『これが心霊(スピリチュアリズム)の世界だ』M・バーバネル著 近藤千雄訳より

 前章で私は心霊現象というのは霊界のスピリットが霊媒を通じて地上に働きかけている現象だと述べたが、本章ではそのスピリットの世界について述べてみたい。霊媒を通じて死後の世界の様子も入手しているのである。
 通信を送って来たのは無論死後の世界の住民であり、直接その世界で体験したことを語ってくれているのである。残念ながら死後の世界は物質的、地上的次元や制限を超越している為に、死後の様子といってもそこにはおのずから限度がある。言語というのは本質的には地上的、即物的であり、思想や観念を完全に伝えることは不可能である。思想や観念は非物質的であり、即物的な言語より次元が高い。所詮、小は大を兼ねることは出来ないのである。
 とは言え、誰にも間違いなく訪れる死の関門を通過した後辿り着く死後の世界について、その全部ではなくても、ある程度の〝様子〟は霊媒を通じて窺い知ることが出来る。実際、霊媒の存在を抜きにしては、死後に関する知識は殆ど無に等しい。聖書には、かの有名な一句「天国には多くの住処がある」というのがあるが、一体その住処はどんな恰好をしているのか、どのようにして建てられるのか、どんな人々が住んでいるのか、といったことについては一言も述べていない。
 さて死ぬということは肉体を捨てるというだけであって、死後のあなたは今のあなたそのままである。ということは、人間は死んでから霊魂になるのではなくて、この世に生きている内から立派に霊魂だということである。死というのはその霊魂が肉体という衣を捨てて、今度は霊体を纏って生活するようになることである。
 霊界の生活は決してモヤのように実質のないボンヤリとしたものではなく、逆に実は活気に満ち満ちている。やりたいと思うことは何でも出来るし、する仕事がちゃんとある。死ねば永遠の眠りにつくとか、所謂〝復活〟の時が来るまで眠っているといった信仰は愚かであると同時に間違っている。死ぬということそれ自体が霊の復活なのである。
 人間はこの物質界こそ実在で実質があると思い込んでいる。がそれは実は大変な錯覚である。核分裂の現象を見れば、エネルギーや実質というものが形のない、目に見えない存在であることが如実に分かる。
 大方の人間にとっては心とか霊の世界は影のように取りとめのない存在であるが、霊の世界の人間にとっては逆に霊的なもの精神的なものこそ実質であって、物質が影なのである。霊魂にとって思想とか意念は地上の固い壁よりも実体が感じられるのである。
 要は相対性の問題である。例えば夢を見ている時は、その夢の中の出来事は全て現実のものとして意識される。従ってもしも夢の世界が永遠の存在だと仮定すれば、夢の中で起きることは、地上の環境と同じように永遠に実体のあるものとして感じ取る筈である。それを夢だったと悟るのは、朝目が覚めて肉体感覚に戻った時のことである。要するに次元が変わったからに過ぎない。
 大抵の場合、死後に一しきりの休息が訪れる。その間に新しい環境に慣れる為であるが、残念ながら大部分の人間は霊的な予備知識がない為に、自分が死後も生きていることを知って大変なショックを受ける。時には、これはさほど多くはないが、何百年もの間自分が死んだことすら気付かない者がいる。そうした人間は地上生活が極端に利己的ないしは貪欲だった為に、内在する霊性が働かないのである。世にいう幽霊屋敷に出没する霊魂はこうした〝地縛霊〟である。
 地縛霊の場合、死によって肉体から解放されても、霊的進化の遅れから、身体は霊界にありながらその意識は地上に繋がれている。麻薬中毒者などがそのよい例で、そうした霊が地上の人間に取り憑いて更に精神病患者を作り出す。そのことは霊的治療法によってその取り憑いた霊を取り除くと、嘘のように治ってしまう事実からも明確である。取り憑くといっても霊魂自身は無意識の場合が多い。
 米国の著名な精神科医ウィックランド博士はそうした方法で治した例証をその著『迷える霊との対話』で詳しく紹介している。患者の肉体に電気ショックを与えると憑依霊が一時的に患者の肉体から離れる。これを霊媒(博士の奥さん)に憑依させ、その霊をこんこんと諭して死の自覚を促し、ひいては霊の世界に目覚めさせるというやり方である。
 もっとも、ささやかな徳性と、誰にでもある人間的欠点を具えた平均的凡人は、霊界に目覚めるのにそう長くはかからない。有り難いことに、極悪人と言える程の人間はそう多くはないし、同時に、残念ながら聖人君子と言える程立派な人間もそう多くはない。
 そういうわけで、大部分の人間は死を恐れる必要はない。大抵は死後霊界で目を覚ますと、自分より先に霊界入りした愛する人々、親しい人々に迎えられる。家族は再会し、友情は蘇り、旧交が温められる。お互いを確かめるのに何の障害もない。先立った人々はその後も霊界すらずっと我々を見守ってくれており、死に際しては出迎えてくれる。時の経過による容姿の変化はあっても、霊界は思念が実在の世界であるから、その作用で地上時代の容姿に近付けて認識を助けてくれる。
 さて環境の変化によるショックから覚めてみると、そこがまんざら見知らぬ世界でもないことに気付く。それもその筈である。実は地上時代から人間は毎夜のように霊体で霊界を訪れているのである。言ってみれば人間は毎晩〝死んで〟いるのである。それが本当の死と違って一時的であるのは、肉体と霊体とを繋ぐコードが切れずにいるからである。赤ん坊のヘソの緒を切った時に初めて独立した存在として地上に誕生するように、真の意味で霊界入りするのは、その銀色の〝生命の糸〟が切れた時である。
 寝入ると霊体は肉体を離れて、我々が死後生活する環境を訪れる。その間の体験を意識的には記憶していないが、死後、意識の中枢が肉体から霊体に移行するとその全てが思い出される。言葉で説明しようのない異様な体験もその時にすっきりと納得がいく。
 霊の世界を支配している大きな法則の一つに親和性がある。類は類を呼ぶ、つまり霊的特質の似通った者が集まって生活するということである。法律上は夫婦であっても、互いに愛情を抱かず気持の上で離婚しているような夫婦は、霊界では一緒にならない。
 ここで疑問を発する人がいるかも知れない。三度結婚した男は向こうでは三人の女性の内のどれと永遠に結ばれるのかと。心配はいらない。あの世では嫉妬に狂った男女の奪い合いなどというものはないのである。真の愛、霊性の発達程度が全てを解決してくれる。仲の悪い夫婦などというものは存在しない。体裁を縫うこともない。遅かれ速かれ神の公正が働き、しかるべき償いが為された暁には、親和力が働いて一体となるべき男女が一体となる。
 先立った妻が地上の夫の再婚を非常に喜んでいるといったケースを私は数多く知っている。これは、あの世では嫉妬に狂った男女の奪い合いはないという事実を裏付ける例と言えよう。又私は、同じような例として、先立った夫又は妻が、地上に残した相手が考慮中の再婚話を親身になって思い留まらせようとしたケースも幾つか聞いている。
 次に、これは大方の人にとって即座に納得いかないことかも知れないが、あの世の人間も、ちゃんとした〝家〟に住まっているのである。もっとも、家といってもレンガやモルタルで出来ているのではなく、これが又意念で出来ているのである。意念が実在の世界であり、展性の点では意念の方が最高なのである。地上の我々にとってレンガやモルタルが固く感じられるように、霊界の人間には意念が固く感じられるのである。
 同じことが衣服にも言える。霊界では衣服も意念によって出来たものを纏っており、その形体は地上のように好き勝手なものではなく、その人間の霊的発達程度を象徴するようなものになっている。いずれにせよ、衣服を纏うという人間の基本的な本能は意念の世界へ行っても続くようである。
 次に飲食の問題であるが、霊界でも低い界層、つまり地上に近い所に住む霊魂は、そういう欲望を感じた時は食べもし飲みもするようである。これは一種の錯覚であるが、夢と同じで、その時の当人にとっては現実のものとして実感されるのである。やがて霊性が発達して高い世界へ行けばそういう欲望も出なくなる。
 地上と違って霊界には言語上の障壁がない。というのは、民族とか国家とかの別がないのである。思念が唯一の言語であり、以心伝心がコミュニケーションの手段なのである。従って誤魔化しや口実、嘘偽りが全くきかない。秘密もない。精神的にも霊的にも、その人のあるがままの姿が知られてしまうのである。
 肉体的な意味での年齢はなく、霊的な成熟があるのみである。従って子供は進歩するにつれて大人らしくなり、大人は成熟するにつれて霊的に若々しくなってくる。
 又霊界では天賦の才能を発揮しようと努力する。それが仕事である。地上で生きる為の必要性、つまり金を稼ぐということや、その他諸々の事情から、往々にして天賦の才能の発達が阻まれ、適材適所が中々思うに任せない。が、あの世では才能を発揮する為の施設が無数にある。ミュージックホール、学問・文化の施設、教育機関、等々。そして、その各々の分野で地上で名声を馳せた知名人が指導に当たっている。
 母性本能が満たされることなく地上を去った女性にとって霊界は正に天国である。両親に先立って霊界に来た子供の霊の世話をすることによって、その本能を心ゆくまで満足させることが出来るからである。
 霊界では金を稼ぐ必要がない。土地を買う必要もない。車も要らない。家を借りる必要もない。しかも真の個性を発揮するチャンスが無数にある。
 当然のことながら貧富の差がない。あるのは霊性の貧富の差である。霊界での生活の目的はその霊性の磨き、その完成を目指して、少しでも人間的な垢を洗い落とすことにある。神学で言っているような天国とか地獄といったものはない。天国も地獄もそれまでの地上生活で築き上げた自分の精神構造が産み出すものである。
 では死後の世界はどこにあるのかということになるが、実は地上から遠く離れた別の所にあるのではなく、地球も含めた各界層が渾然一体となって一つの大宇宙を構成しているのである。固定した地域や層が存在するのではなく、次元の異なる世界が重なり合って同じ場所に存在しながら、低次元から高次元へと無限に広がっているのである。死と同時に各自は地上生活で築き上げた人間性つまりは霊格に相当する界へと引き付けられて行く。自己の霊格より高い世界へ行くこともないし、低い世界へ行くこともない。但し、特殊な任務を帯びて低い世界へ降りることはあるが。
 要するに霊界では聖者と守銭奴は同じ界には住めないということである。地上時代の行為と言葉と思念とによって築き上げられた霊格の差が両者を自然に分けてしまうのである。
 次に、地上時代の行為に対しては償いと懲罰の両方がきちんと行われる。原因と結果の自然法則、所謂因果律の働きが完璧だからである。あくまで自然法則であって、神学でいうような玉座に腰掛けた大審判官が善人と悪人を選り分けるのではない。前に述べたように、我々は自分の行為によって霊的に自分自身に〝審判〟を下し、それ相当の霊格を築いているのである。その霊格がいわば霊界でのパスポートなのである。地上生活によって築き上げた人間性そのものなのである。
 が死後を恐れてはいけない。圧倒的多数の人間にとって死後の世界は明るく楽しい世界である。一番の敵は死後の世界の存在を知らずにいることであり、それに対する何の備えもないということである。
 天国というのは地上生活を正しく送った者への自然の償いである。つまり正しい生活によって築き上げられた徳性が親和力の働きによって自動的に同質の人間、同程度の仲間と共に暮らすことを可能にしてくれるのである。同じように、地獄というのは地上時代の自己中心の生活が築き上げた悪徳の数々が、自動的に、似たような人間性の持ち主ばかりがいる世界へ引き摺り込んだ状態のことである。
 霊界に来て一時的に味わう悲しみの一つは、自分の死を悲しんでいる地上の肉身縁者に自分が健在であることを知らせることが出来ないことである。悲しみに暮れる家族に何とかして知らせようと懸命に努力している様子は私も何度か見ているが、実に哀れを誘う光景である。その内先輩のスピリットの指導を得て平静を取り戻すのであるが、中にはその体験から、地上と霊界との障壁となっている〝人間の無知〟を失くそうと努力してくれる霊もいる。いずれにせよ、新しい霊界生活に慣れてくると、それぞれの適した場に落ち着き、持てる才能の開発に勤しむようになる。
 怠けるとか、サボるとか、仕事がないといったことがない。肉体がないから病気がない。旅行も、何で行こうかという問題が生じない。意念によってたちどころにその場に行けるからである。
 中には意識的に、ないしは無意識に、地上の人間と共同作業に携わっているスピリットもいる。芸術、科学、発明、開拓といった分野がそれで、インスピレーション式に人間にヒントを与えて成功を収めているといったケースが少なくないのである。