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カテゴリ:★『各種霊的知識』 > ニューマン 自分とは何か

ニューマン 自分とは何か 目次

自分とは何か 一

自分とは何か 二

自分とは何か 三

自分とは何か 四

自分とは何か 五

自分とは何か 六

自分とは何か 七

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 世界には様々な宗教が存在しますが、説かれる霊的真理は同じであるべき筈なのに、それぞれに違っています。なぜでしょうか?組織体制を運営する者達が摂理を捻じ曲げても営業活動に精を出してきたからです。その違いが国と国とを離反させ、国民までもが敵視し合うようになっていったのです。
 キリスト教がその良い例です。コンスタンチヌス帝の時代に宗教が国政と一体化してしまった為に、聖職者達が為政者のわがままと悪巧みにまで加担して、教義を次々と書き変えていきました。かくして〝宗教〟なるものが国家と人民、更には家族間にも、仲たがいの種を蒔くことになったのです。一言で言えば、空前絶後の霊覚者イエスが説いた素朴な教えを人間が都合よく書き変えたということです。

 (訳者説明)
 世界史では西暦325年にローマがキリスト教を国教としたことになっている。D・ダドレー著『第一回ニケーア会議の真相』によると、表面の事実はその通りで、コンスタンチヌス帝の命令で、ローマの支配下の国々からキリスト教の司教二千人前後が出席して、第一回キリスト教総会が小アジアのニケーアで開かれた。五月末から九月までの足掛け五ヶ月にも及んだと言われる。表向きの議題は〝三位一体説〟の是非を論じることにあったが、実質的には、その説を否定するアレクサンドリア教会の司教アリウスを弾劾することにあったことは明白である。その証拠に、結果的にはアリウスを支持する一派がローマ兵によって連れ出され、国外追放になり、その後アリウスは暗殺されている。
 見落としてならないのは、そうした議論の進行中にそれまでの素朴なイエスの言行録が大幅に書き変えられ、更に勝手にこしらえた教義、例えば〝贖罪説〟などがキリスト教の絶対的な教義として確立されていったことである。それはその後も続けられ、西洋史に暗い影を落とす〝暗黒時代〟を生み出していく。英国の知性を代表するジョン・スチュアート・ミルは、名著『自由論』の中でこう嘆いている。
 「キリスト教を容認した最初のローマ皇帝がマルクス・アウレリウスでなくコンスタンチヌスだったことは、世界のあらゆる歴史の中で最大の悲劇の一つであろう。もしもそれがコンスタンチヌスの治世下でなくマルクス・アウレリウスの治世下であったなら、世界のキリスト教はどれほど違ったものになっていたであろうと思うと、胸の痛む思いがする」

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 過去一世紀あまりの教育水準の向上で目を覚まされ、それまでの「ただ信ぜよ」式の説教では誤魔化されなくなった民衆は、所謂宗教的教義について様々な疑問を抱くようになりました。それは必ずしも社会の道徳水準の向上に繋がっていませんが、十数世紀も前に勝手にこしらえながら一度も疑念を挟まなかった教会の上層部の責任は大いに問われねばならないでしょう。
 これは他のあらゆる宗教についても言えることで、最初は庶民の道徳的並びに霊的向上の為に霊覚者を通して届けられたものが、時代と共に交雑物が混ざって玉石混交のまま語り継がれ、教え継がれ、正しいのか間違っているのかにお構いなく、〝そういうもの〟と信じられてきました。が、幸いなことに、近代の飛躍的な科学の発達によってその間違いが誰の目にも明らかになってきました。今の時代に地動説が神を冒涜するものであるという教会の言葉を信じる者はいません。
 そして1920年に至って、ある霊覚者によって地上界に向けて空前絶後とも言うべきメッセージが届けられるようになりました。その霊覚者は地上の人間ではありません。三千年前に地上生活を送り、今では別の次元で生活している霊的存在です。それがモーリス・バーバネルという地上の人間を霊的アンテナとしてメッセージを送ってきたのです。
 同じ地球上でも、アンテナさえあれば、丁度裏側にあたる場所とでも交信することが出来ることは、既に常識となっています。衛星放送がそれを如実に示しています。それと同じことが次元の異なる階層とでも可能なのです。つまり霊的アンテナさえあれば交信が可能なのです。そうした仕事を言い渡されたスピリットは、バーバネルが母胎に宿った瞬間から、霊的アンテナとして使用する為の準備を始めたと言っています。
 そのスピリットは「シルバーバーチ」と名乗りました。無論仮の名です。肉体の死後、我々は段階的に次元の高い階層へと進化していきますが、次元が高まるにつれて地上時代の民族や国籍、身分や地位、姓名などの価値も必要性も薄れて行き、真理の理解度、霊的覚醒の度合いだけが問われるようになります。そこでシルバーバーチという仮名を使い、地上の人間が関心を持ちそうな事柄は一切打ち明けず、聞かれても答えず、ただひたすら、人類が長い歴史の中で台無しにしてしまった霊的摂理を改めて説き直すことに専念しました。

 (訳者説明)
 人間らしい欲求として、出現した霊が地上時代にどういう立場の人間であったか、姓名を何と言ったかを知りたいと思うのは自然であるが、これは色んな意味で危険をはらんでいることを知っておくべきである。その為には次の二つの事実を念頭に置いておく必要がある。一つは、人間は死後も、個性も本性も容易には変わらないこと。もう一つは、低階層つまり地上界に近い階層で暇を持て余している低級霊ほど交霊会に出たがるし、また出やすいということ。
 ここで忘れてならないのは、霊の側からは出席者の姿が見えても、出席者の目には霊の姿は見えないことで、そうなると、たとえ歴史上の著名人の姓名を名乗っても、本当かどうかを証明することは不可能ということになる。人間的煩悩の一つとして、いかにもそれらしい態度で語られると、何となくそう思えてくるもので、それが他界した親族、特に父親や母親、早世した我が子であると言われれば、人間的な情に流されて抱き合って喜んだり感動したりするものである。悪いこととは言わないが、愚かしいことをしているのだということを知るべきである。
 スピリチュアリズムの本来の目的はそんなところにあるのではない。それを、これから著者ニューマン氏がシルバーバーチの言葉を引用しながら、懇切丁寧に説いてくれる。

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 モーリス・バーバネル氏が霊的アンテナとして使用されるようになったのは弱冠十八歳の時で、霊的体験もなく、宗教にも感心がなく、どちらかというと無神論者だったといいます。
 その頃バーバネルはロンドンの文士仲間が集まる社交クラブで無報酬で司会役をしていました。毎回誰かが話題を提供し、それについて会員達が討論する、その司会をすると同時に、疑問点を指摘して議論の輪を広げる役でしたが、ある日スピリチュアリズムが話題となり、何か反論する段階となったのに、全く予備知識のなかったバーバネルは「こうした問題は体験がなくては質問も出来ない」という理由で、議論の発展がないまま散会させてしまったのだそうです。
 それから間もなく、そのスピリチュアリズムの話題を提供した青年が改めて訪ねて来て、是非交霊会というものに招待したいと言う。誘われるまま出席してみたものの、中年の女性が霊媒となって様々なスピリットが喋ったのに、別に興味は湧かなかったそうです。が、二度目に出席した時にうっかり居眠りをしてしまい、目を覚まして慌てて失礼を詫びると、「あなたは居眠りをしていたのではありません。あなたの口を使ってシルバーバーチと名乗る霊が喋りましたよ」と言われました。
 これがシルバーバーチと名乗るスピリットがバーバネルの口を使って喋った最初で、それからは自宅でもいきなり無意識状態にされて、同じシルバーバーチと名乗るスピリットが喋るようになりました。その後、金曜日の夜七時からと決めてレギュラーメンバーを相手に語るようになり、バーバネルが1981年の7月の他界するまで、実に60年間も続きました。
 シルバーバーチの最大の特徴は、成熟した大人の精神をもつ人間の理性的判断力に訴える態度に終始したことです。つまり自分が説くことで理性が反発を覚えることがあれば遠慮なく拒否して欲しいと明言し、常に人類への慈しみの心で臨み、愚かしい質問にも決して腹を立てず、失礼な態度を咎めることもなく、その態度と教説の内容は、自ら広言して憚らなかった「宇宙の大霊から遣わされたメッセンジャー」に恥じないものでした。
 もう一つの特徴は、自分の教えに箔を付ける為に地上時代の高貴な身分や仰々しい肩書、歴史上の大物の姓名を名乗るようなことはしないという、厳しい掟を自ら自分に課したことです。

 (訳者説明)
 この一節はシルバーバーチ自身が語った言葉を著者が平たく述べたもので、これに類することは、その後もシルバーバーチは、表現を変えながら何度も述べている。例えば「私が地上でファラオ(エジプトの王)だったと言えば尊敬し、奴隷だったと言えばサヨナラをなさるおつもりですか」と皮肉っぽく述べたり、「人間は肩書や身分や知名度などに拘るからいけないのです。私がいかなる程度の存在であるかは、私が述べていることで判断して頂きたい」、更には「私が述べていることが皆さんに訴えなくなったら、その時は私の存在価値がなくなったということでしょう」とまで述べている。
 こうした一連の発言を裏返せば、そこにはスピリチュアリズムという〝地球人類の霊的浄化活動〟が人類史でも空前前後の、神界までも総動員した途方途轍もない大事業であることを、改めて実感させられる。

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 更にもう一つシルバーバーチは、私の専門であるバイブレーションの変換によって、自分より更に高い次元から送られてきたものを、地上で北米インディアンに所属していた霊を地上界(バーバネル)との直接のアンテナとして送り届けているのであって、その教えは自分が考えたものではないと率直に述べている点でも、極めて特異です。上には上があり、その又上にも上があり、宇宙は事実上無限の彼方まで繋がっていると言うのです。
 それは言い換えれば叡智にも際限がないということになります。理解度が到達した次元までの知識を授かるのであって、それは一人一人違うことになります。スピリチュアリズムの発達の跡を辿ってみても、心霊科学の発達も一進一退で、常に疑惑の目で見られてきました。それは、人類の科学的知性がまだ霊的なものを証明する段階まで発達していなかったことを意味します。
 同じことがシルバーバーチの教えの理解についても言えます。シルバーバーチが言わんとする核心まで理解が及ばず、結果的には、地上生活を送っている人間にとって都合の良いように解釈されていることがあります。
 新しいタイプの小説でも読むような感覚でシルバーバーチの説く宇宙観を読む人もいるようです。その核心に触れて目を覚まされ、感覚的に人生を見つめ直すところまでいく人は、残念ながら少ないようです。あちらこちらで盛んに行なわれている超能力のデモンストレーションの話題を面白おかしく読むだけで満足している人もいます。
 又、信仰さえあれば知識はどうでもよいのではないかと思っている人も多いようです。そういう人は次のシルバーバーチの言葉をよく噛み締めてください。
 「知識は常に必要です。また常に求め続けるべきものです。もうこれで十分だと思って求めることを止める人は、事実上、己の無能を宣言し、堕落し、錆び付いていくことを求めているようなものです。魂は向上するか堕落するかのどちらかであり、同じ位置に留まっていることは出来ません。人間は永遠に休むことのない旅人なのです」
 更に信仰について意見を求められてシルバーバーチはこう述べています。
 「人生には二つの大切な要素があります。一つは知識、もう一つは信仰です。知識の裏付けのない信仰は弱くて頼りになりませんが、知識に信仰を加えると素晴らしい組み合わせとなります」
 「このサークルの皆さんは、人生とその意義についての理解をもたらしてくれた知識をお持ちです。が、その知識も大海の一滴に過ぎないこともご存知です。そこに信仰という要素の必要性が生じます。しかし、あくまでも知識に裏打ちされた信仰であり、盲目の信仰ではありません。知性を侮辱するような信仰ではなく、知識を基盤とした信仰、信じるに足る知識に裏打ちされた信仰です」
 知識と信仰、この二つの関係は五感で認識する世界と心で認識する世界の関係に過ぎません。従って、限られた五感の世界を超越した知識を得ようとすれば、より高い次元で機能している意識に波長を合わせれば良いのです。その時に直観される知識を〝悟り〟というのであり、それが人類の道徳的・霊的本性の向上を促すことになるのです。それをシルバーバーチはこう説いています。
 「あえて申し上げますが、地上界にもたらされる恩恵は、発明も発見もことごとく霊界にその根源があります。あなた方の精神は地上界へ新たな恩恵が霊界から届けられる、その受信装置のようなものです」
 こう述べてから、その知識を受け取った者には必然的に義務が生じることを指摘して次のように述べます。
 「真理というものは、求める人には分け隔てなく与えられるようになっています。しかし、それを求める道は大いなる冒険の旅になることを覚悟しなければなりません。境界線の見えない、果てしない探求の旅に出掛けることになることを覚悟しなければなりません。時には障害が立ちはだかり危険に晒されることも覚悟しなければなりません。地図のない未知の領域を歩まざるを得ないことも覚悟しなければなりません。しかし、そうした時でも、あくまでも真理の指し示す道に従い、誤りと思うことは、いかに古くからの教えであっても潔く拒絶する勇気がなくてはなりません」
 「新しい真理というものはありません。真理は真理です。それを受け入れる用意が出来ているか否かによって、そのレベルが決まります。皆さんも子供の時は能力に似合ったものを教えられます。アルファベットから教わって、知能の成長に従って単語を覚え文章が読めるようになります」
 「その単語に含まれている意味も、一度に分かるわけではありません。少しずつ分かっていきます。どれだけ理解出来るかは、一にかかって当人の理解力によります。叡智には無限の奥行きがあります。精神的に、そして霊的に受け入れる用意が出来ただけのものを手にすることが出来るのです」
 「自ら思い立って真理探究を志し、行為と想念でもって意思表示をすれば、その人物がそれまでに到達したレベルに相応した知識と教えを授かるように法則が働いて、その波動と調和し始めます。そのレベルには限界というものはありません。ここで行き止まりという境界もありません。なぜなら人間自らが無限の霊性を宿しており、真理と無限に存在するからです」
 「学ぶ前に、それまでの知識を洗い直さないといけません。正しい思考を妨げてきた交雑物を全て捨て去らないといけません。それが出来て初めて霊的成長の準備が整ったことになり、より高い真理を授かる用意が出来たことになります。間違った知識、理性が反発するようなこと、宇宙の大霊の愛と叡智と相容れないものを捨て去ることがまず先決です」
 「伸び伸びとした思考が出来るようにならなければいけません。自らを束縛してはいけません。自分の世界に垣根をこしらえて、新しいインスピレーションを入れなくしてはいけません。真理探究の道はこつこつと絶え間なく続きます。魂が進化し、それに精神が反応して広がれば広がる程、境界線はますます広がっていきます」
 「知識、真理、叡智、成長に限界がないことに気付いた時、あなたは真の意味で自由になるのです。心の奥で間違いであることに気付いたもの、理性が反発するものを即座に捨て去ることが出来るようになった時、あなたは自由になるのです。新しい光に照らして間違いであることが分かったものを、恐れることなく捨て去った時に初めて自由になるのです」
 「第三者の指導によってそういう状態に導くというのも一つの方法であることは間違いありませんが、興味を見せているだけでまだ真理に目覚めていない人に、それがどういうものであるかを説明する時は注意が必要です。当人はそれだけで悟ったように錯覚し、貴重な人間的努力や体験を低次元の霊力で代用して、それで良しという安直な満足感を抱かせる結果になりかねません」

 (訳者説明)
 これは一口で言えば、霊的摂理を丸暗記しても悟ったことにはならないということを述べたものであるが、もっと大切なことも暗示している。シルバーバーチは「サイキック」と「スピリチュアル」とを区別している。前者は肉体と幽体のレベルの法則が絡み合って生じる現象のことで、これには自我の霊性は関与しない。これが後者となると自我が覚醒し高級なスピリット、特に守護霊の働きかけが加わる。前者にもスピリットの働きかけがあるが、まだ地上界の波動から抜け切っていない者、所謂「自縛霊」の集団であるから、浅はかな智恵で本来は人間が努力して行なうべきこと、時には失敗や病気や災難を通して悟るべきチャンスを、あたら奪ってしまうことになる。「あたら」というのは高級霊の立場に立ってそう述べたもので、彼等は親切のつもりでいても、それは譬えて言えば、学校の宿題を親がやってやるようなものであり、後で困るのは本人自身で、霊的進化が遅れることになる。誰でも参加してよいような、安直に催される交霊会に出現するスピリットに「人生相談」を持ちかけるのは危険である。

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