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カテゴリ:★『コナン・ドイルの心霊学』 > ドイル バイブルに見る心霊現象

ドイル バイブルに見る心霊現象 目次

キリスト教神学の致命的欠陥

〝しるしと不思議〟は全て霊媒現象

キリストは空前絶後の大霊能者

十二人の弟子の選定基準は?

霊媒的体質だったペテロとヨハネとヤコブ

ユダヤ教徒の態度

霊能力を他人に貸し与える不思議

キリスト教会に訴える

〝人間イエス〟に返れ

キリスト教による救いは挫折した

世界の各宗教に反省を求める

自殺ダメ




 [コナン・ドイルの心霊学]コナン・ドイル著 近藤千雄訳より

 P221より抜粋

 新約聖書には、初期キリスト教時代の〝しるしと不思議〟と、近代スピリチュアリズムにおける実験室内での心霊現象との間の類似性を辿って行く上で、格好の材料となるものが幾つも見出される。
 そもそもキリスト教がこれまで人類に対して長期に亘って影響力を保ってきた原因は、その固有の神学にある。ところが、その教義の一つ一つを見ていくと、霊性が麻痺した人類の目を覚まさせ、新しい啓示に目を向けさせるという目的において初めて意義を持つ驚異的現象とは、およそ縁のないものばかりである。本来ならばそれを土台として神学を打ち立てるべきだったのである。新しい霊的真理も、日常的体験や能力を超えた、人間の力ではいかんともし難いエネルギーの顕現に目を向けたことから発見されてきたものである。既に用いた譬えをもう一度使わせてもらえば、心霊現象は電話のベルで、それが途方もなく貴重な啓示の到来を告げてくれたのだった。
 キリストについても同じことが言える。〝山上の垂訓〟は、それまでの数々のしるしと不思議を土台としたキリストの生涯のクライマックスであり、現象より何倍も大切なものである。お粗末な精神構造の持ち主は、パンや魚が奇跡的に増えた話だけを取り挙げて、キリストのしたことを低俗と決め付けるかも知れない。そういう人は、同じ手法で、交霊会でテーブルが動き出したりタンバリンが宙に舞う現象を見て、スピリチュアリズムを低俗と決め付けることであろう。が、肝心なのはそうした粗野な現象そのものではなくて、その裏にある高級界からの働きかけなのである。

自殺ダメ




 [コナン・ドイルの心霊学]コナン・ドイル著 近藤千雄訳より

 P222より抜粋

 「使徒行伝」第2章の冒頭に、ペンテコステの日に使徒達が〝一つの場所〟に〝心を一つにして〟集まったとある。心を一つにするということは心霊実験会で最高の現象が見られる時に欠かせない条件の一つである。更に続けて〝激しい風が吹き〟その後〝舌のようなものが炎のように分かれて現れ、一人ひとりの頭上に留まった〟とある。これは物理実験会で見られる現象と全く同じで、1873年にクルックス博士が行なった実験会での現象を紹介すると-

 《幾つかの発光性の固まりが凄い速度で飛び交い、出席者の一人ひとりの頭上に降りた・・・・》
 《こうした現象-私はあえて全ての現象と言ってもよいかと思う-が発生する時は、前もって一種独得の冷たい空気が漂い、時にはそれが強烈な風となることもあった。机の上に置いてあった書類が吹き飛ばされたことが何度もある。寒暖計を見ると数度も下がっていた・・・・》

 現象そのものが似ているというだけでなく、まず冷たい風が起こり、それから光が発生するという順序も同じというのは不思議ではなかろうか。やはり、十九世紀という長い時間を隔てても変わることのない、心霊的法則というものがあることを示唆していると言えるのではなかろうか。
 バイブルには、更に〝みんなが集まっていた場所が揺さぶられた〟とある。これも近代の心霊現象と共通したもので、実験会の直ぐ側を大型トラックが通り過ぎたように揺れた、といった表現をしている。パウロが〝我々の福音は言葉で届けられるだけではない-パワーを伴っている〟と述べているのも、明らかにそのことを言っていると考えられる。〝新しい啓示〟を説く人がパウロと同じことを言っても、少しもおかしくない。
 実は私も全く同じ体験をしている。アマチュア霊媒のフェニックス氏による交霊会で、やはり冷気を含んだ一陣の風が吹いてから、柔らかなモヤのような炎が現れて、十五人の出席者の頭上を漂った。奇しくもペンテコステの日の現象と同じく〝二階屋敷〟での出来事だった。
 先に私は、こうした現象の合理的説明は、現象がどういう形態を取るにせよ、それを起こしているのは同じ始源から発する霊力であるとする以外に考えられないと述べた。パウロは「これらは全て、この唯一無二の霊力を活用したものであり、霊能者一人ひとりに割り当てられているのである」と述べている。全く同じことを言っているとみてよい。近代スピリチュアリズムでは、そのことを列記とした事実によって証明してくれているが、パウロの表現は実に見事である。
 そのパウロは〝叡智のことば〟〝知識のことば〟〝信じる心〟の三つを最も大切な要素として挙げているが、これが更に〝霊力〟と結び付けば、他界からの高等な霊界通信を生み出すことになる。霊的治療もしかりで、今日でも秀れた心霊治療家によって行なわれている。これも霊力の仕業であり、治癒エネルギーを病的な身体に注ぎ込むことによって健康を回復させるのである。注ぎ込んだだけ治療家自身の霊力が失われる理屈になるわけで、イエスが「今私に誰か触りましたね?私の身体から徳力が脱け出ていきました」(ルカ8章)と言った、その〝徳力〟とは〝霊力〟のことだったのである。
 その他の〝奇跡〟と呼ばれている現象、例えば物品引き寄せ(アポーツ)、物体及び人体の浮揚なども皆霊力の仕業である。更には〝予言〟もある。もっとも、これは正確に当たるものもあるが、とかく気まぐれで、人を惑わすことすらある。その一番いい例が、初期キリスト教時代におけるエルサレムの陥落とエホバの神殿の崩壊の予言で、当時の人はそれを地球の終末と信じたのだった。現代に至るまでにも、いい加減な予言が繰り返されており、従ってこれが無視されたり否定されたりしても、とやかく言える筋合いではない。
 もう一つ、直感的能力として、〝スピリットを見分ける〟能力がある。初期のキリスト教時代にはどのような方法でスピリットと交信したかは、私の知る限り記録はないが、ヨハネが「出て来たスピリットを何でも信じてはいけない。果たして神の味方かどうかを見分ける為に、そのスピリットを試しなさい」と言っているところをみると、霊界との交信はよく行なわれていたのであり、同時に、今日と同じように、いい加減な低級霊の浸入によって悩まされていたことが窺われる。
 ある法廷弁護士が著した本に、普段はドイツ語は話せない娘さんが完璧なドイツ語で喋った話が出ている。それを読んで間もなく、著名な医師から手紙が届き、自分の子供の一人が中世のフランス語で長文の通信を書いたので読んでみて欲しい、とあった。こうしたことは今も昔もよくあることで、慎重な態度が肝要である。

自殺ダメ




 [コナン・ドイルの心霊学]コナン・ドイル著 近藤千雄訳より

 P225より抜粋

 このように、バイブルの中の心霊現象とスピリチュアリズムの現象はとても似通っているのであるが、一つだけバイブルの現象で本当に奇跡としか言いようのないものがある。例の死者を生き返らせた話である(ヨハネ11章)。もしも間違いなく〝死んだ〟人間を生き返らせたのだとしたら、これに類する現象は近代スピリチュアリズムには見当たらない。
 しかしキリストにはそれすらやってのける霊力があったのであろう。死んで四日も経ったラザロを生き返らせたという。が、その箇所をよく読んでみると、心霊学の知識のある人には納得のいくことがひとつある。墓へ下りていく時のキリストが〝呻いていた〟とある。これは聖書学者も合理的な解釈が出来ずにいる所のようであるが、心霊実験会に出席したことのある方なら、何か大きい現象が起きる時は霊媒が呻き声を上げることがあることをご存知であろう。
 それにしても、このラザロの生き返りの話は奇跡中の奇跡というべきである。人間的能力を完全に超越しており、自然法則の延長としての心霊的法則を利用して行なったことだった。キリストが神だったのではない。理論的には我々にも可能なことなのである。ただ、キリストは桁違いの能力を持っていたということである。
 これとは反対に、バイブルには例が少なくて近代スピリチュアリズムにおいて頻繁に見られる現象に、直接談話がある。これは霊聴能力とは異なる。スピリットの声は主観的なもので、その人にしか聞こえないが、直接談話はその場に居合わせた人なら誰にでも聞こえる。これは古い記録にはあまり見られない。
 カメラを用いる心霊写真現象も、勿論近代においてのみ見られる新しい現象である。私自身が厳粛な気持で真実性を証言出来る写真が何枚かある。紛うかたなき死者の容貌をしているのみならず、それと同じ写真がこの世に存在しないことが判明しているのである。確認する意志のない人間には、いかなる証拠も証拠とはなりえないものだ。

自殺ダメ




 [コナン・ドイルの心霊学]コナン・ドイル著 近藤千雄訳より

 P226より抜粋

 ところで、キリストは十二人の弟子を選ぶ時に何を基準にしたのであろうか。キリストを慕う者は数え切れない程いた筈である。その中から僅か十二人を選んだ、その選定基準は何だったのであろうか。私の憶測に過ぎないかも知れないが、一応考察してみるのも無駄ではあるまい。
 まず、知性と教養を基準としたのではないことは、その十二人の中でも傑出していたペテロとヨハネでさえ〝無学で無知〟と表現されているところから明瞭である。徳性の高さでなかったことも、ユダという裏切り者がいたことから確かである。しかも十二人の全てが、キリストの非業の死の現場に姿を見せていない。師を見捨てているのだ。崇拝の念の強さでもなかったであろう。キリストへの崇拝の念なら、他の無数の信奉者もその強さにおいては負けていなかった筈である。が、ここで一人選び、あそこで二人選ぶというふうに弟子を指名していったところをみると、何か基準があったに相違ない。
 それは、霊的能力であったとみてまず間違いないであろう。地上人類としては最高といえる霊的能力を発揮したキリストは、たとえ程度においては劣っても、同じ霊的能力を具えた者を身の回りに置いておきたかった筈だと思う。それには二つの理由が考えられる。
 一つは、近代の実験会でもそうであるが、一つのサークルが出来ると、霊媒自身の能力に更にパワーが付加されるという事実がある。サークルのメンバーのオーラの調和が、プラスアルファのパワーを生むのである。キリストがそうした霊的雰囲気に左右されていたことを物語る事実として、キリストを快く思っていない生まれ故郷に帰った時は、何一つ驚異的な現象を見せることが出来なかったことが、福音書に述べられている。
 もう一つの理由は、自分の、在世中か死後かのいずれであるかは別として、キリストは多分、弟子達に自分に代わって同じ仕事をやって欲しかったのではないかと思う。それには当然、相当な霊的能力が不可欠だった。

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