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霊訓 解説
自殺ダメ
(自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)
霊訓 W・S・モーゼス著 浅野和三郎訳並評釈
解説
近代の霊媒中、嶄然(ざんぜん)一頭地を抽いているのは、何と言ってもステイントン・モーゼスで、その手に成れる自動書記の産物『霊訓』は、確かに後世に残るべき、斯界(しかい)のクラシックである。日本の学界に、その真価が殆ど認められていないのは、甚だ遺憾である。が、原本は中々大部のものであるから、ここには単に要所だけを紹介するに止める。もしも読者にして、ゆっくり味読さるるならば、その分量の少なきを憂えず、得るところ寧ろ甚だ多かるべきを信ずるものである。
近代の霊媒の中で、モーゼスの如き学者的経歴を有する者は、殆ど一人もない。彼は1839年に生まれ、16歳の時に、ベッドフォードの中学に学んだが、その非凡の学才と勤勉とは、早くも学校当局の間に認められ、幾度か名誉賞を与えられた。1858年オックスフォード大学に移るに及びて、その英才はいよいよ鋒鋩(ほうぼう)を現したが、過度の勉強の為にいたく心身を損ね、病臥数月の後、保養の為に大陸を遍歴すること約一年に及んだ。その中六ヶ月はマウント・アソスのギリシャ僧院で暮らし、専ら静思休養に努めた。後その支配霊インペレーターの告げる所によれば、同僧院にモーゼスを連れて行ったのは、霊達の仕業で、後年霊媒としての素地を作らしむる為であったとの事である。
二十三歳の時帰国して学位を受け、やがてオックスフォードを離れたが、健康が尚全く優れない為に、医師の勧めに従って、田舎牧師たるべく決心し、アイル・オブ・マンのモーグフォルド教会に赴任した。在職中たまたま痘瘡(とうそう)が流行して、死者続出の有様であったが、モーゼスは敢然として病者の介抱救護に当たり、一身にして、牧師と、医者と、埋葬夫とを兼ねる有様であった。その勇気と忠実と親切とは、当然教区民の絶大の敬慕を勝ち得たが、健康が許さないので、1868年他の教区に転任した。彼はどこへ行っても、優れた人格者として愛慕されたのであるが、たまたま咽喉を病み、演説や説教を医師から厳禁されたので、止む無く永久に教職を擲つこととなった。彼のロンドン生活はそれから始まったのである。
彼がロンドン大学予備科の教授に就任したのは、1870年の暮で、ここでも彼の人格と、学力とは、彼をして学生達の輿望の中心たらしめた。モーゼスが神霊上の諸問題に、興味を持つことになったのもその前後で、医師のスピーア博士と共に、頻りに死後の生命の有無、その他人生諸問題につきて討究を重ねた。彼の宗教心はあくまで強いのであるが、しかし在来の神学的ドグマは、到底彼の鋭利直截(ちょくせつ)なる研究的良心を充たすに足りなくなったのであった。彼は自身霊媒たる前に、片端から知名の霊媒の実験に臨んだ。即ち1872年、ロッテイ・ファウラアの実験を行い、続いて名霊媒ウィリアムスの交霊会に臨み、次第に心霊事実の正確なることを認むるに至った。その中ふとしたことで、彼自身霊媒能力を発揮した。
モーゼスの本領は自動書記であるが、しかし彼は、稀に見る多方面の霊媒であった。彼を通じて起こった、主なる心霊の現象を挙げれば、(一)大小の叩音、(二)種々の光、(三)種々の香気、(四)種々の楽声、(五)直接書記、(六)卓子、椅子その他物品の浮揚、(七)物品引き寄せ、(八)直接談話、(九)霊言、等を数えることが出来る。
かかる霊媒現象が起こりつつある間に、彼は幾多の学界の創立に関与し、殊に1882年、『英国心霊協会』の創立に際しては大いに奔走の労を取り、又1884年、『ロンドン神霊協会』が組織された時には、直ちにその最初の会長に推された。又晩年には、今日尚刊行しつつある『ライト誌』の最初の主筆でもあった。
彼の晩年には、物理的心霊現象は全然止んだが、しかし自動書記現象は、その最後まで続いた。その中元来あまり健康でなかった彼の体力は、数回のインフルエンザの為に、回復し難き迄に衰弱し、かくて1892年、(明治二十五年)九月五日を以って帰幽した。
右の如く、彼の経歴には、さして非凡という程の事もないが、しかし彼の優れた人格と、又その行くとして可ならざるなき抜群の才識とは、誠に驚嘆に値するものがあった。彼は如何なる問題でも、これを吸収消化せずという事なく、常に渾身の努力を挙げて、その研究にかかった。なかんずく彼が畢生の心血を注いだのは心霊問題で、これが為には、如何なる犠牲をも払うことを辞せなかった。彼が多忙な生活中に、閑を割いて面会を遂げた政治界、貴族社会、学界、文学界、芸術界等の大立物のみでも幾百千というを知らなかった。要するに彼は一再の心霊問題に関して、当時の全英国民の顧問であり、又相談相手であった。
一個の人格者としてモーゼスも、又間然する所がなかった。公平で、正直で、謙遜で、判断力に富んでいると同時に、又絶大の同情心にも富んでいた。彼はいかなる懐疑者、煩悶者をも、諄々として教へ導くに努めた。当時一般世人から軽蔑されたスピリチュアリズムが、漸く堅実なる地歩を、天下に占めるに至ったことにつきてはモーゼスの功労が、どれだけ拠って力あるか測り知れないものがある。彼は正しくこの界の権威であると同時に、大恩人でもあった。
さてこの『霊訓』であるが、これにつきては、モーゼス自身が、その序文の中で細大を物語っているから、参考の為に、その要所を抄出することにする。-
『本書の大部分を構成するものは、所謂自動書記と称する方法で受信したものである。これは直接書記と区別せねばならない。前者にありては、霊媒はペン又は鉛筆を執るか、もしくは片手をプランセットに載せるかすると、通信が本人の意識的介在なしに書き綴られるのである。後者にありては霊媒の手を使わず、時とすれば、ペン又は鉛筆をも使わずに、文字が直接紙面に現れるのである・・・。
これ等の通信は今から約十年前、1873年の3月30日を以って、私の手を通じて現れ始めた。私がスピリチュアリズムに親しんでから約一年後である。私はその以前から、色々の通信を受けたが、この自動書記が便利であり、又保存の為にも都合がよいので、特にこれを選んだ次第である。ラップ(叩く音)を以って一時ずつ書き綴るのは煩わしきに過ぎ、又入神状態に於いて口で喋るのは、その全部を保存し難く、又潜在意識の闖入(ちんにゅう)を、充分に防止し得るとは保証し難い所がある。
私は一冊の手帳を求め、平生これを懐中しているようにした。そうすると霊気が浸潤して、筆の運びが迅いからである。ラップ音なども、平生使い慣れた卓子には早く起こり、又諸種の心霊現象も、霊媒自身の居室でやるのが、最も容易に起こり易いものである・・・。
最初自動書記の文字は小さくて不規則であったので、ゆるゆると気をつけて書く必要があり、肉眼で手元と、行間を注意しているのであった。さもないと、全てが混乱して、まとまりがつかないものになった。
が、暫く過ぎると、そんな必要は漸く消滅した。文字は一層小さくなったが同時に一層規則正しく、又綺麗になった。私はいつも、頁頭に質問事項を書いておくと、これに対する解答が自動的に現れ、それには段落までつけてあるので、直ちに印刷して附しても差し支えないのであった。神(ゴッド)という字は、いつも頭文字で現れ、いかにも敬意を表するかの如く、それに限りて、ゆっくり書くのであった。取り扱われる題目は、悉く高尚純潔なものばかり、そして他人に示すよりも、私自身の指南車としてよいものばかりであった。自動書記は1880年まで連続的に現れたが、その中に気軽な冗談とか、洒落とか、野卑な文句とか、頓珍漢な理屈とか、嘘や出鱈目とかは、私の知れる限りに於いて、全然痕跡もなく、何れも皆真面目な教訓、又は忠言のみであった。
初期の通信は、前にも言った通り皆細字で書かれ、その書体も均一で、Doctor,The Teacher,と署名してあった。この支配霊の手跡はいつも同一で、一見その人と知ることが出来た。彼は私にとりて一の実在であり、一の人格であり、その性情は、私が地上で接触する人間と同様に、顕著なる一つの輪郭を有っていた。
そうする中に、通信は他の人格からも送られるようになった。筆跡、文体、語法等各々皆特色がある。で、私には筆跡だけ一瞥すれば、それが何者の通信であるかが、はっきり判るようになった。
他界の居住者中には、直接私の手を使うことが出来ず、レクターと称する霊をして、代筆せしむるものも少なくないのであった。蓋しレクターは通信の名手で、さまで私の体力を消耗することなしに、自由に通信を行うらしいのであった。不熟練の霊に使われると、通信も纏まりが悪く、又私の疲労も非常に強烈であった。従って多くの場合に、レクターが代筆したが、ただ或る霊が初めて通信を試みるとか、又は特に通信を強調する必要を感じた場合とかには、当事者が親ら筆を執るのであった。
但し、本書の収録された通信は、全部がインペレーターから出発し、そしてレクターがその写字生を努めたものである。他の場合、殊に通信の後期五年間に於いては、一団の霊達が各自自分の書体で通信を寄越した。
通信を受け取る時の状態は種々雑多であった。通則としては私が周囲と絶縁することが必要で、私の心が受身になればなる程、通信が容易であった。最初は筆の運びが難渋であったが、間もなく器械的運動が勝を占め、一頁又一頁と、苦もなく書き綴られるようになった。
最初これ等の通信を、スピリチュアリスト紙に発表するに当たり、通信者達は全部に修正を施したが、内容の実質には、少しの変化もなかった。ここに発表したものには全部個人関係の通信が省かれている。従って、最も力強く印象の深い部分が、自然除外されたことになったが、これは如何ともすることか出来ない。活字に附せられたものは、未発表の部分の単なる標本としてこれを取り扱い、他日全部公開の機会の到来を待つより外に途がない。
私自身の観念が、果たしてこの通信に加味されているか否かは、興味ある研究問題である。私としては、その防止に全力を尽くした。最初は筆記が遅く、肉眼で文字を見送る必要があったが、それでも、盛られた思想は、決して私の思想ではなかった。間もなく通信の内容は、全部私の思想と正反対の性質を帯びるに至った。が、私は依然警戒を怠らず、書記中に他の問題に自分の考を占領させるべく努め、難解の書物を紐解いて、推理を試みつつあったが、それでも通信は、何の障害もなしに、規則正しく現れた。こうして書いた通信の枚数は沢山だが、それで少しも修正の必要なく、文体も立派で、時に気焔万丈、行文の妙を極めるのであった。
が、私は私の心が少しも利用されないとか、私の精神的素養が、少しもその文体の上に影響を与えないとか主張するものではない。私の観る所によれば、霊媒自身の性癖が、確かにこれ等の通信の中に見出されると思うが、これに盛られた思想の大部分は、全然私自身の平生の持論、又は信念とは没交渉であるばかりでなく、幾多の場合に於いて、私の全然知らない事実がその中に盛られ、後で調査してみると、これ等は悉く正確であることが確かめられた・・・・。
私には、これ等の書きものに対して、何等の命令権もなかった。それは通例求めない時に現れ、強いて求めても、必ずしも現象が起こらないのである。私は出所不明の突然の衝動に駆られて、静座して筆記の準備をやる。それが連続的に現れる場合には、私は通例早起きして、毎日の最初の時間をそれに宛てる。室はいつも祈祷に用いる専用のものである。すると多くの場合に通信が現れるが、しかし必ずしも当てにはならない。他の形式の現象が起こることもある。健康状態が面白くないと、無現象のこともあるが、そんなことは滅多に起こらない。
インペレーターと称する霊からの通信の開始は、私の生涯に一新紀元を画するものである。それは私にとりて、精神的再生を遂げしめた教育期間で、爾来、私はいかに懐疑的空想に耽ることがあっても、心からの疑惑に陥るようなことがなくなった・・・・。
これ等の通信の現れた形式などは、深く論ずるにも足りないであろう。その価値を決するものは、主としてその内容如何である。それは果たして宇宙人生の目標を明らかにし、永遠不朽の真理を伝えているか否か?・・・・恐らく多数人士にとりて、これ等の通信は全然無価値であろう。何となれば、その中に盛られた真理は、彼等には真理でないからである。他の一部の人達にとりて、これ等の通信は単に珍しいものというに留まり、又或る人達の眼には、単なる愚談と映ずるであろう。私は決して一般の歓迎を期待して、本書の刊行をするものではない。私はただ本書を有益と考えられる人達のお役に立てば、それで満足するものである』
以上モーゼスの述べた所によりても明白である通り、『霊訓』中に収められてあるのは、原本の一部分に過ぎない。近年『霊訓』続編が出版されたが、これも一小部分である。原本の大部は、目下英国心霊協会に保存されている。
(自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)
霊訓 W・S・モーゼス著 浅野和三郎訳並評釈
解説
近代の霊媒中、嶄然(ざんぜん)一頭地を抽いているのは、何と言ってもステイントン・モーゼスで、その手に成れる自動書記の産物『霊訓』は、確かに後世に残るべき、斯界(しかい)のクラシックである。日本の学界に、その真価が殆ど認められていないのは、甚だ遺憾である。が、原本は中々大部のものであるから、ここには単に要所だけを紹介するに止める。もしも読者にして、ゆっくり味読さるるならば、その分量の少なきを憂えず、得るところ寧ろ甚だ多かるべきを信ずるものである。
近代の霊媒の中で、モーゼスの如き学者的経歴を有する者は、殆ど一人もない。彼は1839年に生まれ、16歳の時に、ベッドフォードの中学に学んだが、その非凡の学才と勤勉とは、早くも学校当局の間に認められ、幾度か名誉賞を与えられた。1858年オックスフォード大学に移るに及びて、その英才はいよいよ鋒鋩(ほうぼう)を現したが、過度の勉強の為にいたく心身を損ね、病臥数月の後、保養の為に大陸を遍歴すること約一年に及んだ。その中六ヶ月はマウント・アソスのギリシャ僧院で暮らし、専ら静思休養に努めた。後その支配霊インペレーターの告げる所によれば、同僧院にモーゼスを連れて行ったのは、霊達の仕業で、後年霊媒としての素地を作らしむる為であったとの事である。
二十三歳の時帰国して学位を受け、やがてオックスフォードを離れたが、健康が尚全く優れない為に、医師の勧めに従って、田舎牧師たるべく決心し、アイル・オブ・マンのモーグフォルド教会に赴任した。在職中たまたま痘瘡(とうそう)が流行して、死者続出の有様であったが、モーゼスは敢然として病者の介抱救護に当たり、一身にして、牧師と、医者と、埋葬夫とを兼ねる有様であった。その勇気と忠実と親切とは、当然教区民の絶大の敬慕を勝ち得たが、健康が許さないので、1868年他の教区に転任した。彼はどこへ行っても、優れた人格者として愛慕されたのであるが、たまたま咽喉を病み、演説や説教を医師から厳禁されたので、止む無く永久に教職を擲つこととなった。彼のロンドン生活はそれから始まったのである。
彼がロンドン大学予備科の教授に就任したのは、1870年の暮で、ここでも彼の人格と、学力とは、彼をして学生達の輿望の中心たらしめた。モーゼスが神霊上の諸問題に、興味を持つことになったのもその前後で、医師のスピーア博士と共に、頻りに死後の生命の有無、その他人生諸問題につきて討究を重ねた。彼の宗教心はあくまで強いのであるが、しかし在来の神学的ドグマは、到底彼の鋭利直截(ちょくせつ)なる研究的良心を充たすに足りなくなったのであった。彼は自身霊媒たる前に、片端から知名の霊媒の実験に臨んだ。即ち1872年、ロッテイ・ファウラアの実験を行い、続いて名霊媒ウィリアムスの交霊会に臨み、次第に心霊事実の正確なることを認むるに至った。その中ふとしたことで、彼自身霊媒能力を発揮した。
モーゼスの本領は自動書記であるが、しかし彼は、稀に見る多方面の霊媒であった。彼を通じて起こった、主なる心霊の現象を挙げれば、(一)大小の叩音、(二)種々の光、(三)種々の香気、(四)種々の楽声、(五)直接書記、(六)卓子、椅子その他物品の浮揚、(七)物品引き寄せ、(八)直接談話、(九)霊言、等を数えることが出来る。
かかる霊媒現象が起こりつつある間に、彼は幾多の学界の創立に関与し、殊に1882年、『英国心霊協会』の創立に際しては大いに奔走の労を取り、又1884年、『ロンドン神霊協会』が組織された時には、直ちにその最初の会長に推された。又晩年には、今日尚刊行しつつある『ライト誌』の最初の主筆でもあった。
彼の晩年には、物理的心霊現象は全然止んだが、しかし自動書記現象は、その最後まで続いた。その中元来あまり健康でなかった彼の体力は、数回のインフルエンザの為に、回復し難き迄に衰弱し、かくて1892年、(明治二十五年)九月五日を以って帰幽した。
右の如く、彼の経歴には、さして非凡という程の事もないが、しかし彼の優れた人格と、又その行くとして可ならざるなき抜群の才識とは、誠に驚嘆に値するものがあった。彼は如何なる問題でも、これを吸収消化せずという事なく、常に渾身の努力を挙げて、その研究にかかった。なかんずく彼が畢生の心血を注いだのは心霊問題で、これが為には、如何なる犠牲をも払うことを辞せなかった。彼が多忙な生活中に、閑を割いて面会を遂げた政治界、貴族社会、学界、文学界、芸術界等の大立物のみでも幾百千というを知らなかった。要するに彼は一再の心霊問題に関して、当時の全英国民の顧問であり、又相談相手であった。
一個の人格者としてモーゼスも、又間然する所がなかった。公平で、正直で、謙遜で、判断力に富んでいると同時に、又絶大の同情心にも富んでいた。彼はいかなる懐疑者、煩悶者をも、諄々として教へ導くに努めた。当時一般世人から軽蔑されたスピリチュアリズムが、漸く堅実なる地歩を、天下に占めるに至ったことにつきてはモーゼスの功労が、どれだけ拠って力あるか測り知れないものがある。彼は正しくこの界の権威であると同時に、大恩人でもあった。
さてこの『霊訓』であるが、これにつきては、モーゼス自身が、その序文の中で細大を物語っているから、参考の為に、その要所を抄出することにする。-
『本書の大部分を構成するものは、所謂自動書記と称する方法で受信したものである。これは直接書記と区別せねばならない。前者にありては、霊媒はペン又は鉛筆を執るか、もしくは片手をプランセットに載せるかすると、通信が本人の意識的介在なしに書き綴られるのである。後者にありては霊媒の手を使わず、時とすれば、ペン又は鉛筆をも使わずに、文字が直接紙面に現れるのである・・・。
これ等の通信は今から約十年前、1873年の3月30日を以って、私の手を通じて現れ始めた。私がスピリチュアリズムに親しんでから約一年後である。私はその以前から、色々の通信を受けたが、この自動書記が便利であり、又保存の為にも都合がよいので、特にこれを選んだ次第である。ラップ(叩く音)を以って一時ずつ書き綴るのは煩わしきに過ぎ、又入神状態に於いて口で喋るのは、その全部を保存し難く、又潜在意識の闖入(ちんにゅう)を、充分に防止し得るとは保証し難い所がある。
私は一冊の手帳を求め、平生これを懐中しているようにした。そうすると霊気が浸潤して、筆の運びが迅いからである。ラップ音なども、平生使い慣れた卓子には早く起こり、又諸種の心霊現象も、霊媒自身の居室でやるのが、最も容易に起こり易いものである・・・。
最初自動書記の文字は小さくて不規則であったので、ゆるゆると気をつけて書く必要があり、肉眼で手元と、行間を注意しているのであった。さもないと、全てが混乱して、まとまりがつかないものになった。
が、暫く過ぎると、そんな必要は漸く消滅した。文字は一層小さくなったが同時に一層規則正しく、又綺麗になった。私はいつも、頁頭に質問事項を書いておくと、これに対する解答が自動的に現れ、それには段落までつけてあるので、直ちに印刷して附しても差し支えないのであった。神(ゴッド)という字は、いつも頭文字で現れ、いかにも敬意を表するかの如く、それに限りて、ゆっくり書くのであった。取り扱われる題目は、悉く高尚純潔なものばかり、そして他人に示すよりも、私自身の指南車としてよいものばかりであった。自動書記は1880年まで連続的に現れたが、その中に気軽な冗談とか、洒落とか、野卑な文句とか、頓珍漢な理屈とか、嘘や出鱈目とかは、私の知れる限りに於いて、全然痕跡もなく、何れも皆真面目な教訓、又は忠言のみであった。
初期の通信は、前にも言った通り皆細字で書かれ、その書体も均一で、Doctor,The Teacher,と署名してあった。この支配霊の手跡はいつも同一で、一見その人と知ることが出来た。彼は私にとりて一の実在であり、一の人格であり、その性情は、私が地上で接触する人間と同様に、顕著なる一つの輪郭を有っていた。
そうする中に、通信は他の人格からも送られるようになった。筆跡、文体、語法等各々皆特色がある。で、私には筆跡だけ一瞥すれば、それが何者の通信であるかが、はっきり判るようになった。
他界の居住者中には、直接私の手を使うことが出来ず、レクターと称する霊をして、代筆せしむるものも少なくないのであった。蓋しレクターは通信の名手で、さまで私の体力を消耗することなしに、自由に通信を行うらしいのであった。不熟練の霊に使われると、通信も纏まりが悪く、又私の疲労も非常に強烈であった。従って多くの場合に、レクターが代筆したが、ただ或る霊が初めて通信を試みるとか、又は特に通信を強調する必要を感じた場合とかには、当事者が親ら筆を執るのであった。
但し、本書の収録された通信は、全部がインペレーターから出発し、そしてレクターがその写字生を努めたものである。他の場合、殊に通信の後期五年間に於いては、一団の霊達が各自自分の書体で通信を寄越した。
通信を受け取る時の状態は種々雑多であった。通則としては私が周囲と絶縁することが必要で、私の心が受身になればなる程、通信が容易であった。最初は筆の運びが難渋であったが、間もなく器械的運動が勝を占め、一頁又一頁と、苦もなく書き綴られるようになった。
最初これ等の通信を、スピリチュアリスト紙に発表するに当たり、通信者達は全部に修正を施したが、内容の実質には、少しの変化もなかった。ここに発表したものには全部個人関係の通信が省かれている。従って、最も力強く印象の深い部分が、自然除外されたことになったが、これは如何ともすることか出来ない。活字に附せられたものは、未発表の部分の単なる標本としてこれを取り扱い、他日全部公開の機会の到来を待つより外に途がない。
私自身の観念が、果たしてこの通信に加味されているか否かは、興味ある研究問題である。私としては、その防止に全力を尽くした。最初は筆記が遅く、肉眼で文字を見送る必要があったが、それでも、盛られた思想は、決して私の思想ではなかった。間もなく通信の内容は、全部私の思想と正反対の性質を帯びるに至った。が、私は依然警戒を怠らず、書記中に他の問題に自分の考を占領させるべく努め、難解の書物を紐解いて、推理を試みつつあったが、それでも通信は、何の障害もなしに、規則正しく現れた。こうして書いた通信の枚数は沢山だが、それで少しも修正の必要なく、文体も立派で、時に気焔万丈、行文の妙を極めるのであった。
が、私は私の心が少しも利用されないとか、私の精神的素養が、少しもその文体の上に影響を与えないとか主張するものではない。私の観る所によれば、霊媒自身の性癖が、確かにこれ等の通信の中に見出されると思うが、これに盛られた思想の大部分は、全然私自身の平生の持論、又は信念とは没交渉であるばかりでなく、幾多の場合に於いて、私の全然知らない事実がその中に盛られ、後で調査してみると、これ等は悉く正確であることが確かめられた・・・・。
私には、これ等の書きものに対して、何等の命令権もなかった。それは通例求めない時に現れ、強いて求めても、必ずしも現象が起こらないのである。私は出所不明の突然の衝動に駆られて、静座して筆記の準備をやる。それが連続的に現れる場合には、私は通例早起きして、毎日の最初の時間をそれに宛てる。室はいつも祈祷に用いる専用のものである。すると多くの場合に通信が現れるが、しかし必ずしも当てにはならない。他の形式の現象が起こることもある。健康状態が面白くないと、無現象のこともあるが、そんなことは滅多に起こらない。
インペレーターと称する霊からの通信の開始は、私の生涯に一新紀元を画するものである。それは私にとりて、精神的再生を遂げしめた教育期間で、爾来、私はいかに懐疑的空想に耽ることがあっても、心からの疑惑に陥るようなことがなくなった・・・・。
これ等の通信の現れた形式などは、深く論ずるにも足りないであろう。その価値を決するものは、主としてその内容如何である。それは果たして宇宙人生の目標を明らかにし、永遠不朽の真理を伝えているか否か?・・・・恐らく多数人士にとりて、これ等の通信は全然無価値であろう。何となれば、その中に盛られた真理は、彼等には真理でないからである。他の一部の人達にとりて、これ等の通信は単に珍しいものというに留まり、又或る人達の眼には、単なる愚談と映ずるであろう。私は決して一般の歓迎を期待して、本書の刊行をするものではない。私はただ本書を有益と考えられる人達のお役に立てば、それで満足するものである』
以上モーゼスの述べた所によりても明白である通り、『霊訓』中に収められてあるのは、原本の一部分に過ぎない。近年『霊訓』続編が出版されたが、これも一小部分である。原本の大部は、目下英国心霊協会に保存されている。
第一章 幽明の交通とその目途
自殺ダメ
(自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)
問『現代はいかなる時か?』
新時代の黎明-格別の努力が、今や真理の普及に向かって払われつつある。が、一方に神の使徒達の努力が加わると同時に、今も昔と同じく、他方に於いてこれに反抗する魔群がある。世界の歴史は畢竟、善と悪との抗争の物語である。一方は光、他方は闇、この戦は精神的、並に肉体的の、あらゆる方面に向かって行なわれる。無論両者の争闘は、時代によりて消長を免れないが、現在はその最も激しい時代である。神の使徒は、今やその威力を終結して戦に臨んでいるので、人間社会はこれが為に影響せられ、心霊知識、その他の普及となりつつある。道に反く者、心の弱き者、定見なき者又単なる好奇心で動く者は、禍なる哉である。真理を求むる者のみが、大磐石の上に立っている。
問『いかにして真理を掴むか』
心の準備-真に求むる者にして、最後に真理を掴まぬものはない。但しそれには多大の歳月を要する。時とすれば、その目的が地上生活中には達せられぬかも知れない。神は一切を試練する、そして資格のある者にのみ智慧を授ける。前進の前には常に準備が要る。これは不変の鉄則である。資格が備わりてからの進歩である。忍耐が大切な所以である。
問『心の迷、実証の困難、僻見の跋扈等をいかにすべきか?果たしてこれ等の故障に打ち勝ち得るか?』
最後の必勝-人力は有限であるが、神力は無限である、故障とな!そうしたものは絶対に存在せぬ。我等が過去に於いて嘗めたところに比べれば、現代の苦難の如きは抑々物の数でない。我等の生活せるローマ帝政時代の末期-精神的、霊的のものは悉く影を潜めて、所得顔に跋扈するは、ただ酒色と、荒淫と、悪徳と、劣情・・・もし汝にしてその実情に接触せんか、初めて闇の魔群の、いかに戦慄すべき害毒を人間界に流し得るかを会得したであろう。身を切る如き絶望の冷たさ、咫尺(しせき)を弁ぜぬ心の闇、全てはただ人肉のうめきと、争いとであった。さすがに霊界の天使達も、一時手を降ろすの術なく、覚えず眼を覆いて、この醜怪なる鬼畜の舞踊から遠ざかった。それは実に無信仰以上の堕落であった。全てが道徳を笑い、天帝を嘲り、永生を罵り、ひたすら汚泥の中に食い、飲み、又溺れることを以って人生の快事とした。その形態は正に人間であるが、その心情は、遙かに動物以下であった。それでも神は、最後に人類をこの悪魔の手から救い出したではないか!これに比すれば、現代の堕落の如きは、まだまだ言うに足りない。神と天使の光が加わるに連れて、世界の闇は次第に薄らいで行くであろう。
問『人類の無智と頑陋との為に、啓蒙事業は幾回か失敗の歴史を遺している。今回も又その轍を踏まぬか?』
真人の出現-神の恩澤は汝の想像以上である。今や世界の随所に真理の中心が創設せられ、求むる者に慰安を与え、探る者に手懸りを与えつつある。現在とても在来の経典を以って満足し、更に一歩を進めて真理の追窮に当たろうとする、気魄の乏しき者は多いであろう。それ等に対して我等は頓着せぬ。が、過去の示教に満足し得ず、更に奥へ奥へと智識の渇望を医せんとする好学の士も、又決して少なくない。我等は神命によりて、それ等を指導せんとするものである。かくて真理は甲から乙へ、乙から丙へと、次第々々に四方に伝播し、やがて高山の頂点から、世界に向かって呼びかけねばならぬ時代も到着する。見よ、その時、この隠れたる神の子達が、大地の下層より決起して、自己の体得し、又体験せるところを、堂々と証言するであろう。最初は細き谷川の水も、やがて相合して、ここに神の真理の大河となり、洋々として大地を洗い、その不可抗の威力の前には、現在汝等を悩ます痴愚も、不信も、罪悪も、虚偽も皆跡方もなく一掃せられてしまうであろう。
問『近代の天啓と古代の天啓とは同一か?』
天啓は皆同根-天啓は皆神から出る。或る時代に現れた啓示と、他の時代に現れた啓示との間に、矛盾衝突のある筈はない。全ては皆真理の啓発を企図したものに外ならぬ。が、人間の要望と、能力とには多大の相違があるので、真理を盛れる形式は、必ずしも同一ということは出来ぬ。両者が矛盾するが如く見えるのは、少しも神の言葉にあるにあらずして、皆人間の心にあるのである。神の言葉は常に単純である。人間はこれに満足することが出来ず、或いは注釈を以ってこれに混ぜ、或いは推理推論を以ってこれを包んだ。かくて歳月の経過と共に、神より出でしものが、いつしかその本来の面目を失い、矛盾、撞着、虚妄、愚劣の不純分子を以って充たさるるに至った。かるが故に、新たなる啓示が出現した時には、先ず以って、古い啓示の上に築き上げられた迷信の大部分を掃討するの必要に迫られる。先ず以って破壊した後でなければ、新しき真理の建設が不可能ということになる。天啓そのものに撞着はない。ただ真理を包める人為的付加物は、これを除去せねばならぬのである。その際人間は、あくまで己に内在する理性の光で、是非の判断を下さねばならぬ。理性こそ最高の標準である。愚なる者、僻見に富める者が、いかに排斥するとも、向上心に富める魂は、よく真理を掴み得る。神は決して何人にも真理を強いない。従って準備的聡明期に於いては、必然的に特殊の人間に対する、特殊の啓示を出すことになる。昔に於いてもそうであったが、現代に於いてもそうである。聖者モーゼは、果たして自国民族からさえも一般的承認を獲たか?昔の預言者達は、果たして世に容れられたか?イエスはどうか?ポーロはどうか?いかなる時代のいかなる改革者が、大衆の喝采を博したか?神は変わらない。神は常に与える。が、しかし決して承認を強要しない。無智なる者、資格なき者はこれを排斥する。それは当然である。異端邪説があればこそ、ここに初めて真人と、偽人との選り分けが出来る。それ等は皆不純なる根源から出発し、常に悪霊から後押しされる。魔軍の妨害は常に熾烈であると覚悟せねばならぬ。が、汝は須らく現代を超越し、目標を遠き未来に置いて、勇往邁進せねばならぬ。
問『霊界の指導者はいかに選ばれるか?』
指導霊の性質-指導霊と、その指導を受ける人物とは、通例ある不可分の因縁関係を以って結ばれている。が、時にその例外がないでもない。或る霊は、人間の指導が巧みである為に特に選抜される。或る霊は、特殊の使命を遂行すべく特派される。或る霊は、一人物の性格上の欠陥を補充すべく、特にその人に付けられる。又或る霊は、理想型の人間を造るべく、自ら進んで現世に降りることもあるが、これは高級霊にとりて、特に興味ある仕事である。時とすれば又霊界の居住者が、自分自身の修行の為に、求めて手に余るような難物の指導を引き受け、一歩々々に向上の進路を切り開くものもある。時とすれば又単なる愛情、又は現世愛の名残で引き付けられる場合もある。総じて、特殊の使命を有する場合の外は、指導すべき人物が進歩するに連れて、指導霊の変更がしばしば行なわれる。
問『地上に降りる霊達は、いかなる階級に属するか?』
普通は下級霊-通信者の大部分は、地上に接近せる下層の三境涯のものである。彼等は甚だ容易に人間と交通し得る。高級の霊にして、地上と交通するのは、人間界の所謂霊媒に該当する特殊の能力者である。高級霊が交通を開き得る、優れた霊媒の数は極めて少ない。地上と通信を欲する高級霊は少なくないが、容易に適当の霊媒を見出し難いので、何れも躊躇するのである。かるが故に、霊界通信には玉石混交の感がある。かの事実と符合せざる虚偽の通信といえども、必ずしも故意に然るにあらずして、しばしば力量の不足に基因する。時が経つにつれて、幽明交通に関する智識は、次第に我等の掌裡に握られて行くであろう。
問『所謂魔群とは、いかなる種類のものか?』
神と人との敵-我等の使命に対して、絶えず反抗的態度を執りつつある、有力なる悪霊の集団がそれである。彼等は狡智猾才に富める邪悪霊を首領と仰ぎ、百方手を尽くして、我等の聖業を阻害せんとしつつあるので、その悪戯は極めて巧妙、その行動は甚だ敏活、巧みに我等の事業を模倣し、ひたすら迷える者の歓心を買うべく努めるから、その伝播力、感染力は驚くべく強大である。彼等は神の敵であると同時に人類の敵である。善の敵であると同時に、悪の使徒である。我等は彼等に対して、永遠の戦を交えつつある。
問『さまで有力なる魔群の存在することは、意外の感に堪えない。世に悪の存在を否定する論者もあるではなきか?』
悪霊の存在-善を捨てて、悪に走る程漑歎すべきものはない。汝は優勢なる魔群の存在を不思議に思うらしいが、事実はその通りであり、しかもそは少しも怪しむに足らぬ。魂は地上生活そのままの姿で、彼岸に歩み入るのである。その趣味、好尚、習慣、反感等、生前死後を通じて、少しも変わるところがない。変わる所はただ肉体の有無のみである。地上にあって趣味低く、素行修まらざるものは、地の世界を脱れたとて、依然として旧態を守り、これと同様に、地上にありて品性の高潔なるもの、志操の確実なるもの、向上心の強きものは、死後に於いて、決して悪魔の従弟とはならない。汝がこれしきの真理を会得せぬこそ、寧ろ意外である。全ては厳然たる因果の理法の現れで、金は飽くまで金、鉛は最後まで鉛である。魂の品質は、決して一朝一夕の所産でない。そは霊性の中に織り込まれたる綾であり、模様であり、両者を切り離すことは、到底不可能である。なかんずく畏れるべきは習癖の惰力である。習癖は深く魂の中に喰い入りて、しばしば個性の主要部となるに至るもので、一旦肉感肉欲の誘惑にかかった魂は、終にその奴隷とならずんば止まぬ。彼は到底清純無垢の境地に安住し得ない。彼の望むところは、お馴染の魔窟であり、悪習慣である。友は友を呼び、類は類を以って集まるのであるから、施す術がないのである。かるが故に、我等の所謂魔群と称するものは、低級未発達の魂の集団に外ならない。彼等が向上進歩すべき唯一の望みは、ただ悔悟と、高級霊の指導と、又一歩々々に、罪深き悪習慣から脱却すべき永遠の努力とより以外には絶対にない。そう言った未発達の霊魂の数は実に多い。従ってその威力は決して侮るべきでない。かの悪の存在を否定し、有力なる魔群の存在を否定するが如き思想は、実に人類を誘惑せんが為に、構造されたる、悪魔の甘言と思考すべきである。
問『魔群にも一人の支配者があるか?』
全ては神界の統治下-魔群の頭領の数は多い。が、神学者の唱道するが如き、大魔王と言ったものは存在せぬ。全ての魂は、その善霊たると悪霊たるとを問わず悉く神界の統治下に置かれている。
(評釈)本章の説く所は、大体平明で、穏健であるから、そして評釈の必要もないと思うが、初学者の為に、念の為に二、三の注意を試みることにする。
『真人の出現』の條下に於いて、数十年前に予言されたことが、現在に於いていよいよ地上に出現しつつあることは驚嘆すべきである。今や世界全土に亘りて普及しつつある神霊運動の前には何物も抵抗すべくもない。世界で一番後回しになった日本国でも、最早その傾向が顕著になった。欲にはここ両三年の努力で、日本をして、この運動のトップを切らせたいものである。『指導霊の性質』條下には、指導霊とその指導を受ける人間との、深い因縁を説いているが、今日我々が心霊実験を行なえば行なう程、それが真理であることを発見する。与える者と、与えられる者とは、常にぴったり心の波長が合ったものである。かるが故に人間を観れば、大体その背後のものが判る。下らない人格の所有者に、立派な神霊の感応するようなことは絶対にない。世人断じて山師的宗教家の口車などに乗って、迷信家の仲間入りをしてはならない。『悪霊の存在』の條下に、『魔群と称するものは、低級未発達の魂の集団である』と、述べてあるのは至言である。『悪』とはつまり、『不完全』、又は『未発達』の代名詞で、純粋の悪霊そのものは存在せぬ。どんな悪霊でも、最後には皆浄化し、美化し、善化する。従ってどんな悪霊でも悉く神の子であり、神界の統治下にあるのである。抽象的の善玉、悪玉の永遠の争闘の如き思想は、一時も早く排斥すべきである。同時に霊界を一の清浄無垢の理想境と考える事も、又とんでもない迷妄である。霊界は現界と同じく、玉石混交の差別の世界で、寸刻の油断も出来ない。これを知らずに幽明交通をするから、そこに多大の弊害が起こるのである。初学の士は最初成るべく学識経験の積んだ指導者につきて、這間の消息に通ずべく心懸けるのが安全であろう。
(自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)
問『現代はいかなる時か?』
新時代の黎明-格別の努力が、今や真理の普及に向かって払われつつある。が、一方に神の使徒達の努力が加わると同時に、今も昔と同じく、他方に於いてこれに反抗する魔群がある。世界の歴史は畢竟、善と悪との抗争の物語である。一方は光、他方は闇、この戦は精神的、並に肉体的の、あらゆる方面に向かって行なわれる。無論両者の争闘は、時代によりて消長を免れないが、現在はその最も激しい時代である。神の使徒は、今やその威力を終結して戦に臨んでいるので、人間社会はこれが為に影響せられ、心霊知識、その他の普及となりつつある。道に反く者、心の弱き者、定見なき者又単なる好奇心で動く者は、禍なる哉である。真理を求むる者のみが、大磐石の上に立っている。
問『いかにして真理を掴むか』
心の準備-真に求むる者にして、最後に真理を掴まぬものはない。但しそれには多大の歳月を要する。時とすれば、その目的が地上生活中には達せられぬかも知れない。神は一切を試練する、そして資格のある者にのみ智慧を授ける。前進の前には常に準備が要る。これは不変の鉄則である。資格が備わりてからの進歩である。忍耐が大切な所以である。
問『心の迷、実証の困難、僻見の跋扈等をいかにすべきか?果たしてこれ等の故障に打ち勝ち得るか?』
最後の必勝-人力は有限であるが、神力は無限である、故障とな!そうしたものは絶対に存在せぬ。我等が過去に於いて嘗めたところに比べれば、現代の苦難の如きは抑々物の数でない。我等の生活せるローマ帝政時代の末期-精神的、霊的のものは悉く影を潜めて、所得顔に跋扈するは、ただ酒色と、荒淫と、悪徳と、劣情・・・もし汝にしてその実情に接触せんか、初めて闇の魔群の、いかに戦慄すべき害毒を人間界に流し得るかを会得したであろう。身を切る如き絶望の冷たさ、咫尺(しせき)を弁ぜぬ心の闇、全てはただ人肉のうめきと、争いとであった。さすがに霊界の天使達も、一時手を降ろすの術なく、覚えず眼を覆いて、この醜怪なる鬼畜の舞踊から遠ざかった。それは実に無信仰以上の堕落であった。全てが道徳を笑い、天帝を嘲り、永生を罵り、ひたすら汚泥の中に食い、飲み、又溺れることを以って人生の快事とした。その形態は正に人間であるが、その心情は、遙かに動物以下であった。それでも神は、最後に人類をこの悪魔の手から救い出したではないか!これに比すれば、現代の堕落の如きは、まだまだ言うに足りない。神と天使の光が加わるに連れて、世界の闇は次第に薄らいで行くであろう。
問『人類の無智と頑陋との為に、啓蒙事業は幾回か失敗の歴史を遺している。今回も又その轍を踏まぬか?』
真人の出現-神の恩澤は汝の想像以上である。今や世界の随所に真理の中心が創設せられ、求むる者に慰安を与え、探る者に手懸りを与えつつある。現在とても在来の経典を以って満足し、更に一歩を進めて真理の追窮に当たろうとする、気魄の乏しき者は多いであろう。それ等に対して我等は頓着せぬ。が、過去の示教に満足し得ず、更に奥へ奥へと智識の渇望を医せんとする好学の士も、又決して少なくない。我等は神命によりて、それ等を指導せんとするものである。かくて真理は甲から乙へ、乙から丙へと、次第々々に四方に伝播し、やがて高山の頂点から、世界に向かって呼びかけねばならぬ時代も到着する。見よ、その時、この隠れたる神の子達が、大地の下層より決起して、自己の体得し、又体験せるところを、堂々と証言するであろう。最初は細き谷川の水も、やがて相合して、ここに神の真理の大河となり、洋々として大地を洗い、その不可抗の威力の前には、現在汝等を悩ます痴愚も、不信も、罪悪も、虚偽も皆跡方もなく一掃せられてしまうであろう。
問『近代の天啓と古代の天啓とは同一か?』
天啓は皆同根-天啓は皆神から出る。或る時代に現れた啓示と、他の時代に現れた啓示との間に、矛盾衝突のある筈はない。全ては皆真理の啓発を企図したものに外ならぬ。が、人間の要望と、能力とには多大の相違があるので、真理を盛れる形式は、必ずしも同一ということは出来ぬ。両者が矛盾するが如く見えるのは、少しも神の言葉にあるにあらずして、皆人間の心にあるのである。神の言葉は常に単純である。人間はこれに満足することが出来ず、或いは注釈を以ってこれに混ぜ、或いは推理推論を以ってこれを包んだ。かくて歳月の経過と共に、神より出でしものが、いつしかその本来の面目を失い、矛盾、撞着、虚妄、愚劣の不純分子を以って充たさるるに至った。かるが故に、新たなる啓示が出現した時には、先ず以って、古い啓示の上に築き上げられた迷信の大部分を掃討するの必要に迫られる。先ず以って破壊した後でなければ、新しき真理の建設が不可能ということになる。天啓そのものに撞着はない。ただ真理を包める人為的付加物は、これを除去せねばならぬのである。その際人間は、あくまで己に内在する理性の光で、是非の判断を下さねばならぬ。理性こそ最高の標準である。愚なる者、僻見に富める者が、いかに排斥するとも、向上心に富める魂は、よく真理を掴み得る。神は決して何人にも真理を強いない。従って準備的聡明期に於いては、必然的に特殊の人間に対する、特殊の啓示を出すことになる。昔に於いてもそうであったが、現代に於いてもそうである。聖者モーゼは、果たして自国民族からさえも一般的承認を獲たか?昔の預言者達は、果たして世に容れられたか?イエスはどうか?ポーロはどうか?いかなる時代のいかなる改革者が、大衆の喝采を博したか?神は変わらない。神は常に与える。が、しかし決して承認を強要しない。無智なる者、資格なき者はこれを排斥する。それは当然である。異端邪説があればこそ、ここに初めて真人と、偽人との選り分けが出来る。それ等は皆不純なる根源から出発し、常に悪霊から後押しされる。魔軍の妨害は常に熾烈であると覚悟せねばならぬ。が、汝は須らく現代を超越し、目標を遠き未来に置いて、勇往邁進せねばならぬ。
問『霊界の指導者はいかに選ばれるか?』
指導霊の性質-指導霊と、その指導を受ける人物とは、通例ある不可分の因縁関係を以って結ばれている。が、時にその例外がないでもない。或る霊は、人間の指導が巧みである為に特に選抜される。或る霊は、特殊の使命を遂行すべく特派される。或る霊は、一人物の性格上の欠陥を補充すべく、特にその人に付けられる。又或る霊は、理想型の人間を造るべく、自ら進んで現世に降りることもあるが、これは高級霊にとりて、特に興味ある仕事である。時とすれば又霊界の居住者が、自分自身の修行の為に、求めて手に余るような難物の指導を引き受け、一歩々々に向上の進路を切り開くものもある。時とすれば又単なる愛情、又は現世愛の名残で引き付けられる場合もある。総じて、特殊の使命を有する場合の外は、指導すべき人物が進歩するに連れて、指導霊の変更がしばしば行なわれる。
問『地上に降りる霊達は、いかなる階級に属するか?』
普通は下級霊-通信者の大部分は、地上に接近せる下層の三境涯のものである。彼等は甚だ容易に人間と交通し得る。高級の霊にして、地上と交通するのは、人間界の所謂霊媒に該当する特殊の能力者である。高級霊が交通を開き得る、優れた霊媒の数は極めて少ない。地上と通信を欲する高級霊は少なくないが、容易に適当の霊媒を見出し難いので、何れも躊躇するのである。かるが故に、霊界通信には玉石混交の感がある。かの事実と符合せざる虚偽の通信といえども、必ずしも故意に然るにあらずして、しばしば力量の不足に基因する。時が経つにつれて、幽明交通に関する智識は、次第に我等の掌裡に握られて行くであろう。
問『所謂魔群とは、いかなる種類のものか?』
神と人との敵-我等の使命に対して、絶えず反抗的態度を執りつつある、有力なる悪霊の集団がそれである。彼等は狡智猾才に富める邪悪霊を首領と仰ぎ、百方手を尽くして、我等の聖業を阻害せんとしつつあるので、その悪戯は極めて巧妙、その行動は甚だ敏活、巧みに我等の事業を模倣し、ひたすら迷える者の歓心を買うべく努めるから、その伝播力、感染力は驚くべく強大である。彼等は神の敵であると同時に人類の敵である。善の敵であると同時に、悪の使徒である。我等は彼等に対して、永遠の戦を交えつつある。
問『さまで有力なる魔群の存在することは、意外の感に堪えない。世に悪の存在を否定する論者もあるではなきか?』
悪霊の存在-善を捨てて、悪に走る程漑歎すべきものはない。汝は優勢なる魔群の存在を不思議に思うらしいが、事実はその通りであり、しかもそは少しも怪しむに足らぬ。魂は地上生活そのままの姿で、彼岸に歩み入るのである。その趣味、好尚、習慣、反感等、生前死後を通じて、少しも変わるところがない。変わる所はただ肉体の有無のみである。地上にあって趣味低く、素行修まらざるものは、地の世界を脱れたとて、依然として旧態を守り、これと同様に、地上にありて品性の高潔なるもの、志操の確実なるもの、向上心の強きものは、死後に於いて、決して悪魔の従弟とはならない。汝がこれしきの真理を会得せぬこそ、寧ろ意外である。全ては厳然たる因果の理法の現れで、金は飽くまで金、鉛は最後まで鉛である。魂の品質は、決して一朝一夕の所産でない。そは霊性の中に織り込まれたる綾であり、模様であり、両者を切り離すことは、到底不可能である。なかんずく畏れるべきは習癖の惰力である。習癖は深く魂の中に喰い入りて、しばしば個性の主要部となるに至るもので、一旦肉感肉欲の誘惑にかかった魂は、終にその奴隷とならずんば止まぬ。彼は到底清純無垢の境地に安住し得ない。彼の望むところは、お馴染の魔窟であり、悪習慣である。友は友を呼び、類は類を以って集まるのであるから、施す術がないのである。かるが故に、我等の所謂魔群と称するものは、低級未発達の魂の集団に外ならない。彼等が向上進歩すべき唯一の望みは、ただ悔悟と、高級霊の指導と、又一歩々々に、罪深き悪習慣から脱却すべき永遠の努力とより以外には絶対にない。そう言った未発達の霊魂の数は実に多い。従ってその威力は決して侮るべきでない。かの悪の存在を否定し、有力なる魔群の存在を否定するが如き思想は、実に人類を誘惑せんが為に、構造されたる、悪魔の甘言と思考すべきである。
問『魔群にも一人の支配者があるか?』
全ては神界の統治下-魔群の頭領の数は多い。が、神学者の唱道するが如き、大魔王と言ったものは存在せぬ。全ての魂は、その善霊たると悪霊たるとを問わず悉く神界の統治下に置かれている。
(評釈)本章の説く所は、大体平明で、穏健であるから、そして評釈の必要もないと思うが、初学者の為に、念の為に二、三の注意を試みることにする。
『真人の出現』の條下に於いて、数十年前に予言されたことが、現在に於いていよいよ地上に出現しつつあることは驚嘆すべきである。今や世界全土に亘りて普及しつつある神霊運動の前には何物も抵抗すべくもない。世界で一番後回しになった日本国でも、最早その傾向が顕著になった。欲にはここ両三年の努力で、日本をして、この運動のトップを切らせたいものである。『指導霊の性質』條下には、指導霊とその指導を受ける人間との、深い因縁を説いているが、今日我々が心霊実験を行なえば行なう程、それが真理であることを発見する。与える者と、与えられる者とは、常にぴったり心の波長が合ったものである。かるが故に人間を観れば、大体その背後のものが判る。下らない人格の所有者に、立派な神霊の感応するようなことは絶対にない。世人断じて山師的宗教家の口車などに乗って、迷信家の仲間入りをしてはならない。『悪霊の存在』の條下に、『魔群と称するものは、低級未発達の魂の集団である』と、述べてあるのは至言である。『悪』とはつまり、『不完全』、又は『未発達』の代名詞で、純粋の悪霊そのものは存在せぬ。どんな悪霊でも、最後には皆浄化し、美化し、善化する。従ってどんな悪霊でも悉く神の子であり、神界の統治下にあるのである。抽象的の善玉、悪玉の永遠の争闘の如き思想は、一時も早く排斥すべきである。同時に霊界を一の清浄無垢の理想境と考える事も、又とんでもない迷妄である。霊界は現界と同じく、玉石混交の差別の世界で、寸刻の油断も出来ない。これを知らずに幽明交通をするから、そこに多大の弊害が起こるのである。初学の士は最初成るべく学識経験の積んだ指導者につきて、這間の消息に通ずべく心懸けるのが安全であろう。
第二章 健全な生活
自殺ダメ
(自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)
問『いかなる種類の人が最も理想に近いか?』
真の仁者、真の哲人-真の仁者とは、いつもその同胞の幸福と進歩とに、貢献すべく心懸けている、誠の人物、誠の神の子である。又真の哲人とは、知識の為に知識を愛する、これも又誠の人物、誠の神の子である。前者は人種、土地、教理、名称等の相違に留意することなく、その博大なる胸裡に、地上一切の人類を抱擁せずんば止まぬ。彼は対者の意見などには頓着せぬ。彼はただ対者の欠陥を察し、これに智慧の光を注ぐことを以って、畢生の念願とする。それが真の仁者である。が、世には往々仁者の偽物がある。それ等は自己に迎合阿付(あふ)する者のみを愛し、これに金品を与えて虚名を博すべく努力する。
それから真の哲人-彼は決していかなる学説にも捕われない。又いかなる宗教宗派のドグマにも拘泥しない。そしていやしくもそれが真理であり、科学的の事実でさえあれば、一切の先入的偏見を排除して、千万人といえども吾行かんの概を以って、宇宙間の隠微を探るべく勇往邁進する。無上の幸福、無上の満足がその間に湧き出る。天地間の○(漢字不明)藏は無限であるから、彼は少しも材料の枯渇を患うには及ばない。汲めども尽きぬ智慧の泉、採れども尽きぬ思想の実、世にも幸福なるは、誠の哲人の生涯である。
以上二つの結合-仁者と哲人との結合こそは、正に完全人の典型である。両者を兼ねるものは、その一方のみで進む者より、遙かに進歩が迅速である。
問『生命は永遠?』
永遠の生命-然り、我等は何れの方面から考えても、しか信ずべき理由を有つ。が、生命には確かに二つの階段がある。外でもない、それは向上と黙想との二つである。我等はまだ向上の途中にある。我等は地上の人間が想像する以上に、奥へ奥へ奥へと、生命の階段を昇るべく努力しつつある。従って我等は、まだ黙想の生活につきては何事をも知らない。が、恐らく向上進歩の最極限に到達した、遠い遠い無限の未来に於いて、我等が過去世の一切から離れ去り、天帝の真光に没しつつ静かに黙想の生活に入る時が、ないではあるまいかと思う。それにつきては、我々は何事も言えない。それは余りにも高きに過ぎる。地上の人間として、そこまで考えようとするのは、蓋し早きに失する。地上人として関心を有するのは、無限の生命のホンの入り口-死及び死後の生命の問題で、奥の院の問題ではない。
問『あなたは地上に居た時よりも、神につきて多くを知るか?』
神の働き-我等は、地上生活中に於けるよりも、遙かに多く神の働きにつきて知ることが出来た。死後の世界に於いて、一つ一つ階段を登るにつれて、より多く神の愛、神の智慧の無量無辺際であることが判って来たのである。が、我等の神につきての知識は、それ以上には出でない。今後に於いても、最後の黙想の生活に入るまでは依然としてこの状態に留まるであろう。要するに、神はその働きによりてのみ知られるに過ぎない。
問『善と悪との戦、その他につきて教を受けたい』
非命の死と罪悪-地の世界には、周期的に争闘が起こるものであるが、霊的眼光を以ってこれを考察すれば、畢竟それは善悪の霊と霊との争闘である。全て世の乱れるのは、未発達なる霊魂の数が不釣合に多くなった時で、従って大きな戦争の直後は、人心の悪化が、特に目立ちて強烈である。他なし、多くの霊魂が無理に肉体から引き離されて帰幽するからで、つまり資格のない未熟の霊魂が、幽界に充満する訳なのである。しかもそれ等の霊魂は、死の瞬間に於いて、憤怒に充ち、残忍性に充ち、まるで悪鬼夜叉の状態に置かれている。そんなのが、死後の世界から人間世界に働きかけて、いつまでも禍乱の種子を蒔く。
一体霊魂が、無理矢理にその肉体から引き離され、激情と情念とに充ちたままで、幽界生活に突入する程危険なことはない、天寿を全うすることは、大自然の原則である。玉の緒は、決して人力を以って断ち切ってはならないのである。故に死刑程愚かなる、そして野蛮なるものはない。死後の生活状態、死後の向上進歩を無視するのは野蛮である。未発達の怒れる魂を、肉体の檻から引き出して、自由自在に暴れさせるは愚である。全て地上の人達は、いかに犯罪人を取り扱うべきかを、まだ少しも心得ていない。犯罪者をして、いつも一層堕落せしむるようにばかり仕向けている。犯罪者は須らく悪の影響から隔離され、高潔なる空気に没しつつ、全霊の感化を充分に受け得られるように、工夫してやるべきである。然るに地上の獄舎制度は、その正反対をやっている。あんな悪漢と、悪霊との巣窟に犯人を収容して、いかにして、その改善を期待することが出来よう!犯罪人とて、必ずしも悪人とは限らない。その少なからざる部分は、単に無智から罪を犯したのである。然るにそれ等が、一旦獄舎の空気に浸ったが最後、多くは真の悪漢と化して行くのである。他なし、そこで悪霊を背負い込むからである。そして最後に、犯人を極刑に処するに至りて、その愚や真に及ぶべからずである。肉体に包まれている間は、霊魂の働きに限りがあれど、一度肉体を離れたとなれば、縦横無碍に、ありとあらゆる悪魔的行為に耽ることが出来る。
ああ盲目なる哉地上の人類、汝等は神の名に於いて過ちを犯せる人の子の生命を断ちつつある。思へ!殺された者の霊魂が、汝等に対して、復讐の念を燃やさずにいると思うか!汝等がかかる非行を演ずるは、畢竟神の何者たるかを知らぬからである。汝等の所謂神とは、汝等の本能が造り出したる人造の神である。大威張りで、高い所に座り込んで、最高の名誉と最大の権力を享有し、お気に召さぬものがあれば、片っ端からこれを傷付け、殺し、又苦しめる大暴君、大悪魔、それが汝等の所謂神である。
誠の神は、断じてそんなものではない。そんな神は宇宙間のどこにも居ない。それはただ人間の浅墓な心にのみ存在する。
然り、友よ、地上の獄舎制度、並に死刑制度は、全然誤謬と無智との産物である。
もしそれ戦争、かの大量生産式の殺戮に至りては、一層戦慄すべきものである。我々霊界の居住者から観れば、戦とは激情に駆られたる霊魂達から成れる、二つの集団間の抗争である。それ等の霊魂達は、悪鬼の如く荒れ狂いながら、陸続として肉体から離れて幽界へなだれ込む。するとそこには、残忍性に富める在来の堕落霊どもが、雲霞の如く待ち構えていて、両者がグルになって、地上の堕落せる人間に働きかけるから、人間の世界は層一層罪と、汚れの地獄と化して行く・・・。そしてかかる惨劇の起きる動機とは問えば、多くは地上の権力者の只一片の野心、只一場の出来心に過ぎないのである。
ああ友よ!地上の人類は、まだまだ学ぶべき多くのものがある。彼等は何よりも先ず、誠の神と、誠の神の為に働きつつある霊界の指導者と、を知らねばならぬ。真の進歩はそれからである。地上の無智なる者は、或は我等の示教に対して、侮蔑の眼を向けるであろうが、それ等は暫く後回しとし、智慧の教を受け入れることを好む進歩的頭脳の所有者に、我等の霊界通信を提示してもらいたい。必ずや何等かの効果があるに相違ない。尚盲目者流の為にも、彼等の心の眼が、他日立派に開くよう、心から善意の祈願を捧げてもらいたい。
(評釈)極度に切りつめた抄訳ではあるが、意義だけはほぼ通じることと思う。『永遠の生命』の一節は、説く所頗る簡潔であるが、生命を『向上』と、『黙想』との二階段に分け、我等の当面の急務として、向上に力点を置くべきを説けるは至極賛成である。かのインド思想にかぶれた者は、ややもすれば、途中の大切な階段を無視して、一躍最後の理想境を求めんとするが、これは百弊ありて一利なしである。何の得る所なき自己陶酔、キザな神様気取りの、聖者気取りの穀潰しが、一人出来上るだけである。日本国民は、一時も早くそんな陋態(ろうたい)から超脱して、一歩々々向上の生きた仕事に従わねばならぬ。
次に『非命の死と罪悪』の一節は、正に本章の圧巻で、再思三考に値する。人心の悪化、労資の軋轢、世界現状の行き詰まり等を嘆息するものは世間に多いが、それ等の中の幾人かが、かかる世相の由って来る所を、奥深く洞察して世界平和の大計を講ずる資格があるであろうか。霊界の先覚から、『盲目なる哉地上の人類』と一喝されても、誠に致し方がないように思われる。二十世紀の現代には、改善すべきものが尚無数にある。獄舎制度も面白くないが、教育制度も甚だ面白くない。まるきり心霊の知識を欠ける人類は半盲人である。到底碌な考えの浮かぶ筈がない。私は衷心から、日本国民よ、どこに行くと叫びたい。
(自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)
問『いかなる種類の人が最も理想に近いか?』
真の仁者、真の哲人-真の仁者とは、いつもその同胞の幸福と進歩とに、貢献すべく心懸けている、誠の人物、誠の神の子である。又真の哲人とは、知識の為に知識を愛する、これも又誠の人物、誠の神の子である。前者は人種、土地、教理、名称等の相違に留意することなく、その博大なる胸裡に、地上一切の人類を抱擁せずんば止まぬ。彼は対者の意見などには頓着せぬ。彼はただ対者の欠陥を察し、これに智慧の光を注ぐことを以って、畢生の念願とする。それが真の仁者である。が、世には往々仁者の偽物がある。それ等は自己に迎合阿付(あふ)する者のみを愛し、これに金品を与えて虚名を博すべく努力する。
それから真の哲人-彼は決していかなる学説にも捕われない。又いかなる宗教宗派のドグマにも拘泥しない。そしていやしくもそれが真理であり、科学的の事実でさえあれば、一切の先入的偏見を排除して、千万人といえども吾行かんの概を以って、宇宙間の隠微を探るべく勇往邁進する。無上の幸福、無上の満足がその間に湧き出る。天地間の○(漢字不明)藏は無限であるから、彼は少しも材料の枯渇を患うには及ばない。汲めども尽きぬ智慧の泉、採れども尽きぬ思想の実、世にも幸福なるは、誠の哲人の生涯である。
以上二つの結合-仁者と哲人との結合こそは、正に完全人の典型である。両者を兼ねるものは、その一方のみで進む者より、遙かに進歩が迅速である。
問『生命は永遠?』
永遠の生命-然り、我等は何れの方面から考えても、しか信ずべき理由を有つ。が、生命には確かに二つの階段がある。外でもない、それは向上と黙想との二つである。我等はまだ向上の途中にある。我等は地上の人間が想像する以上に、奥へ奥へ奥へと、生命の階段を昇るべく努力しつつある。従って我等は、まだ黙想の生活につきては何事をも知らない。が、恐らく向上進歩の最極限に到達した、遠い遠い無限の未来に於いて、我等が過去世の一切から離れ去り、天帝の真光に没しつつ静かに黙想の生活に入る時が、ないではあるまいかと思う。それにつきては、我々は何事も言えない。それは余りにも高きに過ぎる。地上の人間として、そこまで考えようとするのは、蓋し早きに失する。地上人として関心を有するのは、無限の生命のホンの入り口-死及び死後の生命の問題で、奥の院の問題ではない。
問『あなたは地上に居た時よりも、神につきて多くを知るか?』
神の働き-我等は、地上生活中に於けるよりも、遙かに多く神の働きにつきて知ることが出来た。死後の世界に於いて、一つ一つ階段を登るにつれて、より多く神の愛、神の智慧の無量無辺際であることが判って来たのである。が、我等の神につきての知識は、それ以上には出でない。今後に於いても、最後の黙想の生活に入るまでは依然としてこの状態に留まるであろう。要するに、神はその働きによりてのみ知られるに過ぎない。
問『善と悪との戦、その他につきて教を受けたい』
非命の死と罪悪-地の世界には、周期的に争闘が起こるものであるが、霊的眼光を以ってこれを考察すれば、畢竟それは善悪の霊と霊との争闘である。全て世の乱れるのは、未発達なる霊魂の数が不釣合に多くなった時で、従って大きな戦争の直後は、人心の悪化が、特に目立ちて強烈である。他なし、多くの霊魂が無理に肉体から引き離されて帰幽するからで、つまり資格のない未熟の霊魂が、幽界に充満する訳なのである。しかもそれ等の霊魂は、死の瞬間に於いて、憤怒に充ち、残忍性に充ち、まるで悪鬼夜叉の状態に置かれている。そんなのが、死後の世界から人間世界に働きかけて、いつまでも禍乱の種子を蒔く。
一体霊魂が、無理矢理にその肉体から引き離され、激情と情念とに充ちたままで、幽界生活に突入する程危険なことはない、天寿を全うすることは、大自然の原則である。玉の緒は、決して人力を以って断ち切ってはならないのである。故に死刑程愚かなる、そして野蛮なるものはない。死後の生活状態、死後の向上進歩を無視するのは野蛮である。未発達の怒れる魂を、肉体の檻から引き出して、自由自在に暴れさせるは愚である。全て地上の人達は、いかに犯罪人を取り扱うべきかを、まだ少しも心得ていない。犯罪者をして、いつも一層堕落せしむるようにばかり仕向けている。犯罪者は須らく悪の影響から隔離され、高潔なる空気に没しつつ、全霊の感化を充分に受け得られるように、工夫してやるべきである。然るに地上の獄舎制度は、その正反対をやっている。あんな悪漢と、悪霊との巣窟に犯人を収容して、いかにして、その改善を期待することが出来よう!犯罪人とて、必ずしも悪人とは限らない。その少なからざる部分は、単に無智から罪を犯したのである。然るにそれ等が、一旦獄舎の空気に浸ったが最後、多くは真の悪漢と化して行くのである。他なし、そこで悪霊を背負い込むからである。そして最後に、犯人を極刑に処するに至りて、その愚や真に及ぶべからずである。肉体に包まれている間は、霊魂の働きに限りがあれど、一度肉体を離れたとなれば、縦横無碍に、ありとあらゆる悪魔的行為に耽ることが出来る。
ああ盲目なる哉地上の人類、汝等は神の名に於いて過ちを犯せる人の子の生命を断ちつつある。思へ!殺された者の霊魂が、汝等に対して、復讐の念を燃やさずにいると思うか!汝等がかかる非行を演ずるは、畢竟神の何者たるかを知らぬからである。汝等の所謂神とは、汝等の本能が造り出したる人造の神である。大威張りで、高い所に座り込んで、最高の名誉と最大の権力を享有し、お気に召さぬものがあれば、片っ端からこれを傷付け、殺し、又苦しめる大暴君、大悪魔、それが汝等の所謂神である。
誠の神は、断じてそんなものではない。そんな神は宇宙間のどこにも居ない。それはただ人間の浅墓な心にのみ存在する。
然り、友よ、地上の獄舎制度、並に死刑制度は、全然誤謬と無智との産物である。
もしそれ戦争、かの大量生産式の殺戮に至りては、一層戦慄すべきものである。我々霊界の居住者から観れば、戦とは激情に駆られたる霊魂達から成れる、二つの集団間の抗争である。それ等の霊魂達は、悪鬼の如く荒れ狂いながら、陸続として肉体から離れて幽界へなだれ込む。するとそこには、残忍性に富める在来の堕落霊どもが、雲霞の如く待ち構えていて、両者がグルになって、地上の堕落せる人間に働きかけるから、人間の世界は層一層罪と、汚れの地獄と化して行く・・・。そしてかかる惨劇の起きる動機とは問えば、多くは地上の権力者の只一片の野心、只一場の出来心に過ぎないのである。
ああ友よ!地上の人類は、まだまだ学ぶべき多くのものがある。彼等は何よりも先ず、誠の神と、誠の神の為に働きつつある霊界の指導者と、を知らねばならぬ。真の進歩はそれからである。地上の無智なる者は、或は我等の示教に対して、侮蔑の眼を向けるであろうが、それ等は暫く後回しとし、智慧の教を受け入れることを好む進歩的頭脳の所有者に、我等の霊界通信を提示してもらいたい。必ずや何等かの効果があるに相違ない。尚盲目者流の為にも、彼等の心の眼が、他日立派に開くよう、心から善意の祈願を捧げてもらいたい。
(評釈)極度に切りつめた抄訳ではあるが、意義だけはほぼ通じることと思う。『永遠の生命』の一節は、説く所頗る簡潔であるが、生命を『向上』と、『黙想』との二階段に分け、我等の当面の急務として、向上に力点を置くべきを説けるは至極賛成である。かのインド思想にかぶれた者は、ややもすれば、途中の大切な階段を無視して、一躍最後の理想境を求めんとするが、これは百弊ありて一利なしである。何の得る所なき自己陶酔、キザな神様気取りの、聖者気取りの穀潰しが、一人出来上るだけである。日本国民は、一時も早くそんな陋態(ろうたい)から超脱して、一歩々々向上の生きた仕事に従わねばならぬ。
次に『非命の死と罪悪』の一節は、正に本章の圧巻で、再思三考に値する。人心の悪化、労資の軋轢、世界現状の行き詰まり等を嘆息するものは世間に多いが、それ等の中の幾人かが、かかる世相の由って来る所を、奥深く洞察して世界平和の大計を講ずる資格があるであろうか。霊界の先覚から、『盲目なる哉地上の人類』と一喝されても、誠に致し方がないように思われる。二十世紀の現代には、改善すべきものが尚無数にある。獄舎制度も面白くないが、教育制度も甚だ面白くない。まるきり心霊の知識を欠ける人類は半盲人である。到底碌な考えの浮かぶ筈がない。私は衷心から、日本国民よ、どこに行くと叫びたい。
第三章 幽明間の交渉
自殺ダメ
(自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)
問『前回の通信を草した時、自分は非常に疲労を覚え、脳の底部に激痛を感じた。その原因は何であったか?』
現代立法の不備-汝が頭痛を覚えたのは、結局我等が、あまりに多量の力を用い、しかもそれが、あまりに急激に行なわれたことに基因する。あのような重大問題を論ずるに当たりては、我等とても、勢い多少の昂奮を免れない。天授の神律に対する絶対服従の必要を、地上の人類に強調せんとする時、うっかり霊媒の体躯に対する顧慮を失い、図らずも汝に苦痛を与えることになった。今後は努めて心の平静を保つよう注意を怠らぬであろう。
さるにしても、戦慄すべきは戦争の惨禍である。戦争なるものは欲望、野心、又復讐的激情の所産である。そしてその結果は如何?麗しき神の御業は、無惨にも脚下に蹂躙せられ、人間が額に汗して築き上げたる平和の結晶は、一朝にして見る影もなく掃滅せられ、夫婦骨肉の聖き絆は断たれ、幾千幾萬の家族は、相率いて不幸の谷底に蹴落とされ、大地の上は、至る所に屍の山を築く。しかも無理にその肉体からもぎ離されたる無数の魂は、何の用意も、教育も施されず、汚水の如く霊の世界へとなだれ込む。その罪穢、その腐敗は、まさに言語に絶し、よろずの災厄は、全てここに兆すのである。地上の人類が、もう少し這間の事情に通ぜぬ限り、文化の発達は到底遅々なるを免れない。
どう考えても、現代の社会政策、国家政策には廃棄を要するものと、補修を要するものとが中々に多い。
例えば社会の治安を目的とする法律にしても、そはあまりに、違反者の制裁にのみ偏する傾向があると思う。法律は懲罰的であると同時に、救治的であらねばならぬ。然るに現代の法律が、霊媒に対する罰則の如きは、何という不合理を極めたものであろう。幽明交通者の中には、勿論良いのも悪いのもある。良いものは、これに保護奨励を与えるべきである。悪いものは、これを適当に感化誘導して、正に帰せしむべきである。然るに何等玉石を顧みることなく、霊媒の全部を精神異常者と見做して、懲罰を加えんとするに至りては、愚にあらずんば正に冒涜である。我々の側から観れば、かの堕落せる酔男の類こそ、不良霊媒以上の精神異常者である。彼等が出入りする不潔な場所こそは、字義通りの魔窟であって、そこには最劣最悪の不良霊連が、彼等酔漢の体に憑り、鬼畜に等しき堕落行為に出でしむるのである。これが文明の汚点でなくて何であろう。然るに現代の法律は、平然としてこれ等酔漢に対して、一指を染めようとしない。
問『酔漢の体に憑るとは何の意義か?』
悪霊の憑依-地縛の霊魂は、依然として彼等生前の情欲と、性癖の大部分をそのまま保有している。彼等の体的欲望は、少しも消えた訳ではないが、ただその欲望を満足せしむべき機関がない。そこが彼等の大いに煩悶焦慮する点である。およそ世に充たされざる渇望程辛いものはない。で、彼等は何とかしてこの苦痛を癒すべく、昔馴染みの魔窟に出入りして、丁度自分に誂え向きの犠牲者を捜し出し、人知れずその体内に潜り込んで、酒色の欲を満足せんとするのである。即ち外面的に観れば、それは人間の乱行であるが、内面的に観れば、それは地縛の悪霊の跳躍なのである。地縛の霊は、かくして享楽の二度の勤めをする。かかる悪霊の犠牲になった人間は、勿論ただ堕落の一路を辿り、一歩々々、抜き差し成らぬ泥濘(でいねい)の深みにはまり込んで行く。その間彼の哀れなる妻子は、飢えたる腹を抱えて、言い知れぬ悲嘆の涙に暮れるばかり、守護の天使とても、境涯の懸隔は、これを如何ともするに由なく、ただ空しく、遠方から淪落の痴漢の暗き行末を、憐れみの眼もて見送るより外に、せん術がないのである。
この種の悪徳の撲滅には、必然的に多大の歳月を要する。何となれば悪は悪を生み罪は罪を孕み、容易にその根絶をきし難いからである。悪徳はただ民族全体の道徳的並に物質的の発達と、高尚な知識の普及と、又真の意義ある教育の進歩とによりてのみ、次第々々に切除されて行くのみである。地上の人類が、現在の如き非合理的法律を墨守している限り、先ず改善の見込みは絶無であろう。
問『無邪気な小児は、死後直ちに上界に進むか?』
貴重なる地上生活-否、地上生活の経験は、甚だ貴重なもので、断じてこれを度外視することは出来ない。無論子供達には罪穢が少ないから、浄化作用の為の境涯、所謂煉獄の境涯を、迅速に通過することは事実である。が、知識と経験の不足は、これを死後の教練によりて補充せねばならぬ。霊界には、無邪気な子女を教育すべき専門の霊達が控えていて、彼等の求める所を遺憾なく充たすのである。地上生活を短く切り上げる事は、決して本人の利益ではない。強いて言えば、ただ与えられたる地上生活の悪用をせずに済むという、消極的の利益位のものである。魂にとりて最も理想的な生活は、四六時中些の油断なく、自己に与えられたる天職を睨みつめ、一心不乱に自己の向上と同時に、同胞の幸福を図り、神を愛し敬い、そして忠実に自己の守護霊達の指示を厳守することである。そうした魂には、汚染の分子が少ないから、従って進歩が迅い。ありとあらゆる形式の虚栄と利己主義、全ての種類の怠慢と懶惰(らんだ)、又何等かの形で行なわれる放縦と我儘-これ等は皆向上前進の大敵である。魂にとりて最大の味方は、愛と知識の二つである。帰幽せる小児は、天賦的に前者を具えていることもある。が、後者は是非ともこれを教育の力に待たねばならぬ。夭逝(ようせい)せる小児の教育の一手段は、しばしばこれを霊媒の体につけて、地上生活の経験を繰り返させることもある。要するに早死せる小児は、一方知識の点に於いて損失を受け、他方純情の点に於いて利益を受けていると言ってよい。が、何と言っても人生の悪戦苦闘を、首尾よく切り抜けて、凱歌を挙げた魂が、更に更に尊い。所謂艱難汝を珠にすで、試練によりて浄化されたる魂が、死後に於いて特別の境涯を与えられ、神の恩寵に浴する。苦労なしに真の向上、真の浄化は到底望まれない。されば多くの魂は、自ら求めて地上に降り、一人の霊媒を選びてこれが指導に当たり、以って何等かの特殊の経験を獲得しようとする或る者にとりて、それは愛の修行である。他の者にとりて、それは苦難と悲痛との修行である。その他知識を求むる者、克己自制の修養を遂げんとする者等、各人各様である。要するに地上に降る者には、皆何等かの使命、又何等かの目的があり、かくして向上進歩を遂げんとするのである。
霊的欲求はただ一つ-より以上の進歩、より多くの知識、より多くの愛、その外には何物もない。かくて地上生活の残渣は綺麗に洗い浄められ、魂は絶対無限の至高境に向かって、ただ上へ上へと進んで行くのである。
(評釈)『現代立法の不備』は、主として英国を目標として立論しているらしいが、これは他の国々にも、或る程度当てはまると思う。何れにしても現行の法規なるものが、少々時代遅れの気味であることは、疑問の余地がないらしい。もしそれ地上生活の経験の尊重すべきものであることを強調する、最後の一節に至りては、誠に活眼達識の士にして、初めて道破し得る卓見であると思う。この一節は、特に現世生活を穢土と罵り、途中の階段をヌキにして、一足飛びに極楽浄土にでも行こうと焦る夢遊病患者に対して、絶好の戒飭(かいちょく)である。
(自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)
問『前回の通信を草した時、自分は非常に疲労を覚え、脳の底部に激痛を感じた。その原因は何であったか?』
現代立法の不備-汝が頭痛を覚えたのは、結局我等が、あまりに多量の力を用い、しかもそれが、あまりに急激に行なわれたことに基因する。あのような重大問題を論ずるに当たりては、我等とても、勢い多少の昂奮を免れない。天授の神律に対する絶対服従の必要を、地上の人類に強調せんとする時、うっかり霊媒の体躯に対する顧慮を失い、図らずも汝に苦痛を与えることになった。今後は努めて心の平静を保つよう注意を怠らぬであろう。
さるにしても、戦慄すべきは戦争の惨禍である。戦争なるものは欲望、野心、又復讐的激情の所産である。そしてその結果は如何?麗しき神の御業は、無惨にも脚下に蹂躙せられ、人間が額に汗して築き上げたる平和の結晶は、一朝にして見る影もなく掃滅せられ、夫婦骨肉の聖き絆は断たれ、幾千幾萬の家族は、相率いて不幸の谷底に蹴落とされ、大地の上は、至る所に屍の山を築く。しかも無理にその肉体からもぎ離されたる無数の魂は、何の用意も、教育も施されず、汚水の如く霊の世界へとなだれ込む。その罪穢、その腐敗は、まさに言語に絶し、よろずの災厄は、全てここに兆すのである。地上の人類が、もう少し這間の事情に通ぜぬ限り、文化の発達は到底遅々なるを免れない。
どう考えても、現代の社会政策、国家政策には廃棄を要するものと、補修を要するものとが中々に多い。
例えば社会の治安を目的とする法律にしても、そはあまりに、違反者の制裁にのみ偏する傾向があると思う。法律は懲罰的であると同時に、救治的であらねばならぬ。然るに現代の法律が、霊媒に対する罰則の如きは、何という不合理を極めたものであろう。幽明交通者の中には、勿論良いのも悪いのもある。良いものは、これに保護奨励を与えるべきである。悪いものは、これを適当に感化誘導して、正に帰せしむべきである。然るに何等玉石を顧みることなく、霊媒の全部を精神異常者と見做して、懲罰を加えんとするに至りては、愚にあらずんば正に冒涜である。我々の側から観れば、かの堕落せる酔男の類こそ、不良霊媒以上の精神異常者である。彼等が出入りする不潔な場所こそは、字義通りの魔窟であって、そこには最劣最悪の不良霊連が、彼等酔漢の体に憑り、鬼畜に等しき堕落行為に出でしむるのである。これが文明の汚点でなくて何であろう。然るに現代の法律は、平然としてこれ等酔漢に対して、一指を染めようとしない。
問『酔漢の体に憑るとは何の意義か?』
悪霊の憑依-地縛の霊魂は、依然として彼等生前の情欲と、性癖の大部分をそのまま保有している。彼等の体的欲望は、少しも消えた訳ではないが、ただその欲望を満足せしむべき機関がない。そこが彼等の大いに煩悶焦慮する点である。およそ世に充たされざる渇望程辛いものはない。で、彼等は何とかしてこの苦痛を癒すべく、昔馴染みの魔窟に出入りして、丁度自分に誂え向きの犠牲者を捜し出し、人知れずその体内に潜り込んで、酒色の欲を満足せんとするのである。即ち外面的に観れば、それは人間の乱行であるが、内面的に観れば、それは地縛の悪霊の跳躍なのである。地縛の霊は、かくして享楽の二度の勤めをする。かかる悪霊の犠牲になった人間は、勿論ただ堕落の一路を辿り、一歩々々、抜き差し成らぬ泥濘(でいねい)の深みにはまり込んで行く。その間彼の哀れなる妻子は、飢えたる腹を抱えて、言い知れぬ悲嘆の涙に暮れるばかり、守護の天使とても、境涯の懸隔は、これを如何ともするに由なく、ただ空しく、遠方から淪落の痴漢の暗き行末を、憐れみの眼もて見送るより外に、せん術がないのである。
この種の悪徳の撲滅には、必然的に多大の歳月を要する。何となれば悪は悪を生み罪は罪を孕み、容易にその根絶をきし難いからである。悪徳はただ民族全体の道徳的並に物質的の発達と、高尚な知識の普及と、又真の意義ある教育の進歩とによりてのみ、次第々々に切除されて行くのみである。地上の人類が、現在の如き非合理的法律を墨守している限り、先ず改善の見込みは絶無であろう。
問『無邪気な小児は、死後直ちに上界に進むか?』
貴重なる地上生活-否、地上生活の経験は、甚だ貴重なもので、断じてこれを度外視することは出来ない。無論子供達には罪穢が少ないから、浄化作用の為の境涯、所謂煉獄の境涯を、迅速に通過することは事実である。が、知識と経験の不足は、これを死後の教練によりて補充せねばならぬ。霊界には、無邪気な子女を教育すべき専門の霊達が控えていて、彼等の求める所を遺憾なく充たすのである。地上生活を短く切り上げる事は、決して本人の利益ではない。強いて言えば、ただ与えられたる地上生活の悪用をせずに済むという、消極的の利益位のものである。魂にとりて最も理想的な生活は、四六時中些の油断なく、自己に与えられたる天職を睨みつめ、一心不乱に自己の向上と同時に、同胞の幸福を図り、神を愛し敬い、そして忠実に自己の守護霊達の指示を厳守することである。そうした魂には、汚染の分子が少ないから、従って進歩が迅い。ありとあらゆる形式の虚栄と利己主義、全ての種類の怠慢と懶惰(らんだ)、又何等かの形で行なわれる放縦と我儘-これ等は皆向上前進の大敵である。魂にとりて最大の味方は、愛と知識の二つである。帰幽せる小児は、天賦的に前者を具えていることもある。が、後者は是非ともこれを教育の力に待たねばならぬ。夭逝(ようせい)せる小児の教育の一手段は、しばしばこれを霊媒の体につけて、地上生活の経験を繰り返させることもある。要するに早死せる小児は、一方知識の点に於いて損失を受け、他方純情の点に於いて利益を受けていると言ってよい。が、何と言っても人生の悪戦苦闘を、首尾よく切り抜けて、凱歌を挙げた魂が、更に更に尊い。所謂艱難汝を珠にすで、試練によりて浄化されたる魂が、死後に於いて特別の境涯を与えられ、神の恩寵に浴する。苦労なしに真の向上、真の浄化は到底望まれない。されば多くの魂は、自ら求めて地上に降り、一人の霊媒を選びてこれが指導に当たり、以って何等かの特殊の経験を獲得しようとする或る者にとりて、それは愛の修行である。他の者にとりて、それは苦難と悲痛との修行である。その他知識を求むる者、克己自制の修養を遂げんとする者等、各人各様である。要するに地上に降る者には、皆何等かの使命、又何等かの目的があり、かくして向上進歩を遂げんとするのである。
霊的欲求はただ一つ-より以上の進歩、より多くの知識、より多くの愛、その外には何物もない。かくて地上生活の残渣は綺麗に洗い浄められ、魂は絶対無限の至高境に向かって、ただ上へ上へと進んで行くのである。
(評釈)『現代立法の不備』は、主として英国を目標として立論しているらしいが、これは他の国々にも、或る程度当てはまると思う。何れにしても現行の法規なるものが、少々時代遅れの気味であることは、疑問の余地がないらしい。もしそれ地上生活の経験の尊重すべきものであることを強調する、最後の一節に至りては、誠に活眼達識の士にして、初めて道破し得る卓見であると思う。この一節は、特に現世生活を穢土と罵り、途中の階段をヌキにして、一足飛びに極楽浄土にでも行こうと焦る夢遊病患者に対して、絶好の戒飭(かいちょく)である。
