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カテゴリ:★『コナン・ドイルの心霊学』 > ドイル 向上進化を基調としたスピリットの世界

 霊界通信によれば、死後の向上を妨げる罪悪の中で一番厄介なのが、上流階級の生活が生み出す罪悪-因襲に縛られ、意識的向上心に欠け、霊性は鈍り、自己満足と安逸にどっぷりと浸った退廃的生活が生み出すものだという。自己に満足し切って反省の意識を露程も持たず、魂の救済はどこかの教会か権力に任せて、自らの努力を嫌う-こうした人間が最も危機的状態にあるというのである。
 教会の存在そのものが悪いというのではない。キリスト教であろうと非キリスト教であろうと、霊性の向上を促進する機能を果たしている限りは、その存在価値はあるであろう。が、そこへ通う信徒に、一個の儀式、或いは一個の教義を信じる者が信じない者よりも少しでも有利であるように思わせたり、魂の向上にとって何よりも大切である〝刻苦〟が免除になるかの如く思わせたりする方向へ誘った時、その存在は有害なものとなる。
 同じことがスピリチュアリズムについても言える。実生活での活動を伴わない信仰は何の役にも立たない。尊敬に値する指導者の下で何の苦もなく人生を生き抜くことは可能かも知れない。しかし、死ぬ時は一人なのである。そのリーダーが一緒について来てくるわけではない。そして、霊界入りしたその瞬間から、地上生活から割り出される水準の境遇に甘んじなくてはならない。霊界通信はそう説くのである。


 自殺ダメ管理人の言葉
 日本でも、「この宗教を信じれば、あなたは救われます」とか言って勧誘して洗脳するような宗教があるよな。新興宗教で、そういうケースが頻繁に発生している。しかし、そんなものは無い。どこそこの宗教・宗派に所属したからといって、そいつの罪がチャラになるなんてことはないし、死後に素晴らしい世界に行けるなんてこともない。それらは、その者自身の実生活での行いによるに決まっているだろう。ある宗教組織に所属して、毎週儀式ばかりしたとて、又、お布施をせっせとそこの宗教にしたからとて、そんなんで死後に優遇されるワケがない。そんなことも、日本人は分からないようだな。

 では、未発達のスピリットに対する罰はどういう形を取るのであろうか。それは、要は発達を促進するような境遇に置かれるということである。もしかしたらそれは悲しみの体験という形を取るかも知れない。この地上においても、貪欲で同情心の欠片もなかった人間が、悲哀の体験を味わうことによって、性格が柔らぎ、人の心を思いやるようになるということはよくあることである。
 バイブルには〝嘆き悲しみ、歯がみをして苦痛に耐える外なる暗黒〟という表現がある。バイブルには読み方を誤ると大変な害を及ぼしかねない箇所が幾つかある。東洋的な表現には〝白髪三千丈〟式の誇張が多く、その点を考慮せずにそのまま受け取ってしまって、感受性の強い子供や真っ正直な大人が心身症になっているケースが少なくない。
 右の文も用心して読まないといけない。霊界通信によると、確かに〝外なる暗黒〟に相当する界層が存在することは事実のようである。〝暗黒界〟と呼んでいるが、そこは決して永遠の刑罰を受ける地獄ではない。いつかはみんな光明界へと向上していくのである。もしもそうでなかったら、全能の神にとって不名誉なことになろう。

 現段階では、どういう罪がどういう罰を科せられる、といったことは軽々に挙げることは出来ないが、報いを受ける界層が存在することだけは明らかな事実のようで、霊界と地上界とを隔てている中間地帯-パウロが体外遊離現象で覗いて来たと推察される〝第三の天〟(コリント2・12章)は、どうやら神秘論者のいう〝アストラル界〟、バイブルでいう〝外なる暗黒〟に相当するものと思われる。そこには、世俗的欲望に囚われて霊性がまるで芽生えないまま他界して、そのまま地縛霊として地上圏に留まっているスピリットが集まっている。金儲けばかりに明け暮れた者、野心に駆られて奔走した者、性の快楽のみを求めた者、等々である。そうした種類の人間は、所謂〝悪人〟ではない。例のグラストンベリの修道僧ヨハネスが、修道院への愛着が断ち切れずに、今尚その廃墟の辺りをうろついているといったケースもある。よく騒がれる幽霊現象は、そうしたスピリットがたまたま必要条件が揃った時に、肉眼に映じる程に物質化したケースである。スピリットがそこにいるというだけでは、姿は現れない。単数又は複数の人間がいて、その人体から出るエクトプラズムという特殊な物質を纏う必要がある。立ち合った人が寒気を感じたり髪の毛が立ったりする現象は、心霊法則が作用した時の兆候である。が、そうした現象はいくら追求しても、本書が目標としている、人間とは何か、生命とは何か、という命題と死後の存続を結び付けて論じることとは無縁である。
 実はこの中間境の存在の意義について私がその説明の難しさに突き当たり、何かもっと啓発してくれる資料の必要性を痛感していた時に、偶然の巡り合わせで-私は偶然ではなさそうに思えるのだが-全く知らない方から、四十年近くも前の1880年に出版された本が郵送されてきた。その中に、自動書記で次のような一節が綴られていた。

 《スピリットの中には、その中間領域(ボーダーランド)から先へ進めない者がいます。死後の生命のことなど露程も考えたことがなく、悩みにせよ愉しみにせよ、全てが地上的なことばかりだった者です。学問や教養とは関係ありません。たとえ学識はあっても、霊性に欠け、ただ知性のみで生きていた者は、それ以上は向上しません。要するに、地上生活という修養の好機の過ごし方を誤って、今、その失われた時間を取り戻したいと思い、地上時代を呼び戻しているのです。こちらではそれが出来るのです。が、大変な苦痛を伴います。
 未だに金銭欲が消えず、地上時代に遊び回っていた場所を徘徊する者が少なくありません。その類の者が一番滞在期間が長いようです。というのは、必ずしも不幸とか惨めといった意識は抱いていないのです。寧ろ肉体が無くなって、さっぱりした気分でいます。
 霊性の発達したスピリットも一応はここを通過しますが、通過したことに気付かない者もいます。一瞬の間のことで、休息の必要もなく、次のサマーランド(注)へと進んで参ります・・・・》

 死の直後の中間境についてはこの程度にしておこう。キリスト教にはこれを明確に指摘したものは見当たらない。ただ、異端者やキリスト教を知らない者、子供や白痴などが送られて来るという〝リンボー〟と呼ばれる、訳の分からない界層があるやに述べている。
 死後、安住の地へ行き着くまでにある〝空間〟を通過するという概念は、多くの宗教に共通したもので、ギリシャ・ローマ神話では〝川〟を渡し舟で横切るという寓話の形を取っている。こうしたものをつぶさに見ていくと、遠く歴史を遡った時代にも、しっかりとした霊的啓示があって、それが時と共に不鮮明となり、歪められていったことが窺われる。インドの最初の征服者であるアーリヤ人の信仰を、ミュア博士は次のように纏めている。

 《・・・・しかし、その未完成の部分(霊的身体)が第三の天界のコースを終えるには、邪悪なものを全て地上に捨てて、広大な暗黒の淵を渡らねばならない。更に、先父達が辿った道を進んでから、いよいよ永遠の光の境涯へと飛躍し、そこで初めて輝ける霊体を獲得し、勿体無い住処を授かり、あらゆる願望が叶えられる完成された生活へと入り、やがて神々の御前へと進み、神々の御意の成就の仕事に加わるのである・・・・》
 〝神々〟を〝高級霊〟と置き換えれば、スピリチュアリズムが説くところと少しも変わらない。

 注-Summerland (サマーランド) ボーダーランドすなわち死の直後の中間境が各民族によって様々な形-例えば仏教では〝三途の川〟-を取るように、その境界を通過した後に辿り着く環境も、民族によって様々に描かれてきた。が、スピリチュアリズムによって、第一部第一章の訳注27で指示した通りの構図になっていることが明らかとなってきた。
 ここでいうサマーランドは何もかも願いの叶う境涯で、パラダイス(極楽)と呼ばれているのがこれに相当する。ドイルのいうボーダーランドは地球と接した死の直後の境涯で、トウィーデールが描いたイラストの〝中間境〟そのものとは合致せず、その最下層に位置すると思えばよい。サマーランドないしはパラダイスは相変わらず中間境に属し、本格的な死後の世界ではない。骨休めの一時休憩所のようなところで、全体としてさわやかな青味(ブルー)を帯びていることから、〝ブルーアイランド〟(青い国)と呼んでいる通信もある。

 以上が、極めてコンパクトな形ではあるが、近代に至って霊界から届けられた通信によって明かされた死後の世界である。これを他愛ない幻想として片付けられるであろうか。どこか自然の原理に反したところがあるであろうか。
 寧ろ、極めて自然で、その入手経路に確信が得られた以上は、人類は死後間違いなくそうした道程を辿るものと受け止めてよいのではなかろうか。自然と進化は、突然の断絶を嫌うものなのだ。
 技術・文学・音楽その他の才能は脳の産物ではなく、その人間の自我の属性であるからには、死後それを失うということは、その人物の同一性を失うことに等しく、全く別人となることになる。従って、個性が存続するということは、そうした才能も存続していることを意味する。
 が、たとえ存続しても、それを表現する器官がなくては存在の意味がない。そして表現器官はある程度の〝有形〟の媒体を必要とするであろうから、死後にもそうした意味での身体を必要とする筈である。そして、身体がある以上、文明人の慎み深さから、何等かの〝身を包むもの〟の必要性を感じるであろう。
 又自然な願望と親和力の作用によって、真に愛する者と生活を共にすることになるであろうし、そうなると、地上でいう家屋に相当するものの必要性も考えられる。更に、精神的な安らぎとプライバシーの必要性は、個別の部屋の存在を想起させる。
 かくして、死後の個性存続という事実さえ確立されれば、特に霊界からの啓示を待つまでもなく、純粋理性と推理とによっておよその生活の構図を描くことが出来よう。
 この〝幸せの国〟の存在に関する限り、我々が知る世界のどの宗教の来世観よりも、十二分な証明がなされたと考えてよいように思う。
 そう言うと、読者の中には、右に述べたような細々とした死後の世界の事情の内で、どの辺りまでが私自身の想像なのだろうか、又、その概念は、同じように霊界通信に関心を持つ知識人によってどの程度まで真実として受け入れられているのだろうか、といった疑問を抱く方がおられるであろう。
 お答えしよう。右に述べたことは私が入手した厖大な資料を基に、私自身が結論付けたものであると同時に、その基本路線において、世界各地で地道に、しかし厳格な態度で、宗教的偏見を交えずに調査・研究した人達によって、長年に亘って受け入れられて来たものである。証拠資料に関する限り、私はこれで必要かつ十分であると考えている。

自殺ダメ




 [コナン・ドイルの心霊学]コナン・ドイル著 近藤千雄訳より

 P212より抜粋

 が、他方、科学的態度で冷静に対処しながらも、信仰的には既成宗教の偏見が作用して、もしもこれを真実と認めれば神学上の大論争の種になりかねないとの、一応無理ならぬ危惧から、全面的に受け入れることに躊躇し、結論として、多分交霊会の出席者の想念の反映か、テレパシーであろうと主張する人がいる。例えばツェルナー教授は熱心な心霊研究家でありながら、次のような理論を展開して事足れりとしている。

 《科学は霊界通信の内容にまでは手をつけることは出来ない。観察された事実と、それらを論理的かつ数学的に結び付ける理論によって手引きされるべきものである》

 偉大な科学者で心霊現象を支持している人の中には、霊界通信の中で信仰問題に関わることになると沈黙を守っている人が多いという事実は、このツェルナー教授の主張を裏書きしているように思える。
 確かに理解出来ることではある。が、よくよく分析してみると、これは一種の唯物思想を拡大したものにすぎないのではなかろうか。スピリットの存在を認め、それが地上へ戻って来ることも事実であると認めながら、そのスピリットが届けてくれるメッセージには耳を塞ぐというのでは、最早〝用心〟を通り越して〝理不尽〟の域に達しているというべきである。そこまで到達していながら、そこから先へは進まないというのでは、不変の真理に到達することは永久に不可能である。
 例えばレーモンドは地上の自分の家庭のことについて、実に細かい点にまで言及したことを述べていて、それが驚く程正確であることが確認されているが、そのレーモンドがその時点で生活しているという霊界の住処について語っていることは〝信じられない〟として削除するというのは理不尽ではなかろうか。
 私自身も初めて死後の世界に関する通信を受け取った時は、そのあまりの奇怪さと途方もなさに、とても信じることが出来ずに、どこかにうっちゃっておいた。その後色んな人を通して入手した通信と比較してみて、私が入手したものもそれらと相通じるものであることを知った。
 H・ウェールズという私の全く面識のない人の場合も同じである。この人も自動書記で受け取った通信の内容を読んでみてバカバカしくなり、暫く引き出しの中に仕舞い込んでおいた。ところが、ある時死後の事情を纏めた私の記事を読んで、あまりに似ているのを知って私に手紙を寄越したのだった。いずれの場合もテレパシー説や霊媒が予め知っていたとする説は不可能である。
 総じて疑り深い学者や、とかく異議を唱えたがる学者というのは、既に大切な分野を持っている為に、関心の対象を物的なものにのみ制限し、死後の世界の実相を伝える莫大な量の証拠の重大さを認識しようとしないものだ。あくまでも物証を求める態度を固持して、当事者が直感する真実性の証言には耳を貸そうとしない。
 次章では、こうした霊的知識に照らした上での新約聖書の検証にお付き合い頂いて、これまで曖昧で混乱していた点についてどこまで明快で合理的な解釈が出来るかを、読者自ら判断して頂きたい。


 ツェルナー博士 Johann Zollner (1834~1882)
 ライプチッヒ大学の物理学と天文学の教授で、〝ツェルナー現象〟で世界的な名声を博していたが、心霊現象の研究に着手したことで非難と嘲笑と迫害を受けた。しかし同時に、研究に使用した霊媒の質の低さの為に、天文学の知友であるスキャパレリやフラマリオン達からも、その説に疑問が投げかけられた。その反省から晩年には当時の最高の霊媒だったデスペランス夫人を使って二十五回もの実験を行い、その成果に満足し、書物にして発表しようとした矢先に他界した。

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