり未発達霊は、あれこれつべこべと不安を吹き込んでは、本人を悩ませ脅かす。しかし、そうではあっても、本人の霊がどんな選択をするか、その意志の自由は残されている」

○中には、自分の行為とは関係なしに、運命に翻弄されるように見える人がいます。この場合、この不幸は宿命の結果なのでしょうか。
「それは、本人が霊界で自ら選択した為に、受けることになった試練であろう。諸君等は自分達の失敗に過ぎない結果を、運命としてしまうことがよくある。しっかり目を開いて見なさい、そうすれば諸君等の不幸の大部分は慰めを得よう」

○一難去ってまた一難、彼等はそういう人達です。彼等が死を免れることは不可能だったように思えます。こういう場合にも宿命はないのですか。
「宿命などは存在しない、宿命という言葉通りの意味では、あるのは死の時、これである。その時が来れば、どんな形であれ、死が顔を見せれば、人はそれを避けることは出来ない」
-もしそうなら、どんな危険が身に迫っても、死の時が来ていなければ、我々は死ぬことはない、こうですね。
「そうだ、人は死ぬことはないだろう-このような例を諸君は沢山もっていよう。しかし、その時が来ていれば、人は何をもってもそれを避けえない。神は諸君の一人一人がどのようにして現世を終るかを、予め知っておいでになる。諸君の霊もこれを知っていることが多い。何となれば、諸君が自分の人生を選択する時に、それは示されるのであるから」

○死の時は避けられないとすると、危険を察知して注意しても無駄である、こうなりますか。
「いや、このような用心は、本人に迫る危険を本人が避けるようにと、与えられる暗示なのである。これは早すぎる死を避けるよう、本人に対して神慮が用いられる一つの方法なのである」

○実際に結果は及ばないのに、危険が身を脅かす、このような摂理の目的は一体何ですか。
「あなたの人生が危険にさらされている時、悪から身を転じて善に赴く為、あなた自身が望んだ警告である。危険から逃れる時、また自ら招いた危険になお心が高ぶっている間、人は真剣に考える、善霊から受ける暗示の程度に応じつつではあるが、どう自らの人生を改善していくべきかについて。悪霊が立ち去ると、人はこうすれば危険は避けられるのだと思い、心に喜びを持ち再び心の自在な活動の場を取り戻す。自ら招いた危険によって、神は諸君に思い出させる。自分の弱さを、人生の脆さを。諸君が免れた危険の原因や性質をよく調べてみるなら、諸君は多くの場合それが、自分の犯した過失や自分が逃げた責任の罰であったことに、気付くであろう。神はこのようにして人が自分の心を覗くようにと、自己改善の業を怠らないようにと、警告を与え給う」

○地上生活でどんな死に方をするか、これを予め知っていますか。
「霊は、自分が自分の人生を選んだこと、そこである一定の死に方をすること、これを知っている。また霊は、その危険を避ける為に自分がせねばならぬ努力を予見している。更に霊は知っている、もし神のお許しがあれば、自分はそれを免れるということを」

○未だ死ぬ時ではないという確信をもって、雄々しく闘っている人々がいます。こういう確信には何か根拠がありますか。
「人は最後の時の予感を持つことがよくある。同様に、未だ死ぬ時ではないという予感を持つ。こういう予感は守護霊の為せる業である。守護霊は本人に逝く時の準備をさせておこうと思うわけで、また、特にその必要がある時、勇気を持つようにさせたいと、こう望むわけである」

○死の予感を持つ人は、持たない人よりも怖れが少ないのは、どうしてですか。
「死を怖れるのは人間であって、霊ではない。死の予感を持つ人は、人間としてよりも霊として、それについて考える。で、彼はこう悟る、これは自分にとり救いであると。こうして静かに死の時を待つ」

○定められた死の時が来たら、死は避けられないものなら、我々の人生航路で起こる出来事は、どう転んでも同じ事なのですか。
「出来事について我々は余り諸君に警告を発しない。また我々が指示を下して出来事を回避させることも少ない。我々は物質上の問題に余り興味をもたない。諸君が選んだ人生にとって、この事は殆ど重要ではないから。真実の唯一の運命とは、人がこの世に出現する時間と、去っていく時間、そこにある」
-人生の中で間違いなく起こる出来事、霊の方でもこれを変更しない。そのような出来事がありますか。
「ある。諸君が受肉以前に、自分の人生の選択をした時、諸君はその出来事を予見している。しかしだからといって、人生に起こる出来事が、文字を書くように書かれていると、思ってはいけない。一つの出来事は、諸君が自由意志で行為したことの結果であることが多い。だから、もし諸君が行為しなかったら、その事件は起きていなかったであろう。もし指を火傷するとする、こんな事は前もって定められていたのではない、本人の不注意のなせる下らぬ災難、物理的法則の結果である。神により予定されているものは、大きな悲しみ、深甚な重要な事件、本人の精神状態に影響を及ぼす出来事、これである。何となれば、それが本人の浄化と教化に効用をもつからである」

○意志と努力で、人はもしかしたら起こる筈だった事件を、起こらずに済ますことが可能ですか。また、この逆もあり得ますか。
「自分の選択した人生と、この事が矛盾せぬなら、それは可能。更に、善を為す為に、これこそ人生の唯一の目的であり、そうあるべき善を行う為に、人は悪を避けてもよい、なかんずく、大きな悪の元になりそうな事を妨害してよろしい」

○殺人者は、自分の人生選択の時、殺人者となることを知っていましたか。
「いや。本人は次のように知っていた。闘いの人生を選択することで、人を殺す危険を招くと。しかし、本人は自分が実際にそうするかしないかは知らなかった。と言うのは、その罪を犯す前の殺人者の心中には、大体間違いなく、解放状態があるから。解放状態にある本人は、それを犯す自由、犯さぬ自由、いずれかである。前もって霊が殺人することを知っていれば、罪を犯す宿命を持たされることになる。誰一人、罪を犯す宿命を負わされてはいない。どんな罪も、その他の行為と同じく、自由意志と決意の結果である」
「諸君はどうも二つの事を、それも余りにも、混同しがちである-物質生活の出来事と、精神生活の行為とを。もし、一種の運命があるとすれば、それは物質生活の出来事でのみ起こるのである。その原因は諸君の行為の手の届かぬ彼方、諸君の意志から独立している。精神生活の行為はどうかというと、こちらは人間自身から発する行為である。それも常に本人の選択の自由の結果として生まれて来る行為、これである。従って、このような行為の中に、運命のようなものはない」

○何をやっても上手くいかない人がいます。する事なす事に悪邪霊がまといついているようです。これは宿命とでも言いますか、そうではないでしょうか。
「宿命と呼びたければ、確かに宿命である。但し、それは本人が受肉以前に自分で選択した人生の結果である。と申すのは、彼等は失意の人生を送ることによって、忍従や辛抱を学びたいと望んだのだったから。しかし、この運命が絶対だと思ってはいけない。これは、自分で道を誤った結果、自分の知力や資質を上手く使わない結果であることが多いのだから。泳ぎを知らないで川を横切ろうとする者は、絶交の溺死の危険に立っているわけである。同じ事が、人生の大部分の出来事についても言える。自分の能力に叶った物事だけを手がける人は、概ね成功を勝ち取る。失敗の因となるものは、人間の自惚れや野心、これらは人間を正しい道から逸らしてしまう。又、自己満足の野望に過ぎないものを、天職と思い違いをさせてしまう。このような者は失敗する、それは本人の欠陥によるものである。しかるに、自分を責める代わりに、彼は自分の星を呪う」

○社会慣習の為に、余儀なく別の道を辿ることがよくあるのではありませんか。自分の職業選択が周囲の人の意見で左右されることもよくあるのではありませんか。他人の判断をわりに重視する気持の為に、自由意志の修練の障害となる、そんなことはありませんか。
「社会慣習は神ではなく、人間によって作られるもの。人がこれに従うのは、そうすることが相応しくあるからだ。またそれ故に、本人は自由意志でそれに従っているわけ、但し、それから離れたければ、離れられる場合だが。だから、ぶつくさ言うこともあるまい。人々が責めるべきは社会慣習ではなくて、自分のプライドである。このプライドの為に、人は自分の権威を傷つけるよりはと、餓死を選ぶ。自分の意見を犠牲にしたって、誰も感謝はしない。神様は彼等の空しい犠牲をよくご存知であるが」

○運の良くない人がいるかと思えば、何をやっても上手くいく、運の良い人もいます。一体何からこうなるのですか。
「多くの場合、本人が事をどう処理するか。そのやり方である。しかし、試練の種類にもよりけりである。人は成功すると成功に酔ってしまう。そして自分の運を信じ切って、最後はどんでん返しを食う。もし思慮分別があったら、食う筈のなかったどんでん返しを」

○意志や知性も関係なしに、思わぬ幸運が転がり込むことがあります。例えばサイコロ賭博のような場合、あれは何ですか。
「それは霊達の仕業である。人間として得た勝利が、霊としては失敗であることが多い。こういう僥倖(ぎょうこう)は本人の虚栄心や欲心の試練である」

○では、私共の物質上の運命をつくる、いわゆる運は自由意志の結果ですか。
「諸君は自らその試練を選択したのである。その試練が厳しく、また諸君がそれをよく耐えれば、いっそう諸君は高く向上しよう。人生をぬくぬくと利己的快楽に淫身をやつして生きる者は、進歩が停滞する臆病者である。この故に、今不幸な多数は、幸福である者達よりも、地上ではずっと偉大な者達である。何となれば、霊というものは一般に、自分に最も有効な試練を、選択するものであるから。霊達の目には、諸君等の壮麗さとか享楽の虚しさが、はっきり見えている。それだけでなく、最高に幸福な人生とは、必ずやある程度、波風のあるもの、ある程度悩み事もあるもの。ただ悲しみだけがなければ」

○良い星の下に生まれる、という言葉は、どこから出て来るのですか。
「星と人間の運命とを結び付けた、古い迷信-一部の者達が愚かにも、そのまま真理と鵜呑みにしている天象図、それから出ている」


○未来のことが人間に分かりますか。
「原則として、未来は人間から隠されている。神がこれを洩らされるのは、極めて稀なこと、例外である」

○なぜ未来は人間から隠されるのですか。
「もし未来が人間に分かれば、人間は現在をおろそかにして、自由意志で行為をしなくなる。本人はこう思う、これこれの事が起こるのなら、自我がかかりあう余地は何もないと。さもなくば、それの起こるようにと望まれる、どんな神が舌打ちなさりそうな物事についても。このようなわけで、諸君は人生の諸問題に対して、未来を知ることなしに、備え対処するのである」

○未来が分からないことが有益であるとすれば、何故神は時折それをお洩らしになるのですか。
「この場合は、この予知によって、その物事の起こりを隠しておくよりも、事がスムーズに運ぶ、その故である。これを予知させられた人間は、もし予知しなければ、横道に走って行ったであろう、これをちゃんと誘導する為である。また更には、それが一つの試練であることが多い。物事の見通しがつけば、それによって有用な思想も湧いてこようというもの。例えばある者が、自分が予期せぬ遺産を相続することを知ったとする。彼はふと、これで自分の人生は楽しいものになるとわくわくして、おかしな考えをもち、いっそ早くそれを手に入れる為、その人を殺そうと思うことがあるかもしれぬ。また別の場合は、遺産相続の見通しによって、本人に、ただ善と寛仁の心を目覚めさせるかもしれぬ。万一、この予言が実現しない場合は、別の試練となる。即ち、失望を忍耐する試練の道ということである。いずれにしろ、未来予知の期待により、目覚めた善悪いずれかの思想で、本人は功罪どちらかを受け取ったこと、それは確かなことである」

○神は何事も御存知である限り、人が与えられた試練を克服するか、挫けるかも御存知でいらっしゃる。では、このような試練の効用はどこにあるのですか。本人について神が御存知ではない事は、何一つ神にお見せする訳ではないのですから。
「貴方の質問は、神はなぜ人間を完全なものとして創造しなかったのか、と問うているのと同じ事である。または、人間は大人になる前に、なぜ子供の時代を通らねばならないのか、という問いでもある。試練の目的は、人間の功罪について、神を啓発することではない。神は人間が何であるかことごとく御存知である。ただ、人間を自由にしておいて、人間が自己の行為に責任をもつようにさせておく、ここに目的がおありだ。人間は善悪の自由選択をもっているので、試練は人間に誘惑をもたらし、人間に抵抗力をつける、その効用がある。神は事前に彼が誘惑に勝つか負けるかも御承知ではあるが、正義であられるが故に、本人の為した行為に従って本人が賞罰を受け取る、その外に何もなさりはしない」

○自由意志の問題は次のように要約できよう。人間は宿命によって悪に堕ち入るのではない。人間の行為の筋書きは、前もって書かれているわけではない。人の犯す罪は運命の筋書きの結果ではない。人間は試練として償いとして、一つの人生を選択したのかもしれない。それは誘惑で道を踏み外しそうな環境や状況、それに囲まれている。しかし、本人は常に右するか左するかの自由を持っている。このように霊は、受肉以前にあっては、次の人生とそこで受ける試練を選択して、自由意志を働かせる。また現世に入っては、誘惑に身を委せたりまたはこれを拒否したりして、自由意志を鍛える。
 霊は物質から解放され自由になると、自己の到達した浄化の程度に応じて、未来の地上生活を選択する。以前にも指摘したが、霊に自由意志があるから、この選択をする力があるのである。この自由意志は受肉しても消えることはない。何となれば、もし受肉した霊が物質の影響に屈することがあれば、それは本人が選択した試練に屈服するのであって、この場合、本人はそれを克服する為、神は善霊の援助を請願する自由を常にもっているのである。
 世間で言う運命とは、人生の出来事が前もって定まっていることと解されている。もし物事がそういう具合なら、人間は意志も何もない機械にすぎない。もし人間の行為が運命の力で縛られているのなら、人間の知性など何の用があろうか。このような予定は精神の自由の破壊に外ならない。そこには人間の責任のようなものは存在しない。従って、善もなければ悪もなく、徳も罪もない。まことに正義であられる神は、行為に自由のない者の犯す失策をもって、懲罰をなさることがあり得ようか。そのような者の善行にあらざる善に対して、報いられることがあろうか。更にはまた、これは進歩の法の否定でもあろう。つまり、もし人間が運命に依存するものなら、自己改善など思いもよらぬだろう、自ら進んで行為することも不要、しても無駄であるのだから。
 他方、運命とは単なる言葉だけのものでもない。運命はある、人間が地上に置かれている立場、そこで演ずる役割、霊が受肉以前に試練の為か、償いや使命の為か、自ら人生を選択したその結果として、運命はある。この選択によって、彼は自分が選んだ人生の転変に、どうしても従わねばならぬ、善かれ悪しかれ、その中の趨勢に順応せねばならぬ。だが、運命はそこまでだ。後は、その趨勢に従うかどうかは彼の自由である。細かい事件は、本人がどんな行為をするか、また、本人が周囲の霊魂の囁きにどんな反応をするか、それいかんによって作り出されていく。
 そこで、我々の行為とは関係なしに起こる出来事そのものには、運命がある。それは我々の霊が受肉以前にした人生の選択から出て来るものであるから。しかし、それら出来事のもたらす結果には、何ら運命は存在しない。それは我々の思慮いかんによって変更できるものだからである。即ち、我等の精神生活の行為には、運命は存在しない。
 人間が有無を言わせぬ絶対の法の下に置かれるのは、死についての事のみである。この人生に時があることは定められたことであり、これを断ち切る死の定めも避けられぬことである。
 俗信によると、人間の本能は本人自体に備わっているものという。それは彼の精神には責任のない、肉体器官から出て来るものであるとか、または人間の本性であるとか言われる。これは人間が不完全であることの弁明ともされ、人間にしてみれば、人間の有様は人間の選択の余地のないものだという、もっともな口実ともされるのである。
 心霊主義の主張は、右よりも明らかに道徳的である。これは人間の自由意志を多分に認めていて、誤りを犯せば、邪霊の囁きに屈服したものとして、その誤りの全責任を本人にありとするのである。何故かというと、心霊主義は、邪霊への抵抗力が人間にあるとするのであって、この抵抗は、人間が自分の本性と闘うよりもずっと易しいと、こう考えるからである。このように、心霊主義によると、どんな誘惑も不可抗力ではないのである。人間は自分の内心に囁きかける不思議な声に対し、精神の耳を閉ざすことが出来る、それは丁度、人声に耳を閉ざすことが出来るのと同様である。人間は自分を悪へ誘う囁きに対し、身を背けることが出来る、誘惑する者に対し意志で反対することによって、同時に、神にその力をお与え下さるよう願うことによって、また、善霊に誘惑を叩き潰す手助けを求めることによって。
 上記の、人間行為のいとも妙なる源は、現在、霊界から示されている教示の結論なのである。これは道義性において崇高であるだけではない、人間の自尊心を優れて高めるに相応しいものである。何となれば、これは、招かざる者の浸入に人間は戸を閉ざすべきことを示すと共に、人間は抑圧する者の奴隷ではないことを、教えるものであるから。また、人間は意志とかかわりのない刺激で動かされる機械ではないこと、また、人間は二つの声を聞き分け選択できる理性的存在であること、これを示すものである。更に次の事を付け加えておこう、人間は自分の行為の主であるということ。人間の行為はその自己の中に動機をもつものである。何となれば、人間は今物質の衣に覆われているが、しかし彼は依然として霊である。
 それ故に、我々が犯す誤りは、我々自身の霊のもつ不完全さ、そこに原因がある。その不完全さとは道徳的な卓越性が未だ獲得されていないということで、時間の経過の中でそれは獲得されるであろう。しかしそうではあるが、そこには自由意志が十全な姿で込められているのである。地上生活で、我々は、霊の中の不完全さを消す為に生きる、苦しい試練を通ることによって。そして、この不完全さこそ、明らかに、我々を腰砕けにし、未発達霊の囁きに身をよろめかす、その張本人である。未発達霊はこの我々の弱さを利用して、我々が身に課した仕事の完成を失敗させようと、試みるのである。もし、我々がこの闘いに勝てば、我々の霊は一層高い段階に上る。失敗すれば、旧態依然、良くはならず悪くもならず。但し、何度繰り返しても上手く行かぬ状態を残す。この同じ試練の繰り返しで、長期にわたり人間の進歩は停滞する。しかし、我々が自己改善を積むにつれ、弱さは消える。そうして我々を悪に誘い込もうとする者に手がかりを与えなくなっていく。こうして、我々の精神力の絶え間ない増大と共に、悪霊は遂に我々に働きかけることを止める。
 善霊も悪霊も、霊の総体が受肉をして、この人類をつくっている。そしてこの地球は、善霊よりも悪霊の方の受肉が多く、最も遅れた世界の一つである。我の強さが一般的傾向となっており、人類の間に目立っている。そこで、この地球へ戻って来ないよう、最善を尽くそうではないですか、もっと高い世界へ入って行けるよう、功を積もうではないですか。そこは善が目立つ楽土の一つ、その楽園で、我々は地上に在った時代を、過去の異国の滞在の時期のように思い浮かべるだろう。

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