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カテゴリ:★『永遠の大道』 > カミンズ 永遠の大道

カミンズ 永遠の大道 目次

解説

第一章 不思議な世界

永遠の謎

第二章 七つの世界

第三章 夢幻界

記憶の国

冥府又は中間境

夢の国

肉の人

途中の休憩所

感官の牢獄

平凡人の境涯

第四章 意識

第五章 色彩界-第四界-

形態の聖化

第四界の知覚

第六章 類魂

第七章 光焔界-第五界-

第五界の象徴

類魂の組織

第八章 光明界-第六界-

第九章 超越界-第七界-

第十章 宇宙

第十一章 光焔界から

第十二章 死の真相

冥府(影の世界)

記憶と死後の認識

眠る人、眠らぬ人

遺像又は殻

急死

頽齢者の死

因縁

第十三章 心霊の進化

第十四章 自由意志

第十五章 記憶

第十六章 記憶の本体

第十七章 注意

第十八章 潜在的自我

第十九章 睡眠

第二十章 思想伝達

第二十一章 幽明交通

第二十二章 幸福 普通一般の男女に対して

第二十三章 神は愛より大なり

自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)



 永遠の大道

 浅野和三郎 訳並びに評釈


 解説

 私がここに紹介せんとするのは、フレデリック・マイヤースと名乗る霊魂からの通信で、霊媒のジェラルディン・カミンズ嬢がこれを自動書記で受け取り、去る1933年を以って一冊の書物として出版したものである。その主要題目は、宇宙人生観をはじめ、死後の世界の組織、人体の構成、又幽明交通に関する理論等で、大体我々心霊学徒が何よりも関心を有する重要項目を網羅している。それ等の全部が必ずしも私の研究、又私の意見と符合するともいい兼ねるが、しかし殆ど他のいかなる類書に比しても私との悲鳴点が最も多い。実際私は最近数年来本書程の会心の作物に接したことがないのである。私が多大の興味を以って本書の紹介に当たる所以である。
 但しそれがマイヤース自身筆を執って書いたものでなく、甚だ不便、不利益な状態の下に他界から通信されたもの・・・。イヤ寧ろ霊媒によりて翻訳せられたものであるから、所々に意味の不明なところ、又脈絡の混雑を来せるところもあるのは到底免れ難き数である。で、私の紹介は成るべく自由な態度で、これに取捨選択を加え、必要と見れば注釈又は評論をも試みようと思う。私はそうすることが、最もよく通信者の面目を読者に伝え得るのではないかと考える。
 読者の中には、マイヤース並にカミンズ嬢につきて、親しみがない方もあるかと思うから、これから簡単にその紹介を試みる。
 フレデリック・ウィリアム・ヘンリー・マイヤースは1843年、英国カムバーランド州のケスウィックに生まれた。父は同地の常任牧師であった。
 1856年、彼は十三歳でチェルテナム専門学校へ入学したが、その天分、なかんずくその詩的天分は早く教師仲間の間に認められ、名誉賞を与えられること前後六、七回に上った。1860年、ケンブリッジ大学の特待生に選ばれ、その在学中何回となく名誉賞牌を受け、嶄然として同輩の間に頭角を現した。1865年、在学中の身を以って休暇を利用して北米に遊び、その際ナイヤガラ瀑布の下流を泳ぎ越して時人を驚かした。英国人でこの晴れ業を敢行したのは、マイヤースが先頭第一だとの事である。
 1856年10月、卒業と同時にトリニティ大学の古典科講師に任命せられ、爾来四年間その職を守った。続いて教育本部の嘱託を経て、1872年、視学官に任ぜられ死の直前までその職を離れなかった。1881年以来は、居をケンブリッジにトしてそこに永住した。
 マイヤースの畢生の心血は、二つの仕事に集中された。第一は文学、第二は心霊研究であった。
 彼の詩篇は、最初は少数者間にのみ愛誦せられたが、後次第に崇拝者の数を増したその含蓄、その熱情、なかんずくその縦横の想像力と生一本の純真味とは、決して尋常の詩才にあらざるを示した。彼には又研究的論文も少なくない。特に彼の私淑せるギリシャ詩人ヴァージルに関する論文は最も有名である。又『英国文豪評伝』集中に収められたウァズウァース評伝も、又英国学者間に傑作として喧伝されている。
 が、永久にマイヤースの名を後世に不朽ならしむるものは、恐らく心霊研究の開拓者としての功績であろう。彼が催眠現象その他一般心霊問題に興味を抱くことになったのは、1870年頃のことで、かくていよいよ1882年を以って、少数の同志と協力して、『英国心霊協会』を創立することになった。これが人文史上に、永久に大きな痕跡を残すべく破天荒の事業であることは、ここに贅言を要しない。面してその大事業の完成に最も多く貢献したのは、実にマイヤースその人なのである。
 彼の『詩文集』の中には、研究協会創立の趣旨目的を述べた一文がある。その一節『今や一つの新発見の必要が迫った。-が、これはたった一人のコロムバスによって成就さるべき仕事でない。実に全人類の協心同力を要する神秘開発の大事業なのである。従来人々はあまりにも性急であった。又あまりにも自己中心に過ぎた。それでは神秘の扉の永久に開かるべきよしもない。この種の研究は、先ず何よりも科学的でなければならない。宗教的研究は第二段である。宗教の第一義は、人類の情念と宇宙の構成との調節である。従って現在我々の最も必要を感ずるものは、実に宇宙の内面組織の発見である。科学は今日に於いて漸くこの至難なる役目を果たすべき機運に到達したと信ずる』
 マイヤースの健康は、1900年の秋頃から衰え、かくて翌1901年の1月17日、ローマに客死した。享年58歳であった。死に至るまで彼の一大関心事は、実に心霊研究事業の大成で、その熱心とその金鉄の覚悟とは、他の何人の追随をも許さぬものがあった。彼の手に成れる大著『ヒューマン・パアソナリティ』は、心霊学界の貴重なる文献として、又創業時代の最大の記念塔として、彼の名と共に永久に後世に伝わるであろう。
 次にジェラルディン・カミンズ嬢につき一言する。彼女はアッシリィ・カミンズ医学博士の愛娘で、その生涯の大部分を愛○(?漢字が難しくて不明)で過ごしている。その教育は家庭的に行なわれ、専ら戯曲と近代文学とに力を注ぎ、科学だの、心理学だのの教養はない。彼女は職業的霊媒でも何でもないが、しかしよほど以前から自動書記の能力を発揮し、クレオファスと名乗る古代霊が憑りて、陸続歴史的事実を通信した。それは『ゼ、スクリップ、オブ、クレオファス』『アゼンスに於けるポーロ』『エフエザスの盛時』等何れも単行本として出版され、研究者の注意を惹いている。尚彼女を通じて霊界で、通信を送った死者は約五十人に上り、その文体筆蹟等が皆異なっているのが面白い。マイヤースの通信もそれ等の中の一つである。
 彼女は自分の入神状態の模様をばかく描いている。-『私は左手で両眼を蔽い、卓子につきて静座統一をやる。と、間もなく一種の半酔半夢の奇妙な状態-覚醒時よりも却って何やら明るく感ずるような状態に陥る。時とすれば全ては自分の意識でどうすることも出来ない、一つのはっきりした夢の感じを与える。その際私は単なる見物人であり、又傍聴者であり、全然受身の態度で、他人の道具になっているに過ぎない。私の頭脳は謂わば果てしもない電信文を叩きつけられている、一つの機械にしかすぎない。筆記の速度が非常に迅いところを見ると、誰かが前以て準備してある論文の書き取りをしているようでもある。しかしその際単なる速記術以上の或る物が必要であるらしい。私の潜在意識は、何やら他人の通弁の役目を務めているらしい・・・』
 何にしろ自動書記の速度がバカに迅いので、誰かが一人その傍についていて、紙配給をしてやらねばならぬそうである。
 マイヤースの死は三十四年前のことなので、当時幼女であったカミンズ嬢は、勿論面識も何もない。又彼女はマイヤースの遺書を紐解いたこともないとのことである。で、両者の現世的関係は極めて薄く、ドウ考えても、彼女はただ非常に便利な道具として、マイヤースによりて選び出されたに過ぎないようである。マイヤースは或る時彼女を通じて、霊界通信に関する苦心談を述べているが、非常に良い参考になるからその一部を紹介する。-
 『人間の潜在意識は、我々幽界居住者にとりて、中々取り扱い難いものである。我々はこれに我々の通信を印象する。我々は決して直接に霊媒の頭脳に印象するのではない。そんな事は到底不可能である。潜在意識がそれを受け取り、そして頭脳に伝送するのである。頭脳は単なる機械である。潜在意識は丁度柔軟な○(漢字が不明)の如きもので、我々の思想の内容を受け取ってくれ、そしてこれを言葉の衣装で包むものである。所謂十字通信が困難なのはこれが為である。思想の伝達には成功するとしても、これを表現する言葉は、主として潜在観念の受持ちにかかる。故にもし私がある文章の前半を甲の霊媒に伝え、残る半分を乙の霊媒に伝えたとしても、それは主として内容の問題で、言葉の問題ではない。勿論こちらは成るべく思想と同時にこれを盛るべき文字をも伝達しようとはするのであるが、実際の綴り方は、ドウしても霊媒の記憶から来るので誤謬も出来る。そして時とすれば、全然霊媒の用語のみで表現されてしまうこともある』
 右の十字通信式の試験は、マイヤースの通信にも甚だ厳密に行なわれた。即ちカミンズ嬢と、レナルド夫人とが、別々に立ち別れて、同じマイヤースからの通信を受け取り、以って比較研究を行なったのであるが、その結果は至極満足すべきものであった。マイヤースの霊は二人の霊媒を通じて、少なくとも同一内容の通信の放送に、見事に成功したのであった。その詳細は『サイキック・サイエンス』誌上にその都度発表されているから、熱心家はつきて一読されたい。

自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 挨拶

 私はこれから人間の所謂『他界』『彼岸』『死後の世界』などと称している、不思議な世界につきて、詳述を試みようとするのであるが、かくいう私とても、勿論知識と経験とに限りがある。私はただ私の観た事実を物語ろうとするだけのものである。もしも私の用語が冒涜的であったり、生前人の所説の単なる繰り返しであったりしたら、偏に諸子の肝要を希ふ次第である。
 思うに私とあなた方(霊媒その他)とは、同一目的の為に働きつつあると信ぜられる。我々は人間の心霊的知識の総量に、何物かを加え得れば甚だ有り難いと念願しているのである。お互いにセンセーションを巻き起こすような目覚しい仕事は、我々の力量にないかも知れぬが、しかし少なくとも我々は、我々の思惟(しい)以上に限りなく展開されている、広大無辺なる世界の存在につきての知識を推し進めることに、多少の貢献は為し得るであろう。
 私がこれから伝達しようとする所は、悉く私自身の他界における知識の発表である。私には私が知っている事実だけしか物語れない。霊魂がこちらの世界で自身を見出す境涯は、千種万様であるが、何れも皆生気躍如として働いている。実際霊魂は肉体を離れてこそ、初めて真に生きていると称して良いらしい。我々肉体の無いものから観れば、鈍重な肉体に包まれて酔生無死の物的生活を営みつつある地上の一部の人達の霊達は、果たして生きているか否かが疑わしい位のものである。
 (評釈)これだけの所では格別マイヤースらしい面目は充分に現れていると言えぬが、しかしその純真率直な好学的態度は、さすがにやはりあの人かと首肯される。偏狭なる自己の小経験を以って全てを律せんとする頑愚な所有者の到底及び難きところである。

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 人間は果たして何れより来り、何れに向かって去るか?-これは古来多くの驚くべきスペキュレエションの材料となった題目であるが、しかしながら、何故に人間が創造されたか、何故に物質的宇宙が、永遠に大空を横切りて旋転しつつあるか、又何故にその原質がただ姿を変えるのみで、毫末(こうまつ)も消滅することがないのか、等の諸問題を真正面から解決せんと試みたものは極めて少なかった。
 『目的のなき大きな機械』-これは実に十九世紀の科学者達が、宇宙に向かって書き下ろした碑銘である。これには『何故か』の疑問を挟むべき余地がない。従ってそこには目的成就がない。物質のみが唯一の実在であり、そして運動と生命の、無気味にして単調なる機械的ドラマが、無際限に演出されつつあるということになる。
 無論真理は何人にも捕え難い。が、右の不景気千萬な結論を下した人達に至りては極度に真理を捕え損ねていると思う。心が有形の物質を離れて立派に存在することさえ承認出来れば、生存の神秘に対して何等かの意義を発見することは、決して絶望ではないと信ぜられる。
 先ず我々は出来るだけ簡潔な言葉で、この宇宙の永遠の謎に定義を下したい。不取敢我々は次の諸項を、学術的仮説として採用したい。即ち-
 一、仮相と実相とがある。
 一、大別すれば物質、魂、霊の三つの相がある。
 一、表現あれば必ずその根源がある。
 一、神とは即統一原理である。
 一、物質は微より極微へと無限に分解する。
 一、全て再び霊に返る。
 右に述べた霊(スピリット)とは、結局大我から岐えた小我、個々の有する最奥の心のことである。小我には勿論個性がある。しかしそれは人間的意義の個性ではない。創造者と何等かの区分性を有っているという意味の個性心しかない。換言すれば、ただ本来の相違である。本源に繋がれている末梢なのである。
 かの神秘論者は、好んで自己内在の神を説きたがるが、これは全然謬見である。『神』は無上の心であり、あらゆる生命の背後に控える大精神であり、一切の存在の出発点たる大本体である。宇宙の歴史に於けるあらゆる行為、あらゆる思想、あらゆる事件は、皆この大本体の中に含まれている。万能の観念はそこから生じた。然るに自己の霊を指して『神』とするのは許し難き僭越(せんえつ)である。
 大我から岐れ出でたる、これ等無数の霊-小我は何れも皆同一物でない。そして我等の殆ど凡ては、最初は単純素朴なる萌芽でしかない。彼等が完成の域に達するまでには限りもなき表現形式をとりて、無数の経験を自己に集積せねばならぬ。それなしに完全なる智慧は到底獲らるべくもない。が、一旦全ての完了した暁には、彼等はここに初めて神的属性を獲得し、一切を超越して大我の中に入り、宇宙の大本体の一部となるであろう。
 かるが故に宇宙萬有の出現の理由は、これを『霊の進化』という言葉に包含されると思う。不自由の中に、束縛の中に、自己の理想の完成を求むる所の発達が行なわれるのである。即ち霊は何等かの形を執ることによりてのみ、円熟大成を期し得るものである。我々の出生もこれが為であり、我々が幾多の世界、幾多の境涯を通過せねばならぬのも、又これが為である。同時に又物的宇宙に間断なく生長し、拡張して、一層充分なる活動の舞台を小我に与えるのである。
 繰り返して言うが、萬有存在の目的は、程度と種類を異にせる各種各様の『物』の中に、『心』が進化を遂げることである。心は表現によりて発達するのであるが、宇宙は無限に拡張進展するから、心も同様に無限にその威力を増大し、かくて実在につきての真の観念が獲得される。地上に宿るところの小精神は、神の表現の中にありて最低級のものである。彼等は出来るだけ早く、有意義なる統体の一部たることを学ぶべきである。
 (評釈)マイヤースが宇宙人生の目的を霊の進化と観じ、又心と物との相対関係も、いとも明瞭に道破したことは当然の事ながら、快哉を叫ばざるを得ない。従来欧米人士の言説には、しばしばこの点につきての誤謬があり、我々をして眉を顰(ひそ)めしむるものがあったが、ここに至りて初めて溜飲の下がるを覚える。又マイヤースが一部の神秘論者の迷妄を説破しているのも頗る痛快である。神は自己の内にあるだの、自己は神なりだのという言葉は、兎角秩序と階梯を無視し、従って進化の法則に外れた、精神的○(漢字不明)睡剤となる傾向が非常に多い。これを標語としている宗教者流、霊術者流、何れも揃いも揃って、皆純然たる穀粒しに終わるのを観れば、思い半ばに過ぎるであろう。マイヤースの所謂『神の表現の中にありて最低級』である所の地上の人間は、これからが勉強のしどころ、修行のしざかりである。然るに碌に勉強も修行もせず生青白い顔をして、自分は神だと済ましこむに至りては、全く以って沙汰の限りである。

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 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 次に述べる所は、各自の魂が順次に通過すべき世界の行程表である。
 (一)物質界
 (二)冥府又は中間境
 (三)夢幻界
 (四)色彩界
 (五)光焔界
 (六)光明界
 (七)超越界

 各界の中間には、悉く冥府又は中間境がある。それぞれの魂はこれで何れも過去の経験を回顧検閲して今後の方針を定め、或る者は上昇し、或る者は下降するのである。
 第一の物質界は所謂物質的関係に宿りて、一切の経験を積む境地である。こうした経験は、必ずしも地球上の生活には限られない。或る者は数多き星辰の世界に於いて、同様の経験を積むのである。無論それ等の世界の住人の肉体は、地上の人間のそれに比して振動数の多いのも又少ないのもあるが、大体これを『物質的』という文字を以って表現して差し支えなき種類のものである。
 第三の夢幻界というのは、物質界で送った生活と連関せる仮相の世界と思えばよい。
 第四の色彩界に於いては各自は漸く間隔と絶縁し、主として意念によりて直接に支配せられることになる。ここではまだ形態が付随している。従って一種の物質的存在には相違ないが、しかしそれは非常に稀薄精妙な物体で、寧ろこれを『気』とでもいうべきであろう。この色彩界はまだ地球、又はそれぞれの星辰の雰囲気内にある。
 第五の光焔界に於いて、各自の魂は初めて自我の天分職責を自覚し、同時に自己と同系に属する、他の魂達の情的生活にも通暁し得ることになる。
 第六の光明界に於いて、各自の魂は初めて自我の本体-本霊から分れたる類魂(同系統の魂達)の智的生活に通暁し得、同時に地上生活を送りつつある、同系統の魂の情的生活にも通暁することが出来る。
 最後の超越界は無上の理想境である。本霊並に本霊から分れたる類魂は、悉く合一融合して大我、神の意念の中に流れ込む。そこには過去、現世、未来の区別もなく、一切の存在が完全に意識される。それが真の実在であり、実相である。
 (評釈)死後のマイヤースも、やはり西洋の心霊家らしく、全てを七つの界に分類しているが、これには確かに多少の無理があるように思う。冥府又は中間境は各界の中間に必ず存在するという以上、当然この外に四つの界を殖やすべきで、表面的に強いて七つに並べたところで仕方がないではあるまいか。又夢幻界、色彩界、光焔界の区別も余りに煩瑣(はんさ)で、いささか分明を欠く虞はないか。夢幻といい、色彩といい、又光焔といい、何れも仮相であって、結局感情の歪みの所産に過ぎない。各自の区別はただ程度の相違に過ぎないようである。
 かく考えた時に、やはり私の試みつつある分類法、即ち全てを物質界、幽界、霊界、神界に大別する方が、実際的に甚だ簡明直截(ちょくせつ)であるかと信ずる。試みにここに掲げた七つの世界を、私の分類法に割り当てたら、次のようになるであろう。
 (一)物質界-(1)物質界(主として欲望の世界)
 (三)夢幻界
 (四)色彩界
 (五)光焔界
 (三と四と五)-(2)幽界(主として感情の世界)
 (六)光明界-(3)霊界(主として理性の世界)
 (七)超越界-(4)神界(主として叡智の世界)
 冥府又は中間境は、要するにどづちつかずの過渡期であるから、これを一の独立界として取り扱わぬ方が正当であろうと思う。もしドウあってもそれを表示したいというなら、各界の中間にそれぞれ亜幽界、亜霊界、亜神界と言ったような名称のものを挿入すればよいかと思う。これを要するに各界の分類法は、取り扱うものの便宜上決められるもので、これを粗く分けようと、又細かく分けようと、それはめいめいの勝手である。決して数などに拘泥すべきではあるまいと信ずる。仏教徒の霊界通信の中には、超現象界を百八界に分類するものなどを見受けるが、これも無論本人の主観の現れに過ぎないと思う。
 ここに甚だ面白いのは、マイヤースの類魂説である。彼は生前からこれを唱えたが、死後の通信にも依然これを主張している。類魂(グループソール)とは結局同一自我(本霊)の流れを汲める同系統の霊魂達を指すので、私の提唱せる創造的再生説は、又もやここに一の有力なる支持者を見出した訳である。尚この類魂につきては、先へ行って詳しい説明がある。

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