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カテゴリ:★『霊訓』 > モーゼス 続『霊訓』 霊言による霊訓

モーゼス 続『霊訓』 霊言による霊訓 目次

霊言による霊訓 一

霊言による霊訓 二

霊言による霊訓 三

霊言による霊訓 四

霊言による霊訓 五

霊言による霊訓 六

霊言による霊訓 七

霊言による霊訓 八

霊言による霊訓 九

霊言による霊訓 十

霊言による霊訓 十一

霊言による霊訓 十二

霊言による霊訓 十三

霊言による霊訓 十四

霊言による霊訓 十五

霊言による霊訓 十六

霊言による霊訓 十七

 はじめに

 この第一部に収録した霊訓は、医師スピーア博士の私宅で催された交霊会での霊言を博士夫人が筆録して保存しておられたものである。
 ステイントン・モーゼス氏の死後、夫人はそれを心霊誌ライトに寄稿された。その記事の中から更に厳選して、ここに出版することにした。貴重な価値と興味溢れる資料が紛失することを惜しむが故である。
 収録されたものは断片的に抄出したものであって、内容に連続性はない。同時に、原文では連続していないものでも内容に一貫性があれば並置したところもある。
 カッコ「 」の部分が通信霊の述べた言葉で、その他はスピーア夫人の説明である。通信霊は殆どの場合が最高指導霊のインペレーターで、特に指摘されていない場合は、インペレーターと思って頂きたい。
 ライト誌上での連載を終えるに当たってスピーア夫人はこう述べている。
 「交霊会における現象の美事さと品の良さ、又インペレーター霊の強烈にして威厳に満ちた雰囲気はとても言葉で尽くせるものではありませんでした」
-構成者

 (注)-この前書きは本書の構成者のものであるが、氏名は記されていない。なおスピーア夫人の文章は現在形と過去形とが入り乱れていて一貫性がない。実際にはモーゼスの死後のことであるから過去形である方が自然なので、私は全て過去形に統一した。

 「私ことImperator Servus Dei (神の僕インペレーター)は四十九名から成る霊団の頭であり、監督と統率の任にあり、他の全ての霊は私の指導と指令によって仕事に当たります。
 私は全智全能の神の意志を成就せんが為に第七界より参りました。使命達成の暁には二度と地上に戻れない至福の境涯へと向上して行くことでしょう。しかしそれはこの霊媒が地上での用を終えた後となるでしょう。そしてこの霊媒は死後において地上より更に大きな使命を与えられることでしょう。
 私の下に私の代理であり副官であるレクターがいます。彼は私の不在の折に私に代わって指揮し、とりわけ物理的心霊現象に携わる霊団の統率に当たります。
 レクターを補佐する三番目に高い霊がドクターです。彼は霊媒の思想を指導し、言葉を感化し、ペンを操る。このドクターの統率下に、後で紹介する知恵と知識を担当する一団が控えています。
 次に控えるのが、地上の悪影響を避け或いは和らげ、危険なものを追い払い、苦痛を軽減し、よい雰囲気を醸し出すことを任務とする二人の霊です。この二人にとって抗し切れないものはありません。が、内向的罪悪への堕落はどうしようもありません。そこで霊界の悪の勢力-霊媒の心変わりを画策し、聖なる使命を忘れさせようとする低級霊の誘惑から保護することを役目とする二人の霊が付いております。直々に霊媒に付き添うこの四人を入れた七人で第一の小霊団(サークル)を構成しています。我々の霊団は七人ずつのサークルで構成されており、それぞれに一人の指揮官がいて六人を統率しております。
 第一のサークルは守護と啓発を担当する霊-霊団全体を統率し指揮することを任務とする霊から成ります。
 次のサークルは愛の霊のサークルです。すなわち神への愛である崇敬、同胞への愛である慈悲、その外に優しさ、朗らかさ、哀れみ、情け、友情、愛情、こうした類のもの全てを配慮します。
 次のサークル-これも同じく一人が六人を主宰しています-は叡智を司る霊の集団です。直感、感識、反省、印象、推理、といったものを担当します。直感的判断力と、観察事実からの論理的判断力とを指導します。叡智を吹き込み、かつ判断を誤らせんとする邪霊からの影響力を排除します。
 次のサークルは知識-人間についての知識、物事についての知識、人生についての知識を授け、注意と比較判断、不測の事態の警告等を担当します。又霊媒の辿る困難極まる地上生活を指導し、有益な実際的知識を身に付けさせ、直感的知恵を完成させます。これはドクターの指揮の下に行われます。
 その次に来るのが芸術、科学、文学、教養、詩歌、絵画、音楽、言語等を指揮するグループです。彼等は崇高で知的な思念を吹き込み、上品さと優雅さに溢れる言葉に触れさせます。美しいもの、芸術的なもの、洗練された教養溢れるものへ心を向けさせ、性格に詩的な潤いを与え、気品溢れるものにします。
 次の七人は愉快さとウィットとユーモアと愛想の良さ、それに楽しい会話を受け持ちます。これがこの霊媒の性格に軽快なタッチを添えます。つまり社交上大切な生気溢れる明るさであり、これが日々の重々しい苦労から気分を解放します。愛想が良く心優しい、魅力溢れる霊達です。
 最後のサークルは物理的心霊現象を担当する霊達です。高等な霊的真理を広める上で是非必要とみた現象を演出します。指揮官代理であるレクターの保護・監督の下に、彼等自身の更生を兼ねて、この仕事に携わっております。この霊媒及び我々背後霊団との接触を通じて、更生への道を歩むのです。それぞれに原因は異なりますが、いずれも地縛霊の類に属し、心霊現象の演出の仕事を通じて浄化と向上の道を歩みつつある者達です。
 このように、私の霊団は七つのグループに分かれており、それぞれに特殊な使命があります。愛と叡智と知識の霊達、洗練された高貴な霊達、明るく愛想のいい霊達、この低い地上界の単調であくせくした生活に天上的な光輝をもたらす霊達、地上界の皆さんとの交わりを通じて低い界から高い界への進化という恩恵に浴さんとして働く霊達-その霊達の演出する現象が地上の人間にもまだまだ必要なのです。
 いずれのグループの霊達も、自らも進歩を求めている霊達です。霊媒に体験と啓発を与え、霊媒と生活を共にし、霊媒と共に進歩せんと志す者達です。霊媒に教えることによって自らも学び、霊媒を向上せしめることによって自らも向上せんとしているのです。
 我々のこうした仕事は愛に発する仕事です。それ自らが報酬をもたらすのです。霊媒に祝福をもたらし、霊媒を通じて人類に祝福をもたらし、それが我々にとっての祝福となるのです。
 全能の父なる神の祝福のあらんことを」

 「私がこの地上を去ったのは遙か遠い昔のことになりますが、この度戻って参りましたのは、この霊媒を通じて霊的啓示を届けんが為です。それが私の使命なのです。私の属する界層からこの地上へ戻って来る霊は極めて稀です。が、大神が特殊な使命の為にこの私を遣わされたのです」

 「天界と地上との間の階梯(はしご)は常に掛けられております。が、人間の側の不信心が天使の働きかけを遮断してまいりました」

-あなたは神の僕ですか。
 「いかにも。神の僕として選ばれた使命を仰せつかることは、我々仲間の間にあってはただならぬことです。私はこの霊媒を通じての使命を終えた後は二度と個的身体を纏って戻ることの出来ない境涯へと赴きます。他の霊を通じて影響力を行使するのみとなるでしょう。
 皆さんはすべからく大神の導きを求めねばなりません。己を恃(たの)む者は滅びる、滅びる、滅びる・・・・(特に厳粛な調子で述べた)。神は光明と導きを求める者を決してお見捨てにはなりません。決して、決して、決して・・・・」
 霊言が始まった当初、インペレーターはモーゼスのほぼ全生涯を共にして来たと述べた。その頃は第六界に所属していたが、後に第七界へと向上しているという。
 そのインペレーターがモーゼスを入神させて語る時、モーゼスの頭部の後方に大きな光の十字架と、それを取り巻く光線が列席者の目に映った。やがてそれが数フィートにも及ぶ高さの、強烈な光輝を発する美しい〝光の柱〟となり、それが右に左にと動いていた。その光柱の背後に沢山の光が楕円形に群がっていた。その状態が三十分以上も続いた。そのことについて尋ねるとインペレーターが、光の柱はインペレーター自身で、それを取り囲んでいる光線は側近の者で、光の群は霊団の他の者達であると説明してくれた。また霊媒の頭部の回りの光輝は霊媒の霊的威力を示しているとのことだった。
 インペレーターが出現している時は必ずサークル全体に厳かな雰囲気が漲り、我々は偉大にして善良な霊の前にいることを感じるのだった。
 インペレーター霊団の背後にはもう一人、強烈な影響力をもつ霊が控えていて(〝解説〟参照)、霊団全体の指導と霊媒の守護の任に当たっていた。その霊団の中でも高級な部類に属する霊達は霊媒を教化する立場にあり、代わって霊媒が霊団の中でも未発達な霊を教化するという関係にあった。その大半が地上生活での成長が乏しかった者で、再教育の為に、言うなれば地上という学校へもう一度戻って来たのである。この仕事を通じて成長した者はやがて霊団を離れて上層界へと進み、代わって、同じ仕事を必要とする霊がその役目に就いた。
 インペレーターの語り口と祈りは実に厳かで、聞く者の心に、是非ともこの聖なる仕事を完遂したいとの真摯な願望を抱かせずにはおかなかった。我々の祈りに対してもインペレーターは(自分自らではなく)自分を通じて神の意志が直接伝えられるように嘆願してくれるのだった。そして交霊会の締めくくりとしていつも、我々が、神の御国が我が心の中にあることをこの地上にあって悟り、慈悲と穏やかさと優しさと哀れみの心を身に付けるようにその祈りの言葉を述べた。その一つを紹介すると-

 「願わくば全能なる大神の祝福と保護の下に真理と安らぎへ導かれんことを。地上を去りて後、苦しむことなく中間の界層を首尾よく通り抜け、喜びの境涯へと進むことが出来るよう、この今を生きられんことを」

 「地上へ降りて来る高級な霊は一種の影響力であり、言わば放射性エネルギーです。人間が想像するものとは異なり、高級霊界からの放射物のようなものです。高等な霊的通信の非個人性に注目して頂きたい。この霊媒との関わりをもった当初、彼はしつこく我々の身元の証明を求めました。が、実は我々を通して数多くの影響力が届けられているのです。死後、首尾よく二段階三段階と上って行った霊は人間的な意味での個体性を失い、形体なき影響力となって行きます。私は今地上へ戻れるギリギリの境涯まで辿り着きました。が、距離には関係なく影響力を行使することが出来ます。今私は皆さんから遙か彼方にいます」

 オリオトソンと名乗る霊に代わる。
 「(入神状態において宇宙の記憶層から)無意識の内に回想するなどということは不可能なことです。無意識的回想説は笑止千万というべきです。全ての鍵は背後霊の働きにあります。又アイデンティティ(地上時代と同じ人物像)が不変であるかに考えるのも間違いです。私の知る限り高級霊程アイデンティティを殆ど失っております。進化していく中に個性が拡張し放散して、一種の影響力の中枢のような存在となるのです。この霊媒の守護に当たっておられるインペレーター霊はこの上なく高貴なるお方で、私をその影響力下に包み込んでおられます。が、私にはそのお姿は見えないのです。しかも私が存在する空間に充満しておられます。命令と指示を受けておりますが、一度もお姿を拝したことがないのです。この霊媒には顕現の形で見えることがあります。その必要性があってのことで、私にはその必要性はありません。
 私にとっては、こうして地上へ戻って来ることは一種の試練です。例えてみれば、清らかで陽光溢れる大気の世界から濃霧の立ち込める谷底へ下りて行くのにも似ていましょう。地上の雰囲気の中に入ると私はすっかり変わってしまうようです。かつての地上時代の思考の習性が蘇って来ますし、当時より鈍重な空気を呼吸するような感じがします」
 「私達はあなた方人間に神そのものが影響力の大中心であること、その影響力は中間的存在である霊を通じて人類へと行き渡ることをお教えしたいのです。その霊的存在-あなた方が天使と呼んでおられる存在です-が人類に影響を行使しているのです。光の大中心を取り巻いて存在する大天使が、それを更に取り巻いて存在する天使に影響力を放散する-つまりそうした天使的存在を通路として最高神の霊力が、受け入れる能力のある者全てに届けられるという仕組みをお教えしたいのです。
 人間は無意識の内に知識を受け取りそれを広める通路となっているのです。与えられた才能を開発し、与えられた仕事を助成することによって、人間界における神の霊の住処を開発していくことが出来るのです。神のお力は高き界層に発し、天使を通して降下し、選ばれた使者に染み通り、いかにすれば人間が神の協力者たりうるかを示します」

 インペレーターに代わる。
 「かつては〝天使〟と呼ばれ今日では〝霊〟と呼ばれている存在が人間と神との間を取りもち、神の恩恵を地上へ送り届けると同時に、人間の祈りを神の玉座へ送り届けることも致します。それが神と人間とを取り持つ手段であり、影響力の通路なのです。物質に宿る霊(人間)の回りは常に天使の支配があると思われるがよろしい」

 (注)-ここでエリオトソンとインペレーターが述べていることは、私が〝まえがき〟で述べたこととも関連して、霊能者をもって任じている人達に猛省を促したいところである。
 宇宙意識とか記憶の層から望み通りの知識や情報が得られることは理屈の上でのみ言えることであって、実際にそれが出来る人は地上の人間にはまずいない。シルバーバーチは自分の過去世を知ることすら地上の人間には困難だと言っている。
 この種の問題ではエドガー・ケーシーの名を思い浮かべる方が多いことであろう。この人は宇宙意識が語るのを入神状態で取り次ぐのだそうであるが、実際はエリオトソンが言っている通り、それも全て背後霊団がやっていることである。
 ラジオのダイヤルを回すと次から次に色んな放送が入って来るが、宇宙にはそれとは比較にならない、無数といってよい程の意識や観念が飛び交っている。高級霊からのものもあるが、それを妨害したり、それらしく装って実は偽の情報を流している低級霊の集団からのものもある。困ったことには、そうした低級霊の波長の方が人間には感応し易いのである。そこに予言のハズレや霊言のいい加減さが生じる原因がある。
 心霊治療の場合は治る治らないの形で結果が明確に出るからよいが、霊言、霊示、お告げの類は、本当か否かを判断する手掛かりは何一つない。たとえ間違いなく〝霊〟からのものであっても、今度はこの霊の程度と質が問題となる。それを試す方法は二つある。
 一つは徹底的に疑ってかかることである。唯々諾々として何でも有り難がるのが一番危険である。疑われて機嫌を損ねるような霊は相手にしない方がよい。
 もう一つは、その内容から判断して、それが〝霊〟から承らねばならない程のものかどうか、或いは、そんなことを知ってどうするのかということを常識的に検討してみることである。その尺度でいけば、最近マスコミを通じて霊言だ、予言だといって宣言されているものに、どうでもいい、好い加減なものがいかに多いかがお分かり頂けるであろう。

スピーア博士がキリスト教の教義について質したのに対してインペレーターが-
 「キリスト教の説く教義には多くの誤りが見受けられます。神についての見解はそれを受け取った霊媒の先入観念によってとかく着色されているものです。人間の勝手な考えによって教説を拵え、それがドグマとして定着し、絶対的教義として教え込まれています。創造神と人間との繋がり、及び罪についてのキリスト教の説は間違っております。
 罪とは、本質的には、霊性を高めるべく意図された永遠不変の摂理に意識的に違反することです。神が人間の罪をご自身への侮辱と受け止めるようなことは有り得ません。我々が幼児の無礼を受け止めるのと同じように(寛容的に)受け止められます。自然の摂理によっていずれは悲しみと罰とがもたらされるようになっているのです。罪それ自体は創造神への侮辱などではありません。従って無力な人間に報復という形で罰が加えられるなどということは有り得ません。罪はそれ自体が不変の摂理の侵犯としての罰を含んでいるのです。
 人間イエス・キリストの地上生活は、地上の人間が見習うべき一つの模範を垂れたものでした。が、それをもって人間の罪を贖ってくれるものと見做すことは赦し難い欺瞞であり、それこそ神を侮辱し、その汚れなき霊性を侮辱し、盲目的信仰に安住している者を堕落させ、己の軽信をもって美徳と思わせることになりかねません。
 その内、これ程好い加減な寓話が、よくも大真面目に信じられて来たものと呆れる日も来ることでしょう。我々にその普及の顕現が託されている真理は、いずれそうした人間的創作を全て無用のものとすることでしょう。人間は神を自分に似せて想像したのです。その神は極めて人間的です。人間らしさを幾つも具えております。もう少し崇高な概念が抱ける者ならばおよそ受け入れ難い性質を、人間は〝神〟の名の下に説いて来ました。
 地上人類は漸く今、全知全能の父なる神の概念へ向けて近付きつつあります。やがて新たな啓示を得て、全ての古い誤謬を排除し、新しい神の概念を理解することになるでしょう。全能の神から我々が頂いてきた啓示は、これまでの古い教義と思索の産物を排除し、それに代わって、作り話ではなく、有るがままの真理を授けることになるでしょう。
 霊的啓示は全て神から届けられます。がしかし、それまで人間が信じ希望を託して来たものの多くを除去しなければならない為に、必然的にそれは人間が〝信仰〟と呼んでいるものを覆すことになります。神は人間の理解力に応じたものを啓示されます。故に、神の啓示は段階的進歩を辿ることになります。それを授けようとする我々の仕事を阻止せんとする邪霊が組織的策謀を弄していますが、こうした反抗は真理が完全に普及し尽くすまでは途絶えることはないでしょう。それは信念の弱い者にとっては容易ならざる試金石となるでしょうし、信念強固な者にとっては油断ならない大敵となるでしょう。が、そこにこそ邪霊の存在意義もあるのです。
 見えざる通信霊の指導を仰ぐ時は、果してその霊が自ら広言する通りの存在であるか否かを見極めないで唯々諾々として承ることのないよう心して頂きたい。我々の立場から言わせて頂けば、真摯にして純粋な探求心から発する調査には何等恐れは覚えません。この交霊会において皆さんが目の当たりにされている現象は、キリストが行った奇跡と本質において同じものです。その耳でお聞きになる言葉はヘブライの預言者達の言葉と少しも変わるところはありません。
 スピリチュアリズムの知識はいずれ普及します。が、どこかの宗派の教義としてではありません。我々の啓示には主教も司祭も執事も必要としません。必要なのは守護・指導に当たる霊と、それを受ける人間の霊との交わりのみです。キリストも述べております-いずこかの土地、いずこかの人間が特に他より神聖であるかに説かれることのない時代が訪れるであろう、と」

 (注)-英国国教会のかつての大主教ウィリアム・テンプルの言葉にこうある-〝我が国教会の最大の誤りは、神は紀元66年まで世界の一地域すなわちパレスチナにのみ働きかけ、それ以後は他のいかなる土地にいかなる働きかけもしていないという信仰を作り上げてしまったことである〟と。いつから何を根拠にこうした説が出来上ったのかは知らないが、もしもその通りだとすると、交霊会というものは有り得ないことになる。キリスト教徒が交霊会を毛嫌いする理由はそこにあるが、ここでインペレーターが言っているのは、交霊会を通じてのみならず日常生活においても霊は人間に働きかけており、それが一番大切だということである。

 「我々は人間に対して、自分をおいて他にいかなる救い主も説きません。胸を抉られる思いの後悔の念と深甚なる償い-罪の結果はそれしかありません。悪いと知りつつ犯した罪が生み出すその結果から逃れられる者はいません。誰一人いません。お慈悲を求めていかに大袈裟に泣き叫んでみても、それだけで即座に神の御前にはべらせて頂けるようなことは断じてありません。又底無しの地獄絵図など、我々は説きません。肉体的に、精神的に、そして霊的に、地上の人間としての義務を果たすことによって徐々に幸せに、少しずつ神らしく成長していきます。人間の勝手なドグマなどは肉体の死と共に死滅し、昇り行く太陽によって雲散霧消します」

スピーア博士「十字架上での盗人の懺悔の教訓は人を誤らせるものということになるわけですね」
「そうです。涙も絶叫も魂を清めることにはなりません。矯正の為の永い過程を経なければなりません」

スピーア博士「御子イエスの血が全ての罪を清める、という聖書の文句を解説してください」
 「その中身を汲み取ることです。人間はこれを神がその御子を地上へと身を落とさせ、その御子の血のほとばしりが、それによる贖いへの信仰を告白した者のみを永遠の火炎地獄から救い出すと解釈しています。一体その御子が何者であるかについて知らないままそう解釈しておりますが、そのような冷酷にして無情、邪険極まる言説は打ち棄て、キリストの生涯と教えの底流にある霊的な意義を読み取ることです。その人生は人間にとって模範とすべきものであり、至純にして至聖、苦難によって崇高さを増し、慈悲によって高揚された生涯でした。皆さんも是非その生活を見習って頂きたい。そうした生活こそ罪より救い、気高いものへと導いてくれることでしょう。誤ることを免れない人間の言葉を字句通りに受け取り、更にその誤った土台の上に教理の体系という上部構造を築くという間違いを犯しております」

 「ここで、神についての真実の概念を申し述べたいと思います。人間的属性を具えた人格神としてではありません。神々しい人間神としてでもありません。全宇宙に瀰漫し、普及する普遍的大霊としてです。今や人類は神についてより大きな概念を受け入れる用意が出来ました。我々は〝愛〟として顕現している神を説きます。愛-いかなる限界内にも閉じ込められない愛としてです。人間神の概念はかつての人類全体に行き渡っていた偶像崇拝の産物です。これを改めることも我々の使命の一つです。神は一個の人格を具えた存在などではありません。どこかの一地点に鎮座ましますのではありません。全てに浸透し、無始無終に存在し、全てを導き、全てを愛されるのです。
 肉体に宿る人間はどうしても限りある形体を具えた神を想像します。我々が知り得た限りでは、神は限りある人格者ではなく、ましてや一個の人間となって誕生したこともなく、人間的影響力によって動かされることなど断じてありません。神は普遍的法則として働いています。祈ることは結構です。祈りは波動の原理で天上界へと送られ、神が直接働きかけられる天使の下に届けられます。人間はすべからく祈ることです。祈ることを知らない頑なな魂は天使も近付くことが出来ません。祈る魂には、いついかなる時でも、天上界の使者が惹き付けられます。
 一方において我々は神を一種のエネルギーとして片付けんとする致命的な誤りを避けねばなりませんが、他方、神を人間的煩悩と必需品と権力欲とを具えた人間的存在とする擬人説の迷妄にも陥らぬよう注意しなければなりません。原初、人間は自分で勝手な神を作り上げました。暴君の如き神、いえ、人間にも真似の出来ない程極悪非道の神でした。本当の神とは、生命の本質として、全存在に活力を与える〝霊〟です。全存在を美化する光と愛とを供給する始源です。その神の御心に適った生活はキリストの生涯の中に体現されています。神は単なるエネルギーではありません。さりとて人間が大自然と呼んでいる非人格的存在でもありません。
 神のことを宇宙に瀰漫する根源的大霊と心得るがよろしい。〝父なる存在〟という言葉がその正しい概念を伝えております。大自然そのものは神ではありません。その大霊が顕現した相(すがた)に過ぎません。手がすなわち身体とは言えません。身体を構成するものの一顕現に過ぎないのと同様です。
 これまで〝父なる神〟についてあまりに誤った概念が蔓延っていました。遠い昔にあっては、それは怒れる神であり、人間はお慈悲を求めて泣き叫ぶことによってその怒りを鎮めることを要しました。我が子を永遠の地獄へ放り込むことを愉快に思う神でした。
 我々が認識している神(想像する神ではありません)は、完全にして永遠なる愛の神、過ちを犯した人間も善良な人間も共にその御胸に抱かれる神-我が子全てを等しく哀れみをもって見つめ、民族や土地によって区別することなく、神の御名を唱える者全てに等しく優しさと愛の念をもって応えてくださいます。
 もしも人間が、いかに身分の低い者をも、世間でいかに軽蔑されている者をも慈しみ慰め給う間断なき愛の証-天使の軍勢が神の子等を取り囲んでいる姿を我々と同じようにご覧になることか出来れば-たとえ一瞬でもその目で光り輝く存在の大軍勢を垣間見ることが出来れば、誰しもきっと感動を覚え、鑚仰の声を発するに違いないのですが・・・・。願わくば右の如く冷ややかな人間の心、高級界からの働きかけに何の反応も示さない心が神の御光に感動し、全てを与えたもう神、普遍的愛の神へ向けて鑚仰の声を発することになってくれればと祈らずにはいられません。
 我々はその天界の政庁の代表として参っている者です。父なる大神は、子等の望みに応えるべく、慰安と導きと愛を携えた天使団を送られます。輝ける永遠の光明界より我々は人類の経綸の為に参っているのです。天使の群、霊の群、他界せる知友の群が、後に残れる者の経綸に当たっているのです」

 「各時代の人間の中から啓示の受信者が選ばれます。その者は言うなれば霊的影響力の預かり人であり、現在と未来とを繋ぐ連結の輪の一つです。後続の者に引き継ぐべき真理がその者に預けられます。そして、その者には大神の特命を受けた高級霊が指導に当たります。大神がその万能の叡智をもって立てた計画の遂行に当たるべく、厳粛な意図をもって抜擢された霊達です。
 やがてその受信者達が使命に目覚めます。神の使者が天と地とを急がしく往来します。閉ざされていた扉が再び開かれる時が到来したのです。エゼキエル(紀元前六世紀のヘブライの予言者)、パプテスマのヨハネ(イエスの洗礼者)、そして霊覚者ヨハネ(イエスの使徒)の耳に囁いた声が再び聞かれる時が到来したのです。霊界がかつてない規模をもって連絡を密にし、全知全能の神の声が中継の天使群を通じて届けられる時が到来したのです。
 では、人間は素直にその声に耳を傾けてくれるか-否!かつてと同じく今日の時代においてもそれは同じことです。この度も又人間側の不信が、神の愛の意図を踏み躙っているのです。人間の頑迷さが神の計画の妨げとなっているのです」

 (注)-五十年に亘ってモーリス・バーバネルの口を使って語り続けたシルバーバーチの霊言の中には、ここでインペレーターが述べているのと同じことに言及しているものが何度も出て来るが、その中の一つに次のような箇所がある。
質問「今はスピリチュアリズムという形で霊界と地上界との間にコミュニケーションが開かれていますが、それ以前にも立派なコミュニケーションの時代があったのでしょうか」
シルバーバーチ「一時的にインスピレーションが溢れ出たことはありますが、長続きしていません。この度のコミュニケーションは組織的であり、協調的であり、管理・監督が行き届いており、規律があります。一大計画の一環として行われており、その計画の推進は皆さん方の想像も及ばない程の協調体勢で行われております。背後の組織は途方もなく巨大であり、細かい所まで見事な配慮がなされております。全てに計画性があるのです。そうした計画の下に(十九世紀半ばに)霊界の扉が開かれたのです。この度開かれた扉は二度と閉ざされることはありません」
 訳者は『霊訓』と『シルバーバーチの霊訓』と、もう一つオーテンの『ベールの彼方の生活』を英国の三大霊訓と呼んでいるが、このオーエンの霊訓全四巻の最終巻では通信霊のアーネルが右のインペレーターとシルバーバーチが指摘している〝神の計画〟について、その発端から推進の過程までの全貌を雄大なタッチで描写している。
 そのリーダーをキリストという名で表現している。その点はインペレーターもシルバーバーチも同じであるが、これは霊媒のモーゼスとオーエンが共にキリスト教の牧師であったこと、それからバーバネルの場合は本人は無宗教であっても交霊会のメンバーがかつてのクリスチャン、或いは牧師だった人達で構成されていたことから当然そうならざるを得なかったまでのことで、要するに地球神界の政庁から派遣された最高級の霊と考えればよい。アーネルが〝各天体にキリストがいる〟と言っていることからも、そう理解してよいであろう。
 地球神界の上には太陽神界があり、更にその上に銀河系神界があり、その銀河系が幾つか集まった規模の神界が又存在し、多分中間に幾つかの段階、現在の天文学では知られていない規模の組織があって、最後に漸く〝造化の神界〟がある。そこを始源として全大宇宙のシルバーバーチのいう〝大霊〟が瀰漫している、ということなのであろう。もっともシルバーバーチはその〝最後〟というのは無いと言うのであるが、ここまで来るともう人間の脳を通しての知性では理解出来なくなる。
 それは別の問題として、こう観て来ると地球などは宇宙の塵程の存在に過ぎないが、もったいないことに、その地球の浄化の為に、地上の全人口を遙かに超えた数の霊の大軍が組織され、本格的な活動を行なっていることは、以上の三大霊訓の支配霊が異口同音に語っていることで、どうやら間違いない事実のようである。

 「人間とは何か?人間とはいかにもインスピレーションの媒体に過ぎません。地上で崇められるいかに立派な人物も、神がその叡智の内、人間にとって適切とみたごく僅かな一部を伝達する為の手段に過ぎません。その為すところのものは、偉大なるもの、気高きものも全て、守護霊の影響でないものはありません。
 霊媒が特別の能力故に選ばれることは事実ですが、その能力とて、取り立てて崇めるべき性質のものではありません。ある啓示の為に適当な道具として選ばれ、その啓示が託されたというに過ぎません。霊媒の功績とすべきものではないのです。又真に忠実な僕としての心得のある者なら、そうは思わないものです。ただの媒体、神の啓示の栄誉ある道具に過ぎません。その栄誉も、霊界側から見ての栄誉であり、世俗的な意味での栄誉ではありません。神の僕-神のメッセージの受け皿として特に選ばれた者という点において、我々の側にとって有り難い存在という意味です。
 その任務を忠実に遂行するにつれて霊媒も恩恵を受け、地上を去って後、今度は自分が神のメッセンジャーとして、地上の霊媒にメッセージを届ける役目に相応しい人物として成長していきます。その受け皿は自ずと気高い芳香に満ちております。そして神の僕として仕えれば仕える程、その気高さを増して行きます。神の真理という名の宝石箱として、人間と天使の双方から敬意を受けるに足る存在となっていきます。
 しかし、万が一にも不純なもの、不正なるもの、臆病或いは怠惰の要素を心に宿すようなことがあれば、或いはもし神のみに帰すべき栄光を私せんとする傲慢無礼を働くようなことがあれば、更には又、世俗への迎合、高慢、不純なる動機を抱くようなことがあれば、その時は神の道具として選ばれた使命によって恩恵を受けるどころか、絶好の成長の機会を無駄にした不徳によって、大いなる害を蒙ることになります。
 それが不変の神の摂理なのです。大いなる栄誉は大いなる責任が伴うということです。善行の絶好機を手にしつつ無為に過ごした者、或いはそれを故意に悪用した者には、神の意志を知りつつその実行を怠った僕としての禍が降りかかります。前者が向上するところを彼は下降します。霊的能力は没収され、道徳的には又知的にも堕落していきます。栄誉を投げ棄て、そして、見よ、恩恵に代わって禍が彼に降りかかります。
 それ故、そうした経歴の持ち主が他界した後に万が一にも通信を送って来るとすれば、その通信の内容は、その人物の地上での評判から想像されるものよりは必然的に低いものとなりましょう。地上で彼が語った言葉は彼自身のものではなくインスピレーションによる言葉でした。が、今や神より授かった霊力は没収されています。彼の語る言葉は(親和力によって)引かれてゆく低次元の社会に似つかわしいものとなっています」

 (注)-正篇の『霊訓』で同じテーマを同じくインペレーターが別の角度から説いている箇所があるので、長文を厭わず引用しておく。自動書記によるものなので文体がやや異なる。
 《我々にとっての最大の難事は、進化した高級霊からの通信を受け取るに相応しい霊媒を見出すことである。そうした霊媒はまず精神が受容性に富んでいなければならない。受容性の限度以上のものは、所詮、伝え得ないのが道理だからです。次に、愚かな地上的偏見に囚われぬ者でなければならない。若い時代の誤った思想を潔く捨て去り、たとえ世間に受け入れられないものでも、真理は真理として素直に受け入れる精神の持ち主でなければならない。
 まだある。独断主義から解放されねばならない。この世的思想から抜け出せないようではいけません。神学的独断と派閥と偏狭な教義から解放されなければなりません。己の無知に気付かない、一知半解の弊に陥ってはなりません。常に囚われのない探究心に燃えた魂であらねばなりません。進歩性のある知識に憧れる者、洞察力に富む者であらねばなりません。常により多き真理の光、より豊かな知識を求める者であらねばなりません。要するに真理の吸収に飽くことを知らぬ者でなければならないのである。
 又我々の仕事は、頑固な敵対心からの自己主張、又は高慢な出しゃばり根性と利己心によって阻害されることがあってはなりません。そのような霊媒では仕事らしい仕事は為し得ないし、為し得た僅かな仕事というのも、利己主義と独断主義を排除するのが精一杯ということになる。我々が求めるのは有能にして真摯、そして飽くなき探究心に燃えた無欲の心の持ち主でなければならないのです。
 そのような人材が発見困難であると述べたわけがこれで理解して頂けるであろう。まさに至難のわざであり、まず不可能に近い。されば我々は、見出し得る限りの最高の人材を着実に鍛練した上で採用する。まずその魂に愛の精神を吹き込み、同時に、己の知的性向にそぐわぬ思想に対する寛容心を養う。そうすることで独断的偏見から脱け出させ、真理が多面性を有するものであり一個人の専有物でないとの悟りへの地ならしを行う。そうして魂の成長に合わせて知識を着々と積み重ね、基礎さえ出来上がれば、安心して上部構造を築き上げていくくことが出来る。かくして霊的真理と思想的性向を徐々に形成し、我々の初期の目標を調和させていく。
 ここに至って多くの者が脱落して行く。そして我々も、彼等は地上にては真理を受け入れることが不可能であること、又古来の地上的偏見と頑固な独断的信仰が容易に拭えないものであること、それ故時の流れに任せる外はなく、我々にとって用のない存在となったことを知って諦めるのです。
 又真理への完全な忠誠心と、恐怖心も不安も宿さぬ信念は、我々による教化によって着実に培われて行くものである。我々は神とその使者たる指導霊への全幅の信頼へ向けて霊媒を導いて行く。そして我々が神より許された範囲での行為と霊的教訓を忍耐強く待つ心構えを培う。こうした心構えは、多くの霊媒に見受けられる苛立った、落ち着きのない不満と正反対である。
 この段階で又多くの者が脱落して行く。恐怖と不安に駆られ、疑念に襲われる。古くからの神学を説く神は、自分のような人間の破滅を今か今かと見守っていると思い、悪魔が罠にかけんとして油断なく見張っていると思い込む。確かに、古い信仰の基盤が揺さぶられてはいても、まだ新しい信仰基盤は敷かれていない。その間隙に邪霊がつけ入り、揺れ動く心を誘惑する。遂に恐怖に堪り兼ねた者が脱落し、我々にとって用のない存在となって行く。
 それでもなお我々は、人間のあらゆる利己心を払拭しなければなりません。我々の仕事には私心の出しゃばりは許されないのです。さもないと、我々は何も為し得ません。霊界からの指導にとって人間の身勝手、自己満足、自慢、高慢、自惚れ程致命的なものはありません。小知を働かせてはなりません。我々からの知的働きかけの妨げとなるからです。独断主義に偏った知性は使用しようにも使いものになりません。ましてそれが高慢と自惚れに満ちていれば、我々には近付くことすら出来ません。
 いつの時代にも自己犠牲こそが聖賢の徳であった。その時代相応の進歩的真理を旗印にした予言者達は皆、我欲を滅却して使命に生きた人達でした。聖書にその名を留めるユダヤの指導者達は、無私の純心をもって誠実な人生を送りました。特にイエスはその地上生活を通して、使命の為の最高の自己犠牲と誠実さを身をもって示した。偉大にして崇高なる模範であった。イエスという人物の中に、人類の全歴史を通して最大限の人間の可能性の証を見ることが出来るのです。
 この世から誤りを駆逐し真理の光をもたらした人々は皆、己に課せられた使命の為に無私と献身の生涯を送った者であった。ソクラテスにプラトン、ヨハネにパウロ、こうした真理の先駆者、進歩の先導者は皆無視無欲の人物-我を張らず、尊大ぶらず、自惚れることを知らぬ者達であった。一途な誠実さ、使命への献身、自己滅却、私欲の無さ等々の美徳を最高に発揮した人達です。それなくしては彼等の仕事が成就されることはなかったであろう。もしも私欲に囚われていたならば、その成功の確信が蝕まれていたことであろう。謙虚さと誠実さと一途さとがあったればこそ成就し得たのです。
 我々が求める人材とはそのような資質の持ち主です。情愛に溢れ、誠実にして己を出さず、しかも真理を素直に受け入れる性格。一途に神の仕事に目を据え、一切の地上的打算を忘れた性格。こうした麗しい魂の持ち主が稀であることは確かです。
 が、友よ、平静にしてしかも誠実且つ一途な哲学者の心を心とされよ。情愛に溢れ、寛容性の富み、いついかなる時も進んで救いの手を差し伸べる博愛主義者の心を心とされよ。更に、報酬を求めぬ神の僕としての無欲の心を心とされよ。神聖にして崇高なる仕事は、そうした心の持ち主をおいて他に成就し得る者はいない。我々もそうした人材を油断なく見守り、警戒を怠らぬであろう。神より遣わされた天使も笑みを浮かべて見つめ、外的より保護してくれることであろう》

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