死にたい自殺サイト自殺方法自殺ダメ

当サイトは、死にたい人に自殺に関する霊的知識を与えて、自殺を止めさせる自殺防止サイトです。

自殺の霊的知識へ

カテゴリ:★『霊訓』 > モーゼス 霊訓

自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 問『いかなる人物が、霊界の機関たるに適するか?』

 霊界の求むる人格-霊媒能力が種々雑多に分かれることは、わざわざ断るまでもあるまい。或る種の霊媒は、単にその一種特別の体質の為に選ばれる。つまりそれ等の人達の肉体組織が、外部的客観的の霊的表現を行なうに適当しているのである。彼等は精神的には殆ど何等の能力もない。たまたま背後の支配霊達が、何等かの通信を行なうことはありても、その内容は通例末梢的の些事に留まり、時とすれば取るに足らぬ囈語やら、取り止めのない出鱈目やらでさえもある。この種の霊媒は、専ら霊の存在を証明する為に用いられる。肉眼には見えない他界の居住者が、彼等の肉体を利用して、客観的の現象を作製することが出来るからである。
 要するにこの種の霊媒は、初歩の心霊現象を作る為の機関に過ぎない。が、そうかと言って、彼等の仕事がつまらないということにはならない。信仰の基礎工事は、実に彼等によりて築かれるのである。
 それから又一部の霊媒達、その性質が善良で慈悲深い為に、霊界の選抜に与る彼等は多くの場合に於いて、物理的心霊現象の用具とはなり得ない。又最初は、霊界との意識的の通信さえも為し得ない。が、彼等の素直な性質は、霊的感化を受け易く天使達の監視の下に、その純情が驚くべく開発されて来る。その結果、次第に意識的に、霊界通信を行い得るようにもなり、又或る程度の霊視能力を恵まれて、折節他界の状況を瞥見することにもなる。彼等の背後に控えて働くのは、通例或る情け深い霊的存在で、印象的に、絶えず必要な指導を与える。こうした人達は、いつも愛と平和の清き雰囲気の裡に包まれ、生きては輝かしき人間の模範と仰がれ、死すれば直ちに安息の境地に迎えられて、平和の真光に浴するのである。
 それから又他の霊媒達は、理智的に発達を遂げており、知識の広布、真理の普及に使われる。その背後に控えているのは、皆進歩した霊界居住者達で、或はよき思想を送ったり、或はよき方法を指示したり、あらゆる手段に訴えて、遺憾なく感化影響を及ぼそうとする。霊界の用いる手段たるや、何れも巧妙さを極め、とても地上の人間には窺知し得ないところがある。この際霊界人にとりて、何より困難を感ずるのは適当な霊媒・・・ずっと上層からの通信を感受し得る、適当な霊媒を選び出すことである。先ず第一にその人物は、受動的の心の所有者であらねばならぬ。何となれば、本人の心が吸収するだけしか、何事も注入し得ないからである。次にそれは愚かなる人間界の先入主から、全然脱却したものであらねばならぬ。利害得失の打算から、真理の指示に背くような魂では、とても我等の用途にはならぬ。
 更に又その人は、一切の宗教宗派的のドグマの捕虜であってはならぬ。これと同様に、一知半解式の知識の所有者であってもならぬ。それ等は自分の無知無学に気付かぬから、手がつけられない。我等の求むる所は、どこまでも自由で、素直で、純情で、知識欲が旺盛で、真理の吸収にかけて飽くことを知らぬ、清き魂の所有者であらねばならぬ。
 次に我等の仕事は、積極的の自主的意見に捕えられて、やたらに反対したり、又個人的欲望の奴隷となりて、白を黒と言いくるめたりするような人であっても、殆ど何事も為し得ない。そうした場合には、右の人物の悪癖の矯正に手間取れて、剰すところが幾ばくもないことになる。くどいようだが、我等の求むる人物は、敏腕で、熱心で、真理欲が強くて、寡欲で、そして温和しい魂の所有者であらねばならぬのである。人選に骨が折れる筈ではないか。事によると、そうした人選は不可能、と言った方が或は適当かも知れぬ。で、止むを得ないから、我等は多くの中で、一番ましな人物を選び、これに不断の薫陶を加えつつ、曲りなりにも所期の仕事を遂行せんと覚悟するに至ったのである。我等としては、先ず努めて愛と、寛容性とを、その人物に注入すべく心懸ける。すると右の人物は、ここに初めて平生の僻見から離脱し、真理が思いの外に多面的、又多角的である所以を悟って来る。次に我等は、右の人物として呼吸し得る限りの、多くの知識を注入してやる。一旦知識の土嚢(どのう)が据えられると、ここに初めて安心して、上部構造物を築くことが出来て来る。かくの如くして右の人物が、精神的に次第に改造されて行き、どうやら我等の所期の目的と調和して行くことになる。
 無論こうした仕事に失敗は伴い勝ちで、我等としても、止む無く中途で見棄ててしまわねばならぬ人物は沢山ある。世にも度し難きは、人間界にこびりついている古い古い僻見であり、又ドウにも始末に行かぬのは、宗教宗派の墨守する数々のドグマである。これは『時』の流れに任せる外に途がない。我々の力にも到底及ばない。
 尚ここで一言付け加えておきたいのは、我等の教が、徹底的に一切の恐怖を、人の心から剪除(せんじょ)せんことである。要するに我等の使命は、神と神の使徒に対して、全幅の信頼を置くべく、魂達を指導することである。
 旧神学に従えば、そこに一人の神があって、絶えず人間の堕落を監視し、又そこに一人の悪魔があって、間断なく人間に誘惑の罠を張っているというのである。この考が頭脳に浸み込んでいる人達は、ややもすれば我等の教訓を不思議がり、容易にこれに従おうとしないが、これは誠に困ったものである。宗教から一切の恐怖、一切の不安が引き離された時にこそ、地上の人類は、初めて安心立命の境地に立ち得るものといえる。
 尚ここにモウ一つ断っておきたいことは、我等の使命が、ありとあらゆる形式の利己主義を掃滅せんとすることである。『我』がにじり出づる所には、そこに我等の施すべき余地はない。自己満足、唯我独尊、驕慢、自慢、自家広告、自分免許・・・・何れも皆禁物である。小智小才に走るものは、到底我等の用具にはなり得ない。独断専行を好むものも、又我等の伴侶ではあり得ない。克己自制-これがいづれの時代に於いても、聖人君子に付きものの美徳であった。いやしくも進展性に富める真理の祖述者は、昔から最も少なく自己を考え、最も多く自己の仕事を考えた人達であった。かの地上にありし日のイエスこそは、正に高き克己心と、清き熱誠との権化ではなかったか。彼はあくまでも自己を抑えて、真理の為に一身を犠牲にすることを辞せなかった。彼の一生は人間の歴史が有する、最も高潔な絵巻物の一つである。同様に世界を迷妄の闇の中から救い、これに真理の光を注いだ人達にして、未だかつて自制の人でないのはなく、何れも皆自己に割り当てられたる使命の遂行に向かって、畢生の心血を注ぐを忘れなかった。ソクラテス、プラトン、ヨハネ、ポーロ、-これ等は皆真理の開拓者であり、進歩の使徒であり、極度に無欲純潔、少しも驕慢、自負、自家宣伝等の臭味がなかった。それでこそ、あれ程の仕事が出来たのである。もし彼等にして一片の利己心があったなら、そは必ず彼等の成功の心臓部を喰い破ったであろう。
 我等が求める所は、右に述べるが如き人物である。慈悲心に富み、熱情に富み、自己を忘れて真理を求め、神業一つを睨みつめて、現世的欲求を棄てて顧みない人物が欲しいのである。そんな人格が暁天(ぎょうてん)の如く稀であるべきは、元より言ふまでもない。それだけそう言った人格は尊い。友よ、落ち着いた、熱心な、そして誠実な哲学者の心を以って心とせよ。又慈悲深く、寛厚にして、常に救いの手を差し延べんとする、仁者の心を以って心とせよ。更に又為すべき事を為して、報酬を求めざる神の僕の克己心をこれに加えよ。かかる人格にして初めて、気高く、聖(きよ)く、美しき仕事が出来る。我等としても、最大の注意を以ってこれを監視し、又警護する。同時に神の直属の天使達も、又常に温顔を以ってこれを迎え、露過ちの無いように、特別の保護を与えるであろう。

 問『そう言った人格は、到底現代に求め難いと思うが・・・・』

 万事は忍耐-それは少ない、極めて少ない。よしあっても、ただその萌芽に過ぎない。我等とても、決して人間に向かって完全を求めはせぬ。我等の求むる所は、ただ誠意あるもの、向上心に富めるもの、自由な、吸収力に富めるもの、純潔にして善良なるものである。人間として焦る心が何よりも悪い。静かに忍耐の心の緒を引緊めることが肝要である。取り越し苦労と、心配とは絶対に禁物である。出来ない事は到底出来ない。思案に余る事柄は、全て我等に任せ、思いを鎮めて、よく我等の述べるところを味わってもらいたい。

 (評釈)いささか冗長のきらいはあるが、大体優れたる霊界居住者が、人間に対して何を求めるかは、これでほぼ本当がつく。が、顧みて何人か自己の資格の不充分、不完全を嘆息せぬものがあるであろうか。これにつけても我等は、かの活神、活仏気取りの浅墓な心懸の人々には、つくづく長大息を禁じ得ぬ。本人も本人だが、その存在を許す周囲の人達も人達である。日本民族が精神文化の先頭に立ちて、世界を率いる資格の備わるのは、そも何れの日であろう!

自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 問『霊媒ホームの実験が、たまたまダービー競馬日に際会し、終に実験不能に終わったとの事であるが、かかるお祭騒ぎは幽明交通に有害か?』

 悪霊の跳躍-ダービー競馬日の如き場合には、人間の道徳的均衡が攪乱されているので、我等として、地上との交通に至難を感ずる。かかる場合には、ほくそ笑むのは、低級未発達の悪霊どもである。かの投機的欲望によりて刺激されたる無数の民衆こそは、同じ欲望に燃えている下級霊にとりて、正に誂え向きの好餌である。一部の人間共は、飲酒の為に、前後不覚の昂奮状態に陥っている。他の一部は一攫萬金を夢見て、熱病患者の如く狂い回っている。他の一部は一切の資産を失って、絶望のどん底に呻いている。こんなのはちょっとした暗示、ちょっとした誘惑にも容易に動かされる。よしそうした劣情が、実際的に惹起されるまでに至らなくとも、兎に角人々の道徳的均衡が覆されているのは、甚だ危険である。平静と沈着とは、悪魔を防ぐ為の大切な楯で、一旦それに隙間が出来れば、未発達な悪霊どもが、洪水の如くそこから浸入する虞がある。

 問『然らば国家の大祭日、国民的記念日等も有害か?』

 祭日の悪用-必ずしも有害とは言わぬ。全ては祭日に処する人間の態度如何にかかる。羽目を外した昂奮、則を越えた置酒高會、動物的な欲情の満足-人間がこれに走れば、勿論祭日は有害である。しかしこれは祭日や、記念日が悪いのではなくて、これに臨む人間の用意に欠ける所があるのである。もしも人々が国家の大祭日に当たりて、肉体の休養と精神の慰安とに心を用いるなら、およそ天下にそれ程よきものはないのであろう。過度の労役の為に消耗せる体力が、心地よき安静によりて完全に本復せる時、はげしき屈託の為に鬱屈せる脳力が、適宜の娯楽によりて完全なる働きを取り戻した時こそは、他界の指導者が働きかけるのに、まさに絶好の機会なのである。そうした際には、上界の天使達の威力も思うがままに加わり、いかに凶暴なる魔軍といえども、到底これに一指を染め得ないであろう。折角の大祭日が暴飲暴食と、賭博と、淫楽とに空費せらるることは、たまたま地上の人類が、いかに神霊上の知識に欠けているかを証明するもので、我等としては全能力を挙げて、その刷新と改善とに当たらねばならぬ。

 問『終日労役に服した後で、幽明交通を試みるのも、決して理想的でないと思うが、しかし日曜日は、却って一層神霊実験に適当せぬらしい・・・・』

 日曜日の不利-げに日曜日は、我等にとりて好適な日とは言われない。精神肉体がその緊張を失えば、
その反動として安逸性が加倍し、我等として、これを使役して新規の現象の作製を試みる事は、大いに憚らねばならぬ。殊に物理的の心霊現象の作製には甚だ不向きで、強いてこれを行なえば、霊媒の肉体を毀損する患がないでもない。尚日曜日が不適当な事につきては、他にも特殊の理由がある。汝達の気付かぬ環境の悪化-これが我等の仕事を困難ならしめるのである。食事の直後に実験を行なう事の不利は、既に汝の熟知せる所であろう。要するに我等の求むる所は、受動的の敏感性であって、かの怠慢と無感覚より来る所の、単なる受動的状態ではない。刺激性の酒類を飲みながら、鈍重な食物で胃腸を充たした時に必ず随伴する、かのうとうとした状態-我等にとりて、これ以上始末に負えぬ状態は滅多にない。刺激性の飲料は、或る場合には、物理的表現の補助となるかも知れない。が、それは我等にとりて大々的障害である。何となれば、それは物欲に捕われたる悪霊の為に門戸を開くからで、我等の懸命の努力も、到底これをいかんともすることが出来ない。座(サークル)を組織する立会人中の、ただの一人がそれであっただけでも、しばしば万事水泡に帰せしむることがないではない。これを要するに日曜日は、心身の安逸と、過度に飲食から来る、無気力無感覚とが伴い勝ちであるから、心霊実験には、あまり面白いとは言われないのである。

 問『食物の欠乏から来る心身の衰弱は如何?』

 節制第一-我等の推奨する所は、ただ節制の一語に尽きる。肉体が食物の補給を必要とするは勿論なれど、ただそれが完全に消化した上でなければ、交霊実験を試みてはならぬ。次に又精神肉体が睡眠を求め、休養を求むる時には、又疾病苦悩に煩わされている時にも、我等の認可を受けた上でなければ、成るべく、交霊を差し控えるがよい。同様に肉体が食物で充填し切っている時も、兎角下級霊の為に先手を打たれ勝ちで甚だ困る。かの物理的心霊現象でさえもが、そうした場合に起こるのは、慨してお粗末で、精妙優雅の要素に欠けている。何れにしても、極端に走るのが良くない。断食の為に消耗し切っている肉体も、少しも使いよいとは言われないと同時に、暖衣飽食によりて、えごえごしている肉体も甚だ面白くない。友よ、もしも我等の仕事を容易ならしめ、最良最上の成績を挙げんとならば、須らく交霊会には肉体が健全円満で、感覚が敏活で、その上心が受動的である理想的な一人物を連れ来れ。その時は予想以上の花々しい仕事が出来る。更に又座を組織する立会人達の気分が、充分調和していてくれれば一層申し分がない。交霊会の席上に出現する燐光でさえもが、右に述べる如き好条件の下にありては、青く冴え亘って煙がない。これに反して条件が悪ければその光が鈍く汚く燻っている。
 註-当時モーゼスの交霊会上には沢山の燐光が現れ、好条件の時にはその色が透明で、青味がかった黄色であり、然らざる時は赤っちゃけて燻っていたとの事である。
 (評釈)ここに説いてある所は、正に幽明交通に関する、最も親切にして、要領を掴める虎の巻と称しても、決して過言でないと思う。心霊実験に何の理解も経験もない者は、決まり切って霊媒のみを責め、全てがこれに掛かっているように考えるが、これはとんでもない心得違いである。環境が悪ければ、いかなる名霊媒だって施す術がない。それは丁度空中放電その他の場合に、ラジオに故障を生ずると同様であろう。これと同時に霊媒の方でも、常に最大の注意と節制とを守るのが必要で、どんな天分の優れた人物でも、一旦堕落したが最後、碌な働きは出来なくなるに決まっている。『肉体が健全で、感覚が鋭敏で、その上心が受動的』-誠に困難な注文であるが、実際それでなければ、完全に顕幽の境を突破して、百代に光り輝くような優れた通信、優れた現象は獲られそうもない。断食に対する注意なども、非常に穏当な意見である。バラモン式の難行苦行が、寧ろ百弊の基であることは、私自身の経験から言っても動かし難いところである。日本にはまだそうした僻見(へきけん)の捕虜となっているものが、中々多いらしいから、特にこの一章の精読を希望して止まぬ次第である。

自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 問『夫婦の関係は、死後永遠に続くか?』

 趣味と能力-夫婦関係が永続すると否とは、全然趣味と能力とが、均等に発達しているか否かにかかっている。もしも右の二つが揃っていれば、死後の夫婦は互いに手を携えて、向上の途を辿ることが出来る。少なくとも我等の境涯に見出される一対の男女は、趣味と能力とが一致しており、互いに助け合いつつ、進歩の階段を上昇することの出来る人達である。我等には霊的教育が全てである。従って進歩のよすがとなるべき関係以外は、全然その存在を認められない。かのいたずらに地上生活を陰惨ならしめ、いたずらに魂の発達を阻害する人為的束縛は、肉体の消滅と同時に、跡方もなく断絶する。これに反して、魂と魂との一致によりて堅く結ばれたる夫婦関係は、肉体の羈絆(きはん)を脱した暁に於いて、更に一層の強度を加える。二つの魂を包囲する愛の絆こそは、相互の発達を促す最大の刺激であり、従って両者の関係は永遠に伝わって行く。それは過去に於いて、たまたま両者の間に関係があった為というよりも、寧ろ永遠不滅の適合性が、両者の霊的教育に不可欠の要素として役立つからである。こうした場合には勿論地上の夫婦関係は永遠に続くといえる。少なくとも愛の生活が、相互の利益である間は、一緒に住んでいるが、或る時期に達して、別れて住むことが望ましくなれば、彼等は何の未練もなしに、各自の行くべき途を辿る。何となれば、こちらの世界では交通は物の数でなく、離れていても、立派に相互の胸奥を伝えることが出来るからである。強いてこの法則を破ることは、いたずらに不幸の種子であり、進歩の敵である。霊界の規則は断じてこれを許さない。

 問『夫婦というものは、精神的又道徳的には、必ずしも同一線上にいなくても、立派に愛し合っていられると思うが・・・・』

 愛する魂-無論相互愛に充たされたる夫婦は、永久に別れてしまうことは出来ない。兎角人間の考は、時間と空間とに拘束されているので、我等の住む世界の真相が、腑に落ち難いようである。愛する魂と魂とは、空間的にはいかに離れていても、実際に於いては、極めて親密に結合しているのである。我等には時間もなければ、又空間もない。無論真の理想的の一致というのは、両者の智能までも、全然同一水平線上にある場合であるが、実際問題とすれば、それは殆ど不可能に近い。魂と魂とが愛情の絆で結ばれていれば、それで立派な夫婦であり、智能的には、必ずしも同一程度であるを要しない。愛はいかなる距離をも結合する力がある。それは幼稚不完全なる地上生活に於いてすら然りである。二人の兄弟が、相互の間を幾千万里の海洋によりて隔てられ、幾年幾十年に亘りて、ただの一度も会見の機会なく、しかもその業務がすっかり相違しているにも係わらず、彼等の間には、立派に愛情が存在し得るではないか。夫婦となれば、その心情は一層不思議で、日頃自分を呵責するばかり、優しい言葉一つかけてくれぬ自堕落の亭主を、心から愛する世話女房が、あちこちに発見される。
 無論死は直ちに彼女を奴隷的苦境から解放する。彼女の方では上昇し、これに反して良人の方では下降する。が、愛の絆はこれが為に断絶することはない。同棲はしないが交通はする。距離は地上に於いてすら無視することが出来る。霊界にありてはそんなものは全然存在しない。
 (評釈)説明の言葉は簡単だが、この一章は人生の問題に触れており、貴重なる教訓を我等に与えるものである。かの仏教の安価なる一蓮托生説だの、キリスト教の一本調子な偏愛至上説だのは、僅かに真理の一部を掴んだに過ぎざる、甚だしく歪んだもので、到底今後の人類を率いるに足りない。これに比すれば、この章に説かれている所は、まさに天地の相違で、穏健、周到、着実、どこに一点の無理もゴマカシもない。これが一般民衆によりて味読さるるに至った時に、恐らく結婚に伴う幾多の謬想が除かれるであろう。

自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 問『霊界通信の眼目は何れにあるか?』

 通信の目的-我等の仕事を妨げる障害物は、一にして足りないが、先ず最も当惑するのは、我等の使用する大切な機関-霊媒の頭脳が、神学上の先入的偏見に充塞され、我等の思想を伝えるのに、多大の困難を感ずることである。これが為に我等は、しばしば長大息を禁じ得ぬ。
 次に我等の教に反対する者の中で、最も取り扱い難いのは、実にかの似而非(えせひ)科学者である。彼等は自分自身の媒体を通じてのみ事物を観察し、そして自分自身の条件によりてのみ、事物を評価せんとする。彼等の求むる所は、真理そのものではなく、いかにして霊界人が詐欺漢であり、又いかにして、それが分裂せる頭脳の一断片であるかを証明せんとするかにある。その曇れる眼、その歪める頭脳は、到底我等の伴侶たるに適しない。彼等には、他界との交通の神秘を会得すべき心の深みがない。少数の科学者中には、我等の提示する現象的方面に、注意を払うことを辞せないものもいるが、それは我等の事業の中心眼目ではない。我等の伝えんとするものは、主として魂と魂との交渉であり、又死後に於いて魂の辿るべき宿命の問題である。多年物理学的諸現象の考察にのみ従事せる人達の頭脳は、この種の問題の研究には、適当であるとは言われない。
 同様に困るのはかの無学者-他日充分の準備教育を施した暁には、我等の唱道する所を、咀嚼玩味するに至るであろうが、当分まだ我等の仕事とは没交渉である。
 更に我等が持て剰すのは、いたずらに伝統の儀礼方式に拘泥し、固陋(ころう)尊大、何等精神的の新事実に興味を感ずることを知らざる人達である。物理的心霊現象ならば、或いは彼等に向くかも知れぬ。が、我等の受持ちにかかる霊的通信は、恐らく彼等にとりて一篇の夢物語に過ぎないであろう。
 然り、我等の痛切に求むる所は、以上の如き人達ではなく、これに反して神を知り愛と慈悲とに燃え、やがて自分に落ち着くべき来世生活につきての知識を求むる、素直な魂の所有者である。が、悲しい哉、天賦的に人間に備われる宗教的本能が、いかに烈しく人為的の神学-無智と愚味とがいつとはなしに集積せる、嗤ふべきドグマの為に歪曲され、又阻害されていることであろう!彼等は真理に対して、完全に防衛されたる鉄壁である。我等が神の啓示を口にすれば、彼等は、過去に於いて現れたる啓示を以って完全無欠となし、新しきものを受け納れる心の余地を有しない。もしも我等が、古代の啓示の矛盾を指摘し、何れの啓示も、決して円満具足を以って任ずるものでないことを告ぐれば、彼等はドグマだらけの神学者の常套語などを傭ひ来りて、自家の主張の防衛に努める。要するに彼等は或る特殊の場合に、或る特殊の目的を以って現われたる、古経典の片言隻語を以って、一般的真理なりと思考しているから困るのである。
 全く以って度し難きは、かの盲信の徒である。我等は止むことを得ず、時として何等かの奇跡を以って、我等の使命の實有性を証明すべく試みるが、これも彼等に対して殆ど効果がない。彼等は言う、奇跡の時代は既に過ぎた。奇跡はただ古代の聖者にのみ許されたものである。現在現れつつある奇跡は、実は神の仕業を模倣しつつある、悪魔の欺騙に過ぎない。真理を以って信仰の上に置き、神の御子の絶対性を否定する者は、まさしく魔王の所為に相違ないと。
 我等はかかる論法に接する時に、心から憮然たらざるを得ない。それ等の論者は多くは皆愛と熱とに富める立派な人達である。悲しい哉、彼等には世界の闇を照らすべき進歩的傾向がない。我等は心からそれ等の人達を使って、通信を送りたいのであるが、我等はその前に、彼等の向上前進を不可能ならしむる、盲信と独断の残渣を一掃し去らねばならぬ。
 宗教にして、真にその名に背かぬが為には、必然的に二方面を具備せねばならぬ。他なし一は神に向かい、他は人に向かうのである。我等が出発点に於いて先ず訴えんとする最高の法院は、人類に具わる所の理性である。我等は理性を要求する。何となれば古代の聖者も、ただ理性によりて、それが果たして神の啓示であるか否かを決定したのであった。我等も又理性に訴える。ヘブルユーの預言者を指導した者のみが断じて神の唯一の使徒ではない。我等も又同一の使命を帯びて現代に臨んでいる。
 要するに、我等と彼等とは全然同一である。ただ我等の使命が、一層進歩しているまでである。我等の神と、彼等の神とは、そこに寸毫の相違もない。ただその神性が、一層よく発揮されているだけである。兎に角理性が最後の審判者である。理性を排斥する者は、結局自己の暗愚を告白すると同一である。盲目的信仰は、断じて理性的確信の代理たることは出来ない。信ずべき根底のある信仰と、信ずべき根底のなき信仰とは、決して同一架上のものではない。我等はどこまでも、理性に向かって訴えるものである。我等がいかなる理由で悪魔的であるか?我等の主張が、いかなる点に於いて魔的傾向を帯びているか?これを合理的に証明することが出来なければ、それ等の人達の言説は、ただ一片の空言に過ぎないと謂わねばならぬ。そうした人達が教界の指導者であっては、人生も又禍なる哉である。
 (評釈)今日こそ、英国人士の霊界通信に対する理解が、漸く深まりつつあれど、今から数十年の昔に於ける迫害-殊に既成宗教圑からの迫害ときては、正に狂人の沙汰であった。モーゼスを使役して通信しつつある霊達が嘆息するのも、もっともな次第である。最初はモーゼス自身すらも、決して神学的ドグマから超脱し切れず、何回となく霊達に向かって抗争を試みた位であった。霊達の世迷言は全く同情に値する。
 翻って日本の現状を観ると、今尚暗雲低迷、一方に古経典の講義でもすることが、信仰上の最大急務と思い込んでいるものがあるかと見れば、他方には理性の批判に堪えないどころか普通の常識にも負けるような、愚劣低級な囈語(げいご)を以って、神憑りの産物なりと唱え、大なり、小なり始末に負えぬ特殊部落を作って、神聖なる国土を汚している連中が甚だ多い。モーゼスの背後の霊をして批評させたら、果たして何と言うであろうか?

自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 問『霊界の指示は、あまりにも正統派の教条と、相反する点が多いと思われるが・・・』

 霊界居住者の主張・・・・爾は我等の伝達する教訓が、在来の所謂正統派の教条と、相反する箇所の多きを認め、これに反対の態度を執ろうとするが、これは極めて重大事であるから、重ねて説明を加えようと思う。
 宗教-健全なる霊生活-には、そこに明らかに二つの方面がある。他なし、一は神に向かい、一は人に向かう。我等の霊訓は、これにつきて、そもそも何事を教えんとするか?
 所謂正統派の教える神は怒り、猜む暴君であったが、霊訓の教える神は愛の神父である。しかもそはひとり名のみの愛ではない。神の一語一行は愛から生まれ、愛によりて動き、そこに、愛にあらざる何物もない。神はその創造物の最下級なものに対しても、常に正しく、常に親切である。
 従って霊訓は、この神に対して第三者の贖罪を必要としない。天帝は復讐的に、天則違反者に決して懲罰を与えることもなければ、又罪悪に対して、代理者の犠牲を要求することもない。いわんやこの全能の神が、天界の玉座に鎮まりて、選ばれたる者どもの恭敬に浸ることを歓び、失われたる者どもの、苦悩を見物することを楽しみとするようなことのある筈もない。
 然り、我等の教には、かかる擬人説の闖入(ちんにゅう)すべき隙間は何所にもない。神の法則の行使の上から神を考えれば、神は完全であり、純潔であり、愛であり、神聖でありそこに残忍、暴虐、その他人間的悪徳の片鱗をも認めることは出来ない。神は罪悪がそれ自身の中に刑罰を含むことを知るが故に、常に憐憫の眼もて、全ての人の過誤を見、枉(ま)げられぬ道徳律の許す範囲内に於いて、傷付ける者の苦悩を和らげようとする。神こそは実に光と愛の中心である。秩序を保つべく、天則の厳守に当たらるる神、これが我等の崇拝の大目標でなくて何であろう!神は断じて我等の恐怖の対象ではないのである!
 我等は汝等の思索想像する以上に、よく神を知っている。が、何人もまだ神の姿を拝したものはない。又我等は形而上的詭弁家の顰(ひそ)みに倣って、あまりにも深入りしたる推理穿鑿(せんさく)に耽ろうともしない。何となれば、そは却って神の根本観念を失はしむるものであることを知るからである。我等は断じて力量以上の、立ち入った穿鑿には与しない。我等は心静かに知識の増進を待っている。汝等も又それを待たねばならぬ。
 神と人との関係につきて、我等は細説を避けたい。兎角この事につきても、人間の工夫発明にかかるものが甚だ多く、長き年代の間に蓄積されたる付加物が、中心の真理を隠微している。例えばかの選ばれたる少数者-そうしたものを我等は知らない。選ばれたる者というのには、天地の大道を守りて、自ら救うもの以外には絶無である。
 又我等は、盲目的信仰の価値につきては何事も知らない。無論、率直に真理を受け入れ、片々なる疑心暗鬼の煩いから超脱する事は甚だ尊い。それは神心の現れで必ずや天使の守護に浴し得る。が、我等は断乎として、かの有毒な神学的教義を排斥する。それ等の教義が教える、教会のドグマを厳守すれば、地上生活に於ける一再の悪徳邪行から、綺麗に一掃せられて、神の恩寵に浴し得ると・・・。およそ天下にこれ以上に、人の魂を堕落せしむるものはあるまい。
 それから又我等は、ただある一つの信仰が有力で、他は全部排斥してよいという理由を、どこにも認めることが出来ない。真理は断じて或る教義教条の独占物ではない。無論何れの教義にも真理の種子はある。が、何れの教義にも誤謬の夾雑物がある。人間がいかなる状況の下に、いかなる信仰形式を採ることになったか、その真相が、我等にはよく判っている。故に我等はこれを軽視はせぬ。が、形式は要するに末で、真理が根源である。優れた霊魂は、皆地上生活中に信奉せる教義から超脱して一路向上の途を辿っている。我等は人間の好む煩瑣なる論議を好まない。我等はかの地上の神学を特色付ける、神秘につきての好奇的穿鑿を求めない。霊界の神学はあくまでも単純で知識的である。我等は単なる暗中模索を尊重しない。我等は宗派的論争には興味を有たない。何となれば、そはただ怨恨、嫉妬、悪意、排他的感情の原動力以外の何物でもないことを知っているからである。
 我等が宗教を論ずるのは、宗教が我等と汝等との生活に、直接の関係を及ぼすからである。人間-我等の観る所によれば、人間はやはり不滅の霊魂の所有者であるが-の地上生活は、言わば第一期の所等教育で、ここで簡単なる任務を遂行すへく教えられ、一層進歩せる死後の世界の高等教育に対する準備を整える。彼は幾つかの不可犯の法則によりて支配せられる。もしこれを犯せば、彼を見舞うものは不幸であり、損害であり、もし又これを守れば、彼に訪るるものは進歩であり、満足である。
 ここでくれぐれも銘記せねばならぬは、地上の人間が、かつて彼と同じ道を歩める、他界の居住者達の指導下にあることである。それ等の指導者達は、神命によりて、彼を守護すべく特派されているのであるが、その指導に服すると否とは、人間の自由である。人間の内には、常に真理の指示を誤らざる一つの規準が、天賦的に備わっているのであるが、これを無視した時に、いかなる指導者も施すに術はない。脱線と堕落とが伴って来る。全て罪は、それ自身に懲罰をもたらすのであって、外部的の懲罰を必要としない。
 兎に角地上の生命は、大なる生命の一断片である。生前の行為と、その行為に伴う結果とは、肉体の死後に於いても依然として残存する。故意に犯せる罪悪の流れは、どこまで行っても、因果の筋道を辿りて消えることがない。これは悲哀と恥辱とを以って償わねばならない。
 これと同様に、善行の結果も永遠不滅である。清き魂の赴く所には、常に良き環境が待ち構えており、十重二十重にその一挙一動を助けてくれる。
 既に述べた通り、生命は不可分の単一的実在である。それは例外なしに、上へ上へと前進の一路を辿り、そしてそれは例外なしに、永遠不動の法則によりて支配せられる。何人も寵児として特別の待遇に没することなく、又何人も不可抗力の誤謬の為に、無慈悲な刑罰に服することはない。永遠の正義は、永遠の愛と相関的である。慈悲は神的属性ではない。そうしたものは無用である。何となれば、慈悲は刑罰の赦免を必要とするが、刑罰の赦免は、犯せる罪の一切の結果が除き去られた暁に於いてのみ、初めて可能だからである。憐れみは神に近いが、慈悲は寧ろ人間に近い。
 我等は、かの全然瞑想に耽りて、自己の責務の遂行を等閑視する、人気取式の信仰心を排斥する。神は断じて単なる賛美を喜納されない。我等は真剣な仕事の宗教熱烈な祈願の宗教、純真な尊敬の宗教を唱道する。人間は神に対し、同胞に対し、又汝自身に対して、全身全霊を捧げて尽くすべき責務がある。かのいたずらに暗中に模索し神学的虚構物につきて好事的詭弁を弄するが如きは、正に愚人の閑事業たるに過ぎない。我等はあくまで、現実の生活に即して教を樹てる。要約すれば左の三部分に分かれる。-

 (一)神の認識と崇敬。・・・・神に対する責務。
 (二)同胞への貢献。・・・・隣人に対する責務。
 (三)イ、自己の肉体を守る。
    ロ、自己の知識を開発す。
    ハ、真理を求める。
    ニ、善行を励む。
    ホ、幽明交通を講ず。
      (三)・・・・・・・自己に対する責務。

 以上の規則の中に、地上の人類に必要なる責務は、ほぼ尽くされている。汝等は断じて、一宗一派のドグマに服従してはならぬ。理性と合一せざる教訓に盲従するのは、人間の恥辱である。所謂啓示の中には、ある特殊の時と場合にのみ適用さるべき性質のものが多いから、無条件にそれに盲従してはならぬ。神の啓示は進歩的であって、特殊の時と、特殊の民族とに限られない。又神の啓示は、未だかつて止んだことがない。神はシナイ山頂で啓示したと同じく、現在も啓示する。しかも人類の進歩につれて、神の啓示も進歩する。
 尚ここで忘れてならないことは、一切の啓示が、皆一人の人間を機関として行なわれることである。従ってそれは或る程度、人間的誤謬によって歪められない訳には行かぬ。いかなる啓示も、絶対的純一物でない。かるが故に、或る時代に現われたる啓示が他の時代に現われたる啓示と、全然符合しないと言って、必ずしもその一つを異端視する訳には行かぬ。事によると両者とも正しく、ただそれぞれ別個の適用性を有するのかも知れぬ。全てはただ純正推理の規準に拠りて、取捨選択を加えればよい。道理が赦せばこれを採り、道理が許さねばこれを棄てる-ただそれだけである。もしも我等の述べる所が時期尚早で、採用を憚るというなら、暫くこれを打ちすてて時期の至るを待つがよい。必ずや我等の教訓が、人類の間に全面的承認を受ける時代が早晩到来する。我等は決して焦らない。我等は常に人類の福祉を祈りつつ、心から真理に対する人類の把握力の増大を祈願しているものである。
 (評釈)霊訓中でも、この一章に説く所は、特に優れた暗示、優れた示唆に富んでいる。贖罪説の迷妄を説き、天則の厳守を勧め、守護霊の存在を教え、永遠の向上進歩を叫び、人気取りを生命とする一切のトンデモ教団を斥け、又啓示に盲従することの愚を諭す等、正に至れり尽くせりと言ってよい。しかも少しも焦らず、押し売りせず、悠々として人智の発達を待とうとする高風雅懐は、誠に見上げたものである。私は心からこの章の精読を皆様にお勧めしたい。

↑このページのトップヘ