(シルバーバーチの霊訓第八巻・巻末付録・訳者近藤千雄解説)

 本書の編者トニー・オーツセンという人はまだ四十そこそこの若い、才覚溢れる行動派のジャーナリストである。この人とは私は二度会っている。一度はバーバネルが健在の頃で、その時はまだ取材記者の一人に過ぎなかった。二度目はバーバネル亡き後編集スタッフの一員として、生来の才覚と若さと、それにちょっぴりハンサムなところが買われて、BBCなどにも出演したりしていた。その時はサイキックニューズ社の所在地も現在地に移っていて、一階の書籍コーナーで私がレジの女性に自己紹介してオーツセンに会いたいと言うと、二階の編集室へ電話を入れてくれた。すると間もなく階段を転げ落ちるようなスピードで降りてくる足音がして、あっという間にオーツセンが姿を見せ〝よく来た!〟と言って握手を求め、直ぐに二階へ案内してくれた。こうした行動ぶりから氏の性格を想像して頂きたい。もっともその積極性が時折〝勇み足〟を生むのが玉に傷なのだが・・・・
 彼とは今でも月に何度か手紙のやり取りがあるが、つい最近の手紙で彼が遂に日本でいう専務取締役、兼編集主任となっていることが分かった。彼も遂にかつての親分(バーバネル)の椅子に腰掛けたわけである。その昇進ぶりから彼の才覚の程を察して頂きたい。今後の大成を期待している。
 さて本書の原典の第三章は〝再生〟に関する霊言が集めてあるが、これは日本語シリーズ第四巻の三章〝再生の原理〟とほぼ完全に重複しているのでカットした。ただ次の二つの質問が脱落しているので、ここで紹介してそれを問題提起の糸口としたい。これは第四巻79ページの「双子霊でも片方が先に他界すれば別れ別れになるわけでしょう」という質問に続いて出された質問である。

-同じ進化の段階まで到達した双子霊がなぜ別れ別れに地上に誕生するのでしょうか。霊界で一緒になれた段階で、もうこれでずっと一緒で居続けられる、と思うのではないでしょうか。

 「仰る意味は、霊的に再会しながら肉体的に別れ別れになるということと理解しますが、それとてほんの一時期の話です。アフィニティであれば、魂のやむにやまれぬ衝動が強烈な引力となって霊的に引き合います。親和力の作用で引き寄せられるのです。身体的には二つでも霊的には一つだからです」

-別れ別れに誕生してくるのも双子霊としての向上の為と理解すればよいのですね。

 「別れるということに拘泥しておられるようですが、それは別段大きな問題ではありません。別れていようと一緒でいようと、お互いが一個の魂の半分ずつであれば、肉体上の違いも人生のいかなる出来事も、互いに一体になろうとする基本的なプロセスに影響を与えることはありません。霊的な実在を物的な現象と混同してはいけません。霊に関わる要素が持続されていくのです」

 オーツセンはその第三章を〝再生-霊の側からの見解〟と題しているが、この〝霊の側からの見解〟という副題に私はさすがはオーツセンという感想をもった。というのは、現在地上で扱われている再生説や前世うんぬんの問題は、その殆どが人間的興味の観点から捉えたものばかりで、右のシルバーバーチの言葉通り〝霊的な実在を物的な現象と混同して〟いるからである。そこから大きな誤解が生じているので、本稿ではその点を指摘しておきたい。

 人間には前世は分からない

 第六巻の十章で〝自分の前生を思い出してそれと断定出来るものでしょうか〟という質問に対してシルバーバーチは、それは理論的には出来ますと言えても実際にそれが出来る人は現段階の地上人類にはまずいませんと述べている。ところが現実には洋の東西を問わず〝あなたの前生は○○です〟とか、自ら〝私は××の生まれ変わりです〟と平然と公言する自称霊能者が多く、又それを直ぐに真に受けている信者が実に多いのである。『スピリチュアリズムの真髄』の中で著者のレナードがこう述べている。
 「この輪廻転生に関して意味深長な事実がある。それは、前生を〝思い出す〟人達のその前生というのが、大抵王様とか女王とか皇帝とか皇后であって、召使のような低い身分だったという者が一人もいないことである。中でも一番人気のある前生は女性の場合はクレオパトラで、男性の場合が大抵古代エジプトの王という形をとる」
 こう述べてからD・D・ホームの次の言葉を引用している。
 「私は多くの再生論者に出会う。そして光栄なことに私はこれまで少なくとも十二人のマリー・アントワネット、六人ないし七人のメリー・スコットランド女王、ルイ・ローマ皇帝他、数え切れない程の国王、二十人のアレキサンダー大王にお目にかかっているが、横丁のおじさんだったという人には、ついぞお目にかかったことがない。もしもそういう人がいたら、是非貴重な人物として檻にでも入れておいて欲しいものである」
 これが東洋になると、釈迦とかインドの高僧とかが人気の筆頭のようである。釈迦のその後の消息が皆目分からないのがスピリチュアリストの間で不思議な一つとされているが、あの人この人と生まれ変わるのに忙しくて通信を送る暇がなかったということなのだろうかと、皮肉の一つも言ってみたくなる。
 それにしても一体なぜ高位・高官・高僧でなければいけないのであろうか。又なぜ歴史上の人物でなければ気が済まないのであろうか。マイヤースの通信『個人的存在の彼方』に次のように一節がある。

 「偉大なる霊が全く無名の生涯を送ることがよくある。ほんの身近な人達にしか知られず、一般世間の話題となることもなく、死後は誰の記憶にも残らない。その無私で高潔な生涯は人間の模範とすべき程のものでありながら、それを証言する者は一人としていない。そうした霊が一介の工場労働者、社員、漁師、或いは農民の身の上に生を享けることがあるのである。これといって人目につくことをするわけではないのだが、それでいて類魂の中心霊から直接の指導を受けて、崇高な偉大さと高潔さを秘めた生涯を送る。かくして、先なる者が後に、後なる者が先になること多し(マタイ19・30)ということにもなるのである」
 オーエンの『ベールの彼方の生活』第三巻に、靴職人が実は大変な高級霊で、死後一気に霊団の指揮者の地位に付く話が出ている。地上生活中は本人も思いも寄らなかったので、天使から教えられて戸惑う場面がある。肉体に宿ると前生(地上での前生と肉体に宿る前の霊界での生活の二種類がある)がシャットアウトされてしまうからである。『続霊訓』に次のようなイムペレーターの霊言がある。
 「偉大なる霊も、肉体に宿るとそれまでの生活の記憶を失ってしまうものである。そうした霊にとって地上への誕生は一種の自己犠牲ないしは本籍離脱の行為と言ってよい」
 そうした霊が死後向上していき、ある一定の次元まで到達すると前生の全てが(知ろうと思えば)知れるようになる、というのがシルバーバーチの説明である。霊にしてその程度なのである。まして肉体に包まれている人間が少々霊能があるからといって、そう簡単に前生が分かるものではないのである。

 たとえ分かっても何にもならない

 ところで、仮に人間にそれが分かるとして、一体それを知ってどうなるというのであろうか。一回一回にそれなりの目的があって再生を繰り返し、その都度シルバーバーチの言うように〝霊に関わる要素〟だけが持続され、歴史的記録や名声や成功・失敗の物語はどんどん廃棄されていく。丁度我々の食したものから養分だけが摂取され、残滓(ざんし)は排泄されていくのと同じである。そんな滓(かす)を思い出してみてどうなるというのであろう。
 それが歴史上の著名人であれば少なくとも〝人間的興味〟の対象としての面白味はあるかも知れないが、歴史に全く記されていない他の無名の人物-殆ど全部の人間といってよい-の生涯は面白くもおかしくもない、平々凡々としているか、波乱万丈であれば大抵被害者或いは犠牲者でしかないのである。人間的体験という点においては何も歴史的事件に関わった者の生涯だけが貴重で、平凡な人生は価値がないというわけでは絶対にない。その人個人にとっては全ての体験がそれなりの価値がある筈である。が、人間はとかく霊というものを人間的興味の観点から詮索しようとするものである。シルバーバーチが本名を絶対に明かさないのは、そんな低次元の興味の対象にされたくないということと、そういうことではいけませんという戒めでもあるのである。

 再生問題は人間があげつらうべきものではない

 再生そのものが事実であることに疑問の余地はない。シルバーバーチは向上進化という霊の宿命の成就の為の一手段として、再生は必須不可欠のものであり、事実この目で見ておりますと述べている。私はこの言葉に全幅的信頼を置いている。
 又、それを否定する霊がいるのはなぜかの問に、霊界という所は地上のように平面的な世界ではなく、内面的に無限の次元があり、ある一定の次元まで進化しないと再生の事実の存在が分からないからだと述べている。つまりその霊が到達した次元での視野と知識で述べているのであって、本人はそれが最高だ、これが全てだ、これが真実だと思っても、その上にも又上があり、そこまで行けば又見解が変わって来る。だからシルバーバーチも、今否定している人も自分と同じ所まで来れば、成る程再生はあると思う筈だと述べている。イムペレーターも、この後引用する『続霊訓』の中で、再生の事実そのものは明確に認めている。そういうわけで私は再生という事実については今更とかく述べるつもりはない。その原理については第四巻の三章を参照して頂きたい。ただ、世間において、或いはスピリチュアリズムに関心をお持ちの方の中においても、生まれ変わりというものについて大きな誤解があるようなので、それを指摘しておきたいと思う。
 モーゼスの『続霊訓』に次のような一節がある。
 「霊の再生の問題はよくよく進化した高級霊にして初めて論ずることの出来る問題である。最高神のご臨席の下に、神庁において行われる神々による協議の中身については神庁の下層の者にすら知り得ない。正直に言って、人間にとって深入りせぬ方がよい秘密もあるのである。その一つが霊の究極の運命である。神庁において神議(かむはか)りに議られし後に一個の霊が再び肉体に宿りて地上へ生まれるべきか、それとも否か、そのいずれの判断が下されるかは誰にも分からない。誰にも知り得ないのである。守護霊さえ知り得ないのである。全ては佳きに計らわれるであろう。既に述べた如く、地上にて広く喧伝されている形での再生(機械的輪廻転生)は真実ではない。又偉大なる霊が崇高なる使命と目的とを携えて地上へ降り人間と共に生活を送ることは事実である。他にも我等なりの判断に基づいて広言を避けている一面もある。まだその機が熟していないとみているからである。霊ならば全ての神秘に通じていると思ってはならない。そう広言する霊は、自ら己の虚偽性の証拠を提供しているに他ならない」(『ベールの彼方の生活』をお持ちの方は第四巻第六章3〝神々による廟議〟を参照されたい)
 高級霊にしてこの程度なのに、こうして肉体に包まれ、シルバーバーチ流に言えば〝五本の鉄格子(五感)の間から外界を覗く〟程度の地上の人間が、少々霊能が芽生えたからといって、そんなもので再生問題を論ずるのは言語道断なのである。
 再生とは少なくとも今の自分と同じ人間がそっくり生まれ変わるという、そんな単純なものではない。心霊学によって人間の構成要素をよく吟味すれば、イムペレーターやシルバーバーチから指摘されなくてもその程度のことは分かる筈である。
 そんな軽薄な興味にあたら時間と精神とを奪われるよりも、五感を中心として平凡な生活に徹することである。そうした生活の中にも深刻な精神的葛藤や身体的苦闘の材料が幾らでもある筈である。それと一生懸命取り組んでいれば、ごく自然な形で、つまり無意識の内に必要な霊的援助を授かるのであり、それがこの世を生きる極意なのである。

 悪ふざけをして喜ぶ低級霊団の存在

 私が声を大にしてそう叫ぶのは、一つにはそこにこそ人間的努力の尊さがあり、肉体をもって生活する意義もそこから生まれると信じるからであるが、もう一つ、生半可な霊能を頼りにすることの危険性として、そうした霊能者を操って悪ふざけをする低級霊がウヨウヨしているという現実があるからである。『霊訓』に次のような一節がある。
 「邪霊集団の暗躍と案じられる危険性については既に述べたが、それとは別に、悪意からではないが、やはり我等にとって面倒を及ぼす存在がある。元来、地上を後にした人間の多くは格別に進歩性もなければ、さりとて格別に未熟とも言えない。肉体より離れて行く人間の大半は霊性において特に悪でもなければ善でもない。そして地上に近き界層を一気に突き抜けていく程の進化した霊は、特別の使命でもない限り地上へは舞い戻っては来ないものである。地縛霊の存在については既に述べた通りである。
 言い残したものにもう一種類の霊団がある。それは、悪ふざけ、茶目っ気、或いは人間を煙に巻いて面白がる程度の動機から交霊会に出没し、見せ掛けの現象を演出し、名を騙り、意図的に間違った情報を伝える。邪霊という程のものではないが、良識に欠ける霊達であり、霊媒と列席者を煙に巻いていかにも勿体ぶった雰囲気にて通信を送り、いい加減な内容の話を持ち出し、友人の名を騙り、列席者の知りたがっていることを読み取っては面白がっているに過ぎない。交霊会での通信に往々にして愚にもつかぬものがあると汝に言わしめる要因もそこにある。茶目っ気やいたずら半分の気持がいかにも真面目腐った演出をしては、それを信ずる人間の気持を弄ぶ霊の仕業がその原因となっている。列席者が望む肉親を装っていかにもそれらしく応対するのも彼等である。誰でも出席出来る交霊会において身元の正しい証明が不可能となるのも彼等の存在のせいである。最近、誰それの霊が出たとの話題がしきりと聞かれるが、その殆どは彼等の仕業である。通信にふざけた内容、或いは馬鹿げた内容を吹き込むのも彼等である。彼等は真の道義的意識は持ち合わせない。求められれば、いつでもいかなることでも、ふざけ半分、いたずら半分にやってみせる。その時々の面白さ以上のものは何も求めない。人間を傷つける意図はもたない。ただ面白がるのみである」
 ついでに『続霊訓』からも次の一節を紹介しておこう。これは自動書記通信であるが、モーゼスが「間違った教理を信じ切っている霊が何百年、何千年と、そう思い込んだままの状態でいると聞いて驚きを禁じ得ません。それはよくあることなのでしょうか」と質問したのに対してこう述べている。
 「そう滅多にあるものでないのであるが、霊媒を通じて喋りたがる霊は、概してそう高度な悟りに到達していない者達である。理解力に進歩のない連中である。請われもしないのに勝手に地上へ戻って来るということ自体が、あまり進歩的でないことの証拠といえよう。中でも、人間が拵えた教理によって雁字搦めにされたままやって来る霊は、最も進歩が遅い。
 真実の教理は人間の理解力に応じて神自ら啓示されるものである。数ある地上の教説や信仰は大なり小なり間違っている。故に(それが足枷となって)進歩が遅々としている者が実に多く、しかも自らはその誤りに気付かないのである。その種の霊が徒党を組み、その誤りが更に新たな誤りを生んでいくことがしばしばある。かくして無知と偏見と空理空論が下層界に蔓延し、汝らのみならず我等にとりても厄介なことになっている。というのも、彼等の集団も彼等なりの使者を送って人間界を攪乱せんとするのである。彼等は必ずといってよい程敬虔な態度を装い、勿体ぶった言葉を用いる。それがいつしか進歩を阻害し、真理を窒息させるように企んでいるのである。魂の自由を束縛し、真理への憧憬を鈍らせるということにおいて、それは断じて神の味方ではなく、敵対者の仕業である」

 五感は確かに鈍重であるが、それなりの安定性がある。それに引き替え、霊能というのは極めて不安定であり、肉体の健康状態、精神的動揺によって波長が変化し、昨日は高級霊からのものをキャッチしていたのが今日は低級霊に騙されているということがある。まさに諸刃の剣である。
 ショパンが弾けるというだけの人なら世界中どこにでもいるが、人に聞かせるに足る名演奏の出来る人はそう数多くいるものではない。それと同じく、信頼の置ける霊媒、高い霊質と人格と識見とを兼ね備えた名霊媒はそう数多くいるものではない。その一人がステイントン・モーゼスであり、ヴェール・オーエンであり、ジェラルディン・カミンズであり、モーリス・バーバネルである。その他地道にやっている霊能者が世界中にいる筈である。
 そして、こうした霊媒を通じて通信してくる霊が異口同音に言うのが〝宇宙の神秘は奥には奥があって、とても全てを知ることは出来ない〟ということである。肝に銘ずべきであろう。

 1987年4月 近藤千雄