死にたい自殺サイト自殺方法自殺ダメ

当サイトは、死にたい人に自殺に関する霊的知識を与えて、自殺を止めさせる自殺防止サイトです。

自殺の霊的知識へ

カテゴリ:★『永遠の大道』 > カミンズ 個人的存在の彼方

カミンズ 個人的存在の彼方 目次

はしがき

一 魂の行進曲

二 個人的存在の彼方

三 大地の神界

四 三様の仮相

五 日界人

六 恒星上の生活

七 日界人の発生

八 恒星上の光

九 原始霊

十 言語と宗教

十一 生命力

十二 黒い星

自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 カミンズ嬢を通じて送られたマイヤースの通信『永遠の大道』は、近代心霊界の偉大なる収穫の一つであること、読者に於いて充分御承知のことと思われるが、もし未だこれに接しない方々があるなら、この際是非一読をお薦めしたい。あれだけでも精読していれば、現代の日本国を席巻しつつある不健全思想、又は幼稚な迷信等には感染せずに済むであろう。
 その後、カミンズ嬢の自動書記能力は、ますます冴えを加え、今回前者の続編と見るべき新刊に接した。題して『個人的存在の彼方』という。その内容は三部に分かれ、第一部に於いては主として死の直後の生活を取り扱い、第二部に於いては、マイヤースの所謂個人的存在の彼方-彼岸の上層生活を取り扱い、第三部の於いては、祈祷、感謝、その他思想上、信仰上の実際問題につきての意見を述べ、更に付録として自然霊、動物霊、その他につきての見解が述べられている。総計230頁、先ず手頃の書物である。
 本書の第一部は、さして感服出来ない。時として卓見にも接するが、時にはそれ程でもない箇所もあり、概して叙述が蕪雑に流れている。他日機会があったら、その中の出色の箇所を拾い出して紹介してもよいが、今回は暫くこれを省いておく。
 本書の圧巻は何と言っても第二部で、私はこれを一読した時に、覚えず案を拍って歓声を発した。何となれば、私が多年幽明交通によって、調査研究を進めていたところが、はしなくもマイヤースの通信と、多くの一致点を発見したからである。私としては、心から百年の知己の感に堪えない。
 最近八十年間、欧米人の手で受け取られた霊界通信は、何百と数えられる。が、ここまで深入りして、ここまで内観的飛躍を遂げたものは、他に類例を見ない。私は出来る限り忠実にこれを紹介し、そして必要あれば、卑見を加えてみたいと思う。
 第三部の文字も中々優れている。ロッジ卿などは、特にその中の『祈祷』と題する一章を推薦している位で、何れにしても、紹介の価値は充分にあると思われる。
 取り扱う問題が問題であるから、多少読むのに骨が折れるか知れないが、この際心から読者諸氏の御留意を喚起しておきたい。

 昭和十一年八月 浅野和三郎誌

自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)


 個人的生活の彼方

 浅野和三郎 訳並びに評釈

 次に述べるところは、魂が順次に辿るべき工程表、所謂道中記とも称すべきものである。
(一)物質界(これが個人的存在の発端である)
(二)中間界(古代人の所謂冥府(ヘーズ)で、死の直後に於いて各自が置かれる休養地)
(三)夢幻界(幽界の入り口で、仏教徒の所謂蓮のうてな式の極楽浄土、一部の人達から常夏の国と呼ばれる所である。要するに帰幽者が、地上生活の楽しかった記憶のみを寄せ集めて築き上げた、取りとめのない夢想境)
(四)色彩界(幽界の第二段で、個々の意念の働きが漸く自由自在となり、振動の極めて烈しい多彩多様の形態を造っている)
(五)光焔界(幽界の第三段で、そろそろ外貌、色彩、感情等から離脱し、自我の天分職責を自覚し、個人生活を離れて共同の宇宙生活に入る)
(六)光明界(これが私の所謂霊界で、各自の魂は無色となり、喜怒哀楽の心の模様の上に超越してしまう。無色は結局完全に均整のとれた純理の表現なのである)
(七)超越界(これが私の所謂神界で、無上智の理想境であり、ここには過去、現在、未来の区別もなく、一切の存在が完全に意識されるのである。これが真の生命の実相である。現在の地球生命の存続中に、人間としてこの境に入るものは殆ど無い)
類魂-同一系統に属する多くの魂の集団で、所属の魂と魂とはお互いに共鳴感応する。類魂は単数にして同時に複数である。そして類魂の指導霊が、統一原理の賦与者である。
表現形式-第一の仮相が物質的肉体、第二の仮相が、第三界、第四界等に於いて造る幽的形態、第三の仮相が球状体で、これが太陽意識の象徴である。
(評釈)ここに説く所は既に『永遠の大道』中に述べてある所を、更に繰り返したもので、読者の注意を喚起すべく、念の為にここに再録されたに過ぎない。マイヤースが試みている七界の分類法は、大体に於いて正常である。読者はこれによりて、ほぼ死後の世界につきての概念が獲られると思う。但し私としては夢幻界、色彩界、光焔界の三界をひっくるめて幽界と呼びたい。何となれば、幽界居住者からの通信を精査討究してみると、彼等は心境の変化につれ、同一人物でありながら、或る時は夢幻界に住み、或る時は色彩界、光焔界等に住むものと思考せらるるからである。尚詳細は括弧の中の注釈を精読されたい。
 類魂説はマイヤースの通信中の、最も概要事項であるから、特に読者の注意を希望する。私の提唱する創造的再生説、又守護霊説は、この類魂説の真解によりて初めて釈然と判る。
 次にマイヤースが自我の表現形式を、三種類に分類しているのも実に卓見で、私の調査の結果とも全然符合する。『自我』は無形の実在である。我々はそれが何等かの形態に宿った時にのみ、初めて認識し得るのであるが、現在最も優れた霊媒能力の活用によりて認識し得るところでは、肉体以上に、確かに二種の表現形式、仮相がある。即ち一は肉体に酷似した幽的形態、一は極度に細かな振動を為しつつある光球状の形態である。これ等につきての充分な知識なしには、到底これから説く高等な心霊上の問題は判らない。

自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 死後の世界の行進者の中には、いつまでも意識の第三段、夢幻界に停頓している者が中々に多い。先入的観念に捕えられている既成宗教の信者などは、大抵これに属する。が、中には到底これに満足し切れず、神霊的単位としての、かかる孤立状態から綺麗に離脱し、同一系統の類魂達と一体となりて、進化の道程を躍進し、以ってよく個人的存在の彼方にまで進入する。これから説く所は、そうした進歩的の人達に対する準備である。
 『いかなる肉体も肉体以外の或物-魂によりて動かされる。肉体には自動的の性能がない。魂が働けばこそ、肉体は内から動かされ、魂が存在すればこそ、肉体には生命がある』-是は実に血と肉と神経とより成る、人間の正しき指導原理なのである。『心』なしに『肉体』は動かない。『心』は『肉体』以上のものである。
 若しも諸子が急激な死の場合を目撃するなら、この主張の正しいことは、容易に直覚し得られるに相違ない。心臓患者は今の今まで笑い、語り、遊び、又戯れる。ところが、その人は一転瞬の中に倒れてしまい、今までの運動も、生活機能も、跡形もなく消え失せてしまう。打っても、突いても、罵っても、少しの反応も起こさぬ、鈍き死体は、最早何の能力もないどころか、いつしか異臭を放って、顔を背けしむるのである。
 この実況を目撃しては、一人の人間をば、魂のなき只の器械であると何人が信じ得ようか。『大切な中身が何所かへ逃げてしまった・・』誰しもそう考えざるを得ないであろう。

 自分は曟(しん)に魂に定義を下して、生命のそれぞれの階段に於ける『現在意識』であり、存在の総量であると述べた。唯物論者以外のものは、人間を体、魂、霊の三つから成るものと信じているが、これは決して間違いではない。が、多くの人達は、魂の行進に階段があることを知らない。第五の光焔界に達すれば、各自の魂は、自己を局限する障壁を突破して類魂の中に混ざり、一方に於いて、自己の個性を保存しながら、他方に於いて、個人的存在の彼方に歩み入り、やがては、第六の光明界にまで進むことになるのである。
 各自がエーテル体を具えて、第三の夢幻界に止まる間は、程度の相違こそあれ、まだ人間性を保持している。
 が、更に進んで第四の色彩界に入り、形態のみの世界に於いて、意識的生活を営むようになれば、次第に人間性から離れ、地上生活中の表現形態とも、次第に遠ざかることになる。つまりこの境涯は、地上界の原型とも言うべき純美の世界であり、この界と地上界との相違は、正に巨匠の手に成れる原画と、未熟なる素人画家の手に成れる模造品とのそれに類似する。
 繰り返して言うが、或る一人の人格的存在(心霊的単位)は、類魂の一員であり、意識の各階段に置かれている他の人格的存在、即ち低い所では夢幻界、色彩界等の人物、高い所では光明界、超越界等の宇宙的存在と、同一系統の魂の所有者なのである。が、夢幻界に意識的生活を送っている間は、その人格が、まだ自我の全人格とは一致するに至らない。彼は物質の中に宿る部分だけの、自我意識の所有者でしかない。従って彼は、自己と不離の関係を有する、同一系統の他の魂達の歴史にも通ぜず、又彼の先在的経歴の知識をも有たない。夢幻界を突破し得たもののみが、初めて類魂の指導霊、自我の本体と交渉を起こし、人類と智慧の本源との連絡係たる資格が出来る。
 光焔界の修行というのは、つまり自我の全体と一致する努力で、それがすっかり完成した時に、初めて光明界へと進むことが出来るのである。
 人間が睡眠中に、その愛する死者と交渉を起こすのは、つまり一の意識生活から、他の意識生活に入ることであるが、類魂の行なうところは、要するにこれに外ならない。同一系統に属する類魂は、感情的に結び付けられている。愛は結局宇宙引力の一種であって、互いに愛する魂と魂とは、たとえ両者が別々の意識の世界に居住していようとも、相互に引き付けられる。死は決して両者を引き離す、永遠の関所ではないのである。
 かの偉人、預言者、天才者と称せらるる人達は、多くの場合に於いて、右に述べるが如き一の神通的集団の一員である。それ等の人達は、大抵第五界、第六界を目指して進み、従って個人的存在の彼方に歩み入りつつある。それ等の人達の眼から観れば、この第二流の遊星でしかない地球上の存在の如きは、さして興味を惹くものではなく、地上生活をば、過去の経歴に於ける単なる一小過程と見做して、より高き精神的飛躍の、無限の世界へと前進を続けるのである。
 偉大なる魂は、時として一介の無名の士の肉体に宿ることもある。彼は極度に無我、極度に高潔、淡々として水の如き生活を送るので、一般大衆は全然これを看過し、従ってその人の死は、殆ど何人からも顧みられない。彼の地位は往々にして極めて低い。彼は単なる職工、書記、漁人、又は農夫でしかない。が、それにも係わらず、かかる人物こそ、しばしば類魂から直接の指導を受ける完全人なのである。不可視の世界に於いて、最高者がしばしば最下者であり、最下者が時として最高者であらねばならぬ所以である。
 私の所謂『魂の人』と呼ぶ人達の或者は、実にこうした最後の地上生活を送るが、この一見花も実もなき、消極的な生活の間にこそ、彼はより広き人格の準備を、着々として築きつつあるのである。
 これを要するに、人生の旅路は千紫萬紅、到底人智の想像し得る限りでない。が、何れの道を取るにしても、各自は一歩一歩に過去の行績を双肩に担ぎつつ、不可知、不可測の宇宙の海へと入り行くのである。

 第五界に於ける魂の最大事業は、自己の能力を開拓することによりて、自己を一の心霊的組織体の中に融合せしむることである。私の所謂神霊的組織体とは、要するに類魂の拡大であり、又拡充である。そこでは別種類、別性質に属する諸々の存在が互いに融合し、協力して、従来よりも一層高き標準の集団を構成するのである。ここに至りて、地上の人間的拘束は次第に消失し、我々は宇宙的に考え、やがて宇宙的に活動することにもなる。これが実に我々の進化途上の一新紀元であって、我々は最早自分自身を大宇宙間の孤立的存在、かりそめの物質の世界に宿った経歴を有つ、一の奇形児であるとは考えないようになる。夢幻界に居る間の人間は、まだ潜在意識的に、或る程度の孤独感、不可知の環境からの圧迫感、恐怖心から脱却し得ない。が、第五界に達した時に、その恐怖は消え失せ、我々も又偉大なる心霊的組織体の、一構成要素であることに気付いて来る。そうなると宇宙は自分の親しき友であり、従来夢想だもしなかった無数の新境地が、次第に我々の視聴に入って来る。
 遊星、太陽、月、無数の星辰-それ等が皆根本的に、我々と切っても切れぬ不離の関係を有していることが、ありありと感知されて来る。
 これ等の隠微なる世界こそは、実に永劫の苦闘と、進化との記念塔である。それには傷ましき古傷の痕も残っていれば、又無上楽、無量光の印象も刻まれている。そしてそれ等一切の経験が、皆心霊的組織体の中に保存されているのであるから、ここに発揮さるる神智のいかに優秀であり、又その威力のいかに絶大であるかは、到底想像に余りあるではないか。そこにはただ生を地球に享けたるものの経験が、蓄積せられているばかりでなく、実に各種の太陽系所属の遊星上の経験が、蓄積されており、そしてそこの居住者達は、何れも光焔の形態をとりて、天界狭しと天駆けりつつあるのである。霊分の相違で、各自の悟りの道は、それぞれ行き方を異にするが、しかし何れも皆窮極に於いて、全大宇宙との融合一致を目指して、神智を磨き、神力を養い、一切の区別、一切の孤独感、一切の恐怖心から離脱すべく、心魂を練りつつあるのである。
 (評釈)断片的、即興的の叙述ではあるが、死後の世界の高層、彼の所謂『個人的存在の彼方』に於ける心霊的生活が、非常によく描かれており、最も貴重なる示唆を我等にあたえてくれると謂ってよい。
 優れた帰幽者からの通信によれば、あちらの世界の殆ど唯一の修行法は、精神統一であるらしいが、これは取りも直さず、魂の飛躍を遮る障壁の突破が眼目である。マイヤースは、進歩の道程を夢幻界だの、色彩界だの、光焔界だのに分類しているが、勿論これは発達程度の相違に附した、一の名称と見てよい。要するに幽界の修行というのは、自己と自己の同一系統に属する類魂(私の所謂守護霊も類魂中の一員)との融合一致を、第一の目標とするのである。私が精神統一の修行に於いて、本人と守護霊との感応道交を、最大目標とするのもこの為である。守護霊に対する心の眼が開くれば、やがて類魂に対する心の眼も開けて来る。そして最後に類魂の指導霊、自我の本体との交渉が起こって来る。自我の本体は勿論超人間的実在-自然霊である。
 マイヤースが偉人、預言者、天才者、又無名の英雄等につきて述べる所も、ほぼ首肯される。これにつけても我々は外貌、境遇等によりて他を評価することの危険を痛感する。
 末尾に述べている『心霊的組織体』の説明は、誠に貴重なる文字である。日本神道の根本精神は、ほぼ遺憾なくマイヤースによりて説き尽くされている。『遊星、太陽、月、星辰-それ等が皆根本的・・・・我々と切っても切れぬ不離の関係を有っている事が、ありありと感知されて来る』-何という卓抜たる見解であろう。更に『そこの居住者達は、何れも光焔の形態をとりて、天界狭しと天駆りつつある』に至りては、正に天孫降臨その他の記事の注釈である。地上の物質界のみを眼中に置いて、日本の神代史を説くが如きは、正に言語道断の処置である。ああ何れの日か、日本国のせめて知識階級だけでも、ここまでの心境に到達することか。憮然として長大息を禁じ得ないものがある。

自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 思い起こせば、自分が死後の世界に冒険的旅行を試みることになったのは、今から約三十五年前のことで、その間に、自分は多少太陽系所属の、他の遊星に関する知識を漁り求めた。悲しい哉、自分は漸く第四界(色彩界)に達したまでの新参者であるから、まだ他の諸遊星の内面的生活を、意識的に把握するまでになっていない。自分はただ諸先輩につきて、金星その他に関する知識を、或る程度迄学んだに過ぎない。
 彼等の教ふるところによれば、金星にはかつて一種の人類・・・・多くの点に於いて、よほど地球人とは相違している、一種の生物が住んでいたという事であるが、ただその体躯は地球人に比して、非常に迅速な振動数を有っているので、たとえ金星人が現在生存していたところで、到底地球人の感識するところとはならないであろうとのことである。
 兎に角物質論者の思考するような、所謂『人間』は現在に於いて、太陽系中のどの遊星上にも生存していない事は確かである。して見ると、現在の地球人は、太陽系中の特殊の一存在として、意気揚々として、大手を振って、彼等に与えられたる大地の上を横行闊歩してよい訳である。が、これは我等の太陽系につきての話で、他の無数の太陽系中に、人間に酷似した存在者が絶無であると思考することは、早計も甚だしい。
 一体人間は、自己の肉体に相当し、自己の感官を衝激する、地上の物質しか感識し得ないように出来ている。太陽系所属の遊星の中には、地球が最も濃度が大きい。従ってそれに生存する人間の勢力範囲は甚だ狭小で、稀薄性妙な物体を感識する力量は具わっていない。が、人間に感識出来ないから、そんなものは存在しないとするのは、余りにも自己の貧弱な経験に拘泥し過ぎた、幼稚な仕打ちである。物体を支配する原則は皆同一である。併しながら物体の濃度は千種万別である。
 人類がかく特殊の存在であり、どの遊星にも、人類が直接呼びかけるべき生物が居ないということは、事によると、一部の人士に、いささか孤独寂寥(せきりょう)の感をあたえるかも知れない。が、安んぜよ、この宇宙間には、少なくとも無慮一億の太陽系が存在し、そしてそれ等の中には、地球と同性質の遊星が、あちこちに撒布されているのである。従って少々遠距離ではあるが、人間の親類筋は、決して絶無ではないのであるから、その点大いに意を強うしてよいであろう。
 かの無神、無霊魂を唱える傲慢な論者の中には、今尚高らかに叫ぶであろう。曰く『大空狭しと撒布されたる諸天体の中に、人間以上の敏感者はなく、又人間以上の尊き神の子はない』-が、これはたまたま彼の想像力のいかに貧弱であり、又彼の理性のいかに難解であるかを表示する例証でしかあり得ない。我々はいつまでも、宇宙を外側から観測していてはならない。肉体を有った人間であろうが、肉体を棄てた人間であろうが、いつも目的に活動しつつある宇宙の力を、内部から探るようにせねばならない。
 愛と、力と、智慧、この三つこそ、実に大地の神廳(しんちょう)・・・・太陽神界を代表して、この地球の指揮と、統率とに当たる神霊の世界から放射される霊波である。
 前にも述べた通り、大地の神霊界は、一団の類魂から成立する。もっと詳しく言えば、第五界(光焔界)以上の類魂が、直接宇宙意志の遂行に任じ、その組織は極めて緊密、その威力は極めて優越、ただ一個の電子でも、ただ一片の光波でも、決して無益に使用せらるることがない。見よ、物質界の構成が、いかによく整頓しており、又いかによく調和しているかを。他なし一切萬有の背後に、一分一厘の緩みも、たるみもなしに、神意を強行するところの、組織されたる団体が働いているからである。人間は、もとより自己の天分の範囲内に於いて、自己の運命を開拓すべき自由を有っている。が、大地、大海等の巨大なる機構、並びにそれ等が空間に占むべき位置行動等は、悉く光焔の世界まで昇進を遂げた。優れた集団の受持ちにかかり、それ等が細大漏らさず、一々厳正なる指揮計算を行なうのである。但し光焔界の居住者には、まだ我等の宇宙-太陽系内部の知識だけしかあたえられていない。光明界の居住者にして、初めて荘厳無比の宇宙の創造的智慧の表現に通暁する望がある。
 自分は太陽神の統制下に於いて、地球の摂理を行いつつある高級の霊魂達が、優れた数学家であることを、余りにも強調し過ぎたかと思う。彼等は数学者であるよりは、寧ろ多く芸術家である。彼等の仕事は、ただ精密を期する地上の数学者のそれよりも、遙かに自由であり、遙かにうま味がある。前にも述べた通り、彼等の計画は、最後の少数まで計算される。が、いよいよ実行に移された時には、そこに幾多の変化があり、曲折がある。例えばかの電子の運動にしても、何等融通の利かぬ器械的運動とは、多少相違せる独自の性質がある。不可視の宇宙を創造し、又維持するのは、数学者の頭脳ではなくして、寧ろ芸術家の想像力である。創造されたる者が、やがて創造者の側に回る。ここに生命の秘密、宿命の秘密が伏在する。
 (評釈)既成宗教はもとより、東西の霊界通信の大部分が、ただ概念的に宇宙神、並びに宇宙精神のみを説いているに際し、マイヤースが、はっきりと宇宙神界、太陽神界、地球神界を区別し、更に進んで、研究の鉾先を金星の世界にまで延ばしつつあることは、何と驚喜すべき卓見ではないか!もとよりその説く所は、まだホンの荒筋だけで、熱心なる研究者を充分に満足せしむるまでには達していない。が、その深遠なる示唆的価値に至りては、掛け値なしに甚大である。曰く『愛と、力と、智慧、この三つこそ実に大地の神廳・・・太陽神界を代表して、この地球の指揮と、統率とに当たる神霊の世界から放射される電波である』曰く『大地の神霊界は一団の類魂から成立する・・・』曰く『一切萬有の背後に、一分一厘の緩みも、たるみもなしに、神意を強行するところの組織されたる団体がある』曰く『不可視の宇宙を創造し、又維持するのは、数学者の頭脳ではなくして、寧ろ芸術家の想像力である』曰く『創造されたる者が、やがて創造者の側に回る』何れも皆金玉の文字でないのはない。観念の遊戯をこれこととする既成宗教の全部は、これが為に光を奪われてしまうが、ひとり日本の古典に盛られた啓示のみは、これですっかり活きて来る。他方群疑の中にひとり研究を続けて来た私としては、誠の百年の知己の感に堪えない。

↑このページのトップヘ