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カテゴリ:★『シルバーバーチの霊訓』 > シルバーバーチ 青年牧師との論争

シルバーバーチ 青年牧師との論争 目次

青年牧師との論争1

青年牧師との論争2

青年牧師との論争3

 ある時メソジスト教派(注)の年次総会が二週間に亘ってウェストミンスターのセントラルホールで開かれ、活発な報告や討論がなされた。が、その合間での牧師達の会話の中でスピリチュアリズムのことがしきりに囁かれた。(注-メソジストというのはジョン・ウェスレーという牧師が主唱し弟のチャールズと共に1795年に国教会から独立して一派を創立したキリスト教の一派で、ニューメソッド、つまり新しい方式を提唱していることからその名があるが、基本的理念においては国教会と大同小異とみてよい-訳者)
 そのことで関心を抱いた一人の青年牧師がハンネン・スワッハーを訪ね、一度交霊会というものに出席させてもらえないかと頼んだ。予備知識としてはコナン・ドイルの The New Revelation (新しい啓示)という本を読んだだけという。が、スワッハーは快く招待することにし、
 「明日の晩の交霊会にご出席ください。その会にはシルバーバーチと名乗る霊が入神した霊媒の口を借りて喋ります。その霊と存分に議論なさるがよろしい。納得のいかない所は反論し、分からない所は遠慮なく質問なさることです。その代わり、後でよそへ行って、十分な議論がさせてもらえなかったといった不平を言わないで頂きたい。質問したいことは何でも質問なさって結構です。その会の記録はいずれ活字になって出版されるでしょうが、お名前は出さないことにしましょう。そうすればケンカになる気遣いもいらないでしょう。もっともあなたの方からケンカを売られれば別ですが」
という案内の言葉を述べた。
 さて交霊会が始まると、まずシルバーバーチがいつものように神への祈りの言葉を述べ、やおらその青年牧師に語りかけた。

 「この霊媒にはあなた方の仰る〝聖霊〟の力が漲っております。それがこうして言葉を喋らせるのです。私はあなた方のいう〝復活せる霊〟の一人です」(訳者注-聖霊というのはキリスト教の大根幹である三位一体説すなわち父なる神キリスト、子なる神イエス、そして聖霊が一体であるという説の第三位にあるが、スピリチュアリズム的に見ればその三者を結び付ける根拠はない。キリスト教とスピリチュアリズムの違いは実にそこから発している。シルバーバーチもその点を指摘しようとしている)

牧師「死後の世界とはどういう世界ですか」

 「あなた方の世界と実によく似ております。但し、こちらは結果の世界であり、そちらは原因の世界です」(訳者注-スピリチュアリズムでは霊界が原因の世界で地上は結果の世界であると言っているが、それは宇宙の創造過程から述べた場合のことで、ここではシルバーバーチは因果律の観点から述べ、地上で蒔いた種を霊界で刈り取るという意味で述べている)

牧師「死んだ時は恐怖感はありませんでしたか」

 「ありません。私達インディアンは霊覚が発達しており、死が恐ろしいものでないことを死っておりましたから。あなたが属しておられる宗派の創立者ウェスレーも同じです。あの方も霊の力に動かされておりました。そのことはご存知ですね?」

牧師「仰る通りです」

 「ところが現在の聖職者達は〝霊の力〟に動かされておりません。宇宙は究極的には神と繋がった一大連動装置によって動かされており、一番低い地上の世界も、あなた方の仰る天使の世界と繋がっております。どんなに悪い人間も駄目な人間も、あなた方のいう神、私のいう大霊と結ばれているのです」

牧師「死後の世界でも互いに認識し合えるのでしょうか」

 「地上ではどうやって認識し合いますか」

牧師「目です。目で見ます」

 「目玉さえあれば見えますか。結局は霊で見ていることになるでしょう」

牧師「その通りです。私の精神で見ています。それは霊の一部だと思います」

 「私も霊の力で見ています。私にはあなたの霊が見えるし肉体も見えます。しかし肉体は影に過ぎません。光源は霊です」

牧師「地上での最大の罪は何でしょうか」

 「罪にも色々あります。が、最大の罪は神への反逆でしょう」
 ここでメンバーの一人が「その点を具体的に述べてあげてください」と言うと、
 「神の存在を知りつつも尚それを無視した生き方をしている人々、そういう人々が犯す罪が一番大きいでしょう」
 別のメンバーが「キリスト教ではそれを〝聖霊の罪〟と呼んでおります」と言うと、
 「あの本(聖書)ではそう呼んでいますが、要するに霊に対する罪です」

牧師「〝改訳聖書〟をどう思われますか。〝欽定訳聖書〟と比べてどちらがいいと思われますか」

 「文字はどうでもよろしい。いいですか、大切なのはあなたの行いです。神の真理は聖書だけでなく他の色んな本に書かれています。それから、人の為に尽くそうとする人々の心には、どんな地位の人であろうと、誰であろうと、どこの国の人であろうと、立派に神が宿っているのです。それこそが一番立派な聖書です」

牧師「改心しないまま死んだ人はどうなりますか」

 「〝改心〟とはどういう意味ですか。もっと分かり易い言葉でお願いします」

牧師「例えば、ある人間は生涯を良くないことばかりしてそのまま他界し、ある人は死ぬ前に反省します。両者には死後の世界でどんな違いがありますか」

 「あなた方の本(聖書)から引用しましょう。〝蒔いた種は自分で刈り取る〟のです。これだけは変えることが出来ません。今のあなたのそのままを携えてこちらへ参ります。自分はこうだと信じているもの、人からこう見てもらいたいと願っていたものではなく、内部のあなた、真実のあなただけがこちらへ参ります。あなたもこちらへお出でになれば分かります」
 そう言ってからシルバーバーチはスワッハーの方を向いて、この人には霊能があるようだと述べ、「なぜ招待したのですか」と尋ねると、スワッハーは「いや、この人の方から訪ねて来たものですから」と答えた。するとシルバーバーチは再びその牧師に向かって、
 「インディアンが聖書のことをよく知っていて驚いたでしょう」と言うと牧師が「よくご存知のようです」と答えた。すると別のメンバーが「三千年前に地上を去った方ですよ」と口添えした。牧師は直ぐに年代を計算して「ダビデをご存知でしたか」と尋ねた。ダビデは紀元前1000年頃のイスラエルの王である。

 「私は白人ではありません。レッドインディアンです。米国北西部の山脈の中で暮らしていました。あなた方の仰る野蛮人というわけです。しかし私はこれまで、西洋人の世界に三千年前の我々インディアンより遙かに多くの野蛮的行為と残忍さと無知とを見てきております。今尚物質的豊かさにおいて自分達より劣る民族に対して行う残虐行為は、神に対する最大級の罪の一つと言えます」

牧師「そちらへ行った人はどんな風に感じるのでしょう。やはり後悔の念というものを強く感じるのでしょうか」

 「一番残念に思うことは、やるべきことをやらずに終わったことです。あなたもこちらへお出でになれば分かります。きちんと為し遂げたこと、やるべきだったのにやらなかったこと、そうしたことが逐一分かります。逃がしてしまった好機が幾つもあったことを知って後悔するわけです」

牧師「キリストへの信仰をどう思われますか。神はそれを嘉納されるでしょうか。キリストへの信仰はキリストの行いに倣うことになると思うのですが」

 「主よ、主よ、と何かというと主を口にすることが信仰ではありません。大切なのは主の心に叶った行いです。それが全てです。口にする言葉や心に信じることではありません。頭で考えることでもありません。実際の行為です。何一つ信仰というものを持っていなくても、落ち込んでいる人の心を元気付け、飢える人にパンを与え、暗闇にいる人の心に光を灯してあげる行為をすれば、その人こそ神の心に叶った人です」
 ここで列席者の一人がイエスは神の分霊なのかと問うと-
 「イエスは地上に降りた偉大なる霊覚者だったということです。当時の民衆はイエスを理解せず、遂に十字架にかけました。いや、今尚十字架にかけ続けております。イエスだけでなく、全ての人間に神の分霊が宿っております。ただその分量が多いか少ないかの違いがあるだけです」

牧師「キリストが地上最高の人物であったことは全世界が認めるところです。それ程の人物が嘘を付く筈がありません。キリストは言いました-〝私と父とは一つである。私を見た者は父を見たのである〟と。これはキリストが即ち神であることを述べたのではないでしょうか」

 「もう一度聖書を読み返してごらんなさい。〝父は私よりも偉大である〟とも言っておりませんか」

牧師「言っております」

 「又〝天に在(ま)します我等が父に祈れ〟とも言っております。〝私に祈れ〟とは言っておりません。父に祈れと言ったキリスト自身が〝天に在します我等が父〟であるわけがないでしょう。〝私に祈れ〟とは言っておりません。〝父に祈れ〟と言ったのです」

牧師「キリストは〝あなた達の神〟と〝私の神〟という言い方をしております。〝私達の神〟とは決して言っておりません。ご自身を他の人間と同列に置いていません」

 「〝あなた達の神と私〟とは言っておりません。〝あなた達は私より大きい仕事をするでしょう〟とも言っております。あなた方キリスト者にお願いしたいのは、聖書を読まれる際に何もかも神学的教義に合わせるような解釈をなさらぬことです。霊的実相に照らして解釈しなくてはなりません。存在の実相が霊であるということが宇宙の全ての謎を解く鍵なのです。イエスが譬え話を多用したのはその為です」

牧師「神は地球人類を愛するが故に唯一の息子を授けられたのです」と述べて、イエスが神の子であるとのキリスト教の教義を弁護しようとする。

 「イエスはそんなことは言っておりません。イエスの死後何年も経ってから例のニケーア会議でそんなことが聖書に書き加えられたのです」

牧師「ニケーア会議?」

 「西暦325年に開かれております」

牧師「でも私が今引用した言葉はそれ以前からあるヨハネ福音書に出ていました」

 「どうしてそれが分かります?」

牧師「いや、歴史にそう書いてあります」

 「どの歴史ですか」

牧師「どれだかは知りません」

 「ご存知の筈がありません。一体聖書に書かれる、その元になった書物はどこにあるとお考えですか」

牧師「ヨハネ福音書はそれ自体が原典です」

 「いいえ、それよりもっと前の話です」

牧師「聖書は西暦90年に完成しました」

 「その原典になったものは今どこにあると思いますか」

牧師「色んな文書があります。例えば・・・・」と言って一つだけ挙げた。

 「それは原典の写しです。原典はどこにありますか」
 牧師がこれに答え切れずにいると-

 「聖書の原典はご存知のあのバチカン宮殿に仕舞い込まれて以来一度も外に出されたことがないのです。あなた方がバイブルと呼んでいるものは、その原典の写しの写しの、その又写しなのです。おまけに原典にないものまで色々と書き加えられております。初期のキリスト教徒はイエスが遠からず再臨するものと信じて、イエスの地上生活のことは細かく記録しなかったのです。ところが、いつになっても再臨しないので、遂に諦めて記憶を辿りながら書きました。イエス曰く-と書いてあっても、実際にそう言ったかどうかは書いた本人も確かでなかったのです」

牧師「でも、四つの福音書にはその基本となった所謂Q資料(イエス語録)の証拠が見られることは事実ではないでしょうか。中心的な事象はその四つの福音書に出ていると思うのですが・・・・」

 「私は別にそうしたことが全然起きなかったと言っているのではありません。ただ、聖書に書いてあることの一言一句までイエスが本当に言ったとは限らないと言っているのです。聖書に出て来る事象には、イエスが生まれる前から存在した書物からの引用が随分入っていることを忘れてはいけません」

牧師「記録に残っていない口伝のイエスの教えが書物にされようとしていますが、どう思われますか」

 「イエスの関心は自分がどんなことを述べたかといったことではありません。地上の全ての人間が神の摂理を実行してくれることです。人間は教説のことで騒ぎ立て、行いの方を疎かにしています。〝福音書〟なるものを講義する場に集まるのは真理に飢えた人達ばかりです。イエスが何と言ったかはどうでもよいことです。大切なのは自分自身の人生で何を実践するかです。
 地上世界は教説では救えません。いくら長い説教をしても、それだけでは救えません。神の子が神の御心を鎧として暗黒と弾圧の勢力、魂を束縛するもの全てに立ち向かうことによって初めて救われるのです。その方が記録に残っていないイエスの言葉より大切です」

牧師「この世になぜ多くの苦しみがあるのでしょうか」

 「神の摂理を悟るには苦を体験するしかないからです。苦しい体験の試練を経て初めて人間世界を支配している摂理が理解出来るのです」

牧師「苦しみを知らずにいる人が大勢いるようですが・・・・」

 「あなたは神に仕える身です。大切なのは〝霊〟に関わることであり〝肉体〟に関わることでないこと位は理解出来なくてはいけません。霊の苦しみの方が肉体の苦しみより大きいものです」

 メンバーの一人が「現行制度は不公平であるように思います」と言うと、
 「地上での出来事はいつの日か必ず埋め合わせがあります。いつかはご自分の天秤を手にされてバランスを調節する日がまいります。自分で蒔いたものを刈り取るという自然法則から免れることは出来ません。罪が軽くて済んでる者がいるようにお考えのようですが、そういうことはありません。あなたには魂の豊かさを見抜く力がないからそう思えるのです。
 私がいつも念頭に置いているのは神の法則だけです。人間の法律は念頭に置いていません。人間の拵えた法律は改めなければならなくなります。変えなければならなくなります。が、神の法則はけっしてその必要がありません。地上に苦難がなければ人間は正しく行くべきものへ注意を向けることが出来ません。痛みや苦しみや邪悪が存在するのは、神の分霊であるところのあなた方人間がそれを克服していく方法を学ぶ為です。
 もしもあなたがそれを怠っているとしたら、あなたをこの世に遣わした神の意図を実践していないことになります。宇宙の始まりから終わりまでを法則によって支配し続けている神を、一体あなたは何の資格をもって裁かれるのでしょう」

牧師「霊の世界ではどんなことをなさっているのですか」

 「あなたはこの世でどんなことをなさっておられますか」

牧師「それは、その、あれこれや読んだり・・・・、それに説教もよくします」

 「私もよく本を読みます。それに、今こうして大変な説教をしております」

牧師「私は英国中を回らなくてはなりません」

 「私の方は霊の世界中を回らなくてはなりません。それに私は、天命を全うせずにこちらへ送り込まれて来た人間がうろついている暗黒界へも下りて行かねばなりません。それには随分手間がかかります。あなたに自覚して頂きたいのは、あなた方はとても大切な立場にいらっしゃるということです。神に仕える身であることを自認しながら、その本来の責務を果してしない方がいらっしゃいます。ただ壇上に上がって意味もない話を喋りまくっているだけです。
 しかし、あなたが自らを神の手に委ね、神の貯蔵庫からインスピレーションを頂戴すべき魂の扉を開かれれば、古の預言者達を鼓舞したのと同じ霊力によってあなたの魂が満たされるのです。そうなることによって、あなたの働かれる地上の片隅に、人生に疲れ果てた人々の心を明るく照らす光をもたらすことが出来るのです」

牧師「そうあってくれれば嬉しく思います」

 「いえ、そうあってくれればではなくて、真実そうなのです。私はこちらの世界で後悔している牧師に沢山会っております。皆さん地上での人生を振り返って自分が本当の霊のメッセージを説かなかったこと、聖書や用語や教説にばかり拘って実践を疎かにしたことを自覚するのです。そうして、出来ればもう一度地上へ戻りたいと望みます。そこで私はあなたのような(目覚めかけている)牧師に働きかけて、新しい時代の真理を地上にもたらす方法をお教えするのです。
 あなたは今まさに崩壊の一途を辿っている世界にいらっしゃることを理解しなくてはいけません。新しい秩序の誕生-真の意味の天国が到来する時代の幕開けを見ていらっしゃるのです。生みの痛みと苦しみと涙が少なからず伴うことでしょう。しかし最後は神の摂理が支配します。あなた方一人ひとりがその新しい世界を招来する手助けが出来るのです。なぜなら、人間の全てが神の分霊であり、その意味で神の仕事の一翼を担うことが出来るのです」

 その牧師にとっての一回目の交霊会も終わりに近付き、いよいよシルバーバーチが霊媒から去るに当たって最後にこう述べた。
 「この後もあなたが説教をなさる教会へ一緒に参ります。あなたが本当に良い説教をなさった時、これが霊の力だと自覚なさるでしょう」

牧師「これまでも大いなる霊力を授かるよう祈ってまいりました」

 「祈りはきっと叶えられるでしょう」

 以上で第一回の論争が終わり、続いて第二回の論争の機会がもたれた。引き続いてそれを紹介する。

牧師「地上の人間にとって完璧な生活を送ることは可能でしょうか。全ての人間を愛することは可能なのでしょうか」
 これが二回目の論争の最初の質問だった。

 「それは不可能なことです。が、そう努力することは出来ます。努力することそのことが性格の形成に役立つのです。怒ることもなく、辛く当たることもなく、腹を立てることもないようでは、最早人間ではないことになります。人間は霊的に成長することを目的としてこの世に生まれて来るのです。成長又成長と、いつまで経っても成長の連続です。それはこちらへ来てからも同じです」

牧師「イエスは〝天の父の完全である如く汝等も完全であれ〟と言っておりますが、これはどう解釈すべきでしょうか」

 「ですから、完全であるように努力しなさいと言っているのです。それが地上生活で目指すべき最高の理想なのです。すなわち、内部に宿る神性を開発することです」

牧師「私がさっき引用した言葉はマタイ伝第五章の終わりに出ているのですが、普遍的な愛について述べた後でそう言っております。又〝ある者は隣人を愛し、ある者は友人を愛するが、汝等は完全であれ。神の子なればなり〟とも言っております。神は全人類を愛してくださる。だから我々も全ての人間を愛すべきであるということなのですが、イエスが人間に実行不可能なことを命じるとお思いですか」

 この質問にシルバーバーチは呆れたような、或いは感心したような口調でこう述べる。

 「あなたは全世界の人間をイエスのような人物になさろうとするんですね。お聞きしますが、イエス自身、完全な生活を送ったと思いますか」

牧師「そう思います。完全な生活を送られたと思います」

 「一度も腹を立てたことがなかったとお考えですか」

牧師「当時行なわれていたことを不快に思われたことはあると思います」

 「腹を立てたことは一度もないとお考えですか」

牧師「腹を立てることはいけないことであると言われている、それと同じ意味で腹を立てられたことはないと思います」

 「そんなことを聞いているのではありません。イエスは絶対に腹を立てなかったかと聞いているのです。イエスが腹を立てたことを正当化出来るかどうかを聞いているのではありません。正当化することなら、あなた方は何でも正当化なさるんですから・・・・」
 ここでメンバーの一人が割って入って、イエスが両替商人を教会堂から追い出した時の話を持ち出した。
 「私が言いたかったのはそのことです。あの時のイエスは教会堂という神聖な場所を汚す者共に腹を立てたのです。鞭をもって追い払ったのです。それは怒りそのものでした。それが良いとか悪いとかは別の問題です。イエスは怒ったのです。怒るということは人間的感情です。私が言いたいのは、イエスも人間的感情を具えていたということです。イエスを人間の模範として仰ぐ時、イエスも又一個の人間であった-ただ普通の人間より神の心をより多く体現した人だった、というふうに考えることが大切です。分かりましたか」

牧師「分かりました」

 「私はあなたの為を思えばこそこんなことを申し上げるのです。誰の手も届かない所に祭り上げたらイエス様が喜ばれると思うのは大間違いです。イエスもやはり我々と同じ人の子だったと見る方がよほど喜ばれる筈です。自分だけ超然とした位置に留まることはイエスは喜ばれません。人類と共に喜び、共に苦しむことを望まれます。一つの生き方の手本を示しておられるのです。イエスが行ったことは誰にでも出来ることばかりなのです。誰も付いて行けないような人物だったら、折角地上へ降りたことが無駄だったことになります」

 話題が変わって-

牧師「人間にも自由意志があるのでしょうか」

 「あります。自由意志も神の摂理の一環です」

牧師「時として人間は抑えようのない衝動によってある種の行為に出ることがあるとは思われませんか。そう強いられているのでしょうか。それともやはり自由意志で行っているのでしょうか」

 「あなたはどう思われますか」

牧師「私は人間はあくまで自由意志をもった行為者だと考えます」

 「人間には例外なく自由意志が与えられております。但しそれは神の定めた摂理の範囲内で行使しなければなりません。これは神の愛から生まれた法則で、神の子の全てに平等に定められており、それを変えることは誰にも出来ません。その規制の範囲内において自由であるということです」

牧師「もし自由だとすると罪は恐ろしいものになります。悪いと知りつつ犯すことになりますから、強制的にやらされる場合より恐ろしいことに思えます」

 「私に言えることは、いかなる過ちも必ず本人が正さなくてはならないということ、それだけです。地上で正さなかったら、こちらへ来て正さなくてはなりません」

牧師「感心出来ないことをしがちな強い性癖を先天的にもっている人がいるとは思われませんか。善いことをし易い人とそうでない人がいます」

 「難しい問題です。と申しますのは、各自に自由意志があるからです。誰しも善くないことをすると、内心では善くないことであることに気付いているものです。その道義心をあくまでも無視するか否かは、それまでに身に付けた性格によって違って来ることです。罪というものはそれが結果に及ぼす影響の度合に応じて重くもなり軽くもなります」

 これを聞いてすかさず反論した。
牧師「それは罪が精神的なものであるという事実と矛盾しませんか。単に結果との関連においてのみ軽重が問われるとしたら、心の中の罪は問われないことになります」

 「罪は罪です。身体が犯す罪、心で犯す罪、霊的に犯す罪、どれも罪は罪です。あなたはさっき衝動的に罪を犯すことがあるかと問われましたが、その衝動はどこから来ると思いますか」

牧師「思念です」

 「思念はどこから来ますか」

牧師(少し躊躇してから)「善なる思念は神から来ます」

 「では悪の思念はどこから来ますか」

牧師「分かりません」(と答えているが実際は〝悪魔から〟と答えたいところであろう。シルバーバーチはそれを念頭に置いて語気強くキリスト教の最大の矛盾をつく-訳者)

 「神は全てに宿っております。間違ったことの中にも正しいことにも宿っています。日光の中にも嵐の中にも、美しいものの中にも醜いものの中にも宿っています。空にも海にも雷鳴にも稲妻にも神は宿っているのです。美なるもの善なるものだけではありません。罪の中にも悪の中にも宿っているのです。お分かりになりますか。神とは〝これとこれだけに存在します〟というふうに一定の範囲内に限定出来るものではないのです。全宇宙が神の創造物であり、その隅々まで神の霊が浸透しているのです。あるものを切り取って、これは神のものではない、などとは言えないのです。日光は神の恵みで、作物を台無しにする嵐は悪魔の仕業だなどとは言えないのです。神は全てに宿ります。あなたという存在は思念を受けたり出したりする一個の器官です。が、どんな思念を受け、どんな思念を発するかは、あなたの性格と霊格によって違って来ます。もしもあなたが、あなたの仰る〝完全な生活〟を送れば、あなたの思念も完全なものばかりでしょう。が、あなたも人の子である以上、あらゆる煩悩をお持ちです。私の言っていることがお分かりですか」

牧師「仰る通りだと思います。では、そういう煩悩ばかりを抱いている人間が死に際になって自分に非を悟り〝信ぜよ、さらば救われん〟の一句で心に安らぎを覚えるという場合があるのをどう思われますか。キリスト教の〝回心の教義〟をどう思われますか」

 「よくご存知の筈の文句をあなた方の本から引用しましょう。〝たとえ全世界を得ようと己の魂を失わば何の益があらん〟(マルコ8・36)〝まず神の国とその義を求めよ。しからばこれらのもの全て汝等のものとならん〟(マタイ6・33)この文句はあなた方はよくご存知ですが、果して理解していらっしゃるでしょうか。それが真実であること、本当にそうなること、それが神の摂理であることを悟っていらっしゃいますか。〝神を侮るべからず。己の蒔きしものは己が刈り取るべし〟(ガラテア6・7)これもよくご存知でしょう。
 神の摂理は絶対に誤魔化されません。傍若無人の人生を送った人間が死に際の改心で一変に立派な霊になれるとお思いですか。魂の奥深くまで染み込んだ汚れが、それ位のことで一度に洗い落とせると思われますか。無欲と滅私の奉仕的生活を送って来た人間と、我侭で心の修養を一切疎かにして来た人間とを同列に並べて論じられるとお考えですか。〝すみませんでした〟の一言で全てが赦されるとしたら、果して神は公正であると言えるでしょうか。いかがですか」

牧師「私は神はイエス・キリストに一つの心の避難所を設けられたのだと思うのです。イエスはこう言われ・・・・」

 「お待ちなさい。私はあなたの率直な意見をお聞きしているのです。率直にお答え頂きたい。本に書いある言葉を引用しないで頂きたい。イエスが何と言ったか私には分かっております。私は、あなた自身はどう思うかと聞いているのです」

牧師「確かにそれでは公正とは言えないと思います。しかしそこにこそ神の偉大なる愛の入る余地があると思うのです」

 「この通りを行かれると人間の法律を運営している建物があります。もしその法律によって生涯を善行に励んで来た人間と罪ばかりを犯して来た人間とを平等に扱ったら、あなたはその法律を公正と思われますか」

牧師「私は、生涯を真直ぐな道を歩み、誰をも愛し、正直に生き、死ぬまでキリストを信じた人が・・・私は-」
ここでシルバーバーチが遮って言う。
 「自分が種を蒔き、蒔いたものは自分で刈り取る。この法則から逃れることは出来ません。神の法則を誤魔化すことは出来ないのです」

牧師「では悪の限りを尽くした人間が今死に掛かっているとしたら、その償いをすべきであることを私はどうその人間に説いてやればいいのでしょうか」

 「シルバーバーチがこう言っていたとその人に伝えてください。もしもその人が真の人間、つまり幾ばくかでも神の心を宿していると自分で思うのなら、それまでの過ちを正したいという気持になれる筈です。自分の犯した過ちの報いから逃れたいという気持がどこかにあるとしたら、その人は最早人間ではない、ただの臆病者だと、そう伝えてください」

牧師「しかし、罪を告白するということは誰にでもは出来ない勇気ある行為だとは言えないでしょうか」

 「それは正しい方向への第一歩でしかありません。告白したことで罪が拭われるものではありません。その人は善いことをする自由も悪いことをする自由もあったのを、敢えて悪い方を選んだ。自分で選んだのです。ならばその結果に対して責任を取らなくてはいけません。元に戻す努力をしなくてはいけません。紋切り型の言葉を述べて心が安まったとしても、それは自分を誤魔化しているに過ぎません。蒔いた種は自分で刈り取らねばならないのです。それが神の摂理です」

牧師「しかしイエスは言われました。〝労する者、重荷を背負える者、全て我に来たれ。汝等に安らぎを与えん〟(マタイ11・28)

 「〝文は殺し霊は生かす〟(コリント後3・6)というのをご存知でしょう。あなた方(聖職者)が聖書の言葉を引用して、これは文字通りに実行しなければならないのだと言ってみても無駄です。今日あなた方が実行していないことが聖書の中に幾らでもあるからです。私の言ってることがお分かりでしょう」

牧師「イエスは〝善き羊飼いは羊の為に命を捨つるものなり〟(ヨハネ10・11)と言いました。私は常に〝赦し〟の教を説いています。キリストの赦しを受け入れ、キリストの心が自分を支配していることを暗黙の内に認める者は、それだけでその人生が大きな愛の施しとなるという意味です」

 「神は人間に理性という神性の一部を植え付けられました。あなた方も是非その理性を使用して頂きたい。大きな過ちを犯し、それを神妙に告白する-それは心の安らぎにはなるかもしれませんが、罪を犯したという事実そのものはいささかも変わりません。神の理法に照らしてその歪みを正すまでは、罪は相変わらず罪として残っております。いいですか、それが神の摂理なのです。イエスが言ったと仰る言葉を聖書から引用しても、その摂理は絶対に変えることは出来ないのです。
 前にも言ったことですが、聖書に書かれている言葉を全部イエスが実際に言ったとは限らないのです。その内の多くは後の人が書き加えたものなのです。イエスがこう仰ったとあなた方が言う時、それは〝そう言ったと思う〟という程度のものでしかありません。そんないい加減なことをするよりも、あの二千年前のイエスを導いてあれ程の偉大な人物にしたのと同じ霊、同じインスピレーション、同じエネルギーが、二千年後の今の世にも働いていることを知って欲しいのです。
 あなた自身も神の一部なのです。その神の温かき愛、深遠なる叡智、無限なる知識、崇高なる真理がいつもあなたを待ち受けている。なにも、神を求めて二千年前まで遡ることはないのです。今ここに在しますのです。二千年前と全く同じ神が今ここに在しますのです。その神の真理とエネルギーの通路となるべき人物(霊媒・霊能者)は今もけっして多くはありません。しかし何故にあなた方キリスト者は二千年前のたった一人の霊能者にばかり縋ろうとなさるのです。なぜそんな昔のインスピレーションだけを大切になさるのです。なぜイエス一人の言ったことに戻ろうとなさるのです」

牧師「私は私の心の中にキリストがいて業をなしていると説いています。インスピレーションを得ることは可能だと思います」

 「何故にあなた方は全智全能の神を一個の人間と一冊の書物に閉じ込めようとなさるのです。宇宙の大霊が一個の人間或いは一冊の書物で全部表現出来るとでもお考えですか。私はクリスチャンではありません。イエスよりずっと前に地上に生を享けました。すると神は私には神の恩恵に浴することを許してくださらなかったということですか。
 神の全てが一冊の書物の中の僅かなページで表現出来るとお思いですか。その一冊が書き終えられた時を最後に神は、それ以上のインスピレーションを子等に授けることをストップされたとお考えですか。聖書の最後の一ページを読み終わった時、神の真理の全てを読み終えたことになるというのでしょうか」

牧師「そうであって欲しくないと思ってます。時折何かに鼓舞されるのを感じることがあります」

 「あなたもいつの日か天に在します父の下に帰り、今あなたが築きつつある真実のあなたに相応しい住処に住まわれます。神に仕える者としてのあなたに分かって頂きたいことは、神を一つの枠の中に閉じ込めることは出来ないということです。神は全ての存在に宿るのです。悪徳の塊のような人間も、神か仏かと仰がれるような人と同じように神と繋がっているのです。あなた方一人ひとりに神が宿っているのです。あなたがその神の心を我が心とし、心を大きく開いて信者に接すれば、その心を通じて神の力と安らぎとが、あなたの教会を訪れる人々の心に伝わることでしょう」

牧師「今日まで残っている唯一のカレンダーがキリスト暦(西暦)であるという事実をどう思われますか」

 「誰がそんなことを言ったのでしょうか。ユダヤ人は独自のカレンダーを使用していることをお聞きになったことはないでしょうか。多くの国が今尚その国の宗教の発生と共に出来たカレンダーを使用しております。私はけっしてイエスを過小評価するつもりはありません。私は現在のイエスがなさっておられる仕事を知っておりますし、ご自身は神として崇められることを望んでいらっしゃらないこともよく知っております。イエスの生涯の価値は人間が模範とすべきその生き方にあります。イエスという一個の人間を崇拝することを止めない限り、キリスト教はインスピレーションにはあまり恵まれないでしょう」

牧師「キリストの誕生日を西洋暦の始まりと決めたのがいつのことだかよく分かっていないのです。ご存知でしょうか」

 「(そんなことよりも)私の話を聞いてください。数日前のことですが、このサークルのメンバーの一人が(イングランドの)本部の町へ行き、大勢の神の子と共に過ごしました。高い地位の人達ではありません。肉体労働で暮らしている人達で、仕事が与えられると-大抵道路を掘り起こす仕事ですが-一生懸命働き、終わると僅かばかりの賃金を貰っている人達です。その人達が住んでいるのは所謂貧民収容施設です。これはキリスト教文明の恥辱ともいうべき産物です。
 ところが同じ町にあなた方が〝神の館〟と呼ぶ大聖堂があります。高く聳(そび)えていますから太陽が照ると周りの家はその蔭になります。そんなものが無かった時よりも暗くなっています。これでよいと思われますか」

牧師「私はそのダーラムにいたことがあります」

 「知っております。だからこの話を出したのです」

牧師「あのような施設で暮らさねばならない人達のことを気の毒に思います」

 「あのようなことでイエスがお喜びになると思われますか。一方にはあのような施設、あのような労働を強いられる人々、僅かな賃金しか貰えない人々が存在し、他方にはお金のことには無頓着でいられる人が存在していて、それでもイエスはカレンダーのことなどに関わっていられると思われますか。
 あのような生活を余儀なくさせられている人が大勢いるというのに、大聖堂の為の資金のことやカレンダーのことや聖書のことなどにイエスが関わられると思いますか。イエスの名を使用し続け、キリスト教国と名乗るこの国にそんな恥ずべき事態の発生を許しているキリスト教というものを、一体あなた方は何と心得ていらっしゃるのですか。
 あなたは教典のことで(改訳聖書と欽定訳聖書とどっちがいいかと)質問されましたが、宗教にはそんなことよりもっと大切な、そしてもっと大きな仕事がある筈です。神はその恩寵を全ての子に分け与えたいと望んでおられることが分かりませんか。飢え求めている人がいる生活物質を、世界のどこかでは捨て放題の暮らしをしている人達がいます。他ならぬキリスト者が同じことをしていて、果してキリスト教を語る資格があるでしょうか。
 私はあなたが想像なさる以上にイエスと親密な関係にあります。私は主の目に涙を見たことがあります。キリスト者をもって任ずる者が、聖職にある者の多くが、その教会の蔭で進行している恥ずべき事態に目を瞑っているのをご覧になるからです。その日の糧すら事欠く神の子が大勢いるというのに、神の館のつもりで建立した教会を宝石やステンドグラスで飾り、その大きさを誇っているのを見て一体誰が涼しい顔をしていられましょう。
 その人達の多くは一日の糧も満足に買えない程の僅かな賃金を得る為に一日中働き続け、時には夜ふかしまでして、しかも気の毒にその疲れた身体を横たえるまともな場所もない有様なのです。あなたを非難しているのではありません。私はあなたに大きな愛着を覚えております。お役に立つことならどんなことでもしてあげたいと思っております。が、私は霊界の人間です。そしてあなたのように、社会へ足を踏み入れて間違いを改めて行く為の一石を投じてくれるような人物とこうして語るチャンスが非常に少ないのです。
 あなたに理解して頂きたいことは、聖書のテキストのことを云々するよりも、もっと大切なことがあるということです。主よ、主よ、と叫ぶ者が皆敬虔なのではありません。神の意志を実践する者こそ敬虔なのです。それをイエスは二千年前に述べているのです。なのに今日尚あなた方は、それが一番大切であることをなぜ信者に説けないのでしょうか。
 戦争、不正行為、飢餓、貧困、失業、こうした現実に知らぬ振りをしている限りキリスト教は失敗であり、イエスを模範としていないことになります。
 あなたは(メソジスト教の)総会から抜け出て来られました。過去一年間、メソジスト教界の三派が合同して行事を進めてまいりましたが、折角合同しても、そうした神の摂理への汚辱を拭う為に一致協力しない限り、それは無意味です。私は率直に申し上げておきます。誤解を受けては困るからです」

牧師「数年前に私達は派閥を越えて慈善事業を行い、その時の収益金を失業者の為の救済資金として使用しました。大したことは出来ませんが、信者の数の割にはよくやっていると思われませんか」

 「あなたが心掛けの立派な方であることは私も認めております。そうでなかったら二度もあなたと話をしに戻って来るようなことはしません。あなたが役に立つ人材であることを見て取っております。あなたの教会へ足を運ぶ人の数は確かに知れています。しかしイエスは社会の隅々にまで足を運べと言っていないでしょうか。人が来るのを待っているようではいけません。あなたの方から足を運ばなければならないのです。
 教会を光明の中心となし、飢えた魂だけでなく飢えた肉体にも糧を与えてあげないといけません。叡智の言葉だけでなくパンと日常の必需品を与えてあげられるようでないといけません。魂と肉体の両方を養ってあげないといけません。霊を救うと同時に、その霊が働く為の体も救ってあげないといけません。教会がこぞってそのことに努力しなければ、養うものを得られない身体は死んでしまいます」
 そう述べてから最後にその牧師の為に祈りを捧げた。
 「あなたがどこにいても、何をされても、常に神の御力と愛が支えとなるように祈ります。常に人の為を思われるあなたの心が神の霊感を受け入れられることを祈ります。願わくは神があなたにより一層の奉仕への力を吹き込まれ、あなたの仕事の場を光と安らぎと幸せの中心となし、そこへ訪れる人々がそこにこそ神が働いておられることを理解してくれるようになることを祈ります。
 神が常にあなたを祝福し、支え、神の道に勤しませ給わんことを。願わくは神の意図と力と計画について、より一層明確なる悟りを得られんことを。
 では神の祝福を。ご機嫌よう」

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