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自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 問『キリストの神性、並にその贖罪に対する信仰が、果たして一片のドグマに過ぎないであろうか?御教訓が高尚で、合理的で、純潔であることに異論はないが、あまりにもキリスト教の趣旨と、相容れない点が多くはないであろうか?』

 経典病の弊害-汝の疑惑は、よく我等に理解し得る。前回に説ける所は、単なる輪郭に過ぎなかったから、今回は少し立ち入りて説明を施すことにしよう。
 所謂キリスト教の正統派というのは、左の諸点を唱道する人達である。曰く三位一体の一位が、選ばれたる人々を通じて、真理を人間界に伝えるのであるから、その教えは完全円満、永遠不朽に伝うべきである。曰く経典は悉く神自身の直接の言葉であるから、これに対して、一言半句の増減を許さない。もしこれに背けば破門あるのみである。曰く経典の翻訳は、神慮を受けた人達の手によりて成就されたのであるから、翻訳書に対しても、また絶対服従を要する。・・・かかるていたらくでは、経典の片言隻語を捕えて、奇想天外の教義教条が、次第に築き上げられる筈ではないか。
 我等の態度は、全然これと選を異にする。我等は、バイブルが人間界に漏らされたる、啓示の集録であることを認め、これを尊重することを知っているが、しかし我等は、これに盲従するよりは、寧ろこれを手懸りとして、神につきての観念の、時代的進歩の跡を辿ろうとする。神は最初アブラハムの良友として、彼の天幕を訪れて食事を共にしながら懇談した。ついで神は人民を支配する大立法官となり、ついでイスラエルの万軍を指揮する大王となり、ついで預言者達の肉体を通じて号令をかける大暴君となり、最後に神は、愛の権化として崇拝の中心とせらるるようになった。これは神そのものの進歩ではなくて、神に対する人間の理解の進歩である。神につきての人間の知識は、永久に完全でない。人間はただ一歩一歩神に近付いて行くまでである。
 かるが故に、心から真理を求むる人士のみが、神に関する我等の示教を受け容れることが出来る。一部の人士は、自分達が完全なる知識の所有者であると空想する。我等はそれ等に対して、言うべき何物も有たない。我等が手を加える前に、彼等は前以て神に関し、又啓示に関して、自己の無学であることを学ばねばならぬ。我等の述べる千言万語も、かの無智、自己満足、及び独裁主義の金城鉄壁を貫通する見込みはない。それ等の人達は将来に於いて、苦痛と悲哀との高き代償を払って、彼等の霊的進歩を妨げる先入主と、偏見とから脱却せねばならない。我等は汝の心眼が、これまでの説明で、多少開けていると信ずるから、以下進んで啓示の性質につきての解説を試みることにする。
 既に述べた通り、バイブルは、各時代々々に、人間に下されたる神の啓示の集録である。全体を流貫する精神、骨髄に何の相違もないが、いつもその時代の人間が把握し得る程度の真理しか漏らしていない。時代を離れて啓示はないのである。
 思え、啓示を漏らすべき道具は、いつも一人の人間である。かるが故に霊媒の思想霊媒の意見の多少混らぬ啓示は、絶対に有り得ない。何となれば、霊界の住人は、霊媒の心の中に見出される材料を運用するより外に、通信の途がないからである。無論出来る限り、それ等の材料に補修改造を施し、且つ真理に対する真見解を、これに注入すべく全力を挙げる。が、何と言っても既成品を使用するのであるから、必ずしも思う壺にはまらぬことがある。大体に於いて霊界通信は、霊媒の心が受身になっておればおる程、又周囲の状態が良好であればある程、純潔性を保つことが出来るのである。試みにバイブルを紐解いてみるがよい。必ずしも平均した出来栄えでない。或る部分には霊媒の個性の匂いがついている。或る部分は憑り方が不完全であった為に、誤謬が混入している。或る部分には霊媒自身の意見が加味されている。なかんずくどの啓示にも、その時代の要求にあてはまる一種の特色があり、そのままこれを他の時代に適用することは出来ないのである。
 その然る所以は、各自バイブルにつきて調べれば明瞭となるであろう。一例を挙げれば、かのイシアの啓示などがそれである。何と彼自身の個性の匂いが強烈なことであろう。無論彼も独一の神につきて説いている。
 が、それは極度に詩的空想に色彩されたもので、エゼキールの隠喩的筆法とは格段の相違がある。同様にダニエルは光の幻影を描き、ジュレミアは天帝の威力を説き、ホシアは神の神秘的象徴に耽っている。エホバ神に何の変わりもないのであるが、各自その天分に応じて、違った啓示を漏らしている。ずっと後世になりても、その点に於いて何の相違もない。ポーロとペテロとは同一の真理を説きながら、必然的に別の角度からこれを覗いている。どちらの説く所も虚偽ではないが、しかしどちらも真理の一面にしか触れていない。インスピレーションは、神から来る。しかし霊媒は人間である。
 人々がバイブルを読んで心の満足を見出すのは、つまり自分自身の心の反映を、バイブルの中に見出すからである。神につきての知識と、理解とが、極めて貧弱である為に、彼等は過去の啓示に満足し、別に新啓示に接して、事故の心胸を拡充しようとは思わない。よし思っても力量が足りない。所謂同気相求め、同類相集まるの筆法で、彼等はバイブルの中から、自分達の理想に協ふ章句を拾い出す。一人の預言者で間に合わなければ、多くの中から、御意に召した箇所を選び出し、御意に召さぬ箇所は勝手に放擲して、ここにツギハギだらけの、自家用の啓示録を製造する。全ての宗派の発生は、つまりはこうした手続きで出来たに外ならない。めいめい最初から自分自身の理想が出来ており、経典の中から選り出した啓示を以って、これを裏書したまでである。ただの一つとして、啓示の全部を承認するものはない。何となれば、啓示全部が首尾一貫したものでないからである。かるが故に、啓示の他の章節を選び出した人達と、鼻を付き合わせた時には、文字の意義を歪曲して、勝手次第な解釈(?)を加えるから、全てがサッパリ訳の分からぬものとなり、折角その啓示を送った霊達、又その啓示を取り次いだ預言者達の真意は、全然損なわれてしまうのである。かくの如くして啓示なるものは、いたずらに宗派的論争の用具と化し、古経典は、空しく各自の気に入った武器を引っ張り出す為の、兵器庫の観を呈してしまった。
 兎に角そうした手続きで出来上がった所謂神学が、我等の主張と相容れない所があるのは、寧ろ当然ではないか。我等は神学とは全然没交渉である。神学はまるきり地上の産物である。神学者の教える神の観念は、野卑低劣を極め、そしてその主張は、魂の発達に対して、最も有害なる影響を与える。我等は断じてこれに与しない。我等の使命は、寧ろ既成の神学を撲滅し、これに代わるに、より正しき神の教を以ってすることである。
 神につきての観念が、何故にかくも謬っているかに関しては、そこに別な理由がないでもない。それは地上の人類が、元々霊的、象徴的であるべき事物をば、あまりにも文字通りに解釈したことである。地上の人達の、想像だも為し得ざる事柄を通信するに当たり、我々は止むを得ず、人間界の措辞用語を借り、時とすればうっかりして、真意とは大分縁遠い言葉を使ったりする。いかなる霊界通信にも、そう言った短所がある。霊界通信が、文字通りに解釈されてはたまらぬ所以である。一切の啓示は、皆象徴的であると言っても決して過言でない。なかんずく霊界居住者が、神の観念を伝えんとする時に、その傾向が一層強烈である。霊界居住者自身も、神につきて知る所は甚だ乏しい。その結果、それに用いられる文字は、必然的に極めて不完全、極めて不穏当である。精確に神を定義し得た文字は、世界のどこにも見出されない。
 ここに鑑みる所があって、我等は神の真理の一部を伝えるべく、新たに特派されたのである。然るに我等の選べる霊媒の心には、既に何等かの定見が出来ている。それ等の一部は全然間違っており、他の一部は半ば正しく、又他の一部は或る程度まで歪曲されている。これを根本的に改造することは到底不可能である。そんな真似をすれば、破壊のみあって建設はないことになる。で、我等は霊媒の固有の意見の中で、最も真実に近いものを捕え、出来るだけこれを培養し、補修して、以って我等の通信の目的に副はせるように仕向ける。無論彼の懐ける独断的意見には、斧鉞を加えねばならぬが、格別害にもならぬ意見は、そのままに棄て置き、自然に彼の心眼の開けるのを待っている。
 従って彼の神学上の意見は、依然として、今でも心のどこかに残存するのであるが、ただそれは以前の如く、心の表面に跋扈することがない。我等は言わば、だましだまし彼を通信の用具に使役しているのである。そこに我等の図り知られぬ苦心が存する。
 人間界の批評家は、往々霊界通信を以って、霊媒の潜在観念の表現に過ぎないという。それは或る程度当たっていないでもない。何となれば霊媒の意見は、それが無害である限り、大体元のままに保存され、ただ人目につかぬ程度に、幾分修正されているに過ぎないからである。が、有害なる意見は、跡方もなく一掃されていることを忘れてはならない。
 大体に於いていえば、我等にとりて、信仰の形式などは実はどうでもよいのである。肝要なのは信仰の生命である。かるが故に、我等はいつも既成の基礎工事を利用し、その上に新解釈を施すべく努力する。全体の輪郭は少しも変わらないが、ただ我等の解釈には新しき生命が流れ、そして虚偽の分子、不健全の要素が、人知れず除かれているのである。
 かの贖罪説とても、解釈の仕方によりては立派に生きて来る。汝等はキリストを救世主とし、神の子とし、又罪の贖者とするが、それは人間的解釈で、かの古代ヘブライ人の刻める子牛の像と、何の相違もない。しかしながら、キリストが誠の道の為に自己の生命を棄て、家族を棄て、地上の快楽を棄てて顧みなかった、克己的犠牲行為は、どれだけ人の子を罪より救い、どれだけ人の子を、一歩神に近付かしめたか知れない。その意味に於いて彼を一の贖罪者と言おうとするなら、我等も歓んでこれに左袒(さたん=味方すること)する・・・。
 (評釈)主としてキリスト教を中心としての言説であるが、無論これは仏教にも、神道にも、又儒教、道教等にも、悉く当てはまると思う。啓示と霊媒、又啓示と時代との関係を説きて直裁簡明、正に絶好の指針とするに足りる。『インスピレーションは神から来る。しかし霊媒は人間である』-これを忘れた時に、当然その人は経典病患者になる。
 一宗一派の発生につきて説く所も甚だ深刻である。これを一読して現在の日本を観る時に、我等は憮然として、長太息を禁じ得ないものがある。
 最後に霊媒使用につきて霊達の苦心談、-これも正しく神霊学徒にとりて好参考資料であることは、改めて贅言を要しないであろう。

自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 問『あなた方の啓示は、却って民衆の心から信仰を奪う結果になりはせぬか・・・』

 新啓示と一般民衆-汝の疑惑の存するところはよく判る。我等はこれから右につきて、十二分に所見を述べようと思う。我等は我等の使命の、神聖なることを信じて疑わぬ。時運さえ熟せば、天下の民衆は、必ず我等の指示に従うに相違ないのであるが、それまでには、民衆に対して多大の準備教育を必要とする。現在に於いて我等の提唱する所を受け容れることの出来るのは、ホンの少数の先覚者-つまり一般民衆の先達として、指導者の位置に就くべき、少数の先駆者のみに限られる。一体いずれの時代、いづれの国士に於いても、これに例外はない。旧知識に満足している無智の大衆は、必ず新知識に向かって、反抗の声を掲げるのが常則となっている。かのイエスとても同様の憂目を嘗めた。寄木細工式の繁瑣な神学をでっち上げた人達、朝に一條を加え、夕に一項を添えて、最後に一片の死屍にも似たる、虚体虚儀の凝塊を造り上げた人達-それ等はイエスを冒涜者と見做し、神を傷け、神の掟を破る大罪人であると罵った。かくて最後に、イエスを十字架に送ったのである。
 今日では何人も、イエスを神を瀆す罪人とは考えない。彼こそは、実に外面的の冷かなる虚体虚儀を拝して、その代わりに、陽の光の如く暖かなる内面的の愛を、人の心に注ぎ込んだのである。が、当時の当路者達は、イエスを以って、みだりに新信仰を鼓吹して旧信教を覆すものとなし、これを磔刑に処したのである!
 イエスの従弟の時代に至りても、一般民衆は、尚未だイエスの真の啓示を受け容れるだけの心の準備がなく、従弟達に対する迫害は、間断なく繰り返され、ありとあらゆる面罵の雨が、彼等の上に降り注いだ。曰くイエスの従弟どもは、極端に放縦無規律なるしれものである。曰く彼等は、赤子を殺し食膳に上せる鬼どもである。今日から顧れば、殆ど正気の沙汰とは受け取れぬような悪声が、彼等の上に放たれたのであった。が、これは独り当時に限られたことではない。現在我等霊界の使徒に対して向けられる世人の疑惑、当局の圧迫とても、ほぼこれに等しきものがある。
 但しかくの如きは、人文史上の常套的事象であるから、諦めねばならぬ。新しい真理に対する迫害は、宗教と言わず、科学と言わず、人類の取り扱う、いかなる原野に於いても、例外なしに行なわれるのである。これは人智の未発達から発生する、必然的帰結であるから致し方がない。耳慣れたもの程俗受けがする。これに反して耳慣れぬもの、眼馴れぬものは頭から疑われる。
 で、我等の仕事が、前途幾多のイバラに阻まれるべきは、元より覚悟の前であらねばならぬ。我等の啓示は往々にして、未開なる古代人の心を通じて漏らされた啓示と一致せぬ箇所がある。これは使用する器の相違が然らしむるところであるから、如何ともする事は出来ない。
 言うまでもなくバイブルは、幾代かに亘りて受け取られたる啓示の集録である。かるが故に神につきての観念は、人智の進歩に連れて次第に変化し、枝葉の点に於いては、必ずしも一致していないのである。加之バイブルの中には、人間的誤謬の夾雑(きょうざつ)物が少なくない。これは霊媒という一の通信機関を使用する、必然の結果である。真理は全体の流れの中に見出すべきで、一字一句の末に捕えらるれば、到底真理を掴むことは出来ない。全体と交渉なき局部的の意見は、筆者の思想を窺うのには役立つが、我等の信仰問題とは没交渉である。二千年、三千年の昔に於いて述べられた言説が、永遠に威力を有するものと思うは、愚も又甚だしい。そうした言説は、それ自身の中にも矛盾があり、又同一書冊の中に収められた、他の言説とも相衝突している。大体に於いて言うと、バイブル編成時代の筆者達は、イエスを以って神の独り子と思考し、このドグマを否定するものを異端者と見做した。同時に又それ等の人達は、あまり遠くない将来に於いて、イエスが雲に乗りて地上に再臨し、地上の人類の審判に参与するのだと信じていた。無論これ等が皆迷信であることは言うまでもない。イエスの死後、既に千八百年以上に及べど、今以ってイエスは地上に再臨しない。よほど活眼を以ってバイブルに対しないと、弊害が多い所以である・・・。
 で、我等がこの際諸子に注意を促したいことは、諸子が神の啓示を判断するに当たりては、須らく自分自身に備われる智慧と知識との光に依り、断じて教典学者の指示に依ってはならないことである。啓示全体に漲る所の精神を汲むのはよいが、一字一句の末節に拘泥することは、間違いの基である。従って我等の教訓を批判するに当たりても、それが果たして或る特殊の時代に、或る特殊の人物によりて述べられたる教訓と一々符合するか否かの穿鑿(せんさく)は無用である。我等の教訓が、果たして諸子の精神的欲求に適合するか、否か、それが果たして諸子の心境の開拓に寄与する所あるか、否かによって去就を決すればよいのである。
 換言すれば、我等の教訓が、正しき理性の判断に堪えるか?精神の糧としてどれだけの価値を有するか?-我等の教訓の存在理由は、これを以って決定すべきである。
 正規の教会で教えるように、諸子に臣従を強いるところの神は、果たして諸子の崇拝の対象たるに足りるか?その神は、自己の独り子の犠牲によりて、初めてその怒りを解き、お気に入りの少数者のみを天国に導き入れて、未来永劫、自己に対する賛美歌を唄わせて、満足の意を表している神ではないか!そしてその他の人類には、天国入りの許可証を与えず、悉くこれを地獄に追いやりて、言語に絶した苦痛を、永久に嘗めさせているというではないか。
 教会は教える。神の信仰に入りさえすれば、いかなる堕落漢たりとも、たちどころにその罪を許されて天国に入り、神の御前に奉侍することが出来ると。もしもそれが果たして事実なりとせば、天国という所は、高潔無比の善人と、極悪無道の悪人とが、互に膝を交えて雑居生活を営む、不思議千万な場所ではないか?
 我等の教える神は、断じてそんなものではない。道理が戦慄して逃げ出し、人情が呆れて顔を背けるような、そんな奇怪な神の存在を我等は知らない。それは人間の迷信が造り上げた神で、実際には存在しない。しかもかかる神を空想した人物は、よほどの堕落漢、よほどの野蛮人、よほどの迷妄漢であったに相違ない。人類として信仰の革命が、急を要する所以である。
 我等が知る所の神、愛の神は断じてそんなものではない。その愛は無限、しかも全てに対して一視同仁である所の、正義の神である。そして神と人との中間には、多くの守護の天使達が存在し、それ等が神の限りなき愛、神の遠大なる意志の直接の行使者となるのである。これ等の行使者があるから、そこに一分一厘の誤差も生じないのである。神は一切の中心であっても、決して直接の行動者ではないのである。
 思え!永遠の魂の所有者たる諸子は、不可解、不合理なる教義の盲目的信仰と、ただ一片の懺悔の言葉とによりて、単調無味なる天国とやらの権利を買い占めるのであろうか?否々、諸子はただしばし肉の被物に包まれて、より進歩せる霊的生活に対する準備を為すべく、地上に現れたる魂なのである。かるが故に、現世に於いて蒔かれたる種子は、やがて成熟して、次の世界の収穫となる。単調無味な、夢のような天国が、前途に諸子を待っているようなことは断じてない。永遠の向上、永遠の進歩、これが死後の世界の実相である。
 従って各自の行動を支配するものは、不可犯の法則である。善行は魂の進歩を助け悪行は魂の発達を阻止する。幸福は常に進歩の中に見出され、進歩につれて神に近付き、完全に近付いて行く。魂は決して安逸懶惰(らいだ)を願わない。魂は永遠に知識の前進に対する欲求を棄てない。人間的欲情、人間的願望は肉体と共に失せるが、魂には純情と進歩と愛との伴える、清き、美しき生活が続く。それが誠の天国なのである。
 我等の魂の内に存在する地獄以外の地獄を知らない。この地獄は不潔な劣情の焔によりて養われ、悔と悲の焔によりて培われ、過去の悪業に伴える、諸々の重荷が充ち充ちている。この地獄から脱出すべき唯一の途は、ただ踵を返して正道に戻り、正しき神の教に基づきて、よき生活を営むことである。
 無論死後の世界にも刑罰はある。されどそは、怒れる神の振り降ろす懲戒のしもとではない。恥を忍び、苦痛を忍びて、自ら積み上げる善行の徳によりてのみ、償うことの出来る自然の制裁である。御慈悲を願う卑劣な叫びや、オロオロ声を絞りての、偽懺悔などによって償うべくもないのである。
 真の幸福を掴もうと思えば、道に協い、我欲から離れたる生活を、ただ一筋に厳守するのみである。幸福は合理的生活の所産であり、これと同様に、不幸な有形無形に亘る一切の法則の意識的違反から発生する。
 我等の遠き前途につきては、我等は何事も語るまい。何となれば、我等も又それにつきて、何等知るところがないからである。が、我等の現在につきていえばそは諸子の送る地上の生活と同じく、不可犯の法則によりて支配され、幸不幸は、ただその法則を遵守するか否かによりて決せらるるのである。
 我等は今ここで、我等の唱道する教義につきて細説はせぬであろう。神に対し同胞に対し、又自己に対して守べき人間の責務につきては、諸子もほぼ心得ているのである。他日諸子はこれにつき、更により多くを知るであろう。現在としては既成宗教のドグマと、我等の教義との間に、いかに多大の径庭があるかを明らかにしたのを以って満足するとせう。
 諸子は我等の主張が、既成宗教の教条に比して、遙かに不定形、遙かに不透明であると思うであろう。が、我等は、決して彼等の顰に倣って実行不能、真偽不明の煩瑣極まる法則などは述べようとはせぬ。我等の期するところは、より清く高き空気を呼吸し、より清く、聖なる宗教を鼓吹し、より純なる神の観念を伝えることである。要するに我等は、あくまで不可知を不可知とし、かりそめにも憶測を以って知識に代えたり、人間的妄想を以って、絶対神を包んだりしないのである。我等の歩まんとする道は、憶測よりは寧ろ実行、信仰よりは寧ろ実験である。我等はこれが智慧により、神により導かるるところの、正しき道であると信ずる。思うに我等の教は懐疑者によりて冷視せられ、無智者によりて罵られ、また頑迷者流によりて異端視されるであろう。しかしながら真の求道者は、我等の教によりて手懸りを獲、真の信仰者は我等の教によりて幸福と、進歩との鍵を掴み、そして縦令千歳の後に至るとも、この教の覆ることは絶対にないと信ずる。何となれば我等の教は、あくまでも合理的の推理と、合法的の試験とに堪えるからである。
 (評釈)神霊主義の神髄は、ほぼ遺憾なくここに尽くされている。現世と死後の世界が繋がりであること、両者があくまでも大自然の法則の支配下にあること、『神』は最高最奥の理想的存在であって、神律の実際の行使者は、多くの天使達であること、幸と不幸との分れ目は、有形無形の自然律を守るか、守らぬかによりて決すること、神霊主義は正しき推理と、正しき実験との所産であるから、永遠に滅びないこと-それ等の重要事項が、中々良く説かれている。今後人類の指導原理-少なくとも具眼有識者の指導原理は、これ以外にある筈がないであろう。
 なかんずく私がここで敬服措かないのは、『天使』につきての大胆率直なる啓示である。無限絶対の『神』又は『仏』のみを説きて、神意の行使者たる天使の存在を説かない教は、殆ど半身不随症に罹っている。無論ここにいう天使は、西洋式の表現法を用いたまでで、日本式でいえば八百万の神々である。くれぐれも読者が名称などに捕えられず、活眼を開いて、この貴重なる一章を味読されんことを切望する。

自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

問『あなた方の所説は、甚だ合理的と考えられるが、千八百年に亘りて、我等の心胸に浸み込まされた信条の放棄は、非常な重大事である。願わくばもっと明確な証左を御願いしたい』

 宗教の真義-友よ、汝の熱心な疑惑は、我等にとりて、この上もなき福音である。単なるドグマに捕えられず、あくまで合理的に真理を求めんとする心掛け-それでなければ神慮には協はない。我等は心から、そうした態度を歓迎する。我等の最も嫌忌するのは、そこに何等の批判も考慮もなしに、ただ外面のみを扮装した、似面非(えせひ)人物に似面非言論を鵜呑みにせんとする、軽信家の態度である。我等はかかる軽信家の群に対して、言うべき何物もない。同時に我等の手に負えぬは、かの沈める沼の如き、鈍き、愚かなる心の所有者である。我等の千言万語も、遂に彼等の心の表面に、一片のさざ波さえ立たせ得る望みはない・・・。
 さて汝の提出した疑問-我等としては、これに証明を与えるべく全力を傾けるであろうが、ある地点に達した時に、それ以上は、いかにしても実証を与えることが不可能である。汝も熟知する通り、我等は到底打ち勝ち難き、不利な条件に縛られている。我等は既に地上の住人でない。かるが故に、人間界の法廷に於いて重きを為すような、証拠物件を提示し難き場合もある。我等は、只我等の力に及ぶ証明を以って、汝等の考慮に供するに留まる。これを採用すると否とは、偏に汝等の公明正大なる心の判断に任せるより外に道がない。
 我等の所説を裏書するのには、或る程度まで、霊界に於ける我等の同志の経歴を物語るより外に途がない。これは証明法として不充分であるが、何とも他に致し方がないのである。我等は、地上生活中の自己の姓名を名乗り、そして自己と同時代の性行閲歴につきて、事細やかに物語るであろう。さすれば、我等が決して偽物でないことは幾分明白になると思う。事によると、汝はそれだけの証明では不十分であるというかも知れぬ。成る程狡猾なる霊界人が、欺瞞の目的を以って、細大の歴史的事実を収集し得ないとは言われない。が、到底偽り難きは、各自に備わる人品であり風韻である。果実を手懸りとして、樹草の種類を判断せよとは、イエス自身の教える所である。トゲのあるブドウや、無花果はどこにもない。我等が、果たして正しき霊界の使徒であるや否やは、我等の試みる言説の内容を以って、忌憚なく批判してもらいたい。
 これ以上、我等はこの問題に掛かり合っているべき勇気を有たない。我等の使命は、地上の人間の憐憫を乞うべく、あまりにも重大である。我等の答が、まだ充分腑に落ちかぬるとあらば、我等は我等の与える証明が、得心の出来る日の到来を心静かに待つであろう。我等は断じて、今直に承認を迫るようなことはせぬ・・・。
 我等がここで是非指摘したいのは、現世人に通有の一つの謬想である。人間はしきりに各自見解に重きを置こうとするが、我等の眼から観れば、そうしたものは殆ど全く無価値である。人間の眼は、肉体の為に蔽われて、是非善悪を審判する力に乏しい。霊肉が分離した暁に、この欠陥は初めて大いに除かれる。従って人間の眼で、何より重大視さるるものが、我等の眼を以って観れば、一向取るにも足らぬ空夢、空想である場合が少なくない。これと同時に、各派の神学、各種の教会の唱えつつある教義が、その根底に於いて、格別違ったものでもないことが、我等の眼にはよく映るのである。
 友よ!宗教なるものは、決して人間が人為的に捏造したような、そう隠微不可解な問題ではない。宗教は地上の人間の狭隘(きょうあい)なる智能の範囲内に於いて、立派に掴み得る問題なのである。かの神学的揣摩憶測や、かの独断的戒律、並に定義は、一意光明を求むる、哀れなるものどもを苦しめ、惑わせ、彼等をして、ますます無智と迷信の雲霧の中に迷い込ましむる資料としか思われない。迷信の曲路、無智の濃霧-これ等はいずれの世にありても、常に求道者を惑わせる。又人間の眼から観れば、同一宗派に属するものの信仰は、皆同一らしく思われるであろうが、元々彼等は、暗中に模索しているのであるから、いつの間にか、めいめい任意の解釈を造り、従って我等の眼から観れば、多くの点に於いてめいめい違った見解を有っている。真に迷霧が覚めるのは肉の眼が閉じる時、換言すれば、地上生活が終わりを告げる時で、そこで初めて地上の教会、地上の神学の欺瞞に気が付き、大至急訂正を試みることになるのである。進歩性の霊魂は、決して呉下(ごか)の阿蒙家(あもうか)ではない。かの頑迷不霊のみがいつまでも現世的迷妄の奴隷として残るのである。
 記せよ、真理は決してある特殊の人間、ある特殊の宗教の特権でも何でもない。真理は古代ローマに於いて、鋭意肉の開放を企求した、アテノドーラスの哲学の中にも見出される。又真理は来世の存在を確信して、地上生命の棄却を意としなかった、アポクタスの言説の中にも見出させる。又真理の追窮は、かのブローテイナスをして、早くも地上生活中に、よく超現象の世界に遊ばしめ、更に真理の光明は、かのアレッサンドロ・アキリニイをして、よく烈々として、人を動かす熟語を吐かしめた。かるが故に、これ等の霊界居住者達は、今や互に共同一致して真理の宣揚、顕幽一貫の神霊主義的運動の為に、かくは汝を交通機関として、真剣な活動を試みつつあるのである。これ等の人達にとりて、地上生活時代の意見の如きは、殆ど問題でない。それ等は夙(しゅく)の昔に振り捨てられ、生前の僻見などは、最早どこにも痕跡を留めない。無論これ等の人達は、既に地上とは綺麗に絶縁してしまい、彼等の墓石の上に、哀悼の涙を注ぐものなどは、最早只の一人もない。彼等には再生の機会は全くなく、要するに彼等は、純然たる霊界居住者なのである。然しながら、彼等がかつて鏤(ちりば)めたる宝玉は、歳と共に光輝を加えて、不朽の生命を有っている。この魂の光、この魂の力こそは、実に今日彼等をして、協力して地上人類の純正高潔なる霊的教育-より高く、より清き真宗教の普及の為に、精進努力せしむる所以なのである。
 我等は信ずる、沈思熟慮の結果は、必ず汝をして、我等の主張の合理性を承認せしむるに相違ないと。これに対する絶対的証明は、地上生活中には到底獲られぬであろうが、何れその中汝も又死線を越えて、我等の仲間入りをするであろう。その時こそ、最早嘘も事実もない。それまでは暫く間接的証明の蓄積によりて、一歩々々自己の信念を固められたい。自己を裁くと同一筆法を以って他を裁けば、決して間違いは起こらない。それが審神の要訣である。
 (評釈)進歩せる神霊界の使徒との交通感応こそ、真宗教の骨子である。これがある時に、初めて宗教に生命が湧き、これがない時に、宗教商人の跋扈となる。但しくれぐれも看過してならぬことは、相手の霊界居住者の正否善悪に対する審判である。この点に於いて本章の説く所は正に我等に絶好の指針を与えるものである。

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