自殺ダメ

『霊力を呼ぶ本』モーリス・バーバネル著 近藤千雄訳より抜粋


 モーリス・バーバネル(1902~1981)
 1920年18歳の時に、冷やかし半分で出席した交霊会でいきなりトランス状態になり、シルバーバーチと名乗る古代霊が喋った。それから実に60年間、週一回の割で平易で素朴でありながら深遠な教えを語り続け、それが16冊の霊言集となって世界中で愛読されている。潮文社からも『シルバーバーチの霊訓』全12巻が出ている。そうした霊媒としての仕事の傍ら心霊ジャーナリストとしても〝ミスター・スピリチュアリズム〟と呼ばれる程の活躍をした。


 死は新たな人生への旅立ち


 あなたの人生哲学がどうあろうと、その中に〝死〟の訪れが考慮されていなかったら片手落ちというべきである。死は早晩誰にも訪れる例外のない現実だからである。その事実を無視したり、その考慮を後回しにするようでは、愚かと言われても近視眼的人間と言われても致し方ない。これほど重大な事実を無視することは絶対許されない。
 中には、遺言を書くと死を早めるからという理由でそれを拒否する人がいる。ある米国人医師が「前兆なしの突然の心臓発作で死亡した人が当時ずっと遺言のことで専門家と相談していたとか、新たに生命保険に加入したばかりといったケースが驚く程多い」と書いているのは意味深長である。
 人間の一生で絶対に〝避けられない〟ことはそう多くあるものではないが、死がその一つであることは間違いない。生まれて来るのを拒否出来なかったように、死ぬことを拒否出来る人はいない。あなたの歩んでいる道がどこでどう曲っているかは誰にも分からない。が、色々紆余曲折があることは確実であろう。賢明なる人間はその予期せぬ重大事がいつどこで起きてもいいように人生を設計し、それに応じた人生哲学を持っている。
 先日ある新聞に読者からの手紙として次のような文が載っていた。
 「人生で愛する人を失うことほど精神的打撃を与えるものはありません。その譬えようもない直撃的な心の痛みを和らげてくれる説も教えもありません」
 果たしてこれは真実だろうか。実は〝死〟というものの真相を知ってみると、弔いの心が一種の利己心から出ていることに気付くのである。つまり表向きは死者を弔っているようで実は後に残された自分自身の身の上を嘆き悲しんでいるのである。病苦と不公平と不正に満ちた地上生活から解放されて、闇から光明へと旅立った人に涙を流す必要はない。死者にとっては、幼稚園から小学校へと上って嬉しくてたまらないのである。いつまでも幼稚園に留まることを望む者はいない筈である。
 死はその〝門出〟にすぎない。何一つ恐がる必要はない。誕生がなければこの世の人生もないように、死も生命の進展の中の欠くべからざる過程の一つにすぎない。誕生がこの世への入り口であり、死があの世への出口ということである。
 こうした事実について何の知識も持たずに、ただひたすらこの世的な目的に向かって突っ走った人間は、当然の結果として死後の生活に対する備えがまるで出来ていない。言ってみれば、これから訪れる国について何の知識も持ち合わせずに出発するのに似ている。地上生活は永遠に続く生命の旅のホンの一時期をちょっと立ち寄ったにすぎないことを知った人間は、めまぐるしい生活の中にあって毎日を落ち着いて、しかも自信を持って過ごすことができる。なぜなら、これから先どうなるかを予め心得ているからである。
 「お元気ですか」と挨拶すると「いやもういけません。一日一日と死に近付いているようなもので・・・」と返事をする人がいる。また私の友人で霊的なことについてよく講演をする男が、あるとき聴衆に向かって「あなた方は生ける屍も同然なんですよ」と言って聴衆をびっくりさせたことがある。比喩としてあまり感心しないし、彼も別に度肝を抜いてやろうと計算づくで述べたわけではないのだが、肉体そのものに関する限り、言っていることは間違いではない。確かに生ける屍なのである。
 死後の生活を垣間見た人は大勢いる。そうして口を揃えて素晴らしいと言えば、美しいと言う。そしてまた何一つ恐ろしいことはないとも言う。そうした体験はよく重病にかかった人が危篤状態に陥って霊的感覚が働いた時に体験する。見慣れない所だが素晴らしい所を訪れ、そこで、既に他界した筈の親戚縁者や友人達に会う。バーナード・ショウの奥さんも同じ体験をした人で、そのことがきっかけでショウの人生観が一変したいきさつがある。
 有名な弁護士のパトリック・ヘイスティング卿も同じ体験をした人である。死後の世界があまりに素晴らしいので地上に帰るのが残念だったと言い、死には何一つ恐がるべき要素はないと断言している。
 また世界的物理学者のオリバー・ロッジ卿はそうした霊の世界について五十年以上も研究し、その結果ますます宇宙を支配する超越的知性すなわち神への畏敬の念を深めたと述べている。科学的探求がかえって宗教心を深める結果となったのである。勿論ここで言う宗教心は特定の宗教に係わるものとは違う。
 そのロッジ卿がある心霊現象に係わる詐欺容疑の訴訟問題で証人として法廷に立ったことがある。その時、卿の前に証言した人達が口にした〝霊の世界〟というのは一種の幻影ですねと尋問されて、卿は首を横に振って「この世こそ幻影の世界なのです。実在の世界は目に見えないところにのみ存在します」と返答した。
 この驚くべき証言は、真実の科学は真実の宗教と決して矛盾するものでないことを雄弁に物語っている。
 地上の数ある悲劇の一つに科学と宗教の闘争が挙げられる。かつては宗教家が神の奇跡ばかりを口にし、それに対する信仰心を最優先させ、その後発達してきた科学-物的方法によって証明出来ぬものは認めようとしない科学と正面衝突することになった。やがて科学が宗教を圧倒するようになり、それが唯物的人生観を生み、科学的信仰が新時代の神のような存在となっていった。
 当時の科学者は目に見えない世界、目に見えないエネルギーといったものの存在を認めなかった。目に見える限りの不可分の究極単位、それが実在だと主張した。が、現代はどうであろうか。今や科学の最前線はいかなる精巧な機械をもってしても感知出来ない目に見えざる世界に突入しつつある。核融合反応などは見えざる世界に莫大なエネルギーが存在することを、実に有り難からぬ形で我々に見せ付けてくれた。
 科学的発見が何の目的に使用されようと科学に責任はないと弁明してきた科学者も、今世紀に至ってついに人類を運命の岐路に立たせるに至った。原子爆弾がどこかの一地域だけでなく世界人類全体にとって大きな難題を提供してしまった。今や人類は大きなジレンマに陥っている。その最大の原因は、核戦争の脅威を前にして、自ら生み落としたその〝我が子〟の面倒を見れる段階まで人類が霊的に成長していないところにある。そのジレンマを克服する為に科学は、自ら生み落としたものについて、その霊的な意味をしっかりと認識する必要に迫られている。ここに少なくとも理屈の上では宗教と科学との間の隔たりが縮まっていく要素がある。
 が、そのジレンマの大きさは尋常ではない。米国の将軍オマール・ブラッドレーの指摘が実に的を射ているので紹介しよう。
 「人類は、自ら手にした恐ろしい武器の為に、道徳的に大人になり切っていない者によって身動きの取れない状態に晒される危険を抱えている。明らかに、科学的知識の方がそれを管理する能力を上回ってしまった。科学する心を持った人間が多過ぎる。そして神を畏れる心を持つ人間が少な過ぎる。原子の秘密と引き替えに〝山上の垂訓〟を棄ててしまったのである。
 人類は今や精神的暗黒の中を手探りで当てもなく歩いている。それでいて生とは何か死とは何かといったことについて真剣に考えてみようとはしない。世の中は豊かにはなったが叡智に欠ける。強力な兵器を備えるに至ったが道義心を欠いている。言ってみれば今の世は、核の巨人と論理の小人の世界である。平和のあり方についてよりも戦争の仕方の方をよく知っている。生き方よりも殺し方の方をよく心得ている。この辺に二十世紀が破滅に突き進むか、それとも進歩の方向へ向かうかの決定的要素がある」
 妙なことに人類は、宗教の進歩ではなしに科学の進歩によって、霊的な必要性を痛感させられることになった。より高尚でより深いエネルギーの認識に目が向けられつつある。つまり歴史上のあらゆる宗教の創設者によって説かれてきた真理を改めて考えさせられるに至ったのである。
 利己主義を生み、挙句の果には戦争まで至らしめる唯物主義の愚かさが今まさに白日の下に晒されている。抜け目ない人間-所謂現実主義者までが、利己主義では個人的にも国家的にも国際的にも割に合わないことを思い知らされつつある。愛他主義こそが、自分にとっての利益の点からも一番いいことを悟りつつある。情は人の為ならず、なのである。
 今我々が直面している数多くの問題の解決には、我々の存在の根源すなわち霊性-我々が肉体だけの存在ではなくそれを動かす精神と霊とが内在することを理解し、同時にその霊性という現実からは何人たりとも逃れることが出来ないことを知らねばならない。ブラッドレー将軍はキリストが二千年前に述べた次の言葉を現代風に述べたにすぎない。すなわち-
 「汝等、幼子の如くあらずんば神の御国に入るを能わず」
 我々は宗教の指導者達の説いた霊的格言が実は極めて現実的な意味を持っていること、そして人生の意義を全うせんとすれば絶対に無視出来ないものであることを、今に至ってようやく発見しつつある。キリストが〝幼子の如くあれ〟と言ったのは幼児時代に戻れと言っているのではない。子供のように素直で純心であれと言っているのだ。人間は文明とやらいうものによって生活をいたずらに複雑で面倒なものにしてはいないだろうか。
 「まず神の御国と神の義を求めよ。さらばそれら全てもまた汝のものとならん」-この単純にして崇高なる言葉に一言も付け加える言葉を知らない。大胆な言い方ではあるが、しかし真実なのだ。神の王国すなわち天国が存在することを知り、その知識を片時も忘れることなく毎日を送れば、あなたに必要な〝それら全て〟も叶えられる。平静と安らぎと穏やかさと自信を持って日々を迎えることが出来る。その知識にさえ忠実に生きておれば決して失望も落胆もないという確信があるからである。
 しかし知識には責任が伴う。その知識を生かすという責任がある。霊的な法則を知りながら利己的で欲張りでケチな人間は、それがいけないこととは知らずにいた時よりも罪が重い。私はそれがバイブルで繰り返し言及されている〝聖霊に対する罪〟のことだと信じている。霊的実在について知りながら生活そのものがその知識と矛盾するということは、それは自分の霊に対して反逆していることになるのである。それだけ当然罪は重くなる。
 霊的真理に目覚めて、毎日を背後霊の導きの下に生きている人が大勢いる。数年前に直接本人から聞いた話だが、神様と〝共同預金口座〟を設けたという人がいた。困難に遭遇すると神様にお願いして預金から借り越しをする。が、共同口座だから必ず超過分を返済しなくてはいけない。その為に一生懸命になる。こうした努力をしていると、必要なものが必要な時にちゃんと手に入るようになったと言っていた。
 大自然の法則というのは常に全体の調和を原理として働いている。花畑を見るがよい。色んな花が咲き乱れている。種類も違えば色も形も違う。が、全体として美事に調和している。人間にはとてもマネの出来ないワザである。同じく自然界も全体としてリズムと調和の中で一つ一つの生命がそれなりの機能を果たしているのである。
 健康で幸せで充実した人生を送るカギは、その宇宙のリズムと調和した生活を送り、自分もその大機構の中の不可欠の要素なのだという自覚を忘れないことである。自分は無意味な存在であるとか取るに足らぬ存在であるなどと決して思ってはいけない。今そこにそうして存在しているという事実そのものが、あなたにも存在の意義があるということの証左なのだ。
 その自覚が大切なのである。あなたも宇宙において不可欠の存在なのだ。そのあなたがこの世に生まれて来るからには、あなたの人生に必要な装備-肉体的にも精神的にも霊的にも、必要なものは全部用意してくれている筈である。目に見えないほど小さな精子と卵子との結合の中に、あなたの全肉体組織-爪の形までも-が詰め込まれていたように、精神的にも霊的にもあなたの人生の旅に必要なものは全部具わっている筈なのだ。要はそれをどう活用するかだ。上手く行かないのはあなたがそれを十分に活用していないからだ。神は全てを用意してくださっているのだ。
 それは同時に、あなたと神との間が絶対に切れることのない絆によって結ばれているということでもある。直接繋がっているのである。人生でいついかなる事態に置かれても-たとえ死んでも-その繋がりが切れることはない。無限の宝庫の扉を開くカギを手にしているということだ。
 あなたは神の一部であると同時に、神もあなたの一部だということである。今こうして存在することで、あなたも宇宙の神性に貢献しているのだ。あなたはその小さな存在の中に無数の神の属性の全てを宿している。神の織物の中の一本の糸なのだ。