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モーゼス 続『霊訓』 モーゼス自身の体験と所見 目次

(一) 珍しい現象

(二) 体外遊離による体験

(三) 心霊誌の記事から

(四) モーゼスへの賛辞

○音楽現象
 ベンジャミン・フランクリンが初めて出現した時から聞かれ始めた鈴の音について、スピーア夫人が次のように述べている。
 「それは何とも言えない妙なる音楽で、丁度オルゴールを聞くような、それを一段と霊妙にそして音色を甘美にしたようなものでした。その頃はよく私達の身近な所で聞かれました。夜遅く庭に出ている時などに特によく聞かれました。
 交霊会が終わった後は開き窓を開け放って芝生へ出るのが通例でしたが、そんな時、大抵真夜中でしたが、樹木の間から聞こえてきました。何とも言えない美しさで、この世のものとは思えませんでした」

 別の記事でもこう述べている。
 「今夜は交霊会を始める前に庭を散歩している時から例の鈴の音が聞こえていました。遙か遠くのニレの木のてっぺんから、まるで星と戯れているかと思われるような感じで聞こえたかと思うと、今度は直ぐ近くまで近付いてきて、私達が交霊の部屋へ入るのを後から付いて来ました。(〝私達〟は通常スピーア夫妻と友人のパーシバル氏の三人で、これに時折招待客が加わる程度だった。《解説》参照-訳者)
 私達が着席した後もずっと部屋の四隅や、私達が囲んでいるテーブルの上などで鳴り続けていました。こちらから音階や和音を要求すると直ぐに応じ、主人(スピーア博士)が口ずさんだ曲を巧く真似て演奏しました。部屋には楽器類は何も置いてありませんでした。モーゼス氏が入神すると音が大きくなり、ピアノを弾いているような目覚しい響きになりました」

○物品移動現象
 空家の家具や物品が移動する現象は特にワイト島に滞在中に起きた。モーゼス自身次のように書いている。
 「教会での礼拝から帰って一階の応接間に隣接した寝室に入ってみると、化粧用テーブルの上に置いてあったものが無くなって、ベッドの上に大雑把な十字形に置いてあった」
 その日の午後には今度は旅行用の化粧道具入れの中から幾つか取り出されて、その十字形が完全な形にされていた。ある時は王冠の形に置かれていたこともあったという。

○宝石類の製造
 パーシバル氏が概略次のように叙述している。
 モーゼス氏と食事を共にした後で開かれた交霊会でのことである。突然ガス灯が消され、二、三分して又点いた。その間の暗闇の中でテーブルの上に強い光が見えたのでモーゼス氏が近付いてみると、小さなルビーがあった。その後又ガス灯が消され、入神したモーゼス氏をメンターと名乗る霊が支配した。そしてパーシバル氏の腕をつついてから、その手を取って何かを握らせて席に戻った。その席でメンターは〝それはトルコ石であなたの為に特別にこしらえたものです〟と述べ、更に、交霊会でこしらえる宝石類は人間界でいう〝本物〟ではなく、売り買いの対象になるようなものは霊は製造を許されていない、と付け加えた。又その次の交霊会ではその製造法に触れ、霊は大気中から自然な工程で結晶体をこしらえることが出来ることを述べた。
 これもパーシバル氏の話であるが、スピーア夫人の誕生日に四人で食事をしている最中にモーゼスが入神し、ソファまで歩いて行って掛け布の内側を探り始めた。そして間もなく小さなルビーを見つけて、それを敬々しげにスピーア夫人にプレゼントした。それから又ソファへ行って、同じように手探りで二つ目を見つけた。その後さんざん探して漸く三つ目を見つけて席に戻り、そこで入神から覚めた。モーゼス自身はその間のことは何一つ知らなかったという。
 それより以前の話であるが、交霊会の後モーゼスが飲んでいたソーダ水のグラスの中にルビーが入っていたこともあった。

○芳香現象
 ある日、交霊会が始まると、いきなり、大小様々なパールが雨のように降ったことがあり、明りをつけて拾い集めるように言われた。その交霊会が終了した時のことである。モーゼスが列席者の一人一人を回って片手を頭部に置くと、そこに芳香が漂った。
 別の日の交霊会で更に素晴らしい芳香現象が起きた。その時は色んな発生の仕方をしてみせた。まず列席者の頭の辺りに漂ったかと思うと、今度はふいごで吹き付けているみたいに強烈な勢いで吹いた。続いて今度は霧雨のように天井から降り注いで来た。そして最後は列席者が上に向けていた掌に芳香を含んだ水滴が注がれた。これには大変な技術が要るという説明があり、その日の芳香現象には五十名以上の霊が関わったということだった。最後にパーシバル氏の手の上にティーポットの口から注いだみたいに芳香性の水が落ちてきた。後で調べてみるとテーブルの上に幾つかのシミが見られたという。

○背後霊団との面会
 ある日モーゼスが部屋を暗くしてベッドに横になると、例の鈴の音が聞こえ、続いて光球が幾つも見えた。と思っている内に意識を失い、次に目が覚めた時は真夜中だった。彼は自らの意志でなしに無理矢理に起されて、次のような記事を書いた。
 「意識が消えていく時のことは何一つ記憶にない。が、暗さが次第に明るさを増し、徐々に美しい光景が展開し始めた。私が立っていたのは確か湖の縁で、その向こうに真緑の小高い丘が幾つも連なり、ほのかなモヤが漂っていた。分指揮はイタリヤにいる感じで、穏やかに澄み渡っていた。湖の水は波一つ立てず、見上げると雲一つない青空が広がっていた。
 その岸辺を歩きながら景色の美しさに見惚れていると、一人の男性が近付いて来た。メンターだった。モリスンのような薄い生地で出来た真珠のような白さのロープを纏っていた。肩に濃いサファイアブルーのマントを掛け、頭部には幅の広い深紅の帯のように見える宝冠(コロネット)をつけており、それに黄金の飾り環が付いていた。あごひげを生やし、顔に慈悲と叡智を称えていた。
 そのメンターが鋭い、きっぱりとした口調でこう述べた。〝ここは霊界です。これより霊界の一シーンをご覧に入れよう〟。そう言って向きを変え、私と共に湖に沿って歩いて行くと、山の麓の方へ行く道との分岐点に来た。その道に沿って小川が流れており、その向こうには真緑の草原が広がっていた。地上のように畑で仕切られておらず、見渡す限り緩やかな起伏が一面に広がっていた。
 二人はイタリヤの田園でよく見かける邸宅に似た一軒の家に近付いた。地上では見かけない種類の木の繁みの中にある。木というよりは巨大なシダに近い。その玄関の前に様々な色彩と種類の花が咲き乱れている花園があった。メンターに促されて後について入り、大きなホールまで来ると、その中央に花とシダの植え込みがあり、その真ん中で噴水が盛んに水を散らせていた。ホール全体に素敵な香気が漂い、又、優しく慰めるような音楽が流れていた。
 ホールの周りにはバルコニーのようなものが付いていて、そこから住居へ通じる出入口が幾つか見えた。壁面に模様が描かれていて、よく見ると私がそこに来るまでに通って来た景色の延長になっていた。天井はなく、雲一つない青空が見えていた。
 見るもの全てが美しいので私が見惚れていると、出入口の一つのドアが開いて誰かが私の方へ近付いて来た。インペレーターだった。一度見たことがあるので直ぐに分かった。頭部には七つの尖頭の付いた王冠を頂き、その尖頭の先端に目も眩まんばかりの光輝を発する星が付いており、一つ一つ色が違っていた。表情には真剣さと仁愛と高貴さが満ち溢れていた。私が想像していたような年老いた感じはなく、敬虔さと厳粛さに優しさと威厳とが交じり合った風貌だった。全体に漂う雰囲気と物腰には堂々あたりを払う威風があった。
 身体にはまばゆいばかりの白の長いローブを付けていた。あたかも露のしずくで出来ていて、それが朝日に照らされているみたいであった。そうした容姿全体の光輝があまりに強烈で、私にはじっと見つめていることが出来なかった。イエスが変容した時の姿もかくばかりかと思った。私は本能的に頭を垂れた。すると柔和でしかも真剣な声が不思議な、憂いを込めた抑揚で私の耳に囁いた-〝来るがよい。そなたの知人に会わせるとしよう。そしてその不信に満ちた心を癒して進ぜよう〟と。そう言って手を差し出した。見るとその手に宝石が散りばめてあり、内部から燐光性の光輝を発しているように思えた。
 私が啞然として見つめていると、何とも言えない荘厳な調べが耳に入って来た。続いて私の直ぐ脇の出入口が開かれ、その調べが一番と近付いて聞こえ、長い行列の先頭を行く者の姿が目に入った。純白のローブを着ており、それを深紅の帯で締めていた。行列の全員がそうだった。帯の色だけが様々で、ローブは全員が純白だった。先頭の者は黄金の十字架を高々と掲げ持っており、頭部には〝聖〟の文字を記した飾り帯を巻いていた。その後を二列に並んだ聖歌隊が讃美歌を歌いながらやって来る。その行列が我々の前まで差し掛かると一旦停止し、インペレーターの方を向いて敬々しくお辞儀をした。インペレーターは私より二、三歩前でそれを受けた」
 モーゼスはその行列の中に数人の見覚えのある顔を見つけた。指導霊のメンター、レクター、プルーデンス、フィロソファス、それにスエーデンボルグもいた。更に友人のウィルバーフォース、ジョン・キーブル、アーネスト・ニール等々の顔も見えた。長い長い行列が続いた後、その中から六人が進み出てモーゼスの方へ近付いた。その内の五人は地上で顔見知りの人物だったという。ホールを取り囲むバルコニーは既に一杯になっていた。モーゼスは最後にこう書いている。
 「その全員がホールの中央のインペレーターの方へ顔を向けた。そこでインペレーターが敬々しく神への祈りを捧げた。と同時に再び厳かな讃美の調べが響き渡り、全員が行列を作って今来た方向へ戻って行った」

○右のシーンについてのインペレーターの解説(自動書記)
-あれは実際のシーンだったのでしょうか。
 「今貴殿の目に映っている現実と同じく実際にあったことである。貴殿の霊が肉体から分離していたのである。その間僅かに一条の光によって繋がっていた。その光線は生命の流れそのものである」

-壁が少しも障害にならずに一瞬の内に光景が展開したように思います。その場がそのまま霊界になりました。

 「霊界は肉眼には映じなくても貴殿のいる場所に存在している。霊眼が開けば霊の世界のものが見え、地上のものが見えなくなる」

-では、霊の界層は我々人間の身の回りに存在するのでしょうか。

 「人間のいる場所にも周囲にも存在している。空間と呼んでいるところには幾つもの界層が互いに浸透し合って存在している。この度のことは貴殿に霊界の実在を見せんが為に行ったことで、私の要請を受けてメンターがあれだけの霊を第二界に集めてくれたのである。様々な界層の境涯から特別の目的の為に集まってもらったのである」

-全員が白のローブだったのに、一人私の友人だけが緑色の混ざった紫のローブを着ていましたが・・・・

 「貴殿の目につくように、あのローブを着ていたのである。緑色はまだ完全に抜け切っていない地上的状態を表しており、紫色は進歩のしるしである。
 我々の世界では全てが象徴的に出来ている。天井のないあの建物は何一つ向上心を妨げるもののない霊の住処の象徴である。美しい花と景色は愛の神が各自の宿命に注がれる慰めと歓びを表している。讃仰の行列は進歩的な霊の向上の行進を示している。先頭を行く者が掲げていた十字架は神聖さと自己犠牲の表象である。純白のローブは清浄の象徴であり、ハープの調べは不断の讃仰の象徴である。色とりどりの帯は各自の犠牲と、携わっている仕事を示し、頭部の王冠と飾り帯は霊格の象徴である」

-あなたはいつも私が拝見した通りの姿をしておられるのでしょうか。あのまばゆいばかりのローブは忘れようにも忘れられません。

 「貴殿が見られたのは他の霊がいつも私を見ているのと同じ姿である。が、私はいつも同じ姿をしているわけではない。私が本来の界で纏う姿は貴殿には凝視出来ないであろう。現在の状態では無理であろう」

○自動書記をしている自分を観察
 〝サークルメンバーの向上心の高さが、訪れる霊の性格を決める。出席者の精神的波動は霊界まで波及し、その程度によって集まる霊の程度も決まる。このことを全ての人に分かってもらえれば有り難いのであるが・・・・〟
 これは直接書記によって綴られたインペレーターの通信で、書記役のレクターがそれを操作している様子をモーゼスが体外遊離の状態で観察した。この様子をモーゼスが次のように記述している。
 「その日は一人で自分の部屋にいた。ふと書きたい衝動を感じて机に向かった。それ程強烈に感じたのはほぼ二ヶ月ぶりである。まず最初の部分を普通の自動書記で書いた。どうやらその時点で無意識状態に入ったようである。
 気がつくと、自分の身体の側に立っている。例のノートを前にしてペンを右手にして座っている自分の側である。その様子と辺りの様子とを興味深く観察した。自分の身体が目の前にあり、その身体と自分(霊的身体)とが細い光の紐によって繋がっている。部屋の物的なものが悉く実体のない影のように見え、霊的なものが固くて実体があるように見えた。
 その私の身体の直ぐ後ろにレクターが立っていた。片手を私の頭部にかざし、もう一方をペンを握っている私の右手にかざしている。更にインペレーターと、これまで永い間私に影響を及ぼしてきた霊が数人いた。その外に私に見覚えのない霊が出入りして、その様子を興味深そうに見守っていた。天井を突き抜けて柔らかい心地よい光が注がれており、時折青味を帯びた光線が何本か私の身体へ向けて照射されていた。その度に私の身体がギクリとし、震えを見せた。生命力が補給されていたのであろう。更に気が付くと、外の光も薄れて窓が暗く感じられた。従って部屋の中が明るく見えるのは霊的な光線のせいだった。私に語りかける霊の声が鮮明に聞こえる。人間の声を聞くのと非常によく似ているが、その響きは人間の声より優美で、遠くから聞こえてくるような感じがした。
 インペレーターが、これは実際のシーンで、私に霊の働きぶりを見せる為に用意したと述べた。レクターが書いているのであるが、私の想像とは違って、私の手を操っているのではなく、又私の精神に働きかけているのでもなく、青い光線のようなものを直接ペンに当てているのだった。つまりその光線を通じて通信霊の意志が伝わり、それがペンを動かしているのだった。私の手は単なる道具に過ぎず、しかも必ずしも無くてはならぬものでもないことを示す為に、光線がそのペンを私の手から放し、用紙の上に立たせ、更に驚いたことに、それが用紙の上を動き始め、冒頭に掲げた文章を綴ったのである。出だしの部分を除いて、殆どが人間の手を使用せずに書かれたものである。インペレーターの話によると、人間の手を使用せずに直接書くのは容易なことではなく、その為綴りに幾つか誤りも見られるとのことだった。事実その通りだった。
 その後私は、一体ここにいる(人種の異なる)霊はどうやって通じ合うのだろうという疑問を抱いた。するとその疑問に答えて数人の霊が代わる代わる違う言語で喋ってみせた。私にはさっぱり分からなかったが、インペレーターが通訳してくれた。その上更に霊がいかなる要領で思念の移入によって通じ合うかを実演してみせてくれた。又インペレーターは音も物的媒体なしに出すことが出来ることを説明してくれた。その時に例の鈴の音が聞こえ、又部屋中に霊妙な芳香が漂った。
 その場にいた霊は皆前に見た時と同じ衣装をしていた。そして、周りの物体には何の関係もなく動き回っていた。その内の何人かは、私の身体が向かっている机を取り囲んでいた。私自身も白のローブに青の帯をしているように見えた。更に、どうやらその上に紫の布、一種のオーバーローブを羽織っていたように思う。どの霊も自然発光的に輝いており、部屋の中は非常に明るかった。
 その内私は、戻ってこのことを書き留めるように言われた。肉体に戻るまでのことは意識にないが、部屋で観察したことに関しては絶対に確信があり、それを素直に、そして誇張を交えずに綴ったつもりである」

自殺ダメ


 1889年8月号のライト誌から-
 「本誌で『霊訓』を公表し始めてからというもの、私は無意識の自我の存在をさんざん聞かされ、私自身が気が付かなくともその潜在自我のどこか奥深いところに隠されているかもしれない可能性について、多くの考察をお聞かせ頂いている。が、私が受け取っている一連の通信がそういう曖昧な説によって説明出来るとするか、それとも、もっと単純にそして自然に、つまり私を教化しようとしている知的存在が主張している通りであるとするかは、読者にお任せする外はない。そうした存在は自分達のことを霊と呼び、私の生命と意識とは別個の存在であるとしている。私もそのように受け止めている。
 通信文は間違いなく私の意識とは何の関係もなしに綴られている。その多くは、綴られていくのをこの目で見ないように異常なまでの注意をしている中で筆記されたものである」

 次も同じライト誌に掲載されたもので、日常生活における異常体験をある知人にこう書き送っている。
 「私自身には何の記憶もないことをしていたり、特に、言った記憶がないのに間違いなく言っていることがよくあります。例えば、翌日の講話の準備をしないまま床につきます。翌朝目を覚ましていつものように行動し、いつもより流暢な講話をし、すべきことをきちんと済ませ、知人と談話まで交わしたのに、その記憶が全くないということがあるのです。特別に親しい人だけが、目のうつろさから私が入神していることを察知しているだけです。講話を聞いてくださった人のノートを見るとその内容が実に緻密で正確で明快なのです。
 知人達は私が何となくボケッとしていたとか、ぶっきらぼうだったとか、言葉がぞんざいだったという程度には感じていても、他は普段と少しも変わらなかったと言います。私自身は意識が戻った時には何の記憶もありません。もっとも、時折何となく思い出すことはあります。
 こうした体験から私は、人間は完全に〝パイプ役〟になり切ることが出来ること、つまり霊の道具に過ぎないことを実感として理解し始めているところです。それにしても、一見したところごく普通に行動している人間が実は霊界の知的存在の道具になっていて、固定存在を持たないということが有りうるものなのでしょうか。もしかしたら私の霊は遠くに行っていて、別個の霊的生活を送りながら、私の肉体の方は他の知的存在に憑依されて別の行動をしているということなのでしょうか。
 例えば最近のことですが、ワイト島にいる間に内部の霊的能力が目を覚まし、外部の肉体的感覚が一切失われてしまいました。私は一日と一晩、ずっと別の世界にいて、物的環境はおぼろげにしか意識しませんでした。知人も家も部屋も景色も見えることは見えるのですが、おぼろげなのです。身体の方はいつものように行動しているのですが、私の意識には霊的環境や他界した友人、或いは全く面識のない霊の姿の方が遙かに鮮明に感識されるのです。辺りに見える光景も地上の景色より鮮明に見えました。もっとも、どことなく両者が重複して見えることがありました。その間私は話す気になれず、そうした環境の中に居てただ見つめるだけで満足しておりました」

 同じくライト誌に珍しい心霊写真の話が出ている。
 モーゼスのもとにあるフランス人から一通の手紙が届き、米国にいる妹とその家族の心霊写真が睡眠中にパリで撮れたと述べてあった。妹の家族の写真を撮りたいと心の中で念じたところ、一枚の乾板には三人の娘と一緒に、もう一枚には二人の息子と一緒に写っていたというのである。
 これにヒントを得て、モーゼスはパリの友人に日曜日の朝十一時に写真を撮ってもらうように依頼し、その写真に自分も霊として写るようにしてみることにした。当日の朝、教会の鐘の音を聞いた頃に無意識状態に入り、気が付いたら十一時四十七分だった。実験は成功で、モーゼスの顔が睡眠中と同じように目を閉じたまま写っていた。同じ乾板に霊団の一人でプルーデンスと名乗る霊(地上では紀元三世紀の哲学者だったプロティノス)も写っていた。
 その後の交霊会でインペレーターは、モーゼスを慎重に入神させ、複数の背後霊がロンドンからパリまで運んだと語った。霊体と肉体とを繋いでいるコードもそれだけ延びていたとのことだった。

 スピリチュアリズムの意義について-
 「スピリチュアリズムは霊界の存在と霊との交信の可能性という二つの事実以外にも実に多くのことを教えている。間違いなく言えることとして私が付け加えたいのは、人間の運命の決定者は自分自身であり、自分の性格も自分が形成し、将来の住処(死後に落ち着く環境)を地上で築きつつあるということである。道徳的向上心を鼓舞するものとしてこれ程素晴らしいものはないし、それをスピリチュアリズムほど強烈に所有している宗教思想を私は他に知らない。
 人間は地上生活で築いた人間性そのままを携えて死後の生活を開始すること、他界した肉親・友人・知人は今尚自分を愛し、見守ってくれていること、罪悪も過ちも必ず自分で償わねばならないこと、いかに都合のよい教義をでっち上げても無罪放免とはならないこと-以上のことを立証し、更に又多くのことを立証して行けば、スピリチュアリズムは現代に対して計り知れない宗教的影響力の根源を秘めていることになる」

 日常生活の大切さについて-
 「人間は日常生活での行為と習慣によって刻一刻と魂を築いている。それが霊的本性であり、現段階でこそ幼稚で不完全であるが、永遠に不滅であり、未来永劫に進化する可能性を秘めている。それが真実の自分であり、永遠の存在である。死後の状態の責任は全て、根源的に、そして何よりもまず、自分自身にある。自分の運命の決定者は自分であり、自分が自分の将来の開拓者であり、自分の人生の最後の裁き人も自分である。
 こうした教えが説教壇から聞かされることが少な過ぎる。が、その重要性は実に遠大である。これを知ることは全ての人間にとって極めて重要である。道徳と宗教の全分野において、その影響力は計り知れないものがある」

霊的知識の普及を祝して-
 「霊界からの霊的真理普及の為の働きかけがいよいよ頻繁となってきたことは慶賀に堪えない。このことは見えざる指導者達が、思いもよらない様々な方面で、通信を地上へ送る為の通路を求めているとの確信を与えてくれる。真理の全てが一人の霊媒のみを通じてもたらされることは有り得ない。無数の側面をもつ真理がたった一個の精神で理解出来るわけがない。そうした様々なチャンネルを通じてもたらされる真理になるべく多く耳を傾ける者が一番多くを得ることになる。もう全てを知り尽くしたと思う者が実は一番真理を学んでいない。
 〝真理の太陽〟の光が千々に砕けて我々の周囲に輝いている。それを拾い集めて一つの思想的体系を整えるべき機が熟している。今殆ど世界各地であらゆる観点から、その体系作りの為の作業が進行中である。
 私がこの思想の将来に希望を託し、かつ信頼を抱いているのは、これからの宗教は今盛んに心霊学者やスピリチュアリストによって立証されつつある科学的知識の上に基礎を置くべきであり、いずれは科学と宗教とが手を繋ぐことになると信じるからに外ならないのである」

 (注)-原典にはこの外に各種のテーマについてのモーゼスの意見が掲載されているが、その全てが、当然のことながら、インペレーターその他による通信の内容と同じなので割愛することにした。

自殺ダメ


 モーゼスの死に際して心霊誌ライトにモーゼスへの賛辞が寄せられた。
 「氏は生まれついての貴族であった。謙虚さの中にも常に物静かな威厳があった。これは氏が手にした霊的教訓と決して無縁ではなかった。氏程の文学的才能と、生涯を捧げた霊的教訓と、稀有の霊的才能は、氏を傲慢不遜にし苛立ちを生み嫌悪感を覚えさせても決しておかしくないところである。が、氏にとってそれは無縁だった。常に同情心に満ち、優しく、適度の同調性を具えていた」

 スピーア博士の子息でモーゼスが七年間も家庭教師をしたチャールトン・スピーア氏は、モーゼスの人間性の深さ、性格の優しさ、真摯な同情心、そして今こそ自分を犠牲にすべきとみた時の徹底した没我的献身ぶりを称えてから、こう結んでいる。
 「真理普及への献身的態度はいくら称賛しても称賛しきれない。氏はまさに燃える炎であり、輝く光であった。恐らくこれ程の人物は二度と現れないであろう」
 モーゼスを最初にスピリチュアリズムへ手引きしたスピーア夫人はこう語っている。
 「自然を愛する心と、気心の合った仲間との旅行好きの性格、そして落ち着いたユーモア精神が、地名や事物、人物、加えてあらゆる種類の文献に関する膨大な知識と相まって、氏を魅力ある人物に造り上げていました。
 二年前の病さえなければ『霊訓』をもう一冊編纂して出版し、同時に、絶版となっている氏の他の著作が再版されていたことでしょう。健康でさえあったなら、それはいずれ成就されていた仕事です。霊界の人となった今、氏は、後に残した同志達が、氏が先鞭をつけた仕事を引き継いでくれることを切望しているに相違ありません」

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