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カテゴリ:★『霊の書』 > 霊の書 地上への再生

○白痴の魂は普通人より劣っているという俗信には、何か根拠がありますか。
「根拠はない。白痴の魂が諸君等の想像以上に知的なことがしばしばある。彼等は魂との連絡がうまくつかないのである。丁度唖者が喋る上に障害があるのと同じである」

○生まれながらの白痴者を創り給う神の御心は一体何ですか。
「彼等は罰を受けている霊が宿ったものである。彼等は脳器官が未発達で正常でないから、経験を積むことが思うようにいかず、また自己を十分に表現することも出来なくさせられているのである」
-では、肉体器官には能力に及ばず何の力もないというのは、正しくないのですか。
「肉体器官に力がないなどと、我々は言った覚えはない。肉体は能力発現を左右する莫大な力をもっている。しかし能力源ではない。例えば、優れた音楽家でも楽器が悪ければ、良い音楽の演奏は出来ない。だからといって、彼が優れた音楽家でないということにはならない」

○白痴は善も悪も何も出来ないから進歩も出来ない、こういう人々の存在には何の価値があるのですか。
「それは、霊が何か能力を濫用した為の罪滅ぼしであって、これは彼の人生航路の一区切りである」
-では、前生で天才だった者の霊が、いま白痴の肉体に宿っていることもあるのですか。
「ある。天才はこれが濫用されれば災厄となる」
〔注解〕優秀な知性に必ずしも優秀な徳性が伴っているとは限らない。従って、大天才は罪滅ぼしせねばならぬものを多くもつかもしれない。この理由によって、彼等はしばしば以前よりも低い、苦しみのもとである人生を耐えねばならなくなる。自己の能力の発現が妨げられていることは、まさに強力な人間の稼動に手かせ足かせがはめられたようなものである。盲人は目の不具者、足のなえた人は足の不具者、白痴者は脳の不具者。

○白痴者の霊は、自分の精神的状況を意識していますか。
「殆ど意識している。彼等は自分を阻害している鎖が、試練であり罪滅ぼしであることを理解している」

○狂気の場合、その霊はどうなっていますか。
「霊というものは、本来、直に物事の印象を受取り、直接物事に働きかけるものである。しかし、ひとたび肉体に宿ってしまうと、事情は変わり、肉体の各々の器官を通じてのみ、初めて活動する状態となる。もしその器官に故障が起これば、その器官を通じる印象や活動は不都合なものとなる。目を失えば盲人、聴力を失えば耳の障碍者。今、知性や意志の表現器官が、一部か全部、その働きが弱ったり変わったりしたとしよう。されば諸君は次の事が容易にお判りになろう。即ち、不完全で調子の狂った器官しか使えない霊は、機能の混乱を経験せねばならぬ、霊の方ではその混乱に気付いているのだが、それをどうしようも出来ないのであると」
-では調子を狂わしているのは、常に肉体であって、霊ではないのですか。
「その通り、しかし次の事を忘れてはいけない。霊が物質に作用するのと同じく、物質も霊に作用するということ。それ故、霊は自分が狂った器官の為、狂った調子になっていることに気付くかもしれぬということ。従って、このような変調が長期にわたれば、その狂った行為の繰り返しで、霊の方に影響が及ぶことも起こり得る。その影響は、霊が肉体から解放されるまで続くのである」

○狂人が自殺するのはどうしてですか。
「この場合、霊の方は自分が束縛を受けている感じで、自由に表現できないことを苦にしている。そこで、この鎖を断ち切る方法として死を選ぶのである」

○狂人は死後も、生前と同じ精神混乱の状態が続きますか。
「死後暫くの間、物質のとらわれから完全に自由になるまで続くだろう。それは丁度、誰でも朝目が覚めた後、暫くは、眠りから現実への混乱を感じるようなものだ」

○脳の病気は、死後の霊にどんな作用を及ぼしますか。
「記憶の面で影響がある。何か頭の上に雲がかかっている感じだろう。とにかく狂気の間、何が起こっていたのか分からなかったのだから。その回復には相当の時間を要する。それがどれくらい続くかは、本人の狂気の期間の長さに応じて違ってくる。霊は肉体を離れても、なお多少の間は、肉体に繋がっている感じをもつものだ」

○子供に宿っている霊は、大人に宿っている霊と同じくらい、進歩するものですか。
「それ以上のものもあり、それは前生での進歩いかんによるわけだ。霊がその実力を子供に発揮出来ないのは、子供の身体器官が未だ出来上がっていないためである。この世では肉体が霊の自己表現器官であって、肉体の状況いかんに応じて霊は行為するのである」

○子供の身体が未発達の為、霊は完全発揮ができないということは別としまして、霊がものを考える場合、霊は子供なのですか大人なのですか。
「身体が未だ子供である限り、思考器官も未発達だから、大人のように物事が通じるわけではない、その知性の幅も狭く、従って年を重ねるにつれて、物の考え方も成熟していくのである。受肉に伴う混乱は、誕生とともに直ぐ終るわけではなく、肉体の成長に伴って、漸次消散していくのである」

○子供が死ぬと、その霊はすぐに本来の力量を取り戻しますか。
「そうあるべきだ、彼は肉の被いから解放されたのだから。しかし実際のところは、霊は霊肉の分離が済むと、サッパリした気分になるに過ぎない」

○子供の状態にある間は、霊は肉体未発達の為の不自由な苦しさを感じるものですか。
「そんなことはない。その状態は必然的なものであり、自然の理であり、神の定め給う摂理の一つであるから。それは霊にとって安息の時でもあるのだ」

○幼年期を通るということは、霊にとってどんな効用があるのですか。
「地上出生の目的は霊の進歩にある。さて幼年期は、自分のことに万事鋭敏な時である、このことが霊の進歩に役立つのである」

○何故、生まれた当座の子供は泣いてばかりいるのですか。
「これは母親の気を自分の方に引き付け、よく大切に面倒を見てもらう為である。もし話せるようになる前に、笑い声ばかり立てていたら、周りの者は、赤ん坊の欲しいものに殆ど気付かずに心を使わないだろう。神の英知の美事なるこの摂理」

○成人に近付くと、若者の性格が変わるのは何故ですか。霊に変化が起こるのですか。
「霊が、本来の自己を取り戻して、再生以前の自己を示すのである」
「諸君は、子供達の無邪気さの下に隠されている秘密を知らない、子供達が今何であるか、かつて何であったか、また将来何であるかを。それにも拘わらず、諸君は子供達を可愛がり慈しむ、あたかも自分の一部分のように、また、母性愛こそは愛の中の愛と言われる程にも。異邦人さえもその子に抱くこの愛、甘い優しい情、それはどこから来るのか。今この点について、お話しておこう」
「子供等は、神によって新しい人生へ送り出される者達である。だから、神は彼等が文句をつけようがない程に、顔形の隅々に至るまで無邪気さをもって包み給う。極悪の性の子供の場合でも、その悪行も、本人もそれと気付かぬ無邪気さによって包まれている。その無邪気さの故に、子供等が過去の実際の自分以上に、優れているとは言えぬ。それは彼等がかくあるべき理想の姿である。そしてもし彼等がそうならなければ、罪は自らの上に下ることになるのみである」
「神が無邪気さを子供等に与え給うたのは、子供等の為ばかりではない。それは又、両親の為に・・・・その愛こそ、独り立ち出来ぬ子供等に必要である・・・・その両親を引き寄せる為にでもある。何となれば、もし荒々しくねじけた性質が丸見えになれば、親の愛も大いに減じてしまうから。これに反して、親が子供等を善良で優しいものと信じれば、子供に愛情を注ぎ深甚の注意をもってこれを守るのである。しかし、もはや保護や助力を必要でなくなる十五歳から二十歳くらいの間になると、本人の真の性質や個性がはっきりと現れてくる。真に善良なる者は善良のままに留まる。しかしこの場合でも、幼時には隠れていた特質や陰影が沢山現れてくる」
「神の道は、常に至善なるものを目指してい給う。本性において至純なるもの、そのことは明らかなこと、諸君もお判りのところと思う」
「次のことを心にとめておかれたい。諸君のもとに生まれる子供の霊は、あるいは諸君とは全然違った習慣の世界からやって来たかもしれない。されば、この新人は情も傾向も嗜好も全く諸君と違ったものをもっている。それがもし神の定められた道である-幼年期のふるいの過程を通らなければ、どうして諸君等の世界に調和があり得よう。この幼年期があればこそ、初めて、多種多様の世界から来た思想や特性や生命が、一つに融け合えるのである。諸君もまた、死ねば一種の幼年の状態となる。兄弟知友に囲まれて、その新世界では何もかも不案内である、慣習も、礼儀作法も、事物関係も。言葉だって不馴れで、この世とは比較にならぬ生きた言葉で、一向に自己表現など出来ぬ。
幼年期にはもう一つの効用がある。霊が地上生活をするのは、ただ進歩と自己改善の為である。若さ故の頼りなさは、地上経験を積んだ人達の助言に耳を傾けさせる。この素直さである、これによって悪い傾向は抑えられ、性格も漸次改善されていく。そうして、この改善と制御こそ、神から親たる者に委託された義務であり、聖なる使命である」
「それ故に、既にお判りであろうが、子供であることは、有用であり必要であり、欠くことの出来ぬものである。それだけでなく、これこそ神の定め給うた法の当然の成り行きであり、またこの法が宇宙を支配しているのである」

○かつて互いに愛し合った二人が、地上に再生し、めぐり逢って互いを認め合うということが出来ましょうか。
「昔のお互いだということには気付かぬだろうが、互いに引き付けられることになるだろう。前生に結んだ縁というものは、次の再生にあたっては、更に更に強い愛の原因となることが多い。地上の世界では、二人の者がほんのちょっとした偶然によって引き付けられるということがしばしばある。しかしながらこれは、千里の靄の中、求め合う二つの魂の相寄る力によってそうなるのである」
-二人が前生でのお互いを認め合うということは、もっと具合のよいことではないでしょうか。
「必ずしもそうとは言えぬ。それは諸君の想像以上に具合の悪い点が多々ある。死後に至り二人はめぐり逢い、その時になって、初めて前生での二人の事を思い出す」

○愛は常に前生でお互いが知り合っていたことから生まれるのですか。
「いや、知り合っていなくても、互いに共鳴を感じる二つの霊は、自然に互いに求め合うのである」

○二人の者がゆくりなくもめぐり逢う、これを偶然と人は呼びますが、本当は何か共感的関係というものがあって、その作用によって引き付けられると、こう考えてはいけませんか。
「人間の間には、まだ諸君等には分かっていない、幾段階かの関係というものがある。将来、磁気学はこういう関係を諸君に示してくれる、科学の水先案内となる」

○初対面の人に対し、本能的に反発を感じることがありますが、どうしてですか。
「両者の霊に潜在的な反感があり、これが言葉を交わさなくても、相手の気持を知り気持ちを見抜くからだ」

○本能的に反感を覚えるというのは、片方または双方に悪い性質があるということなのでしょうか。
「親しみをもてないからといって、必ずしも両者が悪というわけではない。反感とは、同じ考え方が持てない同士の間に起こるものだから。しかし、両者が進歩向上していくと、こんな相違はなくなり反感も消滅する」

○両者の反感は、先ず善良な側に起こるのですか。それとも性悪の方から起こるのですか。
「それは両方一緒に起こる。だがこの場合、両者の原因と結果は違っている。性悪の霊の場合は、自分を見抜いて批判できる者にはすべて反発を感じる。初めてそういう人に会うと、自分が余りよく見られそうにないことを知り、反感が憎悪や嫉妬に変わり、何か相手を傷つけたい衝動に変わってしまう。善良な霊の場合は、性悪な者に会うとやはり反感を覚えるが、それは、自分は相手に理解されないだろう、二人の気持はとても同調できないと悟るからである。しかし、彼はその善良さの故に、相手に憎しみや嫉妬をもたず、ただ相手を避け、これを哀れんで満足する」

○地上に生まれてくると、なぜ過去を忘れるのですか。
「人は何事も知ることは出来ず、また知ることもないであろう。神は英知をもってこのように定め給うた。もし目を遮ってくれる幕がなければ、急に闇から光へ出てくる人のように、目が眩んでしまうだろう。過去を忘れ去ることによって、人はいっそう自己自身であり得るのだ」

○生前の記憶がないのに、どうやって生前の行為の責任をもったり、過去を償ったりすることが出来ましょうか。また前生の経験をどうやって生かすことが出来ますか。人生の苦難も、それが前生の悪行の報いであることが分かってこそ、初めて効果があるものでしょう。しかし前世を忘れてしまえば、人生はこれが初めてだと自分に思われ、同じ行為を何度も繰り返すことになるでしょう。これをもって、一体なお、神の正義と言うことが出来ますか。
「再生毎に、霊はその知性も、善悪判断の能力も進歩していく。もし霊が前生を何もかも記憶していたら、どこに彼の自由があろうか。魂が死後霊界に帰って来ると、その眼前に、過去の一切がパノラマのように見えてくる。彼はそこに自分の犯した過失を、苦しみの原因を見る。また、こうすれば過ちを犯さずに済んだであろう事情も分かってくる。こうして彼は自分が今置かれている境涯の正当さを噛み締める。すると、もう一度人生をやり直したい、今度こそ過去の失敗を償いたいと思う。過去には失敗したが、それと同じ試練をもう一度試みたい、あるいは又、進歩に役立つような試練を受けてみたいと希望する。そこで先輩の霊達に、来るべき自分の事業に援助してくれるよう頼む。彼は知っている。次の人生で自分の指導役に任命される霊は、彼が前生で犯した失敗について、何らかの直感を与えてくれることによって、失敗を償うように一生懸命努力してくれるということを。この直感とは、悪い考え罪ある欲求として、しばしば本人の心に起こるが、本人は本能的にこれを拒絶する、本人はこの拒絶を両親から受けた本性によるものとするが、本当は本人の良心の囁きによるのである。この囁きこそ、過去の追憶の囁き、過去の失敗をもう一度繰り返さないようにとの警告である。新しい人生で、不屈の意志でこの試練に耐え、誘惑に抗して失敗を犯さない者は、霊性進化を遂げ、再び霊界に戻って来た時、一段と高い境涯に入るのである」
〔注解〕もし我々が地上生活中に、前生について、自分が行った善悪いずれの行為についても、正確な記憶をもたなくても、我々は過去についての直感をもつ。それは本能的な囁きで、過去の過ちを再び繰り返すまいとする心の欲求とも言うべき意識であって、それが我々にそれを避けるようにと警告してくれるのである。

○貧乏とか病気とかのない、私共よりもっと進歩した世界の人達は、私共が感じる以上に幸福を感じていますか。幸福とは一般に相対的なもので、不幸な状態と比較して幸福だと思うものです。私共よりましだとはいっても、完全というわけではありません。従って、そういう世界の住民達にも悩みや心配事がある筈だと思います。地上でも金持達は、貧乏人のような苦しみはないとしても、それ相応の悩みがないとは申せません。つまりですね、我々には我々の幸福度の基準というものがあるように、そういう進歩した世界の住民達にも、独自の幸福度の基準があって、その尺度によって自分達を不幸と考えないのかと、こういうことです。また彼等も私共のように、自分の運命に不足を言うことはないのかと、幸福度の尺度になるような過去の悪い状況の記憶はないのかと、こういう質問です。
「この問いには二種の回答がある。先ず、お尋ねのような住民達の中、過去生の記憶が明晰正確にあって、それ故に神から授かったままの幸福が享受できる、また享受している、そういう人々の世界が存在するということ。またこれとは違って、質問のような地上より進歩した状況にありながら、多大の苦悩や不幸さえも背負っている、そういう世界もある。彼等は過去の不幸な状況の記憶がない為に、現在のより進んだ状況を、そのように感じとれないのである。しかしながら、彼等には正しくその状況が感じとれないとしても、霊界に戻った時には、正しい評価が分かるのである」

○私共は前生について、何らかの啓示を受けることが出来ますか。
「それは全く不可能である。しかし、前生で自分が何であったか、何をしたか、この事を知っている者は多い。もしあからさまに彼等にそれを話させたら、その過去生とは、奇妙な話になってしまうだろう」

○人々の中には、おぼろげな前生の記憶をもっていると、信じている人達がいます。それは思い出そうとしても、思い出せない夢幻のようなものだと、こう思っています。これはやはり幻影なのですか。
「時には本物もあるが、多くは無理につくられた幻影である。一心に想像をめぐらすと、そういう結果になることがある」

○私共の地上よりも更に進歩した物質世界では、前生の記憶は、もっとはっきりしているものですか。
「肉体の物質性が少ないから、その肉体に宿った霊には、前生の記憶はもっとはっきりしている。その世界の程度が高ければ高いほどそういうことになる」

○人の性向は過去生の反映だとする時、この性向をよく検討すれば、過去に犯した過ちが何であるかを自ら発見できる、こう考えてよろしいですか。
「ある程度までそれは可能である。だが、その霊性に及んでいる進歩とか変化を考慮に入れなければならない。本人の現在は、前生より大いに改善されたものと言えよう」
-悪化するということはありませんか?例えば、前生で犯さなかった失敗を、今生で犯すような場合に。
「これは本人の進歩いかんにかかっている。もし誘惑に勝てなければ、その結果として、新しい失敗を犯すことになろう。しかしその失敗も、退歩よりむしろ停滞とみるべきだろう。何となれば、霊には進歩や停滞はあっても、退歩ということは決してないのだから」

○現世での栄枯盛衰は、過去生の失敗の償い、また未来の為の教訓となるなら、その事から、過去生でのありようを推測することが出来るのではありませんか。
「大いにそれはあり得ることだ。過去生での失敗が、この世での罰となって現れるものであるから。しかしながら、それは絶対的というわけではない。本能はその性向として、一定の方向をとろうとする。つまり、霊が身に受ける試練とは、過去生の結果のものでもあり、また未来の為のものでもあるからである」

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