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カテゴリ:★『シルバーバーチの霊訓』 > シルバーバーチ 総集編

○祈りとは魂の表現です。具体的に言えば、祈りとは光明或いは導きを叫び求める魂の止むに止まれぬ切望です。その切望そのものが自動的に扶助を呼び寄せます。なぜならその思念の威力が稼動し始めるからです。それが回答を呼び寄せる原因であり、回答が結果です。

○霊の側では人間側がどういう祈りをするかを待つ必要はありません。なぜならば祈りの本質そのものが、その波長の感応する界層の単数又は複数の霊を即座に呼び寄せるからです。それも魂の進化の程度によって自然に決まることです。

○祈りの念に感応して呼び寄せられた霊は、地上界への奉仕の願望から、その人間が稼動させた威力を増幅させることになります。霊力の一部である思念の波動がいよいよ大きく活動を開始したわけです。それによって宇宙の霊的エネルギーがその人の進化の程度に応じた範囲での活動を許されることになります。ということは、その人間の手の届く範囲のエネルギーを自由に駆使できるということです。

○その人間の進化の程度次第では、求めている特定の目標に思念を集中する必要がある場合もあります。その方がその人にとって有効であるというのであれば、私はそれはそれで結構であると申し上げます。しかし、祈りに関して大切なのは、大霊・生命の原理・宇宙の摂理、こうしたものです。

○時折皆さんは自分の魂にとって為にならないもの、進化を遅らせることになるものを要求されます。それは叶えてあげるわけにはいきません。また時折それを手にするだけの十分な努力をしていないものを要求されます。それも与えれません。そして時にはそれを手にする用意の出来たものを要求されます。それは、ここという好機をみて与えられます。このように皆さんが心に抱く祈りは、口に出さずとも神は先刻御承知なのです。

○赦免を求めて祈っても法則が手直しされることはありません。支払うべき代償は必ず支払わねばなりません。しかし、赦免を求めて祈るということは、自分の間違いに気付いて神の摂理との調和を求め始めたことを意味します。すなわち魂への内省を始めたことになり、それは本当の進化の始まりであると言えます。

○祈りの言葉を何の目的もなしに繰り返すだけでは、ただ大気中に一定の波動を起こすだけです。が、誠心誠意、魂の底からの祈り、神の御心と一体となり、神の道具として有意義な存在でありたいと願う心は、その波動そのものがその人を神の僕としてより相応しく、そしてより逞(たくま)しくします。祈るということ、真実の自分を顕現すること、心を開くこと、これが背後霊との一体化を促進するのです。

○真実の祈りは人の為に役立つ行為への心の準備であらねばなりません。より高い波長に適合させる為の手段です。と言っても私の言う祈りは、どこの誰が書いたのかも分からない、しかも何の意味かも分からない文句を繰り返すことではありません。誠心誠意の祈り、魂の波長を最高度に高めんとする真摯な願いです。その結果として感応するインスピレーションに満たされて、あなたは一段と逞しい存在となります。

○誠心誠意の祈りは、その行為そのものがより高い波長と感応させます。祈るということ自体が心を開かせるのです。但し、その祈りは心と魂と精神を込めたものであらねばなりません。こうして欲しい、ああして欲しいといった、ただの要求は祈りではありません。真実の意味での祈りは大変な霊的活動です。それは何かの目的への手段であって、目的そのものであってはならないというのが一番的確な表現かと思います。

○私は無理にも祈れとは誰にも申しておりません。祈る気になれないのを無理して祈っても、それは意味のない言葉の羅列にすぎないものを機械的に反復するだけですから、むしろ祈らない方がいいのです。祈りには目的があります。魂の開発を促進するという霊的な目的です。但し、だからといって祈りが人間的努力の代用、もしくは俗世からの逃避の手段となるかに解釈してもらっては困ります。

○祈りは魂の憧憬を高め、決意をより強固にする為の刺激-これから訪れる様々な闘いに打ち克つ為に守りを固める手段です。何に向かって祈るか、いかに祈るかは、本人の魂の成長度と全生命の背後の力についての理解の仕方にかかわってくる問題です。

○祈りとは神性の一欠片である自分がその始原との一層緊密な繋がりを求める為の手段です。その全生命の背後の力との関係に目覚めた時、その時こそ真の自我を見出したことになります。

○地上では[宗教に帰れ]という呼びかけがあるそうですが、真の宗教とは同胞に奉仕することによって大霊すなわち神に奉仕することです。その為には殿堂も牧師も僧侶も聖典もいりません。そうしたものは奉仕の精神を植え付け同胞への愛の心を強めることにならない限り何の意味もありません。いつどこにいても人の為に役立つことをしなさい。同胞の重荷を軽くしてあげることをなさい。それが宗教です。

○人の為になることであれば、どんなことでもよろしい。転んだ人の手を取ってあげることでも、勇気付けの言葉を掛けてあげることでもよろしい。霊的なものに係わることでなくてもよいのです。物的なことであっても、それが相手の人にとって意義のあることであり、あなたもそれを嫌々ながらでなく気持よくしてあげるのであれば、それは立派に神の道具としての役目を果たしたことになります。

○所詮人間は同胞に奉仕することによって大霊に奉仕する以外に、大霊への協力の道はないのです。地上には政治学、経済学、社会学といった立派そうな名称やラベルをつけた分野があり、それが勿体つけて説かれておりますが、どれもこれも、所詮は言葉の遊戯にすぎません。私に言わせればservice(サービス)の一語で全てが片付くのです。人の為に役立つことをする-それが宗教です。

○サービスの真意を理解した人こそ私は偉大な人物と見なします。霊的自我の発見を目的とする人達だけの話ではありません。極貧の人達を救うこと、病の苦しみを取り除いてあげること、不正や横暴と闘うこと、憎悪と闘うこと、自由を守ること、害悪を取り除き、人間の霊性が神の意図された通りに発揮できるチャンスを用意してあげること-こうしたこともみなサービスです。

○相手が立派な地位にある人であろうと、平々凡々な庶民であろうと、そんなことはどうでもよろしい。とにかく一個の魂を立ち上らせ、暗闇にいる人に光をもたらし、無知の牢獄にいる人を解放してあげ、お腹を空かしている人を満たしてあげ、渇いた喉を潤してあげ、争い事を止めさせてあげることが出来れば、あなたは立派に大霊に協力していることになるのです。

○あなた方一人ひとりが大霊の一部であることを忘れてはなりません。一人ひとりが大霊の仕事に貢献し、大霊の力と愛と知識を地上へもたらすことが出来るのです。自分より恵まれない人の為に力を貸そうと努力する時、大霊の力が皆さんを通して顕現するのです。どの分野でもよろしい。どこの誰でもよろしい。意気消沈している人を元気付け、弱った人に手を貸し、暗闇の中に明かりをもたらし、空腹の人に食べるものを与え、身を横たえる所さえない人に安らかな眠りの場を提供してあげれば、それが大霊に協力するゆえんとなります。

○神の働きに何か特別な枠があって、特殊な経路でしかその恩恵がもたらされないかに考える傾向がありますが、神の力はそれを受け取る波長をもつ人なら誰にでも与えられるものです。要するに神の御心に適った心掛けがカギです。地上的名声も社会的地位も、肌の色も人種も、国家も階級も関係ありません。どこであろうと、誰であろうと、神の御心に適った人は真の大源から力を授かり、心が啓発され、魂が鼓舞され、造化の仕事に参加させてもらえるのです。

○聖書もなかなか立派な本です。が、もっと立派な本があります。森羅万象がそれです。大霊の摂理によって維持されている大自然の営みです。地上のいかなる書物、それがいかに分厚いものであっても、いかに敬われているものであっても、いかに神聖視されているものであっても、その大自然が教えてくれるものに較べれば、物の数ではありません。

○そこで私達は大自然の摂理、それだけを説くのです。それをスピリチュアリズムと呼ぼうと何と呼ぼうと、要するにそれが大霊の法則であり、目に見える見えないに関わりなく、生命活動が営まれているあらゆる階層を通じて働いていることを理解していらっしゃれば、それでいいのです。

○宗教界の学者は宗教というものを不可解きわまる一大神秘-難解な用語と教義による上部構造を築き上げ、それが難問と困惑と混乱を生んでおります。しかし宗教の本質、生命の本能的欲求はサービスの一言に尽きます。

○サービス、すなわち自分を忘れて人の為に役立つことをしようとする心は、大霊の心にほかなりません。今こそ地上世界にはこのサービスの精神が必要です。私達がこうして説き、そして自ら実行しているのはその為です。地上界のモヤも暗黒、疑念と不安、悲しみと闘争、苦難と苦痛の背後には永遠の目的があります。それを一つでも多く理解するように努力してください。

○神の存在を信じ、神を賛美する教説を朗読し讃美歌を歌い、日曜日にはきちんと礼拝に出席しているからといって、それだけで霊性が一ミリたりとも伸びるわけではありません。それは他人への思いやりの心を鼓舞して、暗闇の生活から光明の生活へと導いてあげる行為を実践させる、その手段と考えるべきです。

○大切なのはあなたの[行い]です。そして他のことは信じなくてもこれだけは是非信じてください-たった一つの魂を光明へ導いてあげたら、或いは飢えに苦しむ人に食を与え、喉の渇きに苦しむ人に飲み水を与えたら、或いは又、肩の重荷を軽くしてあげ、足元の石ころを取り除いてあげたら、それだけで地上の全財産にも勝る大切なことをしたことになるのです。

○いかなる教義も魂を束縛します。教義を守るから立派になるのではありません。教義を守らなくても立派になれるのです。人間は教義の名のもとに戦争をしかけ、教義の名のもとに異教徒を焼き殺してきました。魂を束縛するもの、精神の手かせ足かせとなるもの、霊性の自由な発現を妨げるものは、いかなるものであっても取り除かねばなりません。

○私がキリスト教に我慢ならないのは、自ら用意した真理普及の場(教会・礼拝堂等)において、既に地上に啓示されている肝心の霊的真理を説こうとしないからです。言いかえればキリスト教と銘打ちながら肝心のキリストを裏切るようなことばかりしているからです。神の座に祭り上げてしまって、人類が模範としようにも、もはや手の届かない、はるかに彼方の天国に連れ行ってしまっております。それが我慢ならないのです。

○私は牧師になって神に奉仕しようと心掛ける多くの殊勝な人達を非難しているのではありません。その中には偉大な魂の持ち主が大勢います。私が非難するのは真理にとって為にならない組織、使い古された意味のない教義を相変わらず後生大事にして、生き生きとした霊力の発揮される場を無くしている、その体制です。

○教義・ドグマ・教条・儀式・ステンドグラス・祭壇・法冠・コープ(儀式用マント)-こうしたものが宗教とどういう関係があるというのでしょうか。宗教とは霊性に係わることです。全存在に内在する霊性です。それが千変万化の律動と形態の中で顕現しています。大自然の営みにも、理想に燃えた指導者や社会革命家の努力にも、それが顕現しているのです。それが教条とどういう関係があるというのでしょう。

○私は時折[霊界からの高等な教え]とやらばかりを欲しがって自分は隣人・同胞の為に何一つ役に立つことをしない人達に嫌気がさすことがあります。教えに[高等]も[低級]もありません。成長するにつれて神の摂理の働きをより深く理解していくのです。難解な教えを騒ぎ求めている人達が、そんなことをやめて地上を少しでも住み良い場所、明るい場所-空腹を抱えた人が飢えを満たし、喉を渇かした人が飲み水にありつき、貧しい人達がその疲れた身体を横たえる家を得て神の恩恵に浴せるようにしてあげれば、それこそ[最高の教え]を実践していることになるのです。

○教義による束縛は地上世界の病苦の一つです。疾病よりも大きな害悪をもたらします。身体上の病気による苦痛など物の数ではありません。なぜなら、それは魂の病気だからです。霊に[目隠し]をしてしまうのです。

○人間はなぜか、神の叡智を見えなくする教義に好んでしがみつきます。不思議なことに、牢の中に閉じ込められている方が幸せと思う人がいます。自由とは、自由の有難さが分かった者だけが手に出来るものです。

○私は教義も儀式も作法も説きません。神の愛が子等を通じて顕現しようとしている事実だけを説きます。いかなる書物や巻物、ドグマ、特定の指導者や権威、或いは学識さえも絶対と思ってはなりません。聖遺物を信仰の対象としてはなりません。神の摂理に従うことだけを心掛ければよいのです。それが宇宙で最も大切なものだからです。それが唯一絶対の権威なのです。

○宗教的建造物には過去の無知な時代の産物に過ぎないものが沢山あります。神はいかなる建造物の中にも閉じ込められません。神はどこにでもあまねく存在しているのです。石を重ね、高い尖塔を建て、ステンドグラスの窓を取り付ければ神が喜ばれると思っているようですが、そんなものよりも、太陽の恵みが子等の心を明るく照らし、雨が作物を実らせることの方が、神はよほど喜ばれます。ところが、そうした恵みと子等の間にとかく宗教家と政治家と商売人が介在します。こうしたものこそ取り除かねばなりません。今それが次々と取り除かれつつあります。

○霊力の地上への働きかけを過去の話と考えてはいけません。過去の霊覚者を通して働いた霊力が今まさにこうした形で働きかけていることを理解しないといけません。当時の宗教家がその霊力を目の敵にして悪魔の仕業であると決め付けたのと同じように、今日の宗教家はそれと全く同じ霊力が今まさに働いている事実を認めようとしません。しかし、地上世界もその後進歩したようです。もはや磔刑の手段には出ないからです。

○私達のことを悪魔の福音を説く者と非難する人達は、二千年前にイエスに対して同じ非難を浴びせた者達と同列です。私達はイエスを通して働きかけた大霊の霊力と同じものを携え、同じ霊現象を演出し、そして同じメッセージを説く者です。すなわち喪の悲しみにある人を慰め、病の人を癒し、暗闇の中にいる人に光明をもたらし、人生に疲れた人には生きる意欲をもたせ、無知の中で模索している人に知識を授けてあげましょう、ということです。

○物質の世界に存在するもの-それが物であろうと人間であろうと、又その人がいかに高い地位にあろうと、それを信仰の対象としてはなりません。物質の世界の彼方にあるものへ目を向けなさい。

○私という一個の霊、ただのメッセンジャーにすぎない者にあまり関心を寄せてくださるのは困ります。私の用事はただメッセージをお届けすることでしかないのです。地上の人間はこれまであまりにも永いこと教えそのものよりも教えを説く人物に関心を向けすぎております。そしてその人物を誇大な評価をし、祭るべきでない地位に祭り上げ、肝心の教えそのものを忘れております。

○私の使命は一個の男女を権威ある地位に祭り上げることではありません。真理と知識と叡智を啓示することです。私の申し上げることに真理の刻印が押してありさえすれば、私という人物が地上で大変高い地位にあった者か卑しい身の上の者であったかはどうでもよいことではないでしょうか。名前・権威・書物、そんなものはもうどうでもよろしい。私が訴えるのは理性のみです。

○私達はもはや書物や人物や権威を拠り所とはいたしません。神から授かっている理性、これを拠り所とし、これに訴えかけます。真理というものは[神聖]のスタンプを押されている書物から文句を引用することで広まるものではありません。理性が納得しないといけません。もしも私の述べることがあなたの理性にそぐわない時は、あっさりと拒絶なさってください。しかし同時に、私の申し上げていることが人間の最高にして最上の本能に訴えていること、古い時代からの誤った知識を取り除いて、人間にとって大切な霊的真理をお届けしようとしていることも分かって頂けるでしょう。地上で宗教と呼ばれているものは真理を基盤としなければなりません。そして理性の攻撃に耐え切れないものは棄て去らないといけません。

○明日のことを思い煩ってはいけません。大切なのは今日です。あなたのなすべきことに能力の限りを尽くしなさい。最善を尽くすー私達はこれ以上のことは要求しません。

○あなたは人間です。か弱い存在です。しかし、弱いからこそ強いということはどういうことかが分かるのです。

○真理というのは至って単純なのですが、一見すると矛盾しているかに思えることがあります。闇があるから光の存在が分かり、悲しみがあるから喜びが味わえるのです。危機にさらされるから平穏無事の有り難さが分かるのです。

○誰の人生にも道しるべが用意されております。もしも霧(心の迷い)によってそれがぼやけて、よく見えなくなった時は、いったん足を止めることです。ただの霧ですから、そのうち晴れてまた辿るべき道が見えてきます。雲に遮られている時でも太陽は照り輝いているのです。

○こうした教えを私が説くのは、その真実性をこの目で確かめているからです。その結果として私は、宇宙の大霊すなわち神とその無限の力に全幅の信頼を置いています。その力は誤るということがありません。人間は欠点のゆえに、汚れゆえにしくじるということがあります。しかし、失敗は成功する方法を学ぶ手段でもあるのです。

○生命は一本調子のものではありません。不活性のものでもありません。自然は真空を嫌います。生命とは活動であり、発散であり、振動です。常に動きがなくてはなりません。大抵は前向きのもので、時として後退することもありますが、一番いけないのは動きを止めてしまうことです。

○後退のやむなきに至ることはあります。が、後退するということは、その後の一段と大きい前進の喜びを教えてくれることでもあります。時には俗世の喧騒から身を引くことも大切です。そして内的自我に静寂をもたらすことが出来るようでないといけません。

○魂は平穏・静寂・平静・受容性・調和の中で最も活発になります。皆さんは目覚めている時よりむしろ睡眠中に霊的活動を活発に行なっていることがよくあります。その時、力と導きを得ておられるのです。

○困難な仕事は頑健(タフ)な人間に当てがわれます。タフな人間に易しい仕事を与えるのは無駄というものです。厳しい使命が与えられるということは、その人が霊的に有能であることの指標です。無知と迷信との闘いに臨む将軍は厳しい教練によって鍛えられていなければなりません。さもないとその任に耐えられません。ですから、矛盾しているように思えるかも知れませんが、仕事が困難であればあるほど、それだけ成就されるものも大きいということになります。

○霊的知識を手にした者にとって大切なことは、二度とこの世的な悩み事の為に塞ぎ込むようなことがあってはならないことです。悩み事は影にすぎません。実在ではないのです。実在は霊です。霊とは内部の神性です。それがあなたに生命を与えているのです。内にも外にも霊に勝る潜在力は存在しません。

○あなたが人間であり、それゆえに転ぶこともあることは私も知っております。ですが、悩みごとが次第に大きく感じられてきた時、そこでしっかりと踏みとどまり、いかなる悩み事も、実在である霊の光を曇らせることは出来ないのだという認識を新たにすることが出来れば、心晴れやかとなり絶対に克服してみせるとの信念が湧いてまいります。これは実に厳しい教訓ではあります。が、もし楽に達成できるものであれば、求める価値はないことになります。両手に花とはまいりません。何かを成就せんとすればまず自我を鍛えないといけません。鍛錬の必要のないほどのものであれば、自我の開発には繋がりません。

○地上での生活は一日一日が挑戦課題であり、いかなる次元の問題であれ、自ら克服すべきものとして受け入れるべきです。内部の霊性さえ発揮させれば、前進を阻むものは何一つありません。

○私が摂理をこしらえているのではありません。私に託されているのは摂理がこうなっていますと申し上げることだけです。毎朝の到来はより高い霊性の開発の可能性を秘めた一日の到来を意味します。その一日が終わった時に少しでも霊性が高まり、人間的に大きくなり、明日がもたらすものを受け入れるのにより相応しくなっている-そういう一日とする気迫で毎朝を迎えましょう。

○日々の生活でいかなる問題が生じようと、それによって気が滅入ることがあってはなりません。私はバラ色の人生、何の苦労もない楽な人生をお約束することは出来ません。お約束が出来るのは、霊的存在としての本来の生き方に徹していれば、必ずや霊的向上が得られるということです。そうなって初めて物質の世界へ誕生してきた甲斐があったことになるのです。

○真理というものは童子のごとき素直な心になり、無知が生んだ過去の誤った概念から解放された時には、いとも簡単に理解できるものです。

○物質は一種の障害物であるという見方もできます。鈍重で、もどかしくて、活気がありません。それにひきかえ霊は軽快で、繊細で、鋭敏です。が、その霊も地上で自我を表現するのは五つの物的感覚を使用しなければならないのです。例えてみれば巨匠が粗末なバイオリンを使って演奏するようなものです。巨匠の魂には音楽的インスピレーションが湧き出ていても、バイオリンが粗末である為に、その繊細な響きが出せません。人体はまさに土の塊です。しかし、地上で生活するにはそうした器官に宿るしかないのです。

○いつも明るく楽天的で愉快な気分を忘れないようにしてください。うなだれてはいけません。背後霊にとって最も働きかけ易い雰囲気は、陰鬱さや落胆や絶望感の無い状態です。そうした陰湿な感情はあなたのオーラを包み込み、背後霊によって厄介な障害となります。

○賞も罰も自分でこしらえているのです。自分で自分を罰し、自分で自分に褒美を与えているのです。それがいわゆる因果律、種まきと刈り取りの原理です。その働きは絶対です。

○人の為に役立つことをする者に呑気なバラ色の人生は望めません。美しいバラにもトゲがあります。霊的な精進の道は厳しい試練の連続です。進むにつれて見慣れた標識が遠のいていきます。

○種子が暗い土中に植え込まれるのは、生命活動を開始する為の養分を摂取する為です。人間の魂も同じです。死後に始まる本当の生命活動に備えて物的体験という魂の養分を摂取する為に、この地上という物的世界へ送られてくるのです。

○人生体験のすべてがそれぞれに大きな生命機構の一部としての意義を持っております。およそ歓迎したくない体験ー悲しいこと、辛いこと、嘆き、落胆、苦悩、痛み等々も魂にとって掛け替えのない価値を持っております。その有り難さは地上にいる間は実感できません。地上人生の価値の明確な全体像が理解できるようになるのは、肉体を離れて煩悩から解放され、局部に囚われずに全体を眺めることが出来るようになった時です。逆境の中にあってこそ人間性が鍛えられ、悲哀の中にあってこそ魂が強化されていることが分かります。

○その日一日、その場の一時間、今の一分・一秒を大切に生きることです。明日のことを思い煩うことなく、『今』という時に最善を尽くすのです。あなたが煩悩をもつ人間的存在であり、未熟であることは、神は先刻ご承知です。だからこそ地上に来ているわけです。もしも完全であれば、今そこに存在していないはずです。地上生活の目的はその不完全なところを一つでも無くしていくこと、それに尽きます。

○人の為に何かをしてあげようとする時、それが当を得たものであれば、それに必要な手段が必ず用意されます。無視されることは決してありません。何もかも自分で用意しなければならないというものではありません。何かが生じた時は必ず援助の手が差し伸べられるものです。

○危機に立ち至ったら、それまでの過去を振り返って、お先真っ暗の絶対絶命の時に道が開かれてきたことを思い出してください。そこに背後霊の導きがあったのです。それはこの後も決して見棄てることはありません。

○宇宙間の全てのことが知れるようになっております。全てを知ろしめす為の、高級霊による一大組織があるのです。その中には一度も物質界に降りたことのない霊もいます。全てが大霊の計画の直接の実行者です。総合的な基本計画というものがきちんと出来上がっており、その中に全てのもの、全ての人間に対する配慮がなされております。私が全てのことは佳(よ)きに計らわれているから安心なさいと申し上げる根拠はそこにあるのです。

○地上のいかなる賢人も、問題の全てに対する回答を手にすることは出来ません。三次元の世界に閉じ込められている以上、叡智の全てを手にすることは不可能なのです。その三次元の殻を破らないことには悟れないことがあるのです。そこに[信じる]ことの必要性が生じるわけです。私は[信仰だけではいけません。信仰に知識を加えなさい]と申し上げていることは事実ですが、その段階を更に進むと、その知識にも三次元故の限界がある為に[信じる]しかない段階に至ります。全てを理性で片付けるわけにはいかなくなった時、直感的洞察力の必要性が生じます。

○私が[信仰]という用語を用いる時、それは何の根拠も論理的背景もなしに、好きなように信じるという意味ではありません。知識という基盤をもち、霊的実在について疑い抜いた末に生まれる確実な根拠の上に築くものであらねばなりません。

○あなたが人の為に役立つことをしようと努力する時、必ず背後には複数の進化せる霊が集結して援助してくれます。決して見棄ててはおきません。といって、それで物事が楽に成就されると期待してはいけません。必ず困難はつきまといます。面倒なことも生じます。が、きっと成就されます。霊の世界からの協力者は決して降参しません。あなたが投げ出さない限り、いつまでも、勝利するまで味方になってくれます。

○地上は困ったこと、厄介なことだらけです。価値観を見失い、優先すべきものを履き違えている者が多過ぎるために、暗く陰鬱で、しかも暴力沙汰の絶えない、悲しい世界となり果てております。善の勢力と悪の勢力とのせめぎ合いが果てしなく続いているのです。そうした中で私達が一番頼りにするのは、霊的真理に目覚めた人達です。邪悪な勢力の攻撃にもたじろぐことなく堂々と対処できるのは、内部に秘められた霊力と、既に発揮しておられる霊的能力のおかげです。

○私が光栄にも地上世界の霊的新生の仕事に携わってきたこれまでの永い年月を振り返ってみて言えることは、いかに陰鬱な影に覆われても、それはあくまでも一時的に光を遮っているに過ぎず、永遠の太陽は常に輝いているということです。これからも皆さんの近親の霊と共に、私も皆さんが最善を尽くしておられる限り、生活に必要なものは不自由しないように取り計らってさしあげます。

○難題に尻込みし、真理普及の厳しい最前線から撤退していく人のことを気の毒に思ってあげなさい。元々本物の理解が出来ていなかった者ならいざ知らず、一度でも魂が感動し真理の光を見た者であれば尚更気の毒なことです。私達霊界の者にとって、正しい知識を手にした者がかくあるべきという規準にそぐわない振る舞いをする姿ほど、見るも悲しいものはありません。

○私達はお互いに欠点をそなえた人間的存在です。もしも完全であれば今こうして集い合っていることもないでしょう。完全性の成就は永遠に続く道程です。知識の全てを手にすることは不可能なのです。今あなたが置かれている生活条件そのものが、あなたが獲得し吸収していくものに制約を加えるからです。

○目の前が真っ暗となり、もはや物質の世界には頼りになるものは何もないかに思えた時に啓示が与えられます。それは、まず生命は霊であるがゆえに死後も永遠に続くものであることを証拠によって得心することに始まり、やがて霊的な恩恵を授かることによって次は、自分のもとを訪れる人々の悩める心を癒してあげることが出来るようになります。その一つ一つの道程に計画があるのです。

○あなたの愛する人達、それからあなたを愛してくれている人達は、『死』を境にして物質的には別れ別れになっても、霊的には今まで通りに繋がっております。愛は死よりも強いのです。愛は霊力と同じく宇宙で最も大切なエネルギーの一つです。

○あなた方(霊的知識の大切さに目覚めた人)は地上のいかなるものにも勝る力すなわち霊力の特使です。それはありがたい名誉であると同時に大変な責務でもあります。頂いている愛と尊厳をいささかでも傷つけることがあってはなりません。いついかなる時も寛容的で哀れみ深く、同情的で心優しい態度で、霊的真理の普及を心掛けないといけません。それが理解してもらえず冷たくあしらわれた時は、その人のことを気の毒に思ってあげることです。聞く耳を持っている人には大いに援助の手を差し伸べてあげることです。単純のようで実は奥の深い真理です。いつどこにいても人の為に役立つよう精一杯尽力する-我々の側から要求するのはそれだけです。

○すげない拒絶にあい厳しい批判を浴びせられても気になさらないことです。その人は折角のチャンスを目の前にしながら、それを受け入れる用意が出来ていなかったことを意味します。むしろその人のことを気の毒に思ってあげなさい。神は人間の一人ひとりが地上生活の期間中に必ず一度は生命の基盤である霊的真理を知るチャンスを用意してくださっております。

○霊的なものと物的なもののいずれにも偏らないように配慮しないといません。物的なことに向けておられる関心よりもっと多くとは申しませんが、せめて同じ程度の関心を霊的なことにも向けるように努力してください。あえて断言しますが、人の為に自分を役立てようとする行為を真摯に、謙虚に、そして敬虔な気持で実行する時、その為の手段が得られなくて挫折するということは決してありません。

○人間は宇宙最大の力の貯蔵庫です。霊の力を秘めているということです。それを圧殺したり、征服したり、地上への顕現を阻止したりすることは出来ません。あなたの地上人生が終わった時に、それまでにたった一つの魂でも救ってあげることが出来れば、あなたの地上での存在は無駄ではなかったと言えます。

○生命の基盤である永遠の霊的原理を片時も忘れずに、それと調和して生きるように心掛けなさい。それが、[存在]のより高い次元と調和して生きる者に必ず訪れる冷静さと憩いと落ち着きと安らぎと内的静寂を確保する道です。

○一旦霊的覚醒に到達したら、高次元の界層及びそこの生活者との間に磁気的な繋がりが出来ます。その時からあなたは常に彼等の保護下に置かれます。もたらされた啓示にしがみつき、それを全生活の基盤となさることです。その基盤を揺るがせる力は物質の世界には存在しません。これから訪れる日々もその基盤の上で迎え、不敵の信念で生きることです。地上には何一つ恐れるものはないのです。

○心配からは何一つ良いことは生まれません。心配と恐れはあなたにとって味方ではなく敵です。不屈の心、冷静さ、自信、決意、こうした資質は悟りを開いた魂から生まれるものです。あなたはこれまで立派に導かれてきたのです。これからも導きがあります。疑念が生じた時は一旦心の働きを止めて内的静寂の世界へ引っ込み、霊的資質の発現を待つのです。この地上人類の霊的覚醒の為の闘いに参加している将校は、戦況がいかに苦しくなっても、磐石の信念をもってその持ち場を死守しないといけません。その為にこれまで厳しく鍛えられ試練に晒されてきたのです。背筋を真直ぐにしなさい。

○取り越し苦労は最悪の敵です。精神を蝕みます。霊界から送られてくるはずの援助の通路を塞いでしまいます。あなたを包んでいる物的・精神的・霊的雰囲気を乱します。理性の敵でもあります。透徹した人生観と決断力という二つの人生最大の見方の妨げになります。

○心配の念が心をよぎった時は、実質のないただの影にすぎないものとして、一刻も早く放り棄てることです。考えてもごらんなさい。光の方が闇に勝るのです。知識の方が無知に勝るのです。真理は迷信を打ち破り、必ずやその存在価値を発揮します。

○私達がお教えしようとしている人生の秘訣は、今を大切に生きるということです。明日のことを思い煩ってはいけません。あなたには霊的知識があります。どこかに仕舞い込んでいてはいけません。それを全人生の基盤とするのです。その知識が生み出す自信をもって生き、決して悲観的になってはいけませんと言っているのです。明日という一日を素敵な冒険と可能性をもたらしてくれるものとして、力強く迎えるのです。人生は陽気さと快活さに満ちたものでなくてはいけません。心配の念は蹴散らしなさい。心配は無知と迷信の産物です。あなたは光栄にも素晴らしい知識の中で生きられる条件を手にしているのです。

○笑顔のあるところに大霊の働きがあるのです。悩みの中にあっても笑いを失ってはいけません。それが出来るようになれば何事も必ず解決します。このことは私が永い間繰り返し申し上げてきたことです。俗世のことに悩まされて笑顔を忘れるようでは、まだまだ真理を悟ったとは言えません。

○俗世のことは無視しなさいと言っているのではありません。物的世界で自我を顕現させている以上は、その世界での義務というものがあります。ただ、自分の中にも大霊が宿っており、それが自分を通じて働くのだという、この事実を忘れてはいけません。その力は物的世界のいかなる悩み事をも克服します。

○あなたに宿る大霊の力は、それを正しく認識することによってあらゆる邪悪、あらゆる病気、あらゆる障害に打ち勝ちます。そのことは既に二千年前にイエスが説いております。曰く-[神の御国はあなたの心の中にある]と。

○自分の内部に宿る威力を認識し、それを活用しさえすれば、克服できない困難というものはありません。それをいかにすれば活用できるかとなると、まずその能力を開発しなければなりませんが、ただ開発しただけでは駄目です。高い波長に感応できるものでなければなりません。ではどうすればよいのか。それは日常生活の中身を人の為に役立つもので満たしていくことです。そう努力することで霊性を高めるのです。自己中心的で俗世的すぎると、波長は低いものにしか感応しません。自我を滅却して利他的なことに無心に精励するほど、高い波長のものに感応するようになります。そのとき内部の神性が発揮されるのです。


○一つの仕事を始めると、遅かれ早かれ難問が生じるものです。しかし克服できないほど大きな問題は生じません。先のことを心配してはいけません。私も大きな歯車の歯の一つにすぎません。歯車は確実に回転します。それを動かしている力は物質界と霊界とを包含する大宇宙を経綸している力なのです。その力が森羅万象を生み出したのです。星雲を、太陽を、惑星を、大洋を、大海を、山を、花を、小鳥を、動物を、そしてあなた方人間を生み出したのです。それほどの大きな力が、あなた一人の人生に手こずるわけがありません。私達は人間の挫折を見たくて戻って来た野次馬ではありません。私達がお持ちした霊力は既に地上に根付いております。その力を阻止できるものは地上には存在しません。背後霊に全幅の信頼を置きなさい。

○肚(はら)をすえなさい。私がこの仕事を仰せつかった時、これが大変な仕事であること、多分それまでに体験したことのない大きな挑戦課題であることを聞かされました。そして用意された計画の説明を聞かされて私は、[精一杯頑張ってみましょう]とお引き受けしました。今はどうでしょう。活字のお陰で霊力が地球の隅々まで行き渡っております。


○気を引き締めないといけません。あなたは今、利己主義と貪欲と愚行、その他、混乱と悲劇と争いと憎しみの元凶である物質中心思想の恐ろしい産物との烈(はげ)しい戦いに参加しているのです。しなければならないことが山ほどあります。背後に控える力は物質界の全勢力を結集したものより更に強力であるとの認識をもって事に当たってください。あなたには何一つ恐れるものはありません。

○右を向いたり左を向いたり後ろを向いたりしてはなりません。やってしまったことを悔やむのは間違いです。過去のページは既に閉じられたのです。もう二度と開くことは出来ないのです。大切なのは今日です。明日の運命は今この時点で取る態度によって決まるのです。

○あなたが一人ぼっちでいることは決してありません。困難の中で一人で悪戦苦闘させられることはありません。たとえ目に見えず、耳に聞こえず肌に感じられなくても、背後霊の影響が常にあなたを包んでおります。霊についての実相を理解しさえすれば地上世界は改革できるのです。

○霊を完全に抑え込む力をもったものは物質の世界には何一つ存在しません。霊は物的身体が生み出すいかなる力よりも威力があります。物事がうまく運ばないで人間関係が思うにまかせぬ時、一旦喧騒の現実界から静寂の世界へ引っ込むことです。すると霊界から発せられる強力な愛があなたを包み、霊力を補給してくれます。これであなたはすっかり落ち着きを取り戻して現実の世界へ臨むことができます。

○物の見方・考え方には常に柔軟性がなくてはなりません。柔軟性こそ霊的問題に処していく上での絶対的条件です。独断主義は不毛・沈滞に堕していきます。常に自由な精神を維持していなければなりません。霊力は無限です。これでお終いという限界がないのです。あなた方が地上で手にする知識は死後に待ち受けている膨大な知識の宝に較べれば、そのホンの上っ面を引っかいた程度にすぎません。

○地上人類は自らの力による救済を工夫していかないといけません。出来合いの方法はありません。型にはまった定石的手段というものはありません。その為にはまず無限に展開する生命現象の背後には霊という永遠の実在があること、地上の人間は物的次元で営まれる俗世の存在であると同時に、物的身体を通して自我を表現している霊的存在であることを認識しないといけません。

○物的身体も、神が意図されている通りに、地上生活を営む上での必需品を必要なだけ補給してやらないといけません。次に、それに宿る霊があらゆる独断的教理の束縛から解放されて、真実味も霊的価値もないものに忠誠を尽くすようなことにならないようにしないといけません。ひたすら真理の為にのみ精励すべきです。幾千年もの間束縛してきたドグマや教理のことで戦争したり、口論したり、しのぎを削ったりするような愚かしいことは止めないといけません。

○たった一つの魂を高揚してあげることができたら、喪の悲しみに沈む一つの魂に慰めを与えることができたら、意気地のない一つの魂に生きる勇気を与えてあげることができたら、人生に疲れ切った一つの魂に生きる力を与えてあげることができたら、それだけで十分にやり甲斐のある仕事といえるのではないでしょうか。

○人間の一人ひとりに、いかなる病気でも治し、いかなる困難をも克服する力が宿されていることが、まだ理解されていないようです。窮地において引き出すことのできるエネルギーの貯蔵庫をそなえているのです。神の王国は各自の魂の中にあるのです。この事実がなんと理解されていないことでしょう。その深い自我に触れる方法は神の摂理に則った生き方に徹することです。しかし、どれほどの人がそういう生き方を心掛けていることでしょう。

○生活は[行い]だけで成り立っているのではありません。[言うこと]も[思うこと]も生活の一部です。行為だけが大事と思ってはいけません。勿論行為が一番大事です。が、口にする言葉も心に思うことも、あなたの一部です。その思念がコントロールできずに、それに振り回されている人間が多いのは悲しいことです。

○霊的真理に比べたら物質界のいかなる貴重品も安ピカものです。これから何千年も先まで生きられてから地上生活を振り返って御覧になると、地上で欲しくて仕方がなかったものよりも、地上で得た知識、地上で身に付けた叡智の方がはるかに大切であることがお分かりになります。

○目先の結果だけで判断してはいけません。あなた方は物質の目だけでご覧になっておられます。もし霊の目で見ることが出来れば、一人一人に完全な構成が行きわたっていることがお分かりになるはずです。私は時折皆さんの祈りに耳を傾けてみることがありますが、もしも神がその願い通りになさったら却って皆さんにとって好ましくない事態になるのだが、と思うことばかりです。

○同じこの地球上に身を横たえる場所も無く、星空の下で寝なければならない人が大勢いるのです。風雨にさらされている人が大勢いるのです。その日の食べ物にすら事欠いている人がいるのです。そういう現実のもとで、あなたは今の自分の身の上について神に向かって不平を言う資格があると思われますか。

○物質の世界において誰かが奇特な行いをしようとする時、霊界においてそれを支援しようとする霊がすぐさま馳せ参じます。善行が無駄に終ることは決してありません。なぜなら霊界側では人類の向上の為に役立つことをする人にいつでも援助の手を差し伸べる用意がなされているからです。

○あなたにとって全く見知らぬ霊、名前すら聞いたことのない霊でありながら、あなたの為に力になってあげたい一心で来てくれる霊が大勢いるものです。そういう霊は名乗りたがりませんし、見返りというものを一切期待しないものです。

○人間は地上生活の間に何度か暗い陰の時代を送らねばならないようになっているのです。その陰の中に入ったら、それは人生の一部であって全部ではないことを自分に言い聞かせなさい。陰は太陽の光があるからこそ出来るのです。あなたの目には見えなくても太陽は輝いているのです。

○陰は束の間の存在です。永久に続くものではありません。そのうち消えて、また光があなたの存在を照らします。手にした霊的知識、不変の基本的真理にしがみつき、地上生活で絶対に避けられない様々な問題に真正面から対処しなさい。

○問題も困難も厄介なことも生じないような人生はありえません。地上がそういうところだからこそ、あなたもこうして生まれて来ているのです。大切なのはそれへの対処の仕方です。内在する神性を呼び覚まして解決策を見出し正しい方向を選択する、そういう対処の仕方が大切です。そのことはよくご存知のはずです。なのにそれが実行できずにいます。難問や心配事に足を取られて身動きができなくなり、実在ではないただの影をやたらに大げさなものに考えてしまっています。物的なものはことごとく霊的実在のおぼろげな反影であり、幻に過ぎません。

○物質それ自体に存在はありません。霊によって活力を与えられて初めて存在を得ているのです。霊こそ生命であり、あなたが受けておられるエネルギーも宇宙の生命力と全く同じものです。その意味であなたも創造活動に参加しているのです。正しい生き方、正しい考え方が身に付けば、霊力がもたらしてくれる無限の恩恵に浴することが出来るのです。

○正しい生き方、すなわち霊的知識に順応した日常生活を送れば、自動的にあなたは霊的に、精神的に、物質的に必須のものを思い通りに手にすることが出来るようになります。物的なものを最優先させようとする考え方がそもそも間違いなのです。物的世界に置かれている人間としての義務、或いは自我の表現器官としてのその身体にとって大事なものも無視しなさいと言っているのではありません。心に宿す思念が霊的摂理に順応したものであれば、霊と精神と身体とが調和し一体となって働くので、必要なものは必ず手に入るようになると言っているのです。

○そもそもあなたがこの地上に生まれて来たのは、陰性のもの、邪悪なものを克服して霊的に一段と強くなるためです。それが容易に達成されるとは申しておりません。大変難しいことです。しかし霊的価値の高いものがそう簡単に達成されるはずがありません。なぜなら、それには霊的視野と焦点を常に誤らないようにするための強烈な精神的鍛錬を要するからです。

○純粋に物的な弱みがバランスの取れた生き方を困難にさせる時期があることは確かです。が、それも内部の霊力を駆使することによって必ずや克服できます。その内部の兵器庫にはマイナスに作用するものとの葛藤に必要な武器の全てが揃っており、これに勝るものはありません。

○気楽な道は前途に霊的な目標をもたない人に任せればよろしい。霊的な鍛練とそれに伴ってもたらされる霊的な豊かさを求める者には、厳しい道が用意されます。霊的褒賞は気楽な道を求める者にはもたらされません。もしそうでなかったら、その褒賞は敢えて求めるほどの価値はないことになります。闘いを挑み苦しみ抜いた末に勝利を得る方が、何の挑戦課題もなく呑気に生きているよりはるかに上です。魂が自我に目覚め内在する神性が表現の機会を得るのは、必死に努力するその最中においてです。

○いかなる事態に立ち至ろうと、それはあなたにとっての挑戦課題として受け止めなさい。魂はその根源において神性を帯びているが故に、その挑戦を真正面から受け止め克服し一段と強力になって行くだけの力を秘めております。いかなる事態も歓迎し、決して悲観的になったり愚痴をこぼしたりしてはいけません。あなたほどの霊的知識をそなえた方ならば、毎朝の訪れを内的な喜びをもって迎えることが出来てしかるべきです。永遠の魂を傷つけるほどの事態は決して起こり得ないからです。

○偉大な霊ほど困難な地上生活を耐え忍ばねばなりません。魂の偉大さは試練と洗練の過程を経ずしては達成されません。つまり霊性の強度が見せかけのものでないことを、その美と光輝と雄大さの中で示せるようでないといけないのです。困難は魂にとって薬です。身体にとっても薬になることがあります。内部の潜在力を表面に呼び出す為の挑戦課題です。かくしてその人は成長し発達し開眼して神性が発揮されるようになります。

○地上生活の究極の目的は失敗から教訓を学び、転んでは立ち上がり、日々の生活の中の冒険的な出来事の一つ一つに対処し、しかも他方においては、自分が本来は霊であり肉体は道具にすぎないこと、したがって大切なのはその霊に及ぼす影響であることを忘れずに、常にそれを優先させて基本的な霊的真理にしがみつくことです。

○霊と精神と身体を支配している自然の摂理と調和した生活を送っていれば、健康が維持されるのみならず、進むべき道をしっかりと踏みしめているとの確信を覚えるようになります。その霊的自覚はますます大きくそして強くなってまいります。それが存在というものの、そもそもの目的なのです。

○挫折もまた人生の一コマです。抑止と照合の作用を抜きにした人生はありえません。思い切り前進できる時期があるかと思えば、進もうにも進めない時期があります。それはそれで意義があるのです。摂理は完璧で、必ず作用し、各自がそれ相当のものを受けるようになっているのです。

○一番厄介なことは、人間が物的なものに入り浸ってしまい、人生のすべての基盤である永遠の霊的原理を忘れてしまうことです。あなたがもし思い通りにならないからといって悩んだり、失望したり、イライラしたりするようであれば、それはあなたがまだ一番大切なことは本当のあなたである『霊』に係わることでありその『身体』ではないということを理解していない証拠です。

○ふさぎ込むのは止めなさい。誰の人生も孤独感を味わう時期があるものです。まわりにどんなに親しい人がいてくれても孤独に思うものです。が、そこから意気消沈の状態へ落ち込んではなりません。あなたほどの霊的知識を手にされた方なら、地上にも霊界にも、恐れるものは何一つありません。

○物的に孤独だからといって霊的に孤独であるわけではありません。霊的意識が芽生え潜在的な能力が発現すれば、物的に孤独であっても、辺りに霊的なものが色々とあることに気づかれるはずです。その多くは愛と情と血縁の絆によって結ばれていることが分かるようになります。

○真理はたった一人の偉大な人物によって広められるものではなく、物的世界の無数の人間を通して浸透していくように計画されております。霊力の働きかけがある限り人類は常に進歩し続けていることを忘れてはなりません。その働きかけに魂を鼓舞された人間の思念・欲求・衝動は実に強烈です。外部からのいかなる力によっても抑え込まれるものではなく、これ以後も抑え込まれることは決してありません。今まさに地球全体を新しい思念が無数の人々の魂を揺さぶりつつあります。霊と精神と身体の解放を切望し、当然の権利として主張し、断固として要求する、その思念です。

○我々は、我々の一人ひとりを使用せんとするより大きくより高い存在の道具であることを忘れないようにしましょう。言わば[導管]のようなものであり、それを通して慰安の芳香が送り込まれ、地上の悲しみを癒します。無限の目的をもった霊力が存在し、それには人類が直面するいかなる問題をも解決する力が秘められていることを忘れないようにいたしましょう。

○地上はいがみ合い、恨み合いといった不和に溢れております。悲哀と悲劇と流血の連続です。それでいながらお互いに[我等に平和を与え給え]と祈ります。私は皆さんに、内部に秘められている神性を自覚しなさいと申し上げたいのです。あなた方のお一人お一人が大霊なのです。大霊の無限の霊力が潜在しているのです。それを開拓し表面に出す努力をすれば、有限であるが故の束縛を克服できるはずです。

○暴風が荒れ狂った後に必ず春の新しい生命が誕生します。見渡すかぎり雪に覆われ荒涼としている時は、春の新鮮さを窺い知ることは出来ません。しかし、春は必ず訪れます。

○勇気をもって進みなさい。落胆や失敗がないというのではありません。これからも数多くの失敗と落胆があることでしょう。しかし、いかなる事態にあってもあなたの背後には、困難に際しては情熱を、疲れた時には元気を、落胆しそうな時には励ましを与えてくれる霊が控えてくれていることを忘れてはなりません。一人ぼっちということは決してないということです。

○私達の霊団は悪魔の使いではありません。皆さんを混乱の袋小路に誘い込もうとしているのではありません。理解と自信と安らぎと幸せを生み出してくれる単純な霊的真理をお教えしようとしているだけです。言いかえれば、少しでも神に近付けてくれる摂理を啓示してあげようとしているのです。それが私達の使命なのです。

○皆さんも神の僕です。皆さんの労苦を通して大霊の御心が地上に行き渡るのです。その労苦の中に大きな喜びがあることを知ってください。なぜなら、多くの人々の生活の中にかつては思いも寄らなかった新たな希望をもたらしてあげているからです。皆さんは霊の力が地上へ降下するお手伝いをなさっているのであり、それは神の摂理が正しく地上で作用するお手伝いをしていることにほかなりません。それが物的世界の苦しみや悲しみを取り除くことにもなるのです。

○人間はなぜ光明よりも暗闇を好むのでしょうか。なぜ知識よりも無知を好むのでしょうか。なぜ叡智よりも迷信を好むのでしょうか。なぜ霊の生きた真理よりも形骸化した教義の方を好むのでしょうか。なぜ霊的叡智の泉よりもホコリだらけの神学の方を好むのでしょうか。

○地上の人間は流血によって問題が解決されるかに考えますが、これまでの歴史でそのような方法で問題が解決した例(ためし)はありません。流血は無益であり、結局は徒労に終わります。なぜ人類は折角神から授かっている理性が使えないのでしょうか。なぜ出来るだけ多くの敵を殺すのが唯一の解決策だと考えるのでしょうか。敵を一番多く殺した者が英雄とされる-地上というところは不思議な世界です。

○古い価値基準が棄て去られ、全ての権威が猜疑を差し挟まれて影響力を失墜しつつあるこの混乱の時にあって、私達は絶対に威力を失うことも誤ることもない[摂理]という形での神の概念を説きます。それこそ宇宙の絶対的権威者なのです。物質の世界の人間がその摂理に従って生きるようになれば、平和と秩序が再び支配します。

○地上の人々、なかんずく霊的知識を手にされた方達が、せめて一度でも、物的五感を超えて、すぐ身の回りにある霊的実在を認識してくれれば、という私の願いは切なるものがあります。

○悩みの種が尽きることはありません。だからこそ地上に来ているのです。すなわち問題を一つ一つ片付けていく中で、新たな力、より大きな発展を獲得していくのです。次から次へと生じる問題を挑戦課題として受け止め、一つ一つ処理していくことです。

○私は既に多くの方が直感的に、或いは理性的・論理的に理解しておられる単純な真理を改めて説いているに過ぎません。その真理の仕入先は霊界です。しかもその上層界です。そこでは全ての人が実在を目の当たりにします。原因と結果とが即座に働き、他への思いやりの多い人が少ない人より偉い人とされ、地上時代の見栄や肩書は全て剥ぎ取られ、魂がまる裸にされて、長所も短所も衆目に晒されてしまいます。そういう世界で学んだことをお届けしているのです。

○いかなる聖職者も魔法の力は持ち合わせません。水を他の何ものにも変えることは出来ません。司祭が赤子の顔に水を二、三滴垂らしたからといって、それでその子の地上生活に、或いは死後の生活に、いささかも変化は生じません。その二、三滴の水は、垂らす前も、垂らした後も、相変わらずただの水にすぎません。その水の化学的成分を変え法則と違ったことを生じさせる力は、司祭にはありません。

○治療家が苦痛を取り除いてあげることが許されるのは、それが霊的自我の目覚めへ繋がるからこそです。病気を治してあげることが立派な仕事であることは違いないのですが、治療家にはそれよりもっと大切な仕事があります。その病気が縁で訪れてくる人の魂を目覚めさせ、真の自我を発見させてあげることです。それに比べれば、症状がとれるというだけの治療は大して重要ではありません。

○大切なことは魂に感動を覚えさせてあげることです。人間は大抵の場合、大霊から授かっている神性の炎が小さく弱くなっております。それを大きく燃え上がらせてあげるのです。その体験の中から新たな悟りが生まれます。そういう体験をさせてあげる為に特別製の聖衣がいるわけではありません。特殊な養成所に通う必要もありません。ひたすらに人の幸せを願い、少しでも霊的資質を発揮する生活を心がけ、いつでも霊力の通路として使用してもらえる態勢を整えておけば、それでよいのです。

○人生で最も貴重なものは入手が最も困難なものです。困難でなかったら貴重とは言えません。もしも霊の褒章が安易に手に入るものであれば価値はないことになります。ですから、困難を歓迎するのです。尻込みしてはなりません。それを逆手にとって支配下におさめ、それを克服していく努力の中で、あなたの未開発の能力が引き出されるのです。

○時には思い切り涙を流すことも大切です。感情を発散させることになり、すっきりとして気分が和らぎます。意地を張って感情を押し込めたままにしておくよりも、涙とともにその感情を流し出した方がよいことがあるものです。

○私は地上に大勢の友をこしらえることが出来て、とても幸せ者であると思っております。私はただ、私に送られてきた基本的な真理を英語という地上の言語にくるんでお届けしているだけです。受け入れる用意のできた人が受け取ってくだされば、それでよいのです。

○真理を知らずに間違ったことをしているのであれば、まだ弁護の余地はありますが、聖職者としての義務を知っていながら自分の栄達の方を優先させている者は一体どう弁解するつもりでしょう。

○私達霊団の者は地上的環境というままならぬ条件のもとで精一杯努力しております。そこで、皆さん方に要求するのは[協力]の二文字だけです。私達が提供するのも[協力]です。命令的な指図はしたくありません。強制しようとは思いません。人の為に役立ち自我の開発にも役立つことをするには人間はどうすればよいかをお教えすることによって、皆さんの愛と理性に発する協力を獲得したいのです。

○皆さんはキリスト教の聖職者にも、ユダヤ教の聖職者にも、世界のいかなる宗教の指導者にも出来ないことがお出来になります。神は聖なる職にある人だからということで霊力をお授けになるのではありません。霊力を授かるに相応しい資格をそなえた人にお授けになるのです。

○人生のどこかの段階で神は子等に真の自我の発見とその存在意義に目覚める為の機会を提供します。そのための前提条件として、魂の琴線に触れる体験が必要です。

○魂が感動を覚えないうちは、霊力は働きません。ですから、例えば病気そのものは治っても、その体験によって魂が何らかの感動を覚えるまでに至らなかったら、その治療は本来の目的を成就できなかったことになります。

○私達がこうして地上へ戻ってきた目的は、物的現象の裏には霊的実在があることを披露することによって、人間が幻影を追い求めることを止め、この千変万化の地上生活の複雑な諸相を律している基本的な真理を学んでくださるように導くことです。

○あなたは人間です。過ちを犯します。判断を誤り、しくじることがあります。人間性は頑強に出来上がっていない故に、人間は常に弱みを背負って生きています。人間が人間であることの証は、欠点を持っているということです。だからこそ今あなたは地上へ来ているのです。

○完全性など、とても地上で成就できるものではありません。ですが、いずれお出でになるこちらの世界の為の霊的な準備となる教訓を学ぶことは出来ます。

○人生は両極性から成っています。作用と反作用、同等と正反対といった具合ですが、それは同じ硬貨の両面です。ですから憎しみが愛に変わることがあると同時に、不幸にして愛が憎しみに変わることもあるわけです。両者は同じ力なのです。問題はその力をどう働かせるかです。

○このサークルに来られる方に強調しておきたいのは、この私という存在は進化の頂点を極めた、したがって誤りを犯すこともなくなった、完全な霊の教師ではないということです。そんなものはこの世には存在しません。向上すればするほど、まだその先に向上すべき余地があることに気付くことの連続なのです。

○私が説く真理の最大の価値は、それが宇宙の叡智の宝庫から取り出した崇高なものであるということです。といって私は、それを無理にも信ぜよとは申しません。私の言う通りにしなさいとは申しません。また、これ以外に神すなわち宇宙の大霊へ近付く道はないなどと豪語するつもりもありません。

○私に断言できること、絶対の自信をもって申し上げられることは、霊的な真理も人間の理性と知性と体験によるいかなるテストにも耐えうるものだということです。と言って、仮にあなたが[こんなものは受け入れるわけにはいかない]と拒否なさっても、別にバチは当たりませんから心配はご無用です。

○取り越し苦労はいけません。心配は無知から生まれます。真理を知って『知識の光』の中で生きなさい。

○イースターは全生命の復活を祝う時です。それは太陽系の全天体が一丸となって、地上世界が悲劇と苦痛と災厄から復活して、より意義ある人生、真実の生き方に目覚めるようにと祈る、その祈りのシンボルなのです。

○地上世界には霊的新生が大いに必要です。しかし今や大霊の造化の目的の為に自分を役立てたいと願う者が増え、物欲による横暴が駆逐されるにつれて、大霊の意志が徐々にではありますが行き渡りつつあります。

○私はこのイースターの時期になると、他の大勢の同志と共に本来の所属界へと舞い戻り、物的条件によって制約された人間の理解力では到底理解できない霊的生命の喜びをしばし満喫し、敬愛する指導者に拝謁し、その崇高なる叡智に触れ、その強烈なる霊力を頂き、畏(かしこ)き神々の集える審議会への出席を許され、そこで計画がどこまで進捗したか、どこが上手く行っていないかについてのご指導にあずかり、絶え間なく続く善と悪との闘いの為に案出された次のご計画を仰ぎます。

○出来ることなら皆さんをご一緒にお連れして、地上の為に働いている霊団の面々を御覧頂いて、その光輝の素晴らしさをお見せすると同時に、その光輝を発している畏(おそ)れ多き神霊がかつて地上では何という名前で呼ばれていたかをお教えしたい気持です。しかし、その前に皆さんは、あまりの崇高さに尻込みなさることでしょう。地上時代の名前はすっかり意味を失っております。それよりも、現実にそうして地上の為に活動しておられるその影響力の方が大切です。そうした方々によって催される大審議会の模様を一度でもお目にかけることが出来たらと思うのですが・・・

○暗黒の勢力と既得権にあぐらをかいている宗教界との戦いの他に、もう一つ、人間の[心配の念]という敵との戦いもあります。無知から生じる無用の心配の念が無数の人間の心に巣食っております。心配というのは想像の世界にしか存在しないものです。実在しないということです。それで私は心配の念を棄てなさいと繰り返し申し上げるのです。解決できない問題というのは絶対に生じません。重すぎて背負えないほどの荷は与えられません。常に明るく確信に満ちた雰囲気の中で生活していれば、必ずや援助し導いてくれる勢力を呼び寄せます。

○洗礼の儀式は少しも魂を聖(きよ)めることにはなりません。地上生活にあって少しでも完全に近付くように、日常生活の名で内なる神すなわち霊性を一つでも多く発揮するように努力することから、本当の聖らかさが生まれるのです。

○科学の発達によって精巧な機器が発明され、それによって宇宙の新しい側面が次々と明らかにされるようになりましたが、それは決して新しいものを生み出したわけではありません。無窮の過去から働き続けてきた法則の存在を今になってやっと知ったというに過ぎません。

○全く新しいものが創造されるということはありません。何が生まれても、それは既に存在していたものの一部分に過ぎません。大自然の法則と一致しないものが発生することは絶対にありません。法則は全てを包摂しているからです。人間がその存在に気付くか気付かないかの問題です。

○クリスチャンがイエスの本当の生き様を見習い始めた時、歴史に画期的な新時代が始まったことになります。が、今のところはまだ始まったとは言えません。私の目にはその兆しが見えないのです。イエスの名を口にするだけではイエスに忠誠を尽くすことになりません。その生き方を見習わないといけません。それが出来ないでいてこの私に[クリスチャン]という言葉を用いないでください。イエスも言っているではありませんか-[私に向かって主よ主よと言ってくれる者全てが天国へ召されるわけではない。天なる父の御意志を実行する者こそが召されるのである]と。

○全ての存在に神の息吹が掛かっております。だからこそ物質界の最下等の生命体も全知全能の神と繋がっており、地上で最高の聖人・君子とも繋がっていると言えるのです。

○同じ意味で極悪非道の犯罪人と高潔な聖人とは兄弟なのです。どちらにも同じ神の息吹が宿されているのです。

○霊能養成の為に費やす時間が無駄に終ることは決してありません。何の反応もなくてじれったい思いをなさる気持は私にもよく分かります。が、そうした状態のもとで着実に進歩していることを知って頂きたいのです。背後霊との絆が強化され、霊的感覚が鋭敏さを増しております。成長と開発と進化が一刻の休みもなく続いております。

○知識を求める人にはちゃんとその人なりのものが用意されているものです。ですが、皆さん方のように真理普及の第一線に立つ者は、自ら冒険を求める勇気がなくてはいけません。時には予想もしなかった危険に晒されることも覚悟しなくてはいけません。未踏の奥地にまで踏み込む用意も必要です。しかも、真理に導かれる所ならどこへでも付いて行き、間違いであることが分かったものは、たとえ古くから大切にされている教えであっても、即座に棄て去るだけの心の準備が出来ていなくてはなりません。

○患者に手を当てがうということは、言ってみればオモチャで遊ぶ程度の事です。大切なのは患者の魂が目を覚まして真実の自分を発見することです。私にはこれ以上に上手い表現が思いつきません。

○霊とは内部の神性の火花です。心霊治療はその火花を大きな炎と燃え上がらせる仕事です。それが心霊治療の本来の目的です。

○私のことを色々と話題にしてくださるのはよいとして、シルバーバーチという一個の存在のみに関心を向けるのはよくありません。私は私よりはるかに偉大な霊から送られてくるメッセージを皆さん方にお届けしているだけです。光り輝く存在、大天使団によって組織された政庁があり、大霊の計画の実質上の責任をあずかっているのです。私はその使い走りにすぎません。そのことを光栄に思ってはいますが・・・

○高級霊は人間を霊的知識をもたらす為の手段-真理を普及し、間違った考えを改め、迷信を駆逐し、光明を少しでも広く行き渡らせ、苦痛・悲劇・不幸に終止符を打ち、その結果として幸せと安らぎと繁栄をもたらす為の手段と見なしております。

○証拠、証拠と仰いますが、証拠を手にすることと魂の成長とは何の関係もありません。真理を受け入れる能力は、あなたの魂が霊界のどの次元まで突入できるかによって決まります。つまり真理を悟る能力がどこまで進化したかに掛かっております。それを証拠の入手と混同してはなりません。両者は必ずしも平行して進むものではありません。死後にも生命があることを立証する立派な証拠を手にしていながら、霊的には一向に目覚めていない人がいるものです。

○あなたは[霊]だからこそ生きているのです。霊だからこそ墓場を超えて生き続けるのです。霊だからこそ永遠に生き続けるのです。それには[教祖様]は何の関係もありません。生得の権利であり神からの遺産の一つなのです。

○現代の啓示も過去の啓示と同一線上にあります。私達はイエスが説いた真理を否定していませんし、そのイエスもモーゼの説いた真理を否定しませんでした。我々の後に来る人も、私達が今説いている真理を否定することはないでしょう。しかし未来の子は一段高い進化のレベルにありますから、啓示される真理も今の時代に啓示されている真理より進歩したものであらねばなりません。

○日常生活において霊性を発揮すればするほど大霊に近付きます。あなた方一人ひとりが大霊の一部であり、したがってあなたと大霊との間に[仲介役]というものは要りません。

○本当を言うと魂は内部にあるとか外部にあるとか言えません。魂とは全宇宙に遍在するものです。[意識]です。一個の身体によって束縛されるものではなく、無限の広がりをもつものです。一瞬の間に地球を一周できます。

○一体あなたとは何なのでしょう。ご存知でしょうか。自分だと思っておられるのは、その身体を通して表現されている一面だけです。それは奥に控えるより大きな自分に比べればピンの先ほどのものでしかありません。

○身体はあなたが住む家であると考えればよろしい。家であってあなた自身ではないということです。家である以上は住み心地を良くしないといけません。手入れがいるわけです。しかし、あくまでも住居であり住人ではないということを忘れてはなりません。

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