死にたい自殺サイト自殺方法自殺ダメ

当サイトは、死にたい人に自殺に関する霊的知識を与えて、自殺を止めさせる自殺防止サイトです。

自殺の霊的知識へ

カテゴリ:★『霊の書』 > 霊の書 崇拝の法

霊の書 崇拝の法 目次

崇拝の目的

崇拝の実践

瞑想の生活

祈り

多神教

犠牲


○人はなぜ崇拝をするのですか。
「神へ向う思いの高まりによって。この崇拝を通じて、魂は一歩一歩神に近付く」

○崇拝は内心の声の発動なのですか、それとも教育の所産なのですか。
「神への信などは、内心の声の所産である。人は弱さの自覚によって、自分を守ってくれる存在にすがる気持になる」

○崇拝の感情を全く持たない人間がいるものでしょうか。
「いない。今まで無神論の民族は一つもなかったから。どの民族も自分を超える何かの存在を感じている」

○崇拝は自然法の中にその起源があると考えてよろしいですか。
「崇拝は自然法の中に含まれる。それは人間の内心の感情の発露であるから。その故に、崇拝がその形式は違うにしろ、全ての民族に備わるものだから」

○崇拝は形の上の実践が大切なのでしょうか。
「真実の崇拝は心にある。崇拝を行う時は常に、神の目があなたに注がれていることを、心に止められよ」
-礼拝の行為は効果がありますか。
「左様、それが形だけのものでないならば。その態度がよろしければ礼拝は常に有効である。しかし、虚飾や形だけの礼拝、もっともらしいばかりで心の伴わぬもの、これは悪い態度であって、本人は気付かぬが害のあるものである」

○神は一定の方式に従って礼拝を行う人達をよしとされますか。
「神は心から真摯に礼拝する者を好み給う。また善を為し悪行を避け、自己の為に祈らず人の為に祈る者をよしとし給う」
「人はすべて兄弟であり、神の子等である。故に、神は神の法に従う全ての者を御許に呼び集め給う、その礼拝の形式が何であろうと」
「形だけの祈りを捧げる者は偽善者である。格好ばかりの祈り、祈りと行状の違う者、これは悪い礼拝を捧げる者である」
「キリストの名を口で唱えながら、高慢で、嫉妬深く、僻みっぽく、人を許すことを知らず、地上の財貨を追い求める者は、口先だけの信仰で心の伴わぬ者達である。全ての事を見そなわす神は、このような者にこう申されておる、『真理を知りながらこれに従わぬ者は、野蛮人に比して、同じ悪行でも百千倍の罪に値する、やがての日それ相応の報いを受けよう』と。盲人が道であなたにぶつかれば、あなたはこの者を許す。しかし目明きが同じ事をすれば、あなたはこれを咎める。これは道理である」
「だから、どんな礼拝の仕方がよいかなど、問わぬこと。それは、神に向ってどちらのお世辞がよろしいですか、と問うているに等しい。神への讃歌は、心のドアを通って神に届く、この事を心得られよ」

○自分の信じていない宗教の儀式を行うのはよくないことですか。それは関係者の、信仰は違ってもその人に敬意を表して行う場合ですが。
「この場合は、何れの場合もそうだが、どんな意図で行うのか。その気持が問題である。その人の信仰に対する敬意で行うのなら、それは間違いではない。それを物笑いの種にするような者に比べれば、それは遙かによい。後者は愛を欠いた罪である。しかし、単純に興味本位の為とか、見栄の為とかで行えば神の目からも人の目からも、賤しむべきことである。人に良く思われたい為に、唯ただ神の前に平つくばってみせる手合いを、神が喜ばれよう筈がない」

○礼拝は一人でするより、集まってやった方がよろしいか。
「思想や感情が同じ者達が一堂に集まれば、善霊を引き寄せる力は一層強くなる。神の礼拝の場合も同じ事である。しかしその為に、個人の礼拝は価値が低いと早合点してはいけない。個人の場合は、その人の思い通りの礼拝が可能になるのである」

○悪を為さず、神にのみ思いを向け、瞑想の生活に沈潜している者は、神の目よりする時、格別の功があるものですか。
「そうではない。彼は悪を為さない、ということは善を為さないという事である。更に付言すれば、善を為さぬとは、それ自体が悪なのである。神は、その子等が神を思うことを望み給う。しかし、神のみを思う事を望み給わず、神は人間が大地の事にかかわるよう務めを与え給うているから。瞑想と観照にその人生を浪費する者は、神の目よりすれば、何も役立つことをしていない。何となれば、その人生は自分一人のもので、人類に何も役立っていないから。されば、神はその者が為さなかった善事の計算書を提出するよう求められる」


○神は祈りを聞いて下さいますか。
「心からの祈りなら、神は常にこれを聞き入れ給う。願うところのものは全て神の御手の中にあるから。そして心よりの祈りなら読書に勝る、どんなに美しくそれを読もうと、頭の中だけでなく声を出してそれを読もうと。信と愛と誠意を込めて祈れば、神はこれを聞き届け給う。しかし、高慢で利己的で虚栄的な人間の祈りに、神は耳を傾け給わず。しかし、その者の祈りが悔恨とへりくだった気持から出たものなら別である」

○祈りとは一体何でしょうか。
「祈りは崇敬の行為である。神に祈ることは神を思うこと、神に近付くこと、自己と神を一つに結び付けること。祈る者は三つの事をしている、神を褒め称えること、求めること、感謝」

○祈って人は良くなるものですか。
「左様。熱意と確信をもって祈る者は、悪の誘惑に耐える力を得、善霊の助力を受取る力を更に増す。真剣に求める者は例外なくこの助力を受ける」
-沢山のことを祈る者は、得てして嫌な奴で、僻みっぽく、嫉妬深くて、荒っぽく、愛も慎みもなく、酷く背徳的でさえある、これはどういう事でしょうか。
「大切なのは沢山の事を祈ることでなく、正しく祈ることである。そのような人物は、祈りの効き目はその長さにあると、自分の欠点に目をつぶることであると、かように思っている。彼等にとって、祈りは仕事であり、暇潰しであって、学ぶことにはなっていない。このような祈りは癒しとはならず、形だけのものである」

○神に自分の過ちの許しを請うことは有効ですか。
「神は善人も悪人もお見通しである。祈ったとて神の目から過ちが消えることはあり得ない。自己の過ちの許しを神に求める者は、その行いを変えることで、その許しを得る。善を行うこと、それは最高の祈りである。何となれば、行為は言葉に勝るからである」

○他者の為に祈ることは効果がございますか。
「祈る者の霊は、その善への願いによって、影響力を発揮している。その祈りが善霊達を引き寄せる。善霊達は本人の願う善行に参加協同する」
〔注解〕我々は、その思念や意志によって、地上を越えて働く行為の力を、内部に持っている。他者への祈りは我々の意志の行為である。もし我々の意志が熱烈で真剣なら、その祈りに応じて善霊達が集まり助けてくれる、良い想念を示唆したり、必要な体力精神力を与えたりしてくれる。ただこの場合も、心を込めた祈りが条件である、口先だけのものは何のしるしもない。

○自分の為に祈れば、試練を回避したり、試練の性格を変えたり出来ますか。
「人の試練は神の御手の内にある。その中には最後まで耐え忍ばねばならぬものもある。しかし、神は常にその忍従を心に止めておいて下さる。祈れば善霊が救いの手を差し伸べてくれて、勇気を与え力を与え、その苦しさを和らげてくれる。真摯な祈りに応えられぬものはない。何となれば、それに応える力は必ずや重要な結果をもたらしてくれるものだから。『天は自らを助ける者を助ける』これは真実である。神はその子供達の願いによって、自然の秩序を変更なさろうとすればお出来になる。何となれば、元々世の不幸といい、人間の狭い視点や有限の命からすれば大不幸に思えるのであって、宇宙的秩序に立てば大変幸福であるのだから。それに人間の悩みと申すのは、人間の近視眼と過ちのせいで、いかに多く人間が次々と創作していることか。人は己が犯した罪の中で罰せられるもの。それにも拘わらず、神は人の筋の通った願いなら聞き入れておいでになる。人は自分の祈りは重視されたと思い込んでいる。それは神が自分の為に奇跡を起されたことが、これまでになかったから。だが、人は意想外に多く神の助けを受けている。それが余りに自然な方法なので、人はこれを偶然だとか、自然の成り行きと思っているだけだ。いやそれ以上に、神は人の心に囁きかけておいでになる、その者を難儀から救い出す為に、かようにすればよいぞというその思念を」

○死者の為に祈ることは、苦しむ霊の為に祈ることは、効果がありますか。もしあるとすれば、どんな祈り方をすれば、その苦しみを和らげ小さくすることが出来ますか。祈りに、神の裁きを逸らす力があるのですか。
「祈りによって神の計画を動かすことは出来ない。しかし、祈る相手の霊は祈りによって慰められる。それは、この祈りによって、霊は自分へ向けられている関心を知るから。それに、苦しむ者は自分の苦しみに共感してくれる心遣いに、常に深く心が慰められるものだから。また一方では、この祈りがその霊に改悛の思いをそそり、潜在している幸福になりたい願いをかきたてるのである。もし霊の方でその気になって、その祈りに力を添えるなら、この時、霊の苦しみの期間は短縮される。祈りによって、苦しむ霊の心中に引き起こされた改善の意欲に、高級の諸霊をその霊の方に引き寄せる。諸霊は来て彼に光明を注ぐ、これに慰め希望の光を点ずる。イエスは迷った羊の為にも祈った。これをもってする時、諸君も諸君の祈りを必要とする者の為に祈らねば、咎あるものとなろう」

○死者の為の祈りは、聖書で指示されていないから認めない、こういう意見がありますが、どうお考えですか。
「キリストは人類に対しかように申された、[互いに愛せよ]と。この戒めは、全ての者が出来る限りの愛を、互いに分かち合うべきことを申されている。但し、何から何までべったりと世話を焼けとまでは申しておられぬが。もし、神の象徴である神の絶対の裁きが、霊の行った行為に必ず下ること、この神の手を止め得ないとすれば、次の事はまた真実であろう。即ち、人が愛と共感によって苦しむ霊の為に、神に捧げる祈りは、神によって必ずや受け入れられる、誤ることのない苦しむ者への救いと慰めの手が必ずある、この証拠として。霊がもし一粒の罪なりともその改悛の思いを示せば、たちどころに、救いの手が向けられる。この時この霊は気付く、自分の為に一つの愛の心が動いていたこと、その心に支えられ助けられ、今もそれは慰めの心として自分の中に在ることを。このような人が霊の為に行うとりなしは、助けてくれた者への感謝と愛の心を引き寄せる。キリストが万人に課した相互愛は、このようにして、その人とその霊との間に目覚め発展していく。双方は宇宙が全ての上に課している、愛と一体化の法に従う者となる、これぞ霊の進化の目的であり終点である一体化の時の到来、その神法に従った者となる」

○霊に向って祈ってもよろしいですか。
「善霊に向って、神の使途であり神の御意志の実行者として、これに祈ってもよい。しかし、その力は(進歩の程度に応じた程度のものだが)万物の長である神に依存している。神の許しなくして何事も起こらないのである。この故に、諸君が霊に祈った場合、神が受容なされるような祈りなら有効である」

↑このページのトップヘ