カテゴリ:★『霊訓』 > モーゼス 続『霊訓』 自動書記による霊訓
自動書記による霊訓 一
はじめに
ステイントン・モーゼスによる自動書記は1883年にモーゼス自身によって『霊訓』 Spirit Teachings と題する一巻の書に纏められている。その多くは既に心霊誌〝ライト〟に掲載されたものであるが、それについてインペレーターはモーゼスに(自動書記で)こう述べている。
「あれは、受け入れる用意の出来た者の為に独立した一個の霊が貴殿の精神に働きかけることが可能であることを証明したものである。あの中に述べられていることを検証し得心しようとする意欲と、それとは全く別個の知的存在とが交信している事実が明らかであろう。その事実は又新たな立証を得ることになろう」
又1874年4月10日の発行の心霊誌〝スピリチュアリスト〟には次のような一節が見える。
「霊的教訓が授けられる通路となっている人物(モーゼス)は書物を読みその内容に注意を向けていても、霊側はその人物の手を借りて、それとは全く異なる問題について書くことが出来る。かくして死後存続についての驚異的な証拠が彼の霊媒能力を通して次々と提供されつつあります」
その『霊訓』についてモーゼス自身は1874年9月にこう書いている。
「この一年と半年の間に明らかに私以外の始源から届けられており、その筆跡は整然として乱れることがなかった。通信霊の一人ひとりが、機械的正確さをもって、文体と筆跡を維持し続けている。全く乱れが見られないのである。書いている手にハンカチを被せたり、書きながら書物を読んだりしても、少しも変化が生じない。どんな場所で書いても、纏まったことを最後まで述べる。これは明らかに私以外の存在が書いている証拠である」
霊団側の話によると、通信を受けながら別の用事が出来るということは、モーゼスの稀にみる霊媒的素質を示しており、あれだけの通信が得られるのは精神と肉体と霊的素質とが稀にみる一体関係にあったからだという。
-構成者
(注)-特に指摘がない限り通信霊はインペレーターで質問者はモーゼスである。霊言と異なり自動書記は古い文語体で書かれている。『霊訓』(完訳)ではそれを訳文に反映させる必要があったが、本書は断片の寄せ集めで構成されており前後の繋がりが途切れるところが多いので、それぞれの内容によって現代的な文語体と口語体とを織り交ぜた文に訳した。
「我々は霊力と才能と発達の程度を異にする知的存在-様々な影響力と感化力をもつ霊の集団である。それ故、割り当てられる仕事は各自の能力に応じたものとなっている。命令を下す者がおり、それに従う者がいる。各分野に監督がおり、その指令に従って担当者が仕事に当たります。
全てにおいて忠実さと正確さを旨としています。我々は神の福音を説く者の集団です。計画遂行の為に構成された四十九名の霊団の組織については既に述べてある。(通信の末尾に記される)署名(サイン)は一人であっても、その通信の中身については、多くの場合、複数の霊が関与している。その教説は従来の神学上の誤謬の修正と同時に、新たな真理の啓示も目的としており、真理の特殊な入手方法に心得のある者がその啓示に関わることになろう」
「本日の到着が遅れたのは私の出席を必要とする霊の集会があった為です。全能なる大神への讃仰の祈りを捧げる為によく開かれる集会の一つです。霊団同士の協力を必要とする時、及び我々より更に高級にして賢明なる霊からの力を授かる必要のある時に、そうした集会をもつのである」
「我々は今、聖なる天使と霊の大集会に出席して来たばかりです。その集会において(地上での大事業の進展具合について)協議し、大神へ厳かなる讃仰の祈りを捧げてまいりました。我々の声が一体となって讃仰の聖歌へと高まり、それに応えて大神が聖なる霊力をお授け下さり、それが(地上での大事業における)闘争の支えとなるのである」
-具体的なことを教えて頂けませんか。
「地上各地での使命に携わっている霊団の指導霊が一堂に召集され、最高神への讃仰の大集会が催されます。時折そうした集会をもって全能なる大神を讃美するのが、我々の習わしなのです。それが、とかく過ちを犯しがちな魂を導く労多き仕事で疲弊し切った我々自身の元気回復にもなります。エネルギーを一新し、神の恵み多き霊力を蓄えるのです。
その荘厳な讃仰と讃美の儀式には、第三界以下(幽界)の霊は参列を許されません。又、我々と同じ界の者でも、さしあたって他の存在の為の仕事に携わっていない者は参列しません。
その使命は地上だけとは限らない。既に肉体を棄てていながら、地上的な情愛や、かつて宿っていた肉体の欲情による地縛的状態から脱け切れずにいる霊、或いは又、天寿を全うせずして未熟な状態で霊界へ送り込まれ、看護と指導を必要とする霊の救済に当たることを使命としている者もいる。
地上時代ずっと指導に当たった霊が死後も引き続き指導霊として、地上時代に始まった教育を霊界においても担当することは、よくあることである」
-あなたはイエス・キリストの直接の影響力の下に行動しておられると理解してよろしいか。
「よろしい。私は以前、私自身が試練の境涯を通過して超越界へと入って行かれた霊の影響下にあると述べたことがある。その霊こそ、かつて地上でイエスと名乗った霊です。その方が今(超越界より再度降下されて)地上人類の霊的救済、新たな真理の啓示、そして積年の誤謬の一掃の為の計画を用意されつつあります。その為の特使を神界にて選ばれ、その霊に地上の霊媒の選定を一任される。イエスこそ、この度の大事業の最高指揮者であらせられる」
「地上の人間は内在する霊的資質の開発の必要性を常に自覚していなければなりません。この度の我々の(心霊現象演出の)活動も霊的啓示を授けることを目的としたものであって、単に人間を面白がらせたり驚かせたりする為のものではない。教えを受けようとする心構えのない者には、我々の教えも通じないものです。
その高等な霊的真理への関心の乏しさが、高級霊が地上と交信しようとしても満足のいく結果が得られない原因です。人間側に学ぼうとする姿勢が乏しいからです。好奇心の満足しか求めないからです。我々としては、一方において邪霊集団による絶え間ない策謀によって不利な条件を強いられ、他方において人間の冷え切った信仰心、或いは未熟な受容性に乏しい霊性に手こずりつつも、我々として出来うる限りの努力をしているところである」
「我々としては、せめて我々の影響下に置かれた同志だけでも、魂の憧憬の崇高さに応じてそこに訪れる霊の霊格の程度が決まることを、実感として体験させてあげられればという気持です」
「純真無垢な人間が邪霊集団からの攻撃を受けることは有りうることです。が、その際は背後霊団の守護を得て首尾よく撃退せしめるでしょう。そうした場合は別として、親和力の法則に例外はありません。類は類を呼ぶ、ということです」
-必ずしもそうとばかりも言えないのではないでしょうか。
「絶対不変というわけではないが、それが通則です。悪は悪を引き寄せる。好奇心ばかり旺盛で見栄っ張りで軽薄な人間の回りには同じように軽薄で未発達な霊が寄って来ます。しかし、純心無垢な善人には必ずしもその通則が当てはまらないことがある。時として未発達霊からの攻撃に晒されることがあります。試練である場合もあり、邪霊集団の策謀である場合もある」
「高級霊による働きかけは声もなく音もなく、又往々にして何の兆候も見られないものです。結果を見て漸く知られるのみで、途中の過程にはそれが見られません。インスピレーションは人間が〝神〟と呼んでいるもの、すなわち宇宙にあまねく内在する大霊から流れてくるものです。
我々と同じく人間も霊の大海の中に生きているのであり、全ての知識と叡智はそこから魂へと注ぎ込まれている。これが所謂聖霊の内在、すなわち神は人間と共にあり、人間の心の中に宿り給う(ヨハネ伝14・17)ということです。以前我々が皆さんも神である-一人一人が内部に普遍的大霊の一部を宿しているという意味において、人間は全て絶対神の顕現である、と述べたのも、それと同じ真理を述べたのでした。
霊的身体はその霊の大海から養分を摂取し、存在を維持している。物的身体が呼吸によって大気中から生命素を摂取して存在を維持しているのと同じで、霊的大気と霊体との関係はまさに空気と肉体との関係と同じです。人間界の叡智も又その霊的大気圏から得られる。主として霊による中継によって行なわれます。受容性の高い者、霊性の高い者程多くを摂取する。
所謂天才もその類に入ります。有用な発見、人類の役に立つ発明をする者も皆、そのインスピレーションを霊の世界から得ています。その発明品は人間が思いつく以前から霊界に存在していたのである。天才の閃きも、その根源的アイディアが芽生える霊界から放たれる光の反射に過ぎません」
ステイントン・モーゼスによる自動書記は1883年にモーゼス自身によって『霊訓』 Spirit Teachings と題する一巻の書に纏められている。その多くは既に心霊誌〝ライト〟に掲載されたものであるが、それについてインペレーターはモーゼスに(自動書記で)こう述べている。
「あれは、受け入れる用意の出来た者の為に独立した一個の霊が貴殿の精神に働きかけることが可能であることを証明したものである。あの中に述べられていることを検証し得心しようとする意欲と、それとは全く別個の知的存在とが交信している事実が明らかであろう。その事実は又新たな立証を得ることになろう」
又1874年4月10日の発行の心霊誌〝スピリチュアリスト〟には次のような一節が見える。
「霊的教訓が授けられる通路となっている人物(モーゼス)は書物を読みその内容に注意を向けていても、霊側はその人物の手を借りて、それとは全く異なる問題について書くことが出来る。かくして死後存続についての驚異的な証拠が彼の霊媒能力を通して次々と提供されつつあります」
その『霊訓』についてモーゼス自身は1874年9月にこう書いている。
「この一年と半年の間に明らかに私以外の始源から届けられており、その筆跡は整然として乱れることがなかった。通信霊の一人ひとりが、機械的正確さをもって、文体と筆跡を維持し続けている。全く乱れが見られないのである。書いている手にハンカチを被せたり、書きながら書物を読んだりしても、少しも変化が生じない。どんな場所で書いても、纏まったことを最後まで述べる。これは明らかに私以外の存在が書いている証拠である」
霊団側の話によると、通信を受けながら別の用事が出来るということは、モーゼスの稀にみる霊媒的素質を示しており、あれだけの通信が得られるのは精神と肉体と霊的素質とが稀にみる一体関係にあったからだという。
-構成者
(注)-特に指摘がない限り通信霊はインペレーターで質問者はモーゼスである。霊言と異なり自動書記は古い文語体で書かれている。『霊訓』(完訳)ではそれを訳文に反映させる必要があったが、本書は断片の寄せ集めで構成されており前後の繋がりが途切れるところが多いので、それぞれの内容によって現代的な文語体と口語体とを織り交ぜた文に訳した。
「我々は霊力と才能と発達の程度を異にする知的存在-様々な影響力と感化力をもつ霊の集団である。それ故、割り当てられる仕事は各自の能力に応じたものとなっている。命令を下す者がおり、それに従う者がいる。各分野に監督がおり、その指令に従って担当者が仕事に当たります。
全てにおいて忠実さと正確さを旨としています。我々は神の福音を説く者の集団です。計画遂行の為に構成された四十九名の霊団の組織については既に述べてある。(通信の末尾に記される)署名(サイン)は一人であっても、その通信の中身については、多くの場合、複数の霊が関与している。その教説は従来の神学上の誤謬の修正と同時に、新たな真理の啓示も目的としており、真理の特殊な入手方法に心得のある者がその啓示に関わることになろう」
「本日の到着が遅れたのは私の出席を必要とする霊の集会があった為です。全能なる大神への讃仰の祈りを捧げる為によく開かれる集会の一つです。霊団同士の協力を必要とする時、及び我々より更に高級にして賢明なる霊からの力を授かる必要のある時に、そうした集会をもつのである」
「我々は今、聖なる天使と霊の大集会に出席して来たばかりです。その集会において(地上での大事業の進展具合について)協議し、大神へ厳かなる讃仰の祈りを捧げてまいりました。我々の声が一体となって讃仰の聖歌へと高まり、それに応えて大神が聖なる霊力をお授け下さり、それが(地上での大事業における)闘争の支えとなるのである」
-具体的なことを教えて頂けませんか。
「地上各地での使命に携わっている霊団の指導霊が一堂に召集され、最高神への讃仰の大集会が催されます。時折そうした集会をもって全能なる大神を讃美するのが、我々の習わしなのです。それが、とかく過ちを犯しがちな魂を導く労多き仕事で疲弊し切った我々自身の元気回復にもなります。エネルギーを一新し、神の恵み多き霊力を蓄えるのです。
その荘厳な讃仰と讃美の儀式には、第三界以下(幽界)の霊は参列を許されません。又、我々と同じ界の者でも、さしあたって他の存在の為の仕事に携わっていない者は参列しません。
その使命は地上だけとは限らない。既に肉体を棄てていながら、地上的な情愛や、かつて宿っていた肉体の欲情による地縛的状態から脱け切れずにいる霊、或いは又、天寿を全うせずして未熟な状態で霊界へ送り込まれ、看護と指導を必要とする霊の救済に当たることを使命としている者もいる。
地上時代ずっと指導に当たった霊が死後も引き続き指導霊として、地上時代に始まった教育を霊界においても担当することは、よくあることである」
-あなたはイエス・キリストの直接の影響力の下に行動しておられると理解してよろしいか。
「よろしい。私は以前、私自身が試練の境涯を通過して超越界へと入って行かれた霊の影響下にあると述べたことがある。その霊こそ、かつて地上でイエスと名乗った霊です。その方が今(超越界より再度降下されて)地上人類の霊的救済、新たな真理の啓示、そして積年の誤謬の一掃の為の計画を用意されつつあります。その為の特使を神界にて選ばれ、その霊に地上の霊媒の選定を一任される。イエスこそ、この度の大事業の最高指揮者であらせられる」
「地上の人間は内在する霊的資質の開発の必要性を常に自覚していなければなりません。この度の我々の(心霊現象演出の)活動も霊的啓示を授けることを目的としたものであって、単に人間を面白がらせたり驚かせたりする為のものではない。教えを受けようとする心構えのない者には、我々の教えも通じないものです。
その高等な霊的真理への関心の乏しさが、高級霊が地上と交信しようとしても満足のいく結果が得られない原因です。人間側に学ぼうとする姿勢が乏しいからです。好奇心の満足しか求めないからです。我々としては、一方において邪霊集団による絶え間ない策謀によって不利な条件を強いられ、他方において人間の冷え切った信仰心、或いは未熟な受容性に乏しい霊性に手こずりつつも、我々として出来うる限りの努力をしているところである」
「我々としては、せめて我々の影響下に置かれた同志だけでも、魂の憧憬の崇高さに応じてそこに訪れる霊の霊格の程度が決まることを、実感として体験させてあげられればという気持です」
「純真無垢な人間が邪霊集団からの攻撃を受けることは有りうることです。が、その際は背後霊団の守護を得て首尾よく撃退せしめるでしょう。そうした場合は別として、親和力の法則に例外はありません。類は類を呼ぶ、ということです」
-必ずしもそうとばかりも言えないのではないでしょうか。
「絶対不変というわけではないが、それが通則です。悪は悪を引き寄せる。好奇心ばかり旺盛で見栄っ張りで軽薄な人間の回りには同じように軽薄で未発達な霊が寄って来ます。しかし、純心無垢な善人には必ずしもその通則が当てはまらないことがある。時として未発達霊からの攻撃に晒されることがあります。試練である場合もあり、邪霊集団の策謀である場合もある」
「高級霊による働きかけは声もなく音もなく、又往々にして何の兆候も見られないものです。結果を見て漸く知られるのみで、途中の過程にはそれが見られません。インスピレーションは人間が〝神〟と呼んでいるもの、すなわち宇宙にあまねく内在する大霊から流れてくるものです。
我々と同じく人間も霊の大海の中に生きているのであり、全ての知識と叡智はそこから魂へと注ぎ込まれている。これが所謂聖霊の内在、すなわち神は人間と共にあり、人間の心の中に宿り給う(ヨハネ伝14・17)ということです。以前我々が皆さんも神である-一人一人が内部に普遍的大霊の一部を宿しているという意味において、人間は全て絶対神の顕現である、と述べたのも、それと同じ真理を述べたのでした。
霊的身体はその霊の大海から養分を摂取し、存在を維持している。物的身体が呼吸によって大気中から生命素を摂取して存在を維持しているのと同じで、霊的大気と霊体との関係はまさに空気と肉体との関係と同じです。人間界の叡智も又その霊的大気圏から得られる。主として霊による中継によって行なわれます。受容性の高い者、霊性の高い者程多くを摂取する。
所謂天才もその類に入ります。有用な発見、人類の役に立つ発明をする者も皆、そのインスピレーションを霊の世界から得ています。その発明品は人間が思いつく以前から霊界に存在していたのである。天才の閃きも、その根源的アイディアが芽生える霊界から放たれる光の反射に過ぎません」
自動書記による霊訓 二
「霊媒能力は、別の分野なら(学問的・芸術的)天才という形で発揮されるものが、霊的な分野で発揮されたものである。霊の導きとインスピレーションに対して開かれた耳をもつ天才であり、それが次第に霊的現象へと移行したのです。教訓が忠実にそして明瞭に伝達される為には、霊媒本人の個性は滅却しなければなりません。今の貴殿の場合がそうです。それ故今こうして与えられるメッセージは人間的誤謬を最大限排除した、霊の声ということです。
一言にして言えば、霊的存在である人間が霊的影響力の流入口を開く-それが霊媒能力である。あくまで霊的な目的の為に使用しなければならない。営利目的の為、単なる好奇心の満足の為、或いは低劣な、無意味な目的の為に使用してはなりません。
霊媒能力を発揮する人間の特質はその人の霊にあるのであって、肉体にあるのではない。そのことは、霊媒現象がありとあらゆる体質と体格の霊媒において起きている事実を見ても分かるであろう。男性と女性、磁気的体質と電気的体質、背が低くて頑健な体質と細くて華奢な体質、年輩の人と若い人、等々。こうした事実だけで霊媒能力が肉体だけの問題でないことが分かるであろう。
更に、死後も尚その能力が存在しているという事実がそれを裏書している。地上で霊媒だった者は肉体の死後もその能力を維持していて、それを我々との協力の中で使用する。地上へ派遣されるのはそうした霊が最も多い。交信が容易なのである。お蔭でその種の能力を欠く霊も地上界と交信出来る。貴殿が地上の霊媒である如く、その種の霊は霊界の霊媒というわけです。
忘れてならぬことは、全ての霊的才能、霊媒能力は、進化にとって測り知れない価値を有するということである。祈りにも似た注意をもって培い、大切にすべきものであり、それを誤用又は悪用した時は恐ろしい代償を支払わねばならない。これを言い換えれば、霊能の所有者は普通一般の者より神とその天使の近くに存在していることである。天使からの働きかけに反応し易いということである。
しかし同時に、悪の勢力からの攻撃にも晒され易いことになる。善を志向する影響力の感化を受け易いのであるから、普通一般の人より一層強力な熱意をもってその才能を大事にし、守らねばならない」
「俗世的なものには、可能な限り、囚われぬよう心掛けることである。個人的見解というものも持たぬ方がよい。我々にとって障害にしかなりません。ひたすらに永遠にして不変なるものへ向けて歩を進めることです。自分一個に関わることは往々にして利己的でケチ臭いものとなり易い。そうしたものはまず我々は関心を向けません。これまで我々は貴殿を宗教的側面に関わる教えに注意を向けさせてきた。全ては我々の指導によって行なわれて来たことであり、これからも(現象的なものよりも)その種の問題に関心を向けて欲しく思う」
-確かに、あなたの計画の後を辿ってみますと、私のすることは何もかもご存知なので不思議でなりません。漸く私も、全ての行為が導かれていること、全人生が目に見えない力によって形作られて行っていることが分かって来ました。
「貴殿は我々に絶対的真理を啓示することが可能であるか否かを問い、これまで数々の霊が述べたものには矛盾があるところから、絶対的真理などは有り得ず、それを得ようとするのは時間の無駄であると述べている。
もしも貴殿の言う〝真理〟が本質的に人間的理解力を超えた問題についての正確無比な叙述を意味するとすれば、我々には、否、他のいかなる者にも、絶対的真理を啓示することは不可能です。人間には到底理解出来ないからである。が、もしも人間が知っておくべき事実に関するより高度な啓示-知性を発達させ、より次元の高い知識へと誘うものを意味するとすれば、我々がこうして地上へ降りて来たそもそもの目的は、そうした真理の啓示が目的であると答えよう。それこそが我々の使命の目的なのです。
我々はいたずらに人間を喜ばせたり驚かせたりする為に参ったのではない。教訓を授け、向上させんが為です。我々の為すことには一つ一つに目的がある。すなわち絶対的真理についてより高度にして幅広き見解を啓示することです」
(注)-モーゼスが述べたことと、それを受けてインペレーターが述べていることとが、一見、噛み合っていないように思える。が、それはこの一部分のみを抜粋するからそう映るのであって、インペレーターはこうした霊的通信がいずれ書物となって広く世界の人間に読まれることを考慮して、局所的な質問に対しても大局から見た答え方をすることが多い。それはシルバーバーチの場合も同じである。要するにスピリチュアリズムは地球全体に関わる計画に基づいた霊的活動であり、従ってその霊媒となる人物のことは誕生時から全てを知り尽くしていることを言っている。
-〝私と父とは一つである〟というイエスの言葉を説明してください。
「その言葉には自分は神であるという意味は少しも含まれていません。とんでもない誤解というべきです。その意図は我々が主張するところと全く同じです。すなわち我々は神の使者、特別なメッセージの証人として参っているのである。そして、イエスがそうしたように、そのメッセージの神性とその証拠としての現象に目を向けさせています。異論の多い問題はなるべく避けたい。例えば貴殿は他の(キリスト教の)僚友と同様に、バイブルの中の用語に虚構の重要性を付すという過ちを犯している。又、ヨハネの書の翻訳の中の一語句を引っ張り出して、その上に不吉なドグマを築き上げている(後注)。バイブルも一般の書物と同じように公正な解釈を施すべきです。又神学で大袈裟に取り上げている言葉も、現代とは異なる時代の異なる民族に対して語られたもので、その伝えられ方の正確さも様々です。それらは思想においても必要性においても生活習慣においても、現代とは全く異なる人間に対して語られたもので、しかも、そうでなくても欠点だらけであるところに、それを大なり小なり不正確な〝翻訳〟を通じて読むという新たな危険を冒して来ている。
貴殿が引用した一文には本来、神とイエスという二人の人物が一体であるという意味はありません。抽象的な意味しかありません。人物による一体ではなく目的において一つ、意図することにおいて一つということである。〝イエスなる私は、授かれる仕事において父と一体である〟ということである」
(注)-これはヨハネ黙示録に出ているハルマゲドンのことを言っていると思われる。元来は善と悪との最後の決戦場として出ているだけであるが、それが地球の壊滅的な動乱と救世主イエスの再臨ということに発展している。『シルバーバーチの霊訓』第二巻に次のような問答がある。
「ハルマゲドンが急速に近付きつつあるという予言は本当でしょうか」
「いいえ、そういう考えは真実ではありません。注意して頂きたいのは、バイブルの編纂に当たった人達は大なり小なり心霊能力を持っていて、そのインスピレーションをシンボルの形で受け取っていたということです。
そもそも霊的なものは霊的に理解するのが鉄則です。象徴的に述べられているものをそのまま真実として読み取ってはいけません。霊界から地上への印象付けは絵画的な翻案によって行ないます。それをどう解釈するかは人間側の問題です。所謂ハルマゲドン、地球全土が破壊され、そこへイエスが生身をもって出現して地上の王となるというのは真実ではありません。全ての生命は進化の途上にあります。物質界に終末はありません。これ以後もずっと改善と成長と進化を続けます。それと共に人類も改善され成長し進化していきます。生命の世界に始まりも終わりもありません」
-でも、その他にも自分のことを神であると言っているかに受け取れる言葉が沢山ありますが、それはどう解釈したらよろしいでしょうか。
「我々の見るところによれば、イエスの言葉は地上時代において既に誇張されて伝えられていました。つまり弟子達がイエスの言葉をイエスが意図した意味より遙かに誇張して記録したのです。確かにイエスは自分が神の使いであることを宣言しましたし、事実そうだった。それを東方教会流の誇張した比喩を用いて表現した。それを無知にして教養に欠ける弟子達が〝十字架の死〟と〝復活〟、及びそれに付随して起きた様々な不思議な現象と結び付けて、必要以上に大袈裟に表現した。それが遂には理知的人間には付いて行けない驚異的な次元へと発展してしまったのである」
一言にして言えば、霊的存在である人間が霊的影響力の流入口を開く-それが霊媒能力である。あくまで霊的な目的の為に使用しなければならない。営利目的の為、単なる好奇心の満足の為、或いは低劣な、無意味な目的の為に使用してはなりません。
霊媒能力を発揮する人間の特質はその人の霊にあるのであって、肉体にあるのではない。そのことは、霊媒現象がありとあらゆる体質と体格の霊媒において起きている事実を見ても分かるであろう。男性と女性、磁気的体質と電気的体質、背が低くて頑健な体質と細くて華奢な体質、年輩の人と若い人、等々。こうした事実だけで霊媒能力が肉体だけの問題でないことが分かるであろう。
更に、死後も尚その能力が存在しているという事実がそれを裏書している。地上で霊媒だった者は肉体の死後もその能力を維持していて、それを我々との協力の中で使用する。地上へ派遣されるのはそうした霊が最も多い。交信が容易なのである。お蔭でその種の能力を欠く霊も地上界と交信出来る。貴殿が地上の霊媒である如く、その種の霊は霊界の霊媒というわけです。
忘れてならぬことは、全ての霊的才能、霊媒能力は、進化にとって測り知れない価値を有するということである。祈りにも似た注意をもって培い、大切にすべきものであり、それを誤用又は悪用した時は恐ろしい代償を支払わねばならない。これを言い換えれば、霊能の所有者は普通一般の者より神とその天使の近くに存在していることである。天使からの働きかけに反応し易いということである。
しかし同時に、悪の勢力からの攻撃にも晒され易いことになる。善を志向する影響力の感化を受け易いのであるから、普通一般の人より一層強力な熱意をもってその才能を大事にし、守らねばならない」
「俗世的なものには、可能な限り、囚われぬよう心掛けることである。個人的見解というものも持たぬ方がよい。我々にとって障害にしかなりません。ひたすらに永遠にして不変なるものへ向けて歩を進めることです。自分一個に関わることは往々にして利己的でケチ臭いものとなり易い。そうしたものはまず我々は関心を向けません。これまで我々は貴殿を宗教的側面に関わる教えに注意を向けさせてきた。全ては我々の指導によって行なわれて来たことであり、これからも(現象的なものよりも)その種の問題に関心を向けて欲しく思う」
-確かに、あなたの計画の後を辿ってみますと、私のすることは何もかもご存知なので不思議でなりません。漸く私も、全ての行為が導かれていること、全人生が目に見えない力によって形作られて行っていることが分かって来ました。
「貴殿は我々に絶対的真理を啓示することが可能であるか否かを問い、これまで数々の霊が述べたものには矛盾があるところから、絶対的真理などは有り得ず、それを得ようとするのは時間の無駄であると述べている。
もしも貴殿の言う〝真理〟が本質的に人間的理解力を超えた問題についての正確無比な叙述を意味するとすれば、我々には、否、他のいかなる者にも、絶対的真理を啓示することは不可能です。人間には到底理解出来ないからである。が、もしも人間が知っておくべき事実に関するより高度な啓示-知性を発達させ、より次元の高い知識へと誘うものを意味するとすれば、我々がこうして地上へ降りて来たそもそもの目的は、そうした真理の啓示が目的であると答えよう。それこそが我々の使命の目的なのです。
我々はいたずらに人間を喜ばせたり驚かせたりする為に参ったのではない。教訓を授け、向上させんが為です。我々の為すことには一つ一つに目的がある。すなわち絶対的真理についてより高度にして幅広き見解を啓示することです」
(注)-モーゼスが述べたことと、それを受けてインペレーターが述べていることとが、一見、噛み合っていないように思える。が、それはこの一部分のみを抜粋するからそう映るのであって、インペレーターはこうした霊的通信がいずれ書物となって広く世界の人間に読まれることを考慮して、局所的な質問に対しても大局から見た答え方をすることが多い。それはシルバーバーチの場合も同じである。要するにスピリチュアリズムは地球全体に関わる計画に基づいた霊的活動であり、従ってその霊媒となる人物のことは誕生時から全てを知り尽くしていることを言っている。
-〝私と父とは一つである〟というイエスの言葉を説明してください。
「その言葉には自分は神であるという意味は少しも含まれていません。とんでもない誤解というべきです。その意図は我々が主張するところと全く同じです。すなわち我々は神の使者、特別なメッセージの証人として参っているのである。そして、イエスがそうしたように、そのメッセージの神性とその証拠としての現象に目を向けさせています。異論の多い問題はなるべく避けたい。例えば貴殿は他の(キリスト教の)僚友と同様に、バイブルの中の用語に虚構の重要性を付すという過ちを犯している。又、ヨハネの書の翻訳の中の一語句を引っ張り出して、その上に不吉なドグマを築き上げている(後注)。バイブルも一般の書物と同じように公正な解釈を施すべきです。又神学で大袈裟に取り上げている言葉も、現代とは異なる時代の異なる民族に対して語られたもので、その伝えられ方の正確さも様々です。それらは思想においても必要性においても生活習慣においても、現代とは全く異なる人間に対して語られたもので、しかも、そうでなくても欠点だらけであるところに、それを大なり小なり不正確な〝翻訳〟を通じて読むという新たな危険を冒して来ている。
貴殿が引用した一文には本来、神とイエスという二人の人物が一体であるという意味はありません。抽象的な意味しかありません。人物による一体ではなく目的において一つ、意図することにおいて一つということである。〝イエスなる私は、授かれる仕事において父と一体である〟ということである」
(注)-これはヨハネ黙示録に出ているハルマゲドンのことを言っていると思われる。元来は善と悪との最後の決戦場として出ているだけであるが、それが地球の壊滅的な動乱と救世主イエスの再臨ということに発展している。『シルバーバーチの霊訓』第二巻に次のような問答がある。
「ハルマゲドンが急速に近付きつつあるという予言は本当でしょうか」
「いいえ、そういう考えは真実ではありません。注意して頂きたいのは、バイブルの編纂に当たった人達は大なり小なり心霊能力を持っていて、そのインスピレーションをシンボルの形で受け取っていたということです。
そもそも霊的なものは霊的に理解するのが鉄則です。象徴的に述べられているものをそのまま真実として読み取ってはいけません。霊界から地上への印象付けは絵画的な翻案によって行ないます。それをどう解釈するかは人間側の問題です。所謂ハルマゲドン、地球全土が破壊され、そこへイエスが生身をもって出現して地上の王となるというのは真実ではありません。全ての生命は進化の途上にあります。物質界に終末はありません。これ以後もずっと改善と成長と進化を続けます。それと共に人類も改善され成長し進化していきます。生命の世界に始まりも終わりもありません」
-でも、その他にも自分のことを神であると言っているかに受け取れる言葉が沢山ありますが、それはどう解釈したらよろしいでしょうか。
「我々の見るところによれば、イエスの言葉は地上時代において既に誇張されて伝えられていました。つまり弟子達がイエスの言葉をイエスが意図した意味より遙かに誇張して記録したのです。確かにイエスは自分が神の使いであることを宣言しましたし、事実そうだった。それを東方教会流の誇張した比喩を用いて表現した。それを無知にして教養に欠ける弟子達が〝十字架の死〟と〝復活〟、及びそれに付随して起きた様々な不思議な現象と結び付けて、必要以上に大袈裟に表現した。それが遂には理知的人間には付いて行けない驚異的な次元へと発展してしまったのである」
自動書記による霊訓 三
続いてモーゼスは通信の内容に(通信霊によって)矛盾するところがあることを指摘してからこう尋ねた。
-あなたはキリストの神性(神であること)、バイブルの不謬性(その内容は全て神の絶対的な言葉であること)、及び再生説を否定なさると理解してよろしいでしょうか。
「初めの二つはつまるところ神学的教義に帰する問題であり、もう一つはその霊の未来への洞察力の問題である。イエスを神であるとし、バイブルを全て神の声であるとするのは神学の領域内でそう考えているに過ぎません。そうした誤った信仰を抱いた霊が死後何百年何千年経ってもそう思い続けていることは、けっして有り得ないことではない。致命的という程の害にもならないので、指導霊は他のもっと大切なことを教えることに専念し、そうした地上時代の信仰や思想はとりあえず休眠状態に置いておきます。
ところが、その霊が地上圏へ連れて来られると、そうした休眠中の古い考えが目を覚まして、かつてと同じように支配し始める。これは古い記憶の世界へ戻ることによって生じる必然の結果で、交霊に出現する霊が面影や癖、衣服まで地上時代と同じものを再現するのと原理は同じです。
同じ原理は、地上生活でもお馴染みであろう。久しく忘れていた感覚に触れて、昔の記憶が呼び覚まされることがあるであろう。一輪の花、一場の光景を見て古い思い出が甦って来ることがある。霊が地上へ戻って思い出の中に浸ると、完全に拭い去られていない誤った教義や信仰が息を吹き返し、精神を支配してしまうのである。
であるから、霊が神学的な話を持ち出したからといって、それだけでその通信の価値をうんぬんすべきではない。よほど霊力のある、しっかりとした霊でない限り、列席者の思念によって影響され、霊媒の潜在意識にある強い思想・信仰に簡単に左右されます。
未発達霊は貴殿が既に間違いであることを理解している教義を大真面目で説くことがある。霊といっても肉体を棄てたというに過ぎず、間違いに中々気付かないものである」
-間違った教理を信じ切っている霊が何百年何千年とそう思い込んだままの状態であると聞いて驚きを禁じ得ません。それはよくあることなのでしょうか。
「そう滅多にあるものでもないが、霊媒を通じて喋りたがる霊は往々にして大して高度な悟りに到達していない者達である。理解力に進歩のない連中である。請われもしないのに勝手に地上へ戻って来るということ自体が、あまり進歩的でないことの証左といえよう。中でも、人間の拵えた教理に雁字搦めにされたまま戻って来る霊が最も進歩が遅い。
真の啓示は人間の理解力に応じて神自ら啓示なさるものである。数ある地上の教説や信仰は大なり小なり誤りが見られる。故に(それが足枷となって)進歩が遅々としている者が実に多く、しかも、自らはその誤りに気付かぬのである。そうした類の霊が徒党を組み、その誤りが更に新たな誤りを生んで行くことがよくある。かくして無知と偏見と空理空論が下層界に蔓延し、人間にとってのみならず、我々霊側にとっても厄介なことになっている。
と言うのも、彼等の集団も彼等なりの使者を送って人間界をかく乱せんとするのです。彼等は必ずといってよい程敬虔な態度を装い、勿体ぶった言葉を用いる。それがいつしか進歩を邪魔し真理を窒息させるように企んでいるのです。魂の自由を束縛し真理への憧憬を鈍らせるということにおいて、それは断じて神の味方ではなく敵対者の仕業である。
霊の再生の問題はよくよく進化した高級霊にして初めて論ずることの出来る問題である。最高神のご臨席の下に神庁において行われる神々による協議の中身については、神庁の下層の者にすら知り得ない。正直に言って、人間にとってあまり深入りせぬ方がよい秘密もあるのである。その一つが、霊の究極の運命である。神庁において神議(はか)りに議られし後に一個の霊が再び肉体に宿って地上へ生まれるべきか、それとも否か、そのいずれの判断が下されるかは誰にも分からない。誰にも知り得ないのである。守護霊さえ知り得ないのである。全ては良きに計らわれるであろう。
既に述べたように、地上で広く喧伝されている形での再生(機械的輪廻転生)は真実ではありません。又偉大なる霊が崇高な使命と目的とを携えて地上へ降り、人間と生活を共にすることがあることは事実です。他にも我々の判断に基づいて広言を避けている一面もある。まだその機が熟していないと見ているからです。霊ならば全ての神秘に通じていると思ってはなりません。そう広言する霊は、自ら己の虚偽性の証拠を提供しているに他ならない」
「霊界での仕事は多種多様です。大神が教え給う崇高な真理をより多く学び取り多く理解すること。礼拝と仰讃の祈りを捧げること。心優しき霊に真理と進歩を授けること。悩める心弱き霊達への援助活動。自らの知性の開発。霊性の陶治。愛と知識の進歩。慈悲の行為。宇宙の進歩の研究。宇宙エネルギーの操作。以上、要するに、不滅の存在である霊の渇望を知性と愛の両面において充実させることと言えよう」
「界層といえば人間は地上と同じような〝場所〟を想像する。多分それ以外には想像のしようがないのかも知れない。
が、ご承知の通り、地上においても、道徳的並びに知的には同じ生活環境にありながら、霊的徳性と精神的美質において他に抜きん出ている人がいるものです。
霊性が自然に引き寄せられる状態ないし環境というものがあり、その環境ないし界層が更に幾つもの区域に分かれている。魂同士は互いが追求するものの共鳴性、気性の類似性、前世での体験の共通性、ないしは今携わっている仕事の同一性によって引かれ合う。思索より行動に重点を置く者もいれば、行動より思索に重点を置く者もいる。そうした違いはあっても、引かれ合う者同士は霊格の高さにおいては同じなのです。
各界層に隔たりがあるのはもとよりのことで、それ独自の性格と特質を具えております。地上との違い程大きくはないが、それぞれに相違点がある。肉体が無いことから仕事の種類は異なって来るが、一人一人に為すべき仕事があります。地上世界のような時間も空間もない。身体の為の必需品というものはない。霊体のエネルギーは肉体のそれより凝集性が強く、又、自己の為より他の為に使用されます」
-食事はとりますか。運動はどうなりますか。
「人間が摂取するものとは異なります。我々の身体は空間に瀰漫している霊的エーテルによって維持されており、その点は人間の霊的身体も同じです。普遍的な霊の養分、エネルギー源であり、肉体のあるなしには関係ありません。
運動は念力だけで事足ります。親和性があれば引かれ合い、なければ反発し合い、又、こちら側の欲求、ないしはこちら側の存在を望む相手側の欲求によっても引かれ合います。
霊的界層は〝状態〟であって、地上でいうところの〝場所〟ではない。そこに住む霊は人間のように時間と空間の条件には支配されません。住民は一地域に閉じ込められているのではない。住民のもつ道徳的、知的、並びに霊的な状態によって、異なる界層が生じております。つまりアフィニティ(同じ霊系に属する親和性の強い霊同士)が集まり、その共鳴性に溢れた交わりの中に喜びを味わっている。隣人だから、近所だからということで交わるのではなく、性向と目指す目的の類似性によって近付き合うのです。
高い界層には不浄な者は入れません。低い界層に集まるのは教育的指導を必要とする者達であり、その指導は、地上的雰囲気の中で喘いでいる霊の為に一筋の光明をもたらさんとして、光輝溢れる住処を後にして降下して来る高き界層の霊から授かります。
最初の三つの界は地上近くに存在する。そこにはそうした(地上的煩悩から脱し切れない)者達がひしめいている。第一の界層は、諸々の原因から、地上へ引き付けられている者です。地上生活では殆ど進歩が得られなかった者達で、必ずしも全面的に悪いわけではなく、ただ、折角のチャンスを利用しないまま無為に過ごした為に、今尚当てもなく迷い続けているのである。
更には、地上に残した僚友への情愛と親和性の為に、向上する可能性を有しながら敢えて地上圏に留まって援助している者もいる。それに加えて、霊的に若く、初歩的教育の段階にある者、不完全な身体をもって誕生した為に十分な体験を積むことが出来ず、学ぶべきだったことをこれから何とかして学ばねばならぬ者、不可抗力によって寿命を全うせずして地上を去った者がいる。自らの責任ではないとは言え、向上する為にはその埋め合わせをしなければならないのです」
「我々の所属する界の素晴らしさ-漂う心地よい香気、咲き乱れる愛らしい花々、辺りに広がる嬉しさを誘う景色は、到底、人間的想像の及ぶところではありません」
-そちらの家屋もやはり〝もの〟で出来ているのでしょうか。
「そうです。但し、人間が考えている〝もの〟とは違います。我々にとって実体が感じられるということであり、人間の粗末な感覚では実感は感じられないでしょう。我々は人間と違って空間の束縛を受けません。光や空気のように自在であり、地上の家のように一定の場所に固定されていません。それでいて生活環境は洗練された霊的感覚のお蔭で、人間が物的環境から受けるのと同じ、実体が感じられます」
-あなたはキリストの神性(神であること)、バイブルの不謬性(その内容は全て神の絶対的な言葉であること)、及び再生説を否定なさると理解してよろしいでしょうか。
「初めの二つはつまるところ神学的教義に帰する問題であり、もう一つはその霊の未来への洞察力の問題である。イエスを神であるとし、バイブルを全て神の声であるとするのは神学の領域内でそう考えているに過ぎません。そうした誤った信仰を抱いた霊が死後何百年何千年経ってもそう思い続けていることは、けっして有り得ないことではない。致命的という程の害にもならないので、指導霊は他のもっと大切なことを教えることに専念し、そうした地上時代の信仰や思想はとりあえず休眠状態に置いておきます。
ところが、その霊が地上圏へ連れて来られると、そうした休眠中の古い考えが目を覚まして、かつてと同じように支配し始める。これは古い記憶の世界へ戻ることによって生じる必然の結果で、交霊に出現する霊が面影や癖、衣服まで地上時代と同じものを再現するのと原理は同じです。
同じ原理は、地上生活でもお馴染みであろう。久しく忘れていた感覚に触れて、昔の記憶が呼び覚まされることがあるであろう。一輪の花、一場の光景を見て古い思い出が甦って来ることがある。霊が地上へ戻って思い出の中に浸ると、完全に拭い去られていない誤った教義や信仰が息を吹き返し、精神を支配してしまうのである。
であるから、霊が神学的な話を持ち出したからといって、それだけでその通信の価値をうんぬんすべきではない。よほど霊力のある、しっかりとした霊でない限り、列席者の思念によって影響され、霊媒の潜在意識にある強い思想・信仰に簡単に左右されます。
未発達霊は貴殿が既に間違いであることを理解している教義を大真面目で説くことがある。霊といっても肉体を棄てたというに過ぎず、間違いに中々気付かないものである」
-間違った教理を信じ切っている霊が何百年何千年とそう思い込んだままの状態であると聞いて驚きを禁じ得ません。それはよくあることなのでしょうか。
「そう滅多にあるものでもないが、霊媒を通じて喋りたがる霊は往々にして大して高度な悟りに到達していない者達である。理解力に進歩のない連中である。請われもしないのに勝手に地上へ戻って来るということ自体が、あまり進歩的でないことの証左といえよう。中でも、人間の拵えた教理に雁字搦めにされたまま戻って来る霊が最も進歩が遅い。
真の啓示は人間の理解力に応じて神自ら啓示なさるものである。数ある地上の教説や信仰は大なり小なり誤りが見られる。故に(それが足枷となって)進歩が遅々としている者が実に多く、しかも、自らはその誤りに気付かぬのである。そうした類の霊が徒党を組み、その誤りが更に新たな誤りを生んで行くことがよくある。かくして無知と偏見と空理空論が下層界に蔓延し、人間にとってのみならず、我々霊側にとっても厄介なことになっている。
と言うのも、彼等の集団も彼等なりの使者を送って人間界をかく乱せんとするのです。彼等は必ずといってよい程敬虔な態度を装い、勿体ぶった言葉を用いる。それがいつしか進歩を邪魔し真理を窒息させるように企んでいるのです。魂の自由を束縛し真理への憧憬を鈍らせるということにおいて、それは断じて神の味方ではなく敵対者の仕業である。
霊の再生の問題はよくよく進化した高級霊にして初めて論ずることの出来る問題である。最高神のご臨席の下に神庁において行われる神々による協議の中身については、神庁の下層の者にすら知り得ない。正直に言って、人間にとってあまり深入りせぬ方がよい秘密もあるのである。その一つが、霊の究極の運命である。神庁において神議(はか)りに議られし後に一個の霊が再び肉体に宿って地上へ生まれるべきか、それとも否か、そのいずれの判断が下されるかは誰にも分からない。誰にも知り得ないのである。守護霊さえ知り得ないのである。全ては良きに計らわれるであろう。
既に述べたように、地上で広く喧伝されている形での再生(機械的輪廻転生)は真実ではありません。又偉大なる霊が崇高な使命と目的とを携えて地上へ降り、人間と生活を共にすることがあることは事実です。他にも我々の判断に基づいて広言を避けている一面もある。まだその機が熟していないと見ているからです。霊ならば全ての神秘に通じていると思ってはなりません。そう広言する霊は、自ら己の虚偽性の証拠を提供しているに他ならない」
「霊界での仕事は多種多様です。大神が教え給う崇高な真理をより多く学び取り多く理解すること。礼拝と仰讃の祈りを捧げること。心優しき霊に真理と進歩を授けること。悩める心弱き霊達への援助活動。自らの知性の開発。霊性の陶治。愛と知識の進歩。慈悲の行為。宇宙の進歩の研究。宇宙エネルギーの操作。以上、要するに、不滅の存在である霊の渇望を知性と愛の両面において充実させることと言えよう」
「界層といえば人間は地上と同じような〝場所〟を想像する。多分それ以外には想像のしようがないのかも知れない。
が、ご承知の通り、地上においても、道徳的並びに知的には同じ生活環境にありながら、霊的徳性と精神的美質において他に抜きん出ている人がいるものです。
霊性が自然に引き寄せられる状態ないし環境というものがあり、その環境ないし界層が更に幾つもの区域に分かれている。魂同士は互いが追求するものの共鳴性、気性の類似性、前世での体験の共通性、ないしは今携わっている仕事の同一性によって引かれ合う。思索より行動に重点を置く者もいれば、行動より思索に重点を置く者もいる。そうした違いはあっても、引かれ合う者同士は霊格の高さにおいては同じなのです。
各界層に隔たりがあるのはもとよりのことで、それ独自の性格と特質を具えております。地上との違い程大きくはないが、それぞれに相違点がある。肉体が無いことから仕事の種類は異なって来るが、一人一人に為すべき仕事があります。地上世界のような時間も空間もない。身体の為の必需品というものはない。霊体のエネルギーは肉体のそれより凝集性が強く、又、自己の為より他の為に使用されます」
-食事はとりますか。運動はどうなりますか。
「人間が摂取するものとは異なります。我々の身体は空間に瀰漫している霊的エーテルによって維持されており、その点は人間の霊的身体も同じです。普遍的な霊の養分、エネルギー源であり、肉体のあるなしには関係ありません。
運動は念力だけで事足ります。親和性があれば引かれ合い、なければ反発し合い、又、こちら側の欲求、ないしはこちら側の存在を望む相手側の欲求によっても引かれ合います。
霊的界層は〝状態〟であって、地上でいうところの〝場所〟ではない。そこに住む霊は人間のように時間と空間の条件には支配されません。住民は一地域に閉じ込められているのではない。住民のもつ道徳的、知的、並びに霊的な状態によって、異なる界層が生じております。つまりアフィニティ(同じ霊系に属する親和性の強い霊同士)が集まり、その共鳴性に溢れた交わりの中に喜びを味わっている。隣人だから、近所だからということで交わるのではなく、性向と目指す目的の類似性によって近付き合うのです。
高い界層には不浄な者は入れません。低い界層に集まるのは教育的指導を必要とする者達であり、その指導は、地上的雰囲気の中で喘いでいる霊の為に一筋の光明をもたらさんとして、光輝溢れる住処を後にして降下して来る高き界層の霊から授かります。
最初の三つの界は地上近くに存在する。そこにはそうした(地上的煩悩から脱し切れない)者達がひしめいている。第一の界層は、諸々の原因から、地上へ引き付けられている者です。地上生活では殆ど進歩が得られなかった者達で、必ずしも全面的に悪いわけではなく、ただ、折角のチャンスを利用しないまま無為に過ごした為に、今尚当てもなく迷い続けているのである。
更には、地上に残した僚友への情愛と親和性の為に、向上する可能性を有しながら敢えて地上圏に留まって援助している者もいる。それに加えて、霊的に若く、初歩的教育の段階にある者、不完全な身体をもって誕生した為に十分な体験を積むことが出来ず、学ぶべきだったことをこれから何とかして学ばねばならぬ者、不可抗力によって寿命を全うせずして地上を去った者がいる。自らの責任ではないとは言え、向上する為にはその埋め合わせをしなければならないのです」
「我々の所属する界の素晴らしさ-漂う心地よい香気、咲き乱れる愛らしい花々、辺りに広がる嬉しさを誘う景色は、到底、人間的想像の及ぶところではありません」
-そちらの家屋もやはり〝もの〟で出来ているのでしょうか。
「そうです。但し、人間が考えている〝もの〟とは違います。我々にとって実体が感じられるということであり、人間の粗末な感覚では実感は感じられないでしょう。我々は人間と違って空間の束縛を受けません。光や空気のように自在であり、地上の家のように一定の場所に固定されていません。それでいて生活環境は洗練された霊的感覚のお蔭で、人間が物的環境から受けるのと同じ、実体が感じられます」
自動書記による霊訓 四
他界して間もない知人が出現したのでモーゼスが尋ねた。
-そちらの世界は地上とよく似ていますか。
「何もかもよく似ています。違いを生じさせているのは条件の変化だけです。花も果実も景色も動物も小鳥も、地上とそっくりです。ただ、その構成要素の条件が異なるだけです。人間のように食べ物にガツガツすることがなく、従って生きる為に動物に殺生をすることもいりません。呼吸する空気と共に摂取するもの以外には、身体の維持に必要なものはありません。又行動が物的なものによって制約されることもありません。意のままに自在に動けます。私は今そうした新しい生活条件に少しずつ、それこそ赤ん坊のように、慣れていきつつあるところです。その現実の様子はとてもお伝えできません」
〝S〟の署名で通信を送って来ていた人物がモーゼスの友人だったウィルバーフォース(英国の政治家・奴隷解放運動家)であることが判明。そのウィルバーフォースがこう綴った。
「こちらでも地上と同じく寄り集まって暮らしております。共同体を形成しており、やはり地上と同じように叡智と霊性の高い者によって統治されています。全てがよく似ております。ただ、行為の一つ一つが普遍的な愛の精神に発しております。摂理への背反は高級霊によるその結果の指摘及び矯正の為の教訓という形での罰を受けます。それを何度も繰り返していると、もう一段低い界層へ移動し、再び霊格が相応しくなるまで上れません」
このことに関連してインペレーターがこう付け加えた。
「貴殿の友人が今述べたのは低界層で彼が見た印象を述べたに過ぎない。そこでは霊が共同体の形で生活しており、高級指導霊の下で、より高い境涯への準備を行なっている。そこは試練と準備の境涯で、より高度な仕事への訓練を受けるところである。いかなる霊も霊性の相応しくない境涯に存在することは出来ない」
-そうした境涯はどこに存在するのですか。
「それは〝状態〟のことである。貴殿の友人はまだ他界直後に置かれる地球圏の界層を脱け出ていない。似たような界層は他の惑星にも存在する。界層といっても〝状態〟のことであり、類似した状態はどこにでも存在出来るし、現に存在している。人間が空間と呼んでいるところに無数の霊の住処が存在している」
その友人のウィルバーフォースがインペレーターの容姿を次のように描写している。
「初め私は高級霊達が身に付けている光り輝く衣服を見て不思議でなりませんでした。例えば今のインペレーター霊の外衣(ローブ)は目も眩まんばかりの白色をしており、まるで純粋無垢のダイヤモンドで出来ていて、それが鮮やかな光輝を当てられているみたいに見えます。肩の回りにサファイヤブルーをしたものを掛けておられ、頭部には深紅の飾り環にはめ込まれた栄光の王冠が見えます。飾り環は愛を象徴し、サファイヤブルーの衣服は叡智を象徴し、光り輝くローブは聖純さと完全性の高さを象徴しております」
-素晴らしい!王冠はどんなものですか。
「尖頭が七つあり、その一つ一つの先端に目も眩まんばかりの光輝を発する星状のものが付いております」
リフォーマーと名乗る霊からの通信。
「霊は愛と知識の進歩と共に光輝と美が増して行きます。頭(インペレーター)の頭上の王冠はその崇高な霊格、純粋性、愛、犠牲心、そして神への真摯な献身の象徴です。よほど高貴にして神聖なる者しか授からない王冠です。
霊が身に付けた叡智は、他の霊にはその衣装とサファイヤブルーのオーラに象徴されているのが見て分かります。又愛の深さは犠牲心と献身を象徴する深紅によって知れます。それを偽って見せる方法はありません。霊界では全ての偽装が剥ぎ取られる。偽善も見せかけも不可能です。欠点も長所も偽ることが出来ません。真に自分のものでないものを自分のものであるかに装うことは出来ません。真に自分のものは霊という存在の生得の資質のみです。
今我々の会議が終了し、大方の者はそれぞれの仕事に戻っています。インペレーター霊はまだ天上界に留まっておられるが、その内戻って来られるでしょう。頭は所用でよく天上界へお帰りになります。頭程になられると地上の人間を特別に支配するということはなさりません。全体としての指揮・監督に当たられます」
-よほど高い地位の方なのでしょうか。
「左様。高級神霊界においても指導的立場にあられる霊のお一人です。それ程の方がこうして直接地上へ戻って来られることは極めて稀なことです。大抵は中継者として他の霊に命令を下します。よほどの大事業においてのみ高級神霊が直接戻って来られるが、それでも直接一個の人間を支配することはなく、総合的に指揮・命令を下し、計画をお立てになる。
その会議の為、そして又、聖なる霊力の摂取の為に終結した壮大な光り輝く存在の群がもしも人間の目に映れば、言い表せない喜悦を覚えることでしょう。が、他方にはその反対の勢力も控えています。邪霊の大軍が二重、三重に終結し、神の真理の啓示の進歩を阻止し、歪めんとして、手ぐすね引いて待機しています」
インペレーターは地上では旧約聖書に出ているマラキ(マラカイ)であるとの話について尋ねる。
-その名は象徴的な意味で用いているのでしょうか。(Malachi はユダヤ語で〝使者〟の意味がある-訳者)
「いや、そうではない。述べられたことは事実であり、象徴的なものではありません」
-あなたはリフォーマーと名乗っておられますが・・・・(reformer には〝改革者〟の意味があり、これは象徴的に用いている-訳者)
「地上時代の私はネヘミヤと同一人物です。(旧約聖書ネヘミヤ記の筆者で紀元前五世紀のユダヤの指導者-訳者)同じ予言者と呼ばれた人物でも、モーセ、マリヤ、エレミヤ、エゼキエルに勝る霊覚者はいません。少なくとも記録に残されているユダヤ人の中にはいません。
エホバは、よく言われている通り、アブラハムとイサクとヤコブの神でした。唯一絶対神ではなく、言わば一種の守り神です」
モーゼスが通信霊の名乗る名前と本人との同一性に疑念を挟んだところ、インペレーターが答えた。
「そうした名前は、貴殿に集中的にもたらされる影響力を代表したものに過ぎない。時にはその影響力は必ずしも一個の霊からのものとは限らぬもので、言うなれば非個人的である。一個の精神の産物ではなく、複数の精神の集約されたものである場合が寧ろ多い。
と言うのも、貴殿に関わっている霊の多くは、更に高い霊格の霊より届けられる影響力の通路に過ぎないのである。そうするより外に影響力が届けられる手段がないのである。我々はよく会議を開き討議を重ねる。従って貴殿が受け取るものは我々の思想の合体したものである場合が多いことになる。
貴殿は霊的資質の開拓を心掛け、肉体的欲望を抑制し、俗世的環境を超脱することが肝要である。外面的な物的生活を内面的な霊的生活、より実在に近い生活への準備と見做すべきである。こちらの世界こそ実在であり、そちらの生活はその影である」
「特に留意して欲しいことは、正常な霊的能力と異常な霊的能力の違いである。霊が外部から霊媒に直接的に働きかけて入神させ、その霊を肉体から一時的に退去させ、代わって別の霊がその身体的組織を操作するというやり方は異常手段であり、例えてみれば催眠術で患者を催眠状態に導くのと同じである。
正常な霊的能力というのは霊が潜在的資質を開発し、それが背後霊からのインスピレーションによって一段と高められ補強されるという形のものをいう。そこには霊を退去させて入神状態へ導く必要はなく、魂がその霊的才能を補強されて、背後霊団との協議に参加することさえ可能となる。
魂が受動性の中で教育され、思惟活動の中庸性、行為と意図の純粋性と誠意を構成される。霊的感覚を全開させてインスピレーションの鼓吹を受け入れる。かつては異常手段によって苦痛の中に伝えられたものが、今や、ごく自然な形で流れ込む。本来の霊力が阻害されることも阻止されることもなく、伸び伸びと成長し豊かになっていく」
-そちらの世界は地上とよく似ていますか。
「何もかもよく似ています。違いを生じさせているのは条件の変化だけです。花も果実も景色も動物も小鳥も、地上とそっくりです。ただ、その構成要素の条件が異なるだけです。人間のように食べ物にガツガツすることがなく、従って生きる為に動物に殺生をすることもいりません。呼吸する空気と共に摂取するもの以外には、身体の維持に必要なものはありません。又行動が物的なものによって制約されることもありません。意のままに自在に動けます。私は今そうした新しい生活条件に少しずつ、それこそ赤ん坊のように、慣れていきつつあるところです。その現実の様子はとてもお伝えできません」
〝S〟の署名で通信を送って来ていた人物がモーゼスの友人だったウィルバーフォース(英国の政治家・奴隷解放運動家)であることが判明。そのウィルバーフォースがこう綴った。
「こちらでも地上と同じく寄り集まって暮らしております。共同体を形成しており、やはり地上と同じように叡智と霊性の高い者によって統治されています。全てがよく似ております。ただ、行為の一つ一つが普遍的な愛の精神に発しております。摂理への背反は高級霊によるその結果の指摘及び矯正の為の教訓という形での罰を受けます。それを何度も繰り返していると、もう一段低い界層へ移動し、再び霊格が相応しくなるまで上れません」
このことに関連してインペレーターがこう付け加えた。
「貴殿の友人が今述べたのは低界層で彼が見た印象を述べたに過ぎない。そこでは霊が共同体の形で生活しており、高級指導霊の下で、より高い境涯への準備を行なっている。そこは試練と準備の境涯で、より高度な仕事への訓練を受けるところである。いかなる霊も霊性の相応しくない境涯に存在することは出来ない」
-そうした境涯はどこに存在するのですか。
「それは〝状態〟のことである。貴殿の友人はまだ他界直後に置かれる地球圏の界層を脱け出ていない。似たような界層は他の惑星にも存在する。界層といっても〝状態〟のことであり、類似した状態はどこにでも存在出来るし、現に存在している。人間が空間と呼んでいるところに無数の霊の住処が存在している」
その友人のウィルバーフォースがインペレーターの容姿を次のように描写している。
「初め私は高級霊達が身に付けている光り輝く衣服を見て不思議でなりませんでした。例えば今のインペレーター霊の外衣(ローブ)は目も眩まんばかりの白色をしており、まるで純粋無垢のダイヤモンドで出来ていて、それが鮮やかな光輝を当てられているみたいに見えます。肩の回りにサファイヤブルーをしたものを掛けておられ、頭部には深紅の飾り環にはめ込まれた栄光の王冠が見えます。飾り環は愛を象徴し、サファイヤブルーの衣服は叡智を象徴し、光り輝くローブは聖純さと完全性の高さを象徴しております」
-素晴らしい!王冠はどんなものですか。
「尖頭が七つあり、その一つ一つの先端に目も眩まんばかりの光輝を発する星状のものが付いております」
リフォーマーと名乗る霊からの通信。
「霊は愛と知識の進歩と共に光輝と美が増して行きます。頭(インペレーター)の頭上の王冠はその崇高な霊格、純粋性、愛、犠牲心、そして神への真摯な献身の象徴です。よほど高貴にして神聖なる者しか授からない王冠です。
霊が身に付けた叡智は、他の霊にはその衣装とサファイヤブルーのオーラに象徴されているのが見て分かります。又愛の深さは犠牲心と献身を象徴する深紅によって知れます。それを偽って見せる方法はありません。霊界では全ての偽装が剥ぎ取られる。偽善も見せかけも不可能です。欠点も長所も偽ることが出来ません。真に自分のものでないものを自分のものであるかに装うことは出来ません。真に自分のものは霊という存在の生得の資質のみです。
今我々の会議が終了し、大方の者はそれぞれの仕事に戻っています。インペレーター霊はまだ天上界に留まっておられるが、その内戻って来られるでしょう。頭は所用でよく天上界へお帰りになります。頭程になられると地上の人間を特別に支配するということはなさりません。全体としての指揮・監督に当たられます」
-よほど高い地位の方なのでしょうか。
「左様。高級神霊界においても指導的立場にあられる霊のお一人です。それ程の方がこうして直接地上へ戻って来られることは極めて稀なことです。大抵は中継者として他の霊に命令を下します。よほどの大事業においてのみ高級神霊が直接戻って来られるが、それでも直接一個の人間を支配することはなく、総合的に指揮・命令を下し、計画をお立てになる。
その会議の為、そして又、聖なる霊力の摂取の為に終結した壮大な光り輝く存在の群がもしも人間の目に映れば、言い表せない喜悦を覚えることでしょう。が、他方にはその反対の勢力も控えています。邪霊の大軍が二重、三重に終結し、神の真理の啓示の進歩を阻止し、歪めんとして、手ぐすね引いて待機しています」
インペレーターは地上では旧約聖書に出ているマラキ(マラカイ)であるとの話について尋ねる。
-その名は象徴的な意味で用いているのでしょうか。(Malachi はユダヤ語で〝使者〟の意味がある-訳者)
「いや、そうではない。述べられたことは事実であり、象徴的なものではありません」
-あなたはリフォーマーと名乗っておられますが・・・・(reformer には〝改革者〟の意味があり、これは象徴的に用いている-訳者)
「地上時代の私はネヘミヤと同一人物です。(旧約聖書ネヘミヤ記の筆者で紀元前五世紀のユダヤの指導者-訳者)同じ予言者と呼ばれた人物でも、モーセ、マリヤ、エレミヤ、エゼキエルに勝る霊覚者はいません。少なくとも記録に残されているユダヤ人の中にはいません。
エホバは、よく言われている通り、アブラハムとイサクとヤコブの神でした。唯一絶対神ではなく、言わば一種の守り神です」
モーゼスが通信霊の名乗る名前と本人との同一性に疑念を挟んだところ、インペレーターが答えた。
「そうした名前は、貴殿に集中的にもたらされる影響力を代表したものに過ぎない。時にはその影響力は必ずしも一個の霊からのものとは限らぬもので、言うなれば非個人的である。一個の精神の産物ではなく、複数の精神の集約されたものである場合が寧ろ多い。
と言うのも、貴殿に関わっている霊の多くは、更に高い霊格の霊より届けられる影響力の通路に過ぎないのである。そうするより外に影響力が届けられる手段がないのである。我々はよく会議を開き討議を重ねる。従って貴殿が受け取るものは我々の思想の合体したものである場合が多いことになる。
貴殿は霊的資質の開拓を心掛け、肉体的欲望を抑制し、俗世的環境を超脱することが肝要である。外面的な物的生活を内面的な霊的生活、より実在に近い生活への準備と見做すべきである。こちらの世界こそ実在であり、そちらの生活はその影である」
「特に留意して欲しいことは、正常な霊的能力と異常な霊的能力の違いである。霊が外部から霊媒に直接的に働きかけて入神させ、その霊を肉体から一時的に退去させ、代わって別の霊がその身体的組織を操作するというやり方は異常手段であり、例えてみれば催眠術で患者を催眠状態に導くのと同じである。
正常な霊的能力というのは霊が潜在的資質を開発し、それが背後霊からのインスピレーションによって一段と高められ補強されるという形のものをいう。そこには霊を退去させて入神状態へ導く必要はなく、魂がその霊的才能を補強されて、背後霊団との協議に参加することさえ可能となる。
魂が受動性の中で教育され、思惟活動の中庸性、行為と意図の純粋性と誠意を構成される。霊的感覚を全開させてインスピレーションの鼓吹を受け入れる。かつては異常手段によって苦痛の中に伝えられたものが、今や、ごく自然な形で流れ込む。本来の霊力が阻害されることも阻止されることもなく、伸び伸びと成長し豊かになっていく」