〝あなたはなぜ神に祈るのですか〟と問われてシルバーバーチは〝祈り〟の本来のあり方について次のように述べた。

 「それは、私に可能な限り最高の〝神の概念〟に波長を合わせたいという願いの表れなのです。
 私は祈りとは魂の憧憬と内省の為の手段、つまり抑え難い気持を外部へ向けて集中すると同時に、内部へ向けて探照の光を当てる行為であると考えております。本当の祈りは利己的な動機から発した要望を嘆願することではありません。我々の心の中に抱く思念は神は先刻ご承知なのです。要望は口に出される前に既に知れているのです。
 なのになぜ祈るのか。それは、祈りとは我々の周りに存在するより高いエネルギーに波長を合わせる手段だからです。その行為によってほんの少しの間でも活動を休止して精神と霊とを普段より受容性に富んだ状態に置くことになるのです。僅かな時間でも心を静かにしていると、その間により高い波長を受け入れることが出来、かくして我々に本当に必要なものが授けられる通路を用意したことになります。
 利己的な祈りは時間と言葉と精神的エネルギーの無駄使いをしているに過ぎません。それらには何の効力もないからです。何の結果も生み出しません。が、自分をより一層役立てたいという真摯な願いから、改めるべき自己の欠点、克服すべき弱点、超えるべき限界を見つめる為の祈りであれば、その時の高められた波長を通して力と励ましと決意を授かり、祈りが本来の効用を発揮したことになります。
 では誰に、或いは何に祈るべきか-この問題になると少し厄介です。なぜなら人間一人ひとりに個人差があるからです。人間は必然的に自己の精神的限界によって支配されます。その時点までに理解したものより大きいものは心象として描きえないのです。ですから私もこれまでに地上にもたらされた知識に、ある程度まで順応せざるを得ないことになります。例えば私は言語という媒体を使用しなければなりませんが、これは観念の代用記号に過ぎず、それ自体が、伝えるべき観念に制約を加える結果となっています。
 このように地上の為の仕事をしようとすれば、どうしても地上の慣例や習慣、しきたりといったものに従わざるを得ません。ですから私は、神は人間的存在ではないと言いながら男性代名詞を使用せざるを得ないことになります(例えば〝神の法則〟というのを His laws という具合に-訳者)。私の説く神は宇宙の第一原因、始源、完全な摂理です。
 私が地上にいた頃はインディアンは皆別の世界の存在によって導かれていることを信じておりました。それが今日の実験会とほぼ同じ形式で姿を見せることがありました。その際、霊格の高い霊程その姿から発せられる光輝が目も眩まんばかりの純白の光を帯びていました。そこで我々は最高の霊すなわち神は最高の白さに輝いているものと想像したわけです。いつの時代にも〝白〟というのは〝完全〟〝無垢〟〝混ぜもののない純粋性〟の象徴です。そこで最高の霊は〝白光の大霊〟であると考えました。当時としてはそれが我々にとって最高の概念だったわけです。
 それは、しかし、今の私にとっても馴染み深い言い方であり、どの道地上の言語に移し変えなければならないのであれば、永年使い慣れた古い型を使いたくなるわけです。但し、それは人間ではありません。人間的な神ではありません。神格化された人間ではありません。何かしらでかい存在ではありません。激情や怒りといった人間的煩悩によって左右されるような存在ではありません。永遠不変の大霊、全生命の根源、宇宙の全存在の究極の実在であるところの霊的な宇宙エネルギーであり、それが個別的意識形体をとっているのが人間です。
 しかしこうして述べてみますと、やはり今の私にも全生命の背後の無限の知性的存在である神を包括的に叙述することは不可能であることを痛感いたします。が少なくとも、これまであまりに永い間地上世界に蔓延っていた多くの幼稚な表現よりは、私が理解している神の概念に近いものを表現していると信じます。
 忘れてならないのは、人類は常に進化しているということ、そしてその進化に伴って神の概念も深くなっているということです。知的地平線の境界がかつて程狭くなくなり、神ないしは大霊、つまり宇宙の第一原理の概念もそれに伴って進化しております。しかし神自体は少しも変わっておりません。
 これから千年後には地上の人類は今日の人類より遙かに進化した神の概念をもつことになるでしょう。だからこそ私は、宗教は過去の出来事に依存してはいけないと主張するのです。過去の出来事を、ただ古い時代のことだから、ということで神聖であるかに思うのは間違いです。霊力を過去の一時代だけに限定しようとすることは、霊力が永遠不変の存在であるという崇高な事実を無視することで、所詮は無駄に終わります。地上のいずこであろうと、通路のある所には霊力は注がれるのです。(訳者注-聖霊は紀元66年まで聖地パレスチナにのみ降り、それきり神は霊力の泉に蓋をされた、というキリスト教の教えを踏まえて語っている)
 過去は記録としての価値はありますが、その過去に啓示の全てが隠されているかに思うのは間違いです。神は子等の受容能力が増すのに応じて啓示を増してまいります。生命は常に成長しております。決して静止していません。〝自然は真空を嫌う〟という言葉もあるではありませんか。
 あなた方は人々に次のように説いてあげないといけません。すなわち、どの人間にも神性というものが潜在し、それを毎日、いえ、時々刻々、より多く発揮する為に活用すべき才能が具わっていること、それさえ開発すれば、周囲に存在する莫大な霊的な富が誰にでも自由に利用出来ること、言語に絶する美事な叡智が無尽蔵に存在し、活用されるのを待っているということです。人類はまだまだその宝庫の奥深くまで踏み込んでいません。ほんの表面しか知りません」

-あなたは霊的生活に関連した法則をよくテーマにされますが、肉体の管理に関連した法則のことはあまり仰ってないようにお見受けします。

 「仰る通り、あまり申し上げておりません。それは、肉体に関して必要なことは既に十分な注意が払われているからです。私が見る限り地上の大多数の人間は自分自身の永遠なる部分すなわち霊的自我について事実上何も知らずにおります。生活の全てを肉体に関連したことばかりに費やしております。霊的能力の開発に費やしている人は殆ど-勿論おしなべての話ですが-いません。第一、人間に霊的能力が潜在していることを知っている人が極めて少ないのです。そこで私は、正しい人生観をもって頂く為には、そうした霊的原理について教えてあげることが大切であると考えるわけです。
 私は決して現実の生活の場である地上社会への義務を無視してよいとは説いておりません。霊的真理の重大性を認識すれば、自分が広い宇宙の中のこの小さな地球上に置かれていることの意味を理解して、一段と義務を自覚する筈です。自国だけでなく広い世界にとってのより良き住民となる筈です。人生の裏側に大きな計画があることを理解し始め、その大機構の中での自分の役割を自覚し始め、そして、もしその人が賢明であれば、その自覚に忠実に生きようとし始めます。
 肉体は霊の宿である以上、それなりに果たすべき義務があります。地上にいる限り霊はその肉体によって機能するのですから、大切にしないといけません。が、そうした地上の人間としての義務を疎かにするのが間違っているのと同じく、霊的実在を無視しているのも間違いであると申し上げているのです。
 又世間から隔絶し社会への義務を果たさないで宗教的ないし神秘的瞑想に耽っている人が大勢いますが、そういう人達は一種の利己主義者であり、私は少しも感心しません。何事も偏りがあってはなりません。色んな法則があります。それを幅広く知らなくてはいけません。自分が授かっている神からの遺産と天命とを知らなくてはいけません。そこで初めて、この世に生まれて来た目的を成就することになるのです。
 霊的事実を受け入れることの出来る人は、その結果として人生について新しい理解が芽生え、あらゆる可能性に目覚めます。霊的機構の中における宗教のもつ意義を理解します。科学の意義が分かるようになります。芸術の価値が分かるようになります。教育の理想が分かるようになります。こうして人間的活動の全分野が理解出来るようになります。一つ一つが霊の光で啓蒙されていきます。所詮、無知のままでいるより知識をもって生きる方がいいに決まっています」

 続いて二人の読者からの質問が読み上げられた。
 一つは「〝神は宇宙の全生命に宿り、その一つを欠いても神の存在はありません〟と仰っている箇所がありますが、もしそうだとすると神に祈る必要はないことになりませんか」というものだった。これに大してシルバーバーチはこう答えた。

 「その方が祈りたくないと思われるのなら、別に祈る必要はないのです。私は無理にも祈れとは誰にも申しておりません。祈る気になれないものを無理して祈っても、それは意味のない言葉の羅列に過ぎないものを機械的に反復するだけですから、寧ろ祈らない方がいいのです。祈りには目的があります。魂の開発を促進するという霊的な目的です。但し、だからといって祈りが人間的努力の代用、もしくは俗世からの逃避の手段となるかに解釈してもらっては困ります。
 祈りは魂の憧憬を高め、決意をより強固にする為の刺激-これから訪れる様々な闘いに打ち克つ為に守りを固める手段です。何に向かって祈るか、いかに祈るかは、本人の魂の成長度と全生命の背後の力についての理解の仕方に関わってくる問題です。
 言い換えれば、祈りとは神性の一欠片である自分がその始源との一層緊密な繋がりを求める為の手段です。その全生命の背後の力との関係に目覚めた時、その時こそ真の自我を見出したことになります」

 もう一つの質問は女性からのもので、「イエスは〝汝が祈り求めるものは既に授かりたるも同然と信ぜよ。しからば汝に与えられん〟と言っていますが、これは愛する者への祈りには当てはまらないように思いますが、いかがでしょうか」というものだった。これに対してシルバーバーチは答えた。
 「この方も、ご自分の理性にそぐわないことはなさらないことです。祈りたい気持があれば祈ればよろしい。祈る気になれないのでしたら無理して祈ることはありません。イエスが述べたとされている言葉が真実だと思われれば、その言葉に従われることです。真実とは思えなかったら打っちゃればよろしい。神からの大切な贈りものであるご自分の理性を使って日常生活における考え、言葉、行為を規制し、ご自分が気に食わないもの、ご自分の知性が侮辱されるように思えるものを宗教観、哲学観から取り除いていけばよいのです。私にはそれ以上のことは申し上げられません」

-〝求めよ、さらば与えられん〟という言葉も真実ではなさそうですね。

 「その〝与えられるもの〟が何であるかが問題です。祈ったら何でもその通りになるとしたら、世の中は混乱します。最高の回答が何もせずにいることである場合だってあるのです」

-今の二つの格言はそれぞれに矛盾しているようで真実も含まれているということですね。

 「私はいかなる書物の言葉にも興味はありません。私はこう申し上げたことがある筈です-我々が忠誠を捧げるのは教義でもなく、書物でもなく、教会でもない。宇宙の大霊すなわち神と、その永遠不変の摂理である、と」

 シルバーバーチの祈り

 ああ神よ。私達はあなたの尊厳、あなたの神性、無限なる宇宙に隈なく行き渡るあなたの絶対的摂理を説き明かさんと欲し、もどかしくも、それに相応しき言葉を求めております。
 私達は、心を恐怖によって満たされ精神を不安によって曇らされている善男善女が何とかあなたへ顔を向け、あなたを見出し、万事が佳(よ)きに計らわれていること、あなたの御心のままにて全てが佳しとの確信を得てくれることを期待して、霊力の豊かな宝の幾つかを明かさんとしているところでございます。
 その目的の一環として私共は、これまで永きに亘ってあなたの子等にあなたの有るがままの姿-完璧に機能している摂理、しくじることも弱まることもない摂理、過ちを犯すことのない摂理としてのあなたを拝することを妨げてきた虚偽と誤謬と無知と誤解の全てを取り払わんとしております。
 私達は宇宙には生物と無生物とを問わず全ての存在に対して、又全ての事態に対して備えが出来ているものと観ております。あなた方から隠しおおせるものは何一つございません。神秘も謎もございません。あなたは全てを知ろしめし、全てがあなたの摂理の支配下にございます。
 それ故に私共は、その摂理-これまで無窮の過去より存在し、これより未来永劫に存在し続ける摂理を指向するのでございます。子等が生活をその摂理に調和させ、全ての暗黒、全ての邪悪、全ての混沌と悲劇とが消滅し、代わって光明が永遠に輝きわたることでございましょう。
 更に又、愛に死はないこと、生命は永遠であること、墓場は愛の絆にて結ばれし者を分け隔てることは出来ぬこと、霊力がその本来の威力を発揮した時は、いかなる障害も乗り切り、あらゆる障壁を突き破って、愛が再び結ばれるものであることを証明してみせることも私共の仕事でございます。
 私達は、人間が進化を遂げ、果たすべく運命付けられている己の役割に耐えうる素質を身に付けた暁に活用されることを待っているその霊力の豊かさ、無尽蔵の本性をもつ無限なる霊の存在を明かさんと欲している
ものでございます。
 ここに、己を役立てることをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げ奉ります。