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カテゴリ:★『霊の書』 > 霊の書 三つの支配

霊の書 三つの支配 目次

鉱物と植物

動物と人間

輪廻

○自然界を動物・植物・鉱物の三つに分ける分け方を、どう思われますか。これにもう一つ、人間、を加えて四つとする自然学者もいます。また二つに分ける分け方があります、即ち有機質・無機質です。これらの中、どの分け方が好ましいでしょうか。
「これらは全てよろしい。どれが最善かは、諸君等の観点による。物質という観点からすれば無機質と有機質、精神的観点に立てば、結局のところ四等級に分けられる」

○植物に感覚がありますか。千切られたら苦しみますか。
「植物は身体に加えられる物理的印象を受ける。しかし知覚は持たないので、痛いと感じることはない」

○植物の意志ではなしに、植物同志を引き付けあう力が存在しますか。
「それはある。植物は考えることをしない。これは物体に働く物体の機械的な力である。植物はこれを拒み得ない」

○ある植物、例えばミモザや食虫植物は、秀れた感覚を持っているような動きを示します。場合によっては、一種の意志のようなもの、即ち葉に止まった蠅を葉でつかんで汗を搾り出したり、蛇を同じようにして殺すことさえあるようです。このような植物は思考能力を与えられているのですか。彼等は意志を持つのですか。これらは植物性と動物性の中間階層をなしているのですか。これらは過渡状態にあるのですか。
「あらゆるものは、本質において過渡状態である。それぞれが皆違っており、しかもまた、繋がっているのである。植物は考えることはしない、従って意志を持っていない。貝殻の口を開く牡蠣、また、食虫植物は全て考えることはしない。彼等はただ盲目の自然の本能を持つのである」

○植物には、自己に有用なものを求め、有害なものを避けようとする、自己保存の本能はないのでしょうか。
「それを一種の本能、そう呼びたければ、そう言ってもいいだろう。ただその言葉をどこまでの意味にとるかだが。しかし、それは純粋に機械的なものである。たとえば科学作用で、二つの物が一つに結合することがあるが、これは両者が互いに適合しており、つまり両者間に親和があるからである。しかし、これを本能とは呼ばぬであろう」

○もっと高級の世界に行くと、植物も他の種のように、一層完全な性質を示しますか。
「上級の世界にあっては、全てのものが一層完全である。但し、植物は植物、動物は動物、人間はあくまでも人間である」

○動物と人間を、知性の面で比較する時、この間に明確な境界線を引くことは難しいように思えます。動物の中には、一部の人間よりも優れた知性を持つものがあること、これは周知のことです。両者間の確然たる境界線は可能なのでしょうか。
「地上の哲学者達はこの問題については、色々と意見が分かれているようだ。ある者は人間は動物の一つだと言い、ある者は動物性が人間であると言う。これらは全て間違っている。人間とは別個の存在である。ある時は大地の底まで沈むかと思えば、ある時は天上高くも飛躍する。肉体について申せば、人間は動物のようなものだ、唯、多くの動物達のように上手くは作られていない。と言うのは、人間には知性があって、この知性で自己の必要と自己保存を案出していかねばならぬようになっている。この点、動物は初めからそれを補うだけのものが具えられている。人間の肉体も、動物と同じく滅びの法に従う。しかし、人間の霊には別の力が備わっている。人間のみが物事を理解できる、それは人間のみが完全な自由を持つからである。しかるに、けだもの以下に自らを落としている哀れな人間共。けものと人間との違いが、見分けがつかないのか。人間が万物の霊長たるゆえんを心得なさい。人間は神の存在を知ることが出来るでないか」

○本能だけで行動するものが動物ですか。
「これも単に理論にすぎない。確かに、大部分の動物の場合は、本能が優先している。しかし、動物のあるものには、一種の意志による行動が見られるのではないか。程度は低いが、それは知性である」

○動物に言葉がありますか。
「言葉を、単語と音節から成り立つとすれば、言葉はない。言葉を相互伝達の手段とみれば、言葉はある。動物達は諸君が想像する以上に、相互に通信し合っている。しかし、その言語には限界がある。その観念の点でもそうだが、その伝達は肉体的欲求の枠の中での通信なのである」
-声をもたない動物がいますが、それらには言語はないのですか。
「彼等は別の方法で通信し合っている。人間も話すこと以外でも、意志疎通が出来るのではないか。唖者これを何とお考えかな。動物体も相互依存の生命であるから、相互に伝達し合ったり、自分の気持を表現する手段をちゃんと与えられている。諸君等は、魚の間には何の相互理解もないと考えられるか。人間だけが言語という特権を持っているのではない。ただ動物達の言語は本能的であり、その欲求や観念の枠で縛られてはいるが。その点、人間の言語は完全であり、人間の知性の一切の概念を表現出来るものではあるが」

○動物の行動には自由意志が伴っているのですか。
「動物も、諸君等が考えるような、単なる機械ではない。但し、その行動と申しても、彼等の欲求に束縛されており、人間の場合の自由と比較するわけにはいかぬ。人間に比してはるかに程度が低いわけだから、人間と同様の義務を持つわけではない。動物の自由とは、その物質生活の行動に制約されたものである」

○ある種の動物に備わる、人間の会話に似たあの適性は、どこから来るのですか。また、鳥達にはこの適性がありますか。例えば猿類のように、人間にその構造が甚だ類似しているものよりも、なぜ鳥類の方に適性があるのですか。
「この適性とは。喉の器官の特殊な構造からくるものであり、また、模倣の本能ということでもある。猿は人間の行動を真似、鳥のあるものは人間の声を真似する」

○動物に、ある程度の行動の自由を与える知性があるということは、動物には、物の原理とは別個の原理があるということですか。
「その通り。その原理は肉体の死後も存続する」
-その原理とは魂ですか。人間の魂のような。
「魂、そう呼びたければ、魂である。ただ魂という言葉を、どんな意味で諸君が言っているのか問題だが。しかし、この魂は人間の魂より程度の低いものである。動物と人間の魂の間には多大の相違がある。それは人間と神との魂の相違のようなものである」

○動物の魂は、死後、その個性や自意識を残しているものですか。
「個性は残る。しかし、個としての自意識というものではない。知的な生命が続くということである」

○野獣の魂は自ら再生の選択をしますか。
「いや、自由意志がないので、そのようなことはない」

○動物の魂が生き残るとすれば、それは人間と同じように、あちこち動き回るのですか。
「そういう状態たとも言える。つまり肉体に結び付けられてはいないのだから。ただ徘徊する霊というわけてはない。徘徊霊というのは、自分の自由意志によって考え行動するものであるから。その点、動物の魂にはその同じ能力はない。と申すのは、霊の主要特性は自己意識であるから。動物の魂は、死後ほどなく、担当の霊の手によって組み分けされる。他のものとの結合に入るまでに、さほどの時間はかからない」

○動物も人間と同様に進歩の法に従うのですか。
「左様。その故に、高級の世界に行くと、人間も一層進歩しているが、動物も一層進歩している。その意思疎通の方法もずっと進んでいる。しかしながら、動物は常に人間よりは劣っており、人間に従っている。動物は人間にとって知的な従者なのである」

○動物も人間と同様、意志による行為を通じて進歩するのですか。
「物事の力、影響で進歩する。その理由は、動物には罪の償いということは存在しないからである」

○高級の世界では、動物は神についての知識を持ちますか。
「いや、もたない。人間が動物にとっての神である。霊達が以前は人間にとっての神々であったように」

○高級の世界の進歩した動物でも、動物は常に人間の劣位にあるということですが、これはいかにも神は永遠の劣等者に動物を初めからおとしめて創造しておられることで、神の御業にみられる計画と進歩の統一性とは一致していないように思われるのですが。
「あらゆるものはその本質において、諸君らの知性の及ばぬ鎖によって結ばれている。見た目には食い違って見える物も、人間の地上の理解では及ばぬところで理解の糸に繋がれている。人間も知的努力によって、ほのかにそれを窺うこともあるやもしれぬ。しかしながら、知性が全て開花した暁、高慢の鼻をへし折り、無知の偏見を洗いつくした後でなければ、到底神の御業の中に入ってこれを見ることは出来ない。それまでは、狭い視野をもって、低い卑小な見地から物を見ていかねばならない。神は自らを縮小するわけにもいかぬ。一切のものは本質において、創造主の至高の英知に外れぬ法の活動によって調和されていること、この事を心得られよ」
-では、動物の魂と人間との間の共通性、接点、それは知性ですか。
「そうである。しかし、動物の場合は、物質生活の知性のみを持つのに対し、人間は精神生活にも知性が及ぶ」

○動物と人間の間にある接点を考えてみる時、人間とは二つの魂を所有する者であると、こう考えられますか。つまり動物的魂と霊的魂です。従って、もし霊的魂をもたなくても、人間は生きておれましょう。それは野獣としてですが。換言すれば、動物とは人間から霊的魂を差し引いた人間に等しいもの、こうでしょうか。以上より、人間の善と悪の本能は、これら二つの魂のいずれが優秀かの結果によりましょう。
「そうではない。人間に魂は二つない。ただ肉体には、その肉体の感覚から来る本能がある。人間の中には唯二重の性質があるのである-つまり動物性と霊性、これである。肉体を通じて人は動物性、本能を帯び、その魂によって霊性を示す」
-それでは、人は自己の不完全性を除く仕事の外に、更に霊は肉体の影響に対しても闘わねばならないのですか。
「左様、霊の進化度が低ければ、物質と人との結び付きは一層密接である。この事はそう思われぬか。人間とは二つの魂を持つものではない。魂とは常に一つ、単一なものである。動物の魂と人間の魂とでは明らかに違っている。従って、動物の魂が人間の肉体に生命を与えることはあり得ない。しかしながら、人間を動物のレベルに引き下ろす、感情の母体である動物の魂を人間が持たないとしても、人間には肉体がある。この肉体が人間を動物にしばしば引き下ろすのである。この肉体こそは活力を与えており、本能を持ち、非知的で、自己保存の関心だけに縛られているものである」

○動物はどこから知性を引き出してくるのですか。知性は動物の魂の特性をなしているようですが。
「宇宙の知的要素から引き出してくる」
-それでは人間の知性も動物の知性も、一つの同じ本源から生まれて来るわけですか。
「そうである。ただ人間の場合は、獣性を超えた上方を指向するよう、知性が上等につくられている」

○既述の回答でこう言われました。人間の魂は初源において、赤ん坊のようなものだ、知性といってもやっと芽を吹き始めたばかり、生きることを試しつつあるところだと。では、この人生の最初の状態を、魂はどこで克服するのですか。
「人間と呼べる段階以前の時期に」
-それでは、魂は劣性の低い知性の状態にあったと考えてよろしいですか。
「以前にかように申した筈である、自然のことは万事繋がりがあって、統一に向かう傾向があると。諸君等にはここのところが何とも理解出来ないことと思うが、人間の知性は上等につくられており、次第に個性をもっていき、発芽ともいうべき準備段階を経過して、終局において、知性は変容して「霊」となる。かように前に申したが、<まさに生命に震えるもの>である。こうして、人間としての時代がそれぞれの霊の中に芽吹き、未来への感覚、善悪の弁別力、自己の行為への責任感が生じる。丁度幼児期の後に、少年期、青年期、青春期時代、大人の時代が来るのと同様である。最高の天才も母の胎内で、形も定まらぬ胎児の時期を経て、人間となったのである。一体何がこの天才を人間としたのかと申せば、その未熟さや低さ、神の計画の深遠な響きも聞こえぬ無力さ、宇宙の調和を整える神法の英知に耳ふさいだ非力さ、これである。自然のあらゆるものの間に、連関を生み出す驚くべき調和、この神の偉大さを心得られよ。神は何の目的もなしに物を創造したとか、神は先のことを何も考えずに知的生命を創ったとか考えることは、万物にくまなく及ぶ神の善意を罵ることになろう」
-この人間時代は、この地球上で始まったのですか。
「地球は、人間受肉の最初の段階のスタート地点ではない。一般にこの地球よりもっと低い世界で人間時代は開始されている。しかしながらこれが絶対的な方式ではない。場合によっては、霊が人間段階に入るに当たって、地球生活が適合している場合もある。しかしそのような場合はあり得るとしても、度々あるわけではない。一般方式の例外というところだろう」

○霊は死後に至って、自分の人間期以前の生活を思い出すことがありますか。
「ない。本人の生命が、霊となり人間の生活を開始するのは、人間期に入ってからであるから。
 人間としての最初の段階も殆ど思い出せない。それは丁度、人が幼児期の一番初期をもはや覚えていないのと同じように。まして母の胎内の時期は一層覚えていないように。この故に、霊達は告げる、自分達はどのようにして始まったのかを知らないと」

○霊が人間期に入った時、それ以前に存在した痕跡、即ち、いわゆる先人間期の状態の痕跡を何か残していますか。
「それは二つの時期を隔てる距離、及び達成された進歩の量、これら如何による。初めの数世代の間は、原初状態の反映が、多少ともはっきりあるかもしれぬ。と言うのは、実際問題として、何事も急に何もかも変わってしまうという事はあり得ないから。また常に、物事はその鎖の端を結び付ける輪が存在するのだから。しかし、その痕跡は自由意識の発展と共に消える。進歩は最初の段階では緩やかに行なわれる、まだ意志が働かない状況であるから、霊が自我意識をもつにつれ、進歩の歩みは早まる」

○では、人間は他の生物とは違った生き物だと、霊達は申しましたが、これは間違いですか。
「そんなことはない。しかし、この問題は十分に話が展開されていなかった。それに、ある点まで話が進まねば分からない事もある。事実、人間とは違った存在である。人間は他の生物とは違った能力をもっており、また別の運命を辿るものであるから。人間という種は、神が、神を知る者となるべき受肉者として、神が選び給うた生き物なのである」

○生物の知性が共通の起源をもつということは、輪廻の教義と繋がりがある、ということではありませんか。
「この両者は同一起源のものかもしれぬが、後世に至っては、似ても似つかぬものとなっている。発芽した種子の胚は形を失っているのに、誰がその葉や花や実を見て、その木を認め得ようか。知性が霊となるに必要な状況にまで発展し、人間の段階に入った時、その瞬間から、知性はもはや原初状態との接合点を失い、木が種子である以上に、動物の魂を越えたものとなったのである。人間はもはや、その肉体とその感情以外は(感情とは、肉体と、物質体に全て生得の自己保存の本能、この二つの合成物)いかなる点も動物ではないのである。それ故に、これこれの人間が、これこれの動物の生まれ変わりである、とは言えないのである。従って、俗説で行なわれている輪廻の教義は、真実ではない」

○人体に生命を与えている霊が、動物に宿ることが出来ますか。
「出来ない。そのような受肉は退化となろう。霊は決して退化しない。川は水源には逆流しない」

○輪廻思想にもっていくことは間違いだとしても、輪廻教義は、人間の前存在に関する、直観的な追懐の故ではないでしょうか。
「その直感的追懐が、この信仰の中にも、他の多くのものにもあるように認められはする。しかしながら、人間の直感的観念の大部分がそうあるように、これも人間がひねくれ捻じ曲げたものなのである」
〔注解〕輪廻思想は、この用語が、魂が低次から高次へと進歩し、その性質を変えていくという意味で解されるなら真理だが、ある動物が人間に直接輪廻したり、また人間が動物に輪廻するという、退化や混合の観念の意味でとらえるなら、それは誤りである。霊の教示によると、再生とは自然の上昇運動に立脚しており、また人間のその種としての進化である、ということである。従って、人間が退化することは、人間が神から与えられた進化の為の能力の誤用、ということになる。
 霊の出発点は、物の起源及び神の計画の神秘、これとかかわる問題である。人間は未だここのところを理解し得ていない。人間の知るところは未だ想像や理論の域を出ていない。霊自身達もなお万事を知るに至っていない。霊達もこの件については、事実と矛盾せぬ域で、大なり小なり個人的見解をとっているようである。
 結局は、どの霊も動物と人間との関係については、同じ見解をとっていないということ。ある霊によると、低級な生物の種々の段階を経て発展し、個性化して、霊は人間に達したと言う。また他の霊によると、人間の霊は初めから人間であって、動物から進化したものではないと言う。前者は動物の将来に希望を与えるものであり、後者の説は、人間の権威と一致するものである。これは下記のように、要点を概括できる。
 動物の種は、進化の過程で、他の種から発したのではない。牡蠣の霊は、魚の霊、鳥の霊、四足動物の霊にはならない。それぞれの種は初めから固定している、身体的にも精神的にも。・・・地球よりも進歩した世界が色々あり、そこには、その世界に相応しい別個の種がいる。しかし、それらは地球の種から、霊的にみて発したものではない。それは同じものではない。人間が肉体的に生物の鎖の中で一つの輪をつくっていることは明瞭である。しかし精神的な面で、動物と人間の間の継続を示す解答はどこにもない。何となれば、人間のみが魂ないし霊、即ち精神性と、動物に欠けている視野を与える神性の火花をもっているから。この魂、霊、火花こそ、人間において重要なるもの、肉体に先行する存在、身体の死後も生き残るもの、また個性を提供するもの。この霊の源とは何であるか、その出発点は何であるか。それは知性の個性化によって成立しているものか。それは見破ろうとしてもせんない、神秘なのか。もはやそれに理論を与えようとしても出来ないものか。確かなことは、理性と経験によって等しく言えることは、死後、霊魂は存在する、個性は生き永らえると言うこと。また、その永遠の進歩向上、つまりはその後の幸福も不幸も、浄化の道程での進歩か停滞かに応じて生じるということ。
 動物と人間の間にある神秘の類似については、言葉を重ねれば神の秘密、他の多くのことと同様、現時点にあっては我々の進歩には殆ど重要性をもたぬ知識、言い張っても益のない知識。

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