死にたい自殺サイト自殺方法自殺ダメ

当サイトは、死にたい人に自殺に関する霊的知識を与えて、自殺を止めさせる自殺防止サイトです。

自殺の霊的知識へ

カテゴリ:★『霊の書』 > 霊の書 破壊の法

霊の書 破壊の法 目次

必要な破壊と不条理な破壊

災害

戦争

殺人

残虐

決闘

斬首刑

○破壊は自然法ですか。
「全てのものは破壊されること、これが必要である。その再生と更新の為に。諸君の言う破壊とは形の変化にすぎない、その目的は生命体の刷新改善にある」
-では、破壊本能は神慮によって、全ての生き物に与えられた。このように思われますが。
「神の創造物は、神がその目的を遂げられる為の道具である。生き物達は食物の為にお互いを滅ぼし合う。それがなければ殖え過ぎてしまうだろう。こうして再生産の均衡がこれで守られている。その為に、外衣である身体が利用されている。この外衣と申すは装飾に過ぎぬのであって、肝心な部分、思考する生命ではない。破壊されるのは、この外衣の部分に過ぎぬ。この肝心な部分、知性原理、これこそは破壊されぬもの、また、これは通り抜ける数々の変容の過程を経て、入念に仕立てられていくもの」

○生物の再生の為に破壊が必要なら、どうして自己保存などというものが生物にはあるのですか。
「破壊つまり死が、起こるべき時以前に起こらないように。早すぎる破壊は知的原理の発達を遅らせる。この故に、神は全ての生き物に、生と生殖の意欲を与え給うた」

○死によって私共は一層よい生活に入れます、死によって私共は現世の苦から解放されます、従って死は恐るべきものではなく願わしいものです。しかるに何故、人は身震いする死の恐怖の本能を持っているのですか。
「前に申したことがあるが、人間は長生きして、仕事の達成を求めるべきである。この目的の為に、神は人間に自己保存の本能を与え給うた。この本能があるから、人間は試練に耐えている。だが、その為に随分と、心が萎えてしまうこともあるが。内在の声が彼に囁く、死に負けるなと、進歩の為にもう一踏ん張りせよと。危険な目に遭うことがあるが、あれは警告である、神から与えられている寿命を生かしてしっかりやれという。しかるに、人は感謝もせず、神よりも自分の運に感謝する始末である」

○自然はなぜ自己保存と破壊の二つを、並べて置いたのですか。
「前に申したとおり、平衡を保つ為、その二つが釣り合う力となるのである。病気と治癒の二つは並んで置かれている」

○破壊は何処の世界においても、同じ様なものですか。
「それは夫々の世界の物質的レベルによって違いがある。上の方の、物質的にも精妙で、精神的にも浄化した世界では、破壊はなくなる。地上より進化した世界では、情況はすっかり違うのである」

○地上の人類にとって、破壊は常に必要なものですか。
「人間の霊が物質の主となっていく割合に応じて、破壊の必要は減っていく。それ故、人間が知性や精神を外に発揮するという事は、破壊の怖れが付きまとうという事だ」

○現況において、人間には、動物を無際限に殺戮する権利がありますか。
「食用の為、人間の安全の為、これ以外は権利ではない。乱用は権利とは申せない」

○その必要とか安全を超えた破壊は、いかがなものでしょう。例えば、狩猟、良い目的などではなく、ただ殺戮の楽しみだけで、ちょいちょい出掛けるような場合。
「それは獣性が霊性を支配している状態である。必要を越える破壊は、すべて神法違反である。動物は必要を限度として他を殺す。しかし、人間は自由意志があって、不要な殺戮を行う。人間はこのような自由の乱用の責任を問われることになろう。人間はむしろ戒めるべき悪の本能に、こうして身を委ねているのだから」

○動物の生命を奪うことについては、極端に神経質になる人がいますが、これは良いことですか。
「その事自体は立派だが、余り神経質になり過ぎるのは、神経の乱用である。従って、その効果は差し引きゼロとなる。その気持は、真実の愛というより、迷信的恐怖の所産なのである」

○人類を襲う災害には、神のどんな目的があるのですか。
「人類の進歩を早めること。前に申したとおり、霊の新しい目覚めには破壊が必要、それでもって浄化の一歩が踏み出せるというもの。何事も正しい判断を下すには、その結果に目を向けねばならぬ。諸君は自分の立場からしか物を見ない。従って、たまたま自分に害を及ぼすものがあると、それをもって災害と見なす。しかし、その害が諸君の急速な進歩の為には、必要であることが多い。もしそれが起こらなかったら、その進歩の為には何世紀も要するという事がある」

○神は災害などを使わずに、人類の改善をなさる方法はないのですか。
「それはある。それを毎日使っておいでになる。諸君には善悪を知る智が備わっている、神は諸君の進歩の為にそれを与え給うた。その方法を諸君は余りにも用いない。その為、高慢の鼻をへし折って、自己の弱さを思い知らせる、その必要が起こってくるのである」
-しかし、善人達も悪人同様、災害の為に死にます。これが正義ですか。
「地上に在る時は、人は何事もその一生の長さで計る。しかし死後は、その計りが変わって、人間の一生などは一小事にしか感ぜられなくなる。地上の一世紀は、永遠に比すれば一瞬に過ぎぬ。従って、諸君の数日とか、数ヶ月、数年にわたる災厄といっても、さしたる事ではない。この事を心にとめて将来に役立てよ。霊は万物に先立って存在し、万物の後に存在する実体。霊は神の子であり、神の最も心を掛け給うもの。肉体は地上でまとう外衣に過ぎない。多数の死を招く大災害では、受難者は戦争の間に、その軍衣が破れ裂け失われていく、軍隊のようなものだ。将軍はその衣服などよりも、兵士そのものを気遣う」
-しかしですね、その災害で傷つく者は、やはり犠牲者ではありませんか。
「もし諸君が、地上生活をあるがままに見て、永遠の生に比し、いかに小さいかを思うなら、そんなに目くじらを立てる程の事もなくなろう。彼等犠牲者も、他界に入って、その苦しみの十分な償いを得よう、もし彼等がいつまでも恨みがましく思わねば」

○大災害は、一時的には害悪を生みますが、現実面で効果があるものですか。
「左様、国家の状態に変化を起すことがある。だが、その良い結果は、後の世代になってから分かることが多い」

○災厄はまた、厳しい運命と闘わねばなりません。その事は人間に一つの試練を作ることになりませんか。
「それは、災厄は常に試練である。それは人間に知性の練磨の機会を与える。それは忍従と神への服従を試す機会を与える。それは、もし人が利己心のとりこになっていなければ、隣人に対する自制、公正、愛の心を発現する機会ともなるのである」

○人間の力で、今起こっている災厄を、変えることが出来ますか。
「出来る、部分的には。しかし、一般の想像とは違うところがあるが。災厄の多くは、人間が先が読めないことから起こることが多い。従って、知識と経験が増えるに応じて、災厄は避けられるようになる。つまり、災厄の原因がつかめれば、その生起が防止できるというわけである。だが、人間を苦しめる災禍の中には、天意によって課され、その影響も相当に感じられる、そういうものもある」
「こういう災禍には、神意に従う外はない。人間の怠慢によっては、苦痛を一層酷くもするし、またそういう場合が多いが」

○人間を戦争に駆り立てる原因は何ですか。
「霊性より獣性が勝っていること、及び、感情を満足させたい欲求。野蛮状態では、どの民族でも、強いことが何よりの力である。従って、戦争がその常態である。人間が進歩すると、戦争は少なくなる、それは戦争の原因を作らないようにするからだ。それでも避けられなくなると、やり方は人間的となる」

○地球上で戦争はなくなりましょうか。
「左様、人間が正義を重んじ、神法を履行する時に。その時、人類は兄弟となろう」

○戦争を必要とする神慮の狙いは何ですか。
「自由と進歩」
-戦争によって自由が生まれるのなら、なぜ、その目的が相手を屈服させることであり、またその結果もそうなるのは、なぜですか。
「その屈服も一時的にすぎない。屈服させられた側がうんざりして、やがて、前進したい気持をかき立てられる」

○利得を目的とし戦争を引き起こす者達を、いかが考えられますか。
「まことに罪深い者達である。この者は犯した殺人の罪全てを償う為に、幾多の地上再生の苦しみを耐えねばならぬだろう。と言うのは、彼の野心によって殺された一人一人に、償いをせねばならぬから」

○神の目より見て、殺人は罪ですか。
「左様、大きな罪である。何となれば、人の生命を奪うものは、人が此の世で行なっている罪滅ぼしと使命遂行を中断する者だから」

○罪人は全て等しく極悪ですか。
「前に申した通り、神は正義である。神は行為よりも動機によって裁き給う」

○自己防衛の為の殺人を、神は御許しになりますか。
「全く止むを得ない場合に限って、御許しになる。自分を攻撃する者を殺さねば、自分が殺されるのならば、自分の生命を人は守るべきである」

○戦争で犯した殺人にも、人は責任がありますか。
「その戦争を強制された場合は、、責任はない。しかし、犯した残虐行為に対しては責任がある。また、人間的行為をしていれば、それには報いられよう」

○親殺しや嬰児殺しは、神の視点よりして、大罪ですか。
「その罪は共に大きい。何となれば、罪はどんな罪でも罪である」

○相当進歩した民族でも、嬰児殺しの慣習があります、法律で認められていることすらあります、これはいかがですか。
「知的に進んでいるからといって、精神が進歩しているとは限らない。霊には知的進歩があっても、徳性は遅れているかもしれぬ。それと申すのも、長期にわたり、その者が徳性の改善をしなかったということ、精神の浄化なしで知識の獲得をしてきたということである」

↑このページのトップヘ